さて、ここに語るは異界の神話
闇の澱む街とそこに住む女神の物語
7つの下僕を携えて
夜の狭間を渡りゆく
栄光無き勝利
勝者無き闘争
営々と紡がれる血の系譜
さすればまだまだ宵の口
ゆるりと語りましょうぞ……………。
闇が澱む、と人は言う。
腐敗している、と蔑む。
複雑に入り組んだ路地と、昼間でも薄暗いその町並みは確かにそう呼ばれても致し方ないのかも知れない。
ただ、それが腐敗か否かを判断するのは無意味な議論だ。
日の当たる場所全てが美しいとは限るまい。
世界を見よ、というだろう。
光の当たる場所が正しかったことなどあるのか。
光の中で全てはさらけ出され、歩んできたのか、と。
全ては影の中で起こり、影の中で消えていったことではないのか。
光がもしこの世の主導権を握っているのだとすれば、それは単に闇よりも光が強かった、ただそれだけのことだ。
善や悪ではなく、ただ単に強かった、それだけのこと。
影の中にも光の中にも、強弱という流れ、リズム、響きは変わらず存在する。
この街でも力というシンプルな法律は健在だ。力有るものは必然的に富む。が、力無き者が虐げられているわけではない。力だけが全てではない。力の庇護の元、穏やかに生きる者もいる。
確かに理想郷ではない。だが、そこは澱んでいるわけでもない。
全ての力が悪ではないように。
強者の全てが悪とは定義されないように。
では、なんと言えばいいのか。
人々は口を揃え、皮肉混じりに、しかし誇らしげに、僅かな見栄と脅しとを絡ませて、こう言う。
暗黒街、と。
ボリスの店は、暗黒街の中でも一番薄暗い通りの一番奥にある。
決して高い建物が並んでいるわけではない。しかし、如何なる計算によるものなのか、通りには昼間でも一筋の光が差すのみだ。
また道を照らす照明らしきものもない。夜になれば、家々の僅かな光が微かに指標となるだけだ。
故に、季節に関わりなく薄ら寒い感じさえ漂う。
店より先にも道は続いているが、そこには2件の廃屋と、最後に葬儀屋のじいさんが居るだけだ。
そこから先には何もない。
次の街へと続く暗黒のように長い道が続くだけだ。
だから、このトミー・バイア通りに訪れる者の終着点はボリスの店になる。葬儀屋の世話になるのは余所者ぐらいで、棺桶を買う以外に訪れる人間は居ない。
人影こそ少ないが、それが途絶えることもないのがこの街の不思議なところだ。訪れる人影は大抵ボリスの店へ消えていき、去る人間もまたボリスの店から出ていく。
ボリスの店は築50年は経つ木造の古い店で、バーテン兼店主であるボリスが居る以外に従業員と呼べる人間は居ない。
おいてあるメニューも酒以外にはサンドイッチとホットドッグぐらいしかない。極端なレパートリーだが、酒の種類だけは街一番だ。
店内にはテーブルが5つにカウンターがあるぐらいでそう多人数が入れる店ではない。
赤い眼の黒猫のはめ込まれたドアが、ゆっくりと開いて閉じる。
空気が流れ込むように、一人の男が入って来ていた。
店には10人ほどの客が居たが、誰もそれを見ようとはしない。
無視と言うよりは興味がなかった。
微かに盗み見る人間の顔には、哀れみと、蔑みぐらいしか浮かんでいない。
男は足音も立てずにカウンターへと足を運んだ。
「女神殿、と御見受けする」
男は、カウンター前のスツールで静かにグラスを傾けている女に向けて話しかけた。
女にしてはかなり大柄で、しかし影に溶け込むような不思議な雰囲気を漂わせている。
身を包む黒いコートは革とも繊維とも違う不思議な光沢の素材で出来ており、それでいて照明の明かりが食われていくような奇妙な色合いをしていた。何より異様なのは、体中に付けられた鎖と枷だった。
