2 あともう少しだけ作業を続けると言う一番機整備士の面々に向かってまた明日と声をかけると、若宮はハンガーを出た。ビニールシートの隙間をくぐると皓々とした満月に鉢合わせの格好になる。その前に陣取るもう一つの月の見る者の魂を吸うような黒さはともかくとして、星々もまた濃紺の空を埋めて強く明るい。 今夜の若宮康光は上機嫌だった。早めに仕事を切り上げて、新市街まで足を伸ばした、その甲斐が十二分にあったからだ。一昨日最後の一振りを反古にしたカトラスや、弾薬、それにロケットまで、切らしていたものが一度に揃った。それも正規のメーカー品だ。つまりは横流し品か盗品と、暗に但し書きがついたようなものだが、若宮にとってなんら問題ではない。 それにしても新市街でアルバイトをはじめたという事務官にはまったく学兵らしからぬところがある。情報料を取った事はおいても、隊の備品調達に対する熱意は賞賛に値するだろう。そう考えながら若宮は颯爽と薄暗い裏庭を横切ってゆく。 小隊隊長室が見えて来て、若宮ははてなと思った。灯が消えているのだ。ほんの十五分前、ハンガーへ向かう途中で遠目に見た時には当たり前に点いていたと思ったが。 まあ、帰ったとしてそう遠くへは行かないだろう、と心持ち足を速めると、予想通り校門を出たところで、真っ直ぐなその人の背を視界に捉えることになった。 「司令」 若宮が呼ぶと、振り向いた男は無精髭がやや青く育った顎に添えた左手を下ろして、書類で丸々膨らんだ革鞄を右手から持ち換えた。若宮を待って立つ。 張り上げずとも声の届く距離まで歩み寄った若宮に、善行は職場で主に浮かべている無表情を動かして尋ねた。 「どこにいたんです?とっくにあがったと思っていました」 「はい、一度は。ですが新市街に寄りましたところ思わぬ出物がありまして。弾薬なんぞ寮に持ち帰ってもなんですからな、置きに戻った次第です」 なるほどという表情を見せる善行に、若宮は入手した装備の内容を指折り数えて聞かせた。 「大漁でしょう」 「ええ、楽になりますね」 「ツイていました、近頃は何でも品薄ですからな。まあ多少こっちの無理はしましたが」 懐を押さえて巫山戯て見せながら、若宮は善行の横顔に差した影を見逃しはしなかった。 戦況は悪化の一途を辿っている。補給もままならない中で、兵が最低限必要な装備を自腹で、しかも裏のルートで調達している事を、彼が知らぬはずはない。しかし少々浮かれて過ぎたと自戒するべきところで若宮は見て見ぬ振りをした。 「加藤を褒めてやって下さい、実は……」 帰途を促しながら、変わらぬ調子で話し続ける。 善行の憔悴や失意が自分の目に見えた時には、善行自身が見せる必要があると判断したと若宮は解釈することにしている。教育下士官として、部下を不安に陥れかねないかかる態度を士官に許した覚えはなかった。 「お見送りご丁寧に、どうも」 「では失礼いたします」 「はい。また明日」 築数十年というアパートの門前で、若宮は折り目正しく頭を下げ踵を返した。靴底が階段の鉄板を叩いて上がる規則正しい音を背後に聞きながら、寮への一歩を踏み出す。 ところが敷地を出ようとしたところで、若宮は咄嗟に……考えるより早く腰を落としていた。 それはヒュ、と鳴ってから、キン、という音。 常人には聞き分けることは不可能だろうが、若宮には明らかだった。鼓膜にむず痒さを残すその異音は発砲音……、サイレンサーを装着した狙撃銃のそれとしか聞こえなかった。 全神経を聴覚へ振り向ける。 何処から、 誰が誰を…… いや、この場で狙撃される可能性のある人物など、唯一人だ、若宮は己の判断の遅さを呪いながら振り返った。 ちょうどその時、階段を上がり切った位置、ペンキの剥げた手すりを掴もうとする掌が白く見えた。が、甲斐もなくその主の身体は崩れ落ちて、床に当たる鈍い物音が夜の中に響く。若宮は声にならない叫び声を上げながら走り出した。 