きっかり３０分。
店の人間ごとつれてきたのは説明を受けている暇が無かったからであろうが、それにしても強引ではある。
「ちゃんと店は直しておきなさいよ？」
「事が済んだら立て直させます」
「で、機材はそろったのね」
「思いつく物は全部積んできました」
頭まで覆うタイプのダイビング・スーツ、マスク、ゴーグル、グローブにフィン、ウェイトベルト、レギュレータ。ボンベは２本。確かに必要な物はそろっている。
それに割と新しい型のダイブ・コンピュータまであった。腕時計型のコンパクトな代物で、水深、経過時間、ボンベ残量など細かなデータを計算し表示できる。無くても問題ないが、有れば心強い。
他には水中で使えるハロゲン・ライトなどもある。魚群探知機は必要ないが、そんな物まで混ざっているあたり、よほど急いで調達したのだろう。
「とりあえずサイズは大型なら大丈夫だと思いまして」
これはダイビング・スーツのことだ。
イェナの身長は１７０センチ強。女性用のサイズというよりは男性向けの方がしっくり来るだろう、との判断からである。
「そうね。これなら文句なしだわ」
一つ一つ丁寧に点検していく。
使い古されてはいるがスーツに綻びはないし、レギュレータはまだ新品だ。ボンベの圧も十分にある。作戦には差し支えないだろう。
「ゲイルはダイビングの経験はあるのよね？」
「経験豊富とはいきませんが何度か」
「じゃあ機材の使い方は判るわね？行動中の無用なトラブルは避けたいから、あとでもう一度良く点検しておいて」
「わかりました」
イェナはぼろぼろになったゲイルのスポーツカーに視線を移した。
店主らしき人間が助手席で泡を吹いている。
相当荒っぽい運転をしてきたらしい。
可哀想に、と思いつつも今は交渉の段取りについての思考に集中する。
「お金の準備は出来てる？」
「問題ありません。使用済み紙幣で２００万、ジュラルミンのトランクで用意させてあります」
この時間に用意できていると言うことは、イェナの命令以前から既に用意されていたのだろう。
「スマートな仕事というのは気分がいいわね、ゲイル」
「恐縮です」
「さて、それじゃここから先は私の仕事。ボートで相手の船に行くから同伴者は要らないわ。とりあえず交渉の邪魔が入らないよう、最大限便宜を図っておいて」
「私もお供します」
「駄目よ。指定は私一人、という事でしょう」
ゲイルの申し出をイェナは断った。一人で、という指定なのだ。約定を違えば交渉はもとより成立しなくなる。
「しかし」
「それとも私が信用できない？」
「いえ、そういうわけでは」
「アニタの身が心配というのも判るけど、あなたにはやって貰う仕事があるの」
「仕事？」
「少々危険だけど、あなたならたぶん出来ると思うから」
イェナは足下の装備品に視線を落とす。
交渉の時間は近づいていた。
クロス・リバーの河口は、喫水の浅い小型の船舶ならある程度遡れるように広くなっており、アニタを拉致した一味の船も河口からやや遡った位置で停泊していた。
このあたりは潮の満ち干で流れの速さが変わる。
海上ではなく河口をやや遡った場所で停泊させているのは、たとえ逆襲を受けてもそれを捌ききるだけの自信の現れだけではなく、引いた潮の流れに乗って一気に海上へと出る、という意味合いもあるのだろう。
イェナの乗った小型のボートは、指定された船へと近づいていた。
無論、銃器刃物の類はいっさい身につけていない。
どんな要求をしてくるかは判らないが、少なくとも武装していきなりご破算というのでは話にならない。
危険は承知だ。
小型のクルーザーだが、中にいるのは７、８人という見当を付ける。
そのすぐ脇にボートを止め、甲板からおろされた縄梯子を上った。
顔を出すと、男が数名、歩哨に立っている。
手に持っている機関銃は取り回しの容易なサブマシンガンだ。
体格に比して着膨れしているような印象があるのは服の下に身につけた防弾チョッキのせいだろう。
出迎えの準備は万端と言うことらしい。
「ふむ、律儀に一人で来たのだな」
甲板で折り畳みの椅子に座っていた片目の男が腰を上げた。
他の男達は動きやすい戦闘服なのに、その男だけは場違いなダブルのスーツである。
それも一着でサラリーマンの平均年収に匹敵するような高価な物だ。それでいて着こなしが自然なのは、こういった物をごく普通に身にまとうだけの財力と地位にある人間ということだろう。
金目当ての営利誘拐犯にしては裕福すぎる感もある。
さらに銃器で武装した別の男が両脇についているが、本人は何も武装していない。
「息災だったかね？女神殿」
「おかげさまで・・・・といいたいところだけど、こういう阿保な事件が起きると元気なくなるわね、伯爵」
