新潟の歴史散歩2


大洲藩二番船「洪福丸」のゆくえ

時代に翻弄された、人と船

新潟縣護国神社
西船見町にある新潟縣護国神社
【護国神社の戊辰役殉難者墓地】
日本海を望む新潟市西船見町『新潟縣護国神社』。ここは近くに水族館のマリンピア日本海、会津八一記念館、坂口安吾の「ふるさとは語ることなし」の碑を始め、北原白秋の「すなやま」の碑などあり、新潟市民の憩いの場所となっている。
また神社の中には、松尾芭蕉が奥の細道の途中、新潟に一夜の宿を訪ったことにちなみ、芭蕉堂もある。
一の鳥居をくぐって参道を行く。両側の崖の上の松林は冬の日本海の風を受け、仲良く皆陸に向いお辞儀をしている。しばらく行くと、左手の松林の中に、ブロック塀で囲まれた一角が見えてくる。数年前までは鉄の扉がいつもガッチリ閉まっており、何か近寄りがたく、人の入るの拒んでいた。しかし現在は、その鉄の扉もなくなり、開放的で自由に出入り出来る。
入口には、「戊辰役殉難者墓苑」と書いた石柱と、「戊辰新潟戦争」の説明文がある。
戊辰役殉難者入口 戊辰役殉難者墓苑
入口の説明文 戊辰役殉難者墓苑
ブロック塀の入口の両側には、越前藩寄贈の灯篭がある。中は四百坪程の広さの中に、二列にズラリと並ぶ墓石。墓石群の真中に
「御親兵十津川隊戊辰役戦歿者招魂碑」
「薩摩藩戦死者墓」
「戊辰の役東軍慰霊碑」
の大きな石が目に入ってくる。

中ほどの東屋に座り見渡すと、墓石の一つ一つが、昔を私に静かに語りかけてくる。
ここはすぐ隣を走る自動車の音も聞こえない程、一種独特の雰囲気を持った処である。
ここに立って想い起こすと、私の高校はグラウンドがなく部活は、学校からこの護国神社までマラソンすることからであった。この参道でうさぎ跳びを繰り返した後、崖の上で二人が組みになって柔軟体操をするのが常であった。が、当時の私はこのブロック塀の中に何があるのか、ひとかけらもの関心もなかった。

ただ、この一角が妙に心に引っかかったものあったことは事実である。そしてここに最初に入ったのは、公民館の「明治維新史講座」の後、古武士のような池先生たちと新潟の維新の跡を訪ねた時であった。
初めてこれらの墓を見て、新潟にも維新の遺跡があることと、それらを私は全く知ろうとしなかったことの後悔であった。それから私の「維新への道」が始まった。
薩摩藩戦死者の墓 戊辰戦争東軍慰霊碑
薩摩藩戦死者の墓 戊辰戦争東軍慰霊碑
【新潟町の歴史】
新潟は江戸時代、新潟町と呼ばれていたが、公式な名称は新潟浜村であって、その名の通り漁村の集落から発展したのであろう。
信濃川(367q)と阿賀野川(210q)が、新潟市で日本海に注いでいる。長い歴史の中でこの二つの大河は、河口で合流、分流を幾度となく来り返してきた。度々の洪水の氾濫が終わると、川には大きな中州や島ができたり、消えたりもした。この堆積地に人が住み、南の潟に冬場の季節風を避けて住み着いたのが始めと思われる。そしてその新しい潟、すなわち新潟となったであろう。

新潟と言う地名が出てくるのは、永禄11年(1568)の上杉謙信の書簡が最初である。慶長3年(1597)上杉景勝が会津に国替えとなり、堀秀治が越後を治めるが、一族の内紛のため同15年所領没収となる。次ぎに入部したのが徳川家康の六男松平忠輝である。

しかし二代将軍秀忠は元和2年(1616)、松平忠輝を改易する。その後、堀丹後守直寄が八万石で長岡の蔵王城主となり、新潟を所有することとなる。これ以後、堀から牧野へ領主が変わっても、上知されるまでの二百四十年余の間新潟町は、長岡藩の支配が続いた。
寛永年間、信濃川、阿賀野川が合流し、新潟湊の水深が増した頃、国内産業の発達とあいまって、新潟湊は全盛期を迎えた。

