王家の紋章パロ2
冬〜地の季節2〜
『親愛なるヘレン、
どうしていらっしゃいますか。
この書簡が着く頃は、あなたにとってさぞつらい季節であろうと思います。
でも、永遠に続く季節はありません。
雪が溶ければ、一斉に花々が咲き乱れる季節が来ます。
いつかあなたにお話した、杏のピンクの花が咲きます。
文字の修得はたいへんでしょうが、あせらないで。
初めて文字を習う、ちいさな子どものような気持ちでいてください。・・・』
異国から嫁いできた皇妃に、いっこうに文字を指南する学者をつけてくれる気配がなかった。
この国の文化に触れる必要は無いと思われているのだろうか。
それとも、間者として働く恐れがあるとでも思っているのだろうか。
よろしい、それならば。
アッカド語でかつて読んだ事のある『真実の書』をと、しぶる侍従長に何度も依頼した。
十日以上もかかってようやく手元に届いた書物は、傷んでいて所々文字が欠けている。
だが、それ以前に、文字の手がかりがつかめない。
あまりにも難解すぎた。
だからこそ許可が出たのかもしれない、と思うとやりきれなかった。
健康だったヘンヘネトが体調を崩したのは、慣れぬ気候のほかに、
文字を学ぶ事が出来ない落胆からだったかもしれない。
そんな頃に届いた母からの書簡は、ヘンヘネトにもう一度希望を抱かせた。
「ムーラ、アリンナの太陽の女神さまは、何とおっしゃいました?
ほら、エジプトだったら‘ラー’、ミタンニの‘ヘパト’女神さまと一緒の。」
「皇妃様、何度申し上げたらおわかりになりますのか。神の御名は軽々しく口に出してはなりませぬ。」
謁見のための迎えに来る女官長ムーラは、先日から皇妃の質問攻めにあっていた。
はじめはしぶしぶ短く答えるだけであった女官長も、
最近は『今日は一体何を聞かれるのか』、といった顔をして部屋に訪れる。
「では、こっそり、わたくしにだけ聞こえるように。」
仕上げに冠を載せようとしているエジプトからの侍女頭のメルティも、
ムーラの口元をちらちらと見ているようだ。
「‘エスタイン’・・・様でございます。
さあ、もうご用意もお済みでございましょう。謁見の間に急がれませ。」
「ありがとうムーラ。行きましょう・・・わたくしが唯一、陛下のため出来る事ですから。」
微笑みながら皇妃が言った言葉に、ムーラは少し口元をゆがめた。
「それから、もう少し時間のある時に‘クマルビ’のお話をしてちょうだい。」
「皇妃様がそのようなお話を聞く必要はございません!」
ムーラの口調は、もうヘンヘネトには慣れっこになっていた。
なんだかんだ言っても、厳格な女官長が‘何も知らない異国からの皇妃’を躾るためには、
自分といろいろ話さないわけにはいかないのだ。
「まあ、この国に生まれたものなら、皆知っているお話だと聞きましたのに。
・・・それとも、おおっぴらにしてはいけないお話なのですか?」
「そ、そんなわけではございませんが・・・」
いつも自分たちに対して無表情なムーラがあせっている姿は、そう見られるものではない。
後からついていくメルティも何だか軽い気分になっていた。
「いいわ、今度あなたのお部屋まで聞きにいきます。」
「姫さま!」
「ふふ、冗談です。」
ムーラはほっとしていたが、メルティには主人が必ず実行するであろう事はわかっていた。
「妃よ、‘真実の書’は読めたのか。何かつかめたか。」
最後の陳情者が退出すると、突然、イズミルが声をかけてきた。
「いいえ、陛下。読めないと言う事が、わかりました。」
少し驚いたが、ヘンヘネトはただそれだけ、答えた。
王が何か言いかけたような気がしたが、それ以上の言葉を期待してはいけない気がして、
目をふせてしまった。
いや、それは‘意地’であったかもしれない。
『今のわたくしをささえているのは、‘意地’かもしれない・・・』
ちくり、と胸を刺すものがあった。
「ムーラ、クマルビは男神でしょう?どうして子を孕むのですか?」
「で、ですから・・・・アヌ神の・・・男根を・・呑み込んでしまったのです!」
「まあ、男根を?」
「そ、そんな大きいお声でおっしゃられては!」
「ふふ、だって愉快じゃない。人間の男はそうはいかないでしょう?
