前篇


第一回

信西博覧韓非を好
(しんぜいはくらんかんひをよみす)
爲朝禀性射法に達
(ためともりんせいしやほふにたつす)
 源為義(ためよし)の八男、為朝(ためとも)は、天性の武勇の達人で身の丈七尺に達し、ときに仁平元(1251)年、為朝は十三歳になったばかりであったが、父為義もその将来に期待していた。また朝廷では、崇徳院が鳥羽上皇の意向で廃位され、親子の不仲が伝えられていた。ある日、新院(崇徳院)の御所で、信西(しんぜい)が韓非子を読むという知らせが届いたため、為義は後学のために、為朝を連れて聴聞に向った。
 講義が終わったあと、話題は古今の弓の名人の話となり、信西は今の名人として、安藝守C盛(あきのかみきよもり)、兵庫守頼政(ひやうごのかみよりまさ)の名前を挙げる。これを聞いた為朝は嘲笑い、自分こそが当代一の弓の名人であることを主張し、また飛んできた矢をつかむこともできると豪語する。信西は怒り、二人の瀧口で弓の名手、式成・則員(のりしげ・のりかず)を呼び、もしこの二人の矢を取れたら、自分の首を与えると為朝に約束する。
 為朝は矢を口で止めるなど、人間技とも思えない技術で四本の矢を防いで、約束どおりに信西の首を取ろうとする。これは為義に止められるが、この事件のために、為朝の名声は高まり、面目を潰された信西は為義・為朝父子を怨むようになる。


第二回

路に迷ふて狼の戦いを止め
(みちにまよふておほかみのたたかひをとどめ)
舎に伴ふて猴酒を勸む
(いへにともなふてさるざけをすすむ)
 信西の報復を恐れる為義は、為朝を筑紫に下らせることにする。乳母子の須藤九郎重季(すとうくらうしげすゑ)ただ一人を伴って、筑紫に赴いた為朝は、豊後国の尾張權守季遠(をはりごんのかみすゑとほ)を頼る。
 そうして三年がたった。仁平三(1253)年のある日、十五歳となった為朝は、木綿山(ゆふやま)に狩りをして路に迷い、そこで二頭の狼の子が鹿の肉を争っているのを見て、その争いを仲裁する。為朝にすっかりなついた狼を先導に山道を歩くと、歳は三十位の男に出会う。この男は八町礫紀平治(はつてうつぶてのきへいぢ)といい、祖先は琉球国の人で、礫の名手だった。紀平治は妻・八代(やつしろ)とともに、為朝を歓待し、猴が貯えた木の実から自然に発生するという猴酒を勧める。こうして為朝と紀平治は、主従の関係を結ぶ。そして狼は山雄・野風(やまを・のかぜ)と名付けられ、為朝の飼犬のような存在となる。


第三回

山雄首を喪ふて主を救ふ
(やまをかうべをうしなふてしゆうをすくふ)
重季躯を死して珠を全す
(しげすゑみをころしてたまをまつたうす)
 為朝は、狩りばかりして武道を忘れていることを須藤重季に諌められるが、これは尾張權守季遠を警戒させないためだった。そしてその歳も暮れ、久寿 元(1254)年の春になった。十六歳の為朝は、ある日も山雄を連れて木綿山に赴こうとしたが、不吉な夢を見た重季に止められる。そんな事に聞く耳を持たない為朝だが、せめて供をしたいという重季の願いだけは聞き入れ、主従は木綿山の紀平治の家に向かう。
 八代から紀平治が先に行ったことを聞いた為朝主従は、追いかけて山に入るが、楠の下で疲れて眠ってしまい、山雄が咆哮で目を覚ます。野生に戻った山雄が、為朝を襲おうとしたのだと早合点した重季は、走り寄った山雄を斬るが、その首は楠の梢にいた蟒蛇(うはばみ)を噛んでいた。山雄が吠えたのは実は危険を知らせるためだったと知った為朝と重季は恥じる。ほどなくにわかに雷雨となり、数百年を経た蟒蛇の中に珠があるという言い伝えを思い出した為朝は、重季に蟒蛇を裂くように命じる。珠を引き出した重季だったが、そのときに落ちた雷に撃たれて死んでしまう。
 自分の血気の勇によって二度も過ちを犯したことを後悔した為朝は、山雄と重季を弔い、珠を持って、ほどなく合流した紀平治とともに山を下る。松の枝に鶴が引っかかって悶えているのをみた二人は、放生会(はうじようゑ)として鶴を助けるが、その足についていた札から、祖先義家(よしいへ)が、前九年の役の亡者追福のために放った鶴だと知り、館に連れ帰る。


