部屋の照明は薄暗い。
唯一の光源はベッド脇にある小さなスタンドだけだ。
暖色のライトがうっすらと男の体を照らしている。
男は肋骨が浮き上がるほど痩せている。それは各部の骨が透けてしまうのではないかというような危うい脆さを感じさせるが、それでいて体表を覆う筋肉は引き締まっており、骨格の上から固いゴムを塗りつけたような異様な肉体をしていた。
どのような鍛錬をすればこんな体になるのか、想像もつかない。
「そうかい」
受話器に耳を当てていた男は、にやりと笑った。
「あの伯爵がしくじるとはね」
仲間の失敗を耳にして、心なしか嬉しそうな口調である。
男は、ベッドでうつ伏せになっている少年をちらりと一別した。
「手負いなら俺が行くまでもないさ」
受話器を置き、男は立ち上がった。
「仕事だ。やり方は、判っているな?」
少年は、うつ伏せのまま頷いた。
「帰ってきたら、また、可愛がってやるよ」
赤みの差した背中をぴしゃりと叩き、男はシャワー室へと歩いていった。
だから男は、少年の肩が震えていることに気がつかなかった。
その手が、シーツを掴み、激しくわなないていることも、知らなかった。
クロス・リバーの水面を、幾条ものライトが照らしている。
光は、何かを探していた。
それは人であった。
街灯の明かりを足してもなお暗い水中を、掻き分けるように人影を探すというのは絶望的な作業である。
しかし、誰も絶望などしていなかった。
『彼女』は確実にいるはずなのだ。
捜索の手を緩めない限り、確率はつねに100%だった。
「いたぞ!」
誰かが叫び、ライトの光はその一点に集中した。
黒い水面に、闇よりも濃い人影が浮かび上がる。
流れの速い河口付近を、己の危険すら省みずにボートとダイバーが近づいていく。
一人のダイバーが彼女を抱え上げ、投げ込まれた浮き輪にしがみついた。
つい今し方、超人的な戦闘を行い、深手を負った暗黒街の女神は、その庇護にある人々の手で引き上げられたのである。
実を言えば、イェナは自力で岸まではたどり着けた。
ただ、これだけの数の人間が自分の為に動いているのだ。少しぐらい頼ってやるのが礼儀というものだろう。
水中からボートへ、ボートから岸へと連れてこられても、女神の様子は変わらない。
肩を貫通した傷から溢れる血は1秒ごとに女神の余命を奪っていくが、その痛み、その恐怖は彼女の心を屈しはしなかった。
「イェナ〜」
ジョーンズが走り寄ってくる。
もの凄く酒臭いが、表情は真剣だった。
「怪我は?痛くないか?大丈夫か?俺が病院に連れて行くから死ぬなぁぁぁ」
「重傷でもの凄く痛いから全然大丈夫じゃないけどあなたの世話になるつもりはないし、ちゃんと生きてるわよ」
いちいち全部律儀に返答するイェナ。
しかしジョーンズには全然聞こえていない。
「医者、医者は何処ぶッ」
思い切り拳骨で殴り飛ばされる。
「傷に響くからいちいち喚かないで」
「ひどいぜ、本気で心配してるのに」
ジョーンズは涙目で訴えかけるが、イェナの視線は近づいてくるゲイルに向けられている。
「ご無事で何よりです。すぐ、病院の手配を」
「私より、アニタはどうなったの?ゲイル」
ゲイルは安堵を含んだ表情でいった。
「無事です。少々水を飲んでいましたが、命に別状はありません。今、念のために病院で精密検査を受けさせています」
「そう」
イェナは微笑んだ。
単身乗り込んだイェナがアニタの身をクロスリバーへ移動させ、水中で控えているゲイルが救出する。
殆ど博打に近い方法ではあった。
まず、アニタが死んでいた場合には、この作戦は意味を成さない。
別の場所で監禁されていてもダメだ。
船上からどうにかして脱出できる状況でなくては、いくら水中でゲイルが控えていたとしても意味がない。
しかし、今回の要求が金とイェナ自身である事を考えれば、アニタを殺すはずはなかった。
人質が人質としての用をなさなければ、イェナに勝てるはずがない。人知を超えた筋力、戦闘能力を持つイェナを相手にするには、人質を取り、数で圧倒し、武装を充実させて初めて対等といえる。
どれか一つでも欠ければ均衡は崩れる。人間の戦術は人間が相手だからこそ通用するのだ。異質の理で動くイェナのような人外の者には、人間の都合など知った事ではない。
今回の人質にはその戦力差を埋められるだけの価値があったと考えたからこその攻勢であったのだが、それは逆に戦術の全てを人質に依存するという弱点もさらけ出す事になる。
人質が奪還され、あるいは人質が意味を成さなくなった時、彼らの敗北は決定的だった。
