王家の紋章パロ

                      
春〜水の季節〜





ムーラが死んだ。
私の幼い時より仕えたものは、これですべて死に絶えた。
母である皇太后も、既に亡い。

これで本当にひとりになってしまったという喪失感のほかに、

心の奥底をちりちりと刺す、居心地の悪い想いがある。

私の歓びも、心の闇も知る忠実な女官に、その働きほどに報えただろうか。

「陛下のお世継ぎをこの手にお抱きする事が、わたくしの夢です。」

などと、常々嫌味のように言われていた。

が、一夜限りの側女に王子が産まれ、正妃ミラがふたりの王女を残して身罷ると、

ムーラはもう何も言わなくなった。

エジプトよりヘンネヘトが正妃として嫁いできた時も。

ただ、黙々と自分の任務をこなすだけであった。

が、ムーラは伏せる少し前から、さかんに皇妃の事を口にするようになった。


   「皇妃様は、近頃さかんに我が国の神話を所望なさいます。」

   「皇妃様はいつの間にやら、簡単な文章ならお読みになるのですよ。」

   「そしらぬ顔をしておいでますが、本当はとても寂しがっておられるのです。」


ムーラが何を言おうとしているかは、重々わかっていた。

正式な婚儀を執り行っているとは言え、未だヘンヘネトは‘妃’ではない。

王族ならば、幼いもの同士の婚儀はままある事であり、言い訳もたとう。

が、彼女は14歳、年齢よりずいぶんと大人びて見える。

十分大人の女性として扱える王女をないがしろにしてる事を、

エジプト側に知られては具合が悪い事は承知だが、何も言ってこない事がかえって不気味だ。



ヘンヘネトが気に入らなかったのか?

側室でもあるまいし!

婚儀は国同士の和議のしるし、それくらいの事は分別がついているつもりであった。



彼女はかつて恋し、渇望した‘ナイルの姫’の娘。

期待していなかった、と言えば嘘になる。

彼女は、母王妃のような金色の髪も、蒼い瞳も持ち合わせてはいなかった。

父王メンフィスに似た、漆黒の髪、黒曜石の瞳。

そして、あのおぞましい女、アイシスの面影をも宿している。

ヘンヘネトに初めてまみえた時、正直舌打ちしたい気分であった。

ああ、だが!

「初めてお目にかかります。エジプト王メンフィスの第一王女、ヘンヘネトでございます。」

と、口上した声は、彼女の母そっくりだった。

一度とて自分を慕わしく呼んではくれなかった‘ナイルの姫’の声に。

そして、まっすぐに自分に向けられた目!

彼女の黒い瞳は自分の心のうちをすべて見透かすようだった。

黒はすべてをのみこむ色であり、すべてを映す色でもある。

・・・・彼女の目がこわかった。



そして今、

彼女の母に似た声は、私を拒絶する。

かつてそうだったように。

ムーラには打ち解けていたのであろう。

だが、女官長に向けた微笑みは、私には見せない。

美しい横顔は、彼方を見つめるだけだ。








ヘンヘネトはずっとムーラの看病にあたっていたという。

一度回復した時は、侍医は「ナイルの王妃の奇跡を 皇妃様もなしとげられました。」

などとほめちぎっていた。

が、ムーラの年齢では、死の病からの生還は不可能であった。

それでも、身内の誰も生き残ってはいないムーラの最期をヘンヘネトは見届けた。

安らかな死であったと言う。



ヘンヘネトに礼を言おうとした時、彼女は崩れるように倒れた。

衛兵達を振り切り、自ら皇妃の間まで彼女を運んだ。

侍医の見たてでは、疲れと寝不足によるものだった。

眠り続けるヘンヘネトの側についていて、テーブルの上におかれた粘土板に気付いた。

彼女の母からの書簡。

ヒエログリフではなく、隠し事が無い事を示すように、アッカド語で刻まれた粘土板だった。

かつて恋い慕ったひとの書簡・・。

だが、そこに綴られているのは、愛娘を気遣う母の想い。

いかにヘンヘネトが、母に、父に愛されて育ったか、それだけでわかる。

「フッ・・・」

自嘲の笑いがもれた。

・・・かあさま、かえりたい・・・

つぶやく声に驚いて振り返ったが、ヘンヘネトは眠ったままだった。

そうだ、私は、かのひとの娘も幸せにはできないのだ。

いたたまれず、部屋を出た。








4日後、皇妃はようやく起きあがったと聞き、後宮を訪ねた。

回廊を渡ると、か細い歌声が聞こえてきた。

異国の歌?

