新潟の歴史散歩3


日本初の領事裁判

松浜の南無阿弥陀佛の碑


【阿賀野川の直流堀割工事】
新潟市内より北に向って30分、日本第3位の大河・阿賀野川の河口に出る。川幅約1kmの阿賀野川は日本海にとうとうと注いでいる。この海に流れる大河が、260年前の暮れから翌春にかけての雪解け水で、一挙に出来たとはどうしても想像がつかない。

かっての川は、現在の河口2km手前の津島屋より急に大きく迂回して今の通船川を通り、焼島潟で信濃川と合流していた。江戸時代の越後の海岸線は、北西の風で海岸線に幾重もの砂丘を作り、内陸部の水は砂丘にせき止められ行き場を失い、至る所沼や湿地帯となっていた。
阿賀野川の川の状態
阿賀野川の川の状態(開削前青い川筋)
春の雪解け水、梅雨どきや夏の集中豪雨、秋の長雨、時を選ばず阿賀野川、加治川、信濃川は氾濫して土提を破り、田を流し人命を奪う。
この阿賀野川を直進させ、洪水の危険を除こうとする工事を新発田の大庄屋小川五兵衛が幕府に「堀割工事」を願い出た。

新潟町では言うまでもなく反対した。
 ・1滴の河水でも他に流すな、流せば信濃川が浅くなり、新潟港が浅くなる。
 ・堀割が海に吐き口を持って、船の出入りの港となったら死活問題だと。
しかし、幕府は享保15年(1730)7月工事の許可を出す。時は八代将軍吉宗の新田開発奨励の時代であった。

工事は8月23日着工。場所が砂地であったので、スムーズに行き10月14日完成した。
堀割は、常水以外の水を流すため川底に、蛇籠に石を詰めて並べたでけであった。
その為雪解け水で掘割は一挙に、深さ二丈、巾百五十間の大河となった。
これは正に「覆水、盆に帰らず」の如く、新潟町にとっては後々まで続く大問題となった。
【旧北蒲原郡、松ケ崎浜村】
それから約140年後の慶応4年7月25日、川幅は倍以上になっていた。
当日は明治と改元する二ケ月前の晴れの昼過ぎ、一人の若き武士が、二人の供と津島屋より駕篭と共に阿賀野川を渡り、対岸の旧松ケ崎浜村の出羽街道の浜道を目指した。
その人は弱冠二十七才ながら出羽の国、「庄内藩」十七万国の中老・石原 倉右衛門成知である。

時は徳川家康が江戸に幕府を開き、鎖国政策をもって封建制度を維持して260年。泰平を破る黒船の来航で、国内は尊皇攘夷、勤王佐幕と騒がれ、十五代継いた徳川幕府が朝廷に政権を返上し、戦国時代を思わせる状態の中であった。
松浜の船着場より一丁ほどにある、浄土真宗大谷派・松栄山「浄音寺」の脇に、その供養塔はある。碑には「南無阿弥陀佛」の六文字が刻まれている。
南無阿弥陀佛の供養碑
南無阿弥陀佛の供養塔
【戊辰戦争と越後】
その年の慶応4年正月3日旧幕府軍は、江戸の薩摩藩屋敷の焼き討ち事件勝利に意気高揚と京都郊外、鳥羽伏見において薩長両軍を主力とする新政府軍と一戦を交えた。しかし、たった半日の戦闘で破れた。それは薩長の近代兵器の前に、幕府軍の刀と槍の戦闘で破れた。
十五代将軍・徳川慶喜は、数人の重臣のみを連れ大阪天保山沖の軍艦で、江戸へ逃げ帰ってしまった。

その後、4月の西郷隆盛、勝 海舟による江戸城無血開城、5月の上野・彰義隊の敗戦により、戦火は東北地方へと広がって行った。越後・東北の諸藩は、徳川の恩に報いると共に、薩長何するものぞの意気込みであった。仙台藩、庄内藩、米沢藩、長岡藩を中心として奥羽越列藩同盟を結成し、破竹の勢いで攻め上る新政府軍を相手に戦う体勢を整えていった。

