イェナが走る。
構えた拳は風切り音をたてて伯爵へと放たれる。
その威力は、先ほどの部下の様子を見れば十分すぎるほど判る。
第三の手の攻撃を織り交ぜながら、伯爵はそれを避けた。
イェナがいつもよりも踏み込まないのは、この第三の手が攻撃に割り込んでくるのを警戒しているためだ。
だから、かわせる。
第三の手が、伯爵の意志とは関係なくその形状を「何か」に変えて振り下ろされる。
甲板の構造材が、裂けた。
その機に乗じた、イェナの大振りの一撃。
だが、振りかぶった挙動から余裕を持ってよけられた。
拳は甲板に突き刺さり、めり込む。
勝機と感じた伯爵は、しかし慌てて踏みとどまった。
イェナがめり込んだ腕ごと、甲板をめくりあげる。
そもそも、甲板は木造ではない。グラスファイバーで補強された強化プラスチックである。打ち付けた板をはがすのとは訳が違う。それを、膂力のみで引きはがすというのは常人ならざる芸当だ。
めくりあげた甲板を、イェナが投げる。
伯爵は回転しながら跳んでくるそれから慌てて逃げた。
狙いをそれた甲板の破片が、壁に突き刺さる。
伯爵はそれを再利用した。
第三の手でそれを掴みあげ、イェナに向かって投げ返す。
イェナがさらにそれを右の拳で打ち砕く。同時に左手でその破片を一掴みし、投げ返す。
月光に混じる、強化プラスチックの刃。
さすがにそれは避けられない。
しかし無数の破片で切り裂かれるはずだった伯爵の体は、眼前で硬質な音とともに弾かれた。
どうやら、第三の手が「楯」のような形状で伯爵を守ったらしい。
「随分と便利になったわね、それ」
「言うことを聞かないのは相変わらずだよ」
見えざる楯に守られた伯爵は、屈んで足下のマシンガンを拾った。
弾はまだ十分にある。
セレクターをオートにし、イェナに向けて放つ。
一発ならともかく、連射される弾丸ははじけない。
残念ながら、イェナの側には楯になるものもなかった。
弾着から方向を算定し、回避。
足下を弾丸が抉っていくが、イェナの動きはそれよりも早い。スラロームするように1ステップごとに方向を変え、ジグザグに走り抜ける。
フルオートでの射撃など長くは持たない。引き金を引いたままでなら数秒で弾倉が空になる。
伯爵は引き金を引く時間を微調整することで正確に3射ずつ撃ってくるが、それでも弾切れは早い。
不意に、3射ずつのタイミングだったそれを、2発で切り上げる。
弾切れ。
そう感じるまもなく、遅れて一発。
踏み込んだ脚を支点に、すぐさま体勢を切り替えて横に跳ぶ。
背後から衝撃が来た。
避けきれず、イェナの右肩甲骨を第三の手が貫いている。
勢い余ったイェナの体は甲板に縫い止められるような姿勢で押しつけられた。
手応え有り。
伯爵はどこからともなく伝わる感触からそう思った。
死にはしないだろうが、相当な深手だ。
「チェックメイトだよ、女神殿」
「そうね」
イェナはふらつく足取りで立ち上がった。
右にめり込んだ不可視の腕は今や実体化し、返り血を浴びてその姿を浮かび上がらせていた。赤く濡れたその姿は槍の穂先のような形状になっていても今なおイェナの内部へと食い込もうとしている。その動きはまるでイェナと一つになるべく内側へ潜り込もうとする、寄生生物のようにも見えた。力を抜けばそれは瞬きするほどの間も与えずに右腕をもぎ取ってしまうだろう。
「抵抗は君のためにならない。私を受け入れたまえ」
「拒否するわ。…………それに、私は、まだ、負けていない。追いつめられたのは貴方よ」
「その強がりもとても魅力的だが、そのような態度に出られると私は君の自由を奪うしかないようだ」
「やってご覧なさい。出来るなら」
めり込んだ第三の手が蠢く。
痛みと言うよりは灼けた杭を突っ込まれたような感覚にイェナは身もだえした。
だが怯まなかった。
受けた苦痛を怒りに変換するかのように、イェナは猛然と伯爵に躍りかかった。
伯爵は間一髪で左拳の一撃をかわすが、その顔に余裕は微塵も感じられない。
自分の身を守るために引き寄せたはずの第三の手が思うようにならなかったからだ。
イェナの肩にめり込んだ第三の手はびくともしない。
強固な筋肉に阻まれ、万力で締め付けられたかのように動かない。
追いつめた、という言葉ははったりではなかったのだ。
攻撃と同時に防御の要でもある第三の手を奪うために、イェナは自分の身に敢えて攻撃を許したのだ。
第三の手は不可視だが、消えたり現れたりするわけではない。きちんとそこに存在し、実在し、ある一時だけ実体化するのだ。すなわち、何らかの物体に触れたときに。
