後篇


第十六回

飛鳥を瞻て爲朝女國へ渡る
(ひちやうをみてためともにようごのしまへわたる)
靈夢に因て長女和語を譯
(れいむによつてによこやまとことばをとく)
 鎮西八郎為朝が伊豆の大島に流されてから、十年が経過した永万元(1165)年三月、為朝は自ら伊豆の島々を見回ることにした。そして見付島(三宅島)に逗留し、沖に向かって飛ぶ鳥を見て、これより南にも島があることを知る。島長は女護島(にようごのしま)と鬼が島についての言い伝えを教えるが、黒潮を越えるのは困難だとして為朝を止める。しかしそんなことには聞く耳を持たない為朝は、従者を四人つのって出帆し、一夜にして怪しげな島に到着する。
 船を陸に引き上げた為朝は、森を分け入り人里を発見し、女達の機織りの歌を聞く。為朝の笑い声を聞いた女達は逃げるが、そのなかで一人だけ逃げない女性がいた。この女子は日本人の言葉で、ここがいわゆる女護島であることを教え、いぶかしげな為朝に、昨夜の夢で為朝の到着を告げられたことと、日本語を教えられたことを語る。そのお告げは、天照大神の示現だった。


第十七回

勇婦刀を振て山猫忽死す
(ゆふふかたなをふるつてやまねこたちまちしす)
猛將計を定て夫婦全聚る
(もうせうはかりごとをさだめてふうふまつたくあつまる)
 為朝は、この島に男がいないことを訝り、女子に尋ねる。男の島東七郎三郎の長女(をのしまひがしのしつちやうさぼりのによこ)という名前のその女は、島の縁起について答える。
長女の話:かつて秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて、徐福に財宝と五百人ずつの男と女の童を齎して東海に遣わした。徐福は熊野に到着したが、不老不死の薬はなかったため、女の童をこの島に、男の童を二十里ほど向うの島に捨ててしまった。彼らはそれぞれ夫婦となったが、同居するときは海神の祟りがあるという言い伝えのために、男女別れてくらし、一年に一度だけ男の島人が渡ってくるようになったのだ。また男の島東七郎三郎の長女という名前は、男の島の東の郷に住む、七郎の三男、三郎の長女という意味で、そういった名付けかたしか存在しないのであった。
 為朝は、長女に島言語を教えられ、男の島人と一緒に住んだほうが良いと提案するが、皆は海神の祟りを恐れて、賛成したのは長女だけだった。彼女は非常に勇気のある女性で、従弟女の子供を食べた妖怪を退治したこともあり、島の悪い風習にも反発を覚えることがあったのだった。そんな長女を気に入った為朝は、島人に夫婦が同居しても祟りがないことを示すためとして、彼女を妾にする。一年ほどして長女は太郎丸・次郎丸(たらうまる・じらうまる)という双子の男児を生んだ。これで祟りがないことを島の女に証明した為朝は、さらに男の島に渡る。


第十八回

海東の磯に一箭州民を伏す
(かいとうのいそにいつせんしうみんをふくす)
大児が島に三郎英雄を認る
(おにがしまにさほりえいゆうをみしる)
 永万二(1166)年、為朝は女護の島を出て、さらに南の男の島に渡る。そこで島の男達に取り囲まれ、出て行くように脅迫されるが、為朝は弓を引いて巨大な巌石を破壊してみせ、四男五郎(しようごらう)ら島人を敬服させる。
 そこに、額に角のような瘤を持つ四十歳ほどの大男が現れる。長女の父・東の七郎三郎だった。彼は為朝の到着を知って、もてなしの魚を捕ってきたのだった。為朝は七郎三郎に、娘を妻にしたことを告げ、夫婦が同居しても海神の祟りはないことを島人らに証明する。さらに両島の男女の三分の一を男の島に、残りを女護島に住まわせることにし、この男の島を芦が島と改名する。