『ミスター!』 若宮が階上を振仰いだのとほぼ同時に、アパートの北西側、塀の外からエンジン音が上がり、若宮は塀際まで走った。街灯の下を避ける余裕もなく角を曲がって、黒いバンを視界に捉える。だが窓にフィルムを張り巡らせ、ナンバープレートを外した車の素性を特定することは若宮には困難と思われた。その不審な車は車一台がようやく通るだけの狭い道を猛スピードをあげ、みるみるうちに見えなくなった。 「くそ、」 人前で口に出すのを憚られる類の酷い悪態をつきながら、若宮は突かれたように逆の方向へ走り出した。アパートの門を壊す勢いで開き、階段へ走りながら多目的結晶へアクセスする。しかし応答はない。つまり意識がない、……あるいは。 一足で三段ずつ階段を駆け上がると、善行は先ほど下から見たのと同じ場所に倒れていた。 「司令、善行司令!」 腹を押さえるように横たわった身体にかがみ込み、耳元で叫ぶ。すると青白い顔の中で、閉じられていた目蓋と唇が動いた。 「ああ、若宮」 「司令、自分がわかりますか」 「ええ。わかります……僕を。部屋まで、運んでもらえますか」 「お話しにならないように。すぐ救急車を呼びます」 「それは、困る」 善行は眉を寄せた。それすら精一杯の様子で拒絶されて若宮は悟った。 救急車は目立つ、近隣の人々の口に戸を立てることはできないだろう。勇名を馳せる五一二一小隊の司令が襲撃されたなどと噂になれば、士気の下落は避けられない。 とはいえ処置も一刻を争う……そうだ自分もスカウトなのだ、それなりに心得もある。駄目なら衛生官を呼べばいい。 そう腹を括って、若宮は善行を横抱きに抱き上げた。身じろいで呻いた身体から、布の焦げた匂いが鼻先に漂った。 ペンキも合板の表面も剥げかけた扉を静かに開くと、主人の帰りを待っていたらしい軽い足音が二つ駆け寄って来た。腹でも空いているのか、足元で甘えた声をあげはじめる。善行はそれを聞いて堪えかねたという風に肩を震わせ、首をぐいと起こして言った。 「もういいです、下ろして下さい」 若宮が土足のまま抱いて入ろうとすると、善行は身をくねらせて、若宮の腕から抜け出した。 どさりと玄関の板の間に剥き出しの膝をついて、靴を脱ごうとして、そして留め金が外れるより早くそこで彼は四つん這いになって……笑い始めた。 「ははは」 若宮の下方で善行は身を丸めて笑い続ける。その様子を気味悪がってか、白黒の毛玉が元来た方向へ逃げていった。 ひとしきり笑ってから善行は立ち上がり、手洗いに入った。戻って来ると平然と壁際まで歩いて鴨居のハンガーを取り、上着を掛け、ベストを脱ぎ、ネクタイを外す。そこで、ポツ、と落下したものがあった。 三和土に言葉もなく立っていた若宮は、靴を脱いで一歩踏み出すとそれを拾った。擦れて心地を覗かせている畳の縁にかかって止まった……七・六二ミリ弾。善行はこちらにはかまわず首を深く曲げ、ワイシャツの下から現れた防弾ベストの胸元を見ている。 若宮は拾い上げたまだ温かい弾の、ひしゃげた形を指でなぞりながら、低い声で訊ねた。 「説明していただけますか」 「怒らないで下さい。言われなくても、話すつもりでいたんです」 善行はベストの腹周りの止め具を外しにかかっている。顎を引いて出す声はくぐもって聞き取り難い。 「怒ってなど、おりません」 「なんだ、それならよかった。さっきから、いつ怒鳴られるかとヒヤヒヤしていました」 善行はベストを若宮に向けると、中央に残った弾痕を見せつけながら語り出した。 「この間、球磨に呼ばれましたが。あれは守備隊の小隊長が未明に暗殺されたせいでした」 「共生派ですか?」 「ええ、犯行声明があったそうです」 「そうでしたか」 「あの部隊は二ヶ月も善戦していたんです。それが急に全滅ですから。頭を無くした部隊がいかに脆いかということです。対策を考えるべきですね」 善行は軽く首を振り、続けた。 