とうとう聞けなかった写真
《母の発病》
母が亡くなった12月14日がもうすぐやってくる。あれから6年が過ぎ来年は父の十三回忌と、母の七回忌を合わせて行おうとしている。
その日は父母の結婚50周年目の日であった。
平成元年2月11日(土)は、建国記念日の祝日であった。午後1時、母が上大川前通の自宅で孫の昼食を作ろうとしていた時、激しい頭痛により意識不明の状態になった。一緒にいた父は、急いで救急車を呼んだ。救急隊員は状態より脳障害と判断し、山ノ下の桑名病院に向かった。外に出ていた私も連絡を受けすぐに病院に駆けつけた。
検査の結果はクモ膜下出血と診断された。
クモ膜下出血とは、
「脳は頭蓋骨の中ではクモ膜という膜に包まれ、髄液という液体の中に浮いたような形で存在する。このクモ膜の下の髄液に出血してくる病気で原因は、脳の血液を送る動脈に瘤すなわち脳動脈瘤ができ、これが徐々に大きくなり、ついに破裂して出血した状態を言い、症状は突発的で「ハンマーで殴られたような」などと表現されるほどの激しい頭痛と吐き気、嘔吐が起こる」と説明があり
そこで「頭蓋骨を一部切り取り、そこから動脈瘤の破裂部分にクリップをし、切り取った頭蓋骨を復元するものであるがお母さんの場合、動脈瘤の一部が神経と接近して記憶の一部が無くなるおそれがある」とも言われたが、専門外の我々には医師にすがるのみである。
《母の緊急手術》
父と私、妻、妹、妹夫、それに義兄と伯母が病院で1夜を明かし、手術の結果を寒い待合室で黙々と待った。
その夜9時より始まった手術は、6時間半後の翌朝の3時30分ようやく終わった。
しかし、意識が戻るまでにかけがえのない者を失う結果が待っていた
手術後は救急入口に一番近い、集中治療室に移された。面会を許されたがこの様な中に入るのは初めてで、手術後の母を見るのが怖かった。入口で白衣に着替え、備え付けのスリッパで中に入ると、両側にベッドが8ツあり、左側の真ん中に寝かされていた。昨晩先生より手術の説明を受けた際私は、内容を聞いただけで気分が悪くなり、半分聞くのがやっとであっただけに、母の顔に赤みがあり少し安心したことを覚えている。
その後、妻の腸ねん転の手術後の説明の時は、10センチ位に切断された腸の一部を見せられたが、意外と気分が悪くなく、私にも免疫が出来たのかと思わされた。
《手術後の看病》
2日目の2月13日朝、血圧が急激に下がり心配したが午前中に元に戻った。しかし意識のない状態はそれからも続いた。当時、先生が母の手と足の指の間にペンを挟み、患者が痛みを感じるかの検査をやっている時、肉親として何か割り切れないいやなものを最後まで感じ続けた。
5日目の2月17日、痰が絡んでの窒息のおそれより気管支切開が行われた。その為元気になった後も、喉に開けられた穴は塞がらず、そのままでは息が漏れるので最後まで、ガーゼをしていた。又、左頭蓋骨には手術時の傷口が薄くなったが残り、陥没痕を見るだけで当時の痛々しさを思い出す。
倒れて19日目の3月1日、1階の集中治療室から2階の211号室へ移され、脊髄に刺されていたチューブを外された。だが僅かに痛さを感じるだけの、意識の戻らず予断を許さない日々が続いており、我々家族は毎日病室へ通っていた。妹と母
《父の発病と、転院》
3月24日、毎日母の病室に通っていた父の様子が2、3日前からおかしく、桑名病院の外来で診察してもらうと肺炎と診断され、すぐに入院するようにとのことであった。入院するなら同じ病院に入院させたかったが、ベッドの空きがなく上大川前通の竹山病院へ入院することとなった。
数日後、精密検査の結果、肺炎ではなく肺結核のおそれがあると診断された父は、西新潟病院に転院となり、母と父は西と東に別れることとなった。
4月5日転院の日、母の居る桑名病院に面会に行った。20分程病室で、毎日の点滴の針で紫色になった母のしわくちゃの手の温かみを確かめながら何度となくさすり続け、最後に意識のない母に、「がんばれよ」と目で言っていた。そして、それが父と母の永遠の別れとなった。
桑名病院を出るまでしっかりしていた父であったが、転院先の西新潟病院では気力と共に体力も使い果たし、自分では歩くことも出来ない状態になっていた。車椅子で病室に入り、その後ついに病室を出ることは出来なかった。
