《§伊那谷スケッチ
2006秋 9/15〜11/19》
11/19(日)「森の誘惑」
ここでなら行き倒れになってもいい、そう思わせる森がある。
昨日、木曽駒の森を歩いていてふとそんな気になった。場所はキビオ峠からの登山道(木曽福島Aコース)で、三合目から四合目へかけての苔むした針葉樹の樹林帯。三合目の木曽見台でたっぷりと御岳を拝んでから急坂を登り、赤林山(2177m)へ至る尾根筋の森に入ったところで、ふっと幽明界に入り込んだような気分になってしまった。樹林越しに柔らかい晩秋の陽が射し込んでいて、天狗に惑わされるのはこんな森だろうかと思った。
この頃は山を歩いてもほとんど山頂まで行くことはなく、もっぱら中腹の森歩きが楽しみだ。森歩きなら季節を問わずに日帰りで行けるし、途中のどこかに見晴らしのいい場所だって必ずある。山頂は一回だけ行けばいい。なぜなら下界と山頂がいつもいちばん俗だからだ。この木曽駒だって山頂はいつも人だらけで、直下のロープウェイ駅からのスピーカー音まで響いてくるのだが、木曽側からのこのコースは、週末の昨日も登山道の手入れにきていた森林組合の人以外誰とも会わず、しみじみと静かな晩秋の山歩きができた。四合目から先はもう雪道で、最少限冬山の装備が必要なので引き返したが、また来たくなる森だった。
11/17(金)「お金のかからない暮らし?」
先日、東京の某テレビ局から電話があり、「お金のかからない暮らし」について取材したいという。どうもこのサイトを見て、あたりをつけたらしい。日頃あまりテレビを見ないので詳しくは知らないが、田舎暮らしなどをテーマにしたその種の番組があるらしい。
たしかに私自身、以前山の廃村に住んでいた頃は、極力お金をかけない半自給自足的な暮らしを追及していたことはある。実際、山で暮らし始めた当初は夫婦二人月五万円ぐらいで生活していた。水を汲み、薪を集め、囲炉裏で煮炊きする暮らしは、それだけで何ものかだったが、そういうことができたのもあくまで有り金を食いつぶしていられた初めの三年ほどのことで、いよいよ金がなくなり稼ぎという問題に直面してからは、ほとんど地元の人がたどるコースを我々もたどっていった。つまり仕事のために頻繁に町に出ていかざるをえなくなり、その反復を十年近く繰り返しているうちにとうとう山を降りることになってしまったというわけである。(その辺のことは『山暮らし始末記』という本に詳しく書いた)。
いまはおよそ絵になるような暮らしをしているわけじゃないので、勿論取材はお断りしたが、「お金のかからない暮らし」や「貧乏」がテレビや雑誌のテーマになりうる時代なんだなということを遅まきながら知った。
ところで「お金」というのは私自身いまだに苦しんでいるテーマなのであまりえらそうなことは言えないが、では「お金」そのものが問題なのかというと、それもちょっと違うような気がする。何かそれは「お金」にすべてを帰結させる時代のある種の反動ではないだろうか?