「それから二週間で三人、指揮官クラスが襲撃されて……僕が四人目の犠牲者と言うわけです」 「つまり貴方は、襲われる事を知っていたのですね?」 「今日と判っていたわけじゃありませんよ。ただ、一昨日から不審車が気になりましてね。貴方も見たでしょう」 「はい」 「もちろん公安には連絡してあります。うまくすれば今頃は、拠点にでも案内して貰っているでしょう」 「囮ですか」 「結果としては、そういうことになりますね」 「無謀です」 若宮は思わず声を荒げ、善行の二の腕を掴んで言い募った。善行はその手に触れ、宥めるように叩いた。 「危ない橋を渡るのは僕だって趣味じゃありません。そう……今回は少なくとも死にはしないとわかっていました」 「なぜです?相手は共生派ですよ」 善行は自分の腹を指差して言った。 「わざと急所を外しているんですよ……わかるでしょう、これが彼らのやり口なんです」 善行は悔しげに続けた。 「それでも他の三人は死にましたがね。出血多量で……全員、まだ十代の学兵だったそうです」 若宮は人生の大半を戦場で過ごしている都合、多くの死を見てきた。その中には凄惨なものも数え切れないほどある。だがそれは幻獣によるものだ、その点では救いがあると若宮は思った。人の手で撃たれ、冷たくなってゆく間の、年若き士官の無念はいかほどだったろうか。 若宮はしばし瞑目した。そしてそれから目の前の、まだ生きている善行を見た。すると善行は、どさりと、まだ手にしていたベストを床に捨てて、若宮の手を取った。 「一つ、頼まれてもらえませんか」 「なんでしょう」 「こちらに来て下さい」 云われるままに続きの部屋へ踏み込むと、命ずる声が続いた。善行はそこに敷かれたままの布団の上に座ったようだ。 「そこを閉めて」 若宮が後ろ手に障子を閉めると、先に善行に常夜灯を消され、台所の電球の光も遮られた畳敷きの部屋は、真の闇に落ちた。 布団の縁は確かこの辺り、と若宮は目測で膝を着気、問いかけた。 「頼みとはなんです?」 答えはなかった。ただ衣擦れの音と共に二本の腕が伸びてきて若宮の首を引き寄せた。 日が変わってから続けて起きた事象がことごとく腑に落ちずに固く引き結んでいた若宮の唇に、髪がこそばゆく触れ、よく知った整髪料が香った。手を伸ばすとちょうど相手の額と髪の境界辺りに指が触れ、見た目の印象より柔らかい前髪はしっとりと汗ばんでいて、何度か撫でるうちにぺたりと寝てしまった。 「情けないでしょう……ねえ戦士。今になって、こんなに震えている」 善行は若宮の首に巻きつけた腕に力を入れ、体を押し付けて来た。しかし本人の言うような震えは感じ取れずに抱き止める。そのうちに若宮は流されかねない己を自覚した。 が、首筋に善行の指が触れた途端にハッとなった。ひどく冷たかった。 「わかりますか」 笑みを含んだ声で言って、善行は若宮の左手を取ると制服のズボンの上から己自身に触らせてくる。若宮は咄嗟に腕を引き戻そうとしたが、善行は許さない。 「えー、つまり、誘っておいでですか?」 「さあ。どうなんでしょうね」 冗談とも本気ともつかぬ口振りで善行は答えた。しかし腕の力が弛む気配はない。さらに動こうとしない若宮に業を煮やしてか、あからさまな形で脚を腰に絡ませた。 詰めていた息を吐き出す。 「やめましょう」 「どうして」 若宮は答える代わりに善行の肩に手をかけて蒲団の上に押し付けた。シャツの裾から右手を入れ、抵抗する腕をはね除けながら鳩尾に触れる。 「ッ!」 案の定、善行は腹を庇って丸くなった。その体に両手を回して支え発作の収束を待ってから、全身で押さえ込んだ。暗闇に慣れ始めた目を見開いて、鼻の先が触れあうほど顔に顔を寄せ、宣言する。 「大人しくなさい。自分に分からないと思いましたか?ミスター」 二呼吸ほどしてから善行は、唐突に世間話口調で切り出した。 「学生の頃ですが、友人が風邪をこじらせて。