20回ほど川に放り込み、7回ほど失神させるとすでに日が傾いていた。
体力には自信があるジョーンズだが、水中では体温が奪われるため、想像以上の体力を消耗する。加えて着衣での水泳は水の抵抗が増して思うように体が動かない事が多い。これだけの事をやられて生きているのはジョーンズだからこそであって、普通の人間なら間違いなく死ぬ。
それが判っているからこそ敢えてこんな無茶苦茶な特訓をやったのであるが、半分は冗談にしても半分は親切心である。
無論、ジョーンズにとってはそれこそよけいなお世話なのだが。
しかし特訓の甲斐あってか2、3メートル程度なら「移動」出来るようにはなった。とはいっても必死で手を動かしているので進みはするが、泳いでいるとは言えないのが実状である。
「明日から、バタ足の練習ね」
壁により掛かってへたり込んでいるジョーンズを見下ろし、イェナは言った。
したたかに水を飲み、吐き出させられ、溺れ、蘇生させられ、また水へと放り込まれたジョーンズの体は自分でもスポンジかと思うような頼りなさで四肢を支えている。
「おい、一つ言っていいか?」
「なぁに?」
ジョーンズはずっと疑問に思っていた事を口に出す。
「ふつう、泳ぎの初歩は、バタ足から始めるんじゃないのか?」
「そうね」
「何で俺はいきなり泳がされてるんだ」
「テストよテスト。それに泳いでないじゃない。犬かき以下だし」
それに犬はちゃんと浮くけど、とまではさすがに言わないでおく。
「犬かきとは何だ。犬かきとは。こっちは必死なんだぞ」
「だって深さ1メートルもないのよ?立って歩けるのよ?」
「ぐ、だから俺は水が苦手なんだって」
驚いた事に、これほどのでの体躯でありながら水の中では途端にバランスを失ってしまうのである。
水が苦手と言うよりは水に遊ばれているようにさえ見えるのだが、地に足がついていれば無類の怪力を発揮するこの男も、水中ではあまり役に立たなかった。
「そんな人間が泳ぐには、まず水に慣れるところから始めないとね」
「慣れる前に死ぬぞ」
「大丈夫、死にそうになったら人工呼吸してあげるから」
ジョーンズの顔が一瞬だけ明るくなったが、直後に激しい自己嫌悪に襲われる。
「その台詞を聞いてちょっと嬉しくなる自分がスゲェ悲しいよ」
「喜びは人の生きる糧よ」
イェナはシャツの袖を少し絞って水を切ると、階段を上って沿道へと歩いていく。
「帰るのか?」
「とりあえず部屋に行って着替えないと。ボリスの店に、濡れたまま行くわけにはいかないでしょう」
黒衣のイェナの姿はそのまま溶けるように夕闇に消えていった。
イェナの部屋は小さな雑居ビルの2階にある。部屋といってもイェナ以外に誰も住んでいないので、実質的には自宅だ。前の管理人が死去したあとイェナに譲られたのだが、部屋の管理をするのが面倒なので誰にも貸さずに独りで住んでいた。
通りからは離れているものの、武器を使ったトレーニングを行うには人通りが少ない方が好ましいし、あまり人に見られたいとも思わなかった。
つまり、自宅に人がいる可能性はないのだが。
薄暗い闇の中で、イェナには人影が見えた。
こちらの気配を察している様子はない。
ただの物好きか、それとも。
足音をたてず、静かに近寄る。
間合い。
イェナの部屋をちらちらとのぞいていた男はいきなり背後から右腕をねじり上げられ、壁に押しつけられた。
イェナは詰問しようとして、男の顔に思い当たる。
「ゲイルじゃない」
拍子抜けしたように、拘束を解いた。
ゲイルはイェナが用心棒をつとめる、彼らが言うところの「武装サラリーマン」の若手リーダーだ。
元々は、密輸を生業とする非合法組織だったが、イェナの助言と力添えで少なくとも表向きはまっとうな会社に変貌を遂げた。今の形態は、警備会社と輸入会社を兼ねたような経営でウォーターフロント運営の一角を担っている。
簡単に言えば港を貸し出す代わりによろず揉め事を引き受ける、管理運営の会社と思えばよい。そこで弁護士やら税理士やらの他にも荒事に強い人間を採用している。
イェナは法律などはさっぱりだが、争いごとの調停役としては重宝されているし、最古参であるので助言を求められる事も多々ある。
彼女が暗黒街に住んでいるのは、未だにその繋がりが切れていないせいもあるのだろう。
「あ、姐さんっ・・・・」
「こそこそと、どうしたの?」
「それが、その」
言い出しにくそうに、ゲイルは口ごもる。いつものような歯切れの良さはない。
何か、よからぬ事態。
直感的に悟る。
「悪い情報ほど速やかに報告しなさい」
「は、はい・・・・」
先ほどとはうってかわった冷たい響きにゲイルは身を震わせた。
イェナのもう一つの顔。
冷徹な、裁定者。
