10月23日 「福音を示す教会」 イザヤ書40章6-11節、使徒言行録8章26-40節
東方敬信牧師
イザヤ書40章
6 呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
7 草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
8 草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9 高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神
10 見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
使徒言行録 8章
26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの交換で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、
28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読してるのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
32 彼が朗読していた聖書の箇所はこれである。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
毛を刈る者の前で黙している子羊のように、
口を開かない。
33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。
だれが、その子孫について語られるだろう。
彼の命は地上から取り去られるからだ。」
34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
37
38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。
伝道しない教会は教会ではない。教会は伝道することによって教会となる。伝道とは毎日のことで、一人ひとりが一人を礼拝に招く、信仰の証しの業をもって人に接する。このことが大切で、確実な伝道の業である。
フィリポは伝道者ではなかったが、人々の世話をし、良い家庭を作り、福音を証しした生活を送った。今日の聖書の箇所では、フィリポが聖霊に導かれ、エチオピアの高官(宦官)を信仰に導いた様子を描いている。世俗の一切の権限を与えられていた宦官は、彼を取り巻く人間不信の世界で神の前で自分の人生の基本を取り戻そうと決心しエルサレムに上ったが、ユダヤ教の制約のために望みかなわず、失意のうちにイザヤ書を朗読しながら帰途についた。フィリポは宦官の馬車と一緒に並んで歩き、宦官の求めに応じて「イエスについて福音を告げ知らせた」。イザヤ書の有名な主の僕の箇所で、ここに示されているような、黙黙として屠られる子羊の姿で孤独や、病みにある人々の側に自ら近づいて一緒にいてくださるイエスを語ったのである。
39節の「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」は、宦官がイエス共にいますことを信じ、勇気を得て日々の生活に戻ったことを伝えている。日本では今でも聖書はベスト・セラーである。立ち止まって自分を見つめ直したいと思う人々は多い。この宦官のようにイエスに出会い喜びあふれて旅を続ける証し人としての歩みを進めたい。
背景の旋律は,1835年出版のシェイプ・ノート聖歌集『サザン・ハーモニー』においてニュートンの歌詞に配された「ニュー・ブリテン」(New Britain)と呼ばれる曲です。詳しくは、讃美歌第2編167番を参照ください。