《泥の歌》



「起こしてしまいましたか」
被っていた毛布の下から顔を覗かせた善行が、ほんの少し掠れた声で謝罪の色をした問いを発した。見れば彼の上半身は布団から二時方向へまるまるはみ出している。同衾する若宮を起こさぬよう、気を使っていたに違いない。
だが、半円状に広げた地図と本をめくる音、キーを叩く音、端末の駆動音。これだけ重なり合っては、若宮の浅い睡りを覚ますには十分過ぎた。

「いいえ、そういうわけでは」
若宮は答えながら結晶で時刻を確認した。
午前3時。
肘をつき半身を起こすと、腰だけ浮かせて、先にいいかげんに穿いた下着に手を伸ばしてずり上げる。さぞ品なく見えたことだろうと思っていると、案の定、咎めるような一瞥をくれた人の顔がこちらへ向いたまま、何か待つように見え出して。若宮はそれでは、と問いかけた。
「急ぎなのですか」
「ええまあ。明日までに」
「では……」
寝につくまでの約一時間、無駄にさせたということか。若宮はぎょっとした。次の瞬間、明日は日曜だし、休むつもりと言っていたのを思い出す。
「いいですよ、これは私用です」

若宮の百面相を見て笑った善行の肩から防壁がすべり落ちて、ノートパソコンの液晶がぼんやり部屋を照らし出す。映し出されている文字の羅列を目にして、若宮は問いかけた。
「論文ですか」
「ええ、ずいぶん前に書いたものですが、質問を受けましてね」
「自衛軍の方ですか?」
「いいえ。……どこからだと思います?」
若宮が考える間もなく白旗をあげると、善行は薄く目元を笑ませた。
「五三一一の小隊長でした。部隊で回し読みしたそうです」
ほお、と若宮が感嘆すると善行は説明した。
「それで、近くの小隊長が集まって研究会を開くと言うので、明日の午後、僕も参加させてもらうことにしたんですよ。せっかくなら手ぶらで行くより、ここの地勢も加味して役に立つものにしたい。これは半分、僕の欲ですが」

その戦車小隊とは何度か戦場で行き会ったことがある。おそらくその縁だろうと若宮は気づいた。善行ほど年かさの学兵は目立つから、そこから調べて“鬼善行”の評判を知ったのかもしれない。今は知らないが、自衛軍の当時、彼の論文は広く読まれていた。

「日曜というのに、ご苦労ですな」
「貴方だって明日は約束があるでしょう。速水君に聞きましたよ」
「あいつらの“集中特訓”ですか。なに、あれに付き合う程度、仕事の内に入りませんよ。第一、やる気があってよいことです」
「貴方は本当に教官向きですね」
若宮は満足そうに笑ってから、頭の下に腕を組んでごろりと横たわった。壁に貼られた熊本全図に手持ち無沙汰の視線を投げる。

少しの間があってから、善行は視線を合わせないまま、若宮を会話に引き戻した。
「若宮。ここには何もないが、士官を育てる仕組みも全くといっていいほどない」
「どうせ捨て石ですからな」
政府はこの夏、熊本の学兵十万の全滅を予見しており、現に昨日までに全滅、あるいは構成員不足で解散となった部隊の数は十を越えた。だが悲観主義傾向のある善行に言わせれば、それさえ楽観的過ぎた。
兵士としてすら覚束ない、学級委員長あがりの司令が指揮して、どこまで戦えるのか。夏どころか四月を防ぎきれるかさえ怪しい。
五一二一は寄せ集めの不良集団と言われているが、善行はれっきとした自衛軍の士官であり、正規の教官二人もまともな軍教育を施している。他の隊に比べれば遙かにましな環境といえた。
「今回ね、必死に学ぼうとしている子どもはどこにでもいると思い知らされました。ウチだけでなくどこの隊も同じ事です、気づかないのが浅はかでした」
「だから世話を焼くのですか」
善行は少し考えてから頷いた。
「ある日突然、隊長になれと言われて部下を抱えて……というところは、他人事という気がしません。それに同じ状況に置かれたら、おそらく僕も、本や書かれたものに縋ったと思います」

