大洲藩二番船「洪福丸」のゆくえ
時代に翻弄された、人と船
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西船見町にある新潟縣護国神社 |
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入口の説明文 |
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戊辰役殉難者墓苑 |
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薩摩藩戦死者の墓 |
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戊辰戦争東軍慰霊碑 |
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十津川郷士隊招魂碑 |
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安政6年(1859)新潟湊の風景 |
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長岡藩軍事総督 河井継之助 |
大洲藩 |
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船將 |
池田 孫一霊神 |
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同船手組 |
塚原 秀次重宗霊神 |
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船手組 |
平兵衛霊神 |
〃 |
水夫 |
寅吉霊神 |
〃 |
〃 |
惣四郎霊神 |
〃 |
〃 |
源次郎霊神 |
〃 |
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鶴吉霊神 |
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船將 池田 孫一の墓 |
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船手組 塚原 秀次重宗の墓 |
- 四国の兵は越後には来て居たのか?。
- 北越戊辰戦争は、8月21日の羽越の戦闘で終わっているはずではないか?。
- 船將.軍器運送とは何か?。 この三つの疑問について調べ始めた。
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坂本 龍馬 |
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大洲藩一番船 「いろは丸」 |
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江戸時代後期の航路 |
- 私は当初、洪福丸は沈没しているのではないかと考えた。七名の死亡者、その中には船将・池田も、士官の塚原も、出ているではないか。
そして、この七名以外にも死者が出たのではないかと考えた。
「戊辰殉難墳墓人名」「靖国神社忠魂史」などを調べてみたが、それらしき該当者は見当たらなかった。
- 戊辰10月の何日に、新潟川口にて亡くなったのか。
この日時の検討については、兵部卿仁和寺宮嘉彰親王の随従した香山經徳の書かれた、「慶応戊辰・北越従軍日記」の9月から10月の天候の記述を、調べてみたがその大半が初冬の晴の日で、荒天の記述は無く、日時の特定は出来なかった。
日記は、10月22日に信州に向かい、越後を離れている。今後は、他の資料を調べることとなる。
- 船の乗組員の数はどれくらいであったで あろうか。
「いろは丸」の慶応2年11月、藩の任命した乗員名簿を見ると、
船将 2名
士官 4名
水夫 小頭2名以下37名
その他 17名
合計 62名となる。
「洪福丸」と「いろは丸」の単純比較は出来ないが、洪福丸にも最低30名の乗組員がいたのではなかろうかと想像する。
- 沈没したなら記録があるのではなかろうか。
「新潟古老聞き書き」に 昭和の初め迄、 松ガ崎(今の新潟空港)沖に、鉄製の沈没船があり書かれており勇んで調べ始めた。結果は、加賀藩籍の「李白里丸」であり、同8月中旬、難破したとの記述が「新潟市合併町村の歴史」にあり、別船であった。
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洪福丸想像図 |
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大洲藩船殉難者慰霊祭 |
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大洲から殉難者慰霊祭に参列の方々 |
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「ふるさとは語ることなし」の碑 |
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「すなやま」の碑 |