《§伊那谷スケッチ 2007秋〜冬 10/1〜12/26 》


12/26(水)「モズが枯れ木で」

 北風が吹きぬける庭先で今日も日課の薪割りをする。引越しが秋でスタートが遅かったからほとんど自転車操業で、割ったそばからストーブにくべていく有様だ。しかし薪割り自体はきらいな仕事じゃないので、口笛など吹きながら斧を振るっていると、ふっと「♪モズが枯れ木で鳴いている〜」となつかしい歌詞が口をついて出てきた。

 ♪〜おいらは藁をたたいてる 綿引車はおばあさん コットン水車も回ってる

 はるか昔にありえた東北の田舎の山村の情景が目に浮かぶ。まだ水車があった暮らしだ。しかし連想は当然2番の歌詞からきたのだろう。

 ♪みんな去年と同じだよ けれども足んねえもんがある 兄さの薪割る音がねえ ばっさり薪割る音がねえ

 そうなんだ、何もかも去年と、いや十年前とも百年前とも同じ暮らしのはずだったのに、何か変わってしまったものがある。去年までならいつも風景のように聞こえていた、初冬の静謐な山に響く「ばっさり薪割る音」。あの音がない。きっと兄さは薪割りもうまかったんだろうなと思う。こんな太い丸太でもばっさりと一撃で半割りにして。だけどその兄さはもうここにはいない。

 ♪兄さは満州へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ モズよ寒いと鳴くがよい 兄さはもっと寒いだろ (作詞・サトウハチロー)

 中学生の頃、初めて買ったLPレコード・岡林信康のファーストアルバム「わたしを断罪せよ」にこの歌が収められていて、よく聞いた記憶がある。あれから早四十年近く。いつの時代でも戦さは人の暮らしを一方的に変えてしまう。いまもアフガニスタンやイラクで、いったいどれだけの「兄さ」が姿を消したことだろう。
 そんなことを考えながら、腰をかばいながら苦心して薪を割っていると、だんだん意識が集中してきて、いやなことは次第に忘れていってしまう。もし何か浮かんできたとしても、斧で一振りばっさり断ち切ってしまえばいい。

 気がつくともう山の端に日は落ちて、あたりは一気に冷え込んできた。この辺で切り上げて薪ストーブを焚き、焼酎のお湯割を一杯やることにしよう。


12/22(土)「冬のウォーキング靴」

 昨日、久し振りに犬を連れて山へ行った。中ア南部の森が美しい吉田山である。9月に引越しをして以来、予期せぬ家の補修や仕事の多忙が重なって、たまに休みが取れても用事で目一杯の有様。とうとう秋の山を一度も歩くことなく季節だけが過ぎてしまった。こんなことはこの十年来記憶にない。だからだろうか、着る物だけは暖かくしていったもののすっかり勘が狂っていて、先日降った雪が残る登山口に着いてみて初めて山はもうまぎれもない冬であることを実感した。足下を見て、夏靴で来てしまったことをいまさら悔いても仕方がなかった。普通タイヤのまま雪道をおそるおそる車の運転をするような気分で、斑雪の残る森の道を犬に先導されてゆっくりゆっくり登っていった。


 不動明王が岩に刻まれた戒壇不動を過ぎ、落ち葉の積もる雑木林の坂道を奥の院に向かって登っていると、遅れてついてきた連れの芳枝が愚痴をこぼしている。彼女の方は先日購入したばかりのスパイク付きの防水トレッキングシューズを履いてきたのだが、それが早くも雪に滲みて靴下が濡れてきてしまったという。夏用のトレッキングシューズで来たぼくの方がむしろ水漏れなどない。日当たりのよい雪解けの斜面に腰を下ろし彼女の靴をよく見てみると、ゴム底と布地の境目に微妙な隙間があって、そこから水が滲みてきているようだった。要するに不良品で、「水切り」がきちんとできていないのだ。何だか新築なったもののいきなり一二階の境目から雨漏りしてきたわが家を見ているようで、妙にリアルな感情に襲われ、二人で顔を見合わせてしまった。
 しかしそういえばぼくも去年、同じメーカーのスパイク付きトレッキングシューズを新調したのだが、雪道で履いてみたらいきなり水が滲みてきてあれっ?と思った記憶がある。わざわざアイゼンをつけるほどでもない里山程度の冬の雪道ではとても重宝していた冬靴で、同じメーカーの品をこれまで何度か履き潰して3回以上は購入しているのだが、いままでこういうことはなかった。それがここにきて二回続けて起きるということは、製品自体のクオリティが落ちてきていると言わざるをえない。時代の流れというのか、こういうことがよくあるんだよね、この頃。
 たかが靴一足でも、ウォーキングをする者にとって靴の品質とは、物書きにとってのペン、料理人にとっての包丁にも匹敵するものである。そう思って今日買い物の途中靴屋に寄って物色してみたが、防水加工した靴だけなら種類が揃っていても、スパイク付きの防水シューズでしかも山に履いていけそうな靴となるとほとんど数がない。登りはともかく、雪道の下りではたったひとつのスパイクのあるなしが大きくものを言うだけに、店頭で悩んだ挙句、結局何も買わずに出てきてしまった。(いくら安くても、いまさらまた同じメーカーのものを買う気にはなれないものね)。もう少し時間をかけて、いい冬靴を探してみようと思っている。