一番奥の結核病棟二階病室の窓からは、下の庭に咲く桜のつぼみのまだ堅かったことが意識の端で残っている。
《父の死》
入院23日後の4月28日夕方、父吉雄は、依然として意識の戻らない母を心配しながら、自らも呼吸の出来ない苦しみの連続の中で、間質性肺炎で亡くなった。
私は父の入院早々担当医師から、
「正常な肺は、目の細かいスポンジのような構造をしており、息を吸えば膨らみ、息を吐けば縮むという動きをスムーズに行ってゆくが、何らかの原因で、この柔らかい肺に、繊維化が起こり、肺が固く縮んでゆき、ついには呼吸ができなくなり、死に到る病気です。」と言われた。転院後じきに、恐れていたことが現実味を帯びて私たちに襲ってきた。それは、竹山病院に入院当初より、周期的に息を吸うことの苦しさがあったがそれが一層強くなり、かつ周期が早く父を襲うようになった。酸素吸入器を口に当て酸素を一杯に吸っても、肺に酸素が行き渡らず、身体を海老のように曲げて苦しむ父の姿であった。それがこんなに早く来るとは思ってもいなかった。
4月10日過ぎ、父は夜になると、「自分を襲ってくる」と言う幻覚症状が現われるようになった。しかし、孫や私たちが母の病院に寄っての帰りに行くと、
「お前たちも疲れているので、おれの所は良いから早く帰れ」
「ばあちゃんの具合はどうだ」と、ぶっきらぼうに聞く相変わらずの父であった。
《父母の同時入院》
母が集中治療室にいた当時私は、魚市場に勤めていたので母の病院には近かったので、午前2時前に起き病院に寄ってから職場に行き、夕方帰りにもう一度病室に行き状態を確かめるようにしていた。
母が倒れて3日目より、看護婦紹介所を通して付添人をお願いし始めた。先生よりこの病気は長期になり、家族もそれに付き合う覚悟がいると言われていたし、家族だけで看護しようとして、その家族が次々に倒れていった事例を聞かされていたので父にも話し、夜間母の所へは付添人に付いてもらった。
《父の最後》
父が西新潟病院に入院してからは、父の方にも夜間付いてもらうようにした。当時も病院は「完全看護」と言っていたが、少しでも母や父に何かをしてやりたいが、職業をもっていると時間的に拘束されるため妹などと話し合って、二つの病院にそれぞれの人をお願いしていた。
前日担当医師より「1日、2日が山場です」と言われ、看護婦さんよりその際の準備すべきものを言われた。それらを病院の売店で買いながら、それが現実でありながら反面夢の中で自分を外部から私が見ているような気分がその後も続いていった。
午後4時30分父は、母を除く家族全員に見守られながら、心電図の波形は平に伸びたままになった。
《父吉雄》
父吉雄は、大正3年2月24日、新潟市本間町2丁目で、父・要次郎と母・ミタの6男3女の3男として生まれた。
要次郎とミタの結婚生活は21年間であり、約2年毎に1人生まれたことになるが、成人したのは4男3女であって、その上戦死などで戦後私たち子供が知るのは3男2女である。父は早くから東京の風呂屋の三助で働き、新潟に戻って割烹の下働きをしたと言うがハッキリしたことはもう分からない。
昭和9年12月1日、徴兵検査で甲種合格の父は二十歳で召集を受け、村松にあった歩兵第16連隊・第9中隊に入隊する。翌年1月、一等兵。翌々年7月、上等兵と順調以上に進級する。その年の昭和11年11月31日、満期除隊する。 [軍隊手帳より]
《父母の結婚》
昭和14年2月11日、加藤吉雄と佐藤イチノが結婚した。
この結婚写真には母のトレードマークの出っ歯がありありと、そしてはっきりと見える。お世辞にも十人前の器量でない上身体も小さかった母と、若いときは結構もてたであろう父とが、どの様ないきさつで結婚になったのか知らない。しかし、不満や愚痴を誰にも言わず、何でも黙々とそしてこつこつと、やり抜く人であった。
母イチノは大正2年9月23日、新潟市古町通12番町で佐藤市蔵・ノリの7男4女の長女として生まれ、成人したのは4男3女であった。ここも加藤家と同様で、子沢山の貧乏家庭であったらしい。