第十九回

爲朝の武威痘鬼を退く
(ためとものぶいもがさのかみをしりぞく)
忠重罪せられて十の指を失ふ
(ただしげつみせられてとをのゆびをうしなふ)
 為朝は七郎三郎や四男五郎ら、芦が島の三分の二の島人を従えて、女護の島に戻る。島人はそれぞれ再会を喜び合い、七郎三郎も長女とその子供たちに対面する。そして女の三分の一を芦が島に送り、本意を遂げた為朝は、大島に帰ることを決める。世間を憚って長女や太郎丸次郎丸を伴わず、島の支配と長女母子の後見を四男五郎夫婦に任せ、七郎三郎を鬼夜叉と改名させて伴わせることにする。女護の島は八郎の名前を取って、はつちやう島(八丈島)と名付けられた。
 沖にある卯木島で長女と太郎丸次郎丸と最後の別れをした為朝は、そこで痘鬼(もがさのかみ)が上陸するところに出会い、一喝して平伏させる。痘鬼は為朝の船で伊豆に帰されたため、八丈島には以後も天然痘は存在しないことになった。
 為朝が音信不通の間、三郎太夫忠重は再び茂光に帰参し、大島には苛政が敷かれていた。しかし為朝が無事に帰ってきたため、忠重はついにその罪を問われることになった。簓江の立場を考えた為朝は、忠重の死罪を免じて、鋏で十本の指を切り落とし、幽閉することにした。さらに為朝は、茂光に対しても怒りを覚え、鬼夜叉を伊豆の国府に遣わして、その鬼のような容貌で人々に騒がせた。


第二十回

忠重潜に伊豆の國府に走る
(ただしげひそかにいづのこふにはしる)
義康書を大島の謫所に遺る
(よしやすしよをおほしまのはいしよにおくる)
 嘉応二(1170)年の春を迎えた。為朝の嫡男為丸は九歳となり、元服して島冠者為頼(しまのくわんじやためより)と名乗ることになった。為朝はこの慶賀を機会に、簓江に懇願されていた忠重の恩赦を認めるが、そのときにはすでに忠重は伊豆の国府に走っていた。父の逃亡を恥じた簓江は自殺しようとするが、鬼夜叉の説得で思い止まる。
 茂光との戦いが予想された大島では臨戦体制が整えられるが、なんの音連れもないまま、四月となった。そのある日、怪しげな男が捕らえられた。茂光の間者とも思えない為朝は、その男と人払いして会見する。男は下野の武士、足利義康(あしかがよしやす)の郎党、梁田二郎時員(やなだのじらうときかず)というもので、義康からの書簡を携えてきたのだった。これは茂光が為朝討伐の勅命を得て大軍を整えていることを伝える文書だったが、さらに加えて、為朝の子息を養子として給わりたいということも書かれていた。為朝は次男の朝稚を義康に遣わすことに決め、ある方法で朝稚を捨て、対岸の下田で時員に拾わせることにした。これは、為朝が恩愛に惑溺し子供を預けたとも、義康が朝敵の子を養ったとも言われないための配慮だった。為朝は証拠として[王當]反(こじりかへし)の短刀を預ける。


第二十一回

爲頼前栽に紙鳶を弄
(ためよりぜんさいにいかのぼりをもてあそぶ)
八郎苦計朝稚を遣
(はちらうくけいともわかをやる)
 為朝の子、為頼と朝稚は、作った紙鳶(いかのぼり・凧)を野島の館の前栽で揚げようとしていた。これをみた為朝は、風筝(うなり)として秘蔵の笛を紙鳶につけさせようとするが、朝稚はその笛を取り落とし、割ってしまう。これを見た為朝は大いに怒り、簓江や鬼夜叉、為頼島君らの諌めも聞かず、朝稚を紙鳶に括り付けて飛ばしてしまう。折りからの強風で朝稚を付けた紙鳶は下田に向かって舞い上がる。そして為朝が、留める四人を乗り越えて、伸び切った縄を切り離すと、紙鳶は雲の中と消えていった。
 そのとき、下田の浦から狼煙が上る。これが、梁田二郎時員が朝稚を受け取ったことを示す合図だった。計画どおりに事が運んだことに安心する為朝。簓江や鬼夜叉は、為朝と時員の密談を立ち聞きして知っていたものの、朝稚との今生の別れを悲しんだ。
 そのとき、沖の鴎がにわかに騒ぎ出した。斥候が忠重、茂光、北條らの旗を立てた船団が近づいていることを伝える。ついに為朝討伐の軍勢がやってきたのだ。為朝は最期の覚悟を決めて、館に戻る。


