§<本の運命>第8話

     つげ義春「無能の人」と

        「漂泊俳人井月全集」

  

 
昨年(2013)の高遠ブックフェスティバルの際、出品する本や雑誌をぱらぱらめくりながら値札をつけていて、ふとある写真の頁で目が留まった。もうずいぶん昔に廃刊になった「月刊ポエム」という雑誌の「つげ義春特集号」(1977年1月号)で、まだ若さを残した顔立ちの往年のつげ義春が、バス停らしき場所のベンチに一人で座っているモノクロ写真である。撮影は、当時木村伊兵衛賞を受賞したばかりの気鋭の写真家・北井一夫。後ろの壁には指名手配の爆弾犯の似顔絵があり、その上に「高遠酒造株式会社」という看板が見える。えっ?と思ってよくよく見てみると、その横には「高遠周辺観光案内図」という絵図入りの大きな看板もあり、「たかとほは山裾のまち古きまち ゆきあふ子等のうつくしき町」という田山花袋の歌も薄く読み取れる。なんだ、これ高遠じゃないの! つげ義春は高遠にも来ていたことがあるんだと少し興奮した。


 さらに頁を繰ってみると、その数頁先にやはり同じ黒いタートルネックにジャンバーを着たつげ義春が、小雨にそぶる路地を歩いている写真があった。いまにも崩れそうな木造の平屋の板壁と軒先の竹竿にかかる洗濯物。路地の奥はには小高い丘と林が見える。いかにもつげ漫画を彷彿とさせる写真だが、これもどこかで見たことのある風景だ。あれ、ひょっとしてこれ、小生が以前、寺小屋という塾をやっていた高遠の清水町から蓮華寺へ抜ける路地ではないか? いまでは区画整理で古い建物は取り壊され、すっかり様子が変わってしまったが、77年頃だったらこんな風景だったとしてもおかしくない。


 いずれにしても、つげ義春が伊那高遠に来ていたことがあるのは間違いない。それを知って、妙に納得した気持ちになった。なぜかというと、だいぶ前に彼の「無能の人」という漫画を読んで以来、気になっていたことがあるからだ。多摩川の河原で、集めた石を並べて売れない石屋を開く中年男の哀歓を描いたこの作品は、我々のような零細の古本屋には身につまされる話だったが、その最終第六話「蒸発」に井月の話が出てくる。いつも寝てばかりいる変わり者の古本屋山井書店のあるじから、主人公の助川助三はある日一冊の本を手渡される。それが「漂泊俳人井月全集」で、後半はそれを読み拾いながら井月の半生をたどっていく。


 いまでこそ井月は映画(*)にもなり、岩波文庫の句集なども出て、かなり広く人口に膾炙するようになったが、東京出身の私自身、遅ればせながら井月のことを知ったのはつげ義春のこの漫画を通してだった(若い人にはそういう人が少なくないだろう)。漫画にも、「この全集一巻本が井月を伝える唯一の資料として残されたが、発行が昭和五年、井月はおろか今ではこの本も埋もれていると山井は云ってた」というせりふがあり、もう手に入らないだろうと思っていた。
 ところが、その埋もれていたはずの井月全集の増補改訂版を、ある日伊那の書店でたまたま見つけた。漫画に描かれていた通りの背表紙なので、正直言って驚いた。定価5500円。さすがに少し迷ったが、残りこれ1冊きりということだったので、思い切って買った。序・唐木順三、跋・芥川龍之介、発句篇、連句篇、和歌篇、日記篇、雑文篇、書簡篇、略伝及奇行逸話と並んでいるのを見れば、買わずには帰れまい。(その後、この本を参考にしながら、暇をみては井月の句碑巡りなどをして歩いた。→「漂泊の行方 俳人井月と伊那谷」)。


 いま奥付を見ると、この増補改訂第二版が出たのが昭和49(1974)年(**)。月刊ポエムの「つげ義春特集号」が1977年、「無能の人」の最終章「蒸発」が「COMICばく」に掲載されたのが1986年である。こう見てくると、つげ義春が手にした井月全集は、彼が77年頃、伊那高遠に遊んだ際に入手した増補改訂版だったのではないかと思えてならない。当時ならこの増補版が、伊那近辺にはかなり出回っていたはずだからである。実際、私自身それから古本を商うようになってから、伊那谷で何冊か井月全集を仕入れたが、すべて増補版で、昭和五年の初版本はまだ見たことがない。
 いやそうはいっても漫画にある通り、つげ義春には本当に山井書店なる古書店の知人がいて、実際に初版本を手に入れ、それをもとにして井月を描いたのかもしれない。久々に「無能の人」をめくってみると、こんなことが書いてあったからだ。「山井は自分の素性についてはあまり語らない 伊那の高遠出身というが 噂によると以前は古本の背取師をしていたようだ まともな商売とはいえないが いかにも山井にふさわしい」。
 背取師とは古本の業界用語で、掘出し物を探し歩いては、それを高く転売する人のことを言う。高遠出身のそんな古本屋が本当にいたのだろうか。知ってる人がいたら、ぜひ教えてもらいたい。

*映画「ほかいびと 伊那の井月」(田中泯主演・北村皆雄監督 2011年)
**「井月全集」は現在増補改訂五版(2014年刊)まで出ていて、まだ入手可能である。
 問い合わせ先:井上井月顕彰会 0265−98−0117


                       (2014年8月)


             

 
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