誰も居ない部室に招き入れると、田仲は物珍しげに内部を見渡した。
壁に掛けられた色々な年代の写真に目を付け、じっくりと眺め出す。
「あ、これ、松下だ!」
「ああ。夏の優勝の時のだ」
「じゃ、他のはやっぱり先輩達の?」
「そ、栄光の歴史ってヤツ。平松のお父さんのもあるよ」
「え、どこどこ?」
指差して教えてあげると、ケラケラと笑いだした。
「やっぱり似てるな〜。あれ、じゃあこっちの人って松下のとこの監督?若い頃から老けてるな〜」
ひとしきり笑い終わると、バッグを開けて着替えを取り出し始める。
田仲の着替えが見られる!とドキドキするオレの目の前で、しかし田仲の手は急に止まった。
「そうか…ここで渡しちゃおう」
小さく呟かれたた言葉に頭を捻りながら見ていると、田仲が再び動き出し、バッグの底から綺麗な手のひら大の紙袋を取り出した。
「これ、松下におみやげ」
笑顔と共に渡される。
「オレに?開けてもいい?」
「気に入ってくれると良いんだけど…」
はやる気持ちを抑えつつ、そっと袋を開ける。
出てきたのは綺麗な空色のバンダナだった。
「どうかな…?」
恐る恐る訊いてくる田仲の声も遠く聞こえるほど、オレは舞い上がってしまった。締めていたバンダナを外すと、今もらったばかりの物を締め直す。
「ありがとう!とっても気に入ったよ。どう?似合う?」
「うん。すごく似合う」
にっこりと微笑まれて、嬉しさが倍増する。
大好きな田仲からのプレゼント!絶対に一生の宝物だ!
「じゃ、さっさと着替えて帰ろうな」
おもむろに田仲が着替えだした。―バンダナにばかり気を取られていた所に、いきなり目の前にセミヌードを見せられ、思わずたじろぐ。
しかしすぐに、オレは別のものに目が行った。
ユニフォームを脱ぐために伸びきった田仲の脇腹に、ずいぶん薄くはなっているが、結構大きな黄色と青の痣が広がっている。
「田仲…その痣…」
「ああ、先週うちで練習試合があったんだけどさ、そん時の相手のディフェンダーにチャージされたんだ。すんげぇ痛かった。ま、試合の上だからしかたないけどな」
確かにチャージされるのはエースにとっては宿命だ。キャプテンが去年のインハイに出られなかった故障の原因もそのせいだったし、オレだってかなり強烈なチャージを受けてきている。
それにしても、この痕は酷過ぎる。
「大丈夫か?」
「見た目よりは平気だよ。流石に肘が入ったときは気絶しちゃったけどさ」
ケロリと言われて、かえって不安になる。
「ケガには気をつけてくれよ。お前はオレの一番のライバルなんだから」
「ん〜、まぁ一応は気をつけてるけど…。ケガなんて気にしてちゃサッカーは出来ないよ。ほら、さっきも擦り剥いちゃった」
笑いながら左肘を見せる。
先程まで長袖を着ていたので気付かなかったけれど、見せられた肘に貼られた真新しいバンドエイドには血が滲んでいた。
「いつの間に…」
「わかんない。どうやら前半のゴール前でらしいんだけどさ。オレも馬堀に言われるまで全然気が付かなかった」
小さく舌を出して着替えを再開する田仲を見ながら、不安がどんどん大きくなる。
―…嫌だ。田仲が傷つくのは、嫌だ。
窓の曇りガラスを通して、夕焼けが部室内を満たしている。
その濁った朱の光の中で、着替えを続ける田仲だけが動いている。
新しいTシャツを頭から被り、袖に腕を通す。
袖から出てきた左肘のバンドエイドに目が行った時、思わずオレは田仲の左手首を掴んでいた。
「?」
シャツを着かけている所を邪魔されて、田仲に訝しげな表情が浮かぶ。
「嫌だ」
口をついた自分の言葉が、どこかと置くから降って来ているみたいに感じる。
「松下?」
「お前のケガなんか見たくない」
「何だよ、いきなり―!」
ムッとして見上げてきた瞳が、不意に驚愕の色を浮かべた。
どうしたんだろうと考えて、自分の表情が強張っているのに気が付いた。
「何だよ、怖い顔して」
気を取り直した田仲が、微笑みながら自由な右手でオレの頬に触れてきた。
手のひらの感触が暖かいなと頭の片隅で考えながら、その笑みに誘われるように顔を寄せる。
