1.雨の香り |
「じゃ、圭ちゃん、またおいでよ」 常連の花沢さんが発した帰り際の台詞に 「ありがたっした〜!」 オレは心からの感謝の言葉を返す。 ここは渋谷の『つかさ寿司』。父さんの末の弟・健吾叔父さんの店だ。 10人も入れば満員になってしまう小さな店。だけども叔父さんに言わせると、お客さんに満足してもらう寿司を食べてもらうにはこれでも大きすぎるそうだ。 こだわるだけあって叔父さんの腕は一流で、騒がしい街の中で知る人ぞ知るちょっとした隠れ家的な存在になっている。 自慢は厳選した卵に海老のすり身と秘伝の出汁を加えて焼く玉(ぎょく=厚焼き卵)と、手間と時間をじっくり掛けて仕上げた穴子で、この二つだけを目当てに二日と開けずに通う常連さんも多い。 それになにより、叔父さんのキャラクターがお客さんを惹き付けていた。気っぷが良くて明るくて、一緒にいるとくつろげる、不思議なオーラを持っている。 オレは親戚の中で健吾叔父さんが一番好きだ。 だからこうして上京すると、ついつい叔父さんの家に転がり込んでしまう。 そして宿賃代わりに、夜の忙しい時間には手伝いをさせてもらっていた。 (手伝うとお小遣いをくれるから、押し掛けバイトみたいな形になっちゃってるけど……) 花沢さんを見送って戸を閉めようとした時――。 目の前を黒い犬が横切った。 「わっ!犬?」 突然のことに驚くと、犬は立ち止まり、不思議そうにオレを見た。 柴犬?首輪はしているし毛艶も良いから、野良じゃなさそうだ。放し飼いの犬か? 「なんだ、圭吾?ん、ああ、ハチだね」 オレの叫びを聞きつけた叔父さんが、ツケ場から教えくれた。 「ハチ?駅前に銅像がある?」 「本当は違う名前らしいんだがな、ああやって毎日ご主人が帰ってくる時間になると駅まで迎えに行くから、付いたあだ名がハチ公さ。この辺じゃ有名だ」 「ふ〜ん……」 しばしハチと見つめ合う。優しい瞳、ゆっくりと振られているしっぽ。うん、可愛い。 オレの気持ちを読みとったのだろう。ハチはしっぽの振りを早くする事で応えてくれた。 そしてご主人を迎えに、駅へとまた歩き出す。 後ろ姿を見送って、オレは客で賑わう店内に戻った。 オプション1.ハチ(ジョン)の後を追う?→ 「すっかり圭ちゃんも店に溶け込んだよな。おやじさん、いっそ香奈ちゃんと結婚させて婿養子にして、跡を継がせたら?」 オレが花沢さんが帰った後のテーブルを片付けていると、もう一人の常連の高山さんが恐ろしい話題を叔父さんに振り出した。 け……結婚?オレと香奈ちゃんと? おいおい、カンベンしてくれよ〜。香奈ちゃんってまだ幼稚園児だぜ?! 「高山さん、無理言いなさんな。圭吾のヤツ、固まっちまったじゃないですか」 叔父さんのフォローにも、高山さんはにやにや笑いを収めない。 「香奈ちゃん嫁にだしたら、あんた大泣きすんだろ?だったらさあ、やっぱ婿養子だよな。その点さ、圭ちゃんならピッタリじゃないか。客相手は上手いし、男前だしよ」 「ダメですよ。圭吾のヤツ、夢中になってる相手がいるから」 ――ドキッ! 思わずテーブルを拭く手が止まる。……叔父さん……一体何を…… オレの動揺をよそに、二人の会話は尚も続く。 「なんだよ、圭ちゃん彼女持ちかよ」 「そんな色気はありませんや。こいつの相手はサッカーですよ」 「あ、そっか。サッカー部だったよな。正月にTV出てて驚いたもんなぁ」 ……よかったぁ。バレたのかと思ったよ。 確かにオレには好きな人がいる。サッカーはもちろん好きだけど、それ以上に大切に想う人が世界でたった一人だけ存在している。 あの人の側に居たい。あの人を抱き締めて、離したくない。 想うだけで体中が熔けてしまうほどに愛おしい人が…。 「なぁ圭ちゃん、やっぱダメかぁ?」 高山さんの問いかけに、 「すんません。やっぱオレ、今はサッカーの方が大切っスから」 にっこりと、営業用スマイルで応対する。 「残念」 「ほらね、無理言っちゃいけませんや」 引き下がった高山さんに、叔父さんがサービスで酒を一杯手渡した。 それが功を奏して、話題は他へと流れていった。 神谷さん。 あなたは今頃何をしています? 忙しく働いていても、心の一部はいつも愛しいあの人の元へ向かってしまう。 まだ告白もしていない、大切な想い。 あしたには学校で会えると解っていても、今すぐあなたの声だけでも聞きたい。 抜け出して電話でも掛けようかなと思っているときに― 突然望みは叶えられた。 しかしそれは悪夢の始まりにもなったのだ。 「…ワカリマセンとか言うなよ」 外から微かに聞こえてきた声に、思わず飛び上がりそうになる。神谷さんの声に似てる?それとも想い続けたせいで聞こえた幻聴か? 「言ウカ!!」 今度はなぜだか腹が立つ不快な声…。 そしてガラリと戸が開いて 「らっしゃい!!」 条件反射で威勢良く掛けた声の先に、あの人は立っていた。そしてあいつも…! 「…神谷…さん!なんでここに、いや、何でこんなヤツと!?」 愛しい人のすぐ隣りに、そこにいるのが当然だというふてぶてしい態度で寄り添う某ドイツ人。 何で、どうしてこの二人が一緒に居る?! ビックリした顔で入ってくる神谷さんと、瞬時に顔を引きつらせるドイツ人…ルディ! 二人の背後から、風が吹き込んできた。 風は、水気を含んでいて…。 雨が近いことを教えてくれていた。 続く 2001.6.12. |