だって、男性は卵子を持ってはいませんものね・・・あ、お母様に聞いたのよ。
お母様のいた世界には、逆に母親だけで生まれてきた神さまもいらっしゃるのですって。」
・・・夜が更けてから、ヘンヘネトはかぶりものをして、後宮内にあるムーラの自室を訪ねていた。
警護の兵達のスキをどうやってついたものやら、先日、当の皇妃がすずしい顔で部屋に立っていた姿に、
ムーラは呆然としたものだった。
「それで、無事に生まれたのですか?」
「アヌ神がクマルビのお腹にいる嵐の神に、出てくるよう呼びかけられるのですが・・・」
「おおきすぎてだめなのね?」
「ええ、それでアヌ神に依頼された知恵の神であらせられるエア神が、
クマルビのお腹を切ってしまいなさるのです。それで嵐の神をはじめ、三人の神が産まれました。」
「!!クマルビは大丈夫なの?」
「はい。でも、傷だらけになりましたものだから、アヌ神に復讐をしようとするのです。」
「まあ、まだ続きがあるのね!!楽しみだわ!」
・・・笑っている歳若い皇妃を ムーラは改めて見つめていた。
この方なら・・・。
「皇妃様、続きはイズミル様にお聞きなさいませ。
そして、神話などではなく、あなた様が王のお世継ぎをあげなければ・・・」
ヘンヘネトの笑いは一瞬凍りついたが、やがて自分の組んだ手を見つめながら話し始めた。
「・・・ふふ、それが無理な事は、一番あなたがわかっているでしょう。
それに、陛下にはもう王女様がおふたりと王子様がおひとりいらっしゃるではありませんか。」
「・・・王女ではこの国ではお世継ぎにはなれませぬ。
それにエマル王子の母上は・・もう身罷られましたが、身分が低く、まったく後ろ盾がありませぬ。
元老院の支持がなければ、帝位にはつけませんわ。」
ヘンヘネトは、後宮のひとりぼっちの小さな王子を思い浮かべた。
・・・ヘンヘネトと目が合うと、くるりと走り去っていった。
2度目は、中庭の池のほとりにいると、石つぶてを投げてきた。
3度目は、背中にいきなり飛びついてきた・・・。
父王はまったく彼の事を気にかけている様子がない・・・わたくしと同じだ。
「わたくしが・・・エマル王子の後見になるわけにはいかないのかしら?これでも、弟や妹達の面倒を
よく見てきたのよ。たとえ皇太子になれなくとも、陛下の大事な片腕となる方だわ。
・・・あ、余計にあの子の立場を悪くするかしら?」
哀れむようなムーラの目が辛かった。
「・・・時々思いました。わたくしがお母様のような、金髪で青い瞳だったらと・・。」
「皇妃様はお美しいですわ。」
ムーラはヘンヘネトを制するように言った。
「ありがとうムーラ。でも、もういいの・・・かえってお父様に似てよかったと思っています。
わたくしはお母様の代わりの人形などにはなりたくありませんから。
今は、ここでわたくしが陛下のために出来る事を探したいのです。
・・・では、今夜はもう行きます。また明日、続きをお願いするわ。疲れているのに御免なさいね。」
* * * * * * *
二日間ハットウサの市街が吹雪でとじこめられた翌日、
皇妃の間にヘンヘネトを迎えに来たのは、ムーラではなく、別の女官だった。
「女官長は今朝、高熱で倒れられて伏せっております。私がしばらく代わってお迎えに参ります。」
数日が過ぎ、さすがに様子を見に行こうとして、メルティにかたく止められた。
「姫さまが病気の臣下のもとに行かれるのは、許されませんわ。お立場を考えあそばせ。
・・ムーラ殿は、ご自身のお子はすぐに亡くされて、陛下の乳母に上がったそうです。
つれあいの方もずいぶん前に戦で亡くなられたのだとか。
本来なら療養に里に下がらねばならないのですが、引き取るような近い身内も無いそうで、
陛下のご配慮でお部屋で療養なさっていらっしゃるそうですわ。侍医も差し向けていらっしゃるとか。
よくなられればまたお会いできますよ。」
・・・必ず良くなると言って、もう何日も過ぎたではないか。
ムーラのおかげで、神話を書き記した粘土板から、少しずつ文字が読めるようになって来たというのに。
ようやくヒッタイト側の方と、(ただひとりではあるが)心おきなく話せるようになって来たというのに。
行こう・・・。
行かないと、ずっとこの先後悔するような気がする。
ヘンヘネトはいつもそうするように、夜が更けるのを待って部屋を出た。
頭からすっぽり重ね着をしていても、足下が凍りつくように冷たい。
やがてムーラの居室に忍び込むと、そこも同じくらい寒い事に気付いた。
暗がりに弱々しく咳をする音がする。
「誰ですか?・・皇妃様?・・・いけま・・・」
最後は声にならなかった。喉をすっかり痛めてるのか、ヒューヒュー息の音が聞こえるばかりだ。
居丈高なあのムーラが、何という弱りようだろう。
「ムーラ、話さないで!ここはなんて寒いのでしょう。病気の人がいる所ではないわ。」
寝具に毛皮を重ねて伏せってはいるが、吐く息が白い。
だいたい、息をする事すらつらいようだ。
消えかかっている火を燃やそうとして、暖房用の薪があまり残っていない事に気付いた。
とりあえずは、明日の朝までは、これで持つだろう。
「わたくしが伏せった時は、夜も部屋を暖めてもらいました。もう少し薪を増やすよう、