11/14(火)「権兵衛トンネル」
この春、着工から十年かけて伊那谷と木曽谷を結ぶ権兵衛トンネル(全長4470m)がとうとう開通した。これまで峠越えをしていくと2時間半くらいかかっていた伊那から木曽への道が、わずか30分足らずで行けてしまう。冬季も閉鎖になることはない。開通前後は行政や地元マスコミが大騒ぎし、トンネルに近い伊那側の幹線道路には木曽からの客を見込んだ巨大なパチンコ屋までオープン。5月の連休などトンネルが渋滞する始末だった。
一度通ってみようと思っていながら、私がトンネルを初めて抜けたのは秋になってからである。正直、驚いた。ほんとうにあっというまに木曽へ抜けてしまう。これまで何度か御岳へ登ったときなどに権兵衛街道を通っているが、くねくねの細い林道を車で2時間も走るのはかなりの苦行で、木曽に日帰りするのはそれなりの覚悟がいった。しかし今度は自宅から30分で木曽側の国道19号まで出てしまう。伊那谷を飯田まで行くよりもよほど近い。何せ中央アルプスを貫通してしまったわけだからね、義仲もびっくりというところだ。
はじめのうちはその感覚に体がついていかず、何かぼーっとした感じがつきまとっていたが、何度か往復しているうちにそれにも慣れ、初雪が舞った翌日、木曽側から木曽駒ケ岳の5合目まで歩いてきた(木曽福島Bコース)。見慣れた山をその逆側からアプローチするのは新鮮である。紅葉はさすがに終わりかけていたが、空気はどこまでも澄んで冷たく、まだらに雪の残る落ち葉を踏みしめて気持ちのいい山歩きができた。
木曽駒はロープウェイの走る駒ヶ根からのルートにほとんどの登山客が集中するので、木曽側から登る人は少ない。昨日も出会ったのは一人だけ。四合目半で、二本のトウヒが合わさる根っこの苔からぽたぽたと流れ落ちる湧き水「力水」を水筒に汲んで戻り、夜はそれで焼酎のお湯割を一杯。巨大な予算をかけたトンネル自体の当否はともかく、これで木曽の山々がぐっと近くなったことだけはうれしい。
11/9(木)「落ち葉の海」
落ち葉の海を歩く。
ざっく、ざっく。ざっく、ざっく。
クッションのように柔らかい枯れ葉を踏みしめ、
ざっく、ざっく。ざっく、ざっく。
樹林越しには日に輝く南アの山々。
山頂にはうっすらと雪が。
ぎざぎざの鋸、屹立する甲斐駒、ふところの深い仙丈、
白峰三兄弟をはさんで、右手には塩見のとんがり屋根が白く輝いている。
落ち葉の海を歩く。
ざっく、ざっく。ざっく、ざっく。
リラごきげん、ヨシエごきげん、テツロウも満足。
影法師が日に踊っている。
(快晴の伊那富士にて)
11/7(火)「酸素吸入」
先日、池山から空木岳にかけての急坂の森を息をぜいぜいさせながら登っていたら、遠くからかすかに救急車のサイレン音が聞えてきた。中央アルプスでもとくに駒ヶ根近辺は市街地からいきなり奥山に入るので、街の音が結構山の上まで聞えてくる。それに私自身週に二度ほど市内の総合病院で夜間救急外来の受付の仕事をやっている関係上、救急車のサイレン音には人一倍敏感になっている。また交通事故だろうか?
ところで重病人はたいてい救急車で搬送される途中、マスクで酸素投与を受けてくる。救急の無線から血圧や意識レベルとともに「酸素○リットル投与」という報告が入ると、現場の生々しさがいやでも伝わってくるものだ。しかし休みの日に山道を息を切らせて歩きながら救急車のサイレン音など耳にすると、かくいう自分もこうして一種の緊急酸素吸入を行っているのではないかという気がしてきた。休日に森を歩いて定期的に肺の空気を入れ替えなければ、とても夜勤仕事など長く勤まるものではないからだ。街の救急病院と中アの森。両極の世界だが、どうせ吸うなら救急車の酸素ボンベより山の新鮮な空気の方がいいに決まっている。