革製と見られる衣服には、およそ10センチ感覚で同じ素材のベルトが無数につけられている。両手首に嵌められた枷は一際太く頑丈で、そこから延びた黒い鎖の先端は腰につけられた金属の鞘に消えていた。
じゃらり、と無数の金属が擦れる音と共に女神と呼ばれた女は振り向いた。
「そう。今日の相手は貴方なのね」
流れるような黒髪と血のように赤い瞳は禍々しいまでの輝きを放っているが、表情そのものは至って穏やかなのが女の印象を一層神秘的なものにしている。
女は立ち上がった。
「さて、それじゃ外でやりましょうか」
あらかじめ何もかもが判っていたように、女はドアへ向かって歩き出した。
男は無言で頷き、女の後に続く。
来たときと同じように、ドアは静かに開け放たれ、そして閉じた。
通りに人影はなかった。
店から数メートル離れた場所で、互いに向き合う。
幾らかの視線を感じるが、それは敵意ではなく好奇の物だ。不快ではない。当然、という感慨が女にはある。
見られるには馴れている。
「つまらない質問だけど、私のことを何処で?」
「……………………師より」
独特なイントネーションと、黄色人種の顔つき。腰に下がった反りのある剣。女は一つの結論にたどり着いた。
「サムライ、ね。そう言えば前に一人闘ったことがあるわ」
「こちらも一つ、訊ねたい」
「何なりと」
「是非、お名前をお聞かせ願いたい」
女の表情が曇った。
「名前は無いの。…………忘れてしまったわ」
なま暖かい風が吹く。
「でも、この街では『イェナ』。そう呼ばれているわ」
男はそれで十分、といった風に頷いた。
途端に空気が張りつめる。
戦いの空気。
闘争の気配。
イェナの右手が腰のベルトに伸びた。
吊されている鞘からイェナが引き抜いたのは、半ばから折れた黒刃の鉈だ。右手の枷から鉈までの鎖は膝の当たりで一度大きくたわむほどに長く、武器としてはかなり風変わりなものである。
刃物として斬り合うにはあまりに短い。
単純に考えればナイフ戦のような密着状態での近接格闘、そう言った状況に使われると考えるのが妥当だが、ナイフと違って刺突には向かない。だが、柄に付けられた鎖は投擲武器として使えることを臭わせる。
使い手の技量次第で如何様にも変わる物だけに、男にとっては厄介な代物と映るだろう。
だが気圧された感じは見受けられない。
「参る」
低く呟くように言い放ち、男も剣を引き抜いた。
反りの強い片刃の剣。カタナ、と呼ばれる東洋の剣だ。
刃に入った刃文は波打つように白く、地金の黒さとは対称的だ。故に、美しい。必要性と美術性を兼ねた合理の美、しかしその殺傷力は刀剣の中でも最高位に属する。
夜明かりの下、鈍く光る刃が冷え冷えとした殺気を伝えてきた。
切っ先で目元を隠すように構える。動作には無駄が無く、構えたカタナも微動だにしない。
イェナは強烈なプレッシャーを感じた。
声もなく、ただ鋼と気迫のみで織りなされる威圧。
刃だけがのし掛かってくるようにさえ感じる。
胸が鳴る。興奮している。熱くなる。
この男は。
一体、どれほどの鍛練を積んだのだろうか。
一体、何人の人間を切り伏せてきたのか。
一体、どれほどの血をこのカタナは吸ってきたのか。
それは恋愛にも似た、高鳴り。
自分が斬られるとしたら、一体何人目になるのだろうか。
どんな方法で斬るのか。
どう来る。どう攻める。
上か下か突くか斬るか薙ぎ払うか。
逡巡する。
そして自分はどう斬ろう。
首を狙うか。
腹を割くか。
足を抉るか。
腕を飛ばすか。
鎖で絡めて手で極めるのもいい。
剣を下げたまま、相手の間合いに足を踏み入れる。
突き。
速い。
が、読める。
成る程、この速さでは避けようにも避けられまい。反応、推測、それらを超越して刃は四肢を貫くだろう。超人的な修練は人間の身体能力限界の速度まで切っ先を加速させ、瞬きする間もなく到達するに違いない。
だが。
しかし。
されど。
