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『新約聖書』はギリシャ語で書かれています。厳密には「コイネー・ギリシャ語」と呼ばれ、当時のローマ帝国では都市ローマを含む帝国西半分ではラテン語が公用語でしたが、東半分の地中海沿岸ではこのコイネー・ギリシャ語が共通語となっていました。『旧約聖書』がユダヤ人の言語のヘブライ語であるのに対し、『新約聖書』が当時のヘレニズムの共通語のギリシャ語で書かれていたということは、読者ターゲットがユダヤ人にとどまらず、属州を含むローマ帝国の広い範囲に住む人々であったことが分かります。ちなみに、新約時代のユダヤでは、ヘブライ語はすでに祭典用言語となっており、日常会話はアラム語でなされていました。さらには、ローマ帝国内に幅広くユダヤ人は分布しており、彼らは「ディアスポラ(離散)」と呼ばれていましたが、その多くはギリシャ語を日常語にしていたようです。「手紙」の中の「パウロの○○人への手紙」とあるのも、その地域に居住するユダヤ人あてと見られます。
『新約聖書』はやはり複数の書物の集大成ですが、それぞれの書物の著者はほぼ特定されています。それは、次の通りです。
マタイ(マテオ)――
福音書 ――十二使徒 取税人
マルコ―――――――福音書――また弟子
ルカ――――――――福音書、使徒行伝―パウロの弟子、医者
ヨハネ―――――――福音書、手紙、黙示録――十二使徒
パウロ――――――――手紙――準十二使徒
ヤコブ(小ヤコブ)――手紙――十二使徒
ぺテロ――――――――手紙――十二使徒
ユダ(小ユダ)――――手紙――十二使徒
なお、上記の著者のような当時のユダヤ人の名前は、現在の英語圏でもごく一般的な名前として使われています。例えば、「マタイ→マシュー」「マルコ→マーク」「ルカ→ルーク」「ヨハネ→ジョン」「パウロ→ポール」「ペテロ→ピーター」などです。英語圏では、聖書の中の登場人物も上記のように呼びます。例えば、「ペテロ」はアメリカでは「ピーター」なのです。ちなみに、イタリアでは「ペテロ」は「ピエトロ」(バチカンの「サンピエトロ寺院」は「聖ペテロ寺院」の意)、「ヨハネ」は「ジョバンニ」です。昔、「ピーター・ポール&マリー」というミュージック・グループがありましたが、聖書風にいうと「ペテロ、パウロ、そしてマリア」となります。
「新約聖書」の構成は、次の通りです。
福音書
マタイ マルコ ルカ → (共観福音書)
ヨハネ
記録 使徒行伝
(以上、「歴史書」)
手紙
パウロ(ローマ人へ、コリント人へ、ガラテヤ人へ、エペソ人へ、ピリピ人へ、コロサイ人へ、テサロニケ人へ、テモテへ、テトスへ、ピレモンへ、ヘブライ人へ)
ヤコブ ペテロ ヨハネ ユダ
(以上、「教訓書」)
黙示録 ヨハネの黙示録
(以上、「預言書」)
「新約聖書」の中でも「福音書」と呼ばれる各書物は、イエス・キリストの伝記と宣教の様子を伝えるものです。「福音」とは「いい知らせ(good news)」という意味で、英語では「The Gospel」といいます。「マタイ」「マルコ」「ルカ」の三つの福音書は同じ観点から書かれているので、特にまとめて「共観福音書」といわれています。その特徴や書かれた年代は、次の通りです。
| 著者 | 内容の特徴 | 書かれた年代 |
|---|---|---|
| マタイ | ユダヤ人向き | AD70〜80 |
| マルコ | 最古、ユダヤ人以外向き | AD60〜70 |
| ルカ | ローマ人向き | AD70頃 |
| ヨハネ | エッセネの系統、哲学的 | ADlOO頃 |
ご覧になってお分かり頂けるように、いずれもイエス・キリストの昇天後30年以上もたってから書かれたものです。イエス自身が書き残したものは一切伝わっていませんし、福音書の著者の中には実際のイエス・キリストには会ったことがない人もいるくらいです。この点、仏教の経典や孔子の『論語』と同じといえるでしょう。
