新潟の歴史散歩4


越後と太平洋を結ぶ海の街道
村松浜の「平野家」


【越後北蒲原郡、村松浜】
北蒲原郡中条町村松浜とは、新潟市から車で国道113号線を海沿いに北上すること約40分、浜沿いの国道を通っていると、見逃してしまう程それは小さな集落である。
新潟から北に、太夫浜、島見浜、太郎代浜、亀塚浜、網代浜、次第浜、藤塚浜、村松浜、と海岸線に旧街道はあった。
現在かっての浜街道はその面影を残しているが、道は細く、くねくねと曲がっており、その為国道は集落から少し離れた松林の中を通っている。これは時代の定めなのであろう。
そして浜沿いの村松浜に、堀に囲まれた金刀比羅神社がある。
北蒲原郡中条町村松浜
北蒲原郡中条町村松浜
明治まで下越地方の日本海へ注ぐ川は、新潟市から北に向かって、信濃川、信濃川に注ぐ阿賀野川、落堀川(江戸時代中期に掘られた)、荒川の4本だけであった。現在の新井郷川、加治川、胎内川は明治から昭和にかけて掘削された川である。

江戸時代の越後の地図を見ると、下越から中越にかけて無数の潟が存在した。これは海岸線の砂丘帯に阻まれ、行き場のない水が内陸部に溜まって出来たものであった。北部より、岩船潟、紫雲寺潟(塩津潟)、島見潟、福島潟など数多く沼や潟が点在していた。
海への流れ口と水量が決まっていたため、雨が降ると田畑は冠水して収穫が望めなかった。当時の一大名や民衆の力での土木工事では限界があった。これは越後だけの問題でなく全国的なものであった。

江戸中期、八代将軍吉宗の命により塩津潟の干拓の為に落堀川が掘られた。その後塩津潟は完全干拓され、現在はその痕跡を探すことは難しい。江戸時代どこの藩でも沼や潟の新田開発に努めていたが、常に田畑の水はけが悪く、つい最近まで農作業は腰まで浸かってやっていた。現在の米どころ新潟が出来たのは戦後のことである。
【下越の廻船問屋】
そのため農業だけでは食べて行けず、海に生活の糧を求めなくてはならなかった。
村松浜の近くの荒川港は、胎内川、黒子川が流れ込み、水量が豊だけでなく流れが緩やかで、かつ船がかりが広く、新潟港に匹敵する商いがあり繁盛していた。

それらよりこの付近には、廻船業を生業とする素封家が各浜に点在していた。苗字帯刀を許されたものだけでも、桃崎浜の「三浦家」、荒井浜の「細野家」、中村浜の「佐藤家」、そして村松浜で「平野家」があった。
彼等はいずれも知識人で、遊歴する文人墨客を優遇し、時にはそうした人々の経済的パトロンにまでなっていた。
船絵馬1 船絵馬2
千石船の絵馬 千石船の絵馬
【平野家と金刀比羅神社】
「板子一枚、下は地獄」と言われた如く、荒海で危険と常に直面して生きる人たちは、神頼みをするよりほか無かった。ことに金刀比羅様は、農業殖産、海上安全、豊漁・家内・村内安全を祈願する漁民の信仰を一身に集めていた。
平野家も毎年、讃岐の金刀比羅神社の参詣を怠らず、天明8年(1788)にははるばる四国より分霊した金刀比羅像を、自宅に祀ったくらいである。

天保年間全国的に不作、大飢饉が続いた。平野家五代目安之丞は、金刀比羅神社の本格的な造営工事を行うことで村民救済を思い立った。彼は直ぐに水原の代官所に願い出、献金を条件に許可された。
この付近は天領で、幕府も天保の改革を実施している事もあり、四国の象頭山を模した大社殿を造営すべく大工事となった。環濠を深く掘りその土で小山(約 800坪)を築き、山頂に本殿を造営した。
堀と鳥居と島 島に渡る橋
堀と鳥居と島 島に渡る橋
本殿の造営に当たり、村上からわざわざ工匠・稲垣治平を招き、14年の歳月を費やし完成させた。
村人は、神殿のあまりの見事な彫刻に、
「このまま浜風に晒させるのはもったいない」と、じきに覆堂で保護した。
現在は本殿向拝と、中柱に巻きついた双龍の彫刻の線の細いながらの力強さは見事である。又、回廊の羽目板に刻まれた見送り絵の中国人の姿は、村上大祭のオシャギリ山車の流れを、強く伝えている。

その他拝殿の絵は幕末の絵師、行田魁庵に書かせるなど、近郷の神社には見られない規模と、素晴らしい出来映えである。
着工から14年目の嘉永2年(1849)、ようやく完成し、世人を驚かせた。
左回廊、見返り絵 右回廊、見返り絵
左回廊、見返り絵 右回廊、見返り絵
【当時の賑わい】
これらの工事を通じ、平野家は幕府勢力と親密になっていった。
当時ここ荒川港を利用の五百石船は、越後米、庄内米を始め煎茶、竹細工品を、上方や北海道に運ぶなど、この付近の人々は大いに海に関係していた。
つい20年ほど前まで、その名残として海外航路の船員の多くがこの付近の出身であった。