胸が痛むので医者に行ったら、咳で肋骨に皹が入っていたそうです」 「それが何か?」 若宮が口調を一層厳しくして尋ねると、善行は膝で押さえられている脚をもぞもぞ動かした。 「ただ、思い出しただけですが」 「はっきりお云いなさい。それがこれと何の関係があるのか」 若宮はすっかり教官の口調に返って質問を重ねつつ、善行の上半身からシャツと下着を剥ぎ取った。最後の最後に未練がましく引き戻そうとした指を払いのけ、丸めた布を部屋の隅へ投げる。しっかり触れた鳩尾は、握りこぶし大に腫れていた。 「関係はないですが……」 決まり悪そうに善行は、反論と微かな呻きを呑みこんだ。 「あの程度のベストでは仕方ないことです。医者に診せましょう、臓器を損傷していないとも限りません」 「医者はだめです。僕は死人ですよ」 善行は抑揚のほとんどない声で、繰り返した。 「死んだ人間です」 その頑なな様子に折れた若宮は、それでは、と前置きすると灯りをつけて救急箱を探した。 「気がついておいででしょうが、熱が出ています」 幸か不幸か、若宮が度々借りて使うために箱の中身は充実している。冷湿布と解熱剤を取り出しながら尋ねた。 「吐き気は?」 「収まりました」 「よろしい」 湿布丸々一枚の冷たさに熱を帯びた身体は震えた。かまわず絆創膏で四隅を止め、布団に追い込む。 「肋骨の一本や二本、明日には治りますよ」 「二本ですが胸骨もやられているようです。運が悪かったですな」 仰向けにという指示を聞かざるをえず、不満そうに顔だけを横に向けて、善行は指を気怠げに動かして薄い掛布の上から患部を触った。 「どうしてわかったんです」 「貴方が誘われるような時、裏がなかったことがありますか?」 「失礼ですね、その言い方は」 「自分は心配して言っております」 若宮の真剣な答えを聞いて、何かを眩しがるように眉と眉の間に皺を刻んでいた善行は、喉の奥で笑った。笑ったあげくの痛みを堪えながら、なお笑う。 「あまり怖い顔をしないで下さい。僕は正直言って貴方が怖いですよ、今でもね」 「心外です」 「目の前に立たれるだけで、叱られている気分になる」 「それは、ご自身に後ろ暗いところがおありだからでしょう?」 「まったく」 その通りですとも、そんなはずはないとも答えずに、善行は首を竦めた。 そのとき、電子音が響いた。一瞬遅れて部屋の壁際の床に直置きされていた電話機のプッシュボタンが黄緑色に光り出す。やや旧式のそれは以前の部屋の主が残していったものだ。 「電話ですが」 善行は目線を上げると、待ちなさい、と声を出さずに言った。 呼び出し音が八回目を数えると、ガチャという機械音とともに留守番機能が作動してアナウンスが流れる。二人が二人とも沈黙を守っていると、録音開始の合図の後、青年の声が流れ出した。 「もしもし遠坂です。こんな時間に申し訳ありません。司令にお話ししたい事が……」 通りのよい、年の割に大人びた声だ。ただし彼にしては早口であり過ぎ、いらぬ息継ぎが多い。ひどく緊張している。若宮は無意識の内に分析した。 「また、明日にします。おやすみなさい」 恋人に告げるような優し気な挨拶で通話は終わった。すぐに合成の女声が時刻を告げ、録音テープが止まる。 静寂が戻ってすぐ、善行は吹き出さんばかりに面白がった声を発した。 「いかにも彼でしたね」 「遠坂が、なぜ司令の自宅に電話なぞ」 「十中八九、これのせいです」 善行は左手を上げて多目的リングを示した。手首の内側に当たる位置へ嵌め込まれた石が光を失っている。あっけにとられた若宮の顔を見て、善行は唇の端を上げた。 「死んだフリもここまでくれば本格的でしょう」 「……はい、確かに」 しかしどうやってと問うと善行は首を振った。 「もちろん僕にはできませんよ。改竄してくれたのは芝村さんです」 「改竄ですか。