さて、福音書に記されたイエスの記録は一人の人が自分の記憶をたぐって書いたというよりも、もとになる資料があってそれを編纂したもののようです。現在考えられている成立過程は、まず「原マルコ」と呼ばれる資料があり、それをもととして「マルコによる福音書」が書かれました。次に、現存しない「Q」という資料があり、「原マルコ」と「Q」に「原マタイ」というマタイ独自の資料を合わせて「マタイによる福音書」が生まれました。「原マタイ」資料は、どうもアラム語で書かれていたようです。そして、同じく「原マルコ」と「Q」に「原ルカ」というルカの独自の資料を合わせて書かれたのが「ルカによる福音書」です。最後に使徒ヨハネが持つ「原ヨハネ」資料と上記の三つの共観福音書を合わせてできたのが「ヨハネによる福音書」ということになります。以上を図で示しますと、次のようになります。

では、共観福音書の内容がいかに同じ観点で書かれているか、同じ場面を描いている部分を比較して見てみましょう。(以下の引用に登場するヨハネは「洗者ヨハネ(バプティスマのヨハネ)」といって、上記の福音書の著者の「使徒ヨハネ」とは別人)
マルコ1−7〜8(口語訳)
彼は宣べ伝えて言った。「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でパブテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」(日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 マルコによる福音書1章7節〜8節)
マタイ3−11〜12(同上)
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにパブテスマを授けている。しかしわたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにパブテスマをお授けになるであろう。また箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう。(日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 マタイによる福音書3章11節〜12節)
ルカ3−16〜17(同上)
そこでヨハネはみんなの者にむかって言った。「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けているが、わたしよりも力のあるかたがおいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにパプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」(日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 ルカによる福音書3章16節〜17節)
当時のイスラエル地方は北のガリラヤと、南のユダヤ地方に分かれていました(厳密にはサマリアなど、もっと多くの地方があった)。イエス誕生当時はイエスの故郷のガリラヤやサマリア、東ヨルダンを含むユダヤ全土をヘロデ王が統治していましたが、この王はユダヤ人ではありましたが政権自体はローマの傀儡政権で、ユダヤはローマの同盟国と位置づけられていました。しかし、実質上は服属国で、ユダヤはローマ帝国の間接的支配下に置かれていたのです。そのヘロデ王が紀元前4年に死ぬと、領土は三人の王子に分割され、ヘロデ・アルケラオスがエルサレムのあるユダヤやサマリアを含む部分、ヘロデ・アンティパスがガリラヤを統治することになりました。しかし彼らは王と名乗ることはローマ帝国より許されず、それぞれ「分封指導者(テトラルコス)」「民族指導者(エトナルコス)」の称号をもらったにすぎませんでした。そのヘロデ・アルケラオスは父ヘロデに輪をかけた暴君ぶりでついにローマ帝国によって追放され、エルサレム周辺のユダヤはローマの属州となり、ローマより知事(プレフェクト)が派遣されて統治することになり、イエスの成人後の福音宣教時代はガリラヤはヘロデ・アンティパスの統治下、エルサレムのあるユダヤはローマ知事(カエサリアに常駐)の統治下で、当時の知事はポンティウス・ピラトゥス(日本語の聖書では「ポンショ・ピラト」と訳されています)でした。なお、イエス昇天後の西暦44年にガリラヤを含めユダヤ全土がローマ帝国の属州となってから、知事は「総督(プロクラートル)」と呼ばれるようになるのです。また、ユダヤ人の自治組織として、特に神殿での宗教面での権威であり、サドカイ派の祭司を中心とする最高法院(サンヘドリン)がありました。