第二十二回

船を棄て孝子志を述
(ふねをすててこうしこころざしをのぶ)
舘を焼て忠臣主に代
(たちをやいてちうしんしゆうにかはる)
 工藤茂光率いる官軍は五百騎あまり。為朝は、為頼と島君を左右に侍らせて、簓江の酌で最期の盃をめぐらす。大島で従った者たちに暇を取らせ、鬼夜叉に放火の準備をさせ、為朝は一人残った従卒を連れて、渚に向かう。鬼夜叉は、為朝とその家族を八丈島に落とす準備をする。
 渚に出た為朝は、三郎太夫忠重の船を弓で射通して沈ませる。この注進を聞いた簓江は、為頼と島君に護身袋を与え、鬼夜叉に託す。簓江の必死の覚悟を感じた鬼夜叉は、二人の子供を船底に潜ませ、為朝のもとに向かい、自らが為朝の身代わりに自決する覚悟を表明し、簓江たちも先に脱出したと偽って、為朝を船に乗せる。
 館では、簓江が香を炊いて経を詠んでいた。鬼夜叉は簓江に、為朝と二人の子供が無事に脱出したことを告げ、介錯の準備をする。そのとき、とつぜん為頼が現れる。簓江の自決の覚悟を護身袋の遺書から知り、自らも死んで為朝の逃亡を助けるため、島君を置いて帰ってきたのだった。為頼は切腹し、簓江もそれに続く。この不幸な母子に自らの娘と孫の面影を見て悲しみつつも、心を鬼にして介錯した鬼夜叉は、館に火をかけ、立ちながら腹を切り、業火の中に消えていった。
 寄せ手の官軍は、館の出火を見つつも、罠ではないかと左右なく入らず、耐え兼ねて突入した加藤次景廉(かとうじかげかど)が焼け焦げた大男の首を取った。嘉応二(1170)年四月下旬のことであった。その首は為朝の首とされ、その年の五月、京に送られた。そのころ巷では次のような落首が流行した。
 みなもとは朽ちはてにきとおもへども
    千代の為朝みるげかりけり
 鬼夜叉に騙され、簓江たちの後を追うために船に乗った為朝は、八丈島の枝島・来島(卯木島)に到着する。そこで船底に潜んでいた島君を発見し、その懐から為頼と簓江の遺書を見つける。為朝は自分だけ生き長らえたことを恥じ、島君と心中しようとしたが、そのとき一艘の船が、八丈島の方から現れる。


第二十三回

海岸孤客を慕ふ水晶花
(かいがんこかくをしたふすいせうくわ)
池水三尊を現ず並頭蓮
(ちすいさんそんをげんずへいとうれん)
 為朝の自殺を止めたのは、四男五郎だった。為頼と簓江の幽魂により、為朝の自殺を知らされてやって来たのだった。四男五郎は為朝を陸に降ろし、長女と二人の息子を呼んでこようと八丈島に戻る。残された為朝は、讃岐国の新院の陵で腹を切ろうと考え、島君をつれて船出する。
 四男五郎に連れられて来島にやってきた長女は、遺された一張の弓と二條の矢から、為朝が去ったことを知り、泣き崩れ、身を投げようとする。そのとき松の梢から老翁が現われ、十年後平氏が滅亡して源氏の世の中となったとき、内地に渡って為朝の遺児を訴えるように、長女に告げた。こうして長女は太郎丸二郎丸を育てることを決意し、八丈島に戻る。
後日譚:平氏が滅びた後、太郎丸と二郎丸は、北條時政に為朝の庶子であることを訴え、頼朝によって太郎丸は大島の、二郎丸は八丈島の領主に命じられた。また朝廷から為朝勅免の知らせと、八郎大明神という神号を授かり、二人は島に戻る。宿望を遂げた長女は入水する。二郎丸は出家し、八丈島の政を四男五郎に任せ、弥陀寺を建立してその住持となり、後の世宗福寺と改められる。また太郎丸は大島太郎為家、のち為政と改め、大島の領主となり、保元の乱で死んだ為朝の郎党の子孫を大島に呼び寄せ、長く栄える。