母は当時のことを全くと言っていいほど語らなかったが、家は貧しく小学校を出ると東京に奉公に出され、父と結婚するまでを東京の奉公先で過ごした様だ。しかし、後に東京に行ってもなぜか奉公先の所へは行かなかったようだ。
《さくらんぼ》
翌15年1月2日、待望の長男・勲雄(いさお)が生まれた。そして翌年の16年2月14日、長女・春代も誕生した。しかし、太平洋戦争勃発前の昭和16年10月18日、父は新発田の歩兵16連隊に臨時再召集されていった。
そして父の召集中の翌年昭和17年7月2日、母は十ヶ月の身重でもうすぐ子供の生まれようとする中で、長男・勲雄が亡くなった。2歳半でしかなかった。
6日後の7月8日、次女・好美が誕生した。
それから15日後の7月23日、長女・春代(1歳半)が亡くなった。
又2日後の7月25日、8日に生まれたばかりの次女・好美も亡くなった。1か月に満たない間に、1人生まれたが、その子を含め3人の子供全員が相次いで亡くなった。当時はこの様なことが日常的で多くあったのかもしれないが、夫のいない中、3人の幼い子を失った後悔で、辛く苦しんだであろう。それを思うと後年、母の少し腰の曲がった小さな身体に、女性であり母としての芯の強さを感じる。
兄たちの死因は赤痢であり、原因は「さくらんぼ」であった。その為、母は最後までサクランボを食べなかったし、我々にも食べさせなかった。それだけに母の心は後悔で一杯になっていたのであろう。
《戦後と子供の誕生》
昭和19年2月20日、三女の姉・守枝が生まれる。戦後すぐに父は除隊となり新潟に帰ることが出来、昭和21年6月23日、次男の私が生まれた。その後の昭和27年5月7日、四女・美津江が生まれた。そして昭和40年春の私の埼玉県への就職まで、家族5人の暮しが続いた。
戦時中に上大川前通の家は隣より移り、大家さんより家屋を買い取ったのが現在の二階建て4軒長屋の家(敷地20坪)である。ある時期、この家の1階がわが家1間(12畳)に家族5名、2階に父の妹夫婦3名と1人の叔父、反対の2階には父の弟夫婦4名の4家族13名が、1階と2階で暮らしていた。今考えると、4家族同居とはちょっと奇妙に思えるが、当時の私には奇異とは感じてなかった。
《家の商売》
父は戦前の一時期、新潟鉄工所の木型部に勤め、木型製造工として働いていた。再召集されたが戦地へは行かず、仙台で敗戦を迎え、すぐに新潟に帰って来た。新潟鉄工に復職したが仕事が無くじきに辞め、大工仕事をしていたが昭和30年頃から製氷販売所をやり始めた。しかし、製氷販売の実質稼働時期は、七月、八月を中心とした半年がいいところであった。
冬になると、自宅とすぐ近くの曙公園の魚屋の並ぶ中でキンツバ屋をやり、ラーメン屋をやっていた時もあった。また佐渡柿の出荷をしたり、一時は寿司屋の応援もしていたなどいろいろなことをやっていた。
《加藤氷屋》
そのため姉弟3人は夏は朝早くから起きて、たたみ一畳くらいの大きさの氷32貫目(約120キログラム)を、1/8の4貫目(約15キログラム)に切ることが朝食前の仕事であった。
夏が暑く氷の売れる時は、朝と十時、昼過ぎと夕方に氷が10本から15本来ることが多かった。又店先で売るだけでなく配達も多くあり、私たち姉弟の夏休みとは家の手伝いの明け暮れで、海水浴に行くことは年に数度あれば良いくらいであった。
そのため何で手伝いばかりと思ったこともあったが、その頃の一般家庭が貧しく、そして質素で、夏の氷500グラムを買い、ブッカキ氷にすることが贅沢の時代であった。配達先は病院あり、一般家庭あり、氷水屋、飲み屋、会社など、様々であった。今はもう見かけなくなった後ろに荷台の着いた自転車で、8貫目(約30キログラム)の氷をつけて自転車を漕ぐことは容易ではなかった。背の低い母はなお更であり、思い出すと朝まだ町内の人が起きていない時に、昔の舗装されていない石だらけの道路で、自転車に乗る練習をしていた姿を想い出す。
当時の自転車は重く頑丈にできていたが、男性向きで作られており、女性や子供は「女またぎ」でペタルを漕いでいた。しばらくすると女性にも小型で乗り降りが容易な現在の形の自転車が発売され、わが家も愛用し、母は60を過ぎても自転車で買い物に出かけていた。
