1054年のキリスト教東西分裂

この時の双方の反目の経緯は次のようであった。

ローマ教皇レオ9世は,南イタリヤへのノルマン人の進出がローマに対する脅威となると共に東西教会関係の悪化にもなると考え(南イタリヤはもともとビザンテイン帝国の領地),ノルマン人勢力と対抗する為ビザンテイン帝国との軍事同盟を結ぶ為この年,ビザンテイン帝国の首都であり東方教会の主教座であるコンスタンテイノーブルに特使(フンベルトウス)を派遣した。しかし,一方ではローマ教皇がノルマンとの戦いに敗れ,ノルマンとの間に和平が結ばれ,更にはレオ9世が死去する事態が発生した。

他方ビザンテインでは神学上の問題並びに西方教会の東方教会に対する優位性を巡りローマ教皇の特使とヴィザンテイン皇帝ケルラリオスとの間で大論争が起こり、特使が皇帝を破門,これに対し皇帝ケルラリオスは主教会議を召集し、特使を破門すると言う事態となった。この事件をもって東西教会が分裂したと言われている。しかしながら,東西教会の分裂は、その要因が数世紀前から醸成されたものであり,また,この時を持って分裂が決定的になったものでもないとの意見が多い。1204年の第4次十字軍によるコンスタンテイノーブルの略奪、破壊が亀裂を一層深める結果となったが,それ以降も双方で亀裂の修復に努める努力が続けられた。言い換えれば,東西教会の合同に向けての努力が色々な機会に試みられたわけである。

しかし,神学上で双方がどうしても譲れない問題とローマの優位性(Primacy ローマ教皇が正しい教義を決定する究極の審判者であり,キリストの教会における直接,普遍的裁治権を行使すると言う主張)は,東方の正教会にとって結局受入れられないものであった。

そうこうしているうちに1453年コンスタンテイノーブルが陥落し,実質的にビザンテイン帝国が崩壊し,亀裂が深まったままで東方正教会の主流はロシアに移ることとなった。

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