ヘクターから渡されたウイスキーを口に含むと、いくらか気力が回復した。
 失血による意識の鈍化は避けようがないが、それでもいくらかはましだ。
「あんまり飲むなよ。今夜の楽しみが無くなる」
 ヘクターはイェナから小瓶を取り上げ、白衣のポケットに押し込んだ。
「準備はいいか?」
 イェナは頷いた。
 右手をアルコールで拭いて消毒すると、慣れた手つきで針を押し込み、輸血用のパックへ繋ぐ。
 普通、こういうアシスト的な作業は看護婦がサポートするが、マイスター医院には看護婦が居ないので、全部ヘクター一人でこなしている。
「今から始めるが・・・・・・暴れるな」
 返事を聞く前に、傷口にメスが入る。
 噛みしめたイェナの口から、くぐもったうめきが漏れた。
 溢れ出る血で手を赤く染めながらも、ヘクターには全てが見えていた。神経がどのように損傷し、血管がどのように断裂して、骨格がどのように砕けたか。
 普通の医師の見立てなら、手遅れ。あるいはお手上げだった。
 だが、自分になら、『修復』出来る。
 血管を縫合し、神経を繋ぎ合わせ、骨格を復元する。
 千切れた筋繊維を集めて元通りにし、再び戦えるようにする。
 イェナが求めているのはそれだ。
 気の狂わんばかりの苦痛と引き替えに、ヘクターはそれを可能にする。
 まるで物を直すかのように人を治す。
「しかし、お前さんも毎度の事ながらよくやるな。他人のために命をかける、そんな自己犠牲など今更はやらないだろうに」
「理由などどうでもいいの。私の生きる方法は戦うことだけよ。あなただってそうでしょう?ドクター」
 ヘクターは薄く笑った。
「違いない」
 しかし次の瞬間には真剣な表情で傷口に細い針のような物を突き刺した。
 イェナの体がびくんと震え、僅かに悲鳴とも叫びともつかぬ声がこぼれた。
 その白い肌に、汗の玉が浮かぶ。
「今から砕けた骨を繋ぐぞ」
 ヘクターの宣告に、イェナの身が微かに強ばった。

 ドアの向こうから聞こえてくる、獣のような唸り声にジョーンズは震えた。
 隣に座っているゲイルは、目を閉じてじっとしている。
「お前、よく落ち着いていられるな」
「我々が出来る事はもう何もない。神に祈るぐらいだ」
「呑気なもんだな」ジョーンズがゲイルの胸倉を掴みあげる。「てめぇらが不甲斐ないからイェナがああなってるんだろう」
「その通りだ。だが、姐さん以外に誰がアニタを助けられる?俺たちは最も確率の高い方法を選択した。姐さんはそのためにここにいるのだし、拒みもしなかった。双方同意の上だ。部外者のお前に言われる筋合いはない」
「イェナがいつまでも居てくれるなんて思うんじゃねぇぞ。」
「俺たちには力が足らないんだ。この街を守るだけの力が」
「で、人様に頼るって事か。言うだけは立派だな、おい」
「じゃあどうすればいいって言うんだ!」
「知るかっ!てめぇの足りない脳みそで考えろっ!力が足りなきゃミサイルでも何でも持ってきてぶっ放せばいいだろうが」
 互いの胸を掴み、ジョーンズとゲイルがにらみ合う。
「そんなものが買えるわけがないだろう!しかも町中でそんなものを撃てば、ただでは済まないことぐらいわからないのか!」
「イェナが死ぬよりましだっ」
「いいか、姐さんがどれほどこの街で尊敬されていても、自分の大切な人間が死ぬくらいだったら、姐さん一人の、それぐらいの犠牲で済むのならその方がいい、と考える奴はたくさん居る。だが、俺たちはそれを非難できない。判るだろ?俺たちが自分の大切なもののために取捨選択するように、彼らにとっての選択もその一つに過ぎない。我々にとっての最良の選択肢が姐さんに頼むことであるように、お前にとってアニタの命が失われても姐さんが助かるように、だ」
「……………………」
「俺たちが辛い、苦渋の選択だ、といってもお前には納得できないかも知れない。して貰おうとも思わない。殴って済むなら俺を殴れ。もし………もし姐さんの身に何かあったら、迷わず俺を殺せ。お前にはその権利があるだろう」
「そんな覚悟の決まった奴を殴っても気分いいわけねぇだろ」
 ジョーンズは突き放すようにしてゲイルを放すと、荒々しくソファに座った。
「たいした演説家だよ、お前さんは」
 ゲイルはジョーンズの皮肉を無表情に受け止めた。
「俺の本音だ」
 時々漏れ聞こえる、イェナのくぐもった呻き声が、静かな廊下に響く。
 いったい何の権利があって、俺は彼女をこんな目に遭わせたのだろう。
 ゲイルの後悔は募るばかりだった。
 俺はただ単に、この罪悪感から逃れたいばかりに、ジョーンズに自分を罰することを任せたのではないか、という思いにとらわれる。
 犯した罪に罰を与えられれば、それで許されるという甘い期待があるのではないか。
 断罪の斧が咎の鎖を断ち切ってくれるのではないか。
 死や痛みや非難が、自分を裁き、後悔や苦悩から解き放ってくれるのではないか。
 そんな、甘い感傷。
 だが逃げ込む場所など何処にも無い。
 目的のために犠牲を強いたならば、何を持ってしてでもそれは遂行されなければならない。
 自分に出来ることはそれだけなのだ。
 後悔も、挫折も、苦悩も、怒りも憎しみも、全てを抱え、背負い、前を見据え、歩かなければならない。
 アニタを守るためならば、全てを利用し、犠牲にする覚悟。
 だが冷酷にはなるまい。
 胃を抉るような慚愧の念も、自分に刻まなければならないのだ。
 ゲイルは目を閉じた。
 耳を塞ぐわけにはいかないからだ。
 朝日が昇り、廊下に陽が差し込むのを感じる。
 ゲイルの夜はまだ終わっていない。
 隣で祈る、ジョーンズの呟くような声。
 無意識のうちに脳裏に浮かんだ言葉と、ジョーンズの口ずさむそれが一緒であったことに気がつく。
 どうか、彼女を助けたまえ。
 ゲイルは口に出さず、そう祈った。
 人の理を超え、神と呼ばれるほどに偉大な女性の、生還を。

