お正月ももう3日。
麻子は家のなかにただよう昨日の不穏な空気を一掃すべく、あちこち走り回っていた。
昨日の事を思い出すと、胃が痛むような気がする。
ただでさえ気にしている前髪が、また減っていくんじゃないかとも思う。
両親は復縁するらしい。
それを外部から伝え聞くほど不愉快なものはない。
といっても、父も母も年末からずっと忙しかったようで、母ともなかなか顔を合わせられなかった。
娘に伝えたくとも時間がなかったのだろう、と麻子は良いほうに理解しようとする。
それが、2日に突然父が我が家を訪ねてきたかと思うと、いきなり切り出された。
祖母はむっつりして何もしゃべらないし、
父は機嫌を取ろうと笑い声がひっくり返って空回りしているし、
母はそれを見てイライラしているし。
大人達は、麻子に間を取り持ってもらおうなどと思っていない、なんて顔をしていて、
実のところ一人娘に頼っているのがみえみえで。
『・・あんまり子供をなめないでよね・・』と思いつつ、麻子は仕方なく期待に応えていた。
「えっと、大学生にはお酒も用意したらいいのかしら。あ、未成年に出しちゃマズイんだっけ?」
大皿に祖母と用意したカナッペを並べながら、時計をちらっと見る。
二階堂まりあと、季晋(としくに)と、そしてドイツから一時帰国している上邑恭二が遊びに来てくれる!
ほのかな恋心を抱いたこともある、だけど兄のように頼れる人!
上邑は祖父が具合がずいぶん悪いとかでの帰国だが、今すぐどうの、という事は無いらしく、
彼に帰るきっかけを与えてたおじいさまには申し訳ないが、嬉しくて仕方ない。
季晋の家に来る、というのを自分から「うちに来て!」と申し出たのだ。
昨日はそれだけを楽しみに、しらけた空気の中をただよっていられたのだ。
「もう寮は出たんだー。」
「ええ、ほとんど授業は無いけど、受験や学年末の課題で練習室がずっと埋まってて確保出来ないのよ。」
「今日はお母様はいらっしゃらないの?」
「明日のニューイヤーコンサートのリハで、夜までかかるって。」
「須江さんの父上が村上 稔氏だなんて、まりあに聞いてびっくりだったな。」
一年見ない間になんだか明るくなった上邑が、結構面白がっている。
「復縁するんだって?」
「なんで世間様の方が先に知ってるのよって感じ・・おかげでおばあちゃん、すっかりヘソ曲げちゃって。」
「あなたはどうするの?」
「どうするって・・・どうなったって、ここにおばあちゃんとトリスタンと一緒にいるわよ。
おばあちゃんとお父さん、うまくいかないのわかっていて、無理して同居する事ないし、
おばあちゃんを一人に出来ないし。たまに一緒にお食事でも出来たら、それでもう言うこと無いわ。」
それに、きしんちゃんのそばを離れたくないし・・・一番言いたい事は喉の奥でひっかかっている。
「麻子さんには、またとしがムチャをしないか側で見張っていてもらわなくっちゃ。
もう、私ったらとしが腱鞘炎だったなんて全然わからなかったのに、ちゃんと麻子さん気付いていたなんて、」
「うるさいぞ、まりあ!」
季晋とまりあのやり取りに、麻子は真っ赤になる。
「言われなくったって、この三ヶ月ほどは弾いてねえよ。」
「学校さぼって放浪の旅に出ていた、なんてウワサだけど?」
上邑はすっかり面白がっている。
「・・・免許取りに行ってただけだよ・・・」
「やったね、麻子さん、としが毎日車で送ってくれるって。」
「あ、わたし、キッチンからもうちょっと運ぶものがっ!」
裏返った声で部屋を飛び出してしまった。
「もうっ・・別にきしんちゃんとつきあっているわけでもないのに・・。」
たぶん、あの時、
きしんちゃんが抱きついてきた時、
彼の眼から氷のかけらが完全に融けていったのがわかった。
でも、彼はもう昔のきしんちゃんであるはずが無く。
ピアノから愛されたきしんちゃんは、ピアノを愛するきしんちゃんに変わったのだと思う。
やっぱり、ちょっと遠い存在であることには変わりないのかもしれない。
キッチンで落ち込んでいると、けたたましいトリスタンの吠える声がした。
「麻子、お客さまよ。三村さんておっしゃったけど?」
「誰?知らないけど」
「白河の制服を着て、楽器の・・バイオリンかしら?ケースを持ってる男の子。」
「バイオリン?あ〜!!」
「こっちは昨日からバイオリン弾いてないんだよ。さっさと弾かせてもらえないかな。
ちゃんと全楽章さらってある?」
えらくたくさん荷物を抱えた来訪者は、あいさつもそこそこに切り出した。
「何言って・・!こんな正月早々来るなんて聞いてないわ!年末はお掃除やらなにやら、忙しいんだから!
