漂泊の行方
   ―俳人井月と伊那谷(下)

          堀越 哲朗 (*初出 月刊「望星」2001年3月号)


闇き夜も花の明りや西の旅(火山峠の句碑)

W 桃源郷の乞食俳人

 木曽駒ヶ岳の麓にある伊那宮田村の全昌寺という荒寺には、井月の句
碑の裏にこんな話が紹介されている。「明治十七年七月十六日、井月は
全昌寺御開帳の祭礼にやってきた。酩酊して芝原の上に寝ていると、近
所の人が家へ連れて行って歓待してくれた。井月は余程嬉しかったらし
く、ご深切と日記に書き留めている」。
 この部分、日記の原文を拾ってみると、

「十六日 快晴 下牧酒屋へ寄、有隣尋。宮田丸太藤屋へ窺、夫より眞
慶寺(注・全昌寺のこと)弓へ投じ馳走酩酊、松下の景捨がたく暫く芝
原ニ臥、方角を失ひ、近辺の家に投じ泊。戸主國太郎と云、下牧長木戸
の御親類のよし、御親切。」

 ということになる。晩年の酔いどれ俳人の姿を彷彿とさせるエピソー
ドである。
 もちろん乞食井月が、いつもこんな扱いを受けていたわけではない。
その少し前の日記にはこんな記述もある。

「十三日 晴暑 下牧へ訪、留守。澤渡橋普請ニ付小出廻り、諏訪形の
築山に茶漬茫然粗末。あるじ留守。」(明治十七年六月)

 晩年の井月が、主人のいない立ち寄り先でどういう待遇を受けていた
のかがこれからもわかる。この「茶漬茫然粗末」というくだりを読む度
に、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、出されたまずい茶漬をかけこ
んでいる井月の姿が目に浮かんでくる。
 「無用の用」という言葉があるが、これを井月に当てはめてみれば、
彼のような社会的には何の役にも立たない余所者の乞食俳諧師を客人と
して抱えこむことで、地理的に中央から離れた伊那谷のような山里でも
文化が活性化した。生涯この谷を出たことがないという人間が決して少
なくなかった時代にあって、井月のような流れ者はやはりマレビトだっ
たのだ。いわば「無用者の風流人」が旅することで、その社会・共同体
が豊かになったといえる。ところが逆に「有能の人」がやってくると、
だいたいにおいて共同体は崩れてしまう。環境問題ひとつとってみても、
それは近代以降の日本の歴史がまざまざと示していることではないか。
その点、無能の人・井月は伊那谷という風景の中に見事にはまっていた。
その跡を辿ってみても、風景に溶け込んでいて違和感がないのである。
 だから井月にしてみれば、故郷を捨て、諸国遊行の末にたどり着いた
伊那谷は、やはりある種の桃源郷だったのではないかと思う。彼がどう
いう理由で故郷を捨てたのかはいまだに謎だが、たどり着いた桃源郷も
また、一度そこを出たら再び容易には戻れない。「桃花源記」をはじめ
とするあらゆるユートピア譚がそれを教えている。彼の伊那谷というひ
とつの風土への執着、そして「ひらきなおり」ともとれる捨て身の生き
様は、そのことに本能的に気付いていたが故の、やむにやまれぬ彼一流
の生活術だったのかもしれない。(年譜を見ると、彼が伊那谷を離れた
のは、わずかに元治元年から二年にかけて長野の善光寺とその近辺に滞
在したときと、明治十二年五十八歳で、やはり北信の上水内郡に遊吟し
たときぐらいである。だがこのときも庵住を欲して得ず、再び伊那谷に
舞い戻ってきている)

