会津と越後を結ぶ、水の街道


会津と越後を結ぶ、水の街道
関屋分水路


【信濃川関屋分水路】
新潟市の信濃川左岸地帯は「新潟島という別称がある。信濃川、日本海、関屋分水路で周りを水で囲まれた地域のことである。
この関屋分水路は、信濃川の最下流に位置する新潟市平島から、関屋浜に至る約1.8kmの人口水路である。昭和47年の通水と新しいが、完成までに数多くの無名の人々が関わってきた。
見慣れた風景の中に、先人の残した「水の恐怖・大切さ」を通して、

  歴史から学んだ「水を、子孫へ伝える、大いなる遺産」とすべき事をここに記したい。
平成12年12月15日、加藤 功
関屋分水路と新潟島
関屋分水路と新潟島
この分水路は私たち夫婦の散歩のコースである。
20年前結婚し、入居したのが分水路前のマンションであった。晴れた日の屋上からは、日本海に浮かぶ佐渡島と、分水路を身近に見ることができる。春は土手沿いの桜並木を歩き、夏は分水路出口の分水記念公園(タコ公園)で夕日を眺め、秋はコスモスの花を見ての散歩であった。
以後2回移転したが、いずれも分水から徒歩5分の所であった。私には生まれ育った上大川前通と共に、人生を共に歩む場所となった。
【二つの堀割町】
この分水路を挟んで、堀割町と関屋堀割町の二つの堀割町がある。
これは信濃川の下流で分水を作り、西蒲原の悪水を排出しようと古くから繰り返されて来たことに由来している。
明治26年坂井郷普通水利組合は、坂井輪・寺尾・小針・青山・平島の田畑の水を小堀に集めて、永年の夢であった関屋の堀割から海に流す工事に着手した。一時中断を余儀なくされたが、明治42年再起工し、翌43年5月に開通した。
堀の深さは子供の背が立たない位の深さで、堀の巾は水面で三間くらい、土手も五間のものであった。堀の水はきれいで水泳もでき、蜆・鮒・どじょう・えびがとれたと言う。
関屋分水路拡大図
関屋分水路の拡大図(白線は旧堀割跡)
 (前面)         
国家ノ殷賑隆昌ヲ期ス須ク農ヲ以経国ノ大本トスヘシ農栄エ家豊ニ民健ニシテ国礎始テ万代二奏シ然リ而シテ農業ノ振興ヲ策スル
道固ヨリ百端アリト雖就中治水ノ大業ヲ以テ其最トナス由来我ガ坂井輪ノ一郷土地極メテ低窪比年湛水横溢シテ穀稔ラス此レヲ以テ先人夙二治水ヲ劃策シテ既二幾十星霜ヲ隔ツ〔中略〕
夫役十万工費実ニ4万千弐百余円ヲ算ス於茲乎果然域内ノ湛水ハ昼夜滔々北海ニ注流スルニ至リー帯ノ耕地昔日ノ面目ヲ脱シ荒涼タル寒村茲ニ全ク其愁眉ヲ開ク爾来里民其業ニ安ンシ一郷ノ炊煙漸ヲ逐ウテ豊ニ民鼓腹シテ先人ノ徳ヲ称ヘ撃壌シテ聖代ノ余沢ヲ謳フ鳴呼全郷慶福ノ状真ニ隔世ノ観アリト謂フヘシ今地ヲ相シ碑ヲ建テ之カ沿革ヲ録シ謹ミテ先覚有志ノ徳ヲ旌シ永ク後是万代ニ伝へ以テ其偉業ヲ記念スト云爾
  大正五年丙辰十一月三日       坂井郷普通水利組合  山本信雄撰書
と完成と通水の喜びを表している。(堀割の記念碑は現在、三度目の移転地・大曲の西川沿いにある)
ついに海へ放流する堀割となったが、その後日本海の季節風により出口が埋まることが重なり、昭和の初め頃に排水機を設置して水位の高い信濃川に流すこととなった。以後この堀割はいらなくなり、草が生え放題のものになったが戦後一般に売られ、町名とわずかにその名残をとどめる場所を残すものとなった。
【信濃川と越後平野】
日本一の信濃川の流れは、その名の通り信濃国の山深い山岳地帯に源流を発している。源の一つは、甲武信ヶ岳の「千曲川・信濃川水源地標」と「梓川・奈良井川」にある。