第四回

老猴塔に登りて主を辱しむ
(ろうこうたふにのぼりてしゆをはづかしむ)
病鶴[竹冠+如]を出て恩に答ふ
(びやうくわくかごをいでておんにこたふ)
 為朝は重季・山雄を喪ってから、鬱々と楽しまない日が続いたが、あるとき夢の中に女子があらわれ、自分を阿蘇の宮に放つと、妻と後盾を得る事ができると言った。この女子が鶴のことだと理解した為朝は、尾張權守季遠に阿蘇の宮に行くことを願う。かねてより為朝を恐れていた季遠は、阿曾三郎平忠國(あそのさぶらうたいらのただくに)という武士を紹介し厄介払いし、為朝は鶴を連れて肥後に向かう。  ここに、阿曾忠國の娘、白縫(しらぬひ)は十六歳の美しい女性であったが、心が勇ましく武術を好み、腰元にまで長刀を習わせていた。その白縫は猴(さる)を飼っていたが、腰元の若葉に欲情して襲い掛かり、捕えようとするが逃げられてしまう。その夜若葉は殺され、白縫は猴の仕業であることに気づく。忠國も大いに怒り、郎等たちを召し出して、猴を追わせたが、結局、猴は文殊院という古寺の五重塔に登ってしまい、射ることも捕えることもできない。そこで忠國は、塔の上の猴を射落としたものには、白縫を娶わせると触れ込んで、勇士を集う。  そこに現れたのが為朝だった。忠國に許しを得て、強弓を引くが、寺の住持に殺傷を止められる。そこで為朝は、夢を思い出して、鶴を放つ。鶴は見事に猴を仕留め、南の空に飛んでいった。そして為朝が源氏の御曹司であることを知った忠國は、よろこんで館に迎える。


第五回

白縫風流女兵を操る
(しらぬひふうりうぢよへいをあやつる)
爲朝勇敢九州を伏す
(ためともゆうかんきうしうをふくす)
 為朝を伴って館に帰った忠國は、白縫を娶わせる。婚姻の式が終わり、臥房(ねや)に案内された為朝は、桜の枝を持った十人あまりの腰元に打ち掛かられる。難なく受け流した為朝の武勇に感心した白縫は、為朝の妻になることを了承し、以後仲睦まじく暮す。
 こうして忠國の婿となった為朝は、尾張權守季遠をはじめ隣国の武士を服属させ、ついに一年あまりで九州を統一して、太宰府に居城を構え、鎮西八郎となのる。
 こうして久寿二(1255)年、為朝の九州での噂を聞いた京の信西は、上皇の院宣として為朝に鶴を進上させるように為義に命じる。為義からの使者を迎えた為朝は、それが信西の嫌がらせであることに気がついて、紀平治を釈明のために上洛させる。困った為義は、長男の義朝(よしとも)の進言に従って、陰陽師に鶴の行方を占わせ、上皇には百日の猶予を得る。
 鶴が琉球にいるという占いの結果を聞いた為朝は、ただちに琉球にわたることにする。もと琉球出身で、琉球の言葉を解する紀平治を伴って、為朝は琉球に向けて船出する。


