「いつもポケットにショパン」パロ

雨の歌

〜第3楽章〜


ピアノを始めた頃の夢は、何だったろう。

練習すればするほど、うまく弾ける気がして、

母や先生が誉めてくれるのがうれしくて、

無邪気にピアノを弾いていたあの頃の。

いつしか、僕の手から生み出されるのは、母の呪いの呪文になっていた。

母の望みをかなえるためには、その先の未来など必要ないと思っていた。

今、僕の手から、何が語れるのだろう。

僕は、もう一度、夢を見てもいいのだろうか。






オープニング、

須江麻子によるチャイコフスキーの「デゥムカ」。

「雨の歌」のほかにオープニングを依頼されていた麻子は、うんと気分を変えてこの曲を選んだ。

ジーンズにセーター、毛糸の帽子をかぶっての演奏。

暗い森の向こうに見えた暖かい灯り、

炎を取り巻き、踊り狂う人々・・。

麻子は、はじけるように弾ききって、舞台袖にかけこんだ。




白河学園高等部の卒業記念コンサートは生徒会主催で、運営もプログラム内容も出演者も、

すべて生徒の手で決められており、チケット収入は生徒会運営資金でもある。

たいがいプロデューサーには、将来指揮者を目指すような‘しきり屋’が立候補する。

出演者のうち、国公立受験組の動向が判明するまでプログラムがはっきりしないため、

別名『闇鍋コンサート』とも呼ばれている。

中には志望校に落ち、ドタキャンする者もいれば、チャンスとばかりに打って出る者もいる。

どうせこれで最後だ、とばかりにぶっとぶようなプログラム、衣装も先生達が頭をかかえるような

奇をてらう者もいる、自由な雰囲気のコンサートだ。


今年はメインが三村映仁と須江麻子のデュオということで、わずか三百円程度のチケットがプラチナカード

と化し、
立ち見客が1階席後ろに並んでいる。




まりあは季晋が着ているセーターをまじまじと眺めていた。

「この色・・・さっきの帽子はこれの余り毛糸かしら?」


「何だよ。」

「ふふ、ホントに楽しそうに弾いてたわ。そのまま立って踊りだしそうだった。」

「今のあいつの気分じゃない?」

「『雨の歌』の調子はどう?」

「まとまっては崩し、の繰り返し。今日はどうなるかな?」

「ふうん・・・あ、次よ。」




麻子は自分の次の出番までの着替えに、楽屋に入る。

クローゼットを大捜索して出てきた、母の若かりし頃のものらしき青いワンピース。

祖母から借りてきた一連の真珠のネックレス。

慣れなくて、おとといから付けたり外したりしているイヤリング。

なんだか面映い気分。

楽屋待機の時間まで、会場に聴きに行こうと立ち上がったところで、依里に引き戻された。

「なあにアーちゃん、それで終わり?せめてメイクくらいしなよ。さっきの山下のハデな格好、見た?」


「別にマネしたかないけど。それに私、化粧品なんて持ってないし。」

「そんなことだろうと思って、こちとらは準備万端よ。」

いつの間にか、まみも一緒に麻子を取り囲んでいる。

「ほら、動かないで。私らアーちゃんの髪結い隊も最後なんだから。」

「あ、そんなこと言わないで。大学いってもお願い!どうせ同じじゃない。」

「ハハ、アーちゃんたら調子いい〜!デュムカも良かったよ!松苗先生が来てたの、見た?」

麻子は舞台袖から松苗先生の姿をちらっと見て、背筋が思わず伸びたのを思い出す。

「また松苗センセの愛情たっぷりのキビジ〜イレッスンを受ける気分は?あ、目を閉じて。」

「ちょっとコワイ。『あのデュムカは熊踊りか?!』なんて言われないかしら。」

さあ、いよいよだ。舞台に立つのが、こんなにワクワクするものだったか。





プログラムも残りの2つで、季晋は席を立った。

「どうしたの、もうすぐでしょ。」

「いや、譜めくり。」

あきれ顔のまりあを客席に残して、会場から楽屋口に向かった。


時間が少し押しているようだ。