千曲川は、長野と新潟の県境で信濃川と名前を変え、中津川、清津川、魚野川を合わせて越後平野の水田を潤し、ここに暮す人々に多くの恩恵を与えてきた。
しかし、ひとたび洪水となって氾濫すると、田畑も、町や集落を濁流が押し流してしまう、この惨状の繰り返しの上に我々がいる。
かつての信濃川では、川上から大量の土砂が河口に運ばれ、冬の季節風で出来た砂州が海岸線をうず高く積み上げ、限られた所のみ河口となって海に流れることを許されていた。海に出られない水は、内陸部に大小の沼や潟を作りあげた。潟だらけの標高ゼロメートル前後の低地は、別名『地図にない湖』と言われ、腰まで浸かっての農作業を強いる湿田地帯である。洪水に襲われると長期間に渡って人々を苦しめた。
現在残る福島潟、鳥屋野潟、佐潟などはその名残である。その他、越後の美田となった地域には必ず沼や潟の存在があった。
[越後平野の放水路と通水した年]
 1 胎内川 明治21年(1888) 放水路と通水した年
 2 落堀川 享保18年(1733)
 3 加治川 大正 2年(1913)
 4 新井郷川 昭和 9年(1934)
 5 阿賀野川 享保16年(1731)
 6 関屋分水路 昭和47年(1972)
7 新川 文政 3年(1820)
8 樋曽山隧道 昭和14年(1939)
9 新樋曽山隧道 昭和43年(1968)
10 大河津分水路 大正11年(1922)
11 新島崎川 大正 9年(1920)
12 郷本川 明治 6年(1873)
13 落水川 大正 9年(1920)
【西蒲原の悪水抜き】
信濃川支流の西蒲原の西川流域は、鎧潟・田潟・大潟・田ノ潟・乳ノ潟・六字潟・佐潟・御手洗潟など多くの潟があった。この内の鎧潟・田潟・大潟は三潟地方と呼ばれ、越後蒲原屈指の低湿地帯で、住民は毎年洪水に悩まされ続けて来た。
元文2年(1739)三潟地方の住民は、西川に底樋(新川の下に西川を流す)を伏設し悪水を五十嵐浜から海に放水することを計画し、これを幕府に請願した。
水害の濁流に流される人と家 内野新川の底樋(川が交差している)
水害の濁流に流される人と家 内野新川の底樋(川が交差している)
新潟港は、7年前の阿賀野川の松ケ崎突破以来港口の水深が激減し、困っていた時なので松ケ崎の二の舞いと、猛烈に反対抗争し、幕府は新潟町の訴えを聞いて三潟住民の訴えを却下した。
だが三潟地方の住民は生活問題、死活問題として、執拗に種々の悪水抜け計画を幕府に請願陳情し、新潟はくりかえし反対し続けて来た。
当時長岡藩は三潟地方に三十七か村を領有し苦悩していたが、文政年間になって遂に新潟の反対を押さえて、内野の金蔵坂を堀割りし、五十嵐浜より悪水を海に落とす工事を幕府に請願し、文政3年(1820)内野新川を竣工させた。
当初川巾は10間、両側の堤防巾10間ずつで計30間であった。この完成により湛水は底樋を通過して海に排水されたことにより、湿地帯の多くが生気を取り戻した田畑へ変っていった。
その後は、三度にわたり底樋は増設された。更に文政11年(1828)には青山附近の八か村は青山分水計画を請願したがこれは新潟の憤激を買ってつぶされた。
【大河津分水工事】
今ある越後の穀倉地帯・中越地方が作られたのは、大河津分水が出来てからである。この中越の日本海に一番近い地区を掘って洪水を防ぐ計画は、古く江戸期にさかのぼって続けられて来た。幕府に繰り返し請願を続けたのは寺泊の本間数右衛門である。二代にわたって分水開削の請願を続け、ついに本間家は没落したという。