実体化した第三の手は、通常の3次元空間の物理法則に準ずる。イェナの体に突き刺さっている今、完全に実体化した第三の手はイェナによって完全に固定されてしまっていた。
その代償としてイェナの自由は片腕のみになっているが、それは彼女にとってハンデでも何でもなかった。
伯爵は、第三の手が完全に自由であることによって、初めてイェナと互角、あるいは優位に立てる。
攻撃、防御、攪乱、牽制、あらゆる状況で有利なジョーカーを封じられた今、伯爵はただの人間でしかなかった。
その身体能力は通常の人間よりも数段優れたものであったが、しかしイェナのそれとは比べるべくもない。
イェナの一撃は伯爵を微塵に砕くが、伯爵が渾身の一撃を加えたとしてもイェナは死なない。その差はあまりに絶望的で、小さな蚊が象と戦うようなものだ。
これ以上の戦いは危険だ。
イェナをこの船から降ろすか、伯爵自身が逃亡するか。
今後のことを考えれば、イェナに退場願う方がいい。
クロス・リバーはそろそろ引き潮の時間だ。
流れが変わる。
そうすれば、たとえイェナといえども船に追いつくことはできまい。
だが、そんな簡単にいくはずがないというのは伯爵自身が身にしみて判っていた。
あとは、自分自身が逃亡する。
それが目下一番確実な方法だ。
クロス・リバーを離れて海へ出れば、味方の船が近くまで来ているはずだ。
とりあえず船を動かす。
操舵手はまだ生きているはずだ。
「船を動かせ!脱出だ!」
「逃げる気なの?でもこの船に生きた人間は乗らせないわよ」
イェナが近づいてくる。
胃のあたりから来る妙な圧迫感を押さえつけ、伯爵は跳んだ。
伸ばした手の先には、部下の残骸ともう一丁のマシンガンがある。
第三の手を封じられては、飛び道具無しでイェナの相手は無理だ。
銃把まで、あと数センチ。
イェナもさすがに片手で、しかも肩にこんなものが突き刺さった状態で弾を撃たれるのはきつい。
だが、それを阻止しようにも距離が離れすぎている。
投擲するものも、無い。
イェナは、何を思ったか背中に突き刺さった第三の手を掴み、脳髄がショートするかのような激痛を無視して、自らの肉体を支点に振り回した。
数メートル離れていたはずの伯爵の体が、それにつられてよろける。
掴みかけたマシンガンが、手から落ちて転がった。
「ふぅん、やっぱり、そうなのね。見えずとも、貴方の体とは繋がっていると思っていたけれど」
まずいことになった、と伯爵は焦る。
普通の人間相手なら、その事実は弱点でも何でもない。
しかしこの状況で、しかもイェナ相手にそれを知られるとは。
これでは手錠を掛けられたようなものだ。
昔、チェーンデスマッチという互いに手錠を掛けて殴り合う決闘方法があったが、こんな相手にやるような方法ではない。
相手が小型のクレーン車というよりもたちが悪い。
船はまだ、動かない。
波に乗ってしまえば、逃げる方法はいくらでもあるが、ここではダメだ。
何をしている。エンジントラブルか?
この切迫した状況では、落ち着いていられるはずもなかった。
時間は何よりも貴重だ。
横目で、落ちたマシンガンを見る。
セレクターはオートのままだ。
拾えばすぐに撃てる。
隙は一瞬あればいい。
伯爵は第三の手に命じた。
抵抗をあきらめていた腕が、活気づく。
それがイェナに痛みを流し込んだ。
注意がそちらに行けば、自分に動くチャンスがある。
少しでも早く拾うために、倒れながら左手を伸ばす。
手に、冷たい感触。
狙いを定める前に、撃つ。
銃口がイェナに向く刹那。
それは大きくそれた。
イェナが確信の笑みで立っている。左手に、第三の手を掴んで。
強引に右肩から引き抜いたそれを、イェナは持っているのだった。
伯爵が力を込めると、血糊で濡れた第三の手はイェナの手から少しだけ動いたが、自分の身を守る位置まで引き戻すことは出来なかった。
イェナが伯爵を側面から蹴り上げる。
とっさに腕を曲げて間に入ったが、そんな程度で威力が相殺できるはずもない。
イェナの脚力もまた、想像を絶する凶器なのだから。
曲げた右腕は上腕の部分から破断、粉砕され、肘関節の先からは蹴り抜かれた勢いで弾け飛び、握りしめたマシンガンとともにクロス・リバーに流されていった。
遅れて、絶叫。
「うぐわぁぁぁぁぁ!」
残された下腕から大量の血が噴出する。
つい今し方までの余裕の表情の代わりに苦悶を張り付かせ、失われた部位を探して狂乱するかのように、地でのたうった。