当時のユダヤ教にはいくつかの宗派がありましたが、これは日本の仏教でいうような宗派ではなく、グループということです。まず、神殿に仕える祭司たちのサドカイ派、律法学者を中心とするパリサイ派などがあり、また禁欲生活を重視するエッセネ派もありました。上記の引用に出てきた洗者ヨハネ(イエスの又従兄弟)やイエスの家族もエッセネ派であったようです。エッセネ派に関する記載は聖書にはありませんが、その存在は認められています。ほかに、これは宗教上の宗派ではありませんが、「熱心党(ゼーロタイ)」と呼ばれる人々もいました。この人々はユダヤがローマ帝国の支配下に置かれていることをいさぎよしとはせず、民族の独立と自決を主張する一種の過激派でした。
ちなみに、現代のキリスト教の宗派ですが、大きく分けるとカトリックとプロテスタントということになります。しかしこれは、「カトリック」という大きな宗派と「プロテスタント」という大きな宗派の、二つの宗派があるということではありません。まず、ローマ法王を中心とする「カトリック」という宗派があります。「カトリック」とは「普遍」という意味です。そして、カトリックに属さない(つまり、バチカンのローマ法王とつながりのない)たくさんの諸派があります。それらのカトリックではない多くの諸派をまとめて、総称を「プロテスタント」というのです。「プロテスタント」とは「抵抗する人」の意で、そこには数多くのいろいろな宗派があります。なお、日本ではカトリックに属するいろいろな修道会も、行政上は独立した宗教法人として登記されています。
《誕生》
イエスの父は大工の父ヨセフで、母はマリアでした。(両親ともにエッセネ派の信徒であったらしいことは、現代の超能力者のエドガー・ケーシー(1877〜1998・米。20世紀最大の預言者といわれていた)のリーディングによります。ちなみに、マタイとルカの福音書ではマリアは処女懐胎したとなっており、今でも教会ではこの事実が信じられています。
マタイ1−18(現代訳)
イエス・キリストの誕生にまつわる出来事について記そう。母マリアはすでにヨセフと結婚していたが、当時のユダヤでは、それから約一年たって婚宴があるまでは同棲できなかった。これは、その間に起った出来事である。マリアが妊娠したということは、誰の目にも明らかになってきた。しかしその実、マリアは聖霊によって妊娠したのであった。
イエスが生まれたことは、近くの羊飼いたちがいち早く察したと「ルカ伝」の福音書には述べられています。このとき、羊飼いたちは天使の歌を聞いたとされており、その歌の内容「天のいと高き所には神に栄光(ラテン語:Gloria in excelsis Deo)」は、今でもカトリック教会で歌い継がれています。しかし、もしイエスが本当に12月に生まれたのなら、この時期はイスラエルでは雨季で羊の放牧はしておらず、羊飼いが野に出ているはずはないのです。こういうところからも、イエスの誕生が12月ではあり得ないことが分かります。また、「マタイ伝」では羊飼いの話の代わりに「東方の三博士」が星に導かれて礼拝に来たとなっています。この三博士は、どうやらゾロアスター教徒ではないかといわれています。ちなみに、「マルコ伝」と「ヨハネ伝」にはクリスマスの話はなく、いきなり大人のイエスが登場します。
さらに「マタイ伝」では東方三博士の話の続きとして、ヘロデ王の迫害から逃れるためのイエスの家族のエジプトへの逃避行が描かれています。この逃避先がエジプトというのは重大な意味があるようで、当時のエジプトはやはりローマ帝国の属州に匹敵する皇帝私領でした。ところがそのエジプトは、「宝瓶宮福音書」によると、彼ら家族の属するエッセネ派と関連が深い白色大同胞団の発祥の地なのです。(「宝瓶宮福音書」については後述)。
《「イエス」の名》
日本語では一般的に「イエス・キリスト」といわれ、カトリック教会では「イエズス」となっています。英語ではご存知の通り「Jesus Christ」ですし、中国語では「耶蘇・基督(イェースー・チートゥー)」です。日本で昔、キリスト教を「ヤソ教」とか言ったのは、この中国語の「耶蘇」をそのまま日本語読みにしたからなのです。さて、原語ではどうでしょう。まず、誤解してほしくないのは、
「イエス・キリスト」は姓名ではありません。つまり「キリスト」さんちの「イエス」君ではないのです。当時のユダヤでは、姓はありませんでした。従って「キリスト」は称号であって、姓ではありません。イエス在世中は、「ガリラヤのイエス」とか、「大工ヨセフの子のイエス」とか呼ばれていたはずです。
