新潟交通電鉄66年の歴史
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これは黒埼町北部公民館館長・宮田栄門さんの書かれた 「電鉄の今昔」新潟交通電鉄66年の歴史を編集したものです |
◆中ノ口川と人々の暮らし
日本一の長江信濃川は、三条で二つに分岐し、大野で再び合流する。その分岐した中ノ口川は、流域住民にとって昔から生命の源であった。人々は川水を漉して飯を炊き、堀を掘って水を引き、稲を育て、舟を浮かべて収穫物や生活用品を運んでいた。川はこうして沿線住民に大きな恩恵を与えてきた。しかし、一旦狂えば家を流し田畑を埋め、無数の住民や家畜を濁流の底に沈める。水が引けば人々は破れた堤防を塞ぎ家を建て、稲を植え、再び川と生活を共にしてきた。
三条で別れた中ノ口川の通る燕は、金物や洋食器の産地として有名であり、少し下って中之口村は、澤将監濫の館と、果物の産地として知られている。隣接する潟東村には樋口記念美術館がある。
月潟村の手打鎌は県下に評判が高く又、月潟は角兵衛獅子で全国に知られている。
この小さな訪問者たちが、街角に立って「笛に浮かれて逆立ちすれば……」と演じたとき、中ノ口川の堤防上から見た角田、弥彦の山々が瞳に浮かんだであろう。
味方、白根は古くから凧合戦の行事が賑やかに行われ、五月の節句には、中ノ口川両岸の堤防上から二十四畳の大凧が揚がり、唸りを上げてからみ合いが見られる。
又、白根には関西から伝わった絞りの秘伝があり、肌ざわりの良い白根絞りが作られて来た。仏壇作りも京都の流れをくみ、三百年の伝統を誇る越後仏壇として名を売っている。その他、中之口、月潟等の沿線は果物の生産に適し、春ともなれば桃の花が霞みの如く咲きほころび、やや遅れて梨の白い花が甘い香りと共に沿線の集落を埋め尽す。
「逢うて別れた信濃の流れ 逢えば浮名の中ノ口」 (新大野町小唄)
やがて大野で再び信濃川に合流した中ノ口川は、黒鳥兵衛の伝説を残す黒鳥。親鸞上人の旧跡山田の焼鮒、鳥屋野の逆さ竹。寺地にある波切りの御名号のみ堂を左右に見て団九郎を通り、新潟を貫通して日本海に注ぐ。
このように豊かな中ノ口川沿線の交通は、中ノ口川と縦横に巡らされた水路が重要な役割を果たしてきた。コウレンボウや長船に季節の産物や雑貨を積み、上りには岸から網手引が引き、下りには帆を張ったり櫂をあやつって、のんびりと川を下っいた。
陸上交通としては、中ノ口川沿いに黒埼村、味方村、月潟村、小吉村を通る街道があり、篭、馬、徒の人たちが往来していた。
◆信濃川の蒸気船
このようにのどかな信濃川沿線の交通が一変したのは、明治7年楠本県令の提唱で、新潟川蒸気船会社が設立され、外輪式蒸気船魁丸が信濃川の新潟~三条~長岡間に就航してからである。コウレンボウで上りには4、5日もかかったのが、10時間で結ばれ画期的な交通機関となった。
しかし、料金は新潟から大野まで八銭、小須戸まで十六銭、三条まで三十二銭、与板まで四十六銭、長岡まで五十六銭で、当時の米値段が一升五銭だけに、とても高い運賃であった。その頃まだ中ノ口川通いの蒸気船はなく、信濃川を走る蒸気船を大野の人たちは「大川蒸気」と呼んでいた。その信濃川通いの蒸気船は中ノ口川に入って、大野の蒸気場でお客を乗せたり降ろしたりして新潟~長岡間を上り、下りしていた。
◆中ノ口川の蒸気船
新潟~大野~燕間を初めて蒸気船安進丸が運航したのは、明治22年である。続いて23年ころから白根曳船汽船の白根丸も同区間を運航し、中ノ口川通い蒸気船の全盛時代を迎えた。
◆明治・大正の陸上輸送
その頃の陸上交通は、明治37年に、信越線が直江津~新潟間を全通したが、これは山側を走り、大正2年に、越後線が白山~柏崎間を開通したが、これは海側を走ったため、中ノ口川沿線は全く鉄道の恩恵からは、はずされていた。その後大正9年、黒埼村木場出身の山際佐之助の「黒埼商会」が新潟~大野~白根間にバスの運行を開始し、続いて中越自動車組合が矢代田~白根~巻間を運行し、中ノ口川沿線の陸上交通に自動車という新風が入ってきた。しかし、定員12人前後で、運行回数が1日四回程度。その上運賃が高かったので、沿線住民の足となるにはほど遠かった。
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