麻子はさっき包装したばかりの包みを、どうしたら季晋にすんなり渡せるか、そればかり考えていた。
さっきからかけてあるブラームスのチェロソナタは、頭の上を素通りしていく。
バレンタインデーはあさってだけれども、それだけのために季晋の家まで出かけるのもおっくうだし。
コンクールの時に彼のそばにひっついていた女の子の顔が浮かぶと、さらに弱気になる。
12月、最後の課題を終えてから、3年間くっついていた依里に習って、慣れない編物を始めた。
今までバレンタインデーに誰かのために何かしようなんて、これっぽっちも思わなかった。
「アーちゃん、セーターで一気に勝負よ!」なんて依里にさそわれて、自分の不器用さを忘れて始めてしまった。
しかも父の分と合わせて2着も。
入試が済んでからは、ピアノを弾くか、BGMをかけて編物をして、犬が吠えたら散歩に出る生活。
(とりあえず、4月からは季晋と同じ大学に進学する。やった!)
父は母に何かもらったことはあるのだろうか?
もともと人付き合いがヘタな上、「結婚よりピアノが大事な人間」との評価を世間から下されている母の事、
それに逆らってまで恥ずかしい事をする勇気はなかったと思う。
ここは娘の私が、などと余計なことを考えてしまったのだ。
実はもう既に、父の分は渡してある。
2月は常任指揮者を務める昭和フィルの海外公演でいないという父のために、そちらを優先して編み、
(まるで季晋のセーターための練習台になってしまったが)定演の楽屋まで持っていった。
あの時の父の喜びようといったら!
網目がそろわないで、よく見ればところどころ気になる穴があるセーターをみんなに見せびらかしてまわって、
しかも楽団関係者に父と自分の顔を交互に見つめられて、麻子は穴があったら入りたい気分だった。
何か欲しいものはないか?と聞かれて、
「ブラームスのレコード、何でもいいから貸してください。家にはピアノ曲くらいしかなくって。」
などと言ってしまったものだから大変、2日後、成田から出発という日の早朝、父はたっぷり50枚はあろうか、
というくらいLPを抱えて現れた。
(玄関に出たおばあちゃんの顔といったら!!)
見れば3分の一は新品ではないか。父が嬉々としてレコード店で物色する様子が目に浮かぶ。
輸入盤が半分以上で、英語とドイツ語とフランス語の解説に、見ただけで頭が痛くなったけど。
4番の交響曲だけで4種類はあったりするのは、選んだのが指揮者故、致し方ない。(本人指揮のものがあった!)
・・・全部丁寧に聴いていたらいつになる事やら。
譜めくりに来る季晋が、その都度何枚か借りていく。
「これって、おねだりしちゃったことになるのかしら。」
「いいじゃない、村上氏もずっと君に会えなかった分、何かしてあげたくて仕方ないんだろ。」
季晋には、三村が合わせに来るごとに譜めくりに来て貰っていた。
「三村って勝手でさ〜、まわりとケンカばっかしてる。」なんて弦楽科の依里は言うし、
「彼の伴奏したいなんて子、確かにいないね。なんかすぐ手を出す、って話よ。」とまみが言う。
「まあ、それって逆に言い寄って相手にされなかった子の意趣返しらしいわ。」と付け加えてくれたけど。
何より、よくわからない男の子と一緒の部屋で練習する、というシチュエーション自体が慣れない。
いや、一番気になったのは、三村と初対面の時の季晋の態度。
季晋とはやっと普通に話せるようになったところなのに、ちょっと距離を取られたようでそれが怖い。
とはいえ、ここ数回の練習では、季晋は余計なおしゃべりはしないが、
ピアノとバイオリンのバランスなんかのを指摘してくれている。
いつの間にか、三村も季晋の耳の確かさを信用し、意見を求めるようになっていた。
季晋は腱鞘炎治療による3ヶ月の完全休養のあと、時間を切って練習を始めている。
この間など、家の側を通ったとき、かすかにバイエルを弾く音が聞こえてきてびっくりしたものだ。