第二十四回

渦丸夜逢日の浦を閙す
(うづまるよるあふひのうらをさわがす)
島君潜に尾張路に赴く
(しまぎみひそかにをはりぢにおもむく)
 為朝は島君を抱いて航海を続け、嘉応二(1170)年の秋、讃岐国多度郡の逢日の浦に到着する。浦には一艘の泊船(とまりふね)が停泊し中で酒宴を開いており、為朝はそのそばで島君の世話をしながら夜を迎える。
 そのとき、四国の強盗、蜘手の渦丸(くもでのうづまる)という男が手下を連れて泊船を襲撃した。初老の主人とおぼしい人物とその郎党らは抵抗するが、渦丸一味の前に危機に陥る。事件に気がついた為朝は、助太刀に入り、瞬く間に渦丸らを追い払う。
 主従の危機を救った為朝は饗応を受けるが、そこで主人に正体を見透かされてしまう。その主人は、熱田大宮司藤季範(あつたのだいぐうじとうのすゑのり)という兄義朝の舅であったので、為朝は安心して今までの出来事を話す。大宮司は島君を熱田に迎え取り、孫の犬稚丸(いぬわかまる)と婚姻させることし、為朝に立派に新院の陵の前に立てるように為義の形見の礼服を与える。為朝は島君と大宮司に別れを告げて、陸に上がる。
 熱田に帰った大宮司は島君を育て、島君十六歳、犬稚丸十八歳のときに婚姻が執り行われ、犬稚丸を為朝の後継として源義實(よしざね)と名乗らせ、上西門院の判官代に補される。


第二十五回

壮士人を知て割符を與ふ
(そうしひとをしつてわりふをあたふ)
八郎死を決して靈墳に詣
(はちらうしをけつしてれいふんにまうづ)
 大宮司と別れた為朝は、松山を過ぎて白峯の陵に到着する。そのとき年齢二十二、三の旅人が為朝を呼び止める。男は為朝を渦丸ら賊を退治した勇士と認めて、肥後国益城郡木原山にいる主人と面会するように割符を与え、去る。
 日暮れ頃、為朝は新院の陵に参詣し、腹を切ろうとするが、突然手足がしびれ、雷の合間から四、五十騎の武者と輿に乗った貴人が現れる。その貴人こそ在りし日の新院であり、玉座の左右に控えるのは藤原頼長や平忠正、そして為義と息子たちといった、保元の乱で死んだ者たちだった。彼らは義朝を新院の存命中に誅したこと、そして平家を支える重盛の命を十年以内に定め、清盛をさらに暴走させること、その討伐を為朝に任せたいが、頼朝の天運が強く介入が不可能なこと、ただし義朝の不孝の為に三代で滅びること、そして朝稚丸の子孫、足利氏に天下を取らせること、為朝の未生の末子が或る国の君となることなどを伝え、為朝の自殺を留め、肥後国に向かうように指示する。為朝が承諾しすると、新院、為義らは鬼火となって消えていった。
 のち京では怪奇現象がたびたび起こり、治承元(1177)年新院は崇徳院の追号を受ける。また同三年には重盛が死に、ほどなく平家は滅亡する。そして義朝、頼朝、頼家、實朝らはすべて改元の年に死去する。