さて、イエスの名は、原語ではどうでしょうか。上述のように福音書はギリシャ語で記されており、英語の「Jesus」や日本語の「イエス」も、ギリシャ語記載の彼の名「Iesoys(イェースース)」に由来しています。しかし、アラム語をしゃべっていたイエスが、ギリシャ語のこの名を名乗っていたとは考えられません(イエスほどの人なら、ギリシャ語は堪能だったかもしれませんが)。そこで、ユダヤ人としての名前はというと、それは「ヨシュア」です。正確には「YeHooSHuAaa(イェホーシューアー)」ですが、この名は「旧約聖書」に「ヨシュア記」というのがあるくらいで、ユダヤ人の名としては実にポピュラーな名なのです。それがギリシャ語に入って、「イェースース」となりました。イギリス人の「ジョン」がドイツでは「ヨハン」、イタリアでは「ジョバンニ」となるのと同じです。日本人の「山田さん」が、中国では「シャンティェン」と呼ばれるのと同じと考えてもいいでしょう。ちなみに、言霊からいきますと、
イエスの名は「イスズ」となり、伊勢神宮の五十鈴川のイスズです。この点からも、イエスは「主(ス)」の霊統であることが分かります。
また、「キリスト」ですが、ユダヤでは救世主のことを「MaaSHaH(マーシャハ・油を注ぐ)」から派生させて「MaaSHiYHa(マーシヤ)(油を注がれたもの)」といいますが、この言葉が「メシア」となりました。これがギリシャ語に入ったとき、音訳せずに意訳して、ギリシャ語の「油を注ぐ」の意の「Krio」を派生させて「油を注がれたもの」の意となる「kristos」を救世主の意としたのです。「キリスト」という呼称は、ここに由来します。ちなみに「Christmas」を「Xmas」とも書くのは、ギリシャ語では「Kristos」の最初の英語の「K」に当たる「キー」という文字が、英語の「]」に似ているからかもしれません。
《イエスの兄弟》
「マルコ伝」6−3によると、イエスにはヨセ、ヤコブ、ユダ、シモンという弟がいたことになっています。しかし、母マリアの「終世童貞(一生処女であった)」を信じるカトリック教会ではこれを否定し、「従兄弟などを兄弟と表現したのだろう」とこじつけています。
《私生活(空白時代)》
福音書では「ルカ伝」にイエスの13歳でのエルサレム詣での記事があるほかは、30歳前後と思われる時期に福音宣教を始めるまでの間についての記載は一切ありません。つまりこの時期は、イエスの私生活の時代と考えられ、その生涯を綴る上では空白時代となっているのです。カトリックでは、この時期のイエスは「養父」であるヨセフに従順に従い、その生業である大工の仕事にいそしんでいたということになっています。しかし、わずか13歳でエルサレムの神殿にて大人の祭司相手に堂々とわたりあった神童が、その後ずっと郷里でおとなしくしていたとはちょっと考えられません。ましてや、おとなしくしていたはずの彼が30歳ごろになって降って湧いたように突然福音宣教に立ち上がるというのはどう考えても不自然です。その空白を埋める資料として、のちに説明する『宝瓶宮福音書』や『竹内文献』およびエドガー・ケーシーのリーディングなどがあります。それらによると、この時期のイエスはインド、チベット、中国、日本、ペルシャ、エジプトなどを歴訪して修行したということになっています。
すでにソロモン王の時代からユダヤとインドは交易を始めており、イエスの当時のインドには多くのユダヤ人がいたようです。また、ローマ皇帝の着ていた服は中国産のシルクで、漢の都の長安からローマまで、そのシルクを運んでいたのもユダヤ人の隊商でした。つまり、シルクロードの上には多くのユダヤ人が行き来しており、長安にはユダヤ人街さえあったと伝えられています。漢の記録にも、ローマ帝国は「大秦国」という名で登場します(この「大秦国」は実はローマではなく、ユダヤのことだという学者もいます)。つまり、1世紀当時の世界は今から想像する以上にずっとグローバルでインターナショナルだった訳で、そんなシルクロードを行き来するユダヤの隊商に青年イエスが加わって中国に来たとしても何ら不思議ではなく、ちょっとひと足延ばせば日本なのですから、イエスの来日説も決して荒唐無稽な話ではないと思います。
《公生活(福音宣教時代)》