《下の上大川前通》
父との最初の想い出は、父の運転する自転車の荷台に竹で編んだ大きなカゴを付け、私はその中に入れられて山ノ下に住む伯母の所へ、妹の出産の赤飯を届けた時であろう。その時私は6歳であった。その後、母が生まれたばかりの妹を抱いて家の前で撮った写真がある。その写真には喜びの母と、色黒ではあったが丸々と太った妹が写っている。
私たち兄妹の生まれた上大川前通り12番町は、新潟の下(しも)の曙公園の近くである。表通りの角地に面しており、一方は上大川前通りで、もう一方の通りは、思案小路と呼ばれ、かっては赤線の街へ向かう道すがら
「思案小路」(行こか、戻ろか、思案の小路)と呼ばれ、
「思案小路の角」と言えば市内の人なら誰でも分かる場所であった。
《怖かった父》
父の車の免許書を見ると、昭和31年4月17日とあって当時としては大変早く免許書を取ったことになる。朝早く、当時はまだそれ程出回っていない車で、当時の柳島の魚市場の「ぼてふりさん達」に、魚の鮮度を保つ為にかける氷を売ることをやっていた。
しかし、当時の車は今のように一発でエンジンがかかることは珍しく、かからないと家族総出で押してエンジンをかけたことも多くあった。車と言っても三輪車で、真ん中に自転車のハンドルがあり、搭乗者は隣に小さなそれも据え付けでなく、折畳式の椅子のあるものであった。現在のように飲酒運転は絶対駄目でなく、飲んでも運転していた。おおらかな時代であり、車もめったに通らない時である。
昔の父は酒飲みで、怖くて逆らえない、大きくて大変嫌いな存在でしかなかった。私が新潟に帰ってからの父は、昔のように酒飲みの怖く大きな父ではなくなっていた。母にも優しくなり、孫の言うことをどこまでも聞いて、一緒になって遊ぶ父になっていた。それは年を重ねることで、丸く、小さくなった父であったが反面淋しく悲しい父であった。
《父の想い出》
もうひとつ書き加えるなら、父は子供や孫の思いを敏感に察し、それを勝手に先回りしてやってしまう困った人であった。父にとって見ると子供や孫は多分に先の見えない危なっかしい存在でしかなかったであろう。
私が埼玉に出て翌年の7月、社会に出て仕事や組合の矛盾を感じて友人宅に行き、そのまま会社を4日間無断欠勤したことがあった。当時の私は、自分のことに精一杯で会社に連絡すべきなのに、しなかった。
会社より連絡された父はすぐに寮にやって来た。当日私も信州の山の空気を吸って、自分の考えていたことのあまりの小ささに気が付き、寮に帰ってきた所であった。
父は「元気か」と言っただけで、「どうした、何があった」とは聞かず、又怒らずに黙って帰って行った。多分聞きたかったのであろうが、それをあえて飲みこんで、そして私を信じて帰ったのであろう。
《銃剣道と父》
昭和40年までの我が家は生活にゆとりがなく、その日その日の生活で一杯であった。しかし、三人の子供が成人した頃から金銭的の苦しさからも開放され、趣味にも時間を割くようになった。40代後半から金魚を飼う様になった。金魚と言っても普通の大きさでなく体長25から30センチに及ぶものであった。その水は1日以上外におき、塩素を抜いて半分くらい入れ替えるなど、大変気を使っていた。
その後、私が埼玉に就職していた時期の、父50代になった昭和41年頃より、若い軍隊時代にやっていた銃剣道を再度始めるようになった。
昭和41年10月 | 第二回新潟市民体育祭 銃剣道個人戦 三位 |
〃 42年 6月 | 銃剣道二段に昇段 |
〃 43年 7月 | 〃 三段に昇段 |
〃 44年10月 | 第五回新潟市民体育祭 銃剣道個人高年の部 一位 |
〃 45年 6月 | 銃剣道四段に昇段 |
〃 46年10月 | 第七回新潟市民体育祭 銃剣道個人高年の部 一位 |
〃 47年 6月 | 銃剣道五段に昇段 |
〃 50年 9月 | 〃 六段に昇段 |
〃 50年11月 | 〃 錬士に昇段へと励んでいった。 |
そして昭和52年10月21日、当時の川上新潟市長より文化向上により感謝状を戴いた。 |
《父の目》
又当時の父の左眼は、鞏角膜園のため0.1の矯正不能と診断されていたことを後に知った
