| ★互いに愛し合いなさい |
| ★在りて有るもの |
| ★神来電鈴雑感 |
| ★祈り |
| ★Laghing Christ |
| ★宗教は元ひとつ |
| ★天国と地獄 |
| ★人生の目的 |
| ★「義」とは |
| ★「お金」とは |
| ★幸せになる10の法則 |

互いに愛しあいなさい――ヨハネ、15・12――これがキリストの示して下さった、新しい掟である。
私も教育の現場の末席を汚す人間として、言い古されたことではあるが、教育は愛だと思っている。しかし、キリストの示して下さった愛とは、どのようなものであろうか。
愛とひとことで言っても、新約聖書の原語のギリシャ語では、二通りの愛がある。ひとつはエロースとかフィレオーとか呼ばれるもの。エロースは男女間の情愛、フィレオーは家族や友人間の愛情や友情のことである。
しかし、神の愛となるとアガペーという別の語で厳とタテ別けされている。
アガペーを邦訳するにあたり、先人達は並々ならぬ苦労をしたという。かつての宣教師は「御大切」と訳した。神様から御覧になれば、神の子である人は最高芸術品、まさに神宝であり、「御大切」なものであった訳である。
そして私は、エロースやフィレオーーが「小愛」であるのに対し、アガペーを「神大愛」と呼びたい。キリストはその「神大愛」でもって、互いに愛しあえという掟を下さったのである。
それは、「善人の上にも悪人の上にも等しく雨を降らせて下さる」ところの全肯定である。
まず、すべてを肯定し、すべてを受け入れる。そこに大愛がはじまる。たとえどんな罪の状況にあろうとも、神に許され、生かされている。つまり、肯定されている。その神の愛を感じた時、その愛をすべての隣人に分かち与えてなぜ惜しいことがあろうか。
「〜しなさい」「〜というふうになってほしい」という自己の価値基準を他人におしつけるのは、愛ではなくて裁きである。「裁いてはならない」と福音書にもあるように、人が人を裁くのは神に対する越権行為なのである。
かつて加山雄三さんが「子供の視線で話をし、その目で世界を見る」と言っておられたが、まずすべてを肯定し、いいも悪いも含めて丸ごと愛することが神大愛ではないだろうか。そういう幼な子の心のようにス直になることが、神大愛なのではないだろうか。
「幼な子のようにならなければ、天の国には入れない」とキリストが言われるのも、このあたりのことかも知れない。
ただし、大愛には厳しさも必要だ。それは仏教の「慈悲」に通じるものがあるだろう。「大慈観(マハー・カルナー)」と「大悲観(マハー・マイトゥリー)」とを十字に組んだ時に神大愛が現ずると、私は信じている。
その「大慈観」は「大千三千世界の大調和」であり「甘露の法雨」であるが、「大悲観」は「天馳せめぐる法則の真力」であり「悲体の戒ともなりぬれば雷のごとし」と観音経にもあるように、厳しいものなのである。
「神様があるとは神様があるということだ。神様がないとは神様があるなしの議論に関わらず――『私の心は……』ということだ」
天才詩人中原中也は、昭和2年6月の日記にこう記している。然り、名言である。私にとって神様は信じるかどうかという次元を越え、厳として存在しておられるお方である。信仰という語の「信」は存在を信じるのではなく存在を信頼すること、さらに突っ込んで「神様に信じてもらえる人になること」だと思う。
「出エジプト記」によれば、モーセが神様の御名を尋ねた時、「私は『在りて有るもの』である」というお答えがあったという(4−14)。この「在りて有るもの」という言葉には種々の解釈があるが、私は「厳として実在する有力者」と考える。私が信仰する神様は、観念の神ではなく実在神なのだ。
目に見えないから神様はないとするなら、目に見えないから空気はないというのと同じ論法である。科学的でないから迷信だとする考え方は、ひっくりかえせば神様や霊魂をも証明できない科学は幼稚な低次元科学ということになろう。超一流科学者、たとえばアインシュタインや湯川博士などは、それぞれ「宇宙意志」「ある絶対的なもの」と言葉こそ違え、神に到達しているのである。現代の科学者でも、ある国立大学の応用生物化学研究の第一人者の名誉教授の科学者も、「サムシング・グレート」という名で神を呼んでいる。また、欧米では「心霊科学」という科学分野も確立し、旧ソ連などでは国有予算まで投入していたという。その点、日本は約百年遅れているといえよう。神の科学の前では、人間の科学は眉毛一本、ケシの種一つ作り出せない幼稚なものである。人間がたとえロボットを作ったとしても、それは神から拝借したものを加工したにすぎず、人間には「無」からの創造はできない。ましてや、人間が作ったロボットは、神が創造されたものと違って繁茂繁栄生成化育することは決してないのだ。そんな幼稚な科学をもって「科学万能」とうぬぼれているのはまさしく「科学迷信」であって、幼児に剃刀を持たせているようなものである。
ところが世人は言う。「あるんだったら、証拠を見せろ」と。実はキリストも至る所で、この「証拠を見せろ責め」に遭っている。キリストは言った。「よこしまな者たちは証拠を欲しがる (マタイ12−39)」。しかし彼は証拠を示した。多くの病人を癒した。しかも医薬によってではなく、神の業として奇蹟の癒しを行ったのである。そのような病気の癒しを売りものにするのは低次元な御利益信仰かというと、そうではない。あくまで肉体の川上であるところの霊的救いの、そのための方便であったのだ。