当時の大量輸送手段は船便を使うことであり、中越の産物を信濃川水系で長岡を経由して新潟町に送り、会津方面からの荷は阿賀野川水系の発達により沼垂町に集積された。
享保16年(1731)4月、松ヶ崎堀が雪解けの洪水で決壊し、阿賀野川は河口を松ヶ崎に変えた。これにより信濃川の新潟港の水深は浅くなり、大きな船の接岸が難しくなった。これまでの阿賀野川は、信濃川の河口付近で合流し日本海に注いでいた。
これ以降、信濃川を挟んでの新潟湊(長岡領)と、沼垂湊(新発田領)の湊の権利をめぐる争いは、幕府への七回に及ぶ訴訟となったが、常に新潟の勝訴で終わっていた。
十津川郷士殉難の碑
十津川郷士隊招魂碑
【西廻り航路の発展】
江戸時代の海運史上有名な西廻り航路とは、一般に日本海沿岸を西南に廻り(出羽の酒田より新潟、佐渡の小木、敦賀を経由して)下関から瀬戸内海に入り、兵庫、大阪に至る。さらに紀伊半島を迂回して下田を経て江戸に至る航路のことである。
この河村瑞賢の航路開発以降、幕藩体制の根幹の蔵米輸送が確立された。
そして新潟町は、蔵米、海産物、木綿、塩などの集積地として大きな収益をあげて行く。
しかし新潟町は、天保14年(1843)6月、幕府・老中水野越前守忠邦が長岡藩の牧野忠雅に発した上知命令により天領となる。

これまでの新潟町は、表高わずか608石の領地でありながら、港から莫大な税収入(仲金…年に壱万両)があがる重要な町であった。
これを上知=取り上げることであった。その代わり幕府は、三島郡高菜村という名目だけ630石の水害の多い貧弱農村を与えた。これにより幕府は、異国船に対する海防の徹底と財政救済(当時幕府は、年五十万両を超える赤字財政であった)の一石二鳥の効果を挙げた。しかし、この程度では焼け石に水であったであろう。
安政5年(1858)6月、日米修好条約が結ばれ新潟が開港された。函館、神奈川、長崎、兵庫そして新潟の五港である。だが実質の新潟開港は遅れた。正式に開港したのは明治元年(1868)11月19日であった。
安政6年(1859)新潟湊の風景
安政6年(1859)新潟湊の風景
【維新時の新潟】
慶応4年正月3日、京都郊外の鳥羽・伏見で旧幕府軍(東軍)と新政府軍(西軍)が戦端を開いた。世に言う戊辰戦争の始まりである。数倍の兵を擁しながら、西国諸藩の近代兵器の前に旧幕府軍はもろくも敗れた。
新政府は旧幕府領を全部取り上げ直轄地とした。これにより天領である新潟町は、形式上新政府の直轄地となった。

4月、旧幕府軍脱走の「衝鋒隊」が来て狼藉の限りを尽くした。新潟行政の責任者である白石奉行は5月、辞表を出して新潟奉行を辞めた。次席の田中組頭は、当時新潟に出陣していた米沢藩の重臣色部長門に、新潟町を米沢藩の守備下、すなわち管理下に置くことでの治安を頼み、江戸へ逃げ帰る。
これにより新潟町は、奥羽越列藩同盟軍の武器弾薬の補給基地として、スネル等の外人の武器商人の活躍する場となった。陸揚げされた近代兵器は西軍と闘う長岡藩の河井継之助達や、会津藩に渡り、西軍を苦しませ、悩ませた。