その上翌年の53年5月胃潰瘍で済生会病院に入院、翌6月胃の3/4を取る手術を行った。
以後、体力を使えなくなったことと、左眼のよく見えないままでの銃剣道は行わなくなった。しかし妹の家の入口には父の作った木の銃剣が今もそのまま立て掛けられている。
その後昭和58年頃から書道を始め、昭和60年9月初段の認定書と「緑洋」の雅号を戴くまでになり、自宅で三人の中年女性の方と一緒に帆苅先生から書道を習い、新聞紙の上に真っ黒くなるまで同じ文字を書き続ける姿をよく見かけた。
《想い出の藤の木》
また当時、草花に興味を持ち始め、色々な木を手入れしていた。上大川前通の家は木を植える場所など無かったので、鉢植えが主であった。
ある時父は、何も言わずに独立して出ていた私の前の家の庭に、それまで丹精していた藤の盆栽と椿などを植えて帰った。私の家の庭があまりにも何もなく、みすぼらしかったのであろうが、私は気が付かなかっただけでなく、息子の私に「黙って、勝手にして」と思ったことがあった。
藤の木はすぐに大きくなり、翌年より綺麗な花を咲かせてくれ私たちを楽しませてくれた。しかし私は8年前こちらの家に移る時、藤の木はそのまま置いて来た。現在の私にはその趣味がなく、こちらに持って来るより次ぎの住人に愛された方が、藤の木にとっても幸せではないかと。そして、その後も毎年綺麗な花を次ぎの住人と、散歩で訪れる私たちに、父の想い出の花を咲かせてくれている。
《父の遺品》
父の死後に遺品を整理していたら、父が通常使っていた財布の中から半紙に包まれた木製のものが出てきた。形は将棋の駒型で、手のひらに入るくらいの木の板であった。最初は何か分からなかったが、裏を見ると薄くなったが墨で
法名 釋 善財 昭和十七年七月二日 と書いてあった。
その時は、誰かあまり深く考えなかったが日時を確かめると長男の勲雄であった。父は何も言わなかったが、最初の子供を深く慈しんでいたことが改めて分かり、あの父を見直すものであった。
おそらく戦後の大工を生業としていた時、わが子を想い出し、近くにあった木で自ら鉋を懸け、戒名と日時を記したのであろう。今しみじみと手に取ってみると、木の重さのを全く感じないほど軽くなったがその分、字の重さが墨の薄さとともに大きく胸に響く。
《母の快復》
母は、父の葬儀後6月始め頃より意識は戻り始めた。そして、表情が出始めたのは8月の暑い頃であった。当時病室の写真を見ると、少し怒ったような顔の母と、妹のうれしさと涙ででしわくちゃになったスナップがある。
意識が戻り始めても食事は、相変わらずの流動食であった。鼻の穴よりチューブを通して栄養を取るのだが、流量を早くするとむせるし、遅くすると時間がかかり嫌がり、すぐに鼻に手を出すためとうとう、利き手の左をベッドに結ばざるを得なくなった。そして一時期足にも拘束具を嵌めざるを得なくなった。それは、夏の出来事であった。
ベッドから落ちてしまった。幸いたんこぶが出来ただけで済んだが、倒れる際は意識のない人がそのまま倒れるようなもので、支えるために腕を出すでもなかった。しかし、腕を出していたら、間違いなく手首を骨折していたであろう。
又、流動食から重湯、ご飯に移れた9月2日、502号室に移ることが出来た。一人で食事を食べられるようになり、リハビリに入れたのは雪の降る頃であった。初めて自分で食事が食べられるようになったことと、一人で車椅子を動かせた時の喜びは、今も忘れられない出来事の一つである。
《母の退院》
そして入院430日目の翌年、平成2年4月17日。妹の家の近くの大堀幹線脇にある小針病院の併設された真新しい老人保健施設、「小針園」の一期組として転院出来た。
現在であれば、この様な長期間一つの病院(桑名病院に1年と2ヶ月間)に居続けることは出来なかったであろうが、不思議なことにあの時は出来たのであった。
平成2年4月22日日曜日、浦山の家にて父の一周忌を行った。その写真には車椅子に坐り、父の遺影をハッキリと自分の夫と思わないが穏やかな痩せた母と、ようやく意識の戻り始めた母が同居していた。無邪気に遊ぶ孫にしかめっ面の母であったが、大きくなった孫たちの一安心の顔もそこにあった。
