《§伊那谷スケッチ 第4部 2011夏〜2012夏》
9/23(日)「壊れる」
先日、畑のカボチャをやっと整理し管理機(ミニトラクター)で土を起こしていたら、5分ほど動かしたところで突然ぷつんと音を立ててエンジンが止まってしまった。スターターを引き、もう一度エンジンを掛け直して作業を再開したが、やはり5分も動かさないうちにエンストを起こしてしまう。何度やってもその繰り返しで、やむなく畑から出して機械をあちこち点検してみたが、強いて言えばエアークリーナーのスポンジがぼろぼろになっているぐらいで、見た目はとくにどこにも異常がない。この前もコイルスターターの紐が切れて修理に出したばかりなのでメーカーに電話して文句を言うと、たぶんこの夏の暑さで電気系統が故障しているのではないかという。考えてみればこの管理機を新品で買ったのは高遠の廃村に住んでいた頃のことだから、もう15年ぐらいたつ。
気がついてみたら、夏の終わり頃から身の回りのものがいろいろと壊れ始めた。何か人生においてひとつのサイクルが終わりかけている、そういう時期というものがあるのだろう。
すでに13万キロ走っている車も、夏に山道の悪路を走って以来マフラーの異音が消えないので整備に持っていくと、マフラーだけでなくエンジンそのものがおかしい可能性があると言われ、これも年末の車検時には買い換えを検討せざるをえなくなってきた。
インド楽器のエスラジも、手に入れて以来この15年間一度も切れたことのなかったフレットを結ぶ糸が夏の終わりに一箇所切れてしまった。弓なりにカーブした金属のフレットを曲に合わせて上下にずらせてチューニングするので、よく動かすフレットほど糸が傷みやすい。それでもこれまでもってきたのは、インドの楽器職人の技の凄さというほかない。久しくフレットの付け換えなどしたことがなかったので、虫眼鏡を取り出して他の結び目をよく見ているうちに、中央の弦がほとんど擦り切れる寸前であることを発見。先日のライブのときに切れなかったのがせめてもの救いである。ギターなどとは違い、両方とも交換するとなると結構な手間暇がかかるので、余裕ができたときにやるつもりでしばらくうっちゃってある。
そうこうするうちに今度は自分自身が、現場仕事で足場を組んだ隙間から足を滑らせ、落下しかけてわき腹をしたたかに強打。瞬間、ああやってしまったなとは思ったが、持っていた差し金がぐにゃっと曲がったぐらいで、すぐにはさほどの痛みも感じなかったのでそのまま仕事を続けた。ところが3日たったあたりから痛みが増し始め、なかなか元に戻らない。医者に行ってレントゲンを撮ってもらうと、肋骨にヒビが入っていた。自分の体も相当にガタがきていることを実感する。
もっとも新しく飼い始めた子猫のミミの場合、恢復も早かった。飼い犬のリラが餌をもらっているところに首を突っこもうとして襲われかけ、驚いて飛びのいた瞬間に傍の薪の山でわき腹を強打したのがお盆過ぎのこと。翌朝からぐったりしてほとんど動けなくなり、女房が近くの動物病院に連れていくと、内臓出血か尿管破裂の疑いで即刻入院となった。一時はもう駄目かと諦めかけたが、点滴でなんとか盛り返し、三泊四日で退院。いまでは庭や畑を所狭しと走り回り、芽を出したばかりの野沢菜や大根の畝を荒らすばかりか、屋根にまであがってこちらを困らせている。昨日もサンルームの窓枠にジャンプした拍子に横の小柱が突然はがれ落ちてきたので、びっくりして逃げていった。しかし驚いたのはむしろこちらの方で、この家も早くも修復が必要になっているのかとあらためて思い知らされた次第。次なる天変地異が来る前に少しでも早く手をつけるべきなのか、それとも後に延ばした方がよいのか迷うところである。
8/16 「お盆のやり過ごし方」
お盆の人混みを逃れて、駒ヶ根高原から池山へ。途中の林道から見下ろす駒ヶ根市街は、珍しく空気が澄んでいてくっきりと鮮やかだ。こんな田舎でも工場が一斉に休みに入ると、空気まで違ってくるものかとあらためて思う。昔東京で暮らしていた頃、朝のラッシュアワー時、お盆でがら空きになった山手線にゆったりと揺られて、不思議な気持ちで仕事場へ向かったことなどを思い出す。
その分、田舎のお盆ラッシュは凄い。すぐ近くに集落の共同墓地があるのだが、朝から夕方まで他県ナンバーの車が行き交い、狭い道路を塞ぎ、線香の香りが絶えない。町へ買い物へ出ても、駐車場はどこもぎっしり。温泉も人で溢れている。当方夫婦とも都会出身で、それぞれ唯物論者とカトリックの家庭に育ったせいで、お盆とは無縁に育ってきた。たぶん日本人としては珍しい部類に入るだろう。だから田舎で暮らし始めてお盆というものの実態に初めて触れ、驚いたものだ。
いまではさすがにお盆のやり過ごし方も少しずつ心得てきて、この期間は極力外へ出ないで人とも会わず、家の周辺だけでひっそりと暮らすことにしている。しかしこのところずっと雨続きの天気だったから、久々の晴れ間に山を歩かないという法はない。まだ16日で混んでいるかなとは思ったが、空木岳の登山道へ至る池山林道は相変わらず崩落の危険があって途中で通行止めになっており、以前のような混み方はない。むしろ犬を放してゆっくり林道を歩けるのがいい。
今頃がちょうど出ごろのチチタケを採りながら、勾配のゆるい山道をのんびり歩いて行く。昨日まで天気も悪かったし、さすがに行き交う登山客もまばらだ。鷹打ち場から「野生動物観察棟」へと向かう。勝手に別荘代わりに使わせてもらっているのを犬のリラもよく承知していて、いそいそと先を走って行く。さらに1時間も登れば立派な池山小屋があり、ここはほとんど使う人がいない。やはり今日も誰もいないのでほっとする。12畳ほどの板の間は土足禁止のため、きれいになっている。虫の屍骸などを箒で掃き出し、横になって昼寝をする。標高1500mはあるから、下界に比べれば別天地のように涼しい。ときおり体を掠める虻の羽音をのぞけば、静かだ。それにしてもきつい夏だったなと思いながら、頭を空っぽにして休む。
しばらくして起き上がり、頭が爽快になったところで、この夏読みきれずにずっと持ち歩いていたS・ソンタグの戦争写真論「他者の苦痛へのまなざし」をリュックから取り出して読み、さて昼飯のおにぎりでも広げようかと本を閉じたところで、「キエーッ!」という子どもの声が森の方から聞こえてくる。ふだんは入り口に犬をつなぎ、テラスに汗で濡れたTシャツやパンツなどを干しておくと、それだけで近づいてきた登山客たちはたいていは引き返していってしまうのだが、子連れの市民家族5人連れはそんなことにはお構いなく、「その犬名前なんて言うの?」としつこく聞き返しながらどやどやと上がりこんできて、部屋の一角に陣取って弁当を広げ始めた。それから小一時間、子どもらの嬌声と親たちの大声につき合わされて、せっかくの森の静けさもどこへやら。やっぱりお盆はどこへ行っても逃げ場所がないんだよな。犬のリラも諦めの境地に入ったのかテラスで顎を前足に乗せ、伏せの姿勢でこちらを向いてうずくまっている。
7/30 「人の波の力 40年ぶりのデモ」
人の波が押し寄せる力の強さ、というものを久々に経験した。
7月29日夜7時過ぎ、「脱原発国会大包囲」のデモ行進が議事堂前の歩道に溢れかえったとき、当局は鉄柵でバリケードを敷き、デモの群れを歩道の中に押し込めようと躍起になっていた。しかし次から次へと押し寄せる人波で歩道はすし詰め状態となり、気がついたときにはバリケードの鉄柵が崩れ、人々は車道に溢れ出ていた。警官たちは必死にそれを阻止しようと走り回るが、もうこの流れを止めることはできない。まるで洪水に押し流されるように、ぼくもバリケードを越え、人の波に呑まれ、前へ前へと進んで行った。夜空に浮かび上がる国会議事堂を前に、正門前の六車線の車道は「再稼動反対!」を叫ぶ人の群れで埋め尽くされた。
実に40年ぶりのデモ参加だった。
大飯原発がなしくずしに再稼動されて以来、あきらめムードに落ち込んで過ごしていたが、ネットで見ると、まだあきらめていない人たちが毎週続々と首相官邸前に集まり、気炎をあげているというではないか。それなら今度上京するときには、久々に自分も人々に交じり、怒りの一声をあげてこようかという気になったのである。
