オレの名前はジョン。
でも何故かご主人様以外の人間は『ハチ』とか『ハチ公』と呼ぶ。
『ハチ公』と言うのは、ご主人を迎えに行く途中で通り過ぎる、人間がいっぱい居る広場で台座に偉そうに座っている犬の形をした固まりのことを言うらしい。
時々考える。なんでオレはこいつの名前で呼ばれるんだ?
オレは柴犬(ご主人は『豆柴だって言われてたのに、お前は大柴だな』と言っていた)。あんな堅い固まりじゃない。ハチは動かないけど、オレは毎日街を歩き回っている。――オレとこいつは一緒じゃない。 でもまぁ、そんなことは問題じゃない。 早く『シブヤエキ』へ行かなくちゃ。そして『カイサツグチ』という所でご主人を待つんだ。 俺が待っていると、ご主人は凄く喜んでくれる。「良く来てくれたな」と撫でてくれて、ご褒美に犬クッキーをくれる。 ご主人に撫でられるのも、クッキーも大好きだ。 きっとこういうのが『しあわせ』って事だろう。
縄張りを示す匂い付け=おしっこをしながらいつもの道を歩く。 魚と酸っぱい匂いのする店の前を通り過ぎるとき、 「ありがたっした〜!」 嗅ぎ慣れない匂いと聞き慣れない声がした。 振り向くと、見たことがない『ニンゲン』のオスが、オレの方を見ていた。 敵意は全く感じない。オーラの色も綺麗。うん、こいつのことは好きだ。 しっぽを振ると、ニコニコと笑ってくれた。 お礼にしっぽをもっと早く振って見せてから、オレは再び歩き出した。
何だかとってもいい気分。 うきうきして、しっぽを振るのが止められない。 こういう日は、きっと良いことがあるんだ。
そしてオレは、あのニンゲンを見つけた。 最初に匂いを感じたときから、気になっていた。ご主人とはまた違う、柔らかな匂い。 沢山の『ニンゲン』の中でも、一際輝いているオーラの光。 近付くと、耳の後ろを優しく掻いてくれた。 「なんだおまえ、迷子か?」 撫で方も絶品だったが、声の響きも最高だ。顔を覗き込んでくる瞳が凄く優しい。 「ルディのヤツも迷子みたいなんだよ。お前、しらない?」
ごめんなさい。『ニンゲン』の言葉は良くわかりません。ご主人のだったら雰囲気で解るんだけど……。 「そうだよな、おまえルディなんて知らないもんな。すまなかったな」 立ち上がって、離れていく。
! あ、やだ。もう少し遊んで欲しい!
…ごめんなさい、ご主人! ちょっとだけ、浮気しても良いですか?
「おい、おまえついてくんなよ〜。言っとくけど腹空いてるのはオレも一緒なの!」 何を勘違いしてるのか、『ニンゲン』はオレを帰したがっている。
「クウー〜ン……」
オレは遊んで欲しいだけなのに……。 「だからそう言う目でオレを見るなって!」 ああ…種族が違うって、哀しい。『ニンゲン』にも言葉が通じればいいのに…。 そんなオレの気持ちを放っておいて、ニンゲンはさらに捜し物を続けている。
「どこ行やがったあの野郎……」 汗の匂いに『焦り』を感じる。焦ったときのニンゲンは、ちょっと酸っぱい匂いがするからすぐ解る。
と、突然匂いが代わった。少し甘くて……これは、嬉しいときの匂い。 ニンゲンが、他のニンゲンへと駆け寄っていく。 慌てて追いかけると、全身から嬉しい匂いとオーラを出している、ニンゲンの姿があった。オレのことなんかすっかり忘れてしまってるらしい。
なんで? こいつのせい? 風に乗って匂いがする。こいつ、犬を飼ってるな。それもオレと同じオス。かなり大きい体格だろう。 気にくわない。それに、このニンゲンを先に見つけたのはオレなのに! 新しく現れたニンゲンを睨むと、目が合った。 こいつのことなんか大嫌いだ。 それはこのニンゲンも同じらしい。 「オマエ、今よからぬことを考えていたダロウ、犬!」 どうやらオレに挑戦する気だ。 「わんん?」 意思の確認のために問いかけると、好きな方のニンゲンが、オレ達の間に割って入った。 「まあまあ犬なんだからよ、いいじゃねえかよ」 優しい匂い。やっぱりこっちのニンゲンが好きだ。 「わんv」 感謝を伝えるとにっこりと微笑まれた。 ところが気に入らない方のニンゲンは、オレを睨む眼光を更に強めてきた。
「気にくわん犬ダ……」 何だか怖い。でも弱みなんか見せられない。 「ぐるるるぅ」 唸ると、すこしだけ眼光が緩んだ。その隙に気に入った方のニンゲンに擦り寄る。 ニンゲンは、オレの頭をまた撫でてくれた。
だけど今度の撫で方は少しおざなりで…… ああ、残念。 解ってしまった。このニンゲンはあの怖いニンゲンが好きなんだ。きもちはもうあっちに向かってしまっている。
ホント、残念。せっかく遊んでもらおうと思ったのに……。 名残惜しい気持ちを抑えて、別れの挨拶代わりに身体を強く擦り付けてから離れる。
ちぇっ、つまんない。せっかく今日は良い日になると思っていたのに……。
空気を嗅ぐと、二人の人間の楽しそうな匂いが解った。 それも沢山のニンゲンの中に紛れていって、やがて感じなくなってしまう。 代わりに、湿気が鼻の奥を擽った。 ああ、もうすぐ雨が降ってくるんだな。
!……雨?! ご主人は雨が嫌いなんだ! 急いで『カイサツグチ』へと駆け出す。ご主人がオレを待ってるかも知れない! ごめんなさいご主人。もう浮気はしません。 だから、オレを撫でて。 そしていっしょに遊ぼうね!
ジョン編・終わり 2001.6.12.
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