漂泊の行方
   ―俳人井月と伊那谷(上)

          堀越 哲朗 (*初出 月刊「望星」2001年2月号)


お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました(山頭火)

T ”漂泊への思い”に誘われて

 気の向くままに旅に出て、そのままどこか気に入った土地に住みつい
て、もう帰ってこない。あるいは何もかも捨てて、どこかもうひとつ別
の世界へ消え入ってしまいたい。そうした衝動に駆られたことが、誰し
も一度や二度はあるだろう。だがそれを本当に実行する者は稀だ。とく
に歳を取り生活の垢がかさむにつれて、それはますます難しくなる。だ
から大方の人はそうした一瞬の気持ちの魔を一杯のアルコールとともに
ぐっと呑み込んで、いまここでの日々の日常に耐えていく。
 それでもそうした「蒸発願望」あるいは「漂泊への衝動」というもの
が、無意識の奥深くに眠っていることに変わりはない。目に視えない管
理社会の足枷が人々の心身を縛れば縛るほど、ひょんなことからそれが
頭をもたげてくることもある。種田山頭火や尾崎放哉といった放浪の俳
人たちの存在がいまなお人々のこころを捉えて放さないのも、そうした
理由からだろう。
 これから語ろうとしている井上井月(せいげつ)もまた、江戸時代末
期から明治時代半ばにかけて信州伊那谷をさすらい、ついにこの地に果
てた俳人である。彼は越後の長岡の出身とされているが、三七歳の頃伊
那谷にやってきて、以来約三十年間、この土地を流浪して生きた。生涯
に詠んだ句は約千七百句とも言われている。
 私自身、十五年前に東京から信州の山間部に移り住み、廃村暮らしな
どを経て現在は伊那谷の郊外に暮らしている身だが、井月に関心を持っ
たのは比較的遅く、昨年の春、たまたまひとつの句碑と出会ってからで
ある。
 あれは冷たい雨が降り続いたあとの束の間の花曇りの一日だった。犬
を連れて、花見がてら近所の散歩に出かけた。家の近くの中学校の桜並
木はほぼ満開。雨上がりとあって、花の清楚さがいちだんと目に沁みた。
春先から身辺に消耗する出来事が重なり、厭世気分にとらわれていたせ
いか、白い花を見ながら無性に「命題のない生き方をしてみたい」とい
う誘惑に駆られた。格別これといった命題をもって生きてきたわけでは
ないが、田舎暮らしをしている私にも、時々そんな気持ちの魔が訪れる
ことがある。
 そんな漂泊への思いに誘われるようにして、ふだんはあまり歩かない
田舎道を山の方へ山の方へと辿っていった。いま私が住んでいるこの辺
りは旧中沢村(現在は駒ヶ根市に合併)といい、信州伊那谷の中央に位
置し、いまなお古き山里の雰囲気が色濃く残っている所である。さすが
に囲炉裏のある茅葺きの農家などは減ったとはいえ、風呂を焚くのに使
うのだろうか、軒下に薪を積み上げている家が目立つ。道の右手には新
宮川(しぐがわ)と呼ぶ小川が流れていて、南アルプスと伊那山地を隔
てる分杭峠に源を発し、少し先で天竜川に合流する。初夏にはいまでも
所々で蛍が飛び交う清流である。
 新宮川に沿って谷筋にいくつかの集落が固まってあり、棚田や畑の間
を、道は蛇行しながらゆるやかに上っていく。分杭峠の方向に小一時間
も歩いた頃、左手に「桃源院」という看板があり、山の中腹の寺と覚し
き建物まで、参道伝いに赤白の提灯がぶらさがっているのが見えた。村
の”桜祭り”ということらしい。この道は車では何度も通っているのだ
が、こんな所にお寺があることさえいままで気づかなかった。
 犬を先にして参道を登っていく。提灯の列が途切れた所に小さな寺が
あり、境内に数十本の桜が植わっていた。花は八分咲きというところか。
塵埃にまみれていない、山里ならではの白く美しい桜である。ここまで
登ってくると周囲をすっぽりと森に囲まれていて、俗界の物音がほとん
ど上がってこない。花を透かして谷の向こう正面に、真っ白い雪を戴い
た木曽駒ヶ岳や空木岳などの中アの峰々が見渡せた。
 静寂の中、花の下に佇んであたりの風景に見とれていると、何かブー
ッブーッという不思議な物音が、そこはかとなく周囲に漂っているのに
気づいた。ふと頭上を振り仰げば、なんと無数の蜜蜂が桜の周囲を忙し
そうに飛び交っていた。その羽音が静寂の中に響き渡っているのである。
花の上には久々に目にする真っ青な空。春の暖かな陽射しの下、平日の
昼間とあって境内には他に誰もいない。こんな一瞬はそう度々訪れるも
のではないなと感傷に浸っていると、犬も気持ちがよかったのだろう、
花の下で糞を始めてしまった。
 そのまましばらく境内を散策していたら、丘の上の一角に「井月余聞」
という立札があるのが目に入ってきた。見ると井月が、昔この寺の離れ
によくやっかいになっていたとあり、花の頃にここで詠んだ句として、

