◆中ノ口川沿線に軌道車の計画
昭和2年、大河津分水の可動堰が陥没し、沿線主要交通機関である川蒸気船の運航が一時不能となったため、沿線住民の不便さはひととおりでなく、安全で迅速、確実な交通機関の出現が望まれた。
当時「鉄道のある所繁栄あり」の思想が浸透し、地元の人たちは今度こそわが郷土にも鉄道をと熱烈に希望した。このような情勢のもとで中ノ口川沿線の電気鉄道建設の話が具体化された。
新潟水力電気の常務奥山亀蔵、新潟市の松木弘、田代三吉ら、新潟、西蒲の財界人9人が発起人となって鉄道建設を計画し、中ノ口電気鉄道株式会社の設立が進められた。株式会社・資本金は二百万円として全部建設費に充当し、線路は併用軌道とするとした。起点は新潟市白山浦一丁目。終点は西蒲原郡燕町、線路の延長33.6キロ、単線で軌間は国鉄同様の1.67メートル、車輪は客車九両、貨車五両、動力は電気であった。
このような計画のもとで、中ノ口電気鉄道株式会社の鉄道敷設許可申請書は、大正14年7月1日鉄道大臣に提出され2年半後の昭和3年2月14日、ようやく許可となった。
◆中ノ口電気鉄道株式会社の誕生
早速、新潟水力電気株式会社内で本格的に会社設立の準備が開始され、昭和3年9月24日創立準備は完了した。そして11月10日から三万株の株式募集を開始し、翌昭和4年5月26日に総株式の引受申込みが完了。6月15日には第一回一株五円の払い込みが終了し、創立総会が6月30日、新潟市上大川前通五番町、新潟水力電気株式会社内において開催され、専務取締役奥山亀蔵を中心に、資本金百五十万円、従業員14人の中ノ口電気鉄道株式会社が誕生した。
◆線路の併用軌道と専用軌道
昭和4年7月27日、中ノ口電気鉄道㈱の実地測量が開始された。最初の計画は、国鉄越後線の旧白山駅前から現在線を通って東関屋に至り、そこから堤防上を平島~立仏~柳作と通り、新大野からは中ノ口川に沿って堤防上の国道を利用して六分に至り、六分からは専用軌道で高宮~小古津~二階堂~岡崎の集落を抜けて燕へ出る。この延長は32キロで、このうち専用軌道はわずかに8.8キロに過ぎず、残りは併用軌道線であった。
※旧白山駅…現在の白山駅でなく、鏡淵小学校の場所に昭和26年まで
あり、越後線の始発終着駅であった。なお、越後線も元は越後鉄道という
私鉄で、昭和2年に国有化された。
併用軌道とは路面電車のことで、道路を無償で借用して建設費を安く
あげようと計画したものであった。
予定線の測量は12月末に完了、製図設計も翌年5月には終了し、7月28日軌道敷設工事認可申請を行った。しかし、監督官庁の実施踏査が行われた結果、路線の変更と、道路のつけ換えを必要とする箇所が出て認可を得ることが出来なかった。しかも、道路の使用を認められた部分も、「国道を会社の費用で四間幅に広げよ」という条件がついていた。国道を四間幅に改修するには多額の費用が必要で、いくら道路使用料が無償でもとても採算の見込みが立つものではなかった。
そのため全面的な計画変更が必要となり、種々研究した結果、東関屋~燕間を地方鉄道にするという結論が出された。地方鉄道にすると政府の補助金が受けられる上に、専用線であるから国道改修の必要もなく、運行に当たっては速力も速くできるという利点があった。そして、実施段階に入るまでに、沿線住民の生活権などを考慮に入れた細部の変更が加えられて今日の路線が決定された。
◆進まない新潟の市電計画
新潟市で、初めて市街電車を計画した新潟水電(取締役中野四郎太)は大正9年、新潟電気となったが、同社は市内軌道の権利を継承し、早速旧白山駅~新潟駅間の工事施工を申請した。しかし、工事施工の認可は受けたものの、実施段階になると、信濃川の架橋に多額の費用がかかる点などから、工事には踏み切れずにいた。
たまたま、大正14年の新潟県会で、万代橋の永久橋化が決議された。明治42年に架橋した782メートルの二代目万代橋は、すでに16年を経過して老朽甚だしく、しかも幅員わずかに7.2メートルで、膨張を続ける新潟市の交通上のネックとなりつつあった。
◆新万代橋に軌道敷設の計画
県の新しい万代橋の計画は、幅16.4メートル、長さ308メートルの鉄筋コンクリート構造とするものであった。この計画が明らかになると新潟電気は、軌道専用の橋を架けるより、新万代橋の中央部に軌道敷を設置する方が得策であることに着眼し、軌道複線分として橋幅5.5メートルを拡張てもらい、それを含めた万代橋建設の総予算240万円のうちの40万円を同社で負担する案を出し、県会で承認可決された。そして今日の橋幅21.9メートルの鉄筋コンクリー卜製無交式六連橋ができあがった。
新潟電気は翌昭和5年1月、新潟水力電気と合併して新潟電力株式会社となり、市内敷設軌道の敷設権も継承した。
◆新潟駅乗入れを計画
その頃、中ノ口電鉄では、最初の起点である越後線旧白山駅が市の中心からはずれ、利用者にとって不便であることから、起点を「県庁前」か、「新潟駅」まで延長したいと考えていた。そこで中ノ口電鉄では、新潟電力に対し市内軌道敷設権を譲り受けたいと申し入れた。
中ノ口電鉄の専務奥山亀蔵は新潟電力の取締役でもあり、新潟電力の副社長白勢量作は中ノ口電鉄の取締役であったので、話しはスムーズに進み、中ノ口電鉄は市内軌道敷設権を譲り受け、起点を新潟駅まで延長することになった。
