《天明(オーバード)》
1
一夜明けても相変わらずの曇天であった。とはいえ空一面を覆う雲の色に雨を連想させるほどの暗さはない。目をこらすうちにも東の空は刻々と白みはじめ、連れて闇に紛れていた山々の輪郭が背景と切り離されてゆく。
小隊は国道219号線上に停止して上益城戦区からの部隊を待っていた。これで二〇分、もうあと二〇分かかりますね、と計算しながら開放式砲台に頭を出した善行は、
「司令」
呼ばれて前方を見た。
指揮車と士魂号トレーラーを挟んで、前方に若宮、後方に来須を貼り付けている。しかし通してきた回線が一対一である以上、敵襲というわけではないらしい。可憐のごつい後ろ姿を凝視する。
「どこを見ているんです」
「自分は後頭部にも目がついております」
「……、搭乗員を休憩させたいんですがね」
「それがよろしいかと。静かなものです」
「そのようですね」
数時間ぶりの外気を短く肺に吸い込み、戻りかけたところで引き留められる。
「善行司令。ひとつお伺いしたいのですが、司令はこの戦争が終わったらどうなさるおつもりですか」
想定外の問いを受けた善行がハァと曖昧な声を出すと、促されたと思ったらしい。若宮は弾むような声で続けた。
「自分はビルの清掃会社をはじめようと思います。そこで、貴方に社長になっていただきたいのですが、……いかがですか?」
「いかがですかじゃありませんよ。寝言は寝てから言いなさい」
善行は梯子を下りた。首を振る。
この戦争が終わっても、自分は軍籍を抜けられないだろう。学兵にあるまじき戦果をあげつつある部下も、外国籍を持つ者も、そして軍用クローンである彼もそれは同じなのだが。
昨夕一七三〇時。
球磨戦区において事は起こった。
鹿児島と宮崎の立て続けの陥落以来、この地では九州自動車道を封鎖するとともに、水際防衛に戦の大半を裂いていたのだが、その南端をよく護っていた隊が突然消息を絶ったのだ。
偏重配備が裏目に出て、要所を抜かれた人類側の戦線はあえなく崩壊。混乱の内に敵勢力は浸透を続け、二一〇〇時には人吉市内を完全占拠という非常事態に陥った。
民間の待避は完了していたため惨劇は免れたものの、これを放置しては熊本の要塞化という計画自体が危うくなる。
かくて北九州本部は近隣の戦区から戦力をかき集めて緊急作戦を発動。遊撃部隊扱いの5121がその一翼を担わされることになったのは、当然と言えば当然の流れではあった。
「待機終了。我々はこれより日吉市へ向かいます」
一〇分の休憩の間に本部から作戦指示を受けている。善行は渋い顔を苦労して押し隠しながらマイクをとっている。
北から南へ押し戻そうという作戦で、あえて西側にという事は、かいつまんで言えば「そこで見ていろ」ということだった。芝村閥として認知されている以上は仕方ないが、それにしても大の大人が子どもじみたことをする。
又、別の懸念もあった。観測結果に間違いがない限り、敵勢力は中規模で、当初の守備隊でも十分撃退可能だった。にもかかわらず消息不明、よもや全滅とは……明らかに異常である。判断材料不足までもが上層部の差し金かと勘ぐりたくもなるが、しかし当面は慎重を期する以外に手はない。
目標地点に到着するのとほぼ同時に、二個小隊による砲撃の轟きが、見事な朝焼けを見せている北東の空を震わせはじめた。
「あっちは随分派手ですね」
「気を使われているようです。温存させてくれるそうですから、この際甘えましょう」
退く敵をあえて遮断する愚を犯すことはない。善行は人型戦車三機に対し、市街の西の縁に待機し、近接して来る敵のみを撃退と指示を出した。
およそ一時間に渡る砲撃戦の後、敵の橋頭堡となっていたスキュラが南へ向きを変えた。地上部隊も後を追って撤退を開始するかと思われたその時。