第二十六回

窮士雪中に野猪を殺す
(きうしせつちうにゐのししをころす)
猟師黒夜に村酒を饋る
(れうしこくやにゐなかさけをおくる)
 嘉応二(1170)年十一月、讃岐の松山を出た為朝は、十二月に肥後に到着し、阿蘇神社に詣でる途中、旅人が言っていた益城郡木原山にさしかかる。そのとき雪の中を、手負いの野猪が現われ、為朝に向かって突っ込んできた。為朝は猪の突撃を躱し、その退治する。そこに弓を持った猟師が現われ、為朝に感謝の印として酒を勧める。
 猟師と別れた為朝は再び山を登るが、酔いに絶えずふらつく中、鉤索に足を掛けられ、女に捕らえられる。その女は先ほどの猟師の妻であり、猪と為朝を連れて山寨に向かう。
 寨の広庭で為朝を目覚めさせた猟師夫婦は、主人である三十歳ばかりの美しい尼と、五十歳ばかりの大男が現れる。尼は家隷夫婦を猟師に変装させて、役に立ちそうな旅客に毒酒を盛って寨に招き、今では二三十人の部下を従えていたのだった。尼は為朝にも部下になるように要求する。
 尼のあまりの猛々しさを訝った為朝は、彼女と目を合わせ、大いに驚く。実はその尼こそ、為朝の妻・白縫で、従う男は紀平治であったのだった。


第二十七回

木原山に亡妻亡夫に遇ふ
(きはらやまにぼうさいぼうふにあふ)
益城郡に猛卒勇將を得たり
(ましきのこふりにもうそつゆうせうをえたり)
 縛めを解かれた為朝は、白縫に生きている理由を尋ねる。白縫は野風と八代の助けによって太宰府から逃れたこと、武藤太を殺したこと、千貫の旅館で為朝を救おうとしたこと、新院に会って示現を得たこと、そして肥後国に潜伏したころに出会った高間四郎の子・太郎原鑑(たらうもとあきら)に、腰元・磯萩(いそはぎ)を妻として、旅客を捕らえて寨に連行するようにしたこと、さらに昨夜夢の中に女性が現れて、為朝に会えると伝えられたことなどを話した。高間は誤って為朝を縛めたこと、さらに讃岐で割符を与えていたのに忘れていたことを恥じるが、為朝はそれをなだめる。さらに為朝は、白縫が夢の中で女性から得たという、袿と髑髏を見て、これらが簓江の物であることを知る。為朝は白縫らに簓江をはじめとする大島以降の出来事について話す。
 そして為朝は、高間と紀平治とともに、山寨に留まっている勇士たちと会見する。白縫は尼の姿を捨てて、再び為朝の妻になる。


第二十八回

白鶴瑞を呈して舜天降誕す
(はくかくずゐをあらはしてしゆんてんかうたんす)
赤心神に祷て朝稚起程す
(せきしんかみにいのりてともわかかしまだちす)
 次の日、紀平治と高間太郎は、挙兵して九州を再び統一することを為朝に進言し、白縫も伊豆へ行って工藤茂光を倒すことを進言するが、為朝はただ清盛の討伐のみを目標とし、潜伏を続けることにする。また簓江の髑髏を葬ろうとした白縫は再び夢を見、それに従って祠堂に収めておく。
 そして二日後、為朝は白縫と高間磯萩をともなって、阿蘇の神社に詣でる。するとその月から白縫は身ごもり、嘉応三(1171)年秋に男子が出生する。そのとき丹頂鶴が屋敷に現われ、南の空に飛んでいった。為朝は子供の名を舜天丸(すてまる)と呼び、紀平治に養育させる。木原山は雁回山とも呼ばれるようになり、為朝の寨跡が残っているという。
 さて、嘉応二(1170)年四月に、伊豆の下田で朝稚を受け取った梁田時員は、下野に帰り足利義康に復命する。義康は朝稚を私生児と称して家臣と対面させる。朝稚は養父の元でつつがなく育ち、安元二(1176)年をむかえた。あるとき朝稚は、夢の中で童子と出会い、幣(ぬさ)の向きに歩けば母に会えると告げられる。目覚めた朝稚は幣を現実に発見し、養父義康にそのことを話す。神の示現を信じた義康は、朝稚に為朝の形見の[王當]反(こじりかへし)の短刀を与え、時員を伴わせて、旅立たせる。幣は西を示しつつ、朝稚と時員主従は豊後と肥後の境、宮原という田舎をとおる。