その日は久々に池山小屋の先のコメツガとトウヒの原生林(写真)まで足を延ばし、すがすがしい秋の森の空気を深呼吸して心洗われる気分だった。
10/30(月)「山の景観(1)
双児山・塩見岳」
伊那谷を南北に貫く西部広域農道を車で走っていると、天竜川を隔てた向こう正面に、左右にこぶを二つ突き出し真ん中がへこんだ双耳峰が所々から見える。二児山(2242m)で、南アルプスの手前にいつもその特徴ある山形を現していて雰囲気のある山だ。
晴れた日に農道を走っていると、そのへこんだ谷の部分に、すぐ背後に屹立する塩見岳(3047m)の山頂のとがった部分が突き出して合体する姿を眺められる場所が一箇所だけある。いつも通り過ぎたあとになって、ああ写真を撮っておけばよかったなと後悔するのだが、近くに駐車スペースなどないのでそのまま行き過ぎてしまう。場所はかんてんぱぱガーデンより少し駒ヶ根寄り、ゴルフ練習場の先である。
10/21(土)「巫女淵参り」
林道のゲートをくぐって歩き始めると、沢音とともに樹木の甘酸っぱい香りが漂ってきた。渓谷沿いに広がる原生林の紅葉を見ながら、この香りを胸いっぱい吸い込むと、ああまたやってきたなという気になる。
三峰川の源流域に広がる小瀬戸渓谷・巫女淵の紅葉。毎年秋になると、いつもこの景色が気になってならない。伊那谷に住む自分にとって、もし世界を眺める定点、母なる子宮にあたる場所があるとしたら、それはここだからだ。
地図を広げてもらえばわかるが、南アルプス仙丈岳の中腹・丸山谷に流れを発する三峰川は、まず通称仙塩尾根と呼ぶ3000メートル級の尾根の麓を南に向かって流れ、塩見岳の直下、大黒沢との出会いで西に向かってほぼ直角に折れ曲がり、その先大曲でまた北へ大きく迂回している。そこから小瀬戸渓谷を延々と流れ下って、長谷・高遠を経てやがて伊那で天竜川と合体するわけだが、この源流域のU字谷、塩見岳の麓を東西に流れる3キロほどの谷を巫女淵と呼び、紅葉の絶景となっている。
この15年来、ほとんど巡礼のような気持ちで毎年のようにここを訪れているが、しかしこの頃は天気・体調・暇と三拍子揃う機会が稀で、去年は結局行かずじまいに終わった。しかも今年は夏の豪雨の影響で林道が崩れ、通行止めになっているという話だったので、念のため役場に電話して確かめた。すると、崩落の危険があるため通行止めにはなっているが林道自体は通れる。入るのは勝手だが、何か事故が起きても一切責任は負いませんよ、との返事。要するに「自己責任」でやってくれということである。そのせいかどうか今年は出入りする車の数も少なく、砂防工事のトラックともほとんど出会わず、林道起点の杉島の集落から未舗装のでこぼこ道をゆっくり走って40分余り、無事大曲のゲートまでたどり着くことができた。
なぜここまで巫女淵の紅葉にこだわるのか。それは前にも書いたが、手前の小瀬戸渓谷に国土交通省による大規模な戸草ダムの建設が予定されており、田中前知事が「脱ダム宣言」をして以来、幸い工事は中断されているものの、知事が変わったいま、来年はどうなるかわからないからだ。もしダムが作られれば、巫女淵の手前数キロの森は水没してしまう。この雄大な紅葉のパノラマも今年が見納めかもしれない。
歩き始めて、やっぱり来てよかったなと思う。このかぐわしい香りを呼吸しながら、次々に展開される原生林の紅葉を目にしながら歩いていると、それだけで心身が浄化されていく。途中、垂直に切り立った崖から湧き出す延命水で喉を潤し、さらに奥へと向かう。もっと奥へ、もっと深くへ。十数年前、初めてここへ来たときは、いったいどこまでこの紅葉のパノラマが続いているのか、何ものかに憑かれたようにして歩き続け、気が付いたらすっかり宵闇が迫ってきていて、慌てて引き返したことがある。獣の気配も濃厚で、野宿するにはそれなりの装備がいる。