江戸幕府は、莫大な堀割経費と、港が浅くなることを懸念した新潟側の反対等を理由に計画を認めなかった。その後の明治政府は分水工事に着手するが、地滑りが多発した。分水工事反対一揆も発生し一時不可能となるが、明治29年の「横田切れ」をきっかけに内務省も国の直轄工事とし、明治42年着工した。
内容は、信濃川の流量を分水によって一定量だけ日本海に流し込むもので、分水の距離は大河津村から寺泊町までの10キロメ−トル、高さ80メ−トルの弥彦山塊の山を削る大規模のものであった。
明治29年(1896)の横田切れ
明治29年(1896)の横田切れ
着工から13年後の大正11年に通水し、一大土木工事は完成をみた。県民は「東洋一」の近代的堰が完成し二度と信濃川の氾濫が無いものとこぞって祝った。
これは本間数右衛門の請願から200年もの歳月がかかったものである。
しかし、完成から5年後の昭和2年6月24日大雨による洪水で、当時最高のレベルの設計施工とみられた自在堰は、もろくも激流の中に陥没するのである。
内務省は、威信を賭け青山 士(あおやま あきら)を新潟土木出張所長(今の建設省北陸地建局長)にし、また新たなる堰を構築した。その後中越・下越を襲う大雨があっても、破堤氾濫はなくなり、水害の被害が減ったことは言うまでもない。
 その洗堰も68年を風雪・洪水に耐えて、ついに昨年新しい堰が完成した。
大河津分水地 平成12年新装した洗堰
大河津分水地 昨年作り替えられた洗堰
【新潟湊の仲金(すあいきん)】
幕末、悪水抜きとは別の理由で、関屋堀割計画が持ち上がった。もともと会津は山国で塩や塩魚が自給できず、それを新潟港に求めていた。そして信濃川から小阿賀に入り、阿賀野川を上り会津領・津川湊経由会津に運んでいた。又、信濃川から五十嵐川を経て、はるばる会越国境八十里峠を経由して会津にも運んでいた。
新潟港湊の風景
安政6年(1859)、新潟港湊の風景
    
ところが新潟の湊法式によって仲金という入港税と塩問屋の、口銭が毎年膨大な額にのぼり、会津藩としては最も痛いところであった。
新潟港の食塩の取引高は頗る巨額にのぼり、移出品としての米に対し、移入品中第一の物産であった。食塩の製産地は三田尻・尾の道・松永等で、竹原港(広島県)に集った食塩を瀬戸内海より馬関海峡を経由して一路新潟港に送ったものである。
新潟港に入った食塩は越後一円へは勿論配給されたが、会津藩との取引は最も多額に上った。会津藩が最も苦痛とした事は、新潟の湊法によって売買高百両につき売買双方から一両づつ仲金徴収された事である。
当時食塩4万俵につきおよそ240両の仲金が徴収されたと云われている。このほか商習慣による問屋口銭が取られたので会津藩ではこの仲金と口銭を免れるために、種々の手段を講ずるに至った。
新潟初代奉行・川村修就時代の幕府への仲金額
川村修就時代の
幕府への仲金額
和暦 西暦 仲金額
天保14年 1843 6,814両
弘化元年 1844 11,359両
弘化 2年 1845 10,049両
弘化 3年 1846 9,644両
弘化 4年 1847 12,980両
嘉永元年 1848 12,673両
嘉永 2年 1849 14,955両
嘉永 3年 1850 11,669両
嘉永 4年 1851 11,429両
川村修就
(1795〜1878)
嘉永 5年 1852 5,518両
尚1〜5月
嘉永6年会津藩は房総海岸警備及び品川砲台衛戌の功によって、蝦夷地(北海道)の一部を加封せられた時、藩士を派遣して拓地と漁業を監督させたが、船舶を建造して新潟港に止め、彼地との間を往復させた。往航には藩士の生活必需品を送り、復航には底荷と称して彼の地の水産物などを満載して来て、新潟港で仲金の免除を申請し、新潟の商習慣を破ろうと企画して、大いに物議を醸した事もあった。