まず炎天下の日比谷公園で集会があり、その後新橋方面を1時間ほどかけてデモ行進したが、その時点では「何か一昔前のベ平連みたいな市民デモで、いまひとつ物足りないな」というのが正直な感想だった。先頭に近いデモの集団の中にいたので、4時過ぎに出発して公園に戻ってきたのが5時頃。それから公園の売店で水分を補給し、噴水前のベンチでゆっくり休み、40年前のデモの際焼き打ちにあったレストラン「松本楼」を横目に、そろそろ国会へ向かおうと公園ゲートの方へ歩いていくと、ぼくの後から出発したデモの隊列がまだ次々と公園へ帰ってきているところだった。このとき初めて今回のデモの人数の多さにいまさらのように気づいたのである(主催者発表延べ20万人)。
6時30分、再びデモ隊の列に入り国会へ向かった。国会が近づくにつれて、デモは次第に白熱し、若者たちの太鼓集団の叩くリズムに合わせ、「再稼動反対!」のシュプレヒコールがいよいよ声高くなってくる。そして夕闇とともにローソクやペンライトが点され、歩道のバリケードが崩れたところで抗議の渦は頂点に達した。それから約1時間、国会前の車道は一種の解放区となり、むせかえるような熱気の中、あちこちで人々の小さな輪やグループができ、ハンドマイクと太鼓や笛に合わせて「脱原発!」の声が夜空にこだました。
驚いたのは、それほど盛りあがっていながら、8時を過ぎ、「今日はこれで解散!」という声が聞こえてくると、皆それに従い、地下鉄の駅目指して三々五々帰路についたことである。一昔前なら、一部は国会突入という事態になっていたとしてもおかしくなかった。この整然とした引き際の良さはいったいなんだろう? これが市民社会の成熟ということなのか? とぼくも皆と一緒にお堀端を歩きながら考えた。
正直言って、ぼくはデモや集会で世の中が変わるなどとは思っていない人間のひとりである。だからこの種の集まりには長いこと参加してこなかった。しかし今回感じたあの人の波のうねりというものは圧倒的で、この流れはもう止めることができない。それはどこかで遠く中東やヨーロッパの人のうねりとも呼応しあうものだろう。水滴が岩をも穿つように、こうした行動を粘り強く反復していけば、どこかで小さな風穴が開かないとも限らない。
一見して団塊の世代とわかる白髪の参加者が目立つデモだったが、太鼓を叩く若者や子連れの参加者もかなりの数いた。たしかに時代は変わりつつある。まだ一点の希望を捨てるべきではない。そんなことを肌で感じた東京の夜だった。
(*なお首相官邸方面から国会を包囲したデモ隊の一部は警官と小競り合いになり、公務執行妨害で二人が逮捕されたという)
→首都圏反原発連合のサイト
3/21(水)「冬の読書 ドストエフスキーとトルストイ・他」
前回、ドストエフスキーのDVDの話など書いてから2ヵ月余り。結局この冬は、あれから19世紀のロシアに行きっぱなしで、ドストエフスキーの五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、それに加えてトルストイの三大長編『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』まで全部読んでしまった。目の前の現実からの逃避という気持ちが全然なかったといえば嘘になるが、半失業状態の冬ということもあって、老後の楽しみにとっておいたものを先取りしてやってしまった感じだ。(まあ十年後に同じことをまたやってもいいけど)。
やっぱり山国の人間は冬に集中的に読書をする。なぜって冬は畑仕事がないからね。春から秋の間は通常の仕事以外にどうしても畑や草刈り・薪集めなどに追われて、まとまった読書はむずかしい。雪に降り込められる冬こそ、薪ストーブを焚いてコタツにこもり終日読書にふけることができる。「田舎に古本の町を」というキャッチフレーズで東京から乗り込んできた「高遠本の家」の連中が早くも撤退してしまったのも、その辺のことが全然わかっていなかったからじゃないかと思う。夏のイベントも結構だけど、冬の間ずっと店を閉めてしまうんじゃ、観光客を呼び込むことはできても、地元に根づく古本屋にはならないだろう。
『アンナ・カレーニナ』で田舎の地主貴族のレーウィンが百姓たちと共に汗を垂らしながら草刈りをする有名なシーンがあるが、レーウィンにとって夏は農事に忙殺される生活の季節であるのに対して、そこに大都会ペテルブルグから遊びにきた著述家の兄セルゲイにとっては、田舎は気持ちのいい空気を呼吸し何もしなくていい息抜きの場である。だから兄弟で同じ農村の現実を目の前にしても、どうしても話が噛み合わずお互い疎遠になっていく。わが身を振り返ってみても、あの辺はよくわかるな。ドストエフスキーにとって「自然」が宗教的な甦生をもたらす感覚的な対象であったのに対して、トルストイにとっての「自然」は、そこに人がいて畑を耕し狩猟をする具体的な生活の場だった。そういう意味でトルストイはよくわかる。
一方、一通り長編を読み返してみて、自分にとってのドストエフスキーはやっぱり『悪霊』だった。キリーロフが幼児とマリ遊びをしているシーンなどすっかり忘れていて、旧友と再会したようななつかしい気分でどんどん読み進めていると、とうとうシャートフの別れた妻マリヤが臨月の体で戻ってくるクライマックスに近いシーンがやってくる。もうこの辺になるとこれ以上読み進むのが辛くなり、何度も本を置いては目頭を押さえ、ため息をつくばかり。シャートフ殺しの場面など、いま読むとどうしても連合赤軍やオウムの事件と二重写しになってきて、おまけに当事者の手記や映画などを通してディテールもわかっているから、そのあまりのリアルさに戦慄すら覚えた。『悪霊』を読み終えた後は例のごとくしばらく何も手につかなくなり、そのときふと『戦争と平和』をいままで一度も読んでいなかったことを思い出した。ドストエフスキーから少し離れたい気持ちもあって、気分を変えて『戦争と平和』を手に取り読み出したら、これが面白くてやめられない。北御門二郎の「心訳」で読んだのがよかったのかもしれないが、なぜこんな面白いものをいままで一度も読んだことがなかったのかと反省しきり。結局その後ドストエフスキーとトルストイをちゃんぽんで読み進め、気がついたら春になっていたというわけだ。
我々の世代ではドストエフスキーは読んでいてもトルストイはほとんど知らないという人が結構いるはずだが、『戦争と平和』のような鳥瞰図を横においてみると、また違って見えてくるドストエフスキーの世界というものもある。例えば『未成年』のマカール老人のような巡礼者が『戦争と平和』の末端の人物としても姿を現す。それを貴族の家庭の令嬢が世話を焼いている場面などを読むと、当時のロシア社会の中でそういう巡礼者たちがどういう位置にあり、どれほど蠢いていたのかが伺えて面白い。一言でいえば「トルストイは(緻密で)大きい、ドストエフスキーは(粗いが)深い」。
いまはむしろドストエフスキーの小説の登場人物にしてもおかしくないトルストイという人物の波乱万丈の人生そのものに興味が移ってきたところだが、もうそろそろ畑も起こさなければならないし、4月からは生活も変わる。いつまでも19世紀のロシアに入り浸っているわけにもいかなくなった。このスケッチもしばらくお休みとさせていただきたい。
*なお去年、ナナオの「ラブレター」という詩に曲をつけてギターの弾き語りをしたのがきっかけで、その後もナナオの詩に曲をつけて、辰野のオーリアッドで時々歌っています。インドの弓奏楽器エスラジの演奏も相変わらず細々と続けていますので、興味のある方は、毎週土曜夜のオープンマイクをのぞいてみてください。
**(番外編・感想)3月16日、吉本隆明が亡くなった。学生時代、教科書代わりに吉本の本を読んできた世代の一人として言わせてもらえば、晩年の姿は悲惨だった。昔、誰との対談だったか、『どこに思想の根拠をおくか』の中で、「羽仁五郎のような歳の取り方だけはしたくないですね、大江健三郎なんかどういうふうに老いていくのかといまから心配になります」というようなことを言っていた吉本の言葉が忘れられない。当の吉本はどう老いたのか? やはり海で溺死しかけた後からおかしくなったのだろうか?