伯爵と呼ばれた片目の男は苦笑いした。
「確かに頭のいい方法ではないな」
「アニタは無事なの」
「勿論だとも。手荒な真似をして申し訳ないと思うが、必要以上のことはしていない」
イェナは顔をしかめる。
「申し訳ないと思うならはじめから誘拐なんてしないで頂戴」
「残念ながらこれが私の仕事だ。ところでケースは用意してあるようだが中身は入っているのかね」
「使用済み紙幣で２００万。あなたにははした金でしょうけど・・・・事業にでも失敗したの？」
「金が必要なのは彼らとその親玉だ」
「あなたが出せばいいでしょう。人の金をかすめ取ろうなんて虫が良すぎるわよ」
「そこは利害の一致という奴だよ」
「国に帰ったら爵位を返した方がいいわよ。誘拐犯の肩書きにしては大層すぎるし」
「無事に帰れたら考えておこう」
これから起こるべき事を予測しているのか、自らにとっても不吉であろう事を平気で口にする。
それを謙遜と取るか、自信と取るかは人によって様々であるが。
「人質の無事を確認したいわね」
「いいとも。…………連れてきたまえ」
男の合図でアニタが歩かされてくる。
見た限り着衣に乱れはない。
なるほど傷物にしては交渉はうまくいかない。そのような事態に陥った場合、イェナを含め関係者全員が考え得る全ての手段で報復を試みるだろう。
眼前の伯爵は、その程度のことは心得ていた。
うなだれたまま甲板に連れてこられたアニタは事態の変化に戸惑いを見せていたが、イェナの姿を見て顔を輝かせた。
イェナが来てくれた。
それだけで、不安など消し飛んでしまう。
彼女なら、この状況を打破してくれる。
必ず助けてくれる。
アニタは自分の心が温かい安心感のようなもので満たされていくことを感じ、恐怖と不安で頼りなくなっていた膝に力を入れた。
「不甲斐ないわね」イェナの第一声は、アニタを拘束している男達ではなく、拘束されている本人へ向けて放たれた。「私はそんなヤワな姪を持った覚えはないわ」
アニタは一瞬呆気にとられたが、すぐに怒りの表情で答えた。
「学校帰りにいきなり銃で襲われて、どうやって逃げろっていうの！」
「そのぐらい、ピンチでも何でもないわ。障害物遮蔽の移動方法はきちんとレクチャーしたはずよ。まったく情けないを通り越して呆れてくるわ」
イェナはアニタを一方的に罵倒したあと、大きく肩を落として見せる。
「防弾チョッキのボディガードも撃たれ損ね」
アニタの顔が見る見るうちに紅潮してくる。
「あなたは私を助けに来たんじゃないの！？」
「私の仕事はトラブルの解決であって、人質交渉で代価を支払うことではないの。今ここで必要なのは人質など取っても何の意味もないという事を相手に痛いほど判らせること」
「人でなし！」
「自分の置かれている境遇も理解できずに安穏としているようではこれから先が思いやられるわ。潔くここで死になさい。それが幸せというものよ」
イェナは蔑むような視線を向ける。
「クロス・リバーの魔女は処女の生け贄がお好みらしいわよ」
アニタは弾かれたように身を硬直させると震える声で叫び返した。
「貴女のために死ぬぐらいなら、河に身投げした方がましよ！」
アニタを後ろからとらえていた男は、二人の応酬をあっけにとられて見ている。
「痴話喧嘩は終わりかね？では交換と行こうか」
伯爵が言った。
「スーツケースをそこに置いて後ろに下がりたまえ。中身を確認したら彼女は解放しよう」
男の一人がアニタを銃で小突いて歩かせる。
イェナもその場でスーツケースを置くが、しかし指示通りに下がらない。
「君は大事な姪がどうなってもいいというのかね？」
伯爵の問いかけに、イェナは冷笑を持って答えた。
「さっきの会話を聞いていないの？私は人質の交換に来たのではない。そんな小娘、煮るなり焼くなり殺すなり犯すなり好きにすればいいわ。私の仕事は貴方達を思う存分ぶちのめすことであって、人質交渉は依頼に含まれていないもの」
アニタはまさに悪魔でも乗り移ったかのような凄まじい形相で喚いた。
「死んだら化けて出てやる。未来永劫呪ってやるから覚悟なさいっ！」
アニタはそして宣言通り実行した。
手を拘束されたまま、クロス・リバーに飛び込んだのだ。
船から飛び出すように落下したアニタの体は、入れ違いで巨大な水柱と化した。
「バカな！」
予想外の行動に、その場にいた誰もが目を疑った。
水面にはかすかな泡以外には浮かんでこない。
どんな泳ぎの達人でも両腕を拘束されたまま泳ぎ切るのは不可能だ。
自殺行為などというものではない。自殺そのものだ。
イェナは大仰に、胸元で十字を切った。「哀れな少女に、神の慈悲があらんことを」
