不意に、近づいてくる仲間の体がスピードを上げた。
 イェナがスピードを上げたのか?
 いや、そうではない。
 仲間の体は血の筋を引きながら飛んでくる。
 イェナが仲間の体を放り投げたのだと気づくにはかに、だが果てしなく時間が足らなかった。
 無論、弾丸でその勢いを止めるにはあまりに運動エネルギーが足らない。
 仲間の体に押しつぶされながら、彼らは見た。
 長い髪をなびかせながら、赤い唇を笑みに形作り、拳を振り上げる魔女の姿を。
 繰り出される右のストレートは頬骨のみならず凄まじいエネルギーでもって側頭骨や眼窩、前頭骨をも破砕し、頭蓋に収められた殆どの内部を破壊した。頭部は人間の急所が集まる、などという拳闘の定石に則ったものではない。ただ凶悪な破壊力でもって粉砕する、ただそれだけの行為だ。
 別の男に放った、突き上げるようなボディブローは数多の内臓を破裂、分断させ、肋骨を砕き、さらにはその破片で肺や心臓などの重要器官を貫いた。行き場のない血は出口を求めて逆流し、口や目や耳から溢れ、まさに七孔噴血の様相を呈した。
「うああああああああああ」
 恐慌状態のままイェナに向けて立て続けに引き金が引かれる。
 避けられないと判断するや顔面を粉砕されて斃れた男の眼窩に手を差し込み、無理矢理持ち上げ、それを盾とした。
 銃弾の勢いが力を失った男の体に活力を吹き込むように注ぎ込まれ、痙攣にも似た奇怪な動きで震える。
 そしてマガジンの弾を撃ち尽くしたのを知ると、イェナは穴だらけとなった男の死体を全力で投擲し、相手の動きを封じ、小型重機並みの腕力で対象を殴殺した。
 その一撃は、常識とは全く異なる論理で対象物を葬った。
 かつては人。
 今は肉の塊。
 砕かれ、潰され、それらは全て物へと変わっていく。
 瞬く間に、それは悪夢へと変貌していく。
 後悔の時間も、祈る間もない。
 魂の救われる間も、その一生を顧みる間もない。
 それこそが力、それこそが暴力であるといわんばかりに、無慈悲で、あまりにも圧倒的な破壊。
 溢れ出る血は虚空に尾を引き、骨の折れる音が怖気の走るような反響を生み、悲鳴が夜の静寂を切り裂いた。
 10数名の人間がその身を砕かれ、物言わぬ骸と化していく間、伯爵は何をしていたか。
 何もしていなかった。
 恍惚とした表情で、その光景をやや遠くから眺めているだけだ。
 強大な暴力と、自分に与えられた部下達が健気に戦う様を。
 それは芸術だった。
 神に似せて作られたという人間が、また土塊に戻されていくという、神話の続き。
 神話の、8日目。
 自分は今その場にいるのだ。
 これを芸術といわずして何というのか。
 足らないのは光輝と響いてくるラッパ、賛美歌の演出。
 いやいや。
 伯爵は思い直す。
 光輝の代わりの月光、ラッパの代わりの銃声、賛美歌代わりの叫喚。
 素晴らしい。
 完璧だ。
 あとは最後の仕上げが残っている。
 物語の終章は勇士の登場で始まる。
 伯爵は力を込めて手を叩いた。それは嘲笑ではない、心からの賛辞を込めた拍手だった。
 心ゆくまで虐殺を終えたイェナは伯爵へと向き直った。
 浴びた返り血が頬をつたい、その意に反して血の涙を流しているかのようだ。冷徹な裁きを下した彼女が、咎人のために涙を流そうというのか。
 否、それはただの返り血にすぎない。
 何の詩的意味もない、ただの血。
 その証拠に彼女は煩わしげにその血を拭った。
「素晴らしい」伯爵は心の底からの感嘆を込めて言った。「君の優美さの前では、いかなる戦乙女だとて霞んで見えることだろうね」
「そんなありきたりの賛辞など要らないわ。自分の部下を見捨てるような人間に言われても嬉しくも何ともないし」
「見捨てた」伯爵の声は悲しみを含んでいた。「心外な。彼らは罰せられるべきだからこそ、君に差し出したのだ。分不相応な行いには当然厳しい罰があるべきだ。それに彼らは無垢な処女をその手で穢そうとした。人として許されるべき事ではない」
「その営利誘拐に手を貸したあなたはどうなの」
「私は手など貸していない。同伴はしていたがね」
「体のいい言い訳だこと」