それでも信じない人々がいた。パリサイ派の律法学者たちだ。キリストも彼らをずいぶん批難しているが、彼らはそんなにけしからん連中だったのだろうか。
彼らは正統ユダヤ教を自称していた。この正統がくせものなのだが、その彼らは数千年前のモーセの律法を、何よりも順守していた。しかし、神様の御経綸は数千年の間に日々進展し、モーセの律法にも人知の尾ビレがついて形式化し、また形骸化していたのである。そこヘキリストは一石を投じた。モーセの原点へ元還りせよ、と。だが、彼らの聖職者としてのプライドからすれば、キリストの教えは素人のたわごとにすぎなかったのだろうし、彼らの伝統と権威の前にはキリスト教団は新興宗教以外の何ものでもなかったに違いない。
キリストは決して、一宗教を打ち建てようとしたのではなく、「在りて有る」神様に命じられるままに教えを伝えただけだ。それが律法学者には神への冒涜と見えた。伝統と権威は、真理の前には時にはつまづくものである。正統と称する人が好んで使う「異端」という言葉は偏見の所産だ。
今こそキリストの原点に還り、「厳としてお在します有力光」の神様へ、宗教という垣根を超えて元還りする時だと私は思っている。
吹きすさぶ木枯しとは裏腹に、なんとなく心が暖まる季節。それがクリスマスである。そしてクリスマスといえば思い出すのが、「放藩息子のたとえ」(ルカ15−11)である。一見、クリスマスとは関係なさそうだが、私にとっては密接な関係がある。
「放蕩息子」とは、財産を分けてもらった息子が親を捨てて放蕩を重ね、一文なしになる。そして回心して戻ったところ、親は寛大にも許してくれる……そんな話である。そして私がかつて、放蕩息子だったのだ。
カトリックの幼児洗礼を受けた私であったが、小学生になると「なぜ教会へ行かねばならないのか」と、そんな思いが頭をもたげた。ほかの友達は日曜日は野球をして遊んでいる。そんな友達をよそ目に、なぜ自分だけ強制的に教会へつれて行かれなきやならないんだ。冗談じゃない!
中学へ入った頃から、その不満と反抗は表面にあらわれた。自分の意志とは全く関係なしにカトリックヘ入れた親へ反抗し、私は教会へ行かなくなった。自分が信者であることも、全く意識しなかった。
その後一時無神論者になった私も、運命だけは信じた。その運命というものを神と名づけてもいいのではと、感じはじめた。ところが私の足の向いたのは神社であり、仏教の寺で、そこで釈尊の教えの原点を求めた。大学では日本神道を学んだ。
そして気がついた。結局は同じじゃないかと。仏教であろうとキリスト教であろうとその大本は同一、「真理の峰はただひとつ」なんだと。
そんな時、大学の学祭である友人と出会った。彼は私に厳として実在する生きておられる神について語ってくれた。大学で聖書研究会に入った私は、そのまま教会へも戻った。
10年ぶりに告解(司祭に罪を告白して、回心すること)をしたのが、ちょうどクリスマスの頃。
「神さまは喜んでおられます。安心しなさい。」その神父さまのことばを通して、神さまは私という放蕩息子を許して下さった。
そして10年ぶりに教会で迎えたクリスマス……ジングルベルは神来電鈴と書ける。神さまが来るベル。そう思う時、やはりクリスマスは、サンタクロウスのお祭りではないのだと実感する。
あれからもう何度目のクリスマスになるだろう。クリスマスのたびに、私は放蕩息子へ与えられた許しを思うのだ。そして私に許しの言葉を下さった神父さまは、今はもう天国にいる。
祈りとは神との「意」の「乗り合わせ」、それが「意乗り(祈り)」で、神との波調合わせである。神にいろいろとお願い事をするのが「意乗り」だと勘違いしている人がいるが、人間が神様に「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」などと祈っているのよりも神様の方にももっと切実な「人間に対する祈り」がある。つまり、人に神の子として神のご意志を地上で成就してもらいたいということだが、そちらの方はちっともお聞き申し上げないで人間ご都合主義の勝手な祈りばかりしていても聞きいれてもらえるものではない。それでいて祈ったことが成就しないと「神も仏もあるもんけえ」では本末転倒で、何をかいわんやである。
もっとも神はすべての人類に幸せになってもらいたいという御本願をお持ちだから、「幸せになりたい」と祈るのは悪いことではない。幸せ者のみの世と化するのは、人間の神に対する第一責任なのである。神様からご覧になってもっともな祈りなら祈ってもかまわないし、神もある程度はお聞き届け下さる。しかし、祈りをお聞き下さるにしても「神様にもご都合がおありになる」ということを、しっかりと認識しておく必要がある。
そこでまず祈りの第一は「お詫び」と「感謝」である。これまで神に親不幸のしっぱなし、神のご意志にそむく生き方をしてきた我われ人類なのだから、一度くらいは神の御前に両手をついて頭を下げ、罪を詫びることが大切である。そして、それにもかかわらず、この世に生を受けることをお許し下さり、あまつさえ一切の物をお与え頂き、今日もこうして生かさせて頂いている神の御愛情に対する「感謝」の思いが何より大切だ。人間は「生きている」のではなく「生かされている」のであり、今一回呼吸ができたことも神に許されてさせて頂けたのである。ましてや人間の体は神様の最高の科学を駆使して創られた最高の芸術品であり、その中には神の子として神様の御分魂まで頂いている。そして空の鳥、野に咲く花、太陽と雨、その他自然の一切を我われ人類のために神はお創り下さり、至れり尽くせりの微に入り細に入りの細やかなお仕組みを賜っている。これで感謝もできず、不平不満を言っているようでは人間は嘘だと思う。