メルティを通して侍従長にお願いしてみます。
・・・時々覗きに来るわ。大丈夫、前に伏せってからは、わたくしかえって元気ですから。」
「・・・!」
ムーラが起きあがろうとするので、あわてて「もう行きますから!」と部屋を出た。
メルティは、やれやれ、とため息をついていたが、しぶる侍従長に談判してくれた。
「・・・姫様の事ですから、行ってしまわれるのではないかと思っていましたわ。
でも、いいですか、もうおひとりでは決して行かないでくださいまし。必ずお供しますから。」
おかげで堂々と昼間から見舞いに行けるようになったが、ヘンヘネトは夜中にもこっそり覗きに行った。
寒さがゆるむと、ムーラも持ち直した。
陛下差し向けの侍医は、もう持たないと思っていたらしく、首をかしげているし、
ムーラ達女官と対立していたはずの皇妃とその侍女頭が、度々見舞いに訪れ、
看病までしていく様子を、後宮の者達は驚きの表情で見守っている。
ムーラは、少しの時間ではあるが起きあがり、か細い声で話が出来るようになっていた。
「・・・皇妃様、大丈夫でございますから、そんなに度々来てはなりません。時期にあたたかくなれば私も良くなります」
「・・・・暖かくなるって、この季節が終わる、と言うこと?」
あまり側によると侍女頭が怒って見舞いを許してくれなくなるので、
すこし離れた椅子から、ヘンヘネトはムーラのか細い声を必死で聞き取ろうとした。
「はい、もうじき、一度にたくさんの花が咲きますよ。楽しみにしていてくださいませ。」
「・・・ねえ、杏って、この宮殿にあるのかしら?それも咲く?」
「杏?・・はい、王宮と後宮の間の庭に。日当たりがいいから、一番で咲きますわ。」
「もうじき?」
ムーラは目をつぶってうなずいた。
お母様から話に聞いていた・・・ずっとあこがれていた杏の花が咲く。
ピンクの花が咲き、そして短い間に散ると言う・・・
・・・そして、どうなるというのだ!
先日、会議の前に陛下が、誰の方を見るとはなしに、ポツリと言った言葉を思い出す。
「一体、そなたは何を小賢しい事を考えておるのか・・」と。
手が震えた。
視線がふらつかぬようにするのが、やっとだった。
「・・・わたくしは・・・わたくしが生きるところを探しているだけです。」
自分にとって、その季節が、何になるというのだろう・・・
また来年の、そのまた次の年の、花を待ちこがれるだけの時間が続くだけなのだろうか?
数日後、ムーラは意識不明におちいった。
ヘンヘネトはもう誰の忠告も聞かず、公務も投げ打ってムーラの側にいた。
乾いた唇に水分を与えたり、部屋を暖めたりほどの事くらいしか出来なかったのだけれど。
お母様は病気で頼ってこられた方々を見事に治されたという。
なのに、娘のわたくしには何の力もない!
わたくしはただ、ムーラに生きていてほしいだけなのに、
・・・彼女が好きなのに、
なんの力にもなれない!
唇をかみしめながら、ただムーラの側にいる事しか出来なかった。
二日目の朝、ムーラの息が静かになった。
何人かの女官と、ヘンヘネトとメルティが、ムーラの床を取り囲んでいた。
「・・・皇妃様、杏の花が咲きまする・・」
か細い声でムーラがつぶやいた。
いや、ただ、唇だけが動いていただけで、本当は何も聞こえなかったのかもしれない。
それきり、ムーラの唇も、胸も動かなくなってしまった。
ほどなく、簡単な葬儀と埋葬のために、後宮の裏からムーラの亡骸が運び出された。
ヘンヘネトはメルティとともに、ムーラを見送るため、何日かぶりに外に出た。
すっかり雪が溶け去り、地面が緑色になろうとしていた。
ヘンヘネトは頭がしびれたように何も考えられず、ただメルティにささえられるようにしてに立ってが、
やがてメルティがそっと彼女の側を離れるのを感じた。
ヘンヘネトは誰かが自分に近づき、話しかけてきたような気がした。
が、つーんと耳鳴りがするだけで、何も聞こえてはいなかった。
ふと、目の前を何か小さな白っぽいものがふわふわ飛んでゆくのが見える。
・・・雪?
ヘンヘネトはそれに手を伸ばそうとして、目の前が真っ暗になった。
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「アナトリアの緯度は日本の東北地方とほぼ同じ・・・」
などという記述が「天は赤い河のほとり」にありましたが、
世界史アトラスで見ると、ハットウサ(現ボガズキョイ)はさらに
海抜1000〜1200mに城塞が築かれています。
そりゃ寒いわ・・・。
ヒッタイトの神話に何か面白いものが無いか本で探したところ、
‘クマルビ’の話だけが載っていました。
豪快&おまぬけなお話ですが、どこの神話にでもある神々の世代交代のお話のようです。
この場合、クマルビが旧勢力、アヌが新勢力です。
クマルビはこの後旅に出て、ティグリス河畔で巨大な‘岩の彼女’に出会います。
その彼女に10回‘挑んで’、ついに‘閃緑岩の息子’ウルリクンミを得ます。
そして、神々とウルリクンミの戦いへ話が進みますが、
(イシュタルは色仕掛けでせまるらしい・・・爆)
粘土板の損傷がはげしく、最後までお話が残っていないそうです。
さて、皇妃様はイズミル様に続きの話をしていただける日がくるんでしょうかね。(笑)