慶応4年7月25日未明、西軍は軍艦二隻、汽船四隻からなる艦艇を送り、新潟町より北十`の太夫浜(新発田藩領)に千名を超える兵を上陸させ、越後の戦線を分断した。
奥羽越列藩同盟軍に入っていた新発田藩は、抵抗するどころか直ちに西軍の先導をつとめ、昨日までの友軍に銃火を浴びせた。26日、沼垂の町も戦禍が及び、翌日には新潟の町も砲撃の対象となり戦場となった。29日新潟を守備する色部長門も関屋にて戦死する。
同日、河井継之助等の奥羽越列藩同盟軍の奪回した長岡城も再落城した。(奪回した際負傷した長岡藩軍事総督河井継之助は、8月16日会津塩沢で死す。)

この日を境に越後の同盟軍の勝機は無くなった。そして越後の戦線も北上し、会津に戦場が移って行った。
新潟町の人々にとって、慶応四年の一連の出来事は、幕末の二十五年間の天領時代、その他長い長岡藩領(譜代)の延長線上に過ぎなく、新潟戦争そのものも、大河の流れの渦のひとつにすぎないと考えたのかもしれない。
8月21日羽越国境の戦いが終り、越後の戦禍も無くなった。これらの戦いで亡くなった西軍(新政府軍)兵士・四百八名の霊を弔うため明治元年(1868)10月、新潟招魂社が常盤ケ丘(現在の新潟大学医学部・有壬記念館の駐車場の地)に建てられた。
長岡藩軍事総督 河井継之助
長岡藩軍事総督 河井継之助
【招魂社から戊辰殉難者墓苑へ】
しかし昭和20年(1945)5月、新潟縣護国神社が日本海を一望できるこの地に6年の歳月と、市民・学生等の勤労奉仕によって造られた。そして、招魂社も現在の地に改葬され「戊辰殉難者墓苑」と名前を変えた。
昭和60年、元招魂社跡地を工事中、東軍兵士(奥羽越列藩同盟軍)と思われる九十二体の人骨が発見された。その後、この墓地に合葬され、「東軍・西軍」「賊軍・官軍」の区別無い墓地となり、現在も二八〇基を数える。
しかし百三十年の歳月は、墓石の破損と風化により、あまりにも無残な姿を我々にさらしている。そして、人々の記憶にも大きく変化を与えている。

遠くは、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、加賀、尾張の墓もある。年齢も十六歳(現在の高校生)より五十歳(当時の老人)のものもあるが大半は、二十歳代の若者である。その中には、越後の草莽・農兵隊《金革隊》《北辰隊》《居之隊》の隊士の墓十一基がある。
【船將 池田孫一など七基の墓】
この戊辰殉難者墓地の中に、伊豫国大洲藩六万石の墓七ッを見つけることが出きる。
  墓石には
大洲藩 船將 池田 孫一霊神
 〃 同船手組 塚原 秀次重宗霊神
 〃  船手組     平兵衛霊神
 〃 水夫      寅吉霊神
 〃 〃       惣四郎霊神
 〃 〃       源次郎霊神
 〃 〃       鶴吉霊神
船將 池田孫一の墓 塚原 秀次の墓
船將 池田 孫一の墓 船手組 塚原 秀次重宗の墓
裏には「明治元戊辰年(1868)10月軍器運送の際、新潟川口に於いて死す」とある。

大州藩とは、現在の四国・愛媛県大洲市にあった加藤家・六万石であるが、四国の伊豫兵は新潟には来て戦ったとは聞いた事がなく、疑問が沸いてきた。
  1. 四国の兵は越後には来て居たのか?。
  1. 北越戊辰戦争は、8月21日の羽越の戦闘で終わっているはずではないか?。
  1. 船將.軍器運送とは何か?。    この三つの疑問について調べ始めた。
【明治維新の立役者・坂本龍馬】
伊豫国大洲は、四国山脈から流れる”肱川”の中流に位置し、「伊豫の小京都」と評される盆地のひなびた加藤家六万石の城下町である。現在の大洲市は、新潟市同様に江戸時代からの街と、肱川の対岸の駅を中心とした街とに分かれている。
瀬戸内海は、古くは伊豫水軍、河野水軍の活躍する処ではあったが、大洲は内陸の為、船といっても川船だけで、北前航路の様な大型船ではなかった。