そして、「お詫び」と「感謝」を前提とした上で、はじめて個人的な祈りに入る訳だが、神といちばん波調の合うのは利他愛の祈りである。自分の救われ、自分の幸福は後回しにして、見返りを求めずに他人のために祈る心が神に通じ、その者は祈らずとても自然と幸せになっていくというのが神の世界である。他人のため、ひいては全人類のために祈っているつもりでも、カケラでも自分の利益になることや打算が入ったら、もう神様はそっぽを向かれてしまう。神は利他愛に終始され、大調和がその本質なのだから、祈る方も利他愛に徹し、調和に徹していないと祈りは通じないというのは厳とした宇宙の法則である。
そして、神様は天地創造の時にはギュッとご思念を凝集されたわけで、そのまねをするのも祈りのコツである。だから祈るときは、神様にギュッと思念を凝集せねばならず、チャランポランな祈りでは通じないのである。『源氏物語』の中に加持祈祷の僧の描写で、「頭から湯気が出るくらい」真剣に祈っていたとある、あれである。
イエス・キリストの顔というと、誰もが知っているというだろう。確かに、イエス像というのはいくらでもある。そしてそれらのイエス像はいずれも仏頂面をしていて、イエスのイメージを尋ねられて「笑わない人」と答えた人もいる。確かに福音書にもイエスが笑う場面はなく、「笑い」に関して出てくるのは人々がイエスをあざ笑うシーンだけである。
ところが、当然のことイエスの本当の顔を見たことがある人は今のこの世にはいるはずもなく、我われが目にするイエス像というのは、だいたいが中世になって描かれたものである。すなわち、本物のイエスの顔を見たことがある人が描いた絵は一枚もないのだ。それらの暗い、仏頂面のイエス像の数々は、中世キリスト教の体質を象徴しているのかもしれない。ローマの教会などは、どこも暗くて陰気だ。
ところが、本物のイエスはどんな顔の人だったのだろうか。もちろん、すべて想像の域を出ないし、顔つきに至っては想像すら困難である。だが、ひとつだけ想像できるのは、彼がいつもにこやかで笑いが絶えない明るい人だったはずだということである。「世の光」になれと説く人が暗い顔をしていて、誰が信じようか。明るさは人の光、人生の宝である。神への感謝があふれ出ていたら、自然と顔は明るくなって笑みがこぼれるものである。
私の部屋に、「Laghing Christ」という大笑いしているイエスの顔の絵がはってあるが(このサイトの、トップページの右上参照)、私はこれが本当のイエスの顔だと信じている。
余談になるが、たいていの人はイエスの顔を思い浮かべる時、西洋人(白人)の顔を思い浮かべるだろう。絵画も西洋人が描いたのだから西洋人の顔だし、アメリカ映画で聖書を扱ったものでは、アメリカ人俳優がイエス役をやっているので当然西洋人だ。そういったものの影響もあろうが、「イエスはユダヤ人で、現代のイスラエルにいるユダヤ人は西洋人の顔だから、イエスも西洋人の顔だろう」と考えている人が多いようだ。しかし、イエスの当時のユダヤ人は、白人ではない。地域的にもあの周辺のアラブ人と近い人種のはずだ。現在のイスラエルにいる白人系のユダヤ人はアシュケナジー・ユダヤ人といい、カスピ海の近くにあったかザールという国の王から国民までユダヤ教に改宗したその子孫だともいわれている。イエスは当然のこと、現代のイスラエルのでいうところのスファラディー・ユダヤ人に属していたはずで、それは現代のイスラエルの人口の40%を占めている。つまりイエスは白人ではなく、アラブ人に近い顔をしていたのだ。
さらにもうひとつ。イエスが人々に話した教えの内容は、どのようなものであったのだろうか。「そんなこと、福音書に全部書いてあるではないか」と思われる方も多いだろう。それは、全くその通りなのである。ところが、昨今の教会の教義はわかりにくい。ましてや「キリスト教哲学」などとなると、一般の信者にはもうお手上げである。そもそも、キリスト教哲学なるものを、誰が残したのだろうか? ひとつだけいえることは、イエス・キリストはそのような「キリスト教哲学」などは説いていないということだ。つまり、そのような「キリスト教哲学」は、後世の人が人知で作り上げたものなのである。考えてみてほしい。イエスが教えを述べた相手は、当時の無学な一般大衆である。そんな大衆を相手に、難解な「キリスト教哲学」や「キリスト教神学」などをイエスが語ったはずがない。もしそうなら、誰がそれを理解してイエスについていったであろうか。真理とは本来は分かりやすいものなのである。真理のようで真理ではないものほど、人知でこねくり回して尾びれをつけ、訳の分からないものになっている。哲学は観念の所産であり、人知であり、哲学で決して人は救えないのである。人が救えるのは観念ではない実在の神のミチのみで、イエスが説いたのはその神のミチである。