「そういえば、たまの休みというのに、狂ったように走っていた人もいましたな。それも、なぜか自分から隠れてコソコソと。あれは、一体どういう了見だったんでしょうな」
「それは僕のことですか」
若宮は返事をしない。する必要もないという顔をした。
「別に隠れてなんていませんでしたよ、何でもいいでしょう? 結果として役に立ったんですし」
「確かに善行部隊と言えば健脚で有名でした」      
「ええ。貴方のお陰です」
ふて腐れた顔から一転し、善行は頬をゆるめた。
「ほんとうは僕では荷が重い気もします。いっそ貴方に任せたいくらいです、その方がきっと彼らにも役に立つ」
善行がそこで苦く笑ったのは、フルマラソン二本から始まった若宮の教育方針を思い出したものだろうか。
「では自分が一度、参りましょうか」
「いや、冗談ですよ。明日はせっかくですから他校の実情を見てきます。本来、上層部の人間が取り組むべき課題ですから、折りを見て上に楯突きましょう」
「はあ。煙たがられるでしょうね」
「まあ間違いないですね」

「お茶でもお淹れしましょうか」
「いえ……すぐ終わりにするつもりですから……」
しばらくして若宮が尋ねると、手元の作業が佳境に入っているらしく、上の空の返事が返った。遠慮を忘れた指は、景気よくキーの上を滑り続ける。
その音を雨のようだと聞きながら、若宮はいつしか眠りに落ちていった。


        ※  ※  ※



スパナを握った手を振り上げて、原は刺すような視線を寄こした。
「何か用?」
「本気でぶつけられるかと、思いました」
「ばかね、本気よ?」

「そこ! あっちに行って休憩。三十分」
原の突然の怒声に、はあいはあいと重なって返事があって、黒塗りの巨大な向こう脛にとりつきつつ、こちらをチラチラと窺っていた森と新井木が、原の示した“あっち”へ重い足取りで入っていった。ハンガーの隅にビニールシートを敷き、布団を並べているのだ。その上では、五つくらいの塊が毛布を被って動かない。

「どうです、一号機は?」
「廃棄はしない。でもこれでもう何もなくなったわ」
鹿児島と宮崎の部隊が完全撤退してから一週間が過ぎた。直後に北九州からの補給線が大々的な攻撃を受けたため、熊本市内は深刻な物資不足に陥っている。食料、銃器、弾薬、どれもない。ない物はない、と一点張りの兵站担当との押し問答で日が暮れるのに、さすがの加藤も根をあげている。士魂号用の生体部品にいたってはさらに深刻で、保管庫の中身はすっかり空となり、一度廃棄にした破損パーツを捨てるのを惜しんで、気休めに収めている有様だ。

「こうなると整備員なんてただの穀潰しよね」
原は自嘲気味に言い捨て、デスクに寄りかかった。面は笑っているが、まばらな照明の影が落ちる目元には、赤黒い隈が目立った。軍手を外してデスクに置く、その手首が真っ赤に腫れているのに目をやりながら、善行は尋ねた。
「ちゃんと食べていますか」
「よく言えるわね、そんなの見ればわかるでしょ。……用がないなら消えて、仕事の邪魔」
原は赤ボールペンを善行に突きつけると、未決箱から取り出したリストのチェックに集中してゆく。陰で小さく言い捨てた。
「ダイエットしてるのよ」


相変わらずの棘に何故か励まされ、背を押されるように善行はここ二日間、言い出すタイミングを迷っていた事項を伝達した。もったいぶったのではなく、確実性を期した結果だが。
「食料は手配しました。明日まで待って下さい」
「だったらなによ。お腹一杯食べたって、もうすることないわよ。筋肉だって血液だって足りない、何もないんだから。大体、これだけ優秀な整備員が、雀の涙の給料で働いてるのよ? 食料くらい余裕で確保してくれなきゃ困るわ」
言いつのる原の痩せた頬に赤みが差し、パイプ椅子を倒す勢いで立ち上がったとき、

Vコールを告げるサイレンが響いた。

「出撃準備、お願いします」
「言われなくても、わかってるわよ」
再び軍手をはめた原は眠りを貪っている群の中に飛び込んでゆき、蹴りつけるようにして起こし始めた。
「スタンバイ開始、一七〇秒で出るわよ」
その号令を受けて疲労困憊の縁から蘇った整備員たちの慌ただしい足音がテント中に響き出す頃には、善行はすでに女子校校舎の入り口まで辿り着いていた。



        ※  ※  ※


「出番なし、みたいですね」
瀬戸口は安堵の色を隠そうともせずに言った。軽口のつもりなのかもしれないが、こちらも胸をなで下ろしている今は、あまりそう聞こえない。そう自己析しながら善行は、モニターの映像を見つめた。
早朝四時の到着時点で、すでに敵の大半が姿を消していた。残ったものもこちらの到着には意を介さず、非実体化を続けている。
「げんじゅう、かんぜんにしょうめつしました」
報告するののみの声も弾んで聞こえた。きれいになった画面に自軍を示す青のみが光る。