虚無き、実のみの剣。
潔い剣だ。
実は、虚の前に敗れるが常。
目算では、イェナの心臓はそこにある。
だが、虚は実を映し出す。
イェナはそこにいない。
在るのは、そこにいるであろう、という気配、動きだけだ。
真の一流ならば相手の動きなど読まない。予知に近い判断力で相手の位置を察知し、太刀筋を合わせる。
だからこそ、通じる業もある。
気配のみをずらす。そちらへ動くと見せかけて、動かない。
裏の裏。
僅か左。
空いた脇を刃は突き抜ける。
引き抜く間を与えず、延びたカタナを脇に挟む
ひやりとした鋼の感覚が皮膚に伝わり、こそばゆい。こんな場で感じるものではないのかも知れないが。
折れるかな。
戯れに、そんなことを考える。
脇で挟み込んだまま、体をよじってみる。
てこの原理で剣を折ろうと試みる。
手応えは変わらない。丈夫な剣だ。
業物、ね。
それを扱うだけの技量もあるということだろう。
イェナによってカタナを封じられた男は驚きと恐怖に彩られていた。
女の細腕で挟まれているだけのカタナがびくともしない。押すことも引くことも出来ぬ。
一瞬の躊躇。
イェナが体を捌く。
男の体が流れ、崩れた。二人の距離が狭まる。
イェナが顎をひいた。
そのまま勢いを付けて頭突き。
男の鼻柱に額がめり込む。
もう一度頭をひく。黒い髪が舞った。
二度目の頭突き。
男はカタナから手を離した。
鼻から血が滲んでいるが、出血は多くない。以前にも潰されたことがあるのかも知れない。
「剣のみが戦いに非ず、よ」
「確かに」
拳で鼻血を拭い、男は徒手で構える。
イェナは脇に挟んだカタナを掴み、男の足下に放る。
さくり、と地に突き刺さり、それは折れた三日月のように街灯の光を鈍く反射した。
男はそれを取ろうとしない。
「取らないのかしら」
「柄を掴めばお前の剣が飛ぶ」
男が一歩だけ進んだ。
もう一歩。
イェナが剣を投げる。
男の足がカタナを蹴る。
鋭く回転しながら、それはイェナの首元へと飛んだ。
素早く右手を引き、間に張られた鎖で防ぐ。
ぎん、と火花を散らしカタナが宙を舞った。
男も飛んでいる。
空中でカタナを掴み、イェナの頭上へ振り下ろす。
落下の速度が加わった斬撃は、必殺の勢いで迫る。
イェナが顔を庇うように右手を引いた。
たかが鎖一本。
技量次第では鉄兜すら両断する斬撃。
そのまま振り下ろされる。
しかし、カタナはイェナの頭を割らない。
男が空中で大きく姿勢をずらしている。
その背にめり込むはイェナの剣。
投げた剣は、イェナによって引き戻され、巧みに操作されて男を背中から狙った。右手を引いたのは頭を守るためではなく剣を操作するための動作だった。
如何に達人といえども空中で動きを変えるような真似は出来ない。ましてや背後からの攻撃など読めるはずもなかった。
向かいの壁面に当たり、男は血の筋を引いてずり落ちる。
手を離れたカタナが無機質な音をたてて転がった。
見た限り、致命傷とはほど遠い。左の肩甲骨を背後から割ったが、右は生きている。戦う気があるなら、続けられるだろう。勝利はだいぶ遠のいたけれども。
それでも痛みと自由の利かない四肢を力の限り動員して立ち上がったのは流石だ。
「続ける?」
男は首を振った。
「拙者の負けでござる」
「そう」
さしたる興味もなく、イェナは剣を収めた。
「止めが欲しい?」
男はもう一度首を振った。
「またいずれ、お手合わせ願いたい」
「いい選択だわ」
イェナはコートのポケットから名刺を取り出すと、男に渡した。
ガリ版のような印刷で、病院の住所が記されている。
「私の紹介と言えば、多少は安くしてくれるわよ。腕はこの街では一番」
男も答えることなく背を向け、壁により掛かりながら去っていく。
言葉通り、傷が癒え、修練を積み、いずれまた彼女の前に姿を現すだろう。あの程度の怪我ならば、簡単に直すような医者だ。