いやいや、あれはもう25年くらい前のことになるが、イヴァン・イリイチが来日して東京で吉本と公開対談をしたことがある。当時、長野の山村に暮らし始めたばかりだった私はまだ元気があり、リュックを背負って東京まで対談を聞きに行った。しかしその中身はというと、イリイチがスペイン語なまりのブロークンな英語で真摯に吉本に質問をするのに対して、吉本はイリイチから顔を背け、聴衆の方を向いてほとんど一方的に「講演」を始め、聴衆の拍手のみを求めたのである。対話も何もあったものではない(通訳の人は本当に大変そうだった)。これが日本を代表する知識人の姿かとイリイチに対して恥ずかしくなり、長野に戻ってから主催した出版社に抗議の手紙を書いたものである。「こんな恥ずかしい内容の対談を、ごまかして本にしたりしないでくれ」と。
近年、NHKのETV特集でやった講演の模様もテレビで見たが、基本的にあのときの印象と変わりはない。文学者が歳を取るというのはむずかしいものである。ましてや吉本のように、どんなに老いても取り巻きや崇拝者に持ち上げられていれば、なおさらである。妻に先立たれた江藤淳の自殺がよいというわけではないが、少なくとも江藤は自分の美意識を貫いた。ある時点までの吉本が戦後日本の巨大な詩人思想家であったことを否定する気はまったくないが、「ああいう歳の取り方だけはしたくない」、そう思っているのは私だけではないだろう。
1/14(土)「正月のドストエフスキー」
冥界にいるTよ。年末から正月にかけて断続的にDVDでドストエフスキーを見ているのだけど、今日「罪と罰」を見ていて、親友というものの本来の定義がやっとわかったよ。それは殺人を犯した後、どこにも行き場のない人間が唯一訪ねて行ける友のことだと。老婆を殺したラスコーリニコフが、何ヶ月も会っていなかった親友のラズミーヒンの下宿を訪ねていくシーンがあるだろ。それを見ていて、親友というものの意味が痛いほどよくわかったのさ。
同じことは「白痴」の最後で、ロゴージンとムイシュキンがナスターシャ・フィリッポブナの遺骸の脇で添い寝するラスト・シーンを見ていたときにも思った。俺が見たのは、世界同時株安が進行する以前、ロシア国営テレビが総力を挙げてドストエフスキーの四大長編を映像化したドラマのシリーズで、「白痴」は全10話・510分、「罪と罰」は全8話・410分のドラマで、ともに原作のディテールをかなり忠実に再現している。何よりも主役から端役までキャスティングが実に見事で、見ていて飽きさせない。ロシア語で見聞きしてこそ、ドストエフスキーの小説のあのおしゃべりや議論がどういうものだったのかが実感されるというものだ。
Tよ、ドストエフスキー好きだったおまえがこれを見られなかったのは、つくづく残念だな。もう五十代も後半になると、晩年の楽しみということを考えるようになるけれど、俺の場合は「ドストエフスキーを読み返すという楽しみがまだ残っている」とひそかに自分に言い聞かせてきた。ところが気がついてみたら齢六十に達する前に、もうその楽しみを行使してしまっている。映像で「白痴」を見れば、やっぱり「白痴」を読み返すだろ? 「罪と罰」を見れば、やっぱり小説も読みたくなるじゃないか。とくにこの数年、ドストエフスキーの新訳がブームになっているから、楽しみもまた増えたというものだ。
「白痴」は河出文庫の望月哲男の新訳で読み返したところだが、バフチンのドストエフスキー論(「ドストエフスキーの詩学」ちくま学芸文庫)の訳者だけあって、訳が明解で迷いのないのがいい。米川訳の岩波文庫ではずいぶん意味が曖昧だったところが、はっきりと訳されていて読んでいてすっきりする。イッポリートの自殺未遂のシーンなど、何十年ぶりかの再読でディテールはすっかり忘れていたのだが、自意識が演じる悲喜劇の一部始終をこれでもかこれでもかというようにとことん描きつくしていて、読んでいる間中、まるで若い頃の旧友と久々に再会して一晩飲み明かしたような充実した気分が持続したものさ。
そういえば、近代のモノローグ的な小説に対してポリフォニー小説という概念を示したバフチンのドストエフスキー論は、俺が学生の頃、早稲田の新谷敬三郎という先生が最初に訳したものだった。訳にいろいろと問題ありとのことだったが、「「白痴」からの小説論」と題した先生の授業(ロシア文学特論)はとても面白く、俺としては珍しくきちんと出席した授業だった。とはいってもいま覚えているのは、戦争直後に学生時代を送った先生の若い頃は、ドストエフスキーを読むときはヒロポンを注射して、3日くらい徹夜して読みふけったものだというような話ばかりなんだが。
冥界にいるTよ。ときどきこんなどうでもいい話を誰かとしてみたくなると、おまえのことを思い出すというわけさ。「罪と罰」も、亀山郁夫の新訳で数年前読み返したのだけど、あのスヴィドリガイロフという中年男がこんなに面白い奴だったんだというのは発見だったな。もし同時代に生きていたら一晩ぐらい飲み明かしたいと本気で思ったぜ。二十代の頃に読んだときには、およそ思いもしなかった登場人物が生き生きと立ち上がってくる。これこそドストエフスキーを読み直す醍醐味だなと思った。DVDの方はまだ見始めたところだから、この続きはまた後日にするよ。じゃまたな。
12/23(金)「賭け」
年の瀬の東京世田谷。小田急線の各駅停車を千歳船橋駅で降り、駅前商店街をゆっくり歩く。町並みはずいぶん変わってしまったが、少年時代を過ごした町だから、路地の隅々まで身体が記憶している。所々に記憶にある店もちらほら残っている。お、このカウンターだけの焼き鳥屋、まだあるじゃないの。焼きそばの大盛りがすごいボリュームで、卓球の試合の後、先輩に連れられて入ったことがある。あ、「カフェテラス青い空」。まだあるじゃない。高校生の頃できたちょっとしゃれた紅茶専門店で、その向かいにあった間口一軒ほどのボロの古本屋との対照が印象的だった。古本屋の方はさすがになくなってしまったが、そこの親爺から「若い者はこういうものを読まなくちゃ」とジェリー・ルービンの「DO IT! やっちまえ!」という本を勧められて買ったことなどを思い出す。
「森繁通り」と最近名を改められた商店街を抜けて十字路を左に曲がると、昔「あかぎ書房」という古本屋があった少し先、住宅街に入る手前で見覚えのある喫茶店が目についた。「Ami」という喫茶店で、店の前を通りかかったとき、ふとある記憶が甦ってきた。この店ができたばかりの中学生の頃、こんな住宅街のはずれに喫茶店なんかできても続くわけないじゃないか、いつ潰れるか?と級友のTと賭けをしたことがあるのだ。Tが1年で潰れると言ったのかぼくが2年もたないと言ったのか、いまとなっては覚えていないが、いずれにしても二人とも店が早晩潰れるだろうと思っていたことは確かだ。しかしあれから40年余り経ってみると、Tはすでにこの世になく、店の方はまだ健在であるという結果が出た。これはぼくもTもおよそ予測していなかったことである。ガラス戸越しに中を覗くと、常連客が集まって宴会でもしているのか、どっと笑い声が聞こえてきた。グラスを手に歓声を挙げているのは、皆白髪の老人客ばかりである。