X 潰えた草庵開基の夢

 だいたい三十年も一地域をうろついていれば、いくら乞食俳諧師とい
っても草庵ぐらい持てる機会はどこかであったはずだと思うのだが、そ
れすら彼は機を逸している。
 伊那市郊外の清水庵という山寺には、明治九年三月、井月がこの寺に
しばらく滞在したおり、自ら句選浄書をなした句額がいまも残されてい
る。庵主の尼さんに案内を乞うて、本堂の壁に掛かる句額を見せてもら
った。横幅3メートル、縦60センチほどの板にざっと八十ぐらいの句
が達筆で浄書されており、その末尾にやや大きめの字で井月の句「旅人
の我も数なり花ざかり」が記されている。明治九年といえば、井月は五
十五歳。俳諧師として油ののりきった年頃だったのだろう。さすがに衰
えのないみごとな筆運びである。この句額を見ていると、とても乞食呼
ばわりされていた人が書いたものとは思えない。
 実際、全集の年譜や連句篇をひもといてみると、この明治九年前後ま
では井月もあちこちの句会や連句の集まりに呼ばれ、各地区のお堂の棟
木に揮毫を頼まれたりしている。つまりまだまだ遊行の俳諧師として遇
されていた面もあったはずで、どこかに庵のひとつぐらい持てたとして
もおかしくはなかった。
 現にその頃書かれたと思われる書簡には、「古郷へ籍を取に行、秋過
には遅くとも罷帰、下牧におゐて草庵開基支度宿願に御座候」という一
節があり、その旅費を工面するために人に預けた勧進帳から何とか借金
を捻り出せないかと知人に頼み込んでいる。また同じ頃の別の書簡には、
「昨冬は向寒の出立残暑と服を同うし、如何に中綿を用るといへども其
功能河童の屁よりも利かず、追々厳寒に逼り終に命を中澤に落さんとせ
しも、曽倉なる竹村某が深き情により寒気凌防の実を得今日に及ぶ云々」
というくだりがあり、かなり切羽詰まった暮らしをしていたことも伺え
る。しかしその後どういういきさつがあったかはわからないが、ついに
その願いもかなわなかった。
 これ以後はもう一介の乞食俳人として、他人の好意をあてにしながら
人の家から家へと渡り歩いていくことの繰り返しで、そうこうしている
うちに、家を持てる機会も逸してしまったのだろう。「役者と乞食は三
日やったらやめられない」というが、そんな暮らしも長年やっていると
当たり前の日常になってきて、なかなか定住には踏み切れなかったのか
もしれない。

Y 晩年の姿

 しかしその晩年は、いよいよ周囲からも忌み嫌われるようになり、悲
惨なものだったらしい。幼少の頃、井月を見知っていたという旧中沢村
出身の下島勲は、次のように書いている。

〈私の知ってゐた頃、即ち明治九年から十五六年までは、小さな古ぼけ
た竹行李と汚れた貧弱な風呂敷包みを両掛けにし、時々瓢箪を腰にぶら
下げて、牛より鈍い歩調でトボトボと歩いてゐたのを記憶してゐる。が、
晩年の井月は乞食も乞食、余程極端な状態であつたらしい。例へば、以
前は比較的理解のあつた處でさえ、門前払いをするやら、僅かに軒下で
酒食を興へて戸を閉ぢてしまふといふやうな處もあつて、相手どころか、
気味の悪い乞食として忌み嫌つたとのことである〉(井月全集・略傳)

 こういう状態であってみれば、晩年の日記中にある「祭り馳走」や
「肴北海の如し」、「ご深切」といった記述が、彼にとっていかに切実
なものであったかがわかる。明治十七年の暮れには、

 
行先に困り果たり年の坂

 という句すら日記中に見える。時代はいよいよ明治も半ばに差しかかり、
伊那谷のような田舎にも近代化の波が少しずつ押し寄せてきていた頃で
ある。人々の生活や気風も変わった。井月のような「無用の存在」は、
ますます周囲から取り残されていくしかなかったのだろう。
 「落栗の座を定めるや窪溜り」と詠んだ彼であったが、その「窪溜り」
でさえ、もはや安住の地ではなくなってきた。井月が残した数少ない和
歌の中に「述懐」と但し書きのついた、ほとんどこの句への反歌ともと
れる一首がある。晩年の井月はたぶんこんな気持ちで、伊那谷のはずれ
をグズグズトボトボと歩いていたのではないか。