また安政6年には会津藩では、原産地で食塩3万俵を購入し食塩の昂騰から庶民の苦難を救うためと称して仲金の免除を申出た。これは長岡藩領時代に2〜3事例があったので受入れられた。一年おいて文久元年に会津藩は、再び製産地三田尻で食塩4万俵を購入し、安政6年の例にならい仲金免除を申し出た。当時食塩は安値であったので、古山新潟奉行は幕府の指図を願って、湊法により仲金を徴集した。翌文久2年には京都守護職の任についている会津藩士に支結すべき飯米1,300俵の仲金免除が申出られたが、これも湊法により仲金は納付させられた。
【京都守護職拝命】
文久2年(1862)会津藩主松平容保は幕府に懇願され、京都守護職を引きうけざるを得なくなった。元治元年2月容保は、前将軍家茂上洛以来の京都守護職の功績により、5万石の加増を直接将軍から言い渡された。この時会津藩は自ら所望で青山村、(今の新潟市堀割付近)以南二十余か村を領地とした。
この加贈地は近江国1万5千石、和泉国で1万石、越後国で2万5千石であった。この加増では、会津藩は当初、越後の加増地として新潟町と松ケ崎浜を望んだ。会津藩は河口の湊が欲しかったのである。
会津藩主・松平容保
会津藩主・松平容保
かつての万延元年に会津藩が領内の一部を上知して、その代替地として松ケ崎を拝領するとの噂が立った。もしそれが実現すれば、会津藩の船が自由に阿賀野川を出入りする事になり、他の商船までこれに倣うようにでもなっては新潟港の興廃門題であるとして、町民代表は町奉行に愁訴した。古山奉行は、安藤閣老へ町民の衷情を告げて事なきを得たことがあった。
【塩騒動】
会津藩は、永年の望みであった湊を得られれば、食塩、海産物等の無税移入が可能になる。この計画に対し、新潟町民は非常な熱意を以て反対運動に立上がった。それは幕府の要路に時めく雄藩へ実力で防止する気勢を示し、一時は騒動になりかけた。当時の人はこれを塩騒動と呼んでいる。
文久3年9月新潟町奉行の更迭が行われ、古山善一郎奉行の後任として、榊原主計頭が新奉行に任命せられたが、未赴任で組頭黒田節兵衛・多賀谷金兵衛が奉行代理をしていた。 会津藩の堀割計画につき町民の間には不穏の形勢が顕著であった。町奉行所役人から会津藩へ交渉したが取合ってくれぬので、公儀へ訴訟あるのみという事になった。新潟町検断江口善兵衛・北村弥三次・問屋総代玉木三郎兵衛が町総代として江戸へ登り、会津藩の堀割普請指し止めの訴状を提出した。
新奉行榊原主計頭は、新任地の大事件であり、相手が今を時めく大藩なので、何とか赴任前に解決したいと奔走した。そして町の事情に詳しい代表者をいま一人新潟から呼寄せる事になり、塩問屋山本金蔵がその選に入り、直ちに江戸に登った。その結果元治元年4月には江戸表から役人が新潟に来港して、平島の分水場所を実地検分して双方の意見を聴取する事となった。
【新潟町の対応と結果】
新潟港としては興廃に関する危機一髪の検分と思われた。そこで同月23日新潟町検断江口善兵衛・藤井智左衛門から奉行所宛に次の文書の書面が出された。
先般出府の上奉嘆願侯一件、今般右場所御見分御役人様御下向につき、心得侯者両三人御旅宿へ罷出侯様被仰度奉畏候、然ル処下夕方同士対談之儀は幾重にも可仕候得共、先方にても御領主御役人様御出役之侯趣奉承知侯、当御はりも御支被下度奉鷹侯
こう言った経緯の後、この訴訟は新潟側の勝ちとなった。