そこを通り越し、坂を下ると、樹齢数百年はあったはずの船橋観音堂の大イチョウがついに伐られ、太い幹だけが丸テーブルのように残されているのが痛々しかった。実家に戻り老親と話をしていると、わが母校船橋中学も創立50周年を機に建て替えとなり、お隣の希望が丘中学と合併することになったという。新宿や千代田区など都心部では生徒減少で廃校となる学校が珍しくないから、都心のドーナツ化現象がここまで及んできているということなのだろう。中学生の頃、Tと深夜の散歩をし、学校の塀によじ登って岡林信康の歌をがなった校庭にいまは人影もない。
12/11(日)「月食の闇」
昨晩、雪が舞う中、皆既月食の真っ最中に車を走らせた。辰野町のライブ喫茶オーリアッドのオープンマイクに参加した帰りで、行きがけに雲を被った巨大な満月が山の端から昇ってくるのを目撃したときには何か尋常ならざるものを感じたが、途中から厚い雲がかかり、休憩時間に外に出てみると半分に欠けた月が雲の切れ目から辛うじて見えるだけだった。店を出た十時半頃は、ちょうど月が地球の影に隠れて真の闇に入ったところで、道路自体は車のヘッドライトと街灯に照らされてとくに問題はなかったが、周囲の闇の濃さがいつもと全然違った。ふだんの満月のときだって雨や曇りともなればもちろん空は暗くなるが、その暗さの質がまるで違う。辰野から伊那まで約20キロの道のりを、春日街道と呼ばれる一直線の道路を飛ばしていくのだが、いつもなら右手に中央アルプス、左手に南アルプスの山並が望まれるところを、ただただ暗黒の闇だけを横目に、人家の明かりと街灯、それにときどき通過するコンビニの照明だけが煌々と灯る中を、ハンドルを固く握り締めて運転していった。通い慣れている道とはいえ、遠い闇の中に人家の明かりが点々と現れては消えてゆく光景が、まるで夜行列車から眺めたインドの夜景のように映る。うっかり気をゆるめると、そんな闇の中に飲み込まれていきそうになる。伊那谷のような田舎に住んでいても、ふだんいかに真の闇から遠ざかっているのかを思い知らされたような夜だった。
思えば、そのインドでたまたま皆既月食を見たのはもう25年近く前のこと。ヒンドゥーの教えでは、月食はラーフという悪魔が月を飲み込む不吉な時とされ、その日は特別なプジャ(祭礼)や祈りが神々に捧げられ、闇から光の復活を願う。当時はチェルノブイリの原発事故の記憶がまだ生々しかった頃で、ぼくが滞在していた南インドのコヴァラムというビーチにはヨーロッパからのヒッピー旅行者が溢れていた。そんな中、知り合った仲間たちと宿の中庭で月食の闇の時を過ごし、再び光が見え始めてきたときには思わず月にひれ伏したことを覚えている。
月食明けの今日は、昨日の荒天が嘘のような小春日和。皆既月食とともに不吉な何かが過ぎ去ったのだと思いたい。
11/9(水)「たかが猫、されど猫 …タマの突然の死」
「ええっ? 猫ってこんなに大きくなるものなの?」。いつだったか家に遊びにきた法竹奏者のKさん夫妻が、我が家の飼い猫タマを見るなり叫んだせりふである。我々はすっかり見慣れてしまったが、初めてタマを見た人は皆一様に驚きの声を発する。「で、でかい!」とか、「これって、本当に日本の猫なの?」とか、「タマちゃんて、お腹に赤ちゃんがいるのよね?」とか。でもこいつは去勢しているとはいえ、れっきとした雄猫なのである。我々自身ときどき近所の畑先を腹を引きずるようにして歩いている巨大な猫を見て、なんだあの化け物は?と思ってよく見るとタマだったりしたりして…。大工のプレムなどその大きさに恐れをなし、新居に猫穴を作ってくれるよう頼んだら過剰に大きな穴を開けてしまい、風がスースー入ってきて困ったものだ。
ちなみに数年前、メジャーでタマのサイズを計ってみたら次のようになった。
身長:60cm 体重:8kg 胴周り:55cm 首周り:30cm
後足の長さ:13.5cm
尻尾:30cm 鼻の長さ:2cm 万歳したとき:88cm
このうち後足の長さはとても猫の足とは思えない大きさで、こいつが階段を降りてくるとドタッドタッと足音がしてすぐわかる。いびきも人間並みに大きく、ぼくが夜勤に出て妻が一人で寝ているときなど誰か男がいるんじゃないかと思わず振り向いてしまうという。
しかしそんなタマも元々は捨て猫で、地元の産直市場で餓死寸前のところを夫婦喧嘩をして飛び出した妻が発作的にもらってきた猫である。当初は掌に乗るぐらいのサイズで、痩せに痩せて死ぬ寸前だった。こちらが台所で何か食べ物を手にするとたちまちするするっと腰から肩に這い上がってきて餌にがっついていた。が、すぐに嘔吐してしまい後で血便を垂れ流して苦しんでいた。翌日動物病院に連れて行くと腸炎との診断でいつまでもつかわからないと言われた。だからまず付けたあだ名が「難民猫」だった。それが生き延びてここまで大きくなったのである。「まったく図体だけでかくて、何の役にも立たない奴だな」と思う半面、食い物に対する幼い頃のトラウマがここまでタマを巨大化したのだと思えば、デブはデブなりにいとおしい面もあり、これまで8年飼ってきた。
一昨日、そんなタマが珍しく家を空けて丸一日戻ってこなかった。去勢猫だから行動半径は狭く、どんなに遅くとも昼の飯時に戻ってこないということはなかった。いつも餌をやると一気食いするタマのことだから、一日一食のこの昼飯に命をかけていたからである。それが夕方になり夜になっても帰ってこない。おかしいな、どうしたんだろう?とは思ったが、このところ猫の発情シーズンで、宦官タマとはいえ、どうもウズウズしている様子だったから雌猫でも追っかけているのかもしれない。すると翌朝7時に近所の方から電話があった。「ガレージで猫が死んでいるがお宅の猫ではないか?」という。急いで着替えをして妻と現場へ向かってみると、家から50メートルほど離れた近所の家のガレージの奥に眠るようにして横たわっているタマがいた。抱き上げてみるとすでに死後硬直しており、体はずっしりと重たい。電話を受けてとっさに車にでもはねられたのかと思ったが、毛艶もよくどこにも外傷はない。ひょっとして何か農薬かネコイラズの類でも食べたのだろうか? それにしては吐しゃ物もないし苦しんだ様子も見られない。死に顔はむしろ穏やかで、早朝学校へ行く前にタマを発見したその家の娘さんは「あんなとこでよその大きな猫が寝ている」と思ったそうだ。ところがいつまでたっても出て行かないので家の人が近寄って見ると死んでいた。組費を徴収にきたとき見覚えのある猫だったので、我が家の猫とわかったそうだ。