 
乞食にも投げ盃や花の山

 の一句が掲げられていた。そうか、井月がここに寝泊まりしていたこ
とがあるのか。なるほど、当時はさぞかし桃源郷のような所だったにち
がいない。ウームさすがに渋い所に泊まっていたなと、急にこの俳人の
存在が身近なものに思われてきた。
 立札の横には大きな岩でできた句碑があり、そこにはこう刻まれてあ
った。

 
暇乞
 立ちそこね帰り後れて行乙鳥

 句碑の裏には、「帰郷のすすめ、懐郷の情、さては散りしおの我が身
と思いあぐみつつ、ついに古里の土を踏みえなかった井月の境涯を想い
この碑を建てる 昭和六十三年十一月六日 曽倉 井月碑の会」とある。
いまなお残る地元の有志の人情が伝わってくるような碑文だ。あとで
「井月全集」発句篇を見てみると、この句には「国へ帰ると云うて帰ら
ざること三度」という但し書きがついていた。伊那谷の俳句仲間が、い
つまでも流浪ばかりしている井月の身を案じて送別会をし餞別まで持た
せてやって彼を越後へ送り出すのだが、善光寺を過ぎた辺りまでくると、
いつも彼はなぜか踵を返してブーメランのように伊那谷に舞い戻ってき
てしまう。そんな井月のどうしようもない心境を燕に託して詠んだ句で
あろう。
 それにしても彼はどうして生涯故郷にも帰らず、伊那谷というひとつ
の土地だけを三十年もうろついていたのだろう? 漂泊とか放浪といえ
ば、ふつうは見知らぬ土地を広くさすらい歩くことをイメージするが、
彼のような一か所巡回型は珍しい。だがそういうタイプの人間もこの世
にはいるのだ。
 東京生まれの私自身、たまたま縁あってこの伊那谷に移り住んで、か
れこれ十二年余りの月日が流れた。そのうちの十年近くは山の廃村で暮
らしていたが、山を降りたいまでも細々と村はずれの畑などを耕してい
る。そうすると季節ごとに周囲の世界は移り変わっていくから、一か所
に長くいてもさほど飽きることはない。それに谷には谷独特の吸引力と
でもいうものが強くあって、一度すっぽりとはまってしまうとそこがひ
とつの小宇宙になってなかなか抜け出せなくなる。いまの暮らしに自足
しているわけではないが、いまさら元には引き返せないし、かといって
この土地の地付きの人間とはやはり違う。窒息しそうでいながら、決し
て居心地は悪くない。そんな宙ぶらりんの気持ちを持て余していた頃だ
ったから、井月の三十年に及ぶ伊那谷漂泊にも、どこか他人事とは思え
ない興味を感じた。
 彼の有名な句に、

