◆昭和8年4月、ついに電車運行
昭和8年3月24日東関屋駅~白根駅間17.1キロの線路敷設工事が完了。同年4月1日午前5時30分、朝靄のなか東関屋駅を感激の一番電車が発車し、いよいよ新潟電鉄の営業は開始された。
この時、ちょうど行楽の季節であり開業祝いとして、運賃の3割引を実施したり、鷲ノ木の観桜客のため新潟市街自動車との連絡割引乗車券を発売したりするなど、旅客の誘致宣伝に努めたので滑り出しの成績は極めて良好であった。
4月の乗客は9万2000人を数え、最高は29日の1万3000人。最低は11日の1300人であった。続いて7月28日には東関屋~県庁前間の市内軌道線も営業を開始した。
この開業に先だって7月23日、新潟市の教育課から市内各小学校に、「電車に注意せよ」という通達が出された。
8月15日、残された白根~燕間が開通し、大正14年7月免許を申請して以来、9年の年月を費やして遂に県庁前~燕間の全線が開通した。
◆日支事変が起こり、輸送の増強
昭和12年7月7日に勃発した慮溝橋事件は日支事変に発展。日本は中国大陸で次第に戦線を拡大し、人的、物的資源は戦争遂行という目的のために総動員された。軍需産業は拡大され、国内の交通需要は急激に増加し、電車やバスの輸送力は増強をせまられた。
しかし、バスの大部分は車両から部品、ガソリンに至るまで輸入品に頼っておりその輸入も次第に制限され、特にガソリンは重要な軍需品であるため消費規制が強化され、輸送需要の増加をさばききれなくなってきた。新潟電鉄の自動車部門では、木炭車などへの転換を進める一方、路線の整理統合を進めざるを得なくなり、電車と併行するバス路線は昭和16年までに殆ど整理され、電車を主体とする交通体制に変わった。電車の需要は大幅に増加したが、昭和13年以来、催物や団体旅行が自粛されるようになったため、桜の花見や、凧合戦、新潟の川開きの花火等の諸行事が中止となり、一般旅客は一時的に減少した。
しかし戦争の拡大と共に、新潟やその周辺の軍需産業はますます増強され活況を呈し、通勤旅客は倍増して行った。それを反映して昭和13年下期以降は、開業当初に比較すると、普通客で1.4倍。定期旅客で2.1倍増加し、昭和18年には定期旅客の増加が著しく、営業開始当時の8倍にも達した。
貨物輸送でも米穀が国家管理となり、その出荷量が大幅に増加した外、肥料、木材、石炭等が増産され、物資の移動が活発となり、貨物輸送の収入は、開業当時の16倍にも達し、収入比率も開業時は、全収入のわずか5%弱だったのが、昭和17年には18%を占めるまでになった。
このようにして、電車主体の交通体制により電車の収入は大きく伸長したが、電車の資材も欠乏し始め、電力も厳しい割当制となり、加えて運転士や車掌、駅員が次々と応召され輸送力は著しく減少していった。
◆「新潟交通株式会社」誕生
そして、第二次大戦の激戦期、昭和18年12月31日国策による企業統合により、新潟電鉄株式会社は新潟合同自動車と合併し、「新潟交通株式会社」が誕生した。
この18年に、新潟電鉄の中之口村六分駅員として働いていた前田ミサオさんが、電車の男子運転士が出征した後、運転士を志願して、女性第一号運転士となって電車を動かしていた。この頃から次第に女性運転士や車掌が活躍するようになった。
◆女性第一号運転士前田ミサオさんの体験談
昭和19年、前田さんが電車を運転中の或る日、敵の艦載機が新潟上空に侵入して空襲警報がかかった。かねて、上司から指示されていた前田さんは、すぐに電車を停めて桃林の中に乗客を誘導して隠れさせ、警報が解除になってから乗客を乗せて帰った。
また、制空権の全くなかった19年頃、電車の疎開をよくしたそうだ。東関屋駅の構内は大きくて、敵の飛行機の目標になり易いということから、その日の乗務を終わった電車を翌朝まで、疎開の形で郊外によく泊めていた。
或る日の夜、越後大野駅の近くに電車を停めた前田さんは、同じ電鉄職員で、現川原地区(旧新田町)の後藤成男さん宅に一晩厄介になっていた。たまたまその夜、中蒲原から新潟上空に敵の爆撃機B29が侵入して空襲警報がかかった。その一機が新津の阿賀野川の鉄橋付近で、日本軍の対空砲火によって撃墜された。その時前田さんは、後藤さんの家の人たちと、中ノ口川の堤防付近でこの撃墜の光景を見て、思わず万歳と叫んだことを覚えているとの事であった。
◆食糧難で買い出しの苦労
今日のマイカー時代など、とても考えられなかった戦中、戦後の頃、電車は文字通り人々の足であった。戦争中一日二合一勺(315g)の配給米だけで足りず、大勢の新潟の人たちが電車に乗って近郷近在の農家へ食糧の買い出しに行った。
重い荷をどっさり担いで県庁前駅に着いてみると、駅の出口のあたりによく経済警察官が目を光らせていた。その頃、米麦などの食糧品は一切統制品で、持ち歩くだけでも見付かると現物は没収され、その上罰金刑などで処罰された。だから、電車が県庁前駅に停まると、買い出しの人たちは、すばやく駅の周辺に警察らしい人は居ないかと、目に全神経を集中して確かめた。
そして、警察官らしい人が居ると分ると、せっかく苦労して運んだ品物を、泣きたい思いで白山さま側の電車の窓から投げ捨てたとある。
◆戦中・戦後の満員電車
昭和16年太平洋戦争が始まった頃から、新潟鉄工所や、日本軽金属工場などの軍需工場へ通う人が一段と多くなり、朝夕の電車は何時も超満員で、三両連結でも追いつかない大混雑ぶりであった。駅には乗客を電車に押し込む尻押し役もいて、できるだけ多くの人を乗せてやろうと、駅員たちも必死になっていた。時には車掌が車内に入れず、閉まったドアの外のトッテにつかまり、ぶらさがった形で発車することもあったようだ。
やっとこすっとこ、超満員の車内に押し込まれた人も大変だった。まっすぐに立っていられず、体は斜めにかしがり、隣の人におっかかりっぱなしで、手の位置さえ自分の意志のままにならないという……。当時の満員電車でこんな体験をした人が多いであろう。こうした電車の混雑風景は終戦後も続き、旅客輸送量は大幅な伸びを示し、電鉄の経営は好調であった。
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