電鉄の今昔   新潟交通電鉄66年の歴史

④ 沿線の足
駅ですれ違う電車 ◆電鉄と沿線住民の信頼関係

 新潟交通沿革史の中に、「戦中・戦後は輸送需要が増加し、施設、車両の増強をおこなうと共に、社会的・民主的寄与に尽し……」とありますが、「でんてつ」と沿線住民は固いきずなで結ばれていた。永く続いた信頼関係にこんなエピソードがる。

◆電鉄が主催した沿線町村陸上競技大会

 まだ、敗戦の混迷下にあった昭和23年から、電鉄は、沿線青少年育成運動として「電車沿線町村青年団対抗陸上競技大会」を、すべて費用を自社負担で行った。その頃、娯楽がほとんどなかったので、十六町村も参加して昭和37年頃まで続けられた。競技大会の入賞者には当時珍しかった高価な電気スタンドや、ワイシャツが与えられ青年たちは大喜びであった。
◆電鉄沿線青年団の線路の除雪奉仕

 昔は、今と違ってひと晩に1メートルもの大雪の降ることがよくあった。まだ自動車はなく、電車が沿線住民にとって唯一の足だった終戦前後の頃、豪雪が続くと電車線路に何メートルもの吹雪だまりが出来た。当時電鉄に、高性能のラッセル車はなく、1ヶ月も電車が不通になることも多かった。
 そんな時、電鉄沿線の男女青年団員がスコップを持って集まり、無報酬で線路の除雪作業を行った。
これは、自分たちの足の確保のためもあったが、日頃の「でんてつ」との信頼感と、連帯感が若者たちを動かした。
豪雪時、青年たちの電路除雪奉仕の図
西蒲原のはさぎ ◆旅客減少が電鉄全線廃止へ

 戦後、このように好調だった電鉄は、時代の流れと共に消え去ることとなった。その経緯を、新潟交通電車部にあった、昭和34年度以降平成5年度までの、「電車旅客数統計書」と、元電鉄職員だった人達より伺ったエピソードによって、平成11年4月4日の電車廃止に至るまでをたどってみると
◆旅客が600万から100万に減少
新潟交通電鉄旅客推移図

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