「司令、ここでの戦闘は、前回も不戦勝になっています。なにか幻獣が嫌う要素でもあるんですかね」
「……瀬戸口くん、その戦闘はいつでした」
「四月一日。ちょうど一週間前です」
二部隊が一度に全滅したのは、その頃、この付近ではなかったか、と善行が公報の記事を思い出したとき、
「司令、緊急回線です」
瀬戸口がのんびりした口調をあらため報告してきた。

司令官仕様ドレスに増設された専用回線に繋がれたのは、隣接戦区に展開する部隊のSOSだった。
「こちら五三一一。敵が多すぎて対処しきれません、……負傷者多数。至急、増援願います」
鼻にかかった甘めの発音ながら、切迫した少女の声に、善行は知らず眉を顰めながら答えた。
「こちら五一二一。了解、そちらへ向かいます。誘導をお願いします」
ぜんぎょうさん……そう呟いた声を、マイクは確かに拾った。
「善行司令、お願いします」
ここからはオペレーターの領分だ。瀬戸口に後を任せてから、善行は知らず眼鏡に触れそうになったが、直前でやめて腕を戻し、グローブをはめた指先をすりあわせた。
「司令、今の子、知り合いなんですか?」
「ええ、そうです」
瀬戸口は、へえ、と口の中で言い、怪訝な顔をしたが、それ以上の追撃はなかった。



県道を東に一〇km。それはウォードレスを纏った者や車両には指呼の間だが、人型戦車にとっては短からぬ距離だ。構造上、足首に負荷がかかりやすく捻挫しやすいためである。しかし三機のパイロットはいずれも順調に運用経験を積みつつあり、この繊細な兵器を非常な集中力で運んでいった。
街を完全に抜け出し、荒れ果てた畑が延々と続く道に入るころ、ぽつぽつと雨が降り始めた。次第に雨脚の強まる中をさらに五分ほど進むと、高台になった雑木林を抜けたところで坂の上から、目的の町が川を挟んで左右に広がっているのが見渡せた。

一〇カ所以上で火災が起き、きたかぜゾンビがその上を周回している。雨に負けぬ勢いで立ちのぼる煙の柱の上端が、全天を覆う黒雲につながっている。
ピピ、と機器から警告音が鳴り、モニターに幻獣を示す赤いマーカーが一気に点灯した。それに、青いマーカーも六つ。
「五三一一、交戦中です」
「げんじゅうに、かこまれます」
町の中心に流れる川に沿った、二車線道路上に、戦闘指揮車と戦車五台が一列に並んで、頭上のきたかぜに砲撃を浴びせている。
だが敵はそれだけではない。前方には民家をレーザーで焼きながら進むキメラを露払いに、二体のミノタウロスが接近しつつあり、後方にはこちらもキメラ数体とナーガ、それにゴブリンがうじゃうじゃ集まっている。
右手は川、左手は古めかしい住宅地。戦車を入るだけの幅員のある横道は見当たらず、方向転換もままならない。袋小路に入り込んでいると言ってよかった。

「ぞろぞろ並んで何してるんだ。あれじゃ狙い放題じゃないか」
「とにかく遮蔽物まで逃がすことですね……五三一一小隊、応答してください」
善行はドレスのインカムで呼びかけながら、小隊各機への指示を矢継ぎ早に下して行った。

重装甲の壬生屋機は路上を正面から切り込ませ、三番機は少し後から川の中を進ませる。水深は約二メートル。躓く不安はあるが、それより駆動担当と火砲担当が別れる利点と、速水の器用さを信用したのだ。滝川機は三〇メートル向こうの対岸にいて援護射撃に専念。来須と若宮の二名は左から迂回させ、戦車が破壊された場合の退路として、できるだけ細い道を探して確保するよう指示した。

善行が一通り指揮を終える間に、五三一一は自力できたかぜゾンビの一団を退けた。
それから二分ほどしてようやく、五三一一指揮車の応答があり、先ほどの増援要請で聞いた少女の声が、いまだに切迫した調子で礼を述べた。
「五三一一部隊隊長、青葉十翼長であります。増援、感謝します」
「退路を開きます。それまで持ちこたえて下さい」





