【米沢街道・榎峠】
その道標は、岩船郡関川村大字大内淵、国道113号線(新潟市から相馬市)の鷹の巣温泉を300m通り過ぎた山形県側の山手にある。
「榎峠入口」と書かれ脇に 『この峠道は明治18年に、荒川沿いに今の国道113号線ができるまで交易や参勤交代等山形県と新潟県を結ぶ重要な街道でした。昔は沼部落を宿駅としてこの道を通りました。沼は昔、城氏の根拠地で堀氏が金山を開発した事もあります。ここには戊辰戦争の古戦場があり、特に戦死者を供養する無名戦士の墓も建立されています。』 の説明板がある。
5分もその旧道を登ると、下の国道を行き来するトラックの騒音が全く聞こえない、別世界がそこに広がっている。 つい百年前まで、羽前西置賜(現在の米沢市)に行くには、峠道を13も越えなくてはならなかった。 (鷹の巣峠、榎峠、大里峠、菅野峠、朴ノ木峠、貝ノ淵峠、高畠峠、黒沢峠、桜峠、才の頭峠、大久保峠、宇津峠、小松峠)があった。 榎峠は沼の部落より「上り十五丁、下り七里」と記されている。
【峠の歴史】
大昔の延暦13年(794)と20年(801)に、坂上田村麻呂が蝦夷氏討伐で通ったと言われるのを始め、天喜5年(1057) 八幡太郎義家や 藤原藤房、伊達政宗、十返舎一九、良寛、イザベラバード等数多くの著名人が行き来し、この道がいかに重要であったかが解る。 また越後では珍しい「板碑」が沼の集落の林の中にある。碑には、月待像と大日如来のバンが描かれていて、応永四年(1397)成空と言う人物が建立したとある。
当時関川を利用しての「上り荷」としては、塩や海産物や茶を始めとして小間物、綿が米沢方面に行き、「下り荷」は米や麻、羽前特産の紅花やたばこ、漆やろうが越後に運ばれ、荒川港ないしは新潟港より大阪、江戸へ運ばれて行ったと記録されている。
先ほどの13峠越え以前は、朝日連山寄りに『古道』があり、この街道の重要性が現れている。名称も大永元年(1521)以前は、『おいたま道』又は『米沢街道古道』と言われ、大永以降は、『米沢街道』又は『米沢往還』ないし『荒川通り』と言われていた。
戦国時代上杉家は、上越の春日山城より会津若松に120万石で移る。その後関ヶ原の戦いの敗北により上杉家は、米沢へ30万石に減され移封されるが、越後と羽前西置賜の関係はなお濃く続いた。
【下関の渡辺家】
それを物語るものに、通称「関の三左衛門」で知られる、下関の渡辺家がある。 渡辺家は米沢藩に対し、幕末までに10万両以上貸した記録が今も残るほど、米沢藩の大切な融資元であった。 この渡辺家は江戸時代初期、村上藩の武士として郡奉行を勤めたが後に帰農土着した。その後は、酒造業や廻船業を兼ねる地主と発展していった。 これは米沢藩への融資によって資産を増大し、その資力で次々に田畑・山林を手に入れて大地主となった。明治中期には田畑約四百町歩、山林壱千町歩の長者番付に載るほどになった。
越後の大地主が戦後の農地改革で土地を失ったのに対し、山林は農地改革の対象外で渡辺家は生き延びた。
【下越の戊辰戦争】
そして慶応4年8月下越では、新政府軍(西軍)と奥羽越列藩同盟軍(東軍)との間で至る所戦場と化していたが、越後の平野部では新政府軍の支配下に入った。しかし米沢・上杉家は、奥羽越列藩同盟軍の中枢にあり越後との関係も深かった。 当時新潟町は、佐渡同様に天領地で新潟奉行が治めていた。しかし、5月に江戸、水戸、桑名などの浪人たちが流れ込み、騒然となると奉行では治められず、6月新潟奉行代理・田中廉太郎は治安を米沢藩に委託、江戸に引き上げてしまう。
これにより新潟町は、奥羽越列藩同盟軍の武器弾薬の補給基地の色合いを深めていった。そして新潟町は、新政府軍の攻略目標となって行く。 この同盟軍の代表者には、米沢藩・色部長門、長岡藩軍事総督・河井継之助、庄内藩中老・石原倉右衛門の三名がいた。 後にこの三名は、揃って戦争責任を一身に背負い、各藩の「叛逆首謀人」として明治政府により家名断絶させられた。