狐につままれたような気持ちで家まで抱えて戻り、タマがいつも爪研ぎをしていた白樺の木の根元に穴を掘って埋めてやった。死因は解剖でもしなければわからないだろうが、猫の相撲取りのように太り、おまけに喘息持ちで尿管結石の手術までしたことのあるタマだったから、この季節の変わり目に夜遊びの挙句、急性呼吸不全にでもなって行き倒れたのではないかと思っている。それが立冬の昨日の朝のことだ。8年前、餓死寸前でもらってきたことを思えば、これでも長生きしたというべきか。以前、16歳まで飼った猫がエイズで死んだとき、その喪失感があまりに長く尾を引いて辛い思いをしたことがあるから、今回はあまり重く受け止めるのはよそうと意識して昨日は山を歩いたり畑をしたりして過ごした。
しかし一晩明けてみると、こういう身近な生き物の突然の死というのは、こちらに心の準備がまったくできていない分、対応に戸惑うものだということがわかった。だってつい数日前まで、いつもの日常の風景の中で家族の一員として過ごしていた猫なのである。最近は体調もよさそうで悪さを重ね、この夏には戸棚のケーキにまで手を出して家から閉め出しを喰らっていた。自分の手で引き戸を開けてしまう猫だったから、いちいち戸に鍵を掛けておかないと食い物はうっかり外に出しておけなかった。つい先日もふかしたサツマイモがやられて追い出したばかりだった。それなのにそんな生き物がいきなりいなくなってしまうと、その空白がうまく埋められずに戸惑っている。その日を境に時間が突然切断されてしまい、その前と後をうまく結ぶことができなくなる。生の不可逆性ということを強く意識せざるをえない。この春の震災ではさぞ多くの人がそうした思いに苦しんだことだろう。我が家の場合はたかが猫一匹のことだが、それでもいつもなら朝ニャアニャア起こしにくるあの声が聞こえない、昼飯時に餌をねだり足にまとわりつくあの姿が見えない、夜一杯飲みながらふと抱き上げようとしてもその存在がいないというだけで、どうしようもない喪失感に胸をふさがれる思いがする。
雨の日に廊下に残したタマの足跡を雑巾で拭き取りながら、猫ってやっぱり勝手な奴だよなと思うばかりである。たかが猫、されど猫…。タマの不在に慣れるまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。
11/4(金)「清水平再訪」
25年前に住んでいた山の中の一軒家を久しぶりに訪ねてみた。
つい先週、筑北村の坂北に聳える岩殿山という地元の信仰の山に登り、熊野三社権現のある山頂の岩場から崖下の谷間を見下ろしていたら、はるか向こうの北アルプスの峰々を背後に、深い森に囲まれた谷間にそこだけぽっかりと開けた場所があった。地図と照合してみると生坂村の丸山という牧場跡地で、そこから沢に沿って3キロほど下流に行くと我々が昔住んでいた清水平という地に出る。昔世話になった山の古老から丸山を経て岩殿山に登るルートのことは聞いていたが、生坂からの山道はすでに藪に埋もれていて沢沿いに丸山にたどりつくのが当時としては精一杯だった。その岩殿山に25年の時を隔てて逆の坂北側から初めて登り、久しぶりに「里心」がついたというわけだった。
国道19号を山清路で右折。差切渓谷に至る最初のトンネルの手前で入山林道へ入り、舗装が切れた所に車を止めて歩き出す。未舗装の林道は相変わらずぬかるんでいて、そういえば町へ行く時はいつもここまで長靴で来て、ここでふつうの靴に履き替えたなと思い出す。途中の人の顔の形をした鼻岩は昔のままだ。古老の実爺さんと投網をしたことのある沢の景色も変わらない。
25年前(80年代後半)の時点で、この入山集落全体で人が住んでいたのはわずか三世帯。谷間の清水平に一軒、2キロ上の小谷田に二軒と離れて家があった。そのうち実爺さんはすでに亡くなっている。10年ほど前に一度訪ねてみたときには、もう住めないと思っていた清水平に舞踏をやっている女の人が道場代わりに住みついていて、とてもきれいにしているので驚いたものだ。いまも林道には車の轍こそついているが、それが住民のものか茸取りの車かまではわからない。果たしてこの山にまだ誰か人が住んでいるのかどうか、道々気にしながら歩いていった。所々で「私有地につき立ち入り禁止・地主」というダンボールの札を横目に見ながら、10分ほど歩いて湧き水の水場へ出た。水そのものはまだ流れているが、よく見るとやはり白い硫黄分が湧き出していて、とても飲めた代物ではない。それにおよそ人が日常的に利用している雰囲気もない。この段階で、もう清水平には人は住んでいないだろうなと確信を持った。そのすぐ先にはかなり大きな土砂崩れの箇所があり、大岩が沢の中央にまで乗りあげている。そこを回り込むと部落の倉庫だった建物が見えてきた。しかしその脇の空き地はすでに竹薮が侵食していて、もう車を停めるスペースもない。
小橋を渡り、沢沿いに進む。どこからか水が出ているのだろう、道はいよいよぬかるんできて、おまけに藪もせり出してきて難渋しながら歩く。途中、前住者が作った掘っ立小屋があり、脇にはプレートが掛かったままの廃車まで置いてあった。小屋の壁に貼られた公演のチラシ類を見ると、最後のものは2001年の日付だった。そこから竹薮をこいでゆるい傾斜を登ったところで家に出た。薄々予想はしていたが、思った以上に凄い荒れ方だった。藁葺きにトタンを敷いた屋根こそまだ辛うじて乗っているが、縁側のすぐ下には大きな穴がいくつも開いており、うっかり踏むと抜けてしまいそうだ。完全に廃屋である。家の戸は全部開けっ放しで、中をのぞいてみると埃と土だらけの囲炉裏端には布団や座布団が使っていたときのまま敷きっ放しになっている。しかし煤で竹がごわごわになった立派な自在鍵は誰かが盗んでいったのか、もうなくなっていた。前来た時があまりにきれいになっていたので、その記憶が鮮明な分よけいに荒れた感じを受けるのかもしれない。離れの物置だけはまだそのままで、昔我々が使っていたランプが残っていた。
もともと竹林に囲まれた家だったから、庭先には竹や笹やニセアカシヤなどの雑木が押し寄せるようにはびこってきていて、太古の地層が露出していた目の前の岩壁ももう庭からは見えなくなっていた。隣にあった廃屋はすでに竹薮と化していて跡形もない。地主が業者に森を売り、家の周り中の木が伐られ禿山になり、泣く泣くここを後にしたのが80年代の終わり。いまでは文字通りすべてが土に還ろうとしている。そこに流れた時間の長さと山の自然の力の凄さをあらためて思い知った。
藪を戻り、家の裏手に出た。S字を描いた沢の流れは昔のままで、そこにじっとしていると水の流れる音だけは昔と変わらずになつかしく響いてくる。妻は川原に下りて石を拾っている。ふと上を見上げると、薮を透かして家の前の崖の天辺が見えた。みごとに紅葉している。さらに一歩下がってみると、その崖の少し下に見覚えのある真赤に紅葉したもみじが見えた。毎年あの辺から紅葉していくのだ。これを見られただけでも来て肯しとしなければなるまい。もみじを写真に収めて小谷田へと向かう。