私がローマに行ったとき、ある教会を見学した。観光コースにもなっていない小さな教会で、それでも十分に古い教会であった。その教会に所属する日本人の司祭が案内してくれたのだが、日本でなら重要文化財クラスで博物館に展示されているであろうような「日本でのキリシタン殉教図」が廊下の隅に無造作に放置されているのには驚いた。そして、さらに驚いたのは、巨大な天使像であった。中世のころの作品といわれるその天使像の何に驚いたのかというと、天使が人を踏みつけているのである。そして、一体の天使像が踏みつけているのはプロテスタントの牧師で、もう一体の天使像が踏みつけているのはなんと日本の仏教の僧侶なのであった。しかもその僧侶の手には一冊の本が握られており、その表紙にはローマ字で「KAMI」「HOTOKE」と書かれてあった。「これが仕方なく中世カトリックの体質で、今のカトリックはこの体質からいかに抜け出すかが課題なんですよ」と、案内の日本人司祭は言った。
カトリックの教義にも神社仏閣に参拝したら罪なるとはなっているものの、確かに今のカトリックは昔のような中世のひと頃のような排他的なものではなくなり、かなり寛容になってきていると思う。日本のカトリック教会では日本の風土に合わせるために七五三では千歳飴を配り、正月には祭壇上に鏡餅を備え、結婚式では誓いの杯をかわし(ただし、中はぶどう酒である)、葬式では焼香も行われる。8月15日のミサは本来は「聖母マリアの被昇天」のミサだが、お盆ということもあって死者のための祈りも捧げられる。そもそもが「カトリック」という語は「普遍」という意味で、かつてはカトリック教会のことを「公教会」というふうにもいった。しかし、本当の意味の「普遍」の前では、今のカトリック教会はまだ度が足りないと思う。
イエスはそもそもユダヤ人として生まれ、そのことは自動的に民族宗教であるユダヤ教の教徒であったことを意味する。民族宗教とは本人の意思による入信儀礼などなく、その民族に生まれたら自動的にその教徒になるという宗教である。だがイエスは、まじめなユダヤ教徒ではなかった。家族自体がユダヤ教の中では「異端」とされていたエッセネの信者であったようだし、イエス自身も一度はエッセネ派に属すると思われるヨハネ教団に身を投じて幹部になってる。イエスの福音宣教はいわばヨハネ教団からの分派独立であったが、ヨハネ自身それを認めていたらしいことは福音書からも見て取れる(ヨハネ3-25〜30)。そしてイエスの教えはユダヤ教と決別し、世界宗教としてあらゆる民族に広まっていったのである。
そもそもイエスは福音書の記載を信じるならダビデ王の子孫で、つまりは王族の末裔であり、自身は大工の子であって、宗教に関してはずぶの素人であった。つまり、祭司や律法学者、レビ人などの家系の出ではないのである。だからイエスの教えは、祭司や律法学者など当時の既成宗教のプロから見れば「素人のたわごと」であり、「異端」に属する「危険な新興宗教」だったのである。だが、イエスが説いたのは、祭司たちが信奉するのが「アブラハムの神、イサクの神、イスラエルの神」であったのに対し、もっと根源的な全世界全人類の共通の造り主であらせられる神だったのである。
イエスの生まれる500年前にはインドで仏教が興っており、約500年後にはイスラム教が興っている。しかし、イスラム教を奉ずるアラブ民族はユダヤ人の祖アブラハムの長男イスマエルの子孫であってユダヤ人とは兄弟民族であり、イスラム教が信奉する「アッラーの神」はユダヤ教の「ヤハエの神」とは同一異名の神であることは『コーラン』を見てもすぐに分かる。
現代では日本だけでも18万以上の宗教法人が登記されている。では、それぞれが信奉している神がいることになるが、中には同一神を信仰対象にしている団体も多いにせよ、中でも信仰対象が「天地創造の神」となっている場合、こんなにも多くの「天地創造の神」がいるものだろうか? では、彼らの論理でいう「自分たちの神だけが本物で、あとは偽者の神」とするなら、こんなにもたくさんの偽者の神がいようものかと思う。「自分たちの信じる教えのみ正しくて、あとは邪教、もしくは異端」とするなら、これこそ「宗教迷信」というものである。例えば、富士山も山梨県側から見た富士山もあれば静岡県側から見た富士山もある。また、神奈川県の方から臨む富士山もある。しかし、どれも同じ富士山である。ところがそれを、「自分たちの目で見る富士の姿こそが本物で、あとは偽者だ」と主張したらどうだろうか? 天地創造の神は、もちろんおひと方である。現在の全世界の星の数のごとくある宗教の大部分は、同じ神様の異名をそれぞれ信仰対象にしているにすぎないと思われる。「真理の峰はただ一つ」なのである。仏教もキリスト教もイスラム教も登り口を異にするのみで、同じ峰を目指しているのである。「地球は元ひとつ、世界は元ひとつ、人類は元ひとつ、万教の元又ひとつ」である。そもそも、神界・神霊界に宗教はなく、厳とした神の置き手(掟)、すなわち法則があるのみである。人間が人知で考えた宗教があるのは現界、この世だけである。しかもその宗教が、どれだけ生きた救われの場になっているだろうか? 心の救われならあるかもしれないが、それだけなら単なる「慰め」で、本当の霊の救われ、魂の救われがなければ本当の意味での「救い」ではないのである。そこで21聖(世)紀の宗教は、万教の大元を説く万教帰一の教えでなくてはならず、それを崇盟五道という(五道とは仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教)。今の教会がパリサイ派やサドカイ派にならないよう、祈る次第である。もし、今の教会内部にイエス・キリストが再び現れたら、教会は再び彼を十字架につけてしまうだろう……などということを言われないようにしたいものである。