30歳前後に達したイエスは忽然と福音書にその姿を再び現しますが、まずは又従兄弟である洗者ヨハネのもとを訪れ、洗礼を受けています。ヨハネもやはりエッセネの流れを汲んでいるようで、その教団にイエスは幹部として迎え入れられたと思われます。しかし、ヨハネがヘロデ・アンティパスににらまれて死刑になったあと、イエスは荒野でサタンの誘惑を受けたりしていますが、ヨハネ教団の幹部だった人々と故郷のガリラヤに帰って福音宣教に立ち上がりました。イエスは教団を形成しませんでしたが、十二使徒という特別の弟子を選定し、彼らと行動をともにしていました。イエスは神の光で人々の悪霊を追い出し、病気を癒して苦しむ人々を救い、説法という形で教えを説きました。また、その奇跡の業を十二使徒にも伝授し、「悪霊を追い出し、病人を癒し、神の国を述べ伝えなさい」と使徒たちを人々の間に派遣しています。その十二使徒とは、ぺテロ、その兄のアンドレ、ゼベダイの子のヤコブ、その兄弟のヨハネ、ナタナエル、ピリポ(以上ヨハネ教団の旧幹部)、熱心党(ゼーロタイ)のシモン、収税人のマタイ、トマス、イスカリオテのユダ、小ヤコブ(イエスの実弟)、小ユダ(イエスの実弟)の12人です。イエスの奇跡の業は、時には言霊によるものであり、また最初は神道でいう初の座に当たる按手の法(真手の業)でしたが、後に手を離してかざす奥の座に変わっています。なお、イエスが起こした奇跡を「後世の作り話」だとか、「心因性の病気の精神的療法をしただけだ」というような説もありますが、そのような唯物的なものの見方は神秘体験のひとつも経験したことのない人の無知から出た意見で、神の光による奇跡の実在を知っており、自らも体験したことのある人ならば、イエスの奇跡は自ずからス直に受け入れられるはずです。
やがてイエスは、十二使徒だけを引きつれて、エルサレムへと上京します。そこでイエスを待っていたのは、既成宗教の権威であるパリサイ派の律法学者やサドカイ派の祭司で、彼らはことごとくイエスを敵視して対立してきました。彼らは自分たちの宗門護持には実に熱心で、まじめであればあるだけ、また聖職者としてのプライドもあって、イエスのような素人が神の国を説くのが許せなかったようです。そこで、イエスの教えに群がる集団を危険な新興宗教と決めつけ、弾圧しようとしました。そしてついにイエスは指名手配され、過越しの祭りの直前にイエスはとうとう逮捕されます。この時に、イエス逮捕の軍勢を手引きしたのが十二使徒の中の一人の、イスカリオテのユダでした。
逮捕される直前にイエスは使徒たちと最後の晩餐を行い、パンとぶどう酒を聖別してそれらを自分の血と肉として食するようにと言い渡しました。これが現在でもカトリックのミサとして残っており、ミサの中ではこのときのイエスの言葉が繰り返し唱えられます。すなわち、パンを取っての「みんな、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である」という言葉と、ぶどう酒の杯を取っての「みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなた方と多くの人のために流されて罪の許しとなる、新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」という言葉です。この「渡される」や「流される」は、「あなた方のために『敵の手に』渡される(『敵の手によって』流される)」という意味だと拝察します。そして、それをイエスの体や血として食し、また飲むことによって、イエスの教えを頭の中で理解するだけでなく日常の生活の中で実践に移し、自らの血と肉にせよということではないでしょうか。
その最後の晩餐で、イエスは次のように使徒たちに言い残しました。
ヨハネ14章〜16章(抜粋)(口語訳)
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。(中略)あなたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。(中略)父のみもとから来る真理の御霊(みたま)が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。(中略)わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。(日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 ヨハネによる福音書14章15節〜17節、24節〜26節、15章26節、16章12節〜13節)