当時新潟町は佐渡同様に天領地で新潟奉行所が置かれていた。そして、4月まで奉行は居たが、江戸、水戸、桑名等の浪人が流れ込み、騒然となるとともに江戸に引き上げて行った。6月奉行代理・田中廉太郎も、治安を奥羽越列藩同盟軍にゆだね江戸に帰って行った。
ここに新潟町は、事実上列藩同盟軍の武器弾薬の補給基地となり、一層新政府軍の攻撃の的となった。奥羽越列藩同盟軍の代表者の中には、米沢藩重臣・色部 長門、長岡藩軍事総督・河井 継之助、庄内藩中老・石原 倉右衛門成知がいた。
【江戸薩摩藩邸焼き討ち事件】

慶応3年(1867)12月25日幕府と諸藩兵が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした事件。
江戸では、王政復古の後、江戸市中が辻斬り・強盗等で荒れていた。主犯は西郷隆盛の指示で動いていた益満たちであった。益満たちは幕府を挑発して、幕府から薩摩への激怒させて、戦の大義名分を勝ち取ろうとした。

幕府は、庄内藩など4藩兵を含め約2.000名を動員して三田の薩摩藩と支藩佐土原藩屋敷を焼き討ちにし、多くの浪士を捕らえた。この事件が伝わると共に、大坂城内にあった幕府兵と佐幕派諸藩兵は挙兵入京と称して京都へ進撃を開始、鳥羽・伏見の戦いの火付け役であった。
庄内藩中老石原倉右衛門成知】
石原 倉右衛門成知は、幼くして長兄が死亡し石高800石の石原家を継ぐ。十六歳にして江戸詰めの中老(庄内藩では家老に次ぐ職)となる。江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件の際は、庄内藩千名の総大将として他藩を率いて戦闘を指揮し、戊辰戦争勃発の幕開け役を演じた。その後庄内に帰り、庄内藩征伐事件の時は、吹浦口警備の大将を勤め、6月に新潟へやって来た。

奥羽越列藩同盟軍は、鳥羽伏見の敗戦の教訓として、近代兵器購入が戦略上必要不可欠であることを学んだ。
その為、庄内藩は酒田の豪商本間家より大金を出させ、新潟港にてオランダ商人エドワ−ド・スネル(兄はヘンリー・スネル、日本名 平松 武兵衛)より購入するために、石原 倉右衛門成知を新潟に派遣したのであった。そして、シャーピ銃600挺、同弾薬60万発、ミニゲール銃300挺等の武器・弾薬の購買契約(五万二千三百二十二ドル)を7月24日に結ぶ事が出来た。
その他会津藩、米沢藩、庄内藩の三藩が各一万両、酒田本間家が四万両を立替え、さらに新発田より二万両を出させ、イギリスより鉄船および鉄砲などを買入れるというものであった。
 
新政府軍も奥羽越列藩同盟の意外な抵抗に本腰を上げ、6月より準備を整え7月25日早朝 軍艦二隻(長州藩籍丁卯鑑、朝廷御用船摂津鑑)を含む六隻の艦隊に千五百名の兵を太夫浜に上陸させ、越後の戦線を分断する作戦をとった。
たまたまその日、石原は前日の契約書その他を懐に庄内に帰るため、津島屋より舟で阿賀野川を渡り、午後3時過ぎ松ケ崎浜の船着場に着いた。出羽浜街道に出てすぐに、早朝上陸した長州兵の一隊と出会った。長州兵は駕篭に数発の銃弾を打ち込み、よろけ出た石原を後より頭部に切りつけ絶命させた。
従者の一人は生け捕られ、二人は遁走した。
石原倉右衛門成知の乗っていたかご<BR>戦後まで沼垂の願浄寺にあった。
石原倉右衛門成知の乗っていたかご
戦後まで沼垂の願浄寺にあった。
【日本初の領事裁判】
石原の懐から、武器・弾薬の購買契約書があった事で、それ等はすぐに京都の太政官に送られた。
慶応4年(1868)4月イギリス公使が中心となって、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどの外国公使団は、この戊辰戦争には中立を取るとの声明を出していた。
新政府はこのスネルの行動は、声明を無視したものとして、オランダ公使に厳重に処罰するように要求した。
明治元年(1868)10月20日、横浜のオランダ領事館で、スネル裁判(日本初の領事裁判)が開かれた。