「右腕だけでは済まさないわよ」
冷酷に響くイェナの声。
伯爵は改めてその強さと残忍さに身の凍るような恐怖を感じた。
だからこそ、それを手にしたい、と思ったのだ。
しかし敗れた。
…………………今は。
今は勝てない。
僅かなチャンスに賭ける、という理念を伯爵は所持していなかった。
賭けるのではダメだ。
相手は人間ではない、数百年の闇の中を生き抜いてきた、本物の、魔女だ。
敗北感も悔しさもなかったが、失われていく血が伯爵から正確な判断力というものを奪っていくことは確実だった。
もっと確実な策を講じなければならない。
もっと実力をつけねばならない。
そして同じ位置まで上れないならば、相手を自分の位置まで引きずり下ろさなければ。
今伯爵が賭けることがあるとすれば、イェナもまた深手を負っている事への対処だった。
可能性に賭けて勝利を得る、そんなことは無駄だ。
今考えねばならないのは、この場からどうやって退くか、その一点だけだ。
どうやって逃げるか。
今この局面で敗北したとしてもそれはさしたる問題ではない。
勝つのはいつだっていい。
しかし、勝利とは確実なものでなくてはならない。
最終的に目的さえ達成できれば何の問題もないが、そのためには今ここで死んではならない。
生き延びることが最重要の課題だ。
伯爵の目的はイェナを屈服させて自らのものとすることであって、殺し合うのでも傷つけるのでもない。
今回は、たまたまそういう手段をとっただけだ。
伯爵は、痛みにのたうちながら、しかしその方向をさりげなく船尾の方へと向けていった。
「思えば長いつきあいだったような気がするけど、これで当分、よく眠れそうだわ」
イェナが伯爵に近づく。
嬲り殺す、などという考えはない。確実に、とどめを刺す。
イェナの蹴り脚に合わせ、伯爵は残された全ての力で跳ね起き、船尾から跳んだ。
イェナの蹴りが伯爵をかすめるが、当たらない。
伯爵の体はそれよりも僅か遠くにあった。
つい先ほど、アニタがそうしたように、伯爵もまたクロス・リバーへと身を躍らせたのだ。
船尾から飛び出した伯爵の体はクロスリバーの流れへ沈んでいった。
波紋だけを遺して。
死んだかしら。
流れに混じる血の赤を見てイェナはふと思ったが、しかし楽観的すぎる、と思いその可能性を否定した。
伯爵が河に落ちるときに、第三の手も水面に引きずり込まれていったが、不可視の腕もまた行方知れずだ。
握りしめたままでいれば伯爵を水面から引き上げることが出来たかも知れないが、握力の落ちてきている腕で血糊にぬめったものを掴んだままにしておくのは難しかった。
血が止まらない。
思った以上に深手なのに加え、先ほどあれだけ無茶をしたのだから、当然といえば当然だ。
勝つためとはいえ、自分で自分の傷口を広げたようなものだからだ。
だが、もう一人残っている。
イェナはふらつく足取りで、船室へと向かう。
扉を開けると、男が居た。
おののきと震えで、今にも精神崩壊を起こしそうな恐慌状態にあることは一目でわかる。
イェナが一歩近づくと、ひぃっ、という小さな悲鳴を上げて壁側へと後じさった。
「無駄なことはやめておきなさい」
イェナは銃を抜こうとする男を制止した。
「どうして貴方を生かしておいたか、判っているでしょう?死体と葬儀代をきっちりと送り届けて貰わなくては困るからよ」
かみ合わせた歯がガチガチと鳴る。
いま銃を抜けば、相手を撃つよりも早く、自分の体は寸刻みにバラバラにされるのだ。
反射的に銃把に手を伸ばしてしまったが、攻撃の意志など無いのだ。
だが恐怖で手が銃から離れない。
男は噛み合わせた顎がそれ以上開かず、ゆえに声を出せず、必死に首を振ってそれを伝えようとした。
「後ろを向いてエンジンを掛けなさい」
イェナの顔は青白い。
失血によって血の気が失せているからだ。
しかし、男にはそれが、つい今し方水面から現れた、亡霊の姿のように見えた。
相手が弱っている、などという考えは微塵も浮かばなかった。
男は凄まじいほどの忍耐力を動員して銃から手を離し、エンジンのキーに手を伸ばした。
エンジンをスタートさせると、振り向きもせずに船を発進させる。
船も怯えているのか。
かつてないほどの速さで、クロス・リバーから船は出航する。
港を出る瞬間、男は後ろを見ずにはいられなかった。
だがそこには誰もおらず、ただ血臭だけを残して魔女の姿はかき消えていた。
EPISODE2.END
→GO,EPISODE3[ASSASSIN DAGGER]