「私は私に許される最大限の譲歩として君の姪を無傷で帰した。私が止めなければ、彼女は飢えた獣の遅めのランチに美味しく戴かれてしまうところだった。感謝されこそすれ、そのような謗りを受けるいわれはないのだが」
「そんな筋の通らない論理など聞きたくはないわね。本当に善意の欠片が有るなら、とっくの昔に引き渡しても良かったはずよ。つまり、自分に都合のいい立場をとりながら目的を果たしたかった、ただそれだけでしょう」
「否定はしないよ。しかし私が無傷で帰そうとしたところ、君の言葉が自殺へと追いやってしまった。これは全く私の責任ではない」
「私の責任でもないわ」
「ならばこの件に関しては我々に責任はない、という事になる。お互いに非がなければ、ここからの話し合いはフェアに行こうじゃないか」
「そもそもの根本が間違っているわ。あなた方がちょっかいを出さなければ、私は今頃ボリスの店で一杯やりながらのんびりと一日を終わらせることが出来たのに、あなた方のつまらない用件のせいでいらない夜勤をする羽目になった。アニタは別に入水自殺みたいな真似をしなくて済んだし、貴方の連れてきた哀れな生け贄もほんの少しだけ長生きできたかもしれない。その点に関する責任は全て貴方にあるのよ」
「そんなにまくし立てないでくれ」伯爵は初めて苦悩にも見える表情を浮かべた。「プロポーズの返事をどうしても聞きたかったのだ」
 イェナは思いきり顔をしかめて唸った。
「あなたの特使とやらにきっちりと断りの意志を伝えたわ」
 伯爵は首を振った。
「彼は顎部を含む10数カ所の骨折で入院中だ。随分と手荒い歓迎を受けたらしい」
「かわいそうに」
 その点に関してはイェナの関知するところではなく、心当たりもかなりあるので一概に誰がやったとも言えない。
 そんな返答をするのが精一杯だ。
「まぁ君にとっては人ごとだろうが・・・・・どうだろうか。私の求婚を受けて入れてくれる気になったかね?」
「ノー。あなたのような変態と、人生の一時を過ごすなんて不幸もいいところだわ」
「酷いいわれようだ」
 伯爵は肩の力を抜いた。
「それならば君の手足を引きちぎってでも連れて行くとしよう」
「ジョーンズといい、貴方といい、私の周りにはどうして変な奴しか来ないの?私はせめて、甲斐性があって優しくて金持ちの、普通の男がいいの。変態野郎はもう懲り懲りよ」イェナは吐き捨てるように言った。「もう顔も見たくないわ。死んで頂戴」
「死んで貰うとは穏やかでないな」
 苦笑いしつつも、剣呑とした雰囲気は消えていない。
 とてつもない殺気だ。
 それも後ろから。
 いや、斜め左前方から。
 すぐに消えて右側面から。
 無論、実体は前にいる男だ。
 殺気だけが移動している。
 イェナの研ぎ澄まされた感覚がそう知らせるのであって、普通の人間にはその得体の知れない恐怖だけが感じられるに違いない。あちこちからの妙な視線を感じることはあっても、それがどこから来るのか捉えるには相当の訓練を要する。
 前に一度手を合わせたときは、手傷を負いながらも右目をイェナが奪い、終わった。
 だが、その時ですら正体は掴めなかった。
 この移動する殺気は何なのか。
 そしていざ戦うとなればそれは明らかな攻撃となって襲ってくる。
 目の前の実体とは別に、だ。
 二重存在、という能力者を知っているが、そういった類のものではない。姿形はなく、ただ攻撃だけが『実体化』する。
 何より厄介なのは、それがどうも本体の意志とは無関係らしいという事だ。
 伯爵の意志とは無関係に、『それ』は襲ってくる。
 だから攻撃は、連携というものとは全く無関係だ。
 本体が攻撃し、それとはまた別の意志で『それ』が攻撃を仕掛ける。タイミングも合わせない。同時のときもあれば続けざまの時もある。
 伯爵自身が第三の手を制御しきれていない、という事も原因の一つだろう。
 気まぐれだが姿がない以上、予測して避けることも難しい。
 『見えざる手』。
 不可視の、第三の手を持つこの男は、だからこそイェナとまともに戦っても生き延びていた。
 あの時とどめを刺せなかったばかりにこんな事態を招いたのだ。
 けりは付けなければならない。
 それは仕事だからではなく、彼女自身の日常を守るために必要なことだった。