我が国最初の領事裁判は、オランダ公使ボイルブル−クが裁判長になり領事館が法廷となった。
裁判長は石原の持っていた武器弾薬の売買契約書には、署名、捺印も無く保証人の連記さえ無いので証拠としては認められないとして、新政府の主張を退けた。
これは中立違反といきまいた日本側も、結局交戦団体という国際法上の知識が無く、外国側に軽くいなされた結果で終わった。

徳川幕府が開国と同時に列国と結んだ〈安政の通商条約〉には、外国人が日本国内で犯した罪の裁判権は、外国にあるという不平等な内容であった。その後の明治政府は、スネル裁判の一方的な裁判を無くす条約改正に長く苦しまなくてはならなかった。
【日本へのスネル物資の賠償問題】
明治5年7月27日、オランダ国弁理公使を通じて、時の外務卿副島種臣に対して、「新潟におけるスネル物資の損害賠償要請の件」が出された。その額五萬六千六百七拾七両である。
これは新潟が新政府軍に接収された際、「唐物屋ヤマキ所有の白山蔵に入れておいたスネルの品物を略奪され、直ちに新政府軍の用に当てられた」事である。
日本政府は結局、治外法権ということのため損害賠償に応ぜざるを得なくなり、明治6年6月3日付けでこれを認め、スネルにメキシコ銀四万ドルを支払い、今後一切の請求を放棄させたのである。

彼は武器商人で、戊辰戦争に敗れた側にありながら、オランダ国籍を最大限に駆使した自己主張をしたのである。
エドワード・スネルの写真
エドワード・スネル
【戊辰戦争の終結】
慶応4年7月27日 長岡城再落城。同29日新潟陥落と約三ケ月持ちこたえた越後戦線も、同日新潟守備の責任者、米沢藩家老・色部長門、同8月16日会津塩沢で、長岡藩軍事総督・河井継之助と相次いで倒れ、越後の戦闘の終結となった。

石原の死んで間もなくの8月中旬、薩摩の西郷隆盛が松ケ崎浜村に入り数日滞在した。前年の12月、薩摩の西郷隆盛が同藩の益満久之助に命じ、江戸市中の押し込み、強盗、放火をやらせ幕府を挑発した。その時幕府は、庄内藩その他に取り締まりを命じ、彼は指揮官として江戸の薩摩藩上屋敷を攻撃、焼き討ちにした。それにより1月3日の鳥羽伏見と発展し、戊辰戦争の幕開け役を無理矢理やらされた