2キロ上の小谷田へ向かう林道は清水平の分岐からすべて舗装されていたので驚く。25年前にはこんな山の中からまだ中学へ歩いて通っている子どもがいるというので、NHKが取材に来たことがあるぐらいだ。その孫がいた実爺さんの隣家では長男が軽トラに乗って毎日農協に勤めていたから、バブル景気で余った予算がこんなところに使われたのかもしれない。つづら折の坂道を登っていくと、所々で崖の崩落箇所に出合う。もともと泥炭が出る地層に無理をして作った林道である。崩れない方がおかしい。25メートル四方が崩落している現場では、崖の上から木に結わえられたロープが何本も垂れていた。妻は「ロッククライミングの練習でもするのかしら」などと呑気なことを言っていたが、作業用のロープであることはまちがいない。
しばらく歩いて大きなカーブを曲がったところで一挙に視界が開けて、入山の谷が見えてきた。素晴らしい紅葉である。国道から車でわずか20分のところにこれだけの深い雑木山が連なっているのである。伊那谷なら旧長谷村から三峰川を遡り巫女淵あたりまで行かなければこれだけの紅葉は拝めない。高速の長野道が豊科から麻績まで開通してからというもの、このあたりはいよいよ時代の流れから取り残され寂れていくばかりだが、その分山の美しさはまだ保たれているというべきか。
途中から田んぼの畦道を抜けて小谷田まで行く近道があったはずだが、さすがにもう田んぼは誰もやっていないようでススキきだらけで道がわからない。やむなくひたすら林道を歩き、40分ほどかけて小谷田にたどりつく。最初に現れた日当たりのいい平屋が故・実爺さんの家だ。その隣も家はきれいに片付けてあるがやはり誰も住んでいなかった。実爺さんの家の軒下には立派なクヌギの薪が積まれているところをみると、町に下りた息子たちがときどき来て使うことがあるのかもしれない。庭先の木陰で休んでおにぎりを食べる。四方をすっぽりと森に囲まれ、誰も住んでいない山の静謐さが胸に沁みる。
ひと息ついてから、すっかりやぶってしまった畑の脇を抜けて山道を歩いてみた。尾根筋まで登ると正面に北アルプスが一望の下に見渡せる岩場がある。しかし枝道がいくつも分かれていて、これはと思う道をたどっていくと沢に出てしまったりしてどうしても記憶にある山道に出ない。やむなく引き返して、林道を下った途中から「熊出没注意」「これより先丸山牧場まで茸等の採取を禁ず」という看板の出ている山道を登って行ってみた。すると最初の斜面を登りきったところに祠と墓地があり、道沿いにさらにその奥へ行くと森の中に廃屋が何軒も姿を現した。朽ちた電柱の看板を見ると、1970年の設置と読める。清水平はこのひとつ向こうの谷筋にあたり、その尾根伝いにも廃屋や廃校があったが、この谷筋の集落と墓地の存在は昔も知らなかった。この広大な山の中に昔はどれだけの人が暮らしていたのか。そしてその人たちはいったいどこへ行ってしまったのか? どこか別の世界の時の流れにタイムスリップしてしまったような気持ちを抱えて、その上の尾根まで出て岩殿山を拝み、帰路についた。平日の昼間ということもあるが、林道を出るまで人っ子一人車一台すれ違うことはなかった。
9/15(木)「キノコと花火 夏の印象」
やっと秋日和になったと喜んだのもつかの間、この一週間ほどまたとんでもない残暑がぶり返している。今日もまた暑さを逃れて、本とおにぎり、それにノートパソコンなどリュックに詰めて、別荘代わりに使っている池山の野生動物観察棟へ。林道の駐車場には今日もかなりの数の車が停まっていた。前回も書いたが、例年だと9月の今頃、しかも平日にこんなに多くの車が停まっているのは珍しい。それも「とちぎ」とか「群馬」など北関東ナンバーの車が目立つ。ひょっとして今年は東北の山を敬遠した登山客が長野方面に流れてきているのではないかと思った。今日も福島県東部と猪苗代町では野生キノコがすべて出荷停止となり、山に入ってもキノコひとつ採れなくなったというニュースをやっていた。
栃木以北では人気のチチタケが、この空木岳の中麓ではよく採れる。長野でジゴボウと呼ばれるハナイグチなどに比べるとなぜかあまり地元の人に好まれず、お目こぼしになっていることが多い。この夏もお盆前にはそこそこ採れてキノコ汁にして食べたが、お盆以後はまったく見かけなくなった。福島ではチチタケも出荷禁止になっているというから、栃木などからキノコ目当てでここまでやってくる人がいたとしてもおかしくはない。3・11の影響は、時間がたつに連れて思わぬところで出てきているのかもしれない。
そういえば、この夏は、福島からやってきた小学生たちを家に泊めた。地元のNPOが、会津に避難している原発10キロ圏内の大熊町の小学生たちを中心に招待したもので、そのホスト・ファミリーとして小学生の面倒を見たのである。全国各地で似たような企画があったが、伊那の場合、わずか3泊4日のショートステイ。時間刻みでぎっしりのスケジュールが組まれていて、そのうち伊那祭りのパレードへの参加と最終日の天竜川の花火大会とがハイライトになっていた。とくに花火大会は市長が気をきかせて、有料席に近い市役所脇の一等地を子どもたちに提供。ホストファミリーと共に見物することになった。
ところがいざ花火が始まってみると、これが文字通り打ち上げ直下の「一等地」で、耳を聾する爆発音とともに火の粉は降ってくるわ硝煙の臭いは立ち込めるわで、思わず耳を塞いで「こわーい」と伏せてしまう子も続出。おまけに途中から雨も降ってきて、傘を差して花火を見上げる羽目に。しかもこんな近くで花火を見ていると、ほとんど戦争の爆撃直下にさらされたような錯覚に陥ってしまう。この夏、パレスチナやアラブやアフガニスタンでどれだけの爆弾が炸裂したのか、耳を覆いながら想像していると、横で興奮した小学生たちが「あ、大変だ、北朝鮮が攻めてくる! 逃げろ!」などと叫んでいる。その冗談が妙に真に迫って聞こえてくる。最後はこの日最大の呼び物の音楽花火というやつで、スピーカーのボリュームいっぱいに宇宙戦艦ヤマトのテーマが流れる中、ミサイルよろしく爆撃花火が次々と頭上で炸裂した。それを見ながら思った、ついこの間福島原発だって爆発したのではないかということを。いったいここまでして被災地の子どもたちと花火を楽しまなければいけないのか、つくづく考えてしまった。
さてここまで書いたところで日が陰ってきたので、パソコンを仕舞い、リュックを背負って山道を下る。途中の東屋でひと息ついていたら、若いカップルが下りてきた。どこまで登ってきたのか聞くと、飯島から滝ルートで越百山に登り、仙涯嶺・南駒ヶ岳と中ア南部を縦走し、摺鉢窪避難小屋に一泊、そこから空木岳を経ていま下りてきたところだという。とくに標高2500mの摺鉢窪付近のお花畑の紅葉が素晴らしかったとのこと。うーむ、うらやましいな。こちらはいつも標高1400mの野生動物観察棟で昼寝して下りてくるだけで、このところほとんど上には行っていない。ちょうど病院の夜勤の仕事も辞めたところだから、もうしばらくリハビリに励んで、たまには山頂の空気も吸いに行かなくちゃと思った次第である。