なお、当時は越後線も旧白山駅が起点で、昭和26年まで新潟駅には乗り入れてはなかった。
新万代橋の出来た時、あまりの幅の広さに、新潟市にはぜいたく過ぎるという批判さえ聞かれた。
新潟駅までの軌道線は残念ながら実現せず、現在万代橋は軌道敷設予定部分も全部車道として、膨大な車両をさばいており、もし中ノ口電鉄の軌道計画がなかったなら、万代橋は最初の計画通り16メートル幅で、後日大がかりな拡幅工事をしなければならなかったであろう。
◆東関屋駅予定地で起工式
昭和7年4月24日午前10時、東関屋駅建設予定地である新潟市団九郎において起工式が挙行された。
式には鉄道大臣代理等鉄道省関係者、中村淑人新潟市長、沿線町村長、来賓多数と全社員か列席し、白山神社小林社司の司式によって行われ、奥山専務が最初の鍬入れの儀を行われた。
◆「新潟電鉄株式会社」に社名変更
昭和6年、起点を旧白山駅から新潟駅まで延長することか決まると、新潟市の中心部を通る主要交通機関として、それにふさわしいもっとスケールの大きい名称が望まれるようになった。中ノ口電気鉄道の名称は、主として中ノ口川の沿線に敷設される電気鉄道という理由で付けられたもので、昭和7年4月から社名改称が検討され始め、同年6月28日、第六回定期株主総会において、「新潟電鉄株式会社」と改名することが決まった。
◆敷設工事反対運動
昭和7年5月3日、東関屋~燕間の地方鉄道を四っの工区に分けて、線路の切取りや築堤工事が一斉に開始された。第一工区は東関屋~大野、第二工区大野~白根、第三工区白根~六分、第四工区六分~燕である。
ところが、その工事が始まると、路線が越後平野の中心を縦貫するため、用地問題をめぐって生活権をかけた地元農民と、各地で工事妨害事件等の紛争が相次いで起こった。
まず、第四工区の燕町大字仙木地区において、共同苗代田が潰れる、耕地整理で完成したばかりの美田が潰れるという農民の騒ぎが発生した。続いて10月には白根変電所の建設地をめぐって小作人の耕作権をかけた工事妨害が起こる。
地主に対する建設地買収は小作人の耕作権を無視するものであるという理由からであった。1番強硬であり難関だったのは、第一工区の平島と鳥原であった。この二か所の家屋立退き問題では、家主は会社の用地買収に対して法外な高値を要求してきた。会社は遂に12月12日、土地収用法の発動を申請した。
12月23日、新潟電鉄土地収用審査会は、会社の申請どおり土地収用法の適用を可決し、会社は翌8年2月9日、10日の両日強制執行を行い家屋の解体にかかったが、家主は衆を頼んでこれを妨害し遂に流血を見るに至った。その後、家主は自分の手で家を壊すことになり、ようやく事件は解決した。こうして起きた多くの妨害事件も、路線変更や調停、強制収用等色々な方法により解決し、工事は着々と進み、昭和7年11月10日頃には線路の切取り、川道付換、鉄橋の架設等工事の大半を終わるに至った。
◆レールが港から大野へ
三井物産から購入した新しいレールが、新潟港から艀で黒埼村大野まで運ばれ、大野を起点に東関屋と白根に向けて敷設されていった。翌8年3月24日には、東関屋~白根間に線路が通り、建設上技術的に特に困難を極めた小中川、灰方などの泥湿地帯の線路敷設工事は、底なし沼に土を盛るような苦労の連続で、不安定なものであったが、ようやく見通しがつき、昭和8年8月12日、最後の工区白根~燕間も完成、地方鉄道部分は全線完成をみるに至った。
◆賛成・反対でもめた白山浦通
新潟市内軌道線の計画は、旧白山駅前~東関屋間(団九郎)であった。その後、新潟電力の持つ、旧白山駅~新潟駅間の市内軌道敷設権を譲り受けたため、軌道線計画は大幅な変更が加えられ、一挙に東関屋~新潟駅間の建設が計画された。
しかし、当時新潟市は都市計画が未完成だったので、県庁前~新潟駅間は都市計画完成後に着手することに決まり、まず県庁前~東関屋間の建設から行うこととなった。
ところが、軌道線2.6キロの予定地である白山浦地内は、道路幅わずか5間で、電車を通すに狭すぎ、道路を拡張して通すか、裏の用水堀を埋め立てて専用軌道にするかで議論が分かれたが、都市の美観、利用者の便等を考慮した結果、白山浦を通すことに意見が一致し、白山公園と県庁の三角地点に、本社及ぴ駅を置くことと決定した。これを知った白山浦住民はにわかに電車線敷設賛成・反対で騒然となった。5月10日、白山浦住民の一部が電車線路敷設反対の集会を催し、賛成派は賛成派で集会をしたりしてもめた。最終的に5月30日、白山浦町内会と利害関係者による協議会が開かれ、街の繁栄になることだから、白山浦の道路を六間に拡げて電車を通して貰いたい、ということに決まった。こうして、市内軌道線は原案通り敷設することになり、昭和7年10月1日、いよいよ軌道敷設工事を開始し、昭和8年7月20日完成の運びとなった。
残りの市内軌道線新潟駅~県庁前間2.8キロは、昭和12年勃発の日支事変の影響を受け、物資不足のため実現されず、昭和33年10月23日全面的に起業を廃止した。
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