その姿が遠のき、見えなくなったのを確認してからイェナは踵を返す。
そして何事もなかったかのように、再び酒場のドアを開けた。
誰も、イェナに目を向けない。当たり前の結果だからだ。
床を踏みながら、カウンターへ向かう。
視界は鮮明だ。
以前は紫煙の立ちこめる場所だったが、イェナが実力で「禁煙」にした。
今では、煙草の火を点ける人間は一人もいない。たまに余所者が吸おうとするが、5秒以内に袋叩きにされる。
イェナはカウンターのグラスを見た。
空になっている。
店を出るときにはまだ半分以上残っていたはずだ。
「ジョーンズ」
叱るような口調でイェナはグラスの横にいる男に言った。
口許には立派なヒゲを蓄えていたが、頭は綺麗に剃られていて、それが妙にアンバランスな印象を与えた。
男の肩幅は広く、シャツの下から覗く筋肉は筋の形が浮き上がるほど鍛えられている。二の腕はにんにくをつなぎ合わせたような形をしていて、その太さは異様とも言えるほどだ。
その体格からしても、人並み外れた膂力を伺わせる。
天から与えられた資質と、いくつかの必要性が産んだ肉体。
故に、ジョーンズは「剛腕」の二つ名で呼ばれる。敬意ではなく、単なる事実として。
「間接キス、頂いといたぜ」
厳つい顔が歪む。
本人はにやりと笑ったつもりなのだろうが、傍目から見るとスケベ笑いにしか見えない。
「子供じゃあるまいし」イェナはため息をつき、ふと思い出したかのように視線をジョーンズの頭に移す。「なぁに?その頭は」
「ボリスの店で賭けポーカーやってたら、持ち金に2ドル足らなかったんで頭剃って許して貰ったんだ」
とはいえ、口調には屈辱を受けたようなそぶりはない。
いつものことであるし、頭を剃る以外にも裸で走り回るなど様々な罰をやらされていた事があるのをイェナは知っている。
知っているので驚きはしないが、毎度の事ながら反省のない男だと内心呆れる。
「賭けなんてやめなさい。人間、地道に働くのが一番よ」
バーテンのボリスが替えのグラスを持ってくる。
ジョーンズが勝手に口を付けるのを止めようとはしなかったのか、止めるだけ無駄だと思ったのか。
同じ銘柄のウイスキーが大きめの氷と共に同じ分量だけ注がれている。
無口な男だが芸は細かい。
もう片方の手には並々注がれたビールジョッキがある。
こちらはジョーンズのもののようだ。
「そういうお前はどうなんだ」横目でそれを受け取りながらイェナに聞き返す。
「私?」イェナも新しく注がれたグラスに手を伸ばし、弄ぶ。「私はきちんと働いているわよ。この店の用心棒にマフィアの助っ人、土曜日はアンの託児所で子供の面倒」
「託児所?」
荒事を生業としている女の口からは想像もつかないような場所だ。ジョーンズが意外、という顔つきなのも無理はない。
「子供は好きよ」半ば懐かしむかのような微笑で答える。
「くそっ」ジョーンズは本気で悔しがる。「俺があと30若かったら………」
「託児所で大人しくしているような子じゃなかったと思ったわ」
「それを言うなよ……………」萎えた表情でカウンターに突っ伏す。「一人前の男に、ガキの頃の話を聞かされると気分が滅入ってくる」
「産湯に使ったときのことから最初の彼女まで、この街の子供で知らないことはないわね」
「年がばれるぞ」
「私の時は止まっているもの」揶揄する言葉にも動じない。
「どう見ても、まだ20代なんだがなぁ」
「肉体的にはそれくらいね。中身は立派なおばあさん」
「不思議だよなぁ。俺が子供の時からずっとそのまんまだからなぁ」
イェナは年を取らない。
街の誰もが、彼女に老いの影を読みとったことがない。
それが如何なる御業によるものか、それとも体質によるか、彼女自身が語ることはない。もしかすると、彼女自身も知らないのかもしれない。