これはけっこう有名な話なので、聞いたことがおありの方もおられると思う。実際の天国と地獄を見聞してきたというような体験談ではなく、あくまでも寓話である。
白髭の神様に案内されて、天国と地獄を探訪した人がいた。まず連れていかれたのが地獄だった。そこでは多くの罪人が業火に焼かれ、苦しんでいた。ところが、地獄にも食事の時間があって大きな円いテーブルに人々は先を争ってついた。だが、そのテーブルとは大きなドーナツ状のテーブルで、ドーナツの穴の中央の小さなテーブルにいかにもおいしそうなご馳走が山と積まれている。地獄でもこんなご馳走が出るのかと思ったが、テーブルについた人々は皆やせ細って今にも飢え死にしそうな様子である。しかも、ドーナツ状のテーブルとドーナツの中心のテーブルとの間にはかなりの距離があり、その間には深い穴が空いていた。やがて人々に、長いスプーンが渡された。スプーン自体は中央のテーブルに十分に届く長さであったが、それでご馳走をくすっても、自分の口元まで手繰り寄せるまでの間に食べ物は深い穴の中に落ちてしまう。それでも人々は何とか長いスプーンで食べ物を救って自分の口元に手繰り寄せようとするが、結局は無駄な努力であった。そうして、誰もが食べ物を一口も口にできないうちに、食事の時間は終わってしまった。
次に、天国に案内された。天国でも食事の時間だった。ところがなんと、天国の食事のテーブルも地獄と全く同じでドーナツ状であり、遠く離れた中央のテーブルにご馳走が盛られている。そしてその間は、やはり深い穴となっている。だが、人々はみんなまるまる太って、満足そうな顔をしているのだ。やがて、地獄と同じように長いスプーンが人々に手渡された。しかし地獄と違うのは、人々はそのスプーンですくった食べ物を自分の口元に手繰り寄せようとはせず、左右にスライドさせてスプーンの先に所にいる人に食べさせる、つまりお互いが食べさせ合っているのであった。食べ物は、ひとつも穴に落ちることはなかった。「これが天国です」と、案内の神様は言われた。
以上でこの寓話は終わりだが、人が死んでから行く「後の世」は、天国と地獄などというような二元的なものではない。カトリックではこれに煉獄というのを付け加えているが、実相はもっと複雑である。
まず、神様の世界からして何段階にも分かれているが、スウェーデンボルグの研究によると、人が死んでから行く第四次元幽界だけでも二百段階以上に分かれているという。魂の浄まった人が行く天国というのはこの四次元界のいちばん上で、本当の神様の世界の神界・神霊界は、そのさらに上なのである。
その二百にも分かれている段階は、同じ段階以外の世界とは絶対に交流できないそうで、さまざまな魂のレベルの人々が雑居しているのはこの世・三次元現界だけなのだそうだ。だから、この世は大いなる魂の修行の場なのであり、人が死んだらその魂のレベルにふさわしい世界へすっと引き寄せられる。ちなみに、地獄というのは悪人が罰せられるために落ちる所ではなく、そういう地獄に行くのにふさわしい魂が自ら選んで行くのだという。地獄にいる霊を天国に連れて行くと、「うわっ! こんな所、いやだ!」と叫んで、地獄へ帰って行ってしまうそうだ。たとえば、ゴキブリやこうもりは暗いじめじめした所が好きであり、明るい日向に出すと大急ぎで逃げ出して元の暗い所に帰っていくようにである。この世でも、魂のレベルの違う人が同時に存在し得ても、交際範囲という点ではやはり同じ魂のレベルの人同士が付き合っている傾向がある。ただ、この世では魂人の努力次第で魂のレベルを上げることも可能で、死んだら生まれてくる前にいた世界よりも上の世界に帰ることもできるのである。だから、人生は修行の場なのである。
よく「私は何のために生まれてきたの?」とか、「何のために生きているの?」とかいう疑問を耳にするが、悲しいことである。人間は死んだら骨と灰になって墓に入るだけで、すべてが「無」になるという唯物的な考え方だと、往々にして上記のような疑問が生じるものである。今、現在、上記のような疑問をお持ちの方は、今この場で思いの界をひっくり返してもらいたい。人は神の子として「造られた」ものであり、今も神の大愛の中で「生かされて」いるものなのである。そこには当然、神が人を造られた目的がおありになるはずである。それは物質によって神の国の写し絵・地上天国をこの世に顕現しようということで、神はそれを人間の手でさせようとされているのである。その神のご意志を地上に顕現するために自分が存在している、いや、させて頂いているということに思いをはせたとき、人生が何で無意味なものとなろうか。ましてや、すべての「善い物」を神の子である人は神より「貸し与え」られているのである。