中庭の陽だまりに、ヘンヘネトと幼いエマル王子が並んで腰掛けていた。

皇妃の侍女と王子の乳母は、離れたところで小声で話している。

中庭の池の水面は、風で飛ばされてきた花びらでピンク色だ。

エマルは近づいてきた自分の姿を認めると、はじけるように奥に走り去り、

あわてて乳母も後を追っていった。

ヘンヘネトは一瞬悲しそうな表情を浮かべたが、黙ってこちらに会釈する。

どうやら、穏やかな昼下がりを私がぶち壊したようだ。

何日か前には真っ白だった皇妃の顔は、いくらか血の気がさしてきている。

いくつかの粘土板が彼女の横に置かれていた。

「こうやって読めないもの同士で、時々勉強しております。」

皇妃は、こちらの視線の先を認めて言った。

「それは嫌味のつもりなのか?」

皇妃はそれには答えず、先日部屋まで彼女を運んだ事への謝意を述べた。そして、

「伏せっている間に、杏の花は終わってしまったのですね。」

と、所在なげに段のすみにへばりついている花びらをつまんだ。

「杏の花が見たかったのか?」

「はい・・・母に聞いて、楽しみにしておりました。」

母・・・か。

「まだ遅いことは無い。もう少し上へ行けば咲いている。

・・・・具合が良ければ、明日、連れて行こう。」

ヘンヘネトは、はっと、こちらを向いた。

いくらか怪訝そうな表情ではあったが。

「・・・帰りたいか?」

まっすぐにこちらを見られて戸惑ったあげく、ずっと心にわだかまっていた事を口に出してしまった。

‘帰す’など、到底できる事ではないのに!

たちまち、ヘンヘネトの表情が曇った。

ああ、そうではない!

悲しませたくて言ったわけではないのだ。

ヘンヘネトはしばらくうつむいていたが、やがて答えた。

「わたくしについてきた侍女達は、ナイルのほとりでの永遠の命を捨ててきました。

そのために、一族との縁を切ってきたものもいます。

帰りたくない・・と言えば嘘になるかもしれません。

でも、わたくしは自分のつとめを忘れてはおりません。」


・・・・・彼女の、彼女の母に似た声は、私の耳をちりちりとしびれさせる。


「わたくしは母のような金色の髪も、蒼い瞳も持っておりません。

母のような未来を読む力も、病むものを救う力もありません。

でも、もっとも母とわたくしが違う事は、わたくしが王族のひとりとして生まれてきた事です。

わたくしの母は、自分の生まれた世界を捨て、父と生きる事を選びました。

わたくしは、この国で生きる事を自分で選んで来たのだ、と思っています。たとえ・・・・・・」


その先は声にならなかった。

愛されずとも、王家に生まれたものの運命を生きると。

おそらく、そう言いたかったのだろう。

言葉にならなかったものがきりきりと胸を刺す。

そうだ、彼女の母は私を選ばなかった。

私は、いつまでも生き方を選べないでいる。

不幸を撒き散らしている。



やがてヘンヘネトは立ち上がり、弱々しく微笑んだ。

「では陛下、明日を楽しみにしております。」

会釈をし、そっと部屋へと下がっていった。

後ろ姿を、呆然と見送った。








快晴であったが、病み上がりのヘンヘネトのために、十分気温が上がる午後から出る事にした。

公務でないため従者は数名にとどめ、後宮の裏に馬をつけさせて待っていると、

頭からすっぽりマントを被ったヘンヘネトが、侍女にともなわれて現れた。

一人の従者がひざまづいたまま、いつまでたっても顔をあげずにいる。

ヘンヘネトは震えてうつむいている巻き毛の従者を、じっと見つめていた。

「あなたは・・ルカ?」

ああ、そうだ。

ルカは自分が即位した頃に間者である事が発覚し、エジプトから逃げ戻っていた。

産まれたばかりのヘンヘネトを 間近で見ていたはずだ。

「お母様がずっとあなたの事を気にかけていらっしゃいました。よかった!元気で。」

思わず上げた顔は、既に涙で濡れていた。

・・・泣き出してしまったではないか。いい歳をして!

「今日はよろしく。楽しみにしていました。」

ヘンヘネトはルカに微笑みかけたが、こちらを向くと、すっと真顔に戻った。

「お忙しかったのでしょう。申し訳ありません。」

どうやら自分は不機嫌な顔をしていたらしい。

「いや・・・遅くならないうちに出よう。」

自分の馬に、彼女を先に乗せた。

具合はすっかりいいようで、動きが軽い。

ヘンヘネトの細い腰に腕を回すのがためらわれたが、彼女はいっこうに気にしていない様子だ。

どうやら、馬に慣れているらしい。

いつもの調子で馬を走らせてもよいようだ。








ハットウサは、父の代から、上の地域の城塞や市壁の建設に着手した。

すべての工事が完成するには、自分の代でも無理であろう。

次の代?