きしんちゃんはピアノと一緒だった時間をリセットして、もう一度ピアノに出会い直しているのだろうか。
いや、
‘憎しみ’を原動力にピアノに向かっていた時も、
あんなに美しい、心引かれる音を紡いでいたではないか。
彼の母の妄執も、憎しみも、心に閉ざしていたやさしさも、
今はすべて解け合い、彼の中で新たな光をはなつ結晶となるのだ。
「おい、何時だと思ってるんだ?」
急にブラームスが聞こえはじめた。
「え?」
季晋の姿にあわてて腕時計を見る・・・あれ?・・止まっていたんだ。
近頃、腕時計がよく止まる・・。ずっと前、ドイツに立つ季晋がくれた、もう彼の母の形見となった時計。
あわてて時計を振ったりネジを巻く麻子の様子を、季晋は無言で見つめていた。
「もう迎えに行く時間だろ。あ、これ返しておく。」
あわてて用意をする麻子を チェロソナタのジャケットをひっくり返しながら待っていた。
「バレンボイムかぁ・・今かけてるの、借りてくぜ。」
今日は三村の‘師匠’、バイオリニストの松井にレッスンを受けに行く予定だった。
風邪で2日前までダウンしていた三村のために、季晋の運転する車で松井の自宅のある月島まで走る。
「雨の歌」はただ今停滞前線状態。
そりゃ自分はミスタッチはほとんどしなくなったが、バイオリンがいまいちどう弾きたいのかつかめない。
最近の音は、彼独自の豪快さが影を薄め、繊細だが、何だか縮こまっているように思う。
三村も苦しんでいるはずだ。
「・・ごめん、喉からやられちゃって」
「ふふ、なんで今頃声楽のレッスンなんて受けてるの?」
「・・今まで大目に見てくれてた科目の先生方が、進路決まってるのならって、こぞってイジメにかかってきやがって・・
ピアノはソナチネアルバムの1曲目が弾けなかったら卒業証書やらん、だろ。声楽でせめてブラームスでもやらせてくれ、
って言ったけど、お前はコンコーネで十分だ、とさ。せめてイタリア歌曲集で〜、って粘ってさ。」
マスク越しにしゃべっていても、いつもの調子は変わらないようだ。
「松井宏史、なんてすごいね。そんな方にレッスン受けると、どのくらいかかるの?」
「・・・タダ・・・」
「うそ!」
「ホントさ。ドイツにいたとき、お隣さんが師匠だったんだ。コンサートの時なんかにウチがベビーシッターする代わ
りに、オレがタダでレッスン受けたんだ。身内が誰一人いない外国で子育てしている音楽家夫婦にゃ、ウチの家族は
天の助けだったと思うな。あん時の赤ん坊は10歳になってるけど、なぜかオレは今でも能登のばーちゃんちで作ってる
ころ柿だけで、たまにレッスン受けてる。」
まったくエピソードにも驚かされる。
車がかちどき橋を渡った頃から、窓に雨が当たり始めた。
「最初の先生がむちゃくちゃ一流どころだった、ってわけだ・・・あ、どこで曲がるの?」
「なかなか豪華なピアニストと譜めくリストだな。家内がびっくりしていたよ。」
「こんにちは。よろしくお願いします。」
舞台上では神経質に見える松井は、結構おおらかな気質らしく、型破りな‘弟子’を楽しんでいるようだった。
「おやじさんは今どこだ?」
「モザンビークでNGOしてる。おふくろはさすがに危ないからって、香港。」
「せっかく定年前に退職してチャンスと楽器を用意してくださったんだ、しっかりやれ。」
「ははっ!お師匠様!」
ああ、そんな事か・・・こんな家族もあるのだ。
この間彼が話していた夢・・・確かに彼は本気だ。
彼の夢は家族の夢であり、‘師匠’松井の夢でもあるのだろう。
「ちょっとは歌えるようになったかい・・・・熱はあるのか?うつしてくれるなよ。明日から
しばらく地方に回るんだからな。・・さ、やってもらおうか。」
マスクをはずし、Aの鍵盤を押してチューニングが始まる。
いつの間にか、ピアニストでよく夫の伴奏を務める奥さんもレッスン室に入ってきた。
最初の和音・・・あ・・ずいぶんメロディックになった!歌おうとしている。
ひょっとして、単位うんぬんじゃなく、このために声楽のレッスンを受けていた?