7月下越の各地で戦闘があり、一時守勢にまわった新政府軍も増援により同盟軍を国境線へと追い込んでいった。 本道中条方面は、新発田兵、芸州兵、薩摩兵、長州兵が主体となり 間道菅谷方面は、新発田兵、高鍋兵、岩国兵が荒川に向かった。
【峠下の無名戦死の供養塔】
8月11日、新政府軍は下関を制圧した。その時村上藩も降伏、この米沢街道を守るは米沢兵と若干の同盟軍だけとなった。 しかしこの榎峠付近は、荒川の断崖が川よりの攻撃を阻んだ。そのため新政府軍はやむなく、榎峠を本道攻めと、左右の稜線からの三方攻めとした。 激しい戦闘があったが、新政府軍は一日の攻撃で榎峠を攻め落とした。
峠の下の杉林の中には、この戦いで亡くなった戦死者の供養塔(南無阿弥陀仏 戊辰戦死塔)がひっそりと眠っている。 この供養塔は、弘長寺の順誉良成和尚が建てたものである。 この戦闘で米沢兵の戦死12名、新政府軍側戦死者1名(氏名不明)があったと関川村村史にある。
米沢藩戦死者 戦没者 戒名 斉藤新右衛門信武 忠誠院雄軍壮心居士 石黒伊左衛門徳通 仙松院軍応義達居士 篠田清太保民 泰雄院軍功忠清居士 青山虎之助政嘉 功全院孝精花忠居士 五十嵐角弥忠秀 抜軍斎勇山義心居士 橋爪利惣次仁寿 精誉進観義勇居士 石黒久蔵正房 義 了 還 居 士 森下恒弥盛門 釈 勇 勝 居 士 相場養拙盛安 釈種武勲勇撃居士 沼田勝蔵忠済 忠 岳 良 全 居 士 嵐田味之助信秀 若 養 了 性 居 士 市川俊十光成 関治院軍嶽義勇居士
その後新政府軍は、天嶮を守る米沢兵を撃破するには、時と多くの犠牲を覚悟しなければならないと考えていた。 一方米沢方にしても、新政府軍に勝てる勝算もなかった。すでに天下の大勢は決していた。 そしてこの後、この方面の戦闘はなく和平工作が内密に進展し8月28日、沼にて和睦が成立する。
【無名戦死者の身元】
私のところに戊辰戦争の公式記録である「靖国神社忠魂史」、「戊辰役戦史」がある。その越後方面戦闘の項を見ると、そこには2名の戦死者があり、名前も載っていた。 しかし、名前はほぼ一致するが藩名が異なっていた。
「靖国神社忠魂史」では、 藩名 戦死場所 戦死者 日時 鳥取藩 鷹巣 岩本佐七郎英敏 8月12日 嚮導 二十七歳 〃 〃 廣田只次郎忠篤 〃 分隊長 三十歳
に対し 「戊辰役戦史」では 徳島藩 榎峠 岩本佐七郎 明治元年 〃 〃 廣田唯次郎 〃
であった。 これは関川村村史に載っていた新政府軍側戦死者であり、1名と書かれていたが実は2名の戦死者が出ていたのではないか。さらに氏名不明とあったが、徳島か鳥取の藩士であろうと想像される。
この事を以前に当地を案内してもらった、関川村の郷土資料館館長・高橋重右衛門氏に手紙にてお知らせした。2ケ月後、返事のお手紙を戴いた。 それによると、村の教育委員会として、徳島、鳥取の各教育委員会に問い合わせた処、鳥取市教育委員会よりの返事で、鳥取藩士の名簿に岩本、廣田両氏が載っていた事が判明した。
これは想像するに、鳥取藩の岩本、廣田の二人の他に、他の藩士がもう一名戦闘で亡くなったと考えられる。 攻撃側の新政府軍は、薩摩・長州・土佐を主力とした他に、新発田藩・廣島藩が居たのでその中の誰かであろう。 今後は関川村村史の書き換えと、機会をみて供養塔の合祀をしたいとの事であった。
【榎峠付近】
この榎峠の先の沼部落は「わかぶな高原スキー場」があり、冬場には下越の人が多く訪れる。しかしその先の畑部落は、離村してもう住民は誰もいない。 そして畑部落の半里先に大里峠があり、そこからは山形県となっている
この無名戦死の供養塔は、明治の半ばになって下関の住職が憐れみ作ってくれたものである。この塔の下に眠っている二人には、名前が判ろうが判るまいが、そんな事はどうでも良かったのかも知れない。 この方面最後の東軍・西軍戦死者併せて14名は、戊辰戦争終焉への人柱ではなかろうか。 この戦死無くして和睦はならなかったのか。
今この供養塔の前を通るのは、ハイキングの人と、少数の林業の方のみである。 静かな誰も行かない、山の中の供養塔である。