「神」という概念が大きすぎてピンとこない方は、ご自分の親御さんのことを考えてみられるとよい。少なくとも今この世に存在する人は、親がはじめて産婦人科医より妊娠を告げられた時の、親の「生む」という意志に基づいているのである。なぜなら、その時点で親は「堕胎」を選択することもできたからだ。しかし、今存在している人の親は、「堕胎」を選択しなかった。それは「望まれて生まれてきた」ということである。ましてや神は、全世界全人類の親神様である。神様は有目的的に、必要があって神の子である人を創られた。そして、至れり尽くせりの細やかなる神大愛の仕組みの中ではぐくまれ、育てられてきたのである。悲しいことに同種同士で殺し合いをするのも人間だけである。ほかのどうぶつが他の動物を殺生するのは、食べるためだけである。ライオンでさえ、満腹の時はウサギが目の前で遊んでいても決して捕らえて殺すことはしない。しかし、ほかの動物にはあり得ないことで人間だけができることといえば、ほかに人生に希望と夢を持つこと、そして笑うことなどがある。「クラゲの人生設計」などは、聞いたことがない。明るい微笑みもまた、人間だけのものだ。もちろんすべての生態系に神の愛は注がれてはいるが、特に神の子人(霊止)には特別の御愛情が注がれているのである。
だから、幸せになることが人生の目的であることは一向にかまわない。むしろ、そうあるべきなのだ。なぜなら、すべての人類が一人残らず幸せになるというのが、神のご本願だからだ。幸福者のみの世と化すのは、人類の神への第一責任である。しかし、まず自分の幸せよりも他人様の幸せを考えて行動する方が、神と波調が合う。神と波調が合えば、天の倉よりどんどんと与えて頂ける。人は本来、放っておいても幸せになるように創られている。神が人をお創りになったとき「善しとされた」からである。それが一見不幸に見える現象があるというのは、どこか神のミチから外れてますという看板を首から下げて歩いているようなものだ。それでも不幸現象は神からの「罰」ではなく、その人の罪を浄めてあげようという神大愛からくるクリーニング現象なのである。だからもうそこには、徹底感謝しかないはずである。極端な話だと、電車の中で人に足を踏まれても感謝である。その人が痛みを通して、小さいながらも罪を一つ消してくれた。それに文句を言っていると罪は消えるどころか、ますます罪を積んでしまう。だからキリストも「右の頬を打たれたら、左の頬も打たせなさい」と言ったのである。
21聖紀に入ってから、想念の物質化現象が極端に早くなった。想念は必ず現象化する。だから、明るい想念、明るい言霊に徹し、感謝に徹した生活こそが、明るい運命を切り開いて行くもととなるのである。
「義」という言葉を聞いてすぐに思い浮かぶのは、パウロの「信仰義認」ということであろう。かつてプロテスタントの信徒から、「なぜカトリックはマリアを信仰するのか、単なる人間の女ではないか」と詰め寄られたことがあった。その時に同時に「守護霊」についての話題になったので、「カトリックの教義には『守護の天使』というのがある」と話したところ、プロテスタントの人々はそれを否定する。「そんなもの、聖書のどこにも書いていない」というのだ。彼らの聖書絶対主義には、呆然としてしまう。その前には、カトリックの「聖伝」など、紙くず同然のものなのであろう。
さらに、プロテスタントの人々の「信仰義認」にも、びっくりさせられる。それはただキリストの十字架を受け入れ、キリストへの信仰を告白しただけで救われるというものである。つまり、心の中の「義」、これだけがすべてだというのである。プロテスタントの草分けのルターが再発見したこの「信仰義認」は、パウロに端を発したものである。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである(ローマ人への手紙、10―9〜10)」。
これに対して、ユダヤ人の背景には「行為義認」というのがあった。律法を遵守し、律法の行為のみを忠実に行うものが救われるというのが、イエス当時のパリサイ人やサドカイ人の考えであったようである。このような「行為義認」はまさしく形式主義以外の何ものでもなく、「信仰心などどうでもいい、律法を守りさえすればそれで義になる」という考え方である。
そういった考え方に対し、「そんな馬鹿な話があるか」と立ち上がったのが、イエス・キリストである。確かに律法もかつては神が必要あって下ろされたものであろうが、人々はいつの間にかその肝腎な心を忘れ、表面的な形式のみに走っていっていた。そこで律法を守らない人、あるいは守れない人は罪びとというレッテルを貼られてしまっていた。罪びととは犯罪人とは意味が違う。例えば「安息日には労働をしてはならない」という律法があった。これを現代に置き換えて「日曜日には労働をしてはならない」という律法が仮にあったとすると、日曜日は休めない人々、例えば鉄道の運転手・駅員やデパートの店員、テレビ局の人などは、パリサイ人たちにいわせればみんな罪びとになってしまうのである。当時も、これらと同じ事情で安息日に労働をしない訳にはいかない人々もいたであろうと思われるが、パリサイ人は彼らを罪びととして、しかも被差別階級に落としいれてしまったのである。
そこでキリストは、「安息日は人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない(マルコ2−27)」と言った。キリストは、こんな信仰を伴わないうわべつらの馬鹿馬鹿しい形式主義を批判したのである。
それを受けて、パウロの「信仰義認」が始まる。「形式なんかじゃないんだ。心が大事なんだ。信仰が伴わない形式など、無意味なんだ」と。
しかし、ここで考えて頂きたい。以降、私の考えである。パウロの言うことは確かにその通りだが、そこにとどまっていいのだろうか。心の中に信仰があり、口で信仰を告白しさえすれば、その行いは何をやっていても救われるのであろうか?