第六回

紀平治計を獻て地理を説
(きへいぢはかりことをたてまつりてちのりをとく)
寧王女芋を饋りて寃苦を告
(ねいわんによいもをおくりてべんくをつぐ)
 為朝と紀平治の主従は、琉球にわたり、旅館に滞在して鶴の行方を探索する。ところがある日、持ってきた絹がなくなっていた。舊[虫レ]山(きうきうざん)に住むという道士・矇雲(もううん)の仕業であろうと聞いた為朝は、旅館を出て舊[虫L]山に入る。
 霧に包まれた山中で、足を踏み外して谷底に転落した為朝は、そこで十五歳ほどの娘とその母に出会う。彼女たちは実は、琉球の主・尚寧王(せいねいわう)の中城(なかくすく・皇太子のこと)・寧王女(ねいわんによ)と、その母の廉婦人(れんふにん)であった。彼女らは中婦君(ちうふぎみ・皇后のこと)と結託した矇雲によって、伝国の珠を盗まれ、その罪を問われて追放されていたのだった。為朝が以前蟒蛇から得た珠は、寧王女が紛失した珠とそっくりであり、また寧王女が養っていた鶴は、為朝の探していたものだったので、これらを交換する。寧王女は篭を背負って帰る為朝に、琉球芋(薩摩芋のこと)を与えて見送る。


第七回

紀平治船を逐ふて鐡丸を飛す
(きへいぢふねをおふてまろかせをとばす)
野加世馬を駭して桿棒を嚼む
(のかぜうまをおどろかしてよりぼうをかむ)
 寧王女と別れて浜辺を歩いていた為朝は、湊で日本船が出港しようとしているのを見る。帰国を急ぐ為朝は、山ではぐれた紀平治を捨て置いて、その船に乗る。旅館に戻っていた紀平治は、出港する船に為朝の姿を見て、泳いで追いかける。褌から縄をつけた鐡丸(まろかせ)を船に投げて、紀平治も乗船を果たす。
 期限の百日まであと十日余りになったころ、為朝は太宰府に帰る。白縫や忠國、紀平治の妻・八代などと再会を喜び合うあった為朝だが、紀平治ら二八騎を連れて、直ちに京へ向かうことにする。すると狼の野風が主人の裳を咥えて放さない。なにか不吉な予兆を感じる白縫たちだったが、為朝は父・為義に会うために京に出発する。


第八回

寶荘厳院に御曹司強弓を示す
(ほうしやうごんいんにおんぞうしごうきうをしめす)
白河山中に八町礫別離を悲しむ
(しらかはのさんちうにはつてうつぶてべつりをかなしむ)
 為朝は六条堀川の屋敷で、五年ぶりに為義と対面する。鶴は上皇に献上されるが、あっさりと放たれて、為朝の苦心はまったく無駄であった。そしてしばらくすると、為朝は九州征服の罪を問われることになり、謹慎を命じられる。信西のたくらみであった。
 そうするうちに、この年(久寿二(1255)年)七月二三日に、近衛院が一七歳の若さで崩御する。後継には新院(崇徳院)の皇子が噂されたが、結局新院の弟の後白河院が即位し、新院と鳥羽法皇との対立は一層激しくなった。為朝の抑留生活は次の年まで続いた。そして保元元(1256)年七月、鳥羽法皇は崩御し、新院はついに挙兵する。義朝は内裏方につき、為義は誘いを断れず、為朝をはじめとする義朝以外の息子を連れて、新院方につく。こうして、保元の乱が始まった。
 新院に呼ばれ、献策をした為朝だったが、左大臣頼長(よりなが)に拒まれ、結局敵を待ち構えることになる。七月十一日、C盛と義朝の軍勢に襲撃された為朝は、二八騎を従えてC盛の大軍を追い散らすが、多勢に無勢で、新院方は総崩れとなる。白河の山中まで敗走し、従うものは紀平治だけとなった為朝は、紀平治を白縫を守るために太宰府に落とし、みずからは滋賀の方へ落ちていった。


第九回

野風陣没して活路を開
(のかぜうちじにしてみちをひらく)
八代殿戦して飛矢に當
(やつしろしんがりしてながれやにあたる)
 為朝を西国に逃がすことを恐れる官軍は、菊池原田に太宰府を攻めるように命令する。保元元(1256)年七月二十三日、官軍の攻撃を受けて、白縫や忠國は漸く為朝の敗戦を知る。忠國は高間四郎(たかまのしらう)や吉田兵衛(よしだひようえ)らを率いて必死の防戦をするが、大軍の前には歯が立たない。忠國は八代らの腰元をつけて、白縫を落とし、館を焼いて自刃する。
 逃げる白縫を守って、野風は乱戦の中で討死する。その皮はのち菊池家の家宝となった。さらに八代も、流れ矢に当たり死ぬ。ついに白縫は取り囲まれもはや討死というところで、京から落ちてきた紀平治が現れて、白縫を救う。紀平治は妻の死を悼みつつも、白縫や腰元たちを伴って四国に逃れる。


