暗黒街の中心、用水路にも漁にも使われるクロス・リバーは場所によっては速度5ノットにも達する急な流れの河である。そういった場所になると艀を操るのだけでも一苦労だ。
しかし、流れの穏やかなところでは子供の腰ぐらいの深さしか無く、たかだか5キロの範囲でそれほどまでに深さと緩急の差があるのは途中で別の水路が合流するからだとも、沸き出す水のせいであるとも言われているが、実際の所はよく判っていない。
用水路として、生活用水としてあちこちに枝分かれした支流は子供達にとっては絶好の遊び場であり、イェナが今立っているのもそうした流れの一つだった。
幅は2メートル足らずで、深さもあまりない。
水門の開かれる時間帯さえ避ければ流れはほとんど停滞しているのも同然で、ちょっとした運動のあとに体を冷やすにはもってこいの場所だ。
流石にいつもの革のコートは身につけておらず、丈の短いズボンに長袖のシャツというラフな出で立ち。両手の五指には奇妙な文様の掘られた指輪がはまっており、水面の反射光を受けて断続的な輝きを放っている。
ボリスの店が開くにはまだ間があるし、特に部屋でやることもないので、子供達が水遊びするのを監督しながらこうして時間を潰しているというわけだ。
半裸で水と戯れる子供達を見ていると、自然と顔がほころぶ。その輝き、生命力は自分から失われて久しいものだ。限りある命だからこそ未来に価値を見いだせる。
ありきたりな答えだが、おりにつけそんな思いが沸き上がる。
だからこそ、彼らと、人間と共にいたいと思う
願う。
仮初めなのか、終生なのか判らないが、ここが自分の居場所だ。長い放浪の末やっと見つけた安住の地。楽園というにはほど遠いが、この特異な体の自分を受け入れてくれる街。それは「この地にいつまで自分が留まる事ができるのか」という不安と背中合わせの安息だが、冷たい雨に震える事も奇異の視線に晒される事もない。
人ならば、ごく当たり前に手に入れる事ができるはずの生活。
当たり前だからこそ、それを持たぬ人間の憧れは強い。
手に入れたいと願う物は決して遠くないのに、手に入れられぬ物がある。人の身では気の遠くなるような日々の中、幾千の夜を越え、数多の街を渡り歩き、それは彼女に与えられた。
自分が彼らに与えられるものは微少だが、彼らは彼ら自身が思う以上のものをイェナに分け与えてくれる。
輝き、力、波、色、形、目にも見えぬ何か。
年を重ねる事は出来ないが、人の理、人の世に流れる事は出来る。今日に身を置き、明日を夢見、昨日を懐かしむ、人の理に。
だが、彼女と共に歩む事が出来る人間はいない。
今こうして戯れる子供たちは時を経て大人になり、老い、そして死んでいく。イェナを置き去りにして。
それは自分が決して共に生きる事の出来ない、孤独な存在である事を再認識させられる。
それでも、私はこの街に留まりたいのだ。
それは甘えでも感傷でもなく、純粋な願いだった。
「イェナもおいでよー」
着衣のままの少女が濡れた手を振ってイェナを呼ぶ。
それが彼女を現実へと引き戻した。
「今いくわ」
桟橋に腰掛けて風に当たっていたイェナは沿道に出て川筋へ歩み寄った。
沿道から川へと下る小さな階段へ足を踏み出すと、見覚えのある人物が通りからやってくるところだった。
「おう、イェナじゃねぇか」
ジョーンズがイェナの姿を見るやいなや嬉しそうに寄ってくる。
それ自体は別に良いのだが、タンクトップ一杯に染みこんだ汗が異様な匂いを発している。汗が乾き、それがまた濡れて乾く、という行程を繰り返して発生させられる、すえた臭い。さらには、なにやらアルコール臭い。
「レディに近寄るなら、香水付けろとは言わないけれどせめて風呂ぐらい入ってきなさいよ」