《チラシで作ったゴミ箱》
その後、新聞でもようやく言われ始めたデイケアーで通い始める程回復した。幼稚園児同様に毎日妹が送り届け、私が夕方五時過ぎに迎えに行く生活が4年ほど続いた。しかし、記憶の方は大分戻ってきたが、手術の後遺症の性もあって、私や妹を自分の子供だと分かっていても、名前が何度言っても違う名前しか出てこないことや、軽い半身まひ等の障害が残った。
《母の想い出-1》
最初に想い出すのは、北毘沙門町にあった母の実家で写した写真である。もう聞くことが出来ないが、多分母の弟の結婚式に写したと思われるものである。姉と母、私と母が炬燵に入ってちょこなんと写っている。ただそれだけの写真であるが、私の記憶の最初にこの写真がある。
その次に思い出すのは魚屋の行商をやっていたこと。当時はリヤカーに魚を積んで売り歩いていた。そして売れ残りの魚を捌いて、それを姉と私が北毘沙門町の家に届けるために行く。今考えてみると、上大川前通からたった300から400メートルの距離であったが、北毘沙門町の家が当時の私には大変遠いものに思えた。
その他で今でも母とそっくりと思うことの一つに、母の手と同じように私の指にあかぎれが出きることである。当時ハンドクリームなど無かった時ではあったが、パックリと開いた傷口に一生懸命に薬を塗っていた母。私も冬の寒い日、指に出来た傷口の痛さで思い出す。
《母の想い出-2》
記憶の中の父母と姉が関わっていたことがあった。ただ本当なのか記憶違いなのか分らないことなのであるが・・・。昭和31年元旦に起こった弥彦神社の事件である。私の記憶の中で当日私と母は、上大川前通の家の居間でラジオを聞いていて事故を知った。二年参りの参詣人が、弥彦神社の階段で将棋倒しになり、多数の死傷者が出たとラジオが言っていた。私の記憶では丁度姉がそこへ行っており、ふたりで心配している光景が記憶の中で残っている。
しかし当時の私は10歳に満たなかったし、姉の守枝も12歳でしかなく、遠い弥彦神社へわざわざ行くことは考えにくい。その場には妹の美津江と父はいなかったと、記憶している。後で聞くとはなしに耳にしたことに、父の浮気とそれが関係していたのかもしれない。
どこの夫婦もその様な危機があったとしても不思議ではない。
《母の手芸》
昭和40年代後半になって、時間的に余裕が出てきた母は、最初に読書を好きになった。時間があると毎日図書館から本を借りてきて読んでいた。豊照小学校だけしか出ていないながらも、熱心に読んでいる姿だけは今も鮮やかに覚えている。
そしてそれが下地になったのか、母はアンデルセン作りをやり始めたが平行して、五円玉による作品の親子亀、宝船、打ち出の小槌や五重塔を作ることに夢中になり、私たちもその材料の新しい五円玉を、必死になってかき集め母に渡していた。
そのいくつかの作品が我が家に残っていて当時を思い起こさせる。
良くなっての母は、普段は妹の小針の家に居たが、2週に1度くらい浦山の我が家に泊まりに来ていた。ある時、母が風呂に入っているので
「どうだ」とドアを開けて覗くと、
「女の人の風呂など覗くものでない」と叱られた。
幾つになっても親は親である。
そして、上大川前通から持ってきた仏壇の掃除やおりんを研く役目は母がやっていた。しかし、自分の夫がこの世にいないことを不自然と思わない自然体に居る母に、そのことを聞く勇気がなかった私である。
《姉の結婚》
昭和42年10月22日、姉 守枝の結婚が、晴れの新潟県護国神社で行われた。
その写真には、少しふっくらとした姉が幸せそうに写っていたし、父母もこれでひとつ肩の荷が下りたと言う満足の顔をしていた。
昭和45年10月24日、父母にとっては初孫の長男が誕生した。
昭和48年11月27日、3年後次男も誕生した。
《姉・守枝》
姉・守枝は私より2歳年上の、何をやらしても出来た上しっかり者の器量良しであった。そのせいもあり、弟の私はいつも姉に頭が上がらなかった。その上昭和40年、私が埼玉の会社に就職したこともあり、姉夫婦は氷屋のかきいれどきの夏場には上大川前通の家の手伝いに来てくれて、父母も心強さと共に頼りにしていた。