第二十九回

路傍に病て時員殃に遭ふ
(ろぼうにやみてときかずわざはひにあふ)
籃に装られて朝稚仇を殺す
(かごにもられてともわかあたをころす)
 宮原を過ぎて、阿蘇に向かう朝稚と時員だったが、そこで時員はにわかに心痛を覚え、いよいよ死を待つばかりとなり、路傍で朝稚の看病を受ける。そのとき、六年前為朝に退治されたはずの蜘手の渦丸が現れ、朝稚の美しさと身なりのよさにたちまち悪心が起こり、良薬があると偽って、朝稚を連れ出し、猿轡をはめて魚籃(ふご)に閉じ込められてしまう。残された時員は、朝稚のことを心配しながら待っていたが、そこに現れた渦丸に刺し殺されてしまう。
 それを魚籃の中から見た朝稚は、体の縛めをなんとか解いて、為朝の短刀を用いて渦丸を刺し、時員の仇をとる。遺体を魚籃のなかに葬り、一人で旅を続けようとした朝稚だったが、道標の幣を失ってしまう。ところが燐火(おにび)が現われ、朝稚を木原山の山寨に導く。そのとき為朝と紀平治らは留守であり、白縫と六歳となった舜天丸が庭で遊んでいた。


第三十回

鴈回山に孝童父母を索
(がんくわいさんにこうどうふぼをたづね)
水俣濱に漁夫爲朝を祀
(みつまたのはまにれうしためともをまつる)
 白縫に故郷を尋ねられた朝稚は、隠すことができず為朝の子であることを明かす。信義に厚い為朝は、一度捨てた子供には会わないだろうと考えた白縫は、舜天丸にも為朝の名を出さないように止め、朝稚を歓待する。朝稚も女人が白縫であることにうすうす気がついてきたが、為朝のことを慮って名乗りあわないことにした。
 白縫は、簓江の髑髏と袿を朝稚に見せる。母についに対面した朝稚は、涙を流す。白縫もあからさまに名乗りあえない運命を悲しみ、舜天丸ももらい泣きする。結局互いに名乗りあわないまま、白縫は朝稚に為朝の目抜と割籠を与え、送り出す。
 朝稚を送り、悲しみにくれる白縫の前に、為朝が現れる。かねてから阿蘇より帰っており、白縫と朝稚とのやりとりの一部始終を聞いていたのだった。そして朝稚の口から為朝の潜伏がばれることを恐れた為朝は、ついに清盛を征伐する決意をする。
 父に会えないまま山を下りた朝稚は、そこで死んだはずの梁田時員に出会う。実は道標となっていた幣が、時員の身代わりとして刺されていたのだった。主従は再び木原山に行こうとするが、白雲によって遮られ、やむなく下野に帰る。
後日譚:朝稚が受け取った目抜は、八幡太郎義家の秘蔵した牛物というものだった。足利義康は、簓江の髑髏を葬り、為頼鬼夜叉らとともに供養する。[王當]反(こじりかへし)の短刀と牛物の目抜は、足利の家に相伝され、持氏から稲村殿に伝えられた。
 また朝稚は十四歳で元服し、足利太郎義包(あしかがたろうよしかね)と名乗った。身の丈八尺を越える大男で、頼朝に警戒されないように物狂いを装った。
 さて為朝は、上洛して清盛を夜討ちするため、主従三十人をつれて木原山を降り、水俣に赴く。為朝は名残を惜しむ漁夫から二艘の船を借り、一艘には為朝と白縫がのり、もう一艘には紀平治と舜天丸、高間夫婦がのって、出港する。ときに安元二(1176)年八月十五日であった。
後日譚:水俣の浦人は、為朝を敬慕して、矢八の宮を建立し、契り取られた為朝の直垂の袖を神体とし、八月十五日を祭礼の日とした。また葦北郡津奈木や、摂津伊丹、尾張闇森にも為朝八幡が建立されている。
 また甲斐国巨摩郡にある武田八幡宮にも、為朝の宮が存在するが、これは浅原八郎為頼(あさはらはちらうためより)のことであった。為頼は強弓の怪力であり、正応三(1290)年に京の紫宸殿にこもり、太政大臣為頼と記した矢を放って、自殺したという男であった。


後篇のトップへ

弓張月のトップへ