 
落栗の座を定めるや窪溜り

 というのがあるが、この伊那谷をはじめとする信州のあちこちの谷に、
この二十年ぐらいの間に我々のように都会から流れてきた余所者が吹き
寄せられるようにして溜まっている。そして気が付いてみたらその「窪
溜り」にすっかりはまりこんでいて、もうかんたんには抜け出せなくな
っている者が多い。井月もひょっとして、そうした先人の一人だったの
ではないのか。彼もきっとある種の故郷喪失者として、伊那谷という窪
溜りをあっちへごろごろこっちへごろごろしながら、その日その日を送
っていたのではないか。句碑を見ているうちに、そんな気がしてきたの
である。伊那谷における井月の生き様には、いわば漂泊の行方、故郷を
捨ててもうひとつ別の世界へ蒸発してしまった人間の生の哀歓が滲み出
ているように思う。

U 井月伝説

 井月が初めて伊那谷にやってきたのは安政五年、数えで三十七歳頃の
ことだったとされている。それ以前の半生については謎に包まれていて、
文政五年(一八二二)に越後の長岡に生まれたらしいこと。一七歳の頃
に江戸へ出、その後各地を放浪して伊那谷に落ち着いたことぐらいしか
わかっていない。
 その後明治二〇年(一八八七)、六六歳で没するまでの約三十年間を
伊那谷で過ごしたことになるのだが、驚くべきはその間、彼がついに家
に住まなかったことである。たんに家を所有しなかったというのではな
い。借家であれ小屋住まいであれ、定まった自分の家で眠るということ
がついになかったのである。井月の半生を辿ってみてまず驚くのはこの
ことだ。彼が師と仰いだ芭蕉は、旅を栖としながらも自分の草庵は持っ
ていたし、後年彼を慕って山口から伊那まではるばる墓参にやってきた
山頭火だって、最期は自分の庵で息を引き取っている。
 もちろん井月にも住み家を持とうという気持ちがなかったわけではな
い。遺された書簡などを見ると、「草庵開基の志」について俳友の造り
酒屋の主人にあてて述べているくだりもある。何よりも彼が芭蕉の『猿
簑』に収められた「幻住庵記」を諳じていて、求められれば一字一句の
間違いもなく筆写してみせたというところからも、自分の庵を持ちたか
ったのは確かであろう。しかしそれはとうとう実現しなかった。
 ではいったい井月はどうやって暮らしていたのか。聞き伝えによると、
いわゆる俳諧趣味のある素封家や農村の地主の家を渡り歩いては句を詠
み、達筆で色紙にしたため、ここに一泊あそこに二泊、気に入れば五泊
も六泊もやっかいになるという具合で、転々としながらその日その日を
暮らしていたらしい。好きな所で昼寝をし、泊まる所が見つからなけれ
ば野宿もする、そんな行き当たりばったりの暮らしである。

 
翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒

 という句があるが、そんな一所不在の浮浪生活を半年や一年ならともか
く、結果として三十年も続けたことになる。
 しかも彼が泊まり歩いていた数十軒の寄宿先というのが、天竜川をは
さんで直径二十キロメートル位の範囲(現在の長野県上伊那郡全域)に
ほとんど収まってしまう。その点が何といっても彼の際だった特徴だ。
この小宇宙をぐるぐると回遊しながら、彼はくたばるまで伊那谷を離れ
なかった。
 もっとも当時の時代状況は勘案しなければなるまい。島崎藤村の『夜
明け前』は、ちょうど井月の生きていた時代を背景として描かれている
が、幕末の動乱の時代、東西の交通の幹線筋にあたる隣の木曽街道など
は、次のような状態にあった。

〈諸国に頻発する暴動沙汰が幕府を驚かしてか、宿村の取締りも実に厳
重を極めるようになった。(中略)独り旅の者は勿論、怪しい浪人体の
ものは休息させまじき事、俳諧師生花師等の無用の遊歴は差し置くまじ
き事、そればかりでなく、狼藉者があったら村内打ち寄って取り押え、
万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないとい
うような、そんな御用達所からの御書付が宿々村々へ渡っていた〉(夜
明け前第一部第九章)