ようやくディベルティメントが始まって、ステマネを務めるクラスメートの斎藤がほっとしている。

「ね、斎藤君、どこに決まったんだっけ。なんか進路で揉めてなかった?」

「あ、オレは一浪してどっか入れるところの教育学部受ける。4月から予備校通い。

 音大出てから通信でもいいじゃないか、て言われたけど、どうせ回り道なら今からってね。」

「一浪で済むと思うか、2,3浪は覚悟しな。」

などとステマネをまわりがひやかす。

「数学がキツイんだよなー。数UBなんて全然やってないし。」

「大丈夫だよ。よく宿題でお世話になったし。斎藤君、さっぱりしてるし、いい先生になるって。」

「おい、人の頭見ながら言うなよ。」

いがくり頭を自分でなでながら、笑っている。

三村の側に並んで座ると、彼は下を向いたまま話しかけてきた。


「1楽章は幸せな雨の景色だったな。」

「そう、2楽章は現在の自分に向き合っているの。」

三村は黒のスーツに蝶ネクタイ、正装だ。

「3楽章で少年の夢に、未来を目指すってか〜?なんか単純すぎないか。」

「いいじゃない、3楽章は楽しくやろう。」

「ああ・・・最後であまりテンポ落とさないつもり。」


いつの間にか、季晋が横に立っていた。

お礼を言おうとしたのに、まじまじと顔をのぞき込まれて、うっと来た。

「なによ!」

まわりから、シー!と注意されてあわてて小声になる。

「・・・馬子にも衣装とでも言いたい?」

「自分で言ってろ・・・オレ、これじゃまずかったかな。」


「ネクタイしてるからいいじゃん・・今日はサンキュ。」

三村が代わりにねぎらってくれた。

隣に立つ季晋のセーターをじっと見る。

そういや、着てるの見たの、初めてだっけ。

ありゃりゃ、ちょっとこの穴、明るい所だったら目立たないかしら。

季晋の脇を指でちょっと押してみる。

「な!・・何するんだよ!

シー!と指を口に。

本番前にきしんちゃんといると、とっても落ちつく・・・コンチェルトの前もそうだったっけ。






ディベルティメントが終わった。

舞台係が椅子を片づけ、ピアノがセンターに運ばれる。

「デュオ、出てください。」

ステマネに送り出される。

拍手とともに、三村や麻子にかけ声がかかる。

続いて楽譜を手に入ってきた緒方季晋の姿にどよめきが起こったが、


チューニングが始まると同時に、それはすぐに収まった。




三村は短い黙想を終え、麻子と目を合わせる。

ー最初の
Gdurの雨音ー。

今は三村君の夢につきあおう。

きしんちゃんもきっと同じように思っているに違いない。





     バイオリンが夢を語るなら、私は雨になろう。

     乾いた土に、こころにしみこむ雨になろう。

     こぼれ落ちた涙をかくす雨になろう。



私は三村君の後ろ姿から呼吸をつかみ、

きしんちゃんは私の呼吸をつかみ、楽譜をめくる。



     鍵盤の上を雨粒になって踊ろう。

     悲しみや憎しみを押し流す流れになろう。


     夢が成就されるよう、天に昇ってゆこう。



3楽章の最後の和音が、水面を渡る波紋となって会場に消えていった時、

わき上がるような拍手が起こった。

「かなわいな。」

隣から聞こえたような気がしたが、三村から促されて立って挨拶をする。

万雷の拍手のなかを舞台袖に戻り、先に入った季晋の拍手に迎えられる。

拍手に混ざってアンコールがかけられる。

「アンコールの前に、いっぺん手ぶらで出て。ホラ、あの花束の列、見て見ろ。」

ステマネに促されて出ると、「みむら〜!」に混ざって「須江せんぱ〜い!」のいつもの中学生達の声。

真っ赤になって、いくつもの花束を二人で受け取った。

アンコールは「雨の歌」に合わせて、クライスラー版の「ハンガリー舞曲第5番」。

客席が一緒にのってくれているのがわかる!手拍子まで起こってきた。至福の時だ!