12/11(火)「パオ(包む)」
 
 去る日曜の午後、庭先に建てたパオで、女房の芳枝がやっている英語教室の発表会を行なった。午前中は風もない穏やかな日和だったが、昼を過ぎてリハーサルに入った頃から風が出始め、いざ本番の英語劇は突風が吹き荒れる中での舞台となった。寒さ除けのためテント地の内側全体にプチビニールを巻きつけているのだが、それが風にあおられぱたぱたとうなる。しかしパオは強風をしっかり持ちこたえ、円形の空間の中で参加者はむしろ自然のふところに包まれ、一体となってパフォーマンスに見入っていたように思う。取材にきた記者が「不思議な空間でしたね」と感想をもらしていたが、ちょっと昔のアングラのテント劇場を思わせるような異空間が畑の真ん中に出現した。劇を演じた小一から高三まで六名の生徒たち、その父兄、近所のおばさんたち、そしてどこからか噂を聞いてやってきた親子連れなどそれぞれが、この丸い空間でのひとときを充分味わって帰ってくれたと思う。

語るピーター・マコーマック)


 舞台がはねてお茶の席に移る頃にまた天気は回復してきて、気持ちのいい午後の陽がテラスに射しこんできた。ぼくが子どもたちの歌の伴奏に使ったインドの弓奏楽器エスラジを持ち出して弾き始めると、ストーリーテリングをしてくれたゲストのピーターがジャンベを持ってきて叩き出し、即興のセッションが始まった。子どもたちはその前を「だるまさんはころんだ」をしながら走り回り、親たちはそんな庭の風景を横目に薪ストーブを囲んでおしゃべりに興じている。そして向こうの畑では野沢菜の刈り入れをする近所の人たち。その真ん中にパオの丸いテントが風景を包み込むように白く輝いていた。
 


11/22(木)「薪の炎」

 「アカシヤの薪って、こんなに明るく燃えたっけ」。薪ストーブに火がともって一週間になる。家の心臓部にやっと血液が流れたような感じだ。薪を焚くのは十年ぶりのことだが、やっぱりいいなあ。多少雨漏りがしようと階段にきしみが出ようと、薪さえ焚ければ細かいことはどうでもよくなる。今回注文したイエルカのオーブン付薪ストーブは三層構造になっていて、一階の薪を焚く部分と二階のオーブン部分にはそれぞれ耐火煉瓦が敷き詰めてある。その上に屋上の空気抜け部分があって、そこを貫通して手前と奥に二本の空気穴が縦に通っている。だから全体にまろやかに熱が浸透する仕組みになっている。昔は直火の囲炉裏にばかりこだわっていて、薪ストーブは一冬使えばだめになる時計型のルンペンストーブしか使ったことがなかったが、ほとんどミニ暖炉とも言えるこんな薪ストーブで火を焚いていると実に贅沢な気分になる。
 家を建てた際に出た杉の丸太の端材がたくさん余っているので、それをナラやアカシヤの薪に混ぜて使っているが、針葉樹の杉といえども丸太のまま燃やせると結構豪勢だ。火の色も明るいから見ていて飽きない。傍で一杯飲みながら、ついつい夜更かしをしてしまう。地元の板金屋さんに作ってもらった煙突も家の二階を貫通して屋根に突き出ている構造だから、下で火を焚けば二階は十分温まり暖房はまったくいらない。いい薪さえ使えば、一晩とろとろと薪が燃え、朝までもつ。これでやっと安心して眠れるようになった。


(上部脇にオーブンの扉がついている)