新潟と大洲、一見全く異なった天領と外様の城下町であるが、江戸から見れば片田舎に違いなく、この幕末の動乱の中、お互いに思想と行動をどのよう持つべきか、大いに悩んだ町ではなかろうか。

七基の墓について、新潟県立図書館の「北越戊辰史」、新潟護国神社の「戊辰殉難墳墓人名」等を調べてみたが、詳しいことは解らなかった。途中、大洲の知人へ手紙を書いて調べていただいた。
後に、意外なことに明治維新の立役者・坂本龍馬に関わっていた事が分かり始めた。
返事の内容は、「彼ら七名は大洲藩二番目の風帆船《洪福丸》の乗組員であるらしい事」であった。
坂本 龍馬
坂本 龍馬
【鉄砲購入が蒸気船へ姿変え】
慶応2年(1866)6月、大洲藩はこの幕末に対応すべく、鉄砲三百丁を購入することを計画し、もと郡中(伊豫市)郡奉行国島六左衛門(百石五人扶持)を長崎に派遣した。国島は砲術の達人で、銃器選択には適任と目された。
国島は長崎で、土佐脱藩の志士、坂本龍馬を知る。明治維新の思想的リーダーとなる坂本龍馬は、当時長崎に亀山社中を興し、貿易業を計画していた。龍馬は国島に鉄砲の代わりに蒸気船を買うことをすすめた。

当時すでにペリー来航のとき日本中を震え上がらせた黒船、すなわち蒸気船は、各藩のあこがれの的になっていた。それは現代で例えるならコンピュータは「宝の箱」で、その箱さえ手に入れてしまえば直ぐにでも、インターネットを使いこなし何でも出来る、と錯覚を起こさせるには十分な情報の長崎であった。国島は宝の箱を買うこと(行動)で交易(利潤)が、大洲を、いや日本を変えることが可能と思わせたのであろう。

大洲藩はわが国における陽明学創始者で、近江聖人と称される中江藤樹が出たところであり、好学の根が脈々と幕末まで生き続いた土地である。参百諸侯中、下から数えた方が早い六万石ながらこの幕末の時代、中級藩士国島六左衛門は己の可能性に賭けたのであろう。

国島は同意し、龍馬と五代才助(薩摩藩士)の斡旋で、オランダ人ボードインから蒸気船アビソ号を購入した。
アビソ号はイギリスで製造(1862年)された四十五馬力・百六十d、長さ 三十間、幅 三間、外輪船ながら三本の帆柱もあり、風帆船としても航行できた。価格は四万二千五百両で、「いろは丸」と改名した。
船は慶応2年9月、藩主加藤泰秋の初の国入りに合わせて伊豫長浜沖に回送された。初めて蒸気船を見る民衆からヤンヤの喝采で迎えられたが、藩主等からは黙殺された。当時黒船(蒸気船)が近海を通るだけで右往左往する時代であっただけに、大洲藩の中級藩士が藩の命令違反を犯し、独断で蒸気船を購入した事が、事を大きくしていった。
いろは丸
大洲藩一番船 「いろは丸」
【国島の自刃】
国島は大洲藩独自で貿易業を経営しようと考えていたようだが、藩にはこれを乗りこなす為の船員・技術等は無く、更には海援隊のように維新という目的の為の、手段としての交易といった思想が乏しく、貿易業の目途も立たなくなった。中年の管理職の男がコンピュータを買って、インターネットの中に入ってみたものの、情報量だけが多く、本当の意味で必要な情報に至らず、コンピュータウイルスやハッカー等の脅威、コンピュータゲームの魅力にはまったと同様で、ニッチモサッチモ行かなくなったのであろう。

国元との板ばさみで国島は、責任をとって12月24日、長崎の下宿の二階で自刃した。時に彼は、三十八歳の働き盛りで、現在で言うなら中小企業の中間管理職の悲劇であった。
尚、大洲藩は12月16日、幕府に「いろは丸」を、城下町人対馬屋定兵衛の購入船として届けた。