満面の笑みで挨拶し袖に戻ったが、拍手が止みそうにない。

三村はまたバイオリンを抱えたまま舞台に出ていく。

「え、もうアンコール用意してないのに、何するんだろ???」

すると季晋がスタスタ舞台に出ていき、さっさとピアノに向かうではないか!

えええええ〜!麻子の驚きが口から出る前に、客席から大歓声が上がった。

『熊蜂の飛行』だ!

三村は半分戯けて猛スピードのパッセージで飛んでいる。

替わってピアノが飛び始めた。アドリブでバイオリンとケンカを始める。

ああ、セッションだ!

「やってくれるねぇ。」

「さすが、三村に堂園の緒方だ!」

ここにいる誰も知らないだろう。きしんちゃんは復活した!

いや、ピアニストとしてのきしんちゃんは、今、生まれ変わったのだ。

大喝采のなか、ふたりはイタズラが見つかった子どものような顔をして戻ってきた。

舞台袖も大喝采だった。

「ステマネさんよ、もういっぺん、いい?」

「はいはい、いくらでもどーぞ、どうせもう最後だし。」

三村今度は一人で飛び出し、クライスラーの無伴奏を弾き出す。

「・・・カラオケのマイクを離さないオヤジ状態だな。」

「みんな聴きたいんだよ。もうしばらくはあいつの音、聴けないんだし。」

舞台係はみんな、ひしめきあって舞台をのぞき込んでいる。

舞台袖の暗がりで、麻子は季晋の両手をそっとつかんだ。

「・・・ふたりで秘密にして!」

「あいつから電話あったんだ。ピアノ教えてくれってさ・・そのついでにね。」

「・・・もう、何ともないんだ・・・」

あとは声にならなかった。季晋の手も見えなくなった。

「ベストじゃないけど、もう大丈夫・・・おい、化粧くずれすっぞ!」



     


先にタクシーで帰る祖母に、「ちょっと打ち上げがあるから」と荷物を預け、

ロビーでまりあと季晋とおしゃべりをしている所に、ようやく弦楽科の連中から解放された三村がやってきた。

「須江さん、緒方君、長いことありがとう。おかげで自分のギリギリまで弾けた。」

「こちらこそ、ホントにいい勉強になったわ。」

三村はちょっと黙って、それから言葉をつないだ。

「ホント言うと、『雨の歌』を選んだのは自分が一番苦手なタイプの曲だからさ。歌えない、なんて致命傷

 だしね。
お前には弾けない、なんて言われると腹たってなおさらこれでなきゃ、向こう行く前に絶対これ!

 って決めたんだ。君が引き受けてくれなきゃ、実現しなかった。イライラしてケンカばかりしてたような

 3年間だったけど、一番いい思い出になった。」


「そう言われるとうれしいな・・・ところで、なんで私じゃなきゃいけなかったわけ?」

「えっと・・・弦の連中が『須江はケンカ慣れしてるからそうそうつぶれない』って。『おまえが勝手

 言ってもビンタひとつ返ってくるくらいでで事足りるから』って言われて、覚悟してたんだけどな・・

 あれ、違った?」


「・・・なんですとっ・・・」

依里と殴り合いのケンカをしたこと,
おととしのピアノ協奏曲の練習のこと,

コンクールの控え室で季晋にビンタしたことやらが猛スピードで頭の中をかけめぐる。

もうっ!まりあと季晋がふき出したではないかっ!