第十回

爲朝単騎江州に走る
(ためともたんきごうしうにはしる)
藤市馬を認て北濱に到る
(とういちうまをみしりてきたはまにいたる)
 紀平治を九州に落とした為朝は、ひとり琵琶湖を北に落ちる。北濱まで逃れ、馬を放して神社の中で眠った為朝は、次の朝、ひとりの翁に発見される。この老翁は藤市(とういち)という猟師で、現在は人の狩ってきた獲物を革職人に渡すことを商売にしているが、もとは為義の馬飼であり、為朝が放った馬を見つけて、鞍から源氏のものだと気がつき、馬に来た道を戻らせたのだった。神社は実は八幡宮であり、その冥助によって救われたと、為朝は喜ぶ。藤市は一人身のため、為朝を荒川の宿所に潜ませることにする。


第十一回

楊梅瀑布に御曹司山[操(手偏→けもの偏)]を殺
(やまもものたきにおんぞうしやまをとこをころす)
石山温泉に武藤太舊主を賣
(いしやまのゆにぶとうだきうしゆをうる)
 為朝は藤市の家に潜伏したが、彼のもとに保元の乱のその後の風聞が入ってきた。捕えられた新院は讃岐国松山に遷されたこと、為義は頭を丸めて五人の息子とともに義朝に降伏するが、信西の策謀で全員が義朝に処刑されたこと、母君は桂川に投身自殺したことを聞いて、九州で再起を誓うが、さらに続いて太宰府も陥落し、忠國や白縫も死んだという情報を知り、なすすべもなく日を暮す。
 そのころ、藤市の家にやってくる猟師がいたが、その男が来るたびに為朝の弓弦が切れた。また彼が持ってくる獲物に傷がないため、為朝はその素性を怪しみ、蟇目(ひきめ。鏑矢のこと。魔除けに使われた)の法を試したが、気付かれて逃げられる。男が妖怪であることを知った為朝はそれを追い、楊梅の瀑布(やまもものたき)で仕留めるが、為朝も肩に矢を受けてしまう。
 宿所に帰った為朝だったが、山男との戦いで受けた矢傷が痛み出し、石山の温泉で保養する。藤市はその供に、甥で養子の武藤太(ぶとうだ)を選んだが、自分が世話をしている男が、為朝ではないかと勘付いた武藤太は、左手が右手より四寸長いという為朝の身体的な証拠を見つけ、領主の佐渡兵衛尉重貞(さどのひやうゑのぜうしげさだ)に通報する。重貞は三百人の軍勢で湯浴みする為朝を取り囲む。為朝は奮戦し、三十余人を打殺すが、矢傷がまだ癒えていないためについに捕えられ、後白河院のもとに引き立てられる。保元元(1256)年八月のことである。


第十二回

琴弾神社に武藤太美に逢
(ことひきのやしろにぶとうだたをやめにあふ)
觀音寺村に白縫女仇を殺
(くわんおんじむらにしらぬひめあたをころす)
 為朝をついに捕縛した後白河方の公卿たちは、為朝の処遇について詮議する。信西は死罪を主張するが、関白忠通(ただみち)の意見で、伊豆大島への流罪が決定し、為朝は再び弓を引けないように肘の筋を断たれ、伊豆の狩野工藤茂光(かののくどうもちみつ)に護送されることになった。
 為朝を売った武藤太は莫大な恩賞を乞うが、その忠も孝もない姿に嫌悪した重貞は、褒美を百貫だけ与えて追放する。武藤太は荒川の里に戻るが、藤市は自殺しており、そのことを憎む若者たちによって追い出される。京でもつまはじきに遭ったため、武藤太は友人で無頼の悪者、丈五・丈六(ぢやうご・ぢやうろく)兄弟の船に乗り、九州に向かうことにする。
 途中讃岐に停泊し、琴引の八幡宮に詣でた武藤太は、朝敵為朝を告訴したという忠をたてながら憎まれ、故郷や京を追い出された自分の薄命を怨むが、そこに忽然と琴の音が聞こえてきて、美しい女性が現れる。その容色に取り付かれた武藤太は、勧められるままに酒を飲み、前後不覚となる。
 この女性こそ、白縫であった。八人の腰元達によって隠れ家に運ばれ、気がついた武藤太に、丈五・丈六の首を見せ、逃げようとする武藤太を縛りつけ、指を一本ずつ落とし、体に竹釘を打込み、苦痛を与えて殺す。白縫らは護送される為朝を追って、伊豆に向かう。