キリストは人々を、律法というがんじがらめの足かせから解放しようとした。無意味な律法にとらわれていては何もできないと、人々に「自由」を教えた。「律法を守れないような貧しい人は幸いである。律法を守ることが『義』なのなら、その『義』に飢え渇く人は幸いである」と。しかし、ここで再び私は言う。それもその通りだが、そこにとどまっていいのだろうか、と。律法から解放されたからとて、「じゃあ、私は自由です」とせいせいしていると、そこに待っているのは堕落である。「私はキリストに救われました。キリストを信じます」で安穏としているのが、いわゆる「信仰義認」だといえよう。
そこで言いたいのは、ここでひとつ昇華して、次元の高い行為義認に元還りすることが重要だということである。神の教えを、神の愛を実際の生活の中で実践していく行為によって「義」とされる「行為義認」、私はそれを形式主義の「行為義認」に対して「新・行為義認」と名づけたい。感謝を、ス直を、下座を、そして利他愛を日々の生活の中で実践していく、その実践こそが大事なのだと思う。神の名のもとに人々が集まっている時だけ敬虔に祈り、あとはほかの人と変わらないのでは、実践者とは言えない。誰も見ていない所での行為が大切である。キリストは「右の手で善をなしたら、そのことを左の手にも知られないようにしなさい」と言っている。
パウロの「信仰義認」は形式主義のみの「行為義認」から人々を引き上げるためのものであって、これはひとつの方便、過程にすぎないと思う。さらに、より昇華した段階の行為義認――神の教えの実践へと移っていかねばならない。パウロの「信仰義認」の段階で足踏みしていたルターが紙くず同様に扱った「ヤコブの手紙」には、次のように書かれている。
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 ヤコブの手紙 2章 14-節〜26節)
キリストの十字架を受け入れ、それで罪が許されたと告白するだけで救われるというのなら、阿弥陀仏の称号を唱えただけで極楽往生できるという他力本願の考え方と何の変わりがあろうか。「他力本願」だけでは救われないのである。しかし誤解しないで頂きたいのは、私は決して「他力本願」を否定するものではない。今ここに我われが存在しているのも、絶対的な「他力」によるものである。「他力」を否定して「自力本願」のみで行こうとするのは、人知の思い上がりである。絶対なる「他力」に生かされながらも、その「他力」に与えられた「自力」の範囲で十分に力を出しきって精一杯精進するというのが本当ではないだろうか。
だから、「キリストの十字架によって、我われの罪は許されました」などとのほほんとしているのは、とんでもないことである。神のみ意と一体化した時、神大愛の御想念の波動と帰一一体化して生活する時、はじめて「義」となるのではないだろうか。つまり、「地上天国、極楽浄土をこの土に現ぜん」という大神策成就への神の経綸の進展にそぐいて功績立てん心こそ神のみ意に報いる最たるもので、「義なる人」とはこういう人をいうのである。さらには、神に与えられた愛を、人々に分かち与えていく。これが自分の救いにもなるし、その愛を日々の生活の中で実践していく行為が「義」であると思う。
キリストは言った。「求めなさい。そうすれば与えられるであろう」。しかし私は、あえて言う。
「与えなさい。そうすれば与えられるであろう。救いなさい。そうすれば救われるであろう」
人間の物欲の最たるものが、金銭欲だろう。世の多くの人は金目的で牛馬のごとく働き、多額の財を得て初めて幸福だと考えるようだ。お金のためなら血の闘争、汗の労働、涙の悲劇を繰り返し、人格をも変貌させ、人間関係をも損ない、時には殺人にまでエスカレートする。しかし、確かにお金がないと生きていけない世の中であることも事実だ。
だがここで、少し人類の歴史を振り返ってみよう。お金がないと生きていけない、つまり貨幣経済が発達したのはいつごろからかと考えると、我が国ではほとんど「つい最近」といえる。日本で最初の貨幣は奈良時代の「和同開珎」だが、それはとても「通貨」といえるものではなかった。そしてその後皇朝十二銭などが作られたがほとんど流通することなく、平安時代にはその鋳造さえ中止された。そして室町期に入って明銭が輸入されてやっと流通が始まり、再び我が国で貨幣が鋳造されて本格的な貨幣経済が始まるのは江戸時代になってからである。その江戸時代でも、表向きは武士の給与や大名の経済力は「米」で表された。江戸時代など、長い日本の歴史からいえば「つい最近」のことなのである。それまで日本人は、お金などなしで生活してきたのだ。
これは必ずしも、日本が遅れていたからではない。古代から貨幣が流通していたのは、ローマ帝国と中国だけである。その二地域は、全世界の陸地のほんの一部にすぎない。(ここでいう中国とは現代の中華人民共和国ではなく、その東側の部分のみ指す)。つまり、ごく一部の上記二地域を除いた地域では、お金などなしに人類は生活し、文明を築いてきたのである。
そう考えると、「お金がないと何もできない。お金がないと生きていけない。飢え死にして死んでしまう。お金があれば幸せだ」という考えは、現代文明のみに通用する幻のようなものではないかという気がしてくる。
そもそも、物を手に入れるために代価としてお金を払い、物を手に入れる。物がほしいから、仕方なくお金を払う。お金を払えば、当然の権利として物を手に入れられる。そしてそのお金を得るために、嫌々ながらも我慢して労働をする。労働をしたら、当然の権利としてお金を要求する。これが、今の世の中では当たり前の考えである。否、今までの世の中では、だ。これまでの物主逆法の世は何から何までさかさまで、さかさまの時代が長かった故に人類は皆逆立ちして歩くのが当たり前と考え、逆立ちしているだけに歩き難いが、それしか知らないから、まあご苦労な世の中であったのだ。人と人との関係が、金銭契約で成り立ってきた世の中、それを逆法という。さかさまの世だ。そろそろ逆立ちはやめて、神様から頂いた二本の足で歩く時代なのだ。そうしたら何が見えるか、歩きやすいと喜んでいるだけでなく、いろんなことが見えてくる。人と人との関係は金銭契約ではなく、互いの「感謝」で成り立っているのが本来なのだ。空腹を満たすためにパンを買う。そのパンを製造、販売して、自分の手に渡してくれた多くの手に感謝する。