新潟の歴史散歩5


 越後の農兵隊1 「精義隊」

武士になれなかった、内野農民兵と義勇碑


【新潟市内野町の清徳寺】
浄土真宗東本願寺派の清徳寺
浄土真宗東本願寺派の清徳寺
その寺は新潟市内野駅より100m程新潟寄りにある。新潟大学へ行く跨線橋の右に大きな寺の屋根が見えてくる。
寺は浄土真宗東本願寺派の清徳寺である。
境内は1,000坪を越える広大な敷地を持つ。寺の歴史も寛永年代(1630)頃よりあると言われる新潟でも古いお寺であるが、安政4年(1857)の火災に逢い、古い記録類は焼失してはっきりはしない。
寺はバス通りより少し入った所のため静かであるが、時折隣りの跨線橋をバイクの学生が通るので、以前ほどでなくなったと地元の人は言う。
本堂脇の墓地の中に目指す、農民義勇兵戦没者碑「義勇碑」はある。
石碑は130年の歳月で傷みはひどく、正面の「義勇碑」だけがかすかに読める。
本堂裏の義勇碑
本堂脇の義勇碑
【清徳寺の義勇碑】
この碑の主人公たちは、今から130年前の幕末動乱の際、西蒲原郡内野村(旧会津領、現在新潟市内野町)下組の庄屋、渡部三郎兵衛が組織した農民義勇兵である。
当時日本全国で数多く生まれた幕末諸隊(代表的なものに新選組、長州の奇兵隊などがある)の一つであり、越後では数少ない旧幕藩側としての戦闘経験のある農兵隊である。
慶応4年1月3日、鳥羽伏見で始まった戊辰戦争の火は、5月には越後にも飛び火した。薩長を主力とする新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との間で、「雪峠の戦い」「鯨波の戦い」へと続き、越後全体へと拡大していった。
隊の結成と出陣、その後の命名】
慶応4年5月19日、越後の奥羽越列藩同盟の砦であった、牧野家の長岡城も、後の首相・山県有朋率いる奇兵隊を主力とする新政府軍の奇襲作戦の攻撃により、落城した。
当時内野村は、文久3年(1863)幕府直轄地の天領より、会津藩・松平23万石の領地となっていた。
会津藩は慶応4年5月中旬、内野村に対し義勇隊を組織し、「事あるときは藩に協力せよ」との命令を出した。
このため、村内の20歳から40歳の農民の2男3男と、渡部家の奉公人で20名程の隊を作った。5月22日、会津藩より渡部三郎兵衛に対し、出兵命令が下り出陣することとなる。
約一カ月間、巻・吉田・小須戸・三条へと転進し、会津藩の配下に入った。
6月24日明け方、久田村山中(三島郡西越村内)で大規模な戦闘となった。この際敵陣に切入り、隊内より3名の死者と2名の怪我人を出した。
彼らは3名の葬式を出すため帰郷を命ぜられ、内野に帰った。
その後は、角田最寄浜海岸の警備を、7月中旬迄行った。
7月9日内野村農民義勇兵は正式に「精義隊」と命名され、会津藩士・佐藤織之進を隊長した隊となった。
【新政府軍の反撃】
慶応4年7月25日、薩長を主力ととする新政府軍は、軍艦2隻を主力とする海軍にて、松ケ崎・太夫浜に千五百名の部隊を上陸させ、新潟と下越の分断作戦をとった。
その為新潟町を守備していた責任者、米沢藩家老・色部長門は兵力の増強を会津藩に要請し、精義隊が新潟町に出兵となる。
7月27日新潟町に到着、色部の指揮下に入る。
7月29日色部は、新潟町の保持し難い事を察し、新潟町よりの脱出をはかる。
その退却途中、関屋の茄子畑で新政府軍と出会い戦闘となり、色部長門は戦死する。
(後の昭和7年、新潟関屋戊辰戦蹟保存会が新潟高校前に「色部長門君追念碑」を建てる)
新潟高校前の色部長門君追念碑
新潟高校前の色部長門君追念碑
【敗走部隊と共に】
精義隊は米沢藩の指揮下(色部長門と途中まで、行動を一緒にとったか不明)に入った為、いろいろあったが米沢へ行く事となり、曽根→吉田を通り三条→下田を抜け、8月1日長岡藩敗走部隊と一緒に八十里街道で会津に脱出、8月9日米沢にて再起をきす事となる。
(7月29日再度長岡城落城、長岡藩軍事総督・河井継之助重傷)
8月3日、渡部は渡辺辰之進と改名した。その時彼は32歳の壮年であった。このような状況の中の改名は何を意味するのか、私の理解を越えた事であった。
然し考えるに当時の彼は、会津藩より名字帯刀を許されているとはいえ、内野村下組の庄屋でしかない。戦場で亡くなるのならと、武士としての改名であったのか、全く違う自分を見いだそうとしたのか、墓の主に聞くほかない。
同時期、部下の農民も名字を付け、武士らしく名乗り合ったと言う。
農家の2男3男にとって、この様な維新という変事がない限り、世に出るチャンスがないと思ったのかもしれない。
その後福島方面の警備を行うが、9月3日米沢藩も新政府軍に降伏する。その後戦況悪化で各々が殺気立って、つまらない喧嘩や事故などがあった。しかし、9月25日庄内藩も降伏、東北地方の戊辰戦争も終結する。その後、庄内藩に帰郷願いを出すがすぐにはおりず、11月に許可も下り帰国する事となる。
18日米沢をたって小国、荒川経由で23日約四カ月振りに、故郷内野村に2列縦隊を組んで帰郷したとある。
【精義隊のその後】
渡部は帰ると名前を旧姓に戻し、庄屋職に復帰した。
時代も慶応より明治に移り、内野村も会津藩領より明治新政府の出雲崎民政所の所管となる。翌明治2年正月早々、渡部三郎兵衛は出雲崎民政所からの呼出を受け出頭する。渡部は、精義隊出陣は賊軍に協力したと言うことで、即刻獄舎に投ぜらるが村民一同の嘆願書により、三カ月後釈放された。
精義隊の中には、将来は武士になりたいと思う者もいたであろうが、徳川より明治の激動に押し流され失意の内に時代は流れていった。