初孫の長男は、幼かった頃迷子になった時の用意に、「加藤氷屋の孫」と書いた名札を付けて曙公園のブランコで遊んでいた姿を今も思い出す。初孫で両親と共にいつも側に、氷屋のじいちゃんと、ばあちゃんが黙って見守っている姿があった。
《手まりの会》
姉も父母の血を受け継いだのか手先が器用で、刺繍の手鞠を作っていろいろな方に配り、喜んでいただいていた。昭和52年私が中央公民館の文化祭の役員をやっていた時、姉もこの手鞠を作る会の「まりの会」に入って活動していた。先日、何気なく公民館25周年誌をめくって行くと、姉の名が出ていた。姉も昭和55年と56年の文化祭役員になっていたことを初めて知った。
昨年の11月、久しぶりに公民館文化祭の初日に行って、何十年振りに「まりの会」の作品に逢った。当時とは又違った技法が見られたが、そのまりの中に姉の姿を垣間見た。
《姉の乳がん》
昭和58年姉の乳がんが見つかりすぐに手術を行い、出来るだけ取り除いた。しかしすぐわきの下のリンパ節に転移が発見された。昭和60年暮、私の参加している歴史の会で来年こそ四国に行くことが決まった。私はその時父母に、四国の地を一緒に見せたく思い誘った。姉も当時それほど急なことになるとは思わず、9月四国に父母と一緒に行く予定でいた。
昭和61年5月25日、西堀の寺にて加藤家の永代供養行事が行われた。その年の1月に産まれたばかりの妹の長男と共に、姉の元気な顔が写真に写っている。元気に写っているようで実は、ガン治療の為の抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちかつらでの出席であった。
その頃実家に行くと、母が仏壇に黙々と手を合わせていることが度々あった。父もそれらしきことは何も言わずに仕事をしていた。
《姉の死》
翌月四国に行く8月、このまま姉を置いて四国には行けぬと母が言い出した。当然であった。計画を立てた私は父だけでもと、父と一緒に旅だった。しかし父も旅の空で、思いは新潟にいる姉の心配であった。
昭和61年10月18日、姉・守枝は二人の子供の将来を心配しながら旅だった。まだ42歳の若さであった。長男が高校の1年生で、次男がまだ中学の1年生であった。夫と、まだ学生の二人の子供を残しての旅立ちに、姉は大変心配であり、大いに残念であったと思う。
《妹の結婚》
昭和51年10月3日、妹 美津江の結婚式が、新潟厚生年金会館にて行われた。
そして昭和52年 9月28日、長女が誕生した。
その後昭和57年11月20日、長男も誕生した。
昭和61年1月27日、次男も誕生した。
孫たちは両親が共に働いていたため、上大川前通の「じいちゃん」と「ばあちゃん」の所に居ることが多く、父母は5人の外孫の面倒をよくみてくれた。
父が亡くなり、母が良くなって小針園に通うようになって、本来なら次男の私の家で母の面倒を見るのが本来の姿であった。しかし母は耳が遠く、左手の耳元で大きな声で話さなくては聞こえない。我が家では見えない障害者の妻とが一度ぶつかり、母が転倒する一歩手前の状態では常の同居は難しかった。
その為、母が妹の家で一緒に暮してもらったことに感謝以上のものを感じている。改めて、妹夫婦にありがとうと言いたい。
《私の結婚》
昭和40年4月、埼玉の会社に勤めたが、7年後の昭和47年4月に新潟に戻ってきた。
そして昭和55年4月13日、私は、千恵子と、出来たばかりの郵便貯金会館にて結婚式をあげた。
そして浦山の関屋分水路の見渡せるマンションを借りて住んだ。
昭和57年3月、妻と父母と4人で東京見物をすることが出来た。今も残る、皇居二重橋前、芝高輪泉岳寺、浅草浅草寺、隅田川の船上での写真が今も残り、当時の思い出を伝えている。昭和60年5月、父母を初めて飛行機に乗せることも出来た。妻と一緒の4人で、北海道へ4泊5日の旅に行けた。札幌でレンタカーを借りて、道東の函館まで足を伸ばし、ゆっくりとした時を過ごすことが出来、少しの親孝行が妻と一緒に出来たことになった。
しかし、これが父母との旅行の最後になった。次ぎに予定していた四国への旅は、姉の病気などで父だけとなった。
《母の死》