もっとも戦術云々の前に、作戦指揮官である伯爵が人質を楯にしてイェナを暗殺しようと言うのではなく単にイェナを手に入れたい、という個人的な欲求であったのがそもそもの原因であるのだが。
しかし伯爵はアニタを殺すつもりはなかっただろう。
問題は、ただの人間達の方だ。
だから、少々荒っぽい方法ででもアニタの身柄を確保する必要があった。
成功しても失敗しても皆殺しにする事にかわりはなかったが、ゲイル達に対する戒めの意味も含めて今回のような作戦を採った。
唯一の不安要素は伯爵の生死が不明と言う事だが、仮に生きていたとしてもあの深手ではそうすぐには前線に復帰してくる事はないだろう。
当分、相手は手を出してこないはずだ。
脅しがきちんと利いていれば、の話だが。
それでもこちらが準備を整えるだけの時間はあるだろう。
イェナは体を支えようとするゲイルを押しとどめ、自らの足で歩き車へと乗り込む。
行き先は、勿論病院だ。
しかし、向かうのは設備の整った街の大病院ではなかった。
腕利きの医者、最新の設備、医薬品。人間相手なら、それで十分だ。
だが、そこで傷が治ったとしても、彼らと、彼女自身が求めているレベルの治癒は望めない。そこに至るまでには、時間がかかりすぎるし確率も低い。
その場にいた誰もが、いやその場に誰が居ても、その脳裏に浮かぶのは一つだけだっただろう。
この街に住む神は、一人だけではないのだ。
マイスター医院。
古ぼけた板に、赤いペンキで無造作に書かれた看板。
意味するのは、「親方」の方のマイスターだ。人名ではない。
ヘクター・カッスリング医師はもう70を過ぎているが、外観的にはそれよりも10は若く見える。
気分次第で患者を見殺しにするという困った性質をのぞけば、世界でも5本の指にはいる名医だった。
しかし、気に入らない患者には指一本触れようとしない。とある政治家の手術を「顔が気に入らない」といって放り出し、その後医師免許を剥奪されてから、彼の管轄はもう30年ものあいだ暗黒街の連中だけだった。
そして、ある意味困ったことだが、彼はどんな症状であっても必ず体にメスを入れた。
それが外傷ではない、ウイルスによるものであっても、彼は外科的方法で免疫を高め、熱を冷まし、呼吸を回復させ、死の淵から救い出した。
ひとたびメスをふるえば、バラバラになった手足は元通りに修復され、あらゆる病巣は切り刻まれ、神業では無く、まさしく魔技としか形容の出来ない方法で縫合された部位は機能を回復した。
その原理はあらゆる医学、東洋とも西洋とも違う、彼独自の方法であり、それは医学界としては容認されうるものではなかったという事も理由の一つだ。
患者の体を必要以上に切り刻むその方法は邪道とされ、その業績にもかかわらず彼は医学界から追われた。勿論切り刻むと言っても彼にとっては必要な作業ではあるが、他人には理解できない。理解できないものは排除する。人の世の流れはそういうものだ。
ともあれ、自由に治療の出来ない病院などにヘクター自身も定住するつもりはなかった。
治療のための「自由」を求めて各地を流離い、結局落ち着いたのがここだったというわけだ。
イェナを乗せたスポーツカーは凄まじい速度でマイスター医院前に停車した。
だが、明かりはついていない。
前もって連絡しておくように言って置いたはずだ。
留守か、あるいは電話に出なかったか。
そうでなくとも、現場に出向いて状況を確かめるぐらいの事はするべきだ。
部下の手際の悪さには腹が立つが、今はそれよりもイェナの身のほうが大事だ。
ゲイルは力一杯ドアを叩いた。
「先生、急患なんだ、頼む!」
しかしヘクター医師は熟睡しているのか全く反応がない。
「くっ。こんな時に」
「馬鹿野郎、そんなまだるっこしい事している場合か!」
ジョーンズが苛立ちの混じった声で言い、ドアノブを握りしめた。
力を込めて捻ると鍵もろともノブはもぎ取られ、少々荒っぽくドアを突き飛ばすと蝶番ごと吹き飛ぶ。窓ガラスの割れる音が白み始めた空の下、盛大に響き渡る。
「ジジイ!どこだっ!」
おおよそ敬意とは無縁の馬鹿でかい声でジョーンズは怒鳴り、「ここかっ!」ドアというドアを文字通り破壊しながらマイスター医院を突き進む。
ジョーンズが最後のドアを破壊しようと手を伸ばした瞬間、ドアが後ろに開いた。
白髪の老人が眠そうに目をこすりながら現れる。
眉間にしわが寄っているのは年齢のせいではなく、安眠を妨害された事による抗議の表れだ。
「うるさいぞ、酔っぱらい!」
「俺は酔ってねぇ!」