いかにも芝村の考えそうなことです」 「確かにそうですが……役には立ちます」 「しかし今回のこれも、……つまり、貴方が芝村に近いが故ではないのですか?」 「いいえ、たぶん違います。アレを使う以上は仕方がないですが、目立ち過ぎたということでしょう。見た目も、戦果でもね」 「人型です、目立つなという方が無理ですな。それに貴方も喧伝されていたのでしょう?」 「そうでもしないと予算が出ません」 でもそのせいで、と善行は自嘲気味に笑った。 「お偉いさんには目を付けられるし、共生派にも狙われる。敵の敵は味方と言いたいところだが、僕の場合はねえ……正に四面楚歌というところです。どこへ行こうが敵ばかりですよ」 そう言って善行が目を伏せたのを良いことに、若宮はその横顔を見つめた。口元はまだ笑いの形を残していたが、薄く閉じた目元や眉間の辺りも、思いのほか傷ついているように見えた。 そこで、慰めというわけではなく、宥めようと思ったわけでもないのだが、若宮は思ったままを口に出した。 「……自分は貴方の味方です、いつでも」 「なんだって?」 善行は鋭く問い直して、身体を起こしかけたが、小さく呻いて元の姿勢に戻った。横目でこちらを睨む。 「貴方は軍のものだ」 「はい、おっしゃる通りです」 「僕に従ってきたのは辞令だし、従うのはそれは、僕が上官だからだろう」 「はい、否定はいたしません。それでも、不相応かもしれませんが、……そう思います」 善行はのろのろと右腕を動かして、無精髭の育った顎だけを残して仰向いた顔の上に載せた。若宮は黙り込んで動かない善行をしばらく見ていたが、やがて寝入ったと判断し、炎症止めの錠剤があったなどと思い出しながら立ち上がった。 すると善行は左腕を動かして、若宮のズボンの裾を叩き、待ちなさいと引き止め、それから謝った。 「そんなことを言わせたかったわけじゃない。……すみません、僕は貴方にいつも甘えて...甘え過ぎですね」 「ご自覚があるなら、けっこうです」 「はい。でも、これで最後にしますよ」 顔を隠していた腕が上げられ、若宮の肩を叩いた。細く開いた眸と、口元の柔らかい笑みを若宮は見て、善行の中で何かが明確に変化したことを感じながら頷いた。善行も頷く。 若宮はあらためて立ち上がり、台所への通りがかりのついでに、壁に掛かった制服の上着に開いた穴に指を入れた。 「ミスター。上着の替えはお持ちでしたか?」 「ないですが、必要ありません。僕は関東に帰ります」 若宮は、やはりと思い、そうですかと答えた。 「そんな顔をしないで下さい」 苦笑を唇の端に乗せて、善行は続ける。 「なにしろ僕は死んでいますから、これ以上安全ということもありません。逃げ帰る身にはちょうど良い」 「しかし、あの子らには何と?」 「黙っていなさい。貴方、得意でしょう」 「そうやって、憎まれ役を押しつけて行かれるつもりですね」 「それが貴方の仕事でしょう」 「……違いありません」 どこの隙間から入ったものか、猫の足音で若宮は目覚めた。 朝が近づいていた。 黄ばみを通り越して茶渋のような色のカーテン越しに、暖かい色味の朝日が、室内をぼんやり浮かび上がらせている。 善行は昨晩からまったく同じ姿勢で横たわっていた。薬が効いているのだろう、少々赤らんで見える頬の他には変わったところもなく、かすかな寝息だけが聞こえる。 この人は恐らく今朝にも発つつもりだ。 自分はただ信じて、待てばいい。 お前達もそうだろう? 自分の胡座の先を目もくれずに横切り主人の足元へ丸くなった白と黒の猫を、若宮はこれまでにない親しみをもって見つめた。 腹が減るのは分かるが、どうかもう少しだけ、この時間を静かな朝を共に過ごさせてはもらえないか……そう、願いながら。 《劇終》 ★060503 ASIA (SCCにて発行後、校正) 2003年後半にやっていた「100枚かいてみよう企画・大敗」の戦後処理です。やっと終わりました……。 |