その翌年だったか、どうしてもこの谷の奥を見極めたいと思い、マウンテンバイクにまたがって行ける所まで行ってみたことがある。すると驚いたことに、巫女淵から5キロほど先、東風巻谷で林道は途切れ、そこからは河原の渡渉になるのだが、その辺り一帯の森はほとんど木が切られ、禿山になっているのだった。奥へ行けば行くほど森は荒れている。ほんとうに美しい原生林が残っているのは、やはりこのU字谷の巫女淵近辺数キロの間に限られることがわかった。
2時間ほど歩き、河原の雑木林の日溜りでサンドイッチを食べて昼寝。初めて連れてきた柴犬のリラは、興奮して辺りを走り回っている。そこでゆっくり休み、日が傾いてきたところでまたぶらぶらと引き返す。東西に抜けている谷だから、帰りもまた南斜面に日が当たり、別の角度から紅葉を楽しむことができる。そうして歩いていると、リラがまた何か獣を見つけて崖を駆け上がっていく。猿か鹿かなと思って見上げると、なんと真っ黒い熊が崖を降りてくるところではないか。体格からして小熊らしい。つやつやした黒い毛が野生の輝きを放っている。登ってくるリラに気付くと、回れ右をしてもたもたと藪に逃げこんでいく。しかし母熊でも出てきたらえらいことになる。慌てて笛を吹き鳴らしてリラを呼び寄せる。「バカ! リラ、そいつは熊だ。早く降りてこい!」。しばらくして追跡をあきらめたリラがやっと崖を降りてきた。背中に鈴を結わえていたのが幸いしたようだ。どうやら熊は降りてこない。やれやれと胸をなでおろしてゲートに向かった。
10/8(日)「反空爆の思想」
夜勤の合間をぬって、吉田敏浩氏の労作「反空爆の思想」(NHKブックス)を読む。
冒頭に、ドキュメンタリー映画「LittleBirds イラク 戦火の家族たち」(綿井健陽監督 2005年)の一場面の話が出てくる。米軍による空爆で瀕死の重傷を負って病院に運び込まれ、血まみれの包帯を頭に巻いて酸素吸入器を口に当てて横たわる幼女の痛々しい姿。その娘の手をにぎり、自らも血まみれのシャツを着てカメラに向かって叫ぶ父親。「俺たちを攻撃して何になるんだ? この子たちが何をしたというんだ!」
この夏、伊那谷でもこの映画の上映会が行われたが、都合で見に行けず、その後ネットで調べてみたら、なんとツタヤでDVDをレンタルしていたので、早速借りて見た。そしてその生々しい映像に衝撃を受けた。とくにこの病院のシーンは圧巻で、見ていて胸に強く迫ってくるものがあり、じっと座って正視していることができなかった。
吉田氏もこの場面を映画館の暗がりで見つめながら、「脂汗がにじむのを感じていた」と書いている。そしてこの衝撃をばねにして、かつて三年余り従軍取材していた北ビルマでの独立軍ゲリラ部隊への空襲体験の記憶から始まり、気球による初の空爆が行われてから以後、この百年の人類の空爆の歴史をたどり、空爆を正当化する者が必ず口にする「やむをえない犠牲」などないことを明らかにしていく。すべては「強いられた犠牲」なのだと。その筆致はきわめて明晰だ。
空爆加害者と被害者の間に横たわるさまざまな距離・隔たり。たとえば物理的・空間的な隔たりだけ取ってみても、数百・数千メートル上空からボタンひとつで爆弾を投下するパイロットには、被害者の悲鳴も聞こえず、流血を目にすることもない。ましてや遠い軍の基地や海を隔てた大陸から命令を下す司令官や大統領にいたっては、地上の流血の惨事など文字通りよその世界の出来事だ。しかもそこに民族や宗教といった「差別意識的距離・隔たり」が重なるから、なおさら人を殺しているという実感が希薄になる。他者の痛みに対する想像力の麻痺。
しかし地上の実際の現実はどうなのか。「LittleBirds」はそれを映像で見せつけてくれたが、「反空爆の思想」はそれを空爆被害者の側の視点から歴史的にじっくり検証していく。そしてたどりつくのが「空爆の思想」の本質は「テロ」のそれと同じだという指摘である。教えられるところの多い本だ。