「でもこれが現実だから」
「そりゃそうだ。イェナはイェナだからな」
「褒められている気がしないわ」
「まぁ実際、生きている世界が違うってのは感じるぜ」
「そう?この街にはもうだいぶ長いけど、普通に食事して普通に寝て、普通に話しているわよ」
「確かにそうなんだけどな」ジョーンズはビールジョッキをあおりながら言葉を続ける。「オヤジの浮気をお袋にばらして大喧嘩になったこととか、今でも思い出すぜ。で、イェナはお袋の味方。俺もお袋の味方だった。オヤジは半ベソで謝っていたけどな。記憶の中のお袋も親父も若いままで俺にとっちゃ過去だの話だが、イェナにとっては一瞬前の出来事だろ」
イェナが一体いつからこの街にいるのかは知らない。
確実に、100年は前だということは判っている。ジョーンズの父親も、祖父も、イェナのことを知っていた。
ジョーンズ自身もイェナに面倒を見て貰ったことがあるし、その幼い記憶は錆び付くことなく脳裏に刻まれている。
何より、記憶の中のイェナは今と寸分違わない。
黒装束に長い髪。真紅の瞳。
身辺を取り巻く血の匂い。人間。生命。それと畏怖。崇拝。敬意。愛情。
30年以上も変わらない。
少なくとも、ジョーンズの知る限りは。
「そんなこと無いわ。私だってちゃんと年をとったな、って感じるわよ。変わらないのは見た目だけ」
「うーん。そうなんだけどなぁ」
やはり納得できないものがある。
時間の流れはイェナの周りだけで止まっている。少なくとも外見において、それは錯覚ではなく事実だ。
人の寿命を遙かに超えて生き続ける女。
噂話なら一笑に付すところだが、それが身近にいるとなると信じざるを得ない。
信じようと信じまいと事実なのだ。曲げようがない。
「それに、レディに年のことを言うのは失礼よ。そんなだから30過ぎても彼女が出来ないのよ」
「馬鹿だなぁ。俺が好きなのは君だけさ」
妙に熱っぽく流し目のウインクをしてみるが、何の効果もない。眉一つ動かない。
むしろ、注がれる視線は哀れみに近い。
「ごめんなさい、私スキンヘッドで髭って言うのは好みじゃないの」
「即答するなよ」
「貴方、10年くらい前にもそんなこと言ったわ」
ちっちっ、と指を振って訂正する。
「11年前だぜ」
「口説き方に進歩がないわね」
その台詞を聞いてジョーンズは大げさに肩を落とし、天井を仰いで嘆く。
いつもの如く連れない返事だ。
「明日にでも入籍して良いぐらい惚れてるのになぁ」
「結婚はもう7回もしたから当分いいわ」
爆弾発言にジョーンズは飛び上がる。
生まれたときからの付き合いであるからもう30年以上も顔を合わせているわけだが、イェナが既婚だったというのは知らなかった。
「そりゃ初耳だ」
「だって話してないもの」
「で、その果報者たちは今どこに」
「全員死んだわ。一番最後がもう50年くらい前だから」
「俺、生命保険に入ってないけど…………」
「誰も貴方みたいなゴロツキの生命保険なんてあてにしないわ。……………それより後ろの方々、お客さんじゃないの?」
振り向くと、見覚えのある男が二人立っている。
先ほど、賭けでジョーンズから全財産を巻き上げた男達だ。
負けた腹いせならともかく、勝っているのに何故か雰囲気が険悪だ。
「なんだ。掛け金は全額払ったし、足りない分は頭剃って許して貰ったはずだぞ」
「掛け金じゃねぇ。お前が帰った後も賭けは続いていたんだけどな………………」男はカウンターに輪ゴムで止めたカードの束を放る。「ジョーンズ、これは何の真似だ?」
「何だ、言いがかりはやめろよ」
カードには目もくれず、ジョーンズは男二人を睨む。
それだけでも気の弱い人間なら失禁しそうな顔だ。
立ち上がれば身長はイェナよりも高い。2メートル近くはあるだろう。
ちょうど二人を見下ろすような位置関係になる。