今は何も考えたくはない。

城塞を抜けると、上へ上へと馬を駆る。

ヘンヘネトは走り去る景色を右へ左へと、何一つ見逃すまいと、忙しく目を向けていた。

彼女の気分がよさそうだと言う事は、顔を見なくともわかる。

建設中の市壁を越そうとした時、落馬するほどに体を曲げて後ろを向こうとした。

「落ちるではないか!帰りにいやでもまたここを通る。大人しくしておれ!」

「大神殿が、あんなに小さく見えます!」

こちらの怒った声に、少しも動じる気配がない。

むしろ笑っているようだ。

不思議と、自分の気持ちも軽くなるのを感じた。

市壁を越えると、少し下りになる。

行く先に緑が広がってきた。

「まあ!」

そうだ、ヘンヘネトはこのようなまとまった緑の木々を初めて見たのだ。

「さあ、もう少しだ。」

いったい、彼女はどんな表情をしているのだろう。

着いたら、私にも微笑みかけてくれるだろうか。

ムーラに向けたように、エマルに向けたように、ルカに向けたように。








森を抜けると、いきなり風景が開けた。

満開を少し過ぎた杏の木々・・・日当たりのよい果樹園だった。

風に花びらが舞い、地面は既にピンクの絨毯になっている。

馬を止めると、ヘンヘネトはしばらく黙って見ていたが、

いきなり自分からさっさと降り、駆けだしていった。

「ま、待て!」

あわてて自分も馬を降りた。

マントは肩からすべり落ち、黒髪が風にながれたが、彼女は気付かないようだった。

マントを拾いあげ、ゆっくりとヘンヘネトの後を追った。

ああ、笑っている。

木々の間を 枝を眺めながら歩き回っている。

地面の花びらをすくい上げ、空に放り上げて、ひとりで歓声をあげている。

一陣の風が吹くと、花びらが一斉に舞い散り、彼女の姿を隠した。

風が収まった後には、黒髪にいっぱい花びらをからませたヘンヘネトがいた。

・・・美しい、と思う。

惚けて彼女を見守る自分に気付いた。

ヘンヘネトの瞳は、杏の花の色を 蒼い空を映す瞳だった。

黒い髪には、どんな花も映えるだろう。

・・・と、いきなり、頭の上からいっぱい花びらが降ってきた。

「これ、何をする!」

笑いながら彼女は走り去り、木の後ろに隠れた。

「ヘンヘネトよ、そろそろ戻ろう。直、冷えてくる。」

マントを広げながら呼びかけると、息をはずませながら、素直に戻ってきた。

「満足か?」

「・・はい!」

満面の笑みだった。

ヘンヘネトにマントを掛けようとして、そのまま彼女を抱きしめていた。

「・・・陛下?!」

戸惑った彼女の声が、耳をくすぐるようだ。

「ともに・・・生きてくれるか?」

固まっていたヘンヘネトはゆっくり自分を見上げた。

「・・・はい、来年もここに連れて来てくださいますか?」

「約束しよう。」

彼女は初めて、私に微笑みかけた。

「陛下、ひとつ、お願いしてよろしいですか?」

ー彼女の瞳に、自分が映っているだろうか。

「申してみよ。」

「ヘレン・・と、呼んでいただけますか。」

「・・・ヘレン?」

ヘンヘネト・・・ヘレンは、ゆっくりと私の胸に顔を埋めた。


                        fine






        *****おまけ*****





「ヘレンよ、欲しいものはないか?」

帰りの馬上で、彼女の黒髪に口づけながら聞いた。

「よくぞ、ムーラを見送ってくれた。そなたに礼がしたい。」

「・・・そんな、わたくしは、自分がそうしたくて、していたまで・・・・

                ・・・あ、でも・・・聞いていただけますか?」

「よい、申してみよ。」

ヘレンは目を輝かせて私を見上げる。

「・・・わたくしに、馬をいただけますか?」

何、馬と申したか?

「う・・・ま・・?そなた、馬に乗れるのか?」

「はい!お母様の世界では、王族の女性もたしなみとして乗馬を習うのだとか。

お父様の反対を押し切られて、お母様はわたくしに乗馬を学ばせてくださいました!」

声がはずんでいるではないか!

「ああ、そうしたら、もっとハットウサの事を、ヒッタイトの民の事を知る事ができます!

来年の杏の花も、一人で見にいけます!」

「な、ならぬ!花はともに行く、と言ったではないか!」

「あ・・・そうですわね。一人では行きませんから。

ふふ・・・・・よくテーベの街をウナスとともに行ったものでした。」

側を行くルカが吹き出した。

ルカを思いっきりにらみつけたが、まだ笑いをこらえている。

「皇妃様は、母上様以上に‘キャロル様’なのだ、と侍女達が申しておりましたよ。

・・・このルカが命をかけて皇妃様をお守りいたしますゆえ。」



そう、ヘンヘネト・・・ヘレンは、エジプト王メンフィスと王妃キャロルの、

私への最大限の心をこめた贈り物だったのだ。



   




イズミル君がロリに陥る話になってしまいました。(笑)
『溺れる』、『溺れない』は別として、王家の結婚にはよくあるパターンでしょうけど。
せっかくですので、イズミル君に、メンフィスの気分を味わってもらいましょう。(爆)

あまりヘンヘネトが「いい子」にならないようにしたかったのですが、
難しかったですわ〜。
桜の頃に仕上げたかったのですが、すっかり初夏・・・・。
(肌寒い五月だから、まあいいか。)

(2002.5.12)