普段からは決して想像も出来ぬ、しかし街の誰もが知っている冷酷な素顔。
ゲイルはごくりとつばを飲み、呼吸を落ち着けてから震える声で告げた。
「ボスの、じゃない社長のお嬢様がさらわれまして」
「それで?」
「身代金の交渉相手に、なぜか姐さんを・・・・」
「アニタの身は安全なの?」
「2時間前に確認しました」
「またウォーターフロントの揉め事?」
「身代金、といっていますがおそらくは」
「明言はしていない訳ね」
「現金で200万ほど、という要求はありましたがそれだけで済むとは思えません」
「そこから先は応相談、という事ね」
それから少し口を閉じる。
何か考え込んでいるようだった。
「引き渡し場所は」
「港のすぐそばの河口に、奴らの船を止めるそうです。なぜ海の上での受け渡しでないのか理解に苦しみますが」
「襲ってくれと言わんばかりね。もちろん、受け渡しの前にやったらアニタの命はないでしょうけど」
「どうしますか?」
「どうするも何も、行かざるをえないでしょう」
小さくため息をついてから、建物の脇にある階段を上って行く。
「30分以内に現金と、それからダイビング用の機材をそろえなさい。支度をしたらすぐ行くわ」
ゲイルは頷き、すぐさま走り去った。
交渉役なら下手に武器を持つわけにもいかない。
さりとて丸腰というのも心許ない。
今日は「彼ら」の出番ね。
イェナは部屋のドアを開けると、すぐさま着替えにかかった。
正直な話、ゲイルはすぐにでも相手の船に乗り込んでやりたいところだったが、たとえ自分が行ったところで事態が好転する見込みがないと理解出来る程度には冷静だった。
だから、すべてはイェナに任せるしかない。
彼女なら何とか出来る。
不可能を可能に、という話ではない。
イェナには可能だ。理屈も根拠も抜きにした確信があった。おそらく、この街すべての人間がそう信じている。
決して認めたくはないが、彼女は人間ではないのだから。
ダイビングの機材、というものをどこで扱っているのかと考えたとき、この街ではダイビングの専門店などというものがない事に気づくのに、少々の時間を要した。
ダイビングを楽しむには、あまりにも水質が悪く、また見所もない。店を開いたところで沈没船を探すような人間以外は必要としないだろう。
だが、釣りのためのボートを貸す店なら持っているかもしれない。
ゲイルは通行人が慌てて避けるのもかまわず、スロットルを全開にして車を走らせた。
今の自分に出来る事は、30分以内にダイビングの機材をそろえる事だ。
たったそれだけだが、イェナが欲しているのだ。
いかなる代償であろうと遂行しなければならない。
イェナと、アニタのために。
ゲイルは額に浮かぶ汗を拳で拭い、さらにアクセルを踏み込んだ。
いつかは起こる事だった。
自分達は手を血に染めてきた以上、いつ命を失ってもおかしくはないし、覚悟は出来ていた。
それについて文句を言う気もない。
しかし、アニタはただの娘だ。
ごく普通に学校へ行き、友達もいて、ささやかな夢を持ち、日々を善く生きんとする、善良な市民だ。
父親が何をしようと、どんな運営であろうと、それは関係ないはずだ。
はずだった。
甘い認識だと言う事は判っている。
そんな論理は通用しない。
相手にとって、無防備かつ無力な娘は人質として笑えるほど簡単な人材だったに違いない。
そのための護衛であったのに。
帰宅時のほんの一瞬を衝かれ、アニタはさらわれた。護衛の二人は応戦したが一人は数発の弾丸を受けて行動不能、もう一人も肺を貫通する重傷だ。
俺がついていれば。
そう思うと悔しくてならなかった。
現実問題としては、ゲイルが護衛についていたとしてもどうにもならなかったかもしれない。だが己がその場に居合わせる事の出来なかった歯痒さ、後悔が重くのしかかってくる。
警戒にミスはなかったか、情報はきちんと行き届いていたか、反省材料はいくらあるとしても起こってしまった事は覆しようがない。
今となってはすべてが遅い。
事態は自分の手の届かない場所にある。
確実に免許手停止になる数々の違反を犯しつつもゲイルは目的の店へたどり着いた。店の前の駐車場までくると強引にハンドルを切り、ゲイルの運転するスポーツカーは車体半分をシャッターにめり込ませながら強引に停車した。
何事かと思って出てきた店主にゲイルは紙幣を丸く束ねた筒を放り投げる。
「ダイビングの機材、一式だ。2分待つから考えられるすべての機材を積んでくれ」
そんな無茶な、という店主の弱々しい声はゲイルの険しい視線の前に萎んでいった。
「あんたも手伝ってくれないと無理だ」
ようやくそれだけ言うと、店主は店の奥へと引っ込む。
ゲイルはジャケットを脱いで自分も店の奥へと歩いていった。