東西教会の分裂は、その要因が数世紀前から醸成された

この点に関し経緯を少し詳しく説明する。

  1. ローマ帝国全域に広がったキリスト教は,東方と西方で地域的・文化的背景の違いから徐々に独自の傾向を示していったが,帝国の分裂を経てその差異は大きくなった。それは神学,信仰・教会生活上の慣習,教会と国家の関係に現れた。
  2. 東西両教会を取り巻く幾つかの重要な環境の変化を年代を追ってみてみよう。

    西暦(年)

    出来事

    備考

    313

    ローマ帝国キリスト教公認

     

    325

    第1回公会議(ニカイア公会議)

    キリスト教に関する重要事項の決定

    330

    ローマ帝国の首都をローマよりコンスタンテイノーブルに遷都

    コンスタンテイノーブルの繁栄、重要性の高まり

    395

    ローマ帝国の東西分離

    476

    西ローマ帝国滅亡

    7世紀

    バルカン半島にスラブ南下

    ビザンテイン帝国への脅威

    7世紀―

    東方よりオスマントルコの脅威

    787

    7回公会議(第2回ニカイア公会議)

    東西教会の教義上の対立激化

    771

    シャルルマニューフランク国王となる

    ローマ教皇勢力圏,影響力の拡大

    9世紀末―

    ノルマンの侵攻始まる(フランス,地中海沿岸等)

    962

    神聖ローマ帝国成立

    11世紀

    ノルマンの南イタリア旧ビザンテイン帝国地域に勢力拡大,ギリシャ本土への上陸

     

    このようにしてみれば,東西両教会(ローマとコンスタンテイノーブル)は,キリスト教が公認された時点から対立の要因をはらんでいたとも言えるのではないか。

  3. 1054の分裂(Schism)について次のような解説がある。
  1. どちらの側にも1054年の諸事件が決定的な分離をはっきりさせたと考える世論はなかった。エルサレムにおいて,その土地の正教会がラテン系の総大司教管区を認めるのを辞めた188年までは分離は存在しなかった。
  2. この時の破門は,個人を対象にしたもので、組織としてのビザンテイン教会とローマ教会を含むものではなかった。
  3. 主にバルカン半島へのノルマン人の侵入,イタリアの沿岸都市の商業的帝国主義(ヴェネテイア、ジェノヴァ),そして特に十字軍の結果として,12世紀に相互の敵意が強くなったのも事実。

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