遠江守領分町人対馬屋定兵衛ト申者、荷物為運漕於長崎表此度西洋形蒸気船一艘蘭人ボードインより買請候、依之遠江守家来共、当形勢柄之義ニモ御座候間、右船へ乗組運用乗働等為習練、九州四国中国ハ勿論御当地(江戸)奥州松前函館辺ヘモ連々乗廻り、旦風潮之模様ニ依リ候テハ、所々嶋々井湊へ繋船仕候義モ可有御坐、尤モ異国船ニ不紛様日ノ丸御印ハ勿論、別紙図面之通船印相用候義ニ御坐候間、右之趣兼テ其筋々へ御達置被下候仕度、此段可奉願旨遠江守申付越候、尤蒸気船図面此度越不申候ニ付、委細之義ハ取調追テ可申上候、以上
 慶応二年十二月十六日
                              加藤遠江守家来
                                  友松 弘蔵


その後も大洲藩は後任に玉井俊次郎を任命し、「いろは丸」による貿易を続けようとしたが、経営の見とおしは立たなかった。翌慶応3年(1867)4月、もともとこの船が欲しかった亀山社中改め海援隊に貸すことになった。契約日数十五日間、一航海五百両を払う契約であった。
 
【いろは丸事件】
慶応3年4月19日、龍馬は小銃四百丁などを「いろは丸」に積み、大阪に向け長崎を出航した。これが海援隊独自としての、初航海であった。
4日後の23日夜半、濃霧の讃岐国箱崎の沖を航行中に、徳川御三家のひとつ紀州藩所属《明光丸》旧名バハマ号百五十馬力、八百八十d、長さ四十二間、幅 五間、と衝突事故を起す。

一度は明光丸による曳航を試みたが、《いろは丸》は間もなく沈没する。幸い龍馬を始めとする全ての乗組員は、明光丸に飛び乗って助かった。しかし、積荷はすべて海の藻屑と消えた。これが世に言う『いろは丸』事件である。

この事故の処理については鞆(広島県福山市)で談判するが平行線をたどり、翌年長崎で話し合い、五代才助の仲介もあって紀州藩から土佐藩へ、八万三千両を支払うことで決着した。最終的には同年11月土佐藩が七万両を受け取っている。
しかし肝心の大洲藩が、船の代金を受け取ったかについての史料はなく、大きな謎となっている。
【洪福丸購入】
このいろは丸の賠償交渉の過程で、龍馬は大洲藩に多大な迷惑を掛けたことを心配し、「いろは丸」に代わる船として、大洲藩の玉井俊次郎に風帆船を斡旋した。長崎のオランダ商人アデリアンから代金壱万二千両、六回の分割払いで二千石積、長さ十八間・幅四間の船で、洪福丸(大洲藩二番船)と命名した。

しかし玉井も国島と同様に、藩への承認は得ぬままであり、洪福丸の将来に明るさが見えなかった。
そして、あまり日にちの経たない慶応3年11月15日、坂本龍馬は京都の近江屋で暗殺されてしまう。
やむなく玉井俊次郎らは、独力で交易を行おうとするが国元の大洲から待ったがかかる。
先の「いろは丸」で懲りた大洲藩は、藩の重役・森脇兵衛を長崎に派遣し、「洪福丸」による貿易業の経営を止めさせ、帰国命令を伝える。
船と藩士は帰藩する為、慶応4年8月初め長崎を出航、8月15日下関に寄港した。
そこから「大洲藩二番船 洪福丸」の悲劇が始まったらしい?。
【洪福丸と新潟】
慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まる。同年5月15日、上野戦争(彰義隊の戦い)。同年4月24日、越後・三国峠の戦いに始まる北越戊辰戦争は、長岡藩軍事総督・河井継之助と、西軍軍監・岩村精一郎との「小千谷慈眼寺会談」の決裂、長岡藩の奥羽越列藩同盟軍への加盟から始まる。
その後「朝日山榎峠の戦い」へと発展し、一進一退を繰り返したが、5月19日山県有朋率いる西軍が、梅雨の増水した信濃川を強行に渡り長岡町を奇襲攻撃し、「長岡城落城」、と至る。
その後は今町の戦い、7月25日「長岡城奪還」と、東軍(奥羽越列藩同盟軍)が西軍(新政府軍)と互角以上に戦う程であった。