真っ赤になって目をつり上げている麻子に、三村はあわててとにかくありがとうっ、と付け加えた。

「はっ・・はは・・・ついでにずっと先の事も頼んでいいかな?」

「な、何よっ!」

ちょっと照れたように下を向いてから、三村は麻子と季晋の方を向く。

「オレが日本でチャリティコンサートを開けるくらいになったらさ・・・協力してくれるかな?」

「・・・えっ?」

「それまでに君らもうんと有名になっといてよ。2000人くらいホールに集められるくらいにね。」

ああ、こいつはいつでも本気だ。胸がしん、となった。

「・・出来るかな?」

「・・・乗るぜ。」

先に季晋が、三村に手を差し出した。

つられて麻子も。

ふたりの手を交互に握りながら、三村は満面の笑みを浮かべる。

「そうこなくっちゃ!・・・じゃ、何年後になるかわかんないけど、約束。」

「すぐにアメリカに行くの?」

「うんにゃ、おふくろの命令で香港の親戚まわり。小遣いのひとつもかせいで行けってさ。じゃあ。」

実にあっさりと、彼は駆けだした。

唖然とした麻子は、あわてて叫んでいた。

「・・・がんばって!がんばるから!」

三村は、くるっと振り向いてこっちに向かって手を振った。



     




駅を出た頃はもう8時過ぎ、3月のあたたかい雨だった。

ひとつしかない傘をふたりでさして歩くのは、なんだかまとも過ぎてぎこちない。

ふたりは黙ったまま歩き慣れた道を辿り、橋を渡っていた。

傘を持っていた季晋が、思い出したようにつぶやく。

「麻子、時計・・・」

「えっ?・・・あ、また調子悪いみたい。」

耳元で時計の音を聴いていた麻子の手が、突然つかまれた。

びっくりして声も出ない麻子の腕から、季晋は腕時計を外した。

細く降る雨が顔に当たる。

「これは回収!いつまでも壊れたディズニー時計してんじゃない。」

「ちょ、ちょっと・・・きしんちゃん・・」

「替わりにこれ・・・セーターのお返しって事で。」

手首にひやっと金属の感触・・・新しい腕時計だ。ベルトが街灯の光に当たって銀色に光っている。

「・・・これ、私に?・・・ありがと。」

季晋は何も答えず、おもむろに持ち主の手から離れた時計を川に投げ捨てた。

「きしんちゃん!何するの!時計が!

 やだっ、取ってよ!大事にしてきたんだから!

 おばちゃまが買ってくださったきしんちゃんの時計だったから!」

泣きながら季晋の胸を叩いた。

「・・・あの音聞いてたらひとりぼっちでも眠れたんだから!

 火事の時に依里ちゃんが取ってきてくれたんだから・・!」

季晋の腕が、そっと麻子の頭を自分の胸に押しつけた。

「オレはここにいるから・・・もうどこにも行かないから。」



落ちついたら、セーター越しに季晋の鼓動が聞こえてきた。

ほんとだ、きしんちゃんはここにいる。

不思議・・・あの時計をもらった時、私ときしんちゃんは同じ背丈だったのに・・。

「ふふ。」

「な、何だ?」

涙を手でふきながら、季晋を見上げた。

「きしんちゃん、ダメだよ!川にモノ捨てちゃ。」

「・・・・」




三村君、訂正します。

私の、須江麻子の一番幸せな雨の思い出は、絶対今日の雨です。


                         fine



   おまけ



な、なんとか完結しました。
3話目は詰め込みすぎて、ちょっとダラダラしてしまいました。(反省!)
やたら長く感じる一日って、あるでしょ?あとから思うと一瞬だけど。(開き直り!)

最後まで書いて、気が付いた。これじゃまるで、くらもちふさこを師匠と仰ぎ見る、
多田かおるの「イタズラなkiss」10巻みたいじゃないか!
ま、いいか。あの雨の中の入江くんの告白シーン、最高だし。

(2002.02.23)




ブラームス
ピアノとバイオリンのためのソナタ(1〜3番)
バイオリン  ピンカス・ズッカーマン(左)
ピアノ  ダニエル・バレンボイム(右)
1974録音

ズッカーマンの「雨の歌」を石川厚生年金会館ホールで聴いたのが1977か78だったので、
その時の演奏に近い音なのでは、と思う。
まだズッカーマン20代の若々しいブラームスです。
(このCDはもうお嫁・・じゃない、お婿に出しました。)