9/8(木)「たまにはこんな日が…」
紀伊半島に大災害をもたらした台風が抜けて、昨日からやっと秋らしい快晴の日になった。池山林道の駐車場まで来てみたら、車がぎっしりで停めるスペースがない。キノコ採りも入っているのだろうが、車のナンバーを見ると「豊橋」「浜松」「横浜」「福井」等々ほとんどは他県からの登山客の車だ。例年だと夏休み明けの今頃はいつも登山者も少なく、とくに平日だどまず誰ともすれ違わない。それが今年は空木岳へ至る山道に入るなり、上から下りてくる登山客と次から次へと出会うのでびっくり。大半は前日にロープウェイで駒ケ岳に登り、中アの稜線を空木岳まで縦走して朝早く下りてきた人たちだが、上で何か集まりでもあったのかと尋ねると、やっといい天気になったから山へ来ただけだという当たり前の答えが返ってくる。そうだよね、お盆の頃からほんとうにずっとおかしな天気が続いていたから、みんなよほど溜めていたんだなと思う。人間もやっぱり生き物の一員。まるで春になり虫が一斉に這い出してくるように、この秋晴れでみんな一斉に飛び出してきたというわけだ。だから今日は、会う人会う人機嫌が良さそうで、挨拶を交わしていく。たまにはこんな日がなくっちゃね。
ところで池山林道は相変わらず崩落がひどく、途中からは通行止めのまま。ごつごつとした岩肌がむき出しになった崩落箇所を通りながら、いまここで頭上の大岩が落ちてきたらひとたまりもないだろうなと一瞬恐怖が走る。(もっとも林道がずっと通行止めのおかげで、連れてきた犬を放してゆっくり歩けるのがいい。全然車が通らないから、場所によってはすっかり苔むしてきて、いかにも森の道といった雰囲気が出てきた。そうなってくると車で通過していたときには味わえない、道を歩くプロセスそのものが楽しみになってきて、いっそずっとこのまま通行止めでもいいなという気になってくる)。
さてもう6〜7年前のことになるが、夕刻の渋滞時、伊那市駅近くの商店街の通りを流れに沿ってのろのろ運転で走っていたら、突然後ろの車に激しく追突された。一瞬目の前が真っ白になり何が起こったのかさっぱりわからず、「地震でも起きたのか?」という思いが脳裏をよぎった。その後の調べで、初心者マークの後続車がかかってきた携帯に気をとられて急ブレーキと間違え「急アクセル」を踏んだことが判明したが、考えてみれば震災や事故で亡くなった人の大部分は、いったい自分の身に何が起こったのかわからずに、「え、なんで?」という思いを抱えながら一瞬にしてあの世へ逝ってしまったはずである。テロや戦争による犠牲者だってそうだろう。そんな死者たちの末期の目ともいうべき感覚を、あのとき垣間見た気がした。この時代、世界のあちこちでそういう死者が急増している。「20世紀は事故死の時代だ」と言ったのは、たしかカミュだったと思うが、それにならっていえば「21世紀は災害死の時代だ」とも言えるのではないか。
まもなく3・11から半年。あの日以来、HPの表紙の写真を一度も変えてこなかった。3月11日の午前中、たまたま蓼科の雪原をスノーシューで歩いていたとき、山にかかる不吉な雲の流れを撮ったもので、不精だったせいもあるが、なかなかそれを変える気になれなかったのだ。まだ何も終息したわけではないが、そろそろ気持ちを切り替えてもいい頃だろう。
9/3(土)「79歳の自殺 中村とうようの死に触れて」
先日、たまたま目にした中日新聞の「大波小波」で、音楽評論家の中村とうようが7月21日に自宅のマンション8階から飛び降り自殺したことを知った。曰く、「自死の理由は、老人として介護など迷惑をかけずに身を処したいというもので、少子高齢化社会における倫理的な問いかけでもある。孤独や病気や苦悩に追いつめられたわけではない。享年七十九、立派な選択ではないか」(9/1付)。
記事を読んで、にわかには信じられない思いと、やっぱりという思いとが交差した。というのも去年の夏頃、ラジオから流れていたボブ・ディランの最近の歌に興味を覚えて、久々にディランのCDを聴いてみたくなり、「レコード・コレクターズ増刊 ボブ・ディラン・ディスク・ガイド」というカタログ雑誌を購入した。その冒頭に中村とうようの「変化を繰り返す男、ディラン」というエッセイが載っていて、これまた十何年ぶりかでとうよう氏の文章に接したのである。そして一読、「何、これ? よくいまだにこんな文章書いて金もらっているね」と呆れた記憶があるからだ。なぜって、自分がいかに苦労して60年代のディランのアルバムの解説を書いてきたかという業界裏話を、自分の昔の文章を引用しながらだらだらと書き連ねた挙句に、「このあとぼくがディランのライナー・ノーツを書いたのは74年の『プラネット・ウェイヴス』だけで、その後のディランのレコードはほとんど聞いてない。75年の『血の轍』をディランの最高傑作のように言う人もいるがぼくは関心がないから、ああそう、としか言えない」とくる。仮にもプロの音楽評論家でしょう。ディランに関心をなくしたというのなら、書かなきゃそれまでじゃないの。こちらはディランの現在に興味を持って雑誌を購入したというのに、こんな駄文を冒頭に持ってこられては、あとを読む気もしなくなる。相変わらずその筋の権威ではあるらしいけど、「中村とうよう老いたり」と思ったものである。
思えば、我々の年代でロックに関心があって、中村とうようの文章を読まなかった者はいないだろう。とくにディランについては、解説・中村とうよう 訳詞・片桐ユズルというのが一時期の定番で、ぼく自身、ちょうど19歳の時にリリースされたその『プラネット・ウェイヴス』とザ・バンドとのライブ『偉大なる復活』は、自分の青春のモニュメントともなっている。とうよう氏がワールド・ミュージックの紹介に力を入れ始めてからも、彼の導きでいろんな民族音楽に接した。『大衆音楽の真実』もレコードで買ったし、山に引っ込んでからも、ウードのハムザ・エルディーンのCDなど、とうよう氏の紹介した音源に結構親しんだ。
ところで遺稿となった「ミュージック・マガジン」9月号の「とうようズトーク」にもハムザ・エルディーンの話が出てくる。7月に新しく誕生した南スーダンの独立に触れて、スーダン出身のハムザの自伝『ナイルの流れのように』(筑摩書房)をとうよう氏が訳したときの思い出から「国籍」の意味をあらためて問いかけている。ディランの時とは違って、文章はまったくぶれていない。それから日本人のウード奏者が武蔵野美大の「中村とうようコレクション展」で行なったばかりのコンサートの話になり、最後に突然老人問題についての私見と遺書ともいうべき部分がくる。