毎朝乗る電車も、こうして走って自分たちを時速80キロで目的地まで運んでくれる。もし電車がなかったら、時速4キロで歩いて行かなければならないのだ。お金を払ったのだから、パンを手に入れられて当然、切符を買ったのだから電車は自分を目的地ま運んで当たりまえ、そういう物主逆法の世の、さかさまの考えはやめて、逆立ちはやめてちゃんと立ってみよう。パンに対する感謝、自分を運んでくれる電車に感謝しよう。そして我われは想念は霊主に切り換えていくも、まだ肉身を持ってこの物質の三次元現界で生活している以上、感謝したと思っただけではだめで、それを形に表してはじめて真になる。その感謝の思いを形に表す方法が、本来の「お金」というものではないだろうか。パンを買う時、パンを製造し、また販売してくれ。る人たちのお蔭で自分はパンを食べることもでき、飢えをしのぐこともできる、まずそのことを深く感謝する。電車に乗っても、この電車のお蔭で、自分はこんなスピードで目的地に着ける、しみじみ感謝である。そん感謝を、お金という形で表す、それが本当の意味の経済ではなかろうか。だから、パンを買う時お金を払うのは、これは代価としてではなく、それぞれへの感謝を形に表すのもの、それが本来のお金だろうであろう。つまり「パン入手御礼」であり、電車の切符もその電車に乗れる感謝を形に表す「乗車御礼」なのだ。そういう感謝を込めて、御礼は先にお出しする。
こう考えると、お金に対する執着なんてばかげたことなのかということになってくる。イエス様も納税問題で、皇帝の肖像のあるローマ貨幣を見て、「皇帝のものは皇帝に返しなさい。神様のものは神様にお返ししなさい」と言っている。これは、肉身を持って現界にいる以上は、いくら根本は霊主だからといっても現界の法律は守らなければならないと言うこと、そして、自分の物は一切ないんだということで、お金がそんなに大事なら、最初から子供はお金を握って生まれてくるはずだ。しかし、そのような赤子は寡聞にして知らない。
だから、本当の経済学は感謝で成り立っており、これからの霊主の世では世のため人のために尽くして感謝されればされるほど、お金が感謝の形として自分の中に入る。そうなるともう神様は放っておかない、嫌でも食うに困らない状態に持っていってしまう。そういう法則が、今後ますます顕著に現れるようになってくると思う。それが「健・和・富」の富の部分で、ある。かつてイタリアの聖フランシスコという聖人は清貧の思想を貫いたが、我われはそうして感謝を浴び、感謝の形のお金が集まり、食うに困らない生活をさせて頂ける、それが清貧ならぬ「清富」というのである。そして使う時も、何かを手に入れる、もしくは何かをしてもらう、そのことへの感謝の表れとして、御礼としてお金を払うのである。これが、霊主の世のふさわしい考え方だと思う。これからは電車一つに乗るにも感謝を持って、乗る前に心中で手を合わせて拝み、「乗車御礼」の運賃を払うのだ。ただし拝むのは心の中でであって、実際に電車に手を合わせて乗ったりしたらあの人はおかしいと思われる。でも、それくらいの気持ちが必要なんじゃないかと思う。また、今度は反対の方向の賃金も、世のため人のために尽くして初めて、「労働御礼」として頂くのである。
感謝の秘訣は、できるだけ自分が感謝されるようなことをすること、そうしたら自然と自分も感謝できるようになってくる。感謝し、感謝され、それを教えているのが上からの感謝を表す△、下から感謝の想念を浴びる逆三角▽、その逆三角と三角形を合わせて「カゴメになる」カゴメの理は吹き寄せ、吹き上げのあのカゴメの理と違うようで違わない。
そしてやがて地上天国・ミロクの世ではお金は消滅していると思う。物は何でも無料で手で入る、提供している人も代金はもらわない。お金がなくなっているのだから、もらいようがない。じゃあ、何がもらえるかというと、感謝の想念と感謝の波動を受けてそれが代価となり。やがて自分も人様に感謝はすることで、自然と不自由のない生活が仕組まれる。お金の代わりに感謝の想念と波動を、お互いに「支払う」のだ。だから労働も楽しくなる。これまでのような、お金のために嫌々するものでなく、自発的に何かさせて頂こうと思ってやるのが労働になる。誰か今何かをさせて頂きたいと思ったその、必ず必要としている人がいるものだ。これが本当の21聖紀の霊主文明における霊的な経済学だろう。
こういう考え方についていけないと言う人は、ミロクの世に入るためにはかなりの想念転換が必要だと思う。そういう霊主の考え方の人でないと、ミロクの世には入れない。どうしてもこういう考え方にならない魂は,淘汰され得る危険性さえあるのではないかと思う。神様がお考えのミロクの世・地上天国はそういういう世界だから、お金ももらえないのに人様のために働くなんて真っ平ごめんという想念の人々は、今神様が猶予下さっている今のうちに想念転換しないと、そのままの想念で地上天国に入れたら秩序も和も乱して結局は地上天国が地上天国ではなくなってしまうから、神様は一気に火の洗礼に持っていかれてしまう。
かつてアメリカの心理学者ソニア・リュボミルスキーが著した「THE HOW of HAPPINESS」という本が海外でベストセラーになり、「幸せでいるための12の生活習慣」という邦題で今年(2012年)の2月に日本語訳も出版されました。それはそれでなかなか素晴らしい内容でしたが、ここで霊的要素を加えて、「聖書」に基づいた視点から、自分なりに「幸福」になるための10の法則を考えてみました。
これはあくまで「法則」です。宗教の教義に基づいた戒律などではありません。「法則」は宗教の次元を超えていますので、「信じる、信じない」の問題ではありません。
例えば過酸化水素水に二酸化マンガンを加えると、水と酸素が発生するという法則と同じです。それを信じているか信じていないかなどというのは問題ではないでしょう? 万有引力の法則とて同じです。「そんなの信じない!」といくら言ったって、物は手を離せば地上に落下するのです。そこには「例外」は存在しません。この法則もそれと同じ「法則」だと思って下さい。例外はありませんし、信じるかどうかなども問題ではありません。こうすればこうなるという法則を、これから述べていきたいと思います。
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