「うーん、楽器も結構鳴ってきたんだがな。・ ・ ・なんだか背伸びしようとしてないか?
もっとおまえらしいのびのびした‘雨の歌’があってもいいんじゃないか。
あ、2楽章は今日のがいいな、熱にうかされてものうげだぞ。」
脱力した三村はソファに撃沈した。
「のびのび、ねぇ・ ・ ・。」
松井は三村にいくつかのボーイングの訂正を指示して、コーヒーにお菓子を運んできた夫人に向かって頼んだ。
「ね、例のレコード、出してきて。歌詞のコピーも一緒においてあるだろ。」
松井夫人は、ラックから一枚のLPを取り出してきた。
何だろう、バイオリンじゃなくて・ ・ あ、歌曲集!
「わかった?‘雨の歌’のもと歌だよ。3楽章の第1主題そのまんま。」
季晋ものぞき込みに来た。
「D・F・ディスカウにJ・デムスですか。聴きたいですね。」
そっとレコードに針が降ろされる。
あ、ほんとだ、3楽章と同じ・ ・ ・ のびやかでやさしいバリトン・ ・ ・ 雨の音のようなピアノ
中間部でテンポが上がり、何だかワクワクしたメロディに変わった・ ・ ・ 幸せなイメージ?
「どうだい、イメージはっきりした?」
「歌詞みせていただけますか?」
原語の歌詞と対訳と2種類のコピーが配られた。対訳を先に見ているのは自分だけ、というのがちょっとくやしい。
雨よ降れ、そして私が子供の頃に、
雨が砂の中で泡立つ時に、
その時に見た夢を
再びあらわしておくれ
うっとうしい夏の暑さが
新鮮な涼しさと物憂げに争うとき、
そして輝く木の葉が露にぬれ、
苗床の青さが濃くなるとき、
小川にはだしで発つことは
何と気持ちのよいことか!
そして草原に歩み入って
清水を両手ですくうのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雨よ降れ、私たちが子供の時に
戸口で歌った古い歌を
めざましておくれ!
外では雨滴が高鳴っていたあの時に!
あの雨の、濡れた甘いざわめきを
私は再び聴きたいのだ。
いとけなき子供の恐怖感のうちに、
私の魂を雨でうるおしたいのだ。 クラウス・グロート(渡辺 護 訳)
歌詞を見ながら、もう1度聴く。
「絶望している人が昔を懐かしがっているわけじゃないね。」
「ううん、むしろ幸せな歌だわ。元気を取り戻した花みたいに。」
「子供の頃の夢ねぇ。」
「そう、幸せな雨の思い出、ってところかな。」
松井はクッキーをかじりながら、‘弟子’に語りかける。
「映仁にはこの詩人の年齢で語る事はムリなんだから、今のおまえで語れる事をまっすぐ音にして欲しいね。」
「ピアノはもっと雨の情景を意識していいんじゃないかしら?」
夫人も麻子ににこやかにアドバイスする。
「あ、やっぱり?・ ・ ・ 私も雨の思い出、ですか。」
「『ブラームスがこの曲を作曲したのは、ペルチャッハである』・・・って、ドイツだっけ?」
「いや、オーストリアだ。アルプスの麓の。きれいな所だ、行った事がある。」
映仁に季晋が答える。
「え〜!私、日本の雨しか知らない ・ ・ ・」
「オレなんがドイツの雨どころか、スコールもパレスチナの雨期も知ってるぞ。」
「ハハ、映仁らしい。‘前の雨と後の雨’か。」
「ドイツレクイエムだな。」
うっ、会話についていけない。
「日本の梅雨だっていいじゃない、要は‘幸せな雨の思い出’よ。」
夫人がとりなすように笑って言う。
「お、雨が雪まじりになったな。運転、気をつけていってくれ。」
「幸せな雨か ・ ・」