 先日、そんなイエルカも参加した薪ストーブの展示会が旧長谷村の道の駅「南アルプス村」であり、顔を出してみたらなつかしい人に出会った。昔、高遠の芝平という廃村に住んでいたときの隣人の木工作家N君で、いまは「薪の会」というNPO法人を主催している。我々のような東京から流れてきた軟派な山暮らし派とは違い、山で生まれ育ち、山を大切にして生きている地元の住人である。すっかりおじさんになった彼と十年ぶりに話をしたが、荒廃する山林を前にして薪ストーブを軸に間伐材の再利用を通して環境問題にも寄与しようという彼なりの考えが、いかにも地付きの人間らしい具体的な意見で新鮮だった。久々に会ってみるとお互い時間が流れたなという話になり、歳もあるのかもしれないが、戻ってきて深夜こうしてストーブの薪の燃え尽きる姿を眺めていると、自分が死んだときもこうやって骨が燃え尽きていくのかもしれないなということをふと考えたりする。

*なおこれまでは口コミで知人の間にだけ伝わってきたイエルカの手づくり薪ストーブですが、今年から本人の意向もあり広く一般からも注文を受けることになりました。関心のある方は値段や種類等ご紹介しますので、当方までメールでご連絡ください。煉瓦も含めて150キロ以上の重さに耐えられる床があれば、文句なしにお薦めのストーブです)。


11/17(土)幻の名画「魔法使いのおじいさん」

 久々に東京まで日帰りで映画を見に行ってきた。インドのアラヴィンダン監督の名作「魔法使いのおじいさん」('79)を観るためである。国立近代美術館フィルムセンターの特集「インド映画の輝き」のひとつとして上映されたものだが、八十年代の初めにこの前作にあたる「サーカス」を見て感動し、この作品の舞台となる南インドのケララ州を旅してその人と風土の魅力に取り憑かれて以来、ぜひ一度は見たいと思っていながらいつも機会を逸してきた。それだけに足掛け四半世紀にわたる念願がかなって、この幻の名画を観ることができた喜びはひとしおだ。高速バスに往復7時間も揺られれば、戻ってくるだけでぐったり疲れてしまうが、昔州都トリヴァンドラムの街をこの監督の映画を求めて歩き回ったことを思えば、今回はそれもさほど苦にならなかった。
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11/2(金)「雨漏り」

 新しく移り住んだ家が見晴らしがいいことはこの前書いた。しかしそれは逆に言うと、それだけさえぎるものがなく吹きっ晒しの土地であることも意味する。
 季節外れの台風が接近した先の週末、北西から横様に殴りつけるような風雨が新居を襲った。ふと気がつくと、一階と二階の天井の隙間からログの壁を伝ってぼたぼたと雫が垂れているではないか。おやっと思って部屋の周囲を見渡すと、台所のコンセントや冷蔵庫の後ろの壁を伝って、雨漏りの雫がここからもあそこからも垂れている。その数十箇所以上。慌てて女房と手分けしてバケツや雑巾を置いて回ったが、受けるバケツの数が足りなくなった。こんなことは二十年前に古い藁葺き農家に暮らして以来のことである。ぼたっぼたっとバケツに垂れる雫の音が不謹慎ながら何だかなつかしい音に聞える。
 今度の家は一階が杉の丸太のログハウス、二階が在来工法による木造りの家で、その狭間に渡した大引きと呼ぶ太い丸太の端から雨水が滲みこんできたものらしい。早速、ビルダーの友人に連絡してコーキングのやり直しを依頼する。実は二週間ほど前にも南からの風雨が吹きつけたとき、やはり一階と二階のベランダの隙間から雨漏りがして大騒ぎをしたばかりなのだ。そのときは雨漏りの件で電話をかけまくっているところへ、たまたま役場の税務課の人が固定資産税の評価のために家を訪れ、苦笑いを隠しながら会話を聞いていたことを思い出す。きっと来年の固定資産税の評価は低くなるにちがいない。
 生木の丸太を積んで造ったログハウスというのは実際家そのものが生きていて、丸太が乾燥していくにつれて柱や壁は日々刻々と沈み、きしみや亀裂をひろげてゆく。その歪みの分を計算して壁や柱の隙間を取っているわけだが、それが落ち着くまでの三〜四年の間は、こまめなメンテナンスが欠かせない。住んでいくには結構手間隙のかかる家なのだ。
 しかし新築の家に移り住んで、バケツを手に雨漏りの雫を受けて回るとは思っていなかったので、女房共々えらく消耗する。