平成7年12月14日母は、この世から惚然と消えた。それは妹の家で午後7時前いつものように風呂に入ったが、20分経っても出てこないので家族が見に行くと、湯船の中でうつ伏せになっていた。救急車を呼ぶと同時に、わが家にも電話があり、私もすぐに駆けつけた。妹の家と私の家とは車で5分の距離であったが、信号機のまだらっこさだけが私の脳裏に残っている。
救急車が妹の家に着くのと同時に私も家に入り、救急隊員と共にかかり付けの小針病院に運び、院長先生の手当てを受けたが、手後れであった。母の兄妹は前に書いたが、7男4女が生まれたが成人したのは4男3女であった。その中でも母は、祖母の84歳に及ばなかったが、兄妹の中では最高の82歳までの長生きであった。平均寿命から言えば及ばないけれど、人の一生とは何なのであろうか。
人は生まれた時より、目的の「死」というゴールにただ突き進んでゆくしかないのであるが、その過程でいかに生きるかを問われている。母の兄妹にもさまざまな人が居たが、その人それぞれに個性がある様に、その人らしい人生を送って旅だった。果たして私に出来るのであろうか、自分らしい一生が・・・。
《とうちゃん、かあちゃん、ねえちゃん》
「とうちゃん」と昔は呼んでいた。それが何時の間にか「おやじ」「オヤジさん」。「かあちゃん」から「お袋」。「ねえちゃん」から「姉貴」へと変っていった。そして姉が孫を産んでからは「じいちゃん、ばあちゃん」と呼ぶようになった。
これは高校生になり、他人の目を気にしてからであった。「とうちゃん」「かあちゃん」と誰かに聞かれることの恥ずかしさと、父への反抗心からであったであろう。父として記憶に残る一番は「手を上げる恐い父親」であった。当時はごく当たり前の父親であったであろうが、叩かれる痛さよりその考え方にあった。
《父への反発》
私は若い頃、父の酒を飲むとくどくなる生き方などに反発し、新潟を離れた。8年後Uターンし良い伴侶を得て父母の家から独立、お互い離れて暮らして来た為父母の若い頃(戦後)のことや、親戚や仏事に関し知らないことが多くあった。突然二人がこの様な状態になり、何も聞けなかった。前にもっといろいろ聞いておけば良かった、と悔やむが終わりであった。
三回忌を迎え、父母の過去はどの様なものであったのかを、写真や親類からいろいろ聞き、父母の生まれてからの時間を年譜にしたが、空白の欄が多く残った。父母の家の近くにいた姉・守枝が生きていればそれらはすぐに分かるのであろうが、その姉も父より2年半前に亡くなった。父と母は姉と妹の子供5人の面倒を良く見てくれる優しい「じいちゃん」「ばあちゃん」であった。
《父の想い出集》
今回を逃すと、父母の一生がどの様な人生であったのか分からなくなるのではないかと思い、三回忌に来て下さった親戚と孫5人で「想い出」を作った。色々調べれば調べるほど、いつの間にか私も父と性格が似ていると言われるし、自分でも時々父なら「どうするのかな」と思うことがままある。
父吉雄も産まれた時、その上の兄の好雄が亡くなったばかりで、そのまま読み方を同じくした名前を付けられたものであり、私の名前も兄の勲雄と同じ呼び名を取ったことは偶然とは言えないものを感じる。
父の軍隊時代の話しは好きになれず、話の輪には入らなかったが、今思うともう少し聞いておけばとついつい思う。
昭和31年10月、父が知人の連体保証人になり差し押さえられたことで、戸籍上母と離婚したことや、祖母の要次郎がどのような経緯で蔵岡から加藤家に入ったのやら、伯母のやっていた魚中卸の倒産の事、そして、戦時中に幼くして「赤痢」で亡くなった、兄姉のことであった。
《聞けなかった写真》
父の死後、仏壇の引き出しに整理していない、多くの母の奉公先での写真が見つかった。母が少し良くなった時に聞いてみるとそれは、奉公先の家族と奥様の写真であったが一枚として母は写ってはいなかった。そして父も東京での風呂屋の三助時代のもが一枚あるのみで、何かしら共通している。二人にとって写真のない10代から20代の青春時代とは、いったい何であったのだろうと。
倒れる前にいろいろ話しを聞けなかったことや、金婚式の食事を約束しながら果たせなかったこと、そして父と二人で酒を飲む機会が一度も無かったことが、少々親不孝であった。