勝訴の原因としては、寛文年間河村瑞賢が新潟を北廻り航路の寄港地に指定した時、新潟を良好な港と認め有利な特権を付与する事を建儀した中に「新潟の上十里の下十里の間に新港を開かざる事」の規定があった事と、
文政4年に内野に新川が開堀された時「新潟港との間に以後新川の下流地城には分水を計画しない」との約束があった事等があげられている。
また会津の方々に言わせると、新潟の関係者が幕府に莫大な賄金を送り、その決定を曲げさせたのだと。それも一利ある。塩問屋山本金蔵が江戸に向うに、馬に積み切れないほどの千両箱を持って行ったと言われている。
【会津藩の事情】
当時会津藩は、新潟の湊問題を重視した政策を優先するわけにゆかなかった。容保が京都守護職に就いた際に、御下役料として5万石の加増を受けた事は前に述べたが同時に、上洛の旅費として3万両を幕府より借用している。
堀割を作り、湊を持ちたいのは長年の夢であったが、それだけの余裕が会津藩にはなかった。
そして、京に於いては問題が次々に発生し、新潟の湊問題だけに係わっていられない事情を持っていた。

文久 2年12月24日、京都守護職松平容保は、会津藩精鋭千名と共に上洛した。
翌文久 3年 2月23日、等持院に浪士数人が乱入し、足利三体(足利尊氏・義詮・義満)の木造の
. 首を引き抜き三条大橋詰の制札場にさらす。
    同年 3月 4日、将軍家茂が上洛する。
    同年 5月10日、長州藩、攘夷期限を理由に下関を通過する米商船に発砲する。
    同年 7月 2日、 薩英戦争が起こる。
    同年 8月18日、 クーデタにより 七卿長州に落ちる。
翌元治元年 3月27日、 水戸藩尊攘過激派が挙兵(天狗党の乱)する。
    同年 6月 5日、 池田屋騒動が起きる。
    同年 7月19日、 禁門の変が起きる。
    同年 8月 5日、 英・仏・米・蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃占拠する。
翌慶応元年閏 5月、   土佐藩、土佐勤王党を弾圧し、武市瑞山を処刑する。
翌慶応 2年 1月21日、坂本龍馬の仲介で 薩長同盟成立する。
    同年 6月     第二次長州征伐を開始する。
    同年 7月20日、 十四代将軍家茂大坂にて薨る。
蛤御門
禁門の変の舞台となった蛤御門
等の事情が重なった。
会津精鋭千名も一年交代としていたが、翌年の「禁門の変」問題発生により延期せざるを得なかった。又、藩主・松平容保も会津に帰るどころか、京都さえも離れることも出来なかった。
しかし結果として、堀割の計画実施は後世に託された。
私が失敗の原因を分析すればそれは、会津藩は本国の利益のみを優先し、西蒲原に住む農民・民衆のことを最優先にしていない事が失敗の最大のものと言える。
見附出身で、越後の民間治水のひとつを作った小泉蒼軒は
「乱世に洪水なく、治世に洪水あるのはなぜか」に対し、
「平和に浴して廃れた地を開発するから、川筋を狭め水害が起きる。乱世ではそれを行わないから水害が起きない」と紹介し、封建時代の治水の一貫体制がとれなかったことと、現在の治水に対する方針と全く変らないいや、これからの21世紀にも通じる思想を持っていた。
そして、
「己が勝手ばかりを成さんとするから、実際にはいたらんで、果てはただ才あるものに欺かれ、勢いあるものに押し付けられて事を決め、水道の実利にかなえるもの稀なれば、多少こそあれ年々に水害は逃れがたきなり、惜しむべし」と。