「幻獣、また実体化します! 多数です!」
しかし、持ちこたえるどころではなかった。
警告アラームが再度鳴り響くと、副モニターが映し出す地図の西側に、赤点が十以上追加された。いまや液晶は小隊が今までに戦った最多の、さらに三倍近い対象を映し出している。
「司令、まさかとは思いますが、あっちで逃げた奴らだったりしますかね?」
瀬戸口が二号機の銃撃補正オペレートの合間を縫って、真剣そのものの口調で問いかけてきた。
「今の時点ではなんともいえませんが、可能性としては否定できませんね。我々も同じ事をしているわけですし」
現状の補足システムでは、幻獣個々を識別する機能がないことは互いによく判っている。だが、そう考えるのが自然だと善行は感じた。自軍を集中し敵を分散させる、それは戦略の初歩の初歩ではないか。

群がる小幻獣を捌ききれず、一番機は遅々として歩を稼げずにいる。三番機は増水の兆候か、赤茶色に濁りはじめた川の中をなんとか上手く進んだものの、二基の橋を越えるのに時間を取られ、こちらも遅れを取った。二番機だけは軽快に予定位置に到達し、キメラの一群にアサルトの連射を叩き込んでいるが、圧倒的な数の前に、焼け石に水に近い状態だ。
善行は主モニターに映し出される重装甲の、文字通り濡れ羽色の機体の後姿を厳しい顔で見つめつつ、再度五三一一に呼びかけた。
「思ったより時間がかかりそうです。各機、降車準備を指示して下さい」


そう通信を交わしているうちにも、戦車団は包囲に完全に取り込まれていた。
まず列の最後尾のL型が砲撃を止めた。ナーガの攻撃によって主砲を吹き飛ばされたのだ。これまで為す術もなく餌食となっていたゴブリンの群が、借りを返すかのように一斉に機体にとりついてゆく。滝川の二番機が長射程のライフルに装備を変え、援護射撃にかかっているがとうてい間に合う数ではない。
一方、先頭の戦闘指揮車には、二体のミノタウロスが、工事用の鉄槌に似た拳を振りかざして肉迫した。烈風を巻き起こすほどの一撃は、僅かに外した、だが車両は一回転しながらガードレールを突き破り、河原に続く法面に滑り落ちた。

「五三一一しきしゃ、かくざ!」
ののみの悲鳴に近い報告に続き、芝村から通信が入った。こちらはまだ冷静さを多分に残しているものの、無駄のない早口で告げる。
「待たせたが、予定位置に到達した。これよりミサイル照準に入る」
「オペレーター! 他二機のダメージは?」
「一号機は累積いっぱいです」
瀬戸口が問われて叫ぶように答えると、壬生屋が声を荒げ、
「まだ、大丈夫です!」
叫んだところに、爆音が重なった。
弾かれた指揮車の後にいた士魂号L型が、ミノタウロス二体の生体ミサイルを受けて炎上したのだ。その爆発に、すでに脱出を開始していたのか、兵士が数人吹き飛ばされたように見えた。
日出時刻はとうに過ぎているが、陽光は厚い雨雲に完全に遮られ、驚くほどの暗さとなっている。さらに降雨の為、視界は劣悪だ。だがその中でもかろうじて、女性用ウォードレス姿の兵士が右往左往する姿を見わけることができた。バラバラと河原に駆け出した者が、瞬時にキメラのレーザーに焼き切られるのも。

瀬戸口が怒りを露わにしながら伝える。
「五三一一各車両、降車はじめています」
「なんですか、それは。……仕方ないですね、スカウト両名、誘導開始してください」
ここまで統制のとれないものを、それでも軍隊と呼べるのか、いや、呼ぶのか。善行はこめかみと胃の辺りに痛みを覚えながら声を張って呼ばわった。
「青葉十翼長! 応答してください」
しかし返答はない。
「五三一一指揮車、生存者いますか。応答してください」
「は、……い、あの………い、います」
「名前と所属は」
「上畑です……運転手です。川のところに……います」
姿を目にしなくとも判る。おそらくその声と同じように全身を震わせつつ、必死に答えているのだろう。善行はトーンをやや和らげて尋ねた。
「隊長はどうしました」
「貴、隊の指示に、全員従うように言われました。
それから、指揮車に戻、戻るって……まだ、戦えるからって。
でも無理です!
助けて下さい、お願いします!」

彼女の言葉はすぐに証明された。転げ落ちた指揮車は、六輪のうち四輪が脱輪しているものの、砲塔は正常な向きにあり、生きていた。そこから戦車の列に悠々と歩を進めているミノタウロスに向け、25ミリ機関砲の射撃が始まったのである。さらに、外部スピーカから聞き覚えのある声が繰り返し叫び始めた。