また近くの桃崎浜の荒川神社に保存されている奉納模型和船二艘(国指定重要民俗資料)と、北前船の奉納船絵馬総数八五点は全国一の規模を誇る。
天保期から明治初期にかけてこの地方が、「海の街道」に自信と意欲を持っていた証でもある。
【日本初の官民共同の捕鯨事業】
村松浜・平野家六代目安之丞は、本格的な日本初の捕鯨事業を計画する。
それはわが国初のアメリカよりの帰国人、中浜(ジョン)万次郎を船長に迎え、太平洋・小笠原の父島を母港とする本格的な捕鯨事業であった。
文久3年(1864)、わが国初の近代洋式捕鯨船(フェンナ号・長さ20間)をオランダ人より神奈川で購入し、船は「壱番丸」と命名された。
これは当時、幕臣の万次郎が乗り出した事で、日本第一号の官民共同事業であった。
この様な人物が越後の片田舎に居た事を、私は知らなかった
一番丸の捕鯨船で使用していた銛などの道具
【平野家と万次郎の関係】
この捕鯨事業は、六代目安之丞の弟廉蔵が実質的に行ったものである。廉蔵は幼い時から足が不自由であった。そのため長崎に西洋人の名医が居ると聞いて長崎に行く。しかし足は治らなかったが蘭学を学び帰った。
時は、蘭学から英学へ移ろうとしていた。新しいもの好きの廉蔵は、江戸へ出て万次郎の門に入った。廉蔵は英語を学ぶ傍ら、アメリカの話をむさぼり聞いた。
アメリカの捕鯨から採れる脂は、油田の発見までアメリカ国内の産業を支える重要なエネルギー源であった。
万次郎は自らの体験(捕鯨経験と小笠原開発)を日本で生かそうと、越後村松浜の平野家と組んだのであった。

廉蔵もまた、兄を口説いて捕鯨業を興そうとした。六代目安之丞は安政5年、幕府の勘定奉行に西洋型捕鯨船の購入と捕鯨業の許可を願い出た。
万次郎もこれを助けて、外国奉行・川路聖謨らに懇請の労を惜しまなかった。そしてこの越後の地で実現したのである。
時はまだ幕末ながら徳川慶喜が15代将軍になる前であり、京都では尊皇攘夷と騒がれている真っ直中である。
【捕鯨事業と原油採掘】
文久2年(1862)12月26日、「壱番丸」は品川を出航し、1月9日父島二見港に入った。
3月17日「壱番丸」は、鯨を求めて父島を出航した。3月24日目指す抹香鯨を二頭捕らえた。
しかし、小笠原に住んでいたイギリス人とのトラブルに巻き込まれる。その後の、「生麦事件」の余波で幕府より帰国命令が来る。
内容は、「日本人は全員小笠原諸島から引き上げる事」であった。
一行は心を残しながら、小笠原を離れなければならなかった。その後の壱番丸の捕鯨航海は無かった。

それは当時アメリカでオイルラッシュが起こった事である。オイルの精製によるの用途の広さから、鯨油を捕る事への魅力が薄らいで来ていた事が大きい。
その後、越後の7不思議のひとつ「燃える水」もアメリカのペンシルバニア州で発見された原油と同じであろうと、英国人医師シンクルトンを招いて黒川油田の開発に当たったが、後ろ盾となる江戸幕府の崩壊により、全て挫折した。
【壱番丸の遭難と平野家の破産】
その後「壱番丸」は、日本海を就航する貨物船になったが、明治初めに北海道沖で遭難、沈没してしまったとあるが、沈没の詳細は不明である。
一方捕鯨事業は、明治のニチロ漁業まで行われなかった。

そして「北越の名流 平野家」も明治に入り、「捕鯨の中止」「維新の動乱」などにより、破産の憂き目を見るに至った。
彼らは郷里村松浜を逃げるように出て新潟市に居住した。
明治15年(1882)3月、有為の志を抱きながら六代目平野安之丞は死去した。
時に六代目平野安之丞54歳であった。そして、墓の所在は分からない。
【現在の村松浜と金刀比羅神社】
私が10数年ぶりに村松浜の金刀比羅神社に訪れた日は、ちょうど夏祭りの日であった。金刀比羅神社を奉る島の入り口の橋のたもとに、露天が7〜8軒並び、子供達が何を買おうか騒いでいた。
島に渡り参道を上るが、拝殿には氏子の姿はなかった。お詣りし、拝殿の内部の壁を見渡す。そこには、和船の船絵馬と数枚の絵馬があった。その中に目指す「壱番丸」の絵馬はあった。しかし、130年の年月で変色破損しており、はっきりとその姿を見る事はかなわなかった。

大正年間に入り、国鉄羽越線の開通により船便の利用もなくなる。荒川湊も若干の漁業関係だけとなり、各浜に昔の面影を求める事は出来なくなった。
日本海の片いなか(村松浜)にあって「海の街道」を目指し、小笠原諸島の開発、捕鯨、油田開発に着目し、それを事業としょうとした人物が身近に居たが、時代のうねりの中、あえなく沈んでしまった。

しかしこの海の男たちが残したものは、あの金刀比羅神社の中で生き続け、現代の私たちに受け継がれている筈だ。
なぜならば、その後越後は空前の石油採掘ラッシュに沸き、明治から現代そして未来に、我々の受けた恩恵は数知れないからである。
金刀比羅神社拝殿
金刀比羅神社拝殿
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