 そんな時代にあって伊那谷はというと、公領私領のいくつもに土地の
縄張が分かれていて幕府の権力も直接には及ばず、勤皇派の要注意人物
も転々として隠れていられる所だったという。いわばそれだけ山深い田
舎だったのである。それでいて平田篤胤の流れを汲む国学も盛んで、風
流を楽しむ富農や庄屋といった階層もいた。身元の知れない遊行の俳諧
師井月が伊那谷に沈没していったのも、そんなところに理由の一端があ
るのかもしれない。 しかしそれにしても、井月の流浪生活を指して、
たんに放浪と呼ぶにはあまりに一地域にのみ偏しているし、だからとい
って生涯住む家もなかった者のことを定住者とは言えまい。結局世間が
彼を「乞食井月」と呼ぶしかなかったのも無理のないことである。
 実際、彼の服装は汚かったらしい。人の家にやってくるときは古いな
がらも羽織と袴だけは身に着けてきたが、虱持ちで、婦女子からは極端
に嫌われたという。おまけに酒飲みで、すぐ泥酔して寝小便などを垂れ
流してしまう。昔は地方の山村や漁村には旅人をもてなす風習があった
とはいえ、こんな人間の面倒をよくもまあ繰り返し見てあげたものだと
思うが、それだけ当時は俳諧師や遊行者という者を受け容れる文化の幅
が、伊那谷のような中央から隔絶された片田舎にはまだ残っていたとい
うことなのだろう。
 もちろん井月の方でも食客としてふるまう最低限の礼儀は心得ていて、
どんなに心安くされても婦女子には絶対手を出さなかったという。これ
だけ長く同じ土地をうろついていながら、浮いた噂ひとつ立てなかった
というのも井月なのである。その辺に彼がとうとう家を持てなかった理
由と、それと裏腹の深い断念が潜んでいるように思う。その断念が彼の
いかなる過去から生まれたのかはわからないが(伊那谷に来る以前のこ
とについては、彼は一切口を閉ざして語らなかった)、結果としてそれ
が、彼特有のある種「ひらきなおり」ともいえる捨て身の境地を生んだ
ことは確かだ。そしてゆくさきざきの家で、宿泊や酒肴の返礼として、
求められるままに即興で句を詠み色紙にしたため、また次の家へとさす
らっていった。

V 流浪の跡を訪ねて

 夏の終わりから秋にかけて、句碑めぐりをしながら、この風狂の俳人
の足跡を現在の伊那谷の地に拾ってみた。
 井月の句碑は昭和六十二年(一九八七)の没後百年祭を機に続々と建
てられ、現在では個人の邸宅のものも合わせると上伊那地方に二十五基
以上、故郷長岡にも十基近くが建立されているという。今回はそのうち、
上伊那の主要な地点に絞って回ってみた。いずれも井月にゆかりのある
地に建てられているから、直径二十キロメートルの円内に収まる彼の伊
那谷での足跡を探るには好都合だった。
 長野県南部に位置する伊那谷は、西を中央アルプス、東を南アルプス
の山々に囲まれた南北に広く開けた谷筋で、その真ん中を諏訪湖に流れ
を発した天竜川が走っている。井月の伊那谷周遊は、天竜川をはさんで
伊那・駒ヶ根を中心に楕円を描いた範囲にほぼ集中している。いま最短
コースを車で行けば一周一〜二時間もあれば回れる距離だが、そこを彼
はあちこちで人の家に寄食し、句を詠み、酒をふるまわれ、行きつ戻り
つしながら、ときには数か月を費やして巡回していた。
 井月の句碑を辿ってみてまず思ったのは、彼がよく歩いた地、足を留め
た場所というのは、一部を除いてやはりマイナーな場所ばかりだなとい
うことだ。彼は決して伊那谷の中心地を胸を張って歩いていたのではな
い。周縁から周縁へとトボトボ歩いていた方が多い。それも農村地帯と
山村部との境目辺りに比較的長く滞在している。つまり、これ以上山奥
へ入ってしまうともう生きていくのに精一杯で「風流」どころではなく
なるし、かといってこれより町へ出てしまうともう「俗」と「権威」に
縛られてがんじがらめになってしまう、その境界域とでも言おうか。そ
の辺をよく選んで歩いていたなと思う。
 例えば彼の墓地のある伊那市郊外の旧美篶(みすず)村は、いわゆる
「落窪」として井月ファンには馴染みの場所だが、何でもないごくふつ
うの農村地帯のはずれにあり、いくつかの有名な句碑も道沿いの目立た
ない林の中にあって、そのつもりでよく探さないとわからない。その少
し先の山裾にある清水庵という寺は、井月がしばらく滞在し、「旅人の
我も数なり花ざかり」という句を詠んだことで知られるが、ここも中沢
の桃源院同様、いまなお山の隠れ里といった雰囲気が濃厚である。また
駒ヶ岳の山裾にある宮田村の全昌寺のように、寺そのものが住職のいな
い荒寺となっていて、句碑を探すのにひと苦労した所もある。井月が山
深い峠道を越えてしばしば通っていた中川村の四徳という山里にいたっ
ては、村そのものが昭和三十六年の「三六災害」で甚大な被害を被り、
いまでは跡形もなくなっていた。彼がよく足を留めた場所はそんな所が
多いのである。
 それにやはり井月は、地元の村人衆に蔑まれながらも、半面よく愛さ
れていたなとつくづく思った。でなければ後年、有志たちの肝いりだけ
で一地域にこれだけの句碑が建つだろうか。
 はじめに触れた桃源院の句碑にも井月に寄せる地元の有志たちの心情
がよく出ていたが、個人で建てた句碑にも雰囲気のあるものが多い。そ
のひとつが駒ヶ根市の南のはずれ、天竜川を渡る小鍛冶橋の袂の田んぼ
の一角にあり、「鮎若し橋も小船もある流」という井月の句が刻まれて
いる。背後にはたわわに実った黄金色の稲が川沿い一面に続いていて、
なかなかの眺めである。句碑の裏にはこうあった。