これは戊辰戦争の幕開け役の石原と、その仕掛人の西郷の奇妙な、松ケ崎浜村での出会いである
9月25日庄内藩降伏により、北越戊辰戦争は新政府軍の勝利となり、翌年の函館戦争終結を以て戊辰戦争の幕は閉じた。
その後西郷の庄内藩びいきにより、思ったほど重い処分の無かった背景には、江戸でのやらせの結果、庄内藩への「罪滅ぼし」が、西郷のどこかに働いたのかも知れない。
年 代 石原倉右衛門成知の略歴
天保10年 1840 . 石原倉右衛門成知、庄内に生まれる
嘉永 4年 1852 . 組頭となる。(12歳)
慶應 2年 1866 . 中老になる。(25歳)
 〃 3年 1867 10月 大政奉還により京に行く。
 〃  〃 11月 江戸取締りとなる。
 〃  〃 12月 江戸薩摩藩屋敷焼き討ちの際の庄内藩総大将。
慶応 4年 1868 1月 鳥羽伏見の戦い、幕府軍負ける。
 〃  〃 2月 庄内藩士江戸を引き上げる。(27歳)
 〃  〃 4月 19日 、吹浦口警備の大将となる。(庄内討伐事件)
 〃  〃 閏4月 11日 、奥羽列藩同盟結成  25藩。
 〃  〃 5月  4日、奥羽越列藩同盟結成 32藩となる。
 〃  〃 6月 石原倉右衛門成知、新潟に来る。
 〃  〃 同盟軍より欧米列国への声明書(仙台藩芦名、会津藩梶原、米沢藩色部、長岡藩河井)
 〃  〃 7月 24日、オランダ゙商人エドワード・スネルと庄内藩執事、本間友三郎との間に武器弾薬の契約を結ぶ。
 〃  〃 25日、朝これ等の書類を持って、新潟湊を出発。
 〃  〃  〃  午後松ケ崎浜村にて太夫浜上陸の官軍(長州軍)と遭遇、戦死。
明治元年  〃 10月 20日 横浜オランダ領事館にて国際裁判。
明治 2年  〃 10月 下旬 、庄内藩叛逆首謀人として届ける。全国で、十五藩.二十三名。
昭和 7年 1933 . 松浜に遭難遺跡碑作られる。
昭和42年 1967 8月 25日 、百年祭が行われる。
【南無阿弥陀仏の碑】
遭難遺蹟碑
殉難の碑
 明治元年戊辰年、奥羽越の諸藩連盟して兵を越後
に出し官軍に反抗す。7月25日庄内藩重臣石原倉右
衛門成知、要務を以って国に帰らんとし、新潟を発し
て比処に至るや偶、太夫浜に上陸せる官軍の先鋒に
合い包囲する所となり単身奮闘屈せずして遂に殪る。
因って石を建て其の遺蹟を表示す。
松浜にて
供養塔脇の遭難遺跡碑
松ケ崎浜村の人達は、倉右衛門成知の遺体を近くに埋めたが、新政府をはばかって自然石に、「南無阿弥陀仏」の六字を刻んで墓石とした。横に小文字で「慶応四年辰七月二十五日」のみである。その後の昭和五年、新潟市編纂委員会が現在の高さ2mの「遭難遺跡碑」を墓石の脇に建てた。
【叛逆首謀人】
明治2年、太政官より庄内藩へ〈戊辰戦争降伏謝罪の首謀者を届けよ〉との達しで庄内藩はやむなく、戦死した石原倉右衛門成知を、戊辰戦争の庄内藩首謀人として届け、家名は断絶した。

戊辰の役の叛逆首謀人は全国で、十五藩.二十三名に及んだ。     
藩 名 叛逆首謀人 旧石高 新石高 削封高
長岡藩 (牧野家) 河井 継之助、 山本 帯刀 . 74.000 24.000 50.000
会津藩 (松平家) 菅野 権兵衛 田中 大海 神保 内蔵介 230.000 30.000 200.000
仙台藩 (伊達家) 但木 土佐 坂 英力 . 625.600 280.000 345.600
村上藩 (内藤家) 鳥居 三十郎 . . 50.000 50.000 0
米沢藩 (上杉家) 色部 長門 . . 180.000 140.000 40.000
二本松藩(丹羽家) 丹羽 一学 丹羽 新十郎 . 100.700 50.000 50.700
山形藩 (水野家) 水野 三郎右衛門 . . 50.000 50.000 0
盛岡藩 (南部家) 楢山 土佐 . . 130.000 130.000 0
村松藩 (堀 家) 斉藤 久七 堀 右衛門 . 30.000 30.000 0
関宿藩 (久世家) 小島 弥兵衛 . . 58.000 53.000 5.000
結城藩 (水野家) 茂野 喜内 水野 又兵衛 水野 甚四郎 18.000 17.000 1.000
桑名藩 (松平家) 森 弥一右衛門 . . 110.000 60.000 50.000
棚倉藩 (阿部家) 阿部 内膳 . . 100.000 60.000 40.000
松山藩 (酒井家) 高田 亘 . . 25.000 22.500 2.500
庄内藩 (酒井家) 石原 倉右衛門 . . 140.000 120.000 20.000
現在土地の人は、石碑を庄内様と言っているが、そのいわれを知っている人はごくわずかとなった。
当時見渡す限り砂丘であったこの地も家が多く建ち並び、車の通る表通りからは石碑も何も見えない。そしてこの空の真上を、ジェット機が毎日ごう音をたてて新潟空港に離着陸している。

「あの時代、ほんの少しでも高い所からこの海を望めていたら、彼は死なずに済んだに」と思うのは私だけであろうか。
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