距離が縮まるのに比例して、田仲の目が見開かれていく。
それでもオレは動きを止めることが出来ず、驚きに微かに開かれた唇に、唇でそっと触れた。
初めてのキスは、想像していたのとは違い、酷く苦かった。
柔らかいと感じたのは初めだけ。すぐに歯が噛み合わされ、唇は拒絶に引き結ばれた。
手首を掴んでいた手が振り払われ、力一杯に突き飛ばされる。
反動で尻餅を付いてしまったオレを、田仲は怒りで真っ赤に染まった顔で見下ろした。
「気持ち悪いことするなよ!」
言葉が死刑宣告のように発せられた。
駄目だ…もう…。田仲に嫌われてしまった。
絶望に、胸が押し潰される。喉の奥に何か重いものが詰ったような痛みが襲い、不覚にも涙が出そうになる。
視線が合わせられなくって、その場で膝を抱え込んで顔を伏せた。
「…ごめん」
やっとの思いで呟いたオレに、田仲は足音も荒く近付くと、頭の上に力を抜いた拳骨を落とした。
反射的に顔を上げると、不機嫌そうに睨み付けてくる目とかち合う。
「変な冗談はヤメロよ。ビックリしたじゃないか」
そう言うと、口元で小さく笑った。
その笑みを目の当たりにして、オレの中で最後の壁が崩れた・
「…冗談なんかじゃない」
「え?」
「冗談なんかじゃない。お前が好きなんだ」
もう隠してなんかいられない。冗談として片付けるのは容易いけれど、そんなごまかしのまま『友達』としているのならば、いっそ絶交された方がマシだ!
「田仲が好きだ。ずっとお前に恋してる」
田仲の顔が驚きのまま無表情になり、息を飲む喉がゆっくりと上下した。
「…松下…ホモだったのか?」
恐る恐る訊ねて来られて苦笑する。素直過ぎる反応に、どう対応すればいいのだろう。
「違うと思ってたんだけど、そうだったらしい。でも、男に恋したのはお前が初めてで、こんなに好きになったのも生まれて初めてだ」
素直には素直で対応するしかないと肝を据えた。
怯えさせないようにゆっくりと立ち上がり、真正面に対峙する。
「本当は言うつもりは無かった。…嫌われたくなかったから、ずっと友達でライバルで…それで良いと思おうとしていた。…でも、もう駄目だね。こんなの気持ち悪いんだろう?」
話しているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。もう元のような仲には戻れないと気付いた時から、これ以上失うものが無くなった。
「ごめんな、田仲」
精一杯の笑顔を作って謝る。すると何故か、田仲の表情が悲しげに歪んだ。
「謝るなよ。お前とは、今も友達でライバルだ」
少し伏せがちにした顔が、背後からの夕焼けの逆光に入って表情を隠してしまう。―それでも発せられる声は、不思議なほどに優しい色をしていた。
「田仲…?」
見えない表情と優しい声に不安になって、手を田仲の肩にそっと置いてみる。
拒絶されると思っていたその動作を、田仲は静かに受け止めてくれた。
「田仲?」
「謝らなくていい。だってオレ、お前のこと好きだもん。…だから『もう駄目』なんて言わないでくれよ」
肩に置いた手から、田仲の微かな震えが伝わった。
「オレの事、嫌わないでくれるのか?…気持ち悪くないのか?」
「う…ん。ホモはヤだけど、松下は別だよ。松下がホモでも、好きだ」
田仲の顔が上げられた。暖色の光の中に浮かんだ表情は、当惑を残してはいたが、いつもの人を引きつけずにはいられない笑顔だ。
「…でも、オレはお前を抱き締めたい」
「なら、抱けばいい」
「キスしたいんだよ?」
「なら、キスすればいい」
「それ以上の事もしたいんだ」
「それは…ちょっとタンマ」
本当に困った、という顔をされてしまって苦笑する。
嫌わないでくれたのは嬉しいけれど、これって単にオレという友達を失いたくないから我慢してくれているんじゃないのか?
―そうだとしたら、残酷だ。
「オレが好きでも、恋じゃないんだろう?」
わざとふて腐れて言うと、益々田仲は困った顔を深めてしまった。
それでかえって吹っ切れた。こうなったらもう後には引けないんだから、仕掛けてやろうじゃないか!