せめて電話くらいしてから訪ねてくるものよ。」
「じゃあ今度からそうする。」
「・・・!」
突然の来訪者に、先客の目が集まった。
バックに紙袋に、バイオリンのケース。季晋や上邑に比べて小柄だが、なんだか目つきがするどい。
「あれ?お客さんだったの。白河学園弦楽科3年、三村映仁ですっ。
初めまして皆様、ついでにあけましておめでとうございます。あ、これお年始。田舎のころ柿。
せめてこれくらい持っていけって、田舎のばあちゃんが。」
さっきからの傍若無人ぶりから一転、手をついてあいさつする様子に、麻子は口をパクパクだ。
「ほれ、紹介してよ。」
「(こ、こいつは・・!)・・堂園の緒方季晋くん、大学部の二階堂まりあさん、
それからドイツに留学してて一時帰国している上邑恭二さん。」
「こんにちは、それ、バイオリンね。何かデュオでもするの?」
「よくぞ聞いて下さいました!こちらの須江さんとブラームスの一番のソナタを卒業記念コンサートで。」
「一番って、『雨の歌』?高3で渋いなあ。」
「・・・生徒会には、まだ考えておく、と伝えてあっただけだと思うんですけど・・。」
「まあまあ、そう言わずに。オレに合わせられるのは須江麻子くらいのもんだ、って弦の連中に言われたし、
もうプログラムに載ってるよ。」
「何ですってぇ〜!私、入試まだなのよ!」
映仁がバックから取り出した楽譜を眺めていた上邑が、取りなすように(余計なお世話!)言った。
「確かにちょっと面倒な曲だねえ・・・どう、ここで弾いてみてよ、聞いてみたいな。」
「えっ・・・」
さっきまでカッカしていたのに、一気に背中に冷たい汗が流れる。
そうこなくっちゃ、とばかり三村はさっさと楽器を出してチューニングに取りかかった。
「・・・だって、まだ一通り通したくらいでうまく弾けないし。」
「うまく?・・・あんた達がいつも弾いてる曲よりずっとおたまじゃくしの数、少ないだろ?」
「だから余計よくわからないんじゃない!」
「ふふ、確かにそうね。ほら、とし。楽譜めくってあげて。」
さっきから二人の様子を黙って見ているだけの季晋に、まりあがうながした。
季晋は何も答えなかったが、あきらめてピアノに向かった麻子の横に黙って立った。
ろくに練習もしていないものを上邑やまりあの前で弾きたくはないが、もう逃げられない。
最初のGdurの和音・・・バイオリンの第一主題がもっとテンポを上げろとせかしてくる。
すぐに分散和音の連続で息が合わない。
やっと第二主題!初めて聴いてしみこむように入ってきたメロディ。
そこだけは気持ちよかったのに、その後からソリストのテンポのゆれについていくのがやっとで、
ミスタッチが多くなる。
譜めくりする季晋の手についていくように楽譜をにらみつけていると、バイオリンの音など耳に入らない。
中断するも、ソリストは意地でも最後まで行きたいようで、止めさせてはくれなかった。
「・・ヘタクソ」
最悪!・・やっと一楽章の終わりに辿り着いたとたんの季晋の一言に、言い返す元気もなかった。
「ほう!威勢のいい雨の歌だね。」
「あ、やっぱり?」
上邑の言葉に、三村は素直に笑って答えた。
「ホントは実行委からヘンな顔されたんだ。絶対この曲オレに合わないってよ。」
大学生ふたりはアルコールは遠慮しているのに、高校生ふたりは缶ビールのプルタブを開けている。
「確か定演でパガニーニのコンチェルトしてたよね・・すごかった・・・
ちょっと、何であんたたちが飲むのよ!卒業したらジュリアード行くって噂は本当?」
「そ。ホントは3年前に行くつもりが、師匠がクセを何とかしていかないと、向こう行っても仕方ない、
って言うもんで。オレは入りたくもなかったのに白河に編入させられたんだ。
おととしの今ごろまでボーイングとスケールとケンカばっかだったんだぜ。ここまでひたすら耐えに
耐えて課題こなしてきたんだから、卒業記念コンサートくらい自分がやりたいものやりたいさ。」
かの、きら星のごとし巨匠達を世に送り出したジュリアード音楽院に行く人が、ボーイングにスケール?