「無宿の俳人柳の家井月は越後の産。安政の頃伊那に現れ、この地に幾
多の名吟と超俗の逸話を遺す。天竜を東に西にさすらい、小鍛冶の橋を
渡り、鮎の句、梁の句を詠む。
 
梁掛ける村相談や稲の花 井月
 自然詩人の面目躍如、明治二十年六十六歳の生涯を閉ず。没後百年余、
その文雅を偲び、この碑を立てる。
 平成己巳 一九八九年秋 原治人」

 井月にゆかりのある地元の篤志家が、自分の地所の一角に建てたものな
のだ。バイクで通りかかった老人に地主の家を訊ねると、句碑とは逆側
の田んぼの畦で草刈りをしている老人を指差した。
 畦にしゃがみ込んで話を聞いた。この辺の年寄りにしては珍しく温厚
な語り口で、昔話をぽつりぽつりと語ってくれた。句碑は平成二年に自
分の地所の脇に橋ができた際、何か記念にと息子に勧められて建てたそ
うだが、驚いたのはそれまでずっとここに橋はなく、昭和の時代まで船
の渡しだったということだ。もっとも井月の時代にはまだ舟橋があって、
何雙か舟をつないだ上に板を渡して、その上を馬が荷を担いで通ってい
たらしい。「橋も小船もある流れ」とはそういう意味なのだ。
 治人さん自身はもちろん直接井月のことは知らないが、先代からは時
々話を聞かされた。「人によっちゃあ、あんな乞食なんか寄せ付けりゃ
せんだと言っているけどね、この家じゃ明治になってから上げ酒屋をや
っていたもんだから、それで井月も時々立ち寄ったんじゃないかね」と
のことだった。
 考えてみれば、ここはいまでこそ国道から離れた農村地帯のはずれに
あるが、舟が輸送の主流であった時代は、渡し場として交通の要に位置
していたわけだ。舟橋に渡してあった板がまだ残っているというので、
帰りがけ土蔵の方に案内されてそれを見ていく。なるほど長さ五メート
ルほどの厚い一枚板である。これを何枚かつないで舟の上に渡し、揚水
のときには浮かせ、出水のときには真ん中を切って防いだのだという。
一見するとただの廃材にしか見えないが、そんな歴史のある板なのだ。
治人さんの話を聞きながら、昔も伊那谷のあちこちで、こういう人たち
のやっかいになりながら井月は生きていたのだろうなとふと思った。

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