 これが「仕事」であるというのはただの言い訳にすぎない。
 自分に手を出すと言うことが高い代償になるという事を思い知らせなければならない。
 第三の手が右側面で実体化した。
 イェナにとって問題なのは、その形態が決して腕ではないという事だ。
 第三の手はあくまで仮称であって、手そのものではない。
 またその形状が肉眼で確認は出来ないのだから、不可視の存在に形態という可視の概念を当てはめることは難しい。
 だから第三の手を受け止める、あるいは捌く、というのはある種の博打に近い。
 形態が鈍器に近いもの、たとえば棒のようなものであるとか、あるいは先端の鋭くない物体であるなら受け止めることはさして難しくはない。
 だが杭状のものだったり、刃物や針、あるいは鋏や鋸のような形状のものだった場合には、受け止めること自体にかなりの危険を伴う。
 それは以前に右腕を奪われそうになった体験に基づくものでもあるのだが。
 そして前述のような不可視のものである第三の手は、避けたとき、あるいは攻撃を直接受けた場合に初めてそれが判別できる。
 第三の手の正体を知る事はそれ自体に危険が伴うのだ。
 横殴りの攻撃を、イェナは音を頼りに避けた。
 遅れた髪が千々に裂ける。今回は「刃物」だったらしい。
 伯爵が近づいていた。
 姿勢を低くして相手の攻撃をくぐるように移動する、ボクシングで言うところのダッキング。低い姿勢のまま、伯爵はイェナの懐へと飛び込んでいる。避けた方向を察知していたかのように。
 本体の攻撃は避けられない。
 伯爵の左手が曲線軌道でイェナの脇腹にめり込む。
 筋肉のもっとも薄い場所。
 内臓を直に突き上げる急所。
 いかに超人といえども、人であるがゆえに必然的に防御力の低い部位。
 無論、伯爵の腕力はイェナとは比べるべくもない。
 だが、急所。
 独特の衝撃と圧迫感にイェナは臓腑が暴れ、口から飛び出さんばかりにはね回るのを感じた。
 胃液が逆流する。
 それ以前に、外部からの衝撃とは種類の違う、忍耐しがたい苦痛が脳髄を痺れさせる。
 嘔吐感。だが堪える。膝から力が抜けるのは押さえようがない。
 膝が折れる。
 地に這いつくばるのは、他ならぬ伯爵自身が許さなかった。
 蹴り上げる。
 その勢いでイェナの体が浮く。
 だが腹部への打撃は腹筋で止めた。ダメージはない。
 腹部に密着している伯爵の脚に向かって打撃。
 それは引き足をかすめるに留まった。
 第三の手が、イェナの体を上に向かって引き上げたからだ。
 以前とは違う。気まぐれなのは変わりないが、攻撃に、防御に、第三の手の動きが戦略的になっている。
 進歩。3年の歳月が伯爵の能力を高めている。
 進化でなく進歩。それは一代限りの能力であるが、方向性を自分で決められるのが人間という生き物の特徴だ。もともと努力というものとは無縁に見える伯爵が如何なる修練を積んだのか、想像もつかない。
 あるいは、右目を抉られたことによる肉体的なハンデを、第三の手が補っているのかも。
 根拠はないが、そんなことを思う。
 だがどんな方法で自己の能力を高めたのか、などというつまらないことには興味がなかった。
 目の前の男は久しく出会うことの無かった強敵であり、自分がかつて最も得意とする武器を用いて戦い辛勝したというのに、今回は自分が殆ど丸腰で相手の実力は段違いに増しているという、この状況が大事なのだ。
 四肢に力が満ちてくるのを感じる。
 体の血が沸騰し、興奮という起爆剤で心臓が早鐘のように鳴り、熱い体液を指先まで運んでいくのを感じる。
 これだ。
 この高揚感。
 何という興奮。
 何という歓喜。
 打たれた腹が熱い。
 それすらも疼きにも似た鈍痛に変えるほどの悦び。
 それはいったい如何なる感情に置き換えればいいというのか。
 憎悪とも驚喜とも言えぬこの情動の赴くままに。
 私は。
 私は。
 私はこの男を滅茶苦茶にしてみたいのだ。
 この腕で。
 拳で。
 指先で。
 自分に与えられた全ての技術で。
 暴力という名の論理で、この男を蹂躙してみたいのだ。


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