「そんなに臭うか?今仕事あがったばかりだからなぁ」
ジョーンズはタンクトップをつまんで匂いをかぐ。
本人は慣れているので特別臭い、という認識はない。
「でもよ、この暑さだってのに麦200袋だぜ?汗かくなってのが無理だ」
普段は港で荷の積み下ろしの作業員として働くジョーンズは、その恵まれた膂力で人の3倍は仕事をこなすので重宝されていた。
当然稼ぎも人の倍以上なのだが、それらのほとんどは夜の賭場へと消えていくのである。
「下に河があるでしょ」
「俺が泳げないの知ってるだろ」
「深さも腰までしかないんだから溺れないわよ」
「無理言うなって。水そのものがダメなんだから」
「臭うから近寄らないで」
「そう言うなって。俺とお前の仲じゃないか」
「近寄るなって言ってるのに」
イェナはジョーンズの肩と腿に手を回すとそのまま担ぎ上げ、河に向けて放り投げた。
抵抗するまもなくジョーンズの四肢は宙を舞う。
派手な水しぶきと共に沈む。
水と戯れていた子供たちも、突然振ってきた人型物体が暴れるさまを見つめる。
「ああいう人が溺れてたら、どうするの?」
「見捨てる〜」
「はい、良くできました」
などと呑気な会話をしている間もジョーンズはどんどん沈んでいく。
「ギャアー!ホントに泳げないんだ助けごぶぁ〜」
「溺れたら人工呼吸してあげるから」
普段なら大喜びするはずのイェナの台詞にも、生きるか死ぬかの状況では耳に届くはずも無い。
息を吸い込んでじっとしていれば比重の関係で浮いていられるが、むやみに暴れれば必ず沈むのが人間である。
ジョーンズは見事それを実践し、浮いてこなかった。
「すごいわね」イェナは素直に感嘆した。「深さ1メートルで溺れられるなんて」
結局、水中で気絶しているジョーンズを引きずり出し、沿道まで運び上げて呼吸を回復させるという手間をイェナが一人でやった。
いくらか洗い流されたせいであのひどい臭いもましになっている。
水は大体吐き出させたが、まだ意識は回復していない。
ジョーンズの手に胸を当てて二度三度押してみると、自立呼吸が回復したのか咳き込む。
とりあえず良し、と。
しばらく咳き込んでいたジョーンズは、ようやく自分が岸に上がっている事を確認する。
にじんだ涙を親指で拭い、辺りを見回す。
自分のそばにいるのはイェナ一人だ。
「へっへっへっ」
いきなりニヤニヤと笑い出すジョーンズ。
「酸欠で脳がやられたかしら」
イェナの心配をよそに。ジョーンズは自分の唇に手をやってその感触を確かめる。
「人工呼吸、してくれたんだろ?ウヒヒヒヒヒ」
あんな状況でもしっかり聞こえていたらしい。
「なんて笑い方するの」イェナは顔をしかめた。「背中から足で踏んだだけよ」
「えーっ人工呼吸してくれるって言ったじゃねぇか」
「30にもなって、そんなことで駄々こねないの」
「俺、溺れ損かよ……………」
露骨に不満な顔をして、肩をがっくりと落とす。
「水場で働いているのだから、万一って時だってあるでしょう?泳ぎは覚えておいて損はないわよ」
「俺が溺れそうなときは真っ先に浮き輪を投げるように言ってあるから大丈夫だ」
「それは周りに人がいたときでしょう?そこまで泳げないとなると、どうやら特訓が必要ね」
「何だよ、何でそんなに俺に世話を焼くんだ」
「もちろん、暇つぶしのために決まってるでしょう。大の男が必死に泳ごうとする姿は感動するし楽しいわ」
ジョーンズの顔が青ざめたのは、何も体が冷えているからだけではあるまい。
「おまえ、結構性格悪いな」
「そう?それは今日一番の発見になるわよ」
にっこりと笑いながら、イェナはジョーンズをまた川に放り込んだ。