何だかよくわからないバイオリニストに、4人のアタマの中は疑問符がとびまわっていた。
「オレ、おやじが外務省職員さ、で2年以上は同じところにいない生活してきたんだ。最初7歳で習いはじめた
2年以外は、まともに先生についてなかったもんで、かなりボーイングが個性的になっちまったらしい。」
ピーナッツを口にほおりこみながら軽く言っているが、残りの4人には驚異以外の何物でもない。
「じゃあ、ほとんど自己流でバイオリン弾いてたってこと?」
こいつは真性の天才かも・・・小さい頃から欠かさずレッスンに通っていた者には、違う生物のようだ。
上邑にいっぱい向こうの話を聞きたかったはずなのに、今はこいつの話を聞きたい。
「う〜ん、そんなとこ。それで、15の時におやじからこれから先どうするつもりだ、って言われて。
ウチの家訓は『世に奉仕する人間になれ』なもんでさあ、姉はハーバード出てユネスコ職員になってるし、
兄は自治医大の学生だし、一番デキの悪いオレはバイオリンで大道芸人やってためた金寄付するから、
なんて言ったらブンなぐられた。」
「そりゃ確かにもったいなさすぎる。」
「師匠にどうせなるならチャリティコンサートで数千万集めるくらいの芸人になれ、なんて言われてさ。
ジョージ・ハリスンみたくクラッシックのアーティスト一杯集められたらカッコいいじゃん。」
「そうなるにはジュリアードで修行して、国際コンクールで首位獲って・・・ってとこかな。」
上邑がほとんどひとりで受け答えしている。まりあも季晋も目をまるくしているだけだ。
「あ、大風呂敷って思っているだろ?自分でも半分そう思うけど、もう半分は本気・・・ハハ・・」
ピーナツをつまんでいた手をおしぼりで拭うと、バイオリンを手に取り、いきなり弾きはじめた。
えっと、何だっけこの曲・・・・クライスラーかな?酔っぱらってはいないよね・・・。
彼のお母様は香港の方、て聞いたような気がする。生まれてずっと日本にいる自分とは、物の考え方が、
音楽への思いが全然違うのかも知れない・・。
そんなことを思いながらも、さっきのデュオの雰囲気を忘れて浮き浮きした気分になってくる。
速いパッセージの曲をご機嫌で弾き終えて、彼は拍手を浴びて満面の笑顔になった。
「・・・でも最終的な理想は黒沼ユリ子だな。」
「あら、私、確かずっと前にコンサート行った事ある!収益金をご自分がメキシコで主催している音楽学校の
運転資金になさっているって。」
麻子はあわてて言った。
「オレ、メキシコにいた時に、そこ訪ねていって一緒に弾いてきたんだ。バイオリンなんか全部寄付で集めた
ボロボロでさー。いかにも貧しそうな子もいてさ、でも結構楽しそうに弾いてるんだ。オレもいつか彼女
みたいに、生きる力になるような音楽を広められたらカッコいいな〜なんてさ。あ、ビールもっとある?」
「・・それで・・・何で『雨の歌』なの?」
それまで全然話そうとしなかった季晋がいきなり声を上げた。
「確かに、君の音に合ってなさそうなんだけど。」
麻子はちょっとひやっとした。時々季晋があまり感情を出さないでしゃべる口調。
「そうっ!自分でもそう思う!師匠からせめて二番にしろ、この曲を弾く時は失恋して三日三晩泣いてからに
しろって言われた。一晩しか泣いた経験しかないけど、弾きたいモンは弾きたいんだ〜!ってね。」
「二番ならおつきあいした事があるんだ。弾けるだろ?」
上邑がいきなりピアノに向かった。
わぁわぁ。
さっきは最悪だったけど、こんな上邑を見られるなんて最高にツイてるかも、なんてワクワクして思う。
・・・ピアノによる主題の提示・・・すぐにバイオリンが着いてきた。
三拍子なのに堂々として、輝くような和音!