 今は世に拾ふ人なき落栗の
 くちはてよとや雨のふるらん

Z 井月の終焉

 火山峠は、伊那市と駒ヶ根市の境界にある峠で、天竜川を渡らずに伊
那・高遠と駒ヶ根の竜東地域を行き来できるので、いまでも国道の幹線
からの抜け道としてよく車が通る。火山(ひやま)という地名は、ここ
で昔よく烽火が上げられたことから付けられたものらしい。いまは木々
に遮られて峠からの眺望は効かないが、すぐ近くの高烏谷(たかずや)
山(標高一三三一メートル)に登れば、伊那谷を一望のもとに見渡すこ
とができる。
 井月もよくこの火山峠を通った。彼がよく逗留した天竜川東岸の東伊
那や中沢の俳句仲間の家へ伊那から行くには、大久保渡で天竜を渡るか、
あるいはこの峠を越えて行くしかなかったからである。いわばここは井
月の伊那谷周遊の常に中間点に位置する峠で、晩年の井月がここで行き
倒れたというのも何か因縁を感じる。彼は通りがかった村人によって近
くの集落まで運ばれ、その後何人かの手を経て、ひとまず高遠町のはず
れにある六波羅家へと担ぎこまれた。
 この六波羅家には現在、大正二年建立の、井月の句碑としては塩原家
墓地に次いで古いものがある。街道筋のこじんまりとした集落をちょっ
と入った私道の脇に、石垣の上のお花畑の中に自然石の句碑が三つ並ん
でいる。左が芭蕉で、「八九間空で雨降る柳哉」。真ん中が井月の庇護
者であった六波羅霞松の句だが、「……散る梅の床しさよ」ぐらいしか
読み取れない。そして右端が井月のよく知られた辞世の句「
何処やらに
鶴の声きく霞かな
」である。庭先のわずかな敷地に並べられた句碑であ
るが、よく手入れされていて気持ちがよい。
 家の人に話を聞こうと思って玄関先から声を掛けたが、犬が吠える声
以外応答がない。きっと野良にでも出ているのだろう。後で電話すると
おばあちゃんが出てきて、「私らのおじいさんの代の話だし、子供がな
くて夫婦両もらいの跡継ぎだから、たいしたことは知らないけど…」と
前置きした上で、いくつかエピソードを語ってくれた。
 それによるとこの六波羅家は、先々代の霞松の時代には家の前の蔵
(いまはもうない)の一階で小さな雑貨屋を営んでおり、その二階でよ
く句会などを催していたらしい。霞松自身落人だったらしく、他所から
流れてきてここに新しく住みついた人間で(彼も自分の過去については
養子にすら一切語らなかったという)、そんなことから井月の面倒もよ
く見、井月の方も度々立ち寄っては御馳走にあずかったり、泊めてもら
ったりしていた。火山峠で行き倒れになったときも、この六波羅家まで
運び込まれ、しばらく静養した後に、霞松の手によって美篶村の塩原梅
関宅へ連れていかれた(晩年の井月はこの塩原家当主の娘婿の徴兵逃れ
のために、形ばかりの入籍をしていた)。そして明治二十年三月十日に
息を引き取ったが、「何処やらに…」の辞世の句も、臨終に際して霞松
が井月に筆を取らせて書かせたものだという。このあたり、流れ者同士
にだけ通じる深い友情も感じられる。
 火山峠の方にも現在、「
闇き夜も花の明りや西の旅」という辞世の句
のひとつを刻んだ井月の句碑が立っている。句碑は、峠を百メートルほ
ど南に下った所に枝を広げる立派な赤松の下にある。この赤松は古くか
ら「芭蕉の松」として知られていて、「松茸や知らぬ木の葉のへばりつ
き」という芭蕉の句碑もここに建てられている。井月自身、芭蕉を生涯
師と仰ぎ、「
我道の神とも拝め翁の日」という句を残しているぐらいだ
から、本望が叶ったというべきかもしれない。
 しかしいまここを訪れる人は、この石碑のわずか数十メートル横に堆
く積まれた産業廃棄物の山を、いやでも目にしないわけにはいかない。
十年ほど前までは、そのすぐ下にある小屋で、カエルやイモリ、蜂の子
やザザムシなど地元特産の「ゲテモノ」を食わせる食堂が営業していた
というが、いまはそれも廃屋となっている。その向こう側、車道を隔て
た丘の斜面は年毎にブルドーザーで切り崩され赤茶けた無残な地肌を曝
しており、「産廃施設建設絶対反対!」「文化財・芭蕉の松が泣いてい
る!」という立て看も、もう文字が薄れかけてきている。その狭間に辛
うじて残された巨大な赤松と二つの石碑が、井月終焉の地の運命を物語
っている。

(*参考文献)
 「漂泊俳人 井月全集」(下島勲・高津才次郎編 伊那毎日新聞社)他
 なお現在入手可能な井月の句集としては、次のものがある。
 「新編井月俳句総覧 漂泊人の再現」(矢島井聲編 日本文学館)
 「井月全句集 井月全集索引」(伊那毎日新聞社)
 「風呂で読む井月」(大星光史編 世界思想社)

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