最初、イエスはエルサレムの神殿を冒涜したという宗教犯として、ユダヤ人の最高法院の裁きによって石打ちの刑になるところでした。ところが、最高法院には死刑の判決権は与えられておらず、イエスを死刑にするためにはローマから派遣された知事のポンティウス・ピラトゥスに伺いを立てなければなりませんでした。ところがピラトゥスは、イエスが救世主と自称したという証言を聞き、これは宗教犯ではなくローマに反逆する政治犯であると断定しました。当時の人々の意識の中にある救世主像は、ローマの支配から祖国を救って独立させる存在だったからです。そこでイエスは、十字架にかけられることになりました。十字架は反ローマの政治犯のための見せしめの刑罰で、ピラトゥスが知事になってからエルサレム郊外に十字架が立てられない日はなかったといわれるくらいで、あるときは街道沿いにおびただしい数の十字架が並んだともいわれています。十字架刑は鞭打ちされた後、十字架の横木を自ら背負って刑場まで運び、そこにすでに立てられている縦木に釘で打ち付けられるものです。こうしてイエスは、刑場の露と消えました。
しかし、イエスが葬られて三日後、墓に収めていた遺体がなくなったことや、使徒たちのもとにイエスが出現したことなどからイエスは復活したとされました。
では最後に、聖書に収録されなかった「外典・偽典」や信仰の書である福音書以外の資料に登場する歴史上の人物としてのイエス像を見ていきましょう。
○ヨセフス『ユダヤ古代誌』第18巻(AD90頃)
ユダヤ人の歴史家ヨセフス(AD7?〜100頃)が著したユダヤの歴史書。
さてそのころ、イエスという人物において、そのほかの災難の種が生じた。彼は人を驚かすようなことを行なった賢人、奇妙なことを喜んで受け入れる者たちの教師であった。彼は多くのユダヤ人を誘い出し、異邦人の多くの者をも誘い出した。彼はキリストと呼ばれた。ビラトゥスがわれわれの中の長たちから提供された情報に基づいて行動し、彼に十字架刑の判決をした時、最初彼に従った者たちは、災難を起こすことをやめなかった。そしてキリスト教――彼らは彼にちなんでこの名を持っている――の仲間は今日も消滅してはいない。
○トマスによるイエスの幼時物語 第2章
2世紀に成立した、幼児イエスに関する後代の逸話を収録たもの。イエスが5歳から12歳までを綴る。
この少年イエスが五歳の時であった。雨が降って流れの浅瀬で遊んでいた折、流れる水を穴に集め、即座に清くしてしまった。しかも言葉で命じただけであった。 また柔らかい粘土をこね、それで十二羽の雀を形作った。これを作ったのは安息日の時のことであった。そしてほかのたくさんの子供達が一緒に遊んだ。 するとあるユダヤ人が、イエスが安息日に遊びながらしたことを見て、すぐに行って彼の父ヨセフに告げた。「ごらんなさい。あなたの子供は小川のほとりにいて、十二羽の鳥を作り、安息日を汚した」。そこでヨセフはその場所に来てそれを見、大声をあげて言った.「なぜ安息日にしてはならないことをする」。するとイエスは手を打って、その雀に叫んで言った。「行け」。そうすると雀は羽を広げ、鳴きながら飛んで行ってしまった。
○宝瓶宮福音書
アメリカのサイプルズ・オブ・クライスト教会の牧師リバイ・ドーリング(1844〜1911)が、霊気の命ずるままに書き著した現代の福音書。
チベットのラサにひとりの教師の寺院があった。多数の古典の写本がそこに収められてあった。インドの聖者(ビヂャパチ)は既にこれらの写本を読んでいたから、その内容となっている多くの秘密の教訓をイエスに打ち明けていた。しかしイエスは自分でこれを読みたいと望んだ。
さて、聖賢の第一人者、メングステがこのチベットの寺院に居た。
エモタス高原を横断する道はけわしかったが、イエスは旅路につき、ビヂャパチは信頼する一人の道案内をこれにつけてやった。またビヂャパチはメングステに手紙を書いて、ヘブライ聖者を紹介し、彼が寺院の僧侶に歓迎されるように頼んでおいた。
数日の後、いくたぴかの非常な危険を冒して、道案内とイエスはやっとチベットのラサ寺院に到着した。メングステは寺院の門戸を広く開き、僧侶や教師たちはこぞってヘブライ聖者を迎えた。
イエスは聖典の写本を親しく手にとり、メングステに助けられて全部これを読んだ。そしてメングステは時々イエスと将来のことや、その時代の人々にもっともふさわしい礼拝式などについて語り合った。