パジャマ姿のヘクター医師に飛びかかりそうになるジョーンズを、ゲイルは慌てて取り押さえた。
後ろからゆっくりとイェナが歩いてくる。
「こんな時間にご免なさい、ドクター」
イェナの様子を見て、ヘクターは呆れた声で言った。
「何じゃ、また喧嘩か。いい年して飽きんな」
「ちょっとばかり派手にやられたので、診て欲しいのだけど」
濡れた体と今なお赤く染まっていく衣服を見て、ヘクターは状況を理解した。
「廊下ではどうしようもあるまい。診察室で見せて貰おう」
診察室といってもそこにあるのは手術台だけで、イェナは必然的にそこへ横たわる事になった。
治療すなわち手術、というこの病院には診察用のベッドなどというものはない。
血に染まったシャツを脱ぎ、下着代わりのコルセットの紐を緩めてうつ伏せになる。
ケブラー繊維を何層にも重ね合わせ、一部をチタンのプレートで補強した防弾機能を有するコルセットだが、伯爵の『第三の手』はそれから僅かに逸れた、剥き出しになった肩の部分を肩甲骨ごと貫いていた。自由度を確保するために肩の部分を大きく空けたデザインになっているのが徒になったのだ。
もっとも、このコルセットは9ミリパラベラム弾ならば十分な防弾能力を持つように設計されているが、『第三の手』による刺突に対して十分な防御効果が得られたかどうかは怪しい。
傷口を調べていたヘクターが呆れとも驚きともつかぬ声で言った。
「こりゃ凄い。傷口も酷いが肩の骨が殆ど滅茶苦茶だ。肺に穴が開かなかったのはただの幸運じゃな」
「で、どうにか出来るの」
「やってみなければわからん。手術中に死ななければ全治3週間と言うところか」
話しながら、ヘクターは戸棚から様々な刃物を取り出す。
メスや鉗子だけではなく、異様に曲がりくねった細いノコギリや先端が三つ又になった針など医療用具とは思えないものも含まれている。
知らない者が見れば、拷問器具かと思うような禍々しい代物だ。
だが、イェナはそれらがどう使われるかを身をもって知っていた。
うつ伏せになったまま目を閉じる。
失血のためだろう、頭が少しぼうっとしていた。
死ななければ、全治3週間。
この言葉には二つの解釈を含んでいる。
失血で死か、手術中にショック死か。
失血に関しては輸血でまかなえる。が、これから待ち受けるであろう、想像を絶するような苦痛は対処のしようがない。
「一応説明しておく。まず傷口を切開して砕けた骨をつなぎ合わせて補修、断裂した神経系と筋肉をつなぎ合わせ、縫合。ま、いつも通りじゃな。全治3週間といったが、元通りになるにはもう少しかかるじゃろう」
「信用しているわ」
「麻酔はいるか?」
「どうせ気休めなんでしょ?いらないわ。それよりも、ウイスキーのほうが欲しいわね」
「麻酔より酒とはわがままな患者じゃな。まっとれ、今とっておきのを持ってきてやる」
無論、アルコールを摂取すれば余計に出血の量が増えるのは分かり切ったことだが、二人ともそんな事に頓着するような性格ではない。
出ればそれだけ血を足せばいいだけだ。
この二人の間には、そういう論理が通用する。
ヘクター医師はイェナを残したまま手術室を出た。
秘蔵のやつをまだボトル半分残してあるはずだ。
壊れたドアを両手でどけると、ジョーンズとゲイルが待っていた。
「先生、姐さんの事よろしくお願いします」
ゲイルが頭を深々と下げる。
「まぁ確率は5分と言うところかな」
人ごとのように言うヘクターの頭を、ジョーンズの手が鷲掴みにした。
「もし失敗してみろ。俺がそのしわくちゃの首を引っこ抜いてやる」
歯を剥き出しにして凄むジョーンズに、ヘクターはため息をついて答えた。
「わかっとるわい」
たとえジョーンズが殺らなくてもゲイルが、そうでなければ別の人間がやるだろう。
それほどまでに、暗黒街の連中とイェナの繋がりは深い。
肉親か、あるいはそれ以上の感情を持つ者もいる。
誰よりも長く生きているゆえに、誰もが忘れていく事を憶え、留めている。人の命では限りある過去を、未来に伝える事が出来る。
時の流れから置き去りにされていても、それはもはや当然の事実として受け入れられている。
彼女はいまやこの街の歴史そのものだ。
自分は確かに頼りにされているが、失敗は許されない。
彼らとイェナが求めているのは成功だけだ。
イェナとのつきあいは長いが、こうした事例は枚挙にいとまがない。
そのたびに、イェナの命と自分の命を秤に乗せて、危険な橋渡りをする。
多額の謝礼を貰えるとしても、割には合わない。
だが何故だろう。
そんな状況であっても、ヘクターは嬉しくて仕方がないのだ。