10/23(火)「わが伊那谷」

 夜勤明け、病院のある諏訪湖畔の駐車場を出ると、湖の向こうに真っ白に雪化粧した穂高連峰がふいに目に飛び込んできた。その白さが徹夜明けの眼にまぶしい。夏の間、あまりその存在を意識しなかった天上界の山々が急に視界にくっきり入ってくる。やっとそんな季節になった。
 先日の冷たい雨が、山の上では初雪となったのだろう。帰り道、眠い目をこすりながら車を走らせていると、木曽駒や空木をはじめとする中アの山々も山頂部はみな一様に白く輝いていた。それがまだ黒々とした山容を見せる手前の里山と鮮やかな対照をなしている。もう少し季節が進めば、下は紅葉、上は雪で真っ白といった光景にもときどき出会える。
 そんな伊那谷の郊外に建てた家に戻り、昼過ぎまで仮眠を取ってから、2階のテラスで一服つけて周囲の山々をゆっくり眺める。家作りと引越しでばたばたした日が続いていたから、こんなことをするのも初めてだ。
 見渡すと家から東南に向かって伊那谷が長く延びており、高烏谷山や戸倉山など伊那山地の山並みの向こうにわずかに白く南アの高峰が姿を見せている。左手北端の饅頭を伏せたような山が入笠山、その右のぎざぎざが鋸岳、三角屋根の甲斐駒、仙丈の頭を掠めて、手前双子山の奥に塩見の先端が白く輝いている。その右に連なるのが荒川、赤石か? 右端飯田盆地の先で山並みは霞み、徐々に遠州灘に向かって落ちこんでゆく。


正面遠くに塩見岳が見える。
(飯場用に使った手前のパオは間もなく撤去。その横にもっと大きなパオを設営予定)

 庭の家庭菜園の東側には畑と墓地、その先の丘の端に防風林の雑木林があり、麓の市街地はその林に隠れて見えない。家の周囲は360度畑で、長野に来て20年余りになるが、こんなに視界の開けたところに住むのは初めてだ。この景色が、いわば等身大の「わが伊那谷」である。 


10/7(日)「田舎の格安物件事情」 

 一昨日からまた腰痛である。引越しの最中に一度やり、しばらく無理をせずにいたのだが、基礎工事に使って置きっ放しになっていた鉄骨材を移そうと持ち上げた瞬間、ぎくっとやってしまった。その前日も暗くなるまで、パオを建てる場所をつくるために一度植えた苗木を別の場所にスコップで穴を掘って移し変えたりしていたから、腰に疲労がたまっていたのだろう。やむなくまた鍼に通う羽目に。
 そもそも引越し荷物が多すぎた。これでも古本屋の端くれだから、本はある程度やむをえないとしても、いつのまにこんなにガラクタが身辺に増えていたのかと荷物を整理していて呆れるばかり。長野に来て今度で4回目の引越しになるが、引越しをする度に荷物が増えている気がしてならない。最初に住んだ生坂村の山中の藁葺き農家から高遠町の廃村へ引越したときは、業者が4トントラックで来てくれたが、荷物を全部積み込んでも荷台はがらすきで、残りは割っておいた薪をダンボールに詰めてトラックに積めるだけ積んできたことを思い出す。それが今回は業者に頼んだトラック以外に、自分のバンでいったい何往復したことだろう? それだけ生活の垢が溜ってきているということだ。ガラクタ類はまとめて市の不燃物処理場に処分しに行ったが、この程度じゃまだまだ甘いな。ひと落ち着きしたら、もっと大胆にモノを捨てようと思う。