「開発することが悪いのではない。理にかなった開発は、ぜひやらなくてはならない」と言っている。
【会津藩士、殉節の碑】
西大畑の新潟大神宮の駐車場の片隅に、「殉節之碑」は立っている。会津藩は戊辰戦争で3000名以上の死者が出た。そして、この越後の山野に147名を失った。自国でない越後の地で戦い、亡くなった者の鎮魂を願い、生き残った藩士たちが明治23年の二十三回忌に立てた碑である。
奥の幼稚園からは、園児達の元気な大きな声の聞こえる中にひっそりとその碑はある。
明治維新の動乱で薩長の憎悪の対象となり、敗戦後流浪の地「斗南」に移住させられた会津藩士であった。北越戊辰戦争の激戦地越後の地で、越後のために戦い亡くなった者への鎮魂の碑である。
新潟大神宮の殉節の碑 殉節の碑拓本
新潟大神宮にある殉節の碑 殉節の碑拓本
既に皆齟齬遂に戊辰之変と為る我が海内の兵を於て是を受く、壯丁は四彊出嚮す老少婦女も亦戈を執り堅を破って以て鋭を挫く、強敵に當り死する者殆三千人、夫れ人の禄を食むはその事に死す、人の思はその難を避けず人臣の職を分きまい、諸士能く之を踐み一死を以て共の主に報ゆ。
忘れ去られようとしているこの碑の前に立つと、彼らの叫びが聞こえて来るようである。
何かこれで、今までの会津藩の塩騒動の問題を清算しても良いのではないかと思うのは、新潟人の甘さであろうか。
【関屋分水の必要性】
旧堀割路と分水計画路
旧堀割と分水計画路(昭和22年)
大正時代から第二次世界大戦中にかけて、関屋分水の必要性を熱心に説き続けた人物がいた。新潟市内で商業を営む横山太平と柏原正夫である。これからの新潟市発展には関屋分水が必要であると考え、県や市の当局に訴え続けた。この熱意に動かされて、昭和16年(1941)、県は関屋分水計画を立案して内務省に上申したが、時局柄見送りとなった。
昭和35年頃になって地盤沈下による治水被害が目立つようになると、関屋分水案が信濃川の治水対策の最善策とみられるようになり、合わせて新潟港の改良、地盤沈下対策などを含めた関屋分水路計画が本格的に検討されるようになった。
昭和36年(1961)、実施計画が北陸地方建設局に委託された。翌昭和37年度には北陸地方建設局の計画書が完成し、38年度から新潟県の単独事業として実施されることとなった。
タコ公園にある横山太平氏と柏原正夫氏の像
分水記念公園にある横山太平氏と柏原正夫氏の像
【現在の分水】
昭和39年(1964)3月2日、新潟県の中小河川改修事業として関屋分水路計画が着手されたが、その三カ月後の6月16日午後1時2分、思いもよらないマグニチュード7.5震度五の地震が新潟地方を襲ったのである。
この新潟地震によって、分水路から万代橋に至る埋め立て地が軟弱地盤であることが判明した。またも頓挫するかに思われた関屋分水事業だったが、昭和40年(1965)の河川法施行によって国の直轄事業へと移管され、建設省旧信濃川工事事務所が新設された。
翌昭和41年(1966)から、北陸地方建設局は地元との折衝、測量などの調査に着手し、昭和43年(1968)に分水工事の起工式を挙行、昭和47年(1972)8月10日には待望の通水式を迎えたのである。
工事中の関屋分水 現在の関屋分水路(平成12年)
関屋分水路工事中(昭和44年) 現在の関屋分水路(平成12年)