それはこの隊が、思想というものを持たなく、かつ後ろ盾となる会津藩が崩壊した事があげられる。
しかし、この時代に発生した諸隊の最後を見るとあまりにも無惨すぎる。それは、幕府の武士階級の崩壊と流れを同じくしている。
【義勇碑の建立】
明治三年六月、4段の台座に上に、高さ55cm、巾77cm、奥行き20cmの義勇碑は立てられた。
左側面のわずかに判読できる文字は
 「渡辺辰之進配下 神田愛造」と読める。渡辺辰之進とは、米沢で改名した時の名前である。
しかし、裏面に由来が書いてあると思われるが、摩滅が激しく全く読めない。
建立当時渡部は、庄屋職を養子の貞次郎に譲っていた。神田愛造なる人物は彼の書いた
「慶応四年 出陣中萬留帳」には載っていない。
出陣中萬留帳
出陣中萬留帳
【時代の流れ】
この越後に来て活躍した幕末諸隊で、明治政府軍の代表的な奇兵隊でさえも、戊辰戦争が終息すると「無用の長物」となった。
庶民や農民からかき集めた兵力は、平和になると政府や諸藩にとっては、お荷物の邪魔者でしかなかった。

明治2年12月1日、長州藩に奇兵隊の暴動が起きると、鎮圧したのはかって指揮した木戸孝允であった。奇兵隊(越後で活躍、長岡城を落城させた)にしてみれば、恩を仇で返されたものであろう。
反乱に加わった者は約二千名、133名が死刑に処せられた。明治維新の立役者「奇兵隊」は、反乱によってその栄光を閉じた。かってのリーダー山県有朋や伊藤博文などは、新政府の要職に収まり兵士を置き去りにしたのである。
7名の奇兵隊士の写真、服装にも和洋が入り乱れている。
奇兵隊士(服装に和洋が入り乱れている)
それはこの越後の各地で、新政府軍として華々しく戦った居之隊.金革隊.北辰隊.正気隊にも言える。
それは「時代の流れ」と片づけるには、あまりにもあの時代に生きた者に失礼にあたる。もしも私があの時代に選択を求められたなら、やはり渡部同様の生き方になっていただろう。
その後の明治11年9月の明治天皇北陸巡幸の際、内野村の渡部家は御小休所となり名誉を回復したと言う。しかし精義隊の隊士が、その後どのような人生を送ったかは、誰も知らないと言う。
ただ知るは「義勇碑」のみである。
【幕末諸隊について】
幕末期に相次いで誕生した諸隊といってもその性格は千差万別であり、
目的や存在意義も種々雑多であり全国で500隊以上あったという。
〔1〕 救国意識に燃え草莽的色彩の濃いもの。
〔2〕 幕藩の軍事補充代用的な農兵隊。
〔3〕 庸兵的性格の強いもの。
    そしてその大小さまざまな軍隊が、勤王.佐幕いづれに属するかで維新期に
   於ける活躍は著しく異なっている。
【代表的幕末諸隊】
・白虎隊.新撰組.彰義隊---------------旧幕藩側
・奇兵隊.赤報隊.天誅組---------------新政府軍側  
・居之隊.金革隊.北辰隊.正気隊--------越後新政府軍側
精義隊-----------------------------越後幕藩側
【農兵隊とは】
農民隊は、外圧と封建的危機に対応する為幕末期にかけて、幕府をはじめ各藩で組織された民兵で、幕藩権力の統制下にあり正規兵の補充の役割を果たすものであった。 
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