 いったいどれほどの時間が経っただろう。
 よく判らない。
 それほどまでに時間の感覚は曖昧で、極度の緊張と疲労が目眩さえ引き起こした。
 疲労、いや、もはや衰弱と言うべきだろう、その憔悴しきったヘクターが手術室から出てきた時、二人にはそれが成功なのか失敗なのか判らなかったほどだ。
「おい、イェナの容態はどうなんだ」
「手術は成功したのか」
 二人が同時に質問するが、互いに大きな声であったため、反響してただの怒鳴り声にしか聞こえない。
 それでもヘクター医師はその意図を正確に掴み、簡潔にして最も明瞭な答えで返した。
「完璧じゃよ」
 ジョーンズとゲイルは先ほどの険悪な空気が嘘のように互いの手を叩いて喜び、肩を叩き合った。
 ジョーンズは跳び上がるほど喜んでヘクター医師を抱きかかえたあげく10回転ほどグルグル回り、ただでさえ弱っていたヘクター医師の体力を根こそぎ奪い去った。
 ゲイルは一目散に手術室に駆け込んだ。
 手術台はおびただしい量の血と、その濃密な臭いで満ちていた。
 輸血用のパックが散乱し、イェナと、おそらく注ぎ込まれた他人の血で染められた器具の山がいくつも並べられている。
 手術台の上で、イェナが静かに眠っていた。
 右肩は白い包帯で包まれており、袈裟懸けに幾重にも巻かれていた。傷口の保護と言うよりは、ほぼ完全に動かないように固定されており、二の腕の当たりまで包帯が覆っている。
 剥き出しの背中は包帯に包まれた部分以外にも、無数の傷で覆われていた。
 癒えども消えぬ傷跡。
 縫合の腕が良かったからなのだろう、それらの傷はうっすらとした肉芽の形でしか残っていないが、縦に大きく走る裂傷の跡や突かれ、抉られた傷跡であろう、幾つもの歪んだ皮膚が彼女の人生と、その過酷さを無言で物語っていた。
 肌そのものは艶やかで張りもある為に、傷口のアンバランスさは、何処か底冷えするような凄惨な印象を与える。何故、どうして、と。
 これほどの傷を負ってまで、彼女は戦うのは何故か。
 何故、彼女がこれほどの傷を負わねばならないのか。
 嗚呼。
 不意に、ゲイルはその答えを見つけ、自己嫌悪に襲われた。
 正しいのはジョーンズなのだ。
 何故、ではない。
 災厄の渦中に放り込んでいるのは、我々自身だ。
 求められるから、彼女は戦ってきたのだ。
 この街だけではなく、たぶん今とは異なる時代でも。
 彼女自身は、それを己の戦いだと言って軽く受け流し、笑うだろう。自分が望むからそこへ赴くのだと。
 だが、違う。
 自分たちは犠牲を強いているのだ。
 人ならぬ身の彼女が、この地に留まる代償を。
 ゲイルは床に拡がる血の中に、両膝を付いた。
 すがるように手術台にもたれかかり、こみ上げてくる嗚咽をかみ殺した。
 彼女は、数え切れないものを『人間』から受け取っていると、感謝していると、口にする。
 でもそうではないのだ。
 我々は何も与えていないのだ。
「ゲイル?泣いているの?」
 頭上から、いつもよりも幾分細い声が降り注ぐ。
「いえ。手術がうまくいったと聞いたら、力が抜けただけです」
「そう」
 あまり上手とは言えない嘘だったが、イェナは追求しなかった。
「仮眠とったあとでいいから、ボリスに伝えて欲しいの。1週間休むって」
 ゲイルは膝に力を入れて、立ち上がった。
 イェナの声が、先の沈んだ気分を流し去ってくれたようだった。
「判りました。その後のことも万事ぬかりなく仕上げておきます」
「頼りにしてるわ」
 それだけいって、イェナはまた目を閉じた。

 


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