この点に関し経緯を少し詳しく説明する。
東西両教会を取り巻く幾つかの重要な環境の変化を年代を追ってみてみよう。
西暦(年) |
出来事 |
備考 |
313 |
ローマ帝国キリスト教公認 |
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325 |
第1回公会議(ニカイア公会議) |
キリスト教に関する重要事項の決定 |
330 |
ローマ帝国の首都をローマよりコンスタンテイノーブルに遷都 |
コンスタンテイノーブルの繁栄、重要性の高まり |
395 |
ローマ帝国の東西分離 |
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476 |
西ローマ帝国滅亡 |
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7 世紀 |
バルカン半島にスラブ南下 |
ビザンテイン帝国への脅威 |
7 世紀― |
東方よりオスマントルコの脅威 |
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787 |
第 7回公会議(第2回ニカイア公会議) |
東西教会の教義上の対立 激化 |
771 |
シャルルマニューフランク国王となる |
ローマ教皇勢力圏 ,影響力の拡大 |
9 世紀末― |
ノルマンの侵攻始まる(フランス ,地中海沿岸等) |
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962 |
神聖ローマ帝国成立 |
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11 世紀 |
ノルマンの南イタリア旧ビザンテイン帝国地域に勢力拡大 ,ギリシャ本土への上陸 |
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このようにしてみれば
,東西両教会(ローマとコンスタンテイノーブル)は,キリスト教が公認された時点から対立の要因をはらんでいたとも言えるのではないか。