「あら?」
カードを改めていたイェナが不審な点に気付く。
「スペードの5が2枚有るわ…………ハートのキングも」
ジョーンズの背中を冷たい汗が流れる。
「ヤベェ。隠し忘れた」
「やっぱりお前かっ!」
「な、別にいいじゃんか、ちゃんと掛け金は払ってるし、負けてるのも俺だけだし。な?」
男たちは食い下がらない。
「勝ち負けとかそう言う問題じゃねぇ。男の勝負にイカサマを持ち出すその根性が気にいらねぇ」
二人はそれぞれトンファーと何か詰め物をした麻袋を手にジョーンズににじり寄る。
「覚悟しろ、イカサマハゲ」
「このヒモ野郎、シュレッダーにかけて山羊に食わしてやる」
「なんだと?」
ジョーンズの顔が紅潮する。
だらりと下げた拳が構えもとらずに二度、炸裂する。
一発は腹に。もう一発は別の男の顎に。
腹への一撃を受けた男は文字通り飛び上がってからうずくまり、顎への一撃を受けた男はカウンターから2メートルも離れたテーブルへと吹き飛ばされた。
プロボクサーに匹敵するほどの拳速。
フリッカー・ジャブのような打ち方だが、ジョーンズのそれはより近接した状態から腰の捻りだけで打つ我流のものだ。
そんな打ち方ならば威力も当然半減、といいたいところだが、この体躯、この体重、この膂力である。
半減したところでただの人間には十分過ぎる威力だ。
コンマ1秒で、二人の戦闘力が削がれる。
「俺はハゲじゃなくて、剃っただけだろうが!しかもヒモじゃねぇ!」
憤慨しながら男達に背を向ける。
「イェナも何とか言ってやってくれよ…………ごぶっ!」
完全に油断しているところへ同意を求めたはずのイェナにアッパーカットを食らい、そのままもんどり打って倒れる。
「何を逆ギレしてるの。大人げない」
白目をむいて昏倒するジョーンズへと注がれるイェナの眼は冷ややかだ。
「女性に経済的負担を強いるのをヒモの定義とするならば、貴方のツケを私が持っているのだから貴方は立派なヒモよ。しかも、イカサマしたのは事実じゃないの」
イェナはジョーンズの胸ぐらを掴み、片手で引き起こす。
100キロはありそうな男の体を引き上げるのだから、イェナもまた並外れた膂力の持ち主という他はない。
女とは思えぬ怪力だが、イェナはただの女ではない。
普通の女よりは確実に太い腕をしているが、しかし鍛えられた男と比べればまだ細い。それでいて、イェナの腕力はジョーンズのそれに匹敵、あるいは凌駕している。
それはこの街の誰もが知っている当たり前の事実だ。
「はい」
そのまま、男達に引き渡す。
二人にはいまいち事情が飲み込めていない。
数秒を要した後、イェナが自分たちの味方をしてくれたという現実を理解する。
「社会復帰可能な程度の袋叩きで勘弁してあげといて」
「はぁ………………それじゃ、お言葉に甘えて」
二人の男はジョーンズの腕を抱えると何処へともなく引きずっていく。
殺されはしないだろう。せいぜい二三発殴られて、あと裸に剥かれるぐらいで済む。
良い薬になるに違いない。
その姿を見送った後、イェナはため息をついてまたスツールへ腰掛ける。
スピーカーから流れてくるのは、名も知らないバラード。
遠い異国の歌姫が、船乗りの恋人を待ち焦がれる歌。
その甘い歌声に耳を傾けながら、氷が半分溶けたウイスキーを楽しむ。
自分には待ち焦がれるものなど何もない。
此処には全てがある。
待つものが無いというのは一抹の寂しさも伴うものではあったが、それは贅沢というものだ。
アルコールに馴れた体は酩酊するほどの酔いを運んでは来ないが、それでも血の巡りと心の巡りを良くするぐらいの作用はある。
長い一日の終わりに想いを馳せながら、イェナはもう一度、グラスを煽った。
EPISODE1.END
→GO,EPISODE2[GHOST RIVER]