しかし西軍は、これ等奥羽越列藩同盟軍を討つ為、日本で初めての旅団編成の独立部隊(五千名)の「東北遊撃軍」を編成した。京都にて近畿諸藩の部隊を集め、天保山沖より瀬戸内海、下関を廻り、北前航路にて越後(柏崎)に上陸、一気に進攻し決着をつける事とした。
大納言久我道久を軍将として、軍艦アシュロット号、土佐藩の風帆船「横笛号」で関門海峡を回り、日本海を北上すべく、下関に入港した。その際横笛号は衝突・破損し、日本海の航行はおぼつかなくなった。
そこへ入港してきたのが不幸にも「洪福丸」であった。

この船を目にした久我軍将から船の借用申し出があったのは、「洪福丸」にとっては悲劇であった。久我軍将は、藩主泰秋への公式依頼状を手交した。時は国の存亡をかけた維新戦争の最中である。船の責任者・森脇兵衛は、万一の事故の補償などを決めることなど出来なく、平伏して承知する他なかったであろう。
 注 「東北遊撃軍」
明治元年7月、庄内藩討伐のため岩倉具視の建議により編成された軍団。鳥取、広島、小倉、佐賀の四藩が主力で参謀は、広島藩士・船越洋之助(男爵、後の衛)、副参謀・同池田徳太郎、大監察・吉田遠江、軍監・藤村録平。討伐戦用に微募された農民義勇軍も加わった。
【幻の「海道日誌」】
江戸時代の航路
江戸時代後期の航路
大洲藩士は破損した「横笛号」で後日帰途に着いたが、「洪福丸」はあわただしく当日、下関を出港せざるを得なかった。軍将以下幕僚の乗る「アシュロット号」は蒸気船で速力があり、広島・小倉藩兵を乗せた「洪福丸」をロープで曳航し日本海に出た。

20日、石州浜田を出た頃台風が襲った。「アシュロット号」は共倒れをおそれ、「洪福丸」の曳航を断念し、ロープを切って先に行ってしまった。取り残された「洪福丸」乗組員は風雨の中、出来うる限りを尽くしたであろう。
9月2日、船は辛くも越前敦賀港にたどり着いた。船は無残に損傷しており、広島・小倉藩兵はこの地に上陸し、陸路新潟を目指した。
「大州藩資料 大洲市加藤家蔵」によると、
「会々会津.越後征討の兵、艦航海中(略)誤
ちて衝突。破損を生じ北海航無覚束依て右の帆船(洪福丸)借り上げ候」「命により、船将(名は失念)水夫とも御引渡し申し上候」の記述があり、さらに「於能登沖帆采破損」「越後新潟に於いては、バッテイラ(小船)一隻.並びに付属具共沈没」

の記述が発見された。又、「官中日記」には、
牙鑑(墨利堅より借用)縄を以て之を接し率て而して進む、北海に至るや俄然風怒強し、牙鑑共に進退に因し縄を断して去る」
ある。 
 また「大州藩資料 大洲市加藤家蔵」には
「・・・翌暁発錨して新潟に着す。折節風波怒号し碇泊中錨鎖切れ漂流して遂に佐渡に漂着す、兵員等幸いに無難なり。その後廃藩の時に至り、右帆前船は秋田海岸の商人に売却すると聞けり」
とも書かれていおり、その結末ははっきりしない。
しかし別の資料では明治2年6月初め、「洪福丸」は見るも哀れな姿で長浜港に入港したとの記述もある。
大洲藩は新政府の軍務官に対し、森脇兵衛の名で修理費の弁済嘆願書を出したが、結果は、「船はそのまま大洲に返す」とのことであった。
なおも藩は、「せめて難船を立会い検分の上返していただきたい」と食い下がっているが、その返事の記録は大洲にはない。