オレの不審な雰囲気を察知したのか、田仲の目が見開かれる。
「松下?」
不安そうな声を塞ぐように、小さいキスを送る。
「でも、嫌わないでくれるんだから、恋してくれる可能性は高いよな」
赤く染まった顔を見ながら、もう一度キスを送る。
「好きだよ田仲。だから、オレと恋してくれよ」
言葉を理解する暇を与えずに更にキスをし、今度は身体も抱き締める。
「好きだよ…」
言葉を失ってしまった田仲は、抵抗をする事なくオレの腕に収まった。
逃げないことを確認し、キスを深め、そっと舌を差し込んでみる。歯列をなぞると、田仲から微かな呻きが漏れた。
口腔内を探り、舌を搦め捕る。暖かく滑る柔らかな感触が、身体を熱くさせる。
思わず腕に力を込めると、我に返った田仲が身を捩り始めた。
激しく首が振られ、口付けが解ける。
「…お前、強引だ」
息を整えながら、批判の声が発せられた。
涙を滲ませた瞳に真っ直ぐに見詰められても、もう自分を止められない。
目の前の涙を、そっと舌で拭う。
けれども田仲の涙は止まらない。
抱き締めたままの手で背を撫でると、泣き顔を見られる恥ずかしさからか、オレの肩口に顔を埋めた。
「なぜ…なんでオレなんだよ」
「お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
「だから、なんでだよ。オレは男だし、女の子みたいに可愛くないし、唯一の取り柄のサッカーだって左足だけだ」
あんまりな言葉に、思わず吹き出す。
オレの反応に、田仲がほんの少し不機嫌そうに目を据わらせて、顔を上げた。
「なんで笑うんだよ」
「お前って、自分がどんなに魅力的なのか、解ってないんだな」
真剣に頭を捻ってしまった姿に、思わず声を出して笑ってしまった。
「馬鹿にしてるのか?」
不機嫌丸出しになってしまった頭を両腕で捕らえ、胸の中に抱き込む。
「馬鹿になんてしてないよ。お前、もっと自惚れろよ。田仲はオレが今まで出会った中で、一番魅力的だよ。男とか女とか、どうでもいんだ。サッカーをしている時のお前は楽しそうで、本当にサッカーが大好きだって伝わって来て…。不思議なんだよ。お前のサッカーは、胸を熱くさせる」
「…それって、オレはサッカーだけだって言ってる?」
ようやく止まった涙を瞳に浮かべたまま、上目遣いに睨み付けてくる。
そんな顔に笑顔を送ると、表情が少し緩んだ。
「それだけだったら、こんなに好きにならなかったよ。サッカーをしている田仲が好きなのは確かだけど、サッカーをしていない田仲も好きだ。…う〜ん、上手く言えないけどさ、知れば知るほど好きになる。ライバルとか友達とか、そんな感情の枠では収まりきれないほど好きで好きでたまらない。もうお前じゃないとダメなんだ。他の誰も、お前以上に好きになんかなれない」
途端に田仲が凄い勢いで暴れ出した。慌てて抱き締めようとしたオレの腕を振りきって、身体を離す。
「そんなに好きだって何度も言うなよ!恥ずかしいじゃないか!」
口調は怒っていても、表情がそれを裏切っている。恥ずかしそうに頬を真っ赤に染め上げ困ったようにオレを見ている。
「だって、本当なんだから仕方ないじゃないか」
「お…お前なんか大っ嫌いだって言ったら、どうすんだよ」
「失恋だな。でも諦めないけど」
「!」
オレの言葉に、田仲の動きが止まってしまう。
なぜだか確信があった。田仲はオレを嫌わない。―それは田仲の優しさ故の同情だろうけど…。
「きっとオレを好きにならせてみせるよ」
自分でも驚くほど、言葉がすっと出た。
そう、もう迷わない。自分の心に正直でいよう。
オレの決心を悟ったのか、田仲が泣き笑いを浮かべた。
スッと近付いてきて、震える唇がオレの頬に触れる。
一瞬で離れた感触の残る頬を手のひらで押えると、目の前の田仲が小さく微笑んだ。
「オレの『好き』はこれが精一杯なんだけど…」
「…スタートとしては、十分だよ」
顔だけを近付けて唇を合わせる。
柔らかく受け止められたキスは、信じられないほど甘く、とても暖かかった。
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