§<本の運命>第2話 

本からビルマの匂いが立ち昇ってくる 

  ―「宮沢賢治詩集」

 昨年、テープ起こしの仕事で、作家の宮内勝典さんとジャーナリスト
の吉田敏浩さんの対談に立ち会ったことがある(「シャーマニズムと現
代」月刊望星2000年8・9月号
に掲載)。対談は初め新宿の喫茶店
の一室で行われ、その後二次会の料亭に席を移して四時間余りに及んだ
が、忘れられないのはその席に吉田さんが持参した文庫版の「宮沢賢治
詩集」である。 

 北ビルマの反政府軍ゲリラにジャーナリストとして従軍して、三年半
余りに及ぶジャングル生活を送った吉田さんは、ある時、マラリヤ熱に
襲われて意識もうろう状態に陥る。そして幽体離脱体験までした果てに、
あわやというところで現地のシャーマンの助けによって九死に一生を得
る。その生死の体験を経た後、ジャングルで療養生活を送りながら日本
から持参した「宮沢賢治詩集」をひもといたら、その詩の本当の意味が、
これは自分が書いたんじゃないかと思うぐらい、スラスラとわかるよう
になったという。
 料亭の一室で、吉田さんがボストンバッグから大事そうに取り出した
旧旺文社文庫版の「宮沢賢治詩集」は、もうほとんど角も取れ、手垢に
まみれ、ところどころセロテープで修復してある、実にボロボロの本だ
った。宮内さんも、その文庫本をしげしげと手に取ってみながら、
「吉田さん、これが遺品!で出てこなくて、本当によかったねえ」
 と感想を洩らしていたが、吉田さんにしても、それは何物にも代え難
い生涯の一冊の本であるにちがいなかった。ぼくも対談が引けてから、
新宿のガード横の喫茶店のカウンターで、その文庫本を手にとってつく
づく眺めさせてもらった。すると、そこからは何か吉田さんの北ビルマ
での体験が汗いきれとともに生々しく立ち昇ってくるようであり、カウ
ンターに置かれたそのボロボロの文庫本の周囲だけが、何かものすごい
違和とリアリティを帯びて、新宿の夜に異世界の強い輝きを放っている
のだった。

 その横で吉田さんはぼそぼそっと、こんなことを語ってくれた。
「<詩>というのは、文字通り<言葉の寺>なんですよね。だから本当
に詩を読めば、お寺にお参りしたのと同じことになる、とビルマで気が
付いたんですよ」と。
 残念ながら、対談で宮沢賢治の詩に言及した部分は、紙数の都合で割
愛せざるをえなかった。でもそのうちきっと吉田さんが、何らかのかた
ちでまた表現してくださるだろうと、一読者として期待している。
 
(2001年5月)

*なお吉田敏浩氏の近著に『生命の森の人びと アジア・北ビルマの山
里にて』理論社(写真)があります。

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