そして明治2年6月19日、大洲藩主加藤泰秋は版籍奉還、二年後には大洲県となり、更に宇和島県となった。しかし大洲には「洪福丸」のその後について、何の記録も残されていない。
「洪福丸」は、明治維新と言う華やかな舞台に登場しながら、裏舞台に廻り、一度として藩の航海をしないままであった。帆船という時代の最先端として持て囃されただけに、その影にあった無名の人々の無念が、この墓地の中で、脈々と生き続けているのかもしれない。
【いろは丸の賠償金の行方】
坂本龍馬の海援隊初仕事で借りた《いろは丸》は、前に述べたように讃岐箱崎の沖にて紀州藩船《明光丸》と衝突事故を起こし、備後の国・鞆の浦で沈没した。その賠償金として紀州藩は後日、七万両を土佐藩に支払ったが、今日になっても不明な点が多い。
それは海援隊が土佐藩の土佐商会に属し、坂本龍馬が京都近江屋にて暗殺(慶応3年11月15日)されるとバラバラとなり、その会計責任者の岩崎弥太郎がその大半を借用流用し、その金を元手で三菱を興した事である。

これは、「三菱商事社史」にも触れていることから明らかであるが、現代であれば裁判にて岩崎弥太郎は罪をまぬがれまい。
又、大洲藩も船の代金として、その賠償金の一部をもらって当然であるが、藩の資料にはそれらしき事は書かれていないと言う。
【その後の洪福丸】
大洲藩一番船《いろは丸》に続いて、二番船《洪福丸》も海に没した?らしい。
  1. 私は当初、洪福丸は沈没しているのではないかと考えた。七名の死亡者、その中には船将・池田も、士官の塚原も、出ているではないか。
    そして、この七名以外にも死者が出たのではないかと考えた。
    「戊辰殉難墳墓人名」「靖国神社忠魂史」などを調べてみたが、それらしき該当者は見当たらなかった。
  2. 戊辰10月の何日に、新潟川口にて亡くなったのか。
    この日時の検討については、兵部卿仁和寺宮嘉彰親王の随従した香山經徳の書かれた、「慶応戊辰・北越従軍日記」の9月から10月の天候の記述を、調べてみたがその大半が初冬の晴の日で、荒天の記述は無く、日時の特定は出来なかった。
    日記は、10月22日に信州に向かい、越後を離れている。今後は、他の資料を調べることとなる。
  3. 船の乗組員の数はどれくらいであったで あろうか。
      「いろは丸」の慶応2年11月、藩の任命した乗員名簿を見ると、
       船将             2名
       士官             4名
       水夫    小頭2名以下37名
       その他           17名
       合計            62名となる。
     「洪福丸」と「いろは丸」の単純比較は出来ないが、洪福丸にも最低30名の乗組員がいたのではなかろうかと想像する。
  4. 沈没したなら記録があるのではなかろうか。
    「新潟古老聞き書き」に 昭和の初め迄、 松ガ崎(今の新潟空港)沖に、鉄製の沈没船があり書かれており勇んで調べ始めた。結果は、加賀藩籍の「李白里丸」であり、同8月中旬、難破したとの記述が「新潟市合併町村の歴史」にあり、別船であった。
しかしこの他、寺泊の沖に徳川幕府所有の蒸気船「順動丸」が慶応4年5月24日、薩摩の「乾行丸」と長州の「丁卯丸」の攻撃をうけ破船し、翌日自爆した。後に解体引き上げし、現在そのエンジンのシャフトが水族館の外にある。
  などの資料は見つかったが、肝心の洪福丸の記事はなかった。
また、日本近世造船史の「明治維新前諸藩艦船表」には二十九藩の九十三隻があり、その中には「洪福丸」の名前もあるが、風波座礁もしくは戦争の為に廃船となりの項目には、大洲藩籍の船は含まれていない
近年、幕末の造船史のことでお聞きした商船大学の先生から、別な資料を調べていたら偶然「洪福丸」の記述が見つかったと連絡があった。
【函館昔話】
 それは、「函館昔話」と言う本の
「場所請負人 小林重吉」の記述の中に、
 「海運事業では、明治三年に大洲藩所有の西洋形船洪福丸(二百三十九d)を購入、萬通丸と改称して物産廻漕を業とした。」とあった。