「当部隊は撤退、撤退します!ただし、五一二一の指示に従うこと! 指示に従って撤退!」





善行はその意図するところを理解するなり、すぐに脳内に作戦……退路のシミュレートを開始した。
「できればミサイルを待って降車して貰いたかったんですが、こうなれば仕方ないですね。
滝川機は引き続き三番機を援護、壬生屋機は現在の位置にて応戦、戦線を死守しなさい」
そう命じて、次に外部マイクへと回線を切り替えた。
「五一二一部隊、善行千翼長です。貴隊の指揮権限を引き継ぎます。撤退しますが、当部隊スカウトの誘導を待ってから動いてください。車両ごとにまとまって行動すること」

「囮になる気なんやろな。あの子」
緊張のあまりか、異常に口数を減らしていた加藤がぽつりと漏らした。すると善行の視界の隅で、長い黒髪がゆらりと同意を示して揺れた。先ほど銃座から戻るよう命じられた石津は、黙って救急医療キットのチェックをしていたのだが、その伏せがちな顔には極まった、悲痛な色が浮かんでいた。

果たして拡声器の人声を聞き取るのかは、定かではない。だが、少なくとも機関銃で狙われていい気はしないということだろう。その大きな的、ミノタウロスの一体が向きを変え、水煙の立つ舗上を大股に進んでいく。その後に、キメラの一団が得物を求めて付き従った。

それは、混戦の中でこそ起こりえた、奇跡に近かった。中大型幻獣の破壊目標が一斉に脇へ移動し、集中砲火の手がわずか四〇秒の間、止んだのだ。
その機を逃すことなく、斥候兵二人は生存者およそ三〇名を幻獣の潜り込めない狭い路地へ、退避させることに成功した。



        ※  ※  ※



三番機の全方位ミサイルの発射を待つ、長いようで短い二分の間に、善行は補給部隊を呼び、原に対して退却ラインぎりぎりへの後退を命じた。さらに加藤に、我々も後退しますと告げた後、全軍を対象として呼びかけた。
「速水・芝村機はミサイル発射後、全速で戦線離脱! 五一二一所属の士魂号もそれに倣え。
五三一一残存兵の撤収完了を待って、全軍撤退。全軍撤退します」

「待って下さい。司令、お言葉ですが私たち、あの人を助けに来たのでは、ないのですか」
壬生屋は喘ぐような息づかいになっている。士魂号だけでなく、本人の体力的も限界に近づいているに違いない。
「そうですよ! それに、俺なんかまだ全然無傷だし、」
滝川が主張する間に、壬生屋は痺れをきらしたか、川沿いの土手へと踏み出した。陸上より敵のマークが格段に手薄な川の中を、遡ろうというのだろう。

だが、
「動くな!」
鋭い叱咤が車内の空気を振るわせた。
ののみが竦み上がり、身につけた防護服がかさりと鳴ったのが、車内のどこからも聞こえた。
そうして静まりかえった車内に、待ちに待った速水からの一声がもたらされた。
「長距離ミサイルの演算、すべて終了しました、発射します」

だがその声は一瞬だけ遅く、救いの手は永遠に届かなかった。

擱坐した車体に大きな脚が乗り上げる。薄いと定評のある装甲は、一切抵抗も見せずに拉げ、搭乗者の護りを放棄した。

「あかん」
加藤が目を逸らし、体を倒してハンドルにしがみつく。ののみの頬に次々と涙の筋が作り出され、瀬戸口は拳をコンソールに叩きつけた。




以降の撤収は善行の意図した通りに迅速に進み、五一二一は「大敗」の二文字を背負いつつも、全員無事で学校に戻った。
しかしながら、補給部隊のトラックに乗せて原隊へと送り届けた女子学生たちの残した波紋は、しばらく隊員の心を乱し続けるだろう。負傷者はもとより、泣き喚く者、あるいはパニック症状から虚脱状態に陥る者。石津は雨でずぶぬれになりながら奔走し、鎮静剤と睡眠剤の在庫を全て使い尽くした。

指揮車を降車する際、瀬戸口は善行を捕まえて言った。
「やっぱり俺は、あんたが信用できない。知った女の子を見殺しにして、平然としてるように見える」
「見える、のではないとしたら?」
「そうなんでしょうね。あんたはそういう人種だ。それでも俺たちは、あんたの命令に従うまでで、
……でもなぁ!」
諦めと諦めきれない感情が一緒くたになった泣きそうな顔で、瀬戸口は大股に歩み去った。
善行に見せつけるように一度、右拳を車体に叩きつけてから。

「彼女も私と同じだったということですよ」
取り残された男の呟きを聞くものは無論なかった。



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