(*なお吉田敏浩氏については以前こちらにも書きました→〈本の運命〉第2話 )
9/23(土)「すうの三回忌」
分杭峠を越えて大鹿村まで、二年前癌で亡くなった木村すうさんの三回忌の集まりに行く。
墓地での読経のあと、場所を移してビールの杯を傾けながら10人ほどが故人の思い出話をそれぞれに語り合ったが、面白いもので、一人一人の話を聞いているうちに断片的にしか知らなかった故人の魂の姿が立体的に浮かび上がってくる気がした。共通して言えるのは、とくに女姓同士の間で個人的に立ち入った話が安心してできる相手だったということ。それだけに話し相手を亡くした喪失感はそれぞれに抱えていたようで、それが自分だけではなかったことに女性陣一同あらためて驚かされた様子だった。
それにしても53歳で亡くなった古株のヒッピー女性にふさわしく、出会いの頃の思い出など語り始めると誰もが2〜30年時間をさかのぼることになり、あの頃はまだ皆若くてぶっとんでいたなと思わずにいられなかった。いまはもう火事で焼けてしまった美麻村の遊学舎で長髪にピンクのドレス姿で赤ん坊を抱いていたすうの話。平日の昼間、幼い息子を背負い山道をてくてく歩いて友人の家まで借金に行くすう夫妻の話。「今度農協に大根が売れたらお金を返すからさ」「ああ、いいよ」というような会話がふつうに交わされていた日々。そんな時代もあったなと思う。いまじゃ新住民の多い大鹿村といえども、昼間からぶらぶらしている若い者などほとんどいない。アポを取ってからでなければ、人の家も訪ねにくいのは山の中でも同じだ。
鹿児島で生まれ、丸の内でOLをやっていたというすうが、市民社会をドロップアウトして伊那谷の山村で骨を埋めるまでの時間。それとほとんど同じだけの時間が、村の上にも、集まった各人の背にも流れている。おんぶされていた息子も、いまではもう髭を生やした立派な青年だ。家が火事で焼け、庭に立てたティピーで暮らしていた頃に生まれた娘も、もう中学生である。
9/15(金)「ニュートラルな場」
久々に山の「別荘」(池山野生動物観察棟)にきている。山はもうすっかり秋の気配である。あの夏の暑さが嘘のように、長袖1枚でももう寒い。この辺(標高1500m付近)では紅葉はまだだが、もう少し上に行けば木々もずいぶん色づいてきているだろう。
登山客はちらほらいるものの、相変わらずこの小屋には誰もいない。周囲の雑木林を眺めながらほっと一息つく。とくに何をするというわけでもない。ただ街の喧騒を離れて、山の澄んだ空気を吸いながら森の中でごろごろと過ごす時間。このところ夜勤の仕事が忙しかったせいもあるが、こういう時間がとみに貴重に思われる。
ニュートラルな、本来の自分に戻れる場所と時間。人によって、また年齢によってそれは様々だろう。ぼく自身、昔東京で勤め人をしていた頃は、当然夜の飲み屋がそれだった。インドを旅していた頃は、一服のジョイント。山の廃村で暮らしていた頃は、ともかく毎晩囲炉裏の火を焚くとほっとしたものだ。山を降りてからは、こうして時々森で過ごす時間がそれにあたるが、この頃それにもうひとつ加わった。この春から週1回、近くの曹洞宗のお寺に座禅に通っているのだが、その座禅会の2時間ほどの時間がとても貴重なものになってきている。座っている間、次々と湧きあがってくる思いを「邪魔にせず、相手にせず」自らの呼吸に意識を集中していると、仕事や生活上のごたごたが少しずつ遠のいていって、生命体としての自分の姿に近づくことができる。そのせいかどうか、老若男女を問わず結構遠くから熱心に通ってきている方もいて、座禅会にはある種の張りつめた熱気のようなものさえ漂っている。
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