○エドガー・ケーシーのリーディング
エドガー・ケーシー(1877〜1945・米)は、20世紀最大の預言者。
イエスは13歳から16歳まで、最初はインド、次にペルシャ、エジプトで学んだ(5749-2)
○竹内文献
竹内宿禰の子孫の竹内家に伝わる古文書で、第8代孝元天皇の孫の
イスキリスクリスマスフクノカミハチノヘタロテンクウカムイロヒトヘノコシブミナンヂガカラダノモトアマグニノコトバニテフミスアマグニシバツツキタツミヒニアヂチクニナンヂガタミノタメニオホキナルワザワヒニアフナンヂガタミヲスクフタメニオトトイスキリナンヂガイスズキリスノミガハリニタチテモソヂアマリミトセユダヤクニカルバリノオカニハリツケスシ ナンヂイスキリスミソヂアマリナナトセシバツツキタツイヒイミカエリテウマレイデテタツアラワレタル
(「イスキリス・クリスマス、福の神、八戸太郎天空神、五色人へ遺し文。汝が体の元、天国の言葉にて文す。天国12月3日にアヂチ国、汝が民のために大きなる禍に遭ふ。汝が民を救ふために、弟イスキリ汝がイスズ・キリスの身代り立ちて、33歳、ユダヤ国カルバリオの丘にはりつけす、死。汝イスキリス、37歳12月5日、蘇りて生まれ出でて立つ、現れわたる)
○偉大なるセツの第二の教え
「新約外典」のひとつで、1945年にエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書に含まれる。
アドナイオスは希望ゆえに私(キリスト)を知っており、そして私は獅子たちの口の中にあったが、また彼らが私をめぐって、自分たちの過ちと無分別を帳消しにするために立てた計画も、私は彼らが立案した通りに彼らに服従することもなかった。だからといって、結局私は苦しめられたりはしなかった。そこにいた人々は、私を処刑した。そして私は見せかけ上は死んだが、実際には死ななかった。それは彼らが私と同じ民族であるゆえに、彼らから辱しめを受けたということにならないようにするためで、彼らの手によって私に起こされたと表向きにはそう見えたことによって私は気弱にはならなかった。私は耐え切れないような恐怖を味わったし、彼らが自分たちについて語るいかなる言葉も発せられなくなるように、彼らの姿とその考え方を恐れた。私の死、それは彼らがそう思っていただけなのだが、それは彼らの過ちと盲目ゆえに起こったことで、すなわち彼らが自分たちに属する男を釘付けにして死に至らしめたからである。彼らの思考は私を理解しなかったし、彼らは耳も聞こえず目も見えない人々であった。しかし、このようなことを行いながらも、彼らは自分自身を非難する。確かに彼らは私を見て、私を処刑した。しかしそれは別の人、つまり苦い汁と酢を飲んだのは彼らの父で、私ではなかった。彼らは葦で私を打ったが、それは別の人、つまり十字架を肩に担いだシモンであった。私は彼らが棘の冠をかぶせたのとは別のものである。しかし私は副神のすべての富と、その過ちによる子孫の遥か上にいて歓喜に満ちており、彼らの無知を笑っていた。
そして私は、彼らのすべての力を支配した。私は降臨するに当たって形を変え、次から次へと姿を変えていったので、誰も私をそれだと分からなかった。彼らの門に至った時、私は彼らと同じような姿をしていた。私は彼らを静かに通らせ、私は場所を見出し、私は清らかなるゆえに恐れも恥じらいもなかった。そして私は彼らと話し、私の側の人々を介して彼らと交わり、熱意を持って彼らに厳しくする人々を踏みにじり、そして炎を消した。そして私はこれらすべてのことを、天の御父のご意志による発願を成就せしめんと願ったために行ったのであった。
○コーラン 婦人15
彼ら(ユダヤ人)は真理を拒み、マリアについても大変なたわごとを言った。そればかりか「我われはメシヤ、アラーの使徒、マリアの子イエスを殺したぞ」などと言う。しかし彼らはイエスを殺したのではない.十字架につけたのでもない。彼らにはそのように見えただけのことである。イエスについて意見を異にしている人々は、イエスについてイエスが本当の十字架にかけれられて殺されたのだかどうだか疑問を持っている。彼らはたしかな知識をもたず、ただ臆測に従っているだけである。いや、断じてイエスを殺したりはしなかった。
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