 ところで、およそ家など建てるつもりのなかった自分が、とうとう家を建てる決心をしたのには少々わけがある。
 山を降りて田舎の郊外で人並みの市民生活をするようになって以来、それなりの相場のある家賃の高さはいつも悩みの種で、このままずっと払い続けていくのなら、よほど中古住宅を買った方がいいと考えざるをえなくなった。かといって山の中とは違い、自分で空き家を見つけて持ち主と交渉するわけにはいかず、また不動産屋を通したら相場は決まってくる。そこでたどりついたのが裁判所の競売物件を探すことだった。うまく競り落とせれば、格安で一軒家が手に入る。
 しかし情報が公開される度に、これはという物件を見つけて現地まで見に行くのだが、そこにはたいていまだ人が住んでいて、庭先に転がる子どものおもちゃや三輪車、ガラクタの山などから、明らかにローン倒れで家庭が崩壊しつつある現場をいやでも目にしないわけにはいかなかった。建てた当初はそれぞれに家族の未来を思い描いた「マイホーム」だったにちがいない。いくら格安とはいえ、こういう人たちを追い出したあとに住むというのはあまり楽しいことではない。通常は不動産屋がこういう物件を買い取って、リフォームなどして過去の痕跡を消してから倍近い値段をつけて売りに出すわけだが、自分で直接それをするにはかなりの覚悟がいる。
 そんなことで迷ってぐずぐずしていたある日、ローカル情報紙の不動産の頁に格安の中古物件の広告が載った。市郊外の農村地帯にある大きな一軒家で、土地が165坪ついて800万円余り。写真で見てもなかなかよさそうな家だ。不動産屋通しでもときどきこういう物件が出ることがある。早速連絡を取って見に行くと、昭和59年改築だからさすがに内装など古びていたが、庭などとても気持ちよく、いい感じで住んできた模様。60代の夫婦が隠居して、もっと便利な街中に家を建てて移り住むという話もうなずけた。隣の畑も貸してくれるという。ただひとつ気になったのは仕事でアメリカに行って戻ってこないという息子のことで、その息子が使っていた2階の部屋にはギターやステレオなど荷物が置きっぱなしで、その雰囲気が何かあまりにリアルだったからだ。
 ほとんどその気になっていたが、念のため後日近所の家を回って話を聞くと、去年家族に不幸があって家を売りに出したことが判明した。息子はアメリカになど行っておらず、自分の部屋であの世に逝ったのだった。うまい話には必ず何か裏がある。そういえば以前競売で古い農家を手に入れたという人も、住んでみたらやはりそこは自殺者が出た家で、お祓いをしてもらったと言っていた。交通事故の死者を上回る自殺者が出ているこの時代、田舎といえどもこれは決して珍しい話ではない。
 そんなことが重なって、結局安い土地を物色して家を建てることにした次第。


10/1(月)「タマの引越し」

 昔から「猫は家につく」というが、あれは本当だ。
 引越しの時、飼い猫のタマを新居に車で連れてきたのだが、始終落ち着かない素振りをみせていたと思ったら、朝になるといなくなっていた。もしや?と思い、前の家に行ってみると、案の定庭先からニャオと鳴きながら出てきた。今度の引越し先は歩いて10分もかからない近距離である。いくらぬくぬくと太って行動半径の狭いタマとはいえ、畑を横切って前の家に戻るぐらいのことはできる。しかもタンスや冷蔵庫など大きい荷物だけは業者に頼んで3トントラックで運んでもらったが、それ以外の細々したものは仕事の合間をみて全部自分の車で運んだ。だからダンボールが山と積まれた新居でひとまず寝泊りできるようになってからも、最後の荷物を運び終えるまで1週間ほど旧宅に通い続けた。その度にいやがるタマを拉致して車に乗せ、新居に連れてきては慣れさせようとしたが、好物のサンマを焼いてもタマの心はどこか上の空で、朝になるとまた前の家に舞い戻ってしまっている。その繰り返しだった。
 元はといえば5年前、夫婦喧嘩のあとに近くの産直市場に出かけた女房が発作的に拾ってきた捨て猫である。死ぬ寸前のところを救われたタマにしてみれば、前の家は天国だったにちがいない。よほどこのまま放っておこうかとも思ったが、旧宅は契約条項に「猫禁止」とある借家である。不動産屋が見に来る前に何とかせざるをえない。


 さてやっとの思いで荷物を片付け、いよいよ不動産屋に家を明け渡す前日のこと。がらんとした旧宅の掃除をしていたら、我々のあとにこの家に住む予定の近所の人が家族連れで下見にやってきた。タマはすぐ、ふだん我々が寝室に使っていた2階の部屋に逃げ込んだが、家族連れはそんなタマにはお構いなくドカドカと2階に上がってきた。いつもならタマが最後に逃げ出すベランダの窓も閉まっていた。追い詰められたタマは後じさりしながら威嚇の唸り声を発すると、「侵入者」たちの足元をすり抜けて階段を駆け下りていった。
 その晩、珍しく自分から新居にやってきたタマは、とうとう明け方になっても前の家に戻らず、初めて新居で朝を迎えた。やっと断念をつけたものらしい。飼い主もほっとしている。


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