へえ・・何だかかっこいい・・・ピアノも一番の一楽章より華麗だ。
「うん、こっちも好きだけどね。」
「一番には何か大事な思い出があるとか?一晩泣いた相手?」
まりあがいたずらっぽく聞いた。
「ハハ・・ご想像におまかせします・・だな。とにかく日本にいる間にやってみたいんだ、それだけ。」
「・・うまくはぐらかしてるな・・・ハハ・・須江さん、ブラームスは他に聴いた事ある?」
上邑の言葉に、麻子はうっと詰まった。
「えっと、この曲とピアノ曲くらい・・・シンフォニーは一番をコンサートで聴いた事がある・・かな?」
「がむしゃらに練習しても、テクニックで弾ける曲じゃないから、違う所から勉強していくのも得策だな。
ソロもいいけどブラームスのアンサンブル曲、この際いろいろ聴くと楽しいよ。 向こうでこれまで
あまり聴こうと思わなかったブラームスの合唱曲をいろいろ聴いたけどね、これがいいんだ。」
「どうしてもピアノ曲ばかり聴いちゃうのよね、私たちって。としはいろいろ聴いているけど・・・
何か持ってたら貸してあげたら?」
「・・・コンチェルトくらいしか無い。」
どうも今日の季晋はとりつくしまがない。
上邑やまりあは、いろいろとアドバイスをくれるのに、まるでケチを付けるようなあの言い方!
そりゃあ、いろいろ心とは裏腹の事をしゃべっていた去年の今頃よりは、ずっとマシだが。
いったい、私達って、幼なじみ以上にはなれないのかな、って思ってしまう。
それにしても・・・
三村のこと、三村の‘夢’、季晋はどう思っているんだろう。
・・・ちくんと胸を刺す痛み。
「それじゃ須江さん、今度は連絡してから来るから、さらっておいてよね〜?!
あ、今日はごちそうさまでした。お世話になりました。」
むっ、祖母の方に振り返っていう態度がやたら丁寧だ。
なんだこいつ!とも思ったが、正月でまだ食事が出ない寮に帰る三村のために、麻子は祖母に頼んで
サンドイッチの残りやらを包んでもらい、彼に持っていってもらった。
また当分会えない上邑とは握手して、
まりあからは「コンサート、楽しみにしてるから」と頬にキスされて、
季晋はいつものように「それじゃ」とだけ。
賑やかな時間が過ぎていった。
「としの顔、見た?あれはどう見たって、オレ以外麻子とケンカするのは許さない、って言ってる顔ね。
そうそう見られない顔で面白かったわ。」
帰路、冷たい雨が落ちていた。
まりあが差した傘を、上邑はすっと手に取った。
「全然進展してない感じだね。仲直りはした、って聞いてほっとしてたのに。
からかいすぎて申し訳なかったかな?」
「私たちのおかえしに、ここは背中を押してやろうか、なんて思っていたけど、その必要は無いみたい。
ちゃんと刺激剤が現れたようだし。もっとも、別の意味でもとしにとってはキツイ相手ね。」
交差点で立ち止まって、上邑は少し考え込んでから答えた。
「いや、似たもの同士さ。・・・‘雨の歌’か・・・本番が聴けないのが残念だなあ。」
「去年は、恭二、何弾いたの?」
「・・・いや、卒業式終わって一刻も早く逃亡したかったから。」
「・・・・そっ。」
上邑は空いている腕をまりあの肩にまわし、横断歩道を渡りはじめた。
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