先日「函館昔話」を書いた函館の村山氏に手紙を出して、その辺の事情をお聞きした。結果は、明治17年の「請負人履歴・各請負場所調」と
「函館区民事蹟調」共に
洪福丸の想像図
洪福丸想像図
「明治3年3月、大洲藩所有ノ西洋形船洪福丸(二百三十五噸積)ヲ五千七百五十両ニテ買受ケ之ヲ萬通丸ト稱シ長男友八ノ名義ヲ以テ物産廻漕ノ用ニ充ツ」。
との記述よりの引用で、これ以外の記載は萬通丸についても無かったと、丁重なるお手紙をいただいた。
これらから「洪福丸」は、沈没したのではなく、一部の乗組員が海に投げ出され亡くなったが船は何とか航海し、伊豫の長浜までは行った。が、維新後の大洲藩は、藩そのものが無くなり、それどころではなかったであろう。 そのドサクサの中で「洪福丸」は、無用の長物となり、秋田商人を経由して明治3年、函館の小林重吉氏に大洲藩の買った半値以下ではるばると北海道に渡った。新潟河口で池田等が亡くなって丸2年、ようやくの本当の船出であったであろう。

しかし、「北海道史人名辞典」には、船と小林氏のことについて、このように書かれている。
これは、本道民にして西洋形船を所有したのは重吉をもって、最初とする。一方船員養成の必要を認めて、長男友八の学友吉崎豊作を教師として青森より招聘し、函館の自宅にて生徒を無月謝で夜学を始めた。その後、これを拡張し函館商船学校とした。後には県立となり、庁立函館商船学校の前身となる。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救助に金品を寄贈等を行った。
船將・池田孫一らが、自分達の二の舞を踏まないようにあの世から、願ったからではなかろうか
【大洲藩船殉難者慰霊碑建立】
これらを調べるに当たり、「坂本 龍馬脱藩の道を探る」の著者で、愛媛県大洲市出身の村上恒夫氏を始めとする方々に、いろいろとお世話になったり、お教えて戴いた。村上氏は一昨年わざわざ新潟まで来て墓を見て行かれた。平成12年1月下旬村上氏より、
大洲史談会では、新潟の地に大洲藩ゆかりのある事を知らずにいたが、村上氏より話があり『遅きに失したが、墓参りをし、あわせて慰霊の石碑を建てたい』との
話があり、新潟縣護国神社に建立の許可等の代理人になって交渉してもらいたい事と、慰霊碑の石材を送るので当日までに建てて戴きたいとの事であった。

平成12年3月13日、大洲より23名の方々が来られ慰霊碑建立と慰霊祭を行った。
昨日まで荒れていた空は当日は朝から晴れあがり、この墓地に関係する「新潟の戊辰の会」会長など関係者もお出で戴き、厳かに慰霊祭を行った。
墓の中の七名も 「ようやく122年目にして郷土の人から知っていただいた」と喜んでいたのではなかろうか。

慰霊祭 大洲から参列の方々
大洲藩船殉難者慰霊祭 大洲から殉難者慰霊祭に参列の方々
【時代に翻弄された人達】
いろは丸を購入した国島六左衛門や船将・池田孫一らは「明治維新」と言う時代に、翻弄された人ではなかったか?。いやあの殉難者墓苑に眠る人々は全てそうではなかろうか。現代よく言われる「勝ち組」「負け組」の、戊辰戦争勝者の中の「負け組」に属していたのであろう。この使い方は私にとって、とても嫌な使い方である。

「負け組」にならないようにすることだけが優先する現代。なぜ、「負け組」ではいけないのであろうか。そして誰も落伍しないように、無駄な情報まで仕入なければならなくなった。

あの時代の彼らにもそれぞれに夢があり、恋人、家族がいたであろう。それら全てを飲み込んで行った歴史に対し、私は何が出来るのであろうか。ただ受け入れることしかないのであろうか・・・・・。

坂口 安吾の「ふるさとは、語ることなし」の言葉どうり、この雄大な日本海だけが総てを知っている。
坂口 安吾の碑 すなやまの碑
「ふるさとは語ることなし」の碑 「すなやま」の碑

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