「この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません。最後の夜が雨になってしまったのがちょっと残念だけど、でもあたりにハネ飛ぶ汚物を洗い流してくれるんじゃないかって、思ってます。実はこのマンションを買ったとき、飛び降りるには絶好の形をしていると思ったんですよ」。
まるで『悪霊』のスタヴローギンを思わせるような冷静な記述である。楽器やレコードなどのコレクションも大学に寄贈するなどして、一人暮らしの身できちんと身辺整理もしていた。
実は2年ほど前、元高校教師の独り者の叔父が団地の一室で孤独死を遂げた。享年78歳。残された厖大な遺品の整理などに通いながら、いろいろと思うところがあった。だからほぼ同年齢にあたる今回の中村とうようの覚悟の自殺は気になった。叔父の場合、まだまだ自分が死ぬとは思っていなかったようで、死に対する準備がほとんどなされていなかった。それに対して中村とうようの場合、我が叔父とは対照的な計算しつくされた死に方だったことがわかる。しかしだからといって「孤独や病気や苦悩に追いつめられたわけではない」と言い切れるかどうか。いずれにしてもこの時代、独り者の老人がどんな無理をしてでも長生きしたいと思わせる世の中でないことだけは確かだから。
7/11(月)「詩人の眼と背中 ナナオ私感」
ひょんないきさつからナナオの詩の朗読をすることになった。考えてみれば早くも没後2年半になるというのに、追悼の集まりなどには一度も顔を出したことがない。フリークたちとの付き合いから遠くなったこともあるが、袖触れ合うぐらいのご縁はあった詩人である。この機会に久々に詩集を読み返し、虚心になって読んだり歌ったりしていると、あれこれと思い出すことが多い。
サカキナナオという詩人の存在を初めて知ったのは、上野圭一が監督した『スワノセ・第四世界』('76)という自主映画を見たときである。映画は長髪を肩に垂らしたナナオの語りを中心に、諏訪瀬島に入植したヒッピーたちの紹介をはさんで、当時島に計画されていたヤマハによるリゾート開発への反対集会の場面が、諏訪瀬島現地とカリフォルニア・バークレーでの集会とを交互に結ぶかたちで描かれていた。バークレーの集会にはナナオとともにゲイリー・スナイダーやアレン・ギンズバーグらも参加して詩の朗読や弾き語りをしていたが、映像で何よりも印象に残ったのは新宿の高層ビルをバックに語るナナオの澄んだ眼の深さであった。当時ナナオはすでに50を過ぎていたはずだが、あんなに曇りのない澄んだ眼にはこの国ではめったにお目にかかったことがない。ただ者ではないなと思った。
その後しばらくしてぼくは都心のサラリーマン生活に見切りをつけ、長野の山村で暮らし始めるのだが、たまたま移り住んだ生坂村清水平の空き家が、なんとそれまでナナオの家族が暮らしていた家だった。周囲を森に囲まれた谷間の一軒家で、役場の紹介で入ったものの電気・ガス・水道はなし。藁葺き屋根からはよく雨漏りがし、壁にはアカゲラが突いた穴が開いていたが、炉端に座るとそこが小宇宙になった。(ナナオの連れ合いのしう子さんと二人の子供は新天地を求めて北海道の帯広へ引っ越していったばかりだった)。そこへアメリカ帰りのナナオが何度か訪ねてきた。2キロ上にはナナオやフリークたちの生き方を擁護してくれた池田実老人がまだ住んでいたし、世界をまたにかける放浪の詩人とはいえ、生坂村の一軒家はナナオとしては捨てがたい場所だっただろう。ひょっとしたら「ついの住みか」となりえたかもしれない数少ない場所のひとつだった。
実際に会ったナナオで印象に残っているのは、鋼のようにまっすぐな背中である。炉端に座っていてもコタツに入っていても、その姿勢が崩れることがない。うん?これはどこかで見たことがあるぞと考えて、思い出した。学生の頃会ったことがある詩人の田村隆一がやはりこういう垂直の背中をしていた。直接会ったことはないが、作家の島尾敏雄もこういう背中をしていたとどこかで読んだことがある。三者に共通するのは、言うまでもなく海軍出身ということである。ナナオは一時期、特攻隊の生き残りと言われていたこともあるが、実際には戦時中、九州の海軍基地でレーダー解析の任務に従事していて、特攻隊を見送る側にいた。8月9日には長崎の爆撃に向かうB29をレーダーで確認するという経験もしたらしい。戦後いち早く市民社会から逸脱し、徹底的に一所不住・無所有の生き方を貫いたナナオには、そういう背景がある。
ぼくが伊那谷へ引っ越してからは、ナナオとは直接会うことはほとんどなかった。一度、飯田のお寺で開かれたポエトリー・リーディングの後、話をしたことがあるぐらいである。しかし噂はときどき耳に入ってきて、年を取ってからも相変わらず一所不住の暮らしを続けていたが、ある時期から夢遊病の持病?が出てきて、夜中起き出しては徘徊老人となってどこかへ出かけてしまうので居候先の家族を困らせているというような話も聞いた。南伊豆に事務所を兼ねた居場所があったが、晩年は大鹿村の釜沢という山深い集落で内弟子にあたるフォークシンガー・内田ボブの家族の世話になっていた。その頃、連れ合いの芳枝が会いに行ったことがあるが、ボブと撮った写真を見せてもらうとさすがのナナオも往年の眼の輝きは失せ、どこか虚ろな眼つきはすでに自らの内側を見つめているかのようであった(実際、アルツハイマーも進行していたらしい)。それでも請われれば詩の朗読などに出かけていたというが、2008年12月大鹿村で逝去。享年85歳。家族にこそ看取られなかったが、通夜には40人近い仲間が集まり、にぎやかに野辺の送りをしたという。
没後さまざまな「ナナオ伝説」が流布されているが、ナナオには会った人の数だけのナナオの像があり、しかもそれが日本だけでなく世界中に散らばっているので、その全体像を把握するのは極めてむずかしい。おまけにナナオはまったく散文というものを書かなかった。そこが同じ部族の仲間でも、相前後してなくなった三省やポン(山田塊也)とは決定的に違うところだろう。
しかし残された詩集を読み返してみると、やはり清水平にいた頃の詩が一番安定したまなざしが感じられる。ぼく自身同じ土地、同じ囲炉裏の火を見つめたこともあって、その頃の詩なら体感的にわかるものがある。とくに「ラブレター」は何度読んでも古びることがない。放浪の詩人ナナオが家族とともに暮らす定位置をえたとき、この奇跡のような詩が生まれたのだ。ナナオ自身、ポエトリー・リーディングの最後によく朗読していた詩だが、福島の原発事故があったいまこそ、こういう想像力の解き放ちが必要なのではないか。今回はぼくなりの解釈で曲をつけてみた。 →(
オーリアッド・オープンマイク)。
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