第十三回

爲朝伊豆の大島に配さる
(ためともいづのおほしまにながさる)
白縫大に千貫の旅館を閙す
(しらぬひおほいにせんぐわんのりよくわんをさわがす)
 伊豆から上洛した狩野工藤茂光は、信西から策を授けられ、為朝を牢輿に乗せて伊豆に護送する。為朝は茂光の郎等に恐れられながら護送され、保元元(1256)年九月、駿河と伊豆の境にある千貫の郷まで到着する。
 ここで、ついに為朝に追いついた白縫は、合流した紀平治と八人の腰元とともに、警備の薄れた千貫の宿を襲撃する。家隷たちを追い散らし、牢輿までたどり着いた白縫主従だったが、中にいたのは為朝ではなかった。これこそが信西の授けた策であり、本物の為朝は既に伊豆まで密かに護送されていたのだった。望を失った白縫は、偽為朝の唇を断割り、茂光の追手から逃れていった。


第十四回

簓江粮を饋りて配軍を憐
(ささらえかてをおくりてさすらひひとをあはれむ)
爲朝島を領して酷吏を聴
(ためともしまをれうしてあしきつかさをゆるす)
 無事に為朝を伊豆まで護送した茂光は、大島の代官・島三郎太夫忠重(しまのさぶらうだいふただしげ)のもとに為朝を預ける。忠重は為朝の迫力に恐れをなし、為朝を島の山陰に押し込め、餓えるのを待つことにする。この忠重は酷吏だったが、娘の簓江(ささらえ)は心のやさしい女性で、島の娘らとともに、為朝を援助する。
 こうして保元二(1257)年の春となった。肘の傷も治った為朝は、またもや黄金の札を付けた鶴を見つけ、札に記された応援の漢詩を読み、返歌を記して放つ。そして、島人に野生の牛や馬の飼いかたを教え、島人の信頼を得た為朝は、忠重の屋敷に押寄せる。この勢いに恐怖した忠重は降伏し、簓江を為朝のもとに遣わせる。三年のうちに簓江は二人の男子と一人の女子を産み、為丸(ためまる)、朝稚(ともわか)、島君(しまぎみ)と名付けられた。為朝は大島に善政を敷き、さらに伊豆諸島のすべてを従える。


第十五回

白縫潮を志度に汲む
(しらぬひしほをしどにくむ)
新院生を魔界に攀給ふ
(しんいんしようをまかいにひきたまふ)
 千貫の郷を騒がし、茂光の追手を退けた白縫は、紀平治らと讃岐国にもどり、讃岐院(新院)を盗み取る計画を立てるが、警備が堅く、なすすべなく平治元(1259)年を迎え、京では平治の乱が起こる。
平治元年十一月、信西と権力を争う中納言信頼(のぶより)は、義朝を語らって挙兵し、後白河上皇・二條帝を押込め、信西の首をとる。しかし、清盛が上皇と帝を救出し、待賢門の夜戦で破れた義朝は、尾張で殺害された。以後平家は栄華を極める。
 こうしてさらに時は過ぎ、長寛二(1164)年の八月を迎えた。そのころ、新院が夜な夜な直島の磯に現れるという噂を聞いた白縫は、直島に忍び込み、読経をする新院に会見する。新院は、自分が不孝を反省して都に送った歌を、呪詛だとして送り返した信西、また父を殺した義朝の不孝を憎み、魔王となって平治の乱を起こしたこと、さらに清盛に後白河院を押し込めさせ、栄華を極めさせて奢りの心をつけたこと、を告げる。そして為朝と白縫の守り神となることを約束し、三年のちには再会できるようにすると約束し、暗闇の中に消えていった。次の日新院は崩御した。


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