また熱がぶり返してきているようで、シートにもたれかかってさっきから黙っていた映仁が、ぼそっとつぶやいた。
「何かある?」
「・ ・ やっぱ、マスクは息苦しい ・ ・まだバイオリン始める前に、母に連れられて香港の春節に行ったんだ。」
思い出しながらぽつぽつと話し出す。
「実家の方じゃ母の結婚をよく思われてなくてさ、結婚以来の里帰りだったみたいなんだ。」
「何で?」
「・ ・ ・ そりゃ、じーさん、戦争体験者だし。かわいい末娘の結婚相手が憎っくき日本人だったからだろ。」
「!」
「はっきり聞いたわけじゃないけど、子供心に、自分が歓迎されてない事はよくわかったさ。
そんで、お祭りに連れられて出て、賑やかで面白いもんだから、いつのまにやらはぐれて・ ・ ・」
「言葉もわかんないところで?こわかったでしょ?」
「そのへんよく覚えてないけど、なんだかぼーっと歩いてるうちに雨なんか降ってきちゃって・ ・ ・
いきなり誰かに腕をつかまえられてさ、抱きかかえられて大きな声で叫ばれて、よく聞いたら自分の名前でさ。
そしたら向こうから母やらいっぱい飛んできた・ ・ ・探しにまわっていた叔父だったんだ。」
「なんだ〜、良かった!」
「・ ・ ・ みんな雨にぬれてたな〜って、それだけははっきり思い出せる。」
「素敵な思い出ね。」
「・ ・ ・ 迷子が素敵か?それに間違ってもブラームスの世界じゃないね。」
「ううん、愛された思い出だわ。子供にとって、とっても大事な思い出。」
「愛された、ねえ。まあ、とりあえずあの時からオレはかの一族に加わったみたいだけどね。
今じゃ能登のばーちゃんち行くのも、香港のじーさんとこ行くのも、感覚変わらないなあ。須江さんは?」
私は ・ ・ ・ 彼ほどドラマチックじゃないけど、そう、自分をささえていた大切な思い出・ ・ ・。
マスク越しの三村の声に合わせて、
大切な事は、そっと。
「・ ・ ・ちっちゃい頃ね、雨降る中、かっぱを着てピアノのレッスンに通った事。」
「・ ・ ・彼と?」
「・ ・ ・ そっ。おばちゃまが見えなくなるまで見送ってくれて ・ ・ ・ 向こうはどうだかわからないけど。」
「聞かせないの?」
「どーしよーかな〜?!」
ひそひそ話に、ドライバーの季晋の機嫌がむちゃくちゃ悪くなったのが、運転でわかる。
ありゃ、まずかったかな?隣で三村が笑うのをこらえきれず、咳でごまかしていた。
水気の多い雪が、ガラスに当たっては消えていった。
「じゃ、今日はありがとう。おかげで助かった。車でなけりゃ、今頃救急車だな。」
「ちゃんとお薬飲んで、休んでね。次は2週間後ね。」
三村を寮の前で降ろした後も、季晋は何もしゃべらないで運転している。
私の一番の雨の思い出ー。
おばちゃまは私の事を憎みながら、愛してくれていた。
今、はっきりとそう信じている。
私はおばちゃまやきしんちゃんが大好きだった。
そして今も。
・ ・ ・ なんだかおかしくなってきた。わかっているくせに。
そうそう私は甘くない、ぞ。
もうすぐ家だ。
麻子は助手席を後から抱え込んで、運転席の季晋に話しかけた。
「私の一番の雨の思い出はね ・ ・ 」
「な、なんだよ、突然。」
「・ ・ ・ いわない!あ、着いた、ありがとう。」
「おい、麻子、陰険だぞっ!」
笑いながら車のドアを閉めた。
「麻子、荷物、なんか紙包み忘れてる!」
麻子は振り返って季晋に、思いっきりアッカンベーをして玄関に駆け込んだ。
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