「イカレてやがる……………！」
「いいえ、正気よ」
イェナはスーツケースを後ろに放った。
「さて、これから本題にはいるわけだけど」
「命より、金の方が大事なのか」
「大事よ。このお金があれば、いったい何人の人間が生活できると思っているの？たかが小娘一人のためにこんな大金出せないわ。どちらの方が大事か、冷静に考えれば判りそうなものだけど」
喋りながら一歩踏み出す。
「それでも欲しいというのなら、それ相応の代償を支払って貰わなければ」胸元で拳を固める。「そうね・・・・・貴方達の生命、全部と引き替えよ」
「ふざけるな！」
「私はいたって真面目よ。葬儀代という名目以外では支払えない。だから死んで貰う。冗談でこんな事は言えないわ」
「『黒皇剣』も『怯える妖精』も無い君が、この鉄火の群れにどう立ち向かう気かね？」
「この、両の拳で」
「ハハハ。それは素敵だ」伯爵は声を上げて笑い、それから真顔で言った。「いくら撃ってもかまわんが、殺すな」
構えられた銃の一つが火を噴く。
一直線に飛ぶ鉛の矢。あらゆる物をうち倒す冷徹の鎚。
それはイェナの四肢を貫き、その陶磁のような白い肌に鮮血の華を咲かせるであろう。
そこに到達したならば。
実際に起こったのは、イェナの腕の閃き、金属音、それと火花。
何が起きたか理解できまい。
それを理解するにはあまりにも非現実的すぎた。
誰が判るであろうか。
迫る銃弾を、イェナが弾き落としたなどとは。
それも拳で。
正確にはイェナが５指にはめ込んだ指輪、それが弾丸をたたき落とした。
直進する弾丸の運動エネルギーは凄まじい。人間の放つ打撃など比べ物にならない。人間にそれを捌くなど言う芸当は不可能である。
もちろん、ただならぬ身体能力を持つイェナでも生身ではそんな芸当は無理だ。技術は肉体強度を超えられない。だが超人的な技能の持ち主である彼女は、まさに神懸かり的な動体視力と絶え間ない訓練によって身につけた動きによって、直径１センチにも満たない弾丸を指輪に当て、跳ね返すという芸当をやってのけた。
それも、平然と。
「貴方は七つの下僕全てを知っているわけではないものね。お初にお目に掛かるかしら？格闘用万能護環『マスター・オブ・リングス』」
口元に妖しい微笑を浮かべながら、イェナはまるで見せつけるかのように眼前で拳を構えた。
七つの下僕の一つ『マスター・オブ・リングス』は、見た目はただの指輪である。
オパールのごとき妖美な光沢と芸術的とも言える微細な紋様が表面に彫られているその指輪は、装飾品としても十分に通用するだろう。
だが装飾品と違うのは、細工の容易な銀ではなく特殊な超硬素材によって鋳造されていることだ。その硬度はモース硬度に換算して２０以上、ダイヤモンドをも超える強度を持つ。いったい如何なる工程を用いられたのかも定かではない、人知を超えた代物だ。
そして表面に彫られた彫刻は、飾り立てるためのものではなく攻撃のための紋様である。
優れた武器は、その存在を美術品にまで高めるという。
マスター・オブ・リングスの紋様は、あらゆる角度からの刃物、弓矢の類を弾き返し、打撃の際に効果的に力を集中させる。
５指が自由と言うことによってあらゆる格闘を可能にする、戦うための指輪。
「フム、こちらは丸腰と指定したはずなのだが」
「あなた方の理が私に通用すると考えていること自体が間違いね」
イェナがかすかに腰を落としたのに気づいたのは伯爵だけだった。
続けざまに放たれた銃弾は、かつてイェナがいた場所を貫くだけだ。
恐るべき脚力でもって跳躍したイェナはまるで獣のように射手の一人に躍りかかった。
かぎ爪のように開かれた掌が男の頭を鷲掴みにする。イェナは男の体を鞍馬に見立てるかのように体をねじりながら両手で姿勢を変え、着地した。鞍馬と違うのは支点が不安定な人間の頭だと言うことだ。ほぼ半回転した男の首は、粉砕された頸骨を喉から突き破らせながら垂れる。
崩れ落ちる男の体をイェナが支えた。
太股と肩に手を回し、抱えながら突進する。
一カ所に留まっているのが災いした。
集団の中に入られては、迂闊に発泡できない。外せば仲間に当たる。
だがそんなことを考えていたのはほんの僅かな間だけだ。近づかれれば間違いなく負ける。いや、死ぬ。
半ば狂乱しながらマシンガンを乱射するが、弾丸は抱えられた男の体で止まってしまう。こんな小口径の弾では用心のために着用させていた防弾チョッキが全て止めてしまう。
銃火を物ともせず、武装した人間を相手に素手で挑むこの女はいったい何者なのか。
一人が迷信と思っていた昔話を思い出し、震えた。
『クロス・リバーには魔女が住む』