下流の1.3kメートルは標高約20メートルの砂丘を横断するため堀削方式で、上流の0.5kメートルは築堤方式で施行されている。河幅は約240〜290メートル、低水路幅は分流点272メートル、中央部195メートル、河口部の新潟大堰地点では218メートルとなっている。構造物としては、河口部には幅41.2メートルのゲート五門と両岸に魚道が通る新潟大堰、信濃川との分岐点には幅30メートルのゲート三門と魚道をもつ信濃川水門が設置されたる。
【河川名の変更】
工事中の昭和45年に河川名の変更が行われた。実はそれまで、大河津分水下流は信濃川ではなく、国の正式名称は『旧信濃川』で、大河津分水路が『信濃川』であった。新潟市内には、信濃川が流れていなかったのである。
それがこの年の変更で、大河津分水は『大河津分水路』となり、旧信濃川は晴れて『信濃川』に戻ったのである。
海上より関屋分水路を望む 分水資料館より水門ゲートを望む
海上より関屋分水路を望む 分水資料館より新潟大堰を望む
この関屋分水路工事で約50万8000平方メートルの用地が買収され、うち19万平方メートルが宅地となった。補償家屋は693戸(約870世帯)であった。その主な移転先となったのは、旧関屋競馬場であった。県は、競馬場を豊栄市の砂丘地へ移転させて、跡地に宅地を造成した、できあがったのが現在の信濃町・文京町である。
【関屋分水路の役割】
関屋分水路の完成は、治水・利水の両面にわたって信濃川下流域に恵みを与えた。日本海側を代表する新潟市はいうまでもなく、上流の洪水は低下し、氾濫を防止できるようになった。
また、関屋分水路河口の新潟大堰と、信濃川と分水路との分派点にある信濃川水門の二つのゲートによって塩水の侵入防止と水位の調整がはかられ、信濃川の流水は生活用水、農業用水、工業用水などに利用されるようになった。
さらに新潟西港に流入する土砂の減少で埋没土量の軽減、洪水の放流による新潟海岸の浸食防止など、川と闘い続けた地域の人々にさまざまな恵みをもたらしたのである。
【子孫への遺産、それは水】
大河津分水の可動堰前に、高さ4メートル、幅4.4メートルの可動堰ピアを形どった、御影石造りの見上げるような竣工記念碑がある。北原三佳がデザインした銘版の表面には日本語と万国共通語のエスペラント語で碑文が刻まれている。
大河津分水の可動堰、竣工記念碑
大河津分水の可動堰、竣工記念碑
表面には
碑の名盤(表)
『萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ』
《FELICAJ ESTAS TIUJ KIUJ VIDA LA VOLON DE DIO EN NATURO》
裏面には、
碑の名盤(裏)
『人類ノ為メ、國ノ為メ』
   《POR HOMARO KAJ PATRUJO》
 そして碑文の片隅に、青山 士のイニシャルAとAを組み合わせたサインが小さく彫り込まれている。
昭和6年6月20日竣工と書かれているが、現代の文学碑、記念碑に書かれている〇〇県知事〇〇〇〇と比べ簡潔にして名声を誇らず、堅苦しい文語体ではあるが、自然を相手とし土木工学を以て洪水を無くした歓びが溢れ出ている文章である。
   青山 士、晩年の和歌

  晴れもあり 雨の日もあり 八拾年 御国へいたる さすらいの旅
上空より関屋分水路と新潟島を望む
上空より関屋分水と新潟島を望む
今までは川を治水、利水からの対象と考えていたが、これからは、人間にとって必要なこの水を物としてでなく「子孫へ伝える、大いなる遺産」として捉え、水質にまで入りこんで考え、水との係わりがどうあるべきかを問い直し、早急に実施すべき時期に来ている。
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