不意にアラートが鳴った。パイロットの生体モニターからの警告音だ。小隊発足当初には引っ切り無しに鳴るためにオフにしたこともあるその音を、自分達は久しく聞いていなかったはずである。
その発信源である一号機は、市街地の二区画ほど内側まで踏み入っていた。
「一番機、突出し過ぎです。後退して下さい」
「了解。おーいお嬢さん、聞こえるか?」
しかし返答はなかった。瀬戸口が心持ち表情を引き締め、通信機を調整し始める。
「みおちゃん?みおちゃん?」
その間、東原が何度も名を呼ぶが応答はない。代わりに歩兵と三号機ガンナーから報告があがった。
「一番機、おかしいぞ」
「壬生屋は何をしておる」
漆黒の巨人はビルを凪ぎ倒し、まるで前を見ていないかのように強引に東へ進み続ける。振るい続けるカトラスに巻き込まれるように、ゴブリンらしき小幻獣が二体、弾かれ吹き飛んだ。
「回線開きます」
「どうしました、壬生屋十翼長」
瀬戸口が受信機の音量を上げると同時に、呻き声が聞き取れた。しかし不明瞭で言葉らしい言葉はない。
「落ち着け壬生屋。敵さんは逃げてんだって」
「だめ、みおちゃん、だめ!」
大きな目に涙を浮かべた東原が呼び続け、騒然となった車内には構わず、善行は指示を続けた。
「滝川機。通りに沿って南へ、50」
「うわ、なにあれ」
移動を終えた二番機パイロットが呟いた。目を丸くしている姿が目に浮かぶようだ。
「照準、一番機脚部。オペレーターは補正を」
「えっ、撃つんですか? 壬生屋は?」
「死にはしませんよ」
「だ、そうだ。滝川いけ」
二号機が九二ミリレーザーを構える。次の瞬間には閃光が街路を走り、狙い過たず人型戦車の右膝関節を撃ち抜いた。片足を無くした機体は民家を押しつぶし、朦々たる土煙を巻き上げながら倒れた。
「一号機パイロット、意識レベル低下。グリフに入ります」
モニターの表示がその報告を裏付けるのを見届けて、善行は即座に通信機を取った。
「結構です。来須機は現在地に待機、一号機に接近する敵があれば報告して下さい。他は補給線まで後退」
それから車内を一瞥し、運転席に声をかける。
「加藤十翼長、我々も移動します」
「壬生屋は? どないすんの?」
「後退と言いました」
善行は壬生屋の声にならない声の中から、彼女が我を忘れた理由を拾い出していた。おそらく瀬戸口あたりも気づいているだろう。幻獣が屍を弄ぶという噂は紛れもない事実で、そして彼女には過度に反応して然るべき理由がある。
善行は死んだ味方を目にすることが部隊の士気を著しく低下させると身をもって知っている。だからこそ部隊を後退させたのであり、パイロットの回収にはあとから自分が向かう腹だった。
ところがエンジン音と幼女の啜り泣きが沈鬱に響く中、若宮がまるで今日の天気でも告げるような調子で唐突に伝えてきた。
「こちら若宮。一号機パイロット、確認します」
モニタリングされた配置図に目をやる。確かに若宮を示す光点は一番機のそれと重なろうとしている。
「総員後退と伝えましたが。聞こえませんでしたか」
「一号機パイロット、確認します」
若宮が太い声で繰り返す。聞き間違いではないとその声音は雄弁に主張していた。
善行は声を低めて告げた。
「抗命罪を適用しますが」
「問題ありません」
それから一分も経たぬうちに壬生屋の無事が伝えられ、十数分後には彼女を担いだ若宮が補給車まで辿り着いた。疲れ切った少女の白い頬には幾筋もの涙の跡が残っており、ののみをはじめとする少女の幾人かは貰い泣きをして泣いた。
戦闘終結後、遺体回収班の作業を待たされた小隊が、戦車の回収を終えたのは夕方五時、それから部隊は薄暮の中、市内に凱旋した。作戦自体は大勝といってよかったが、帰途につく小隊を覆う空気は夕闇以上に重く冷え冷えとしていた。
意識を取り戻した壬生屋未央はウォードレス姿で立っていた。ヘルメットを外し首をやや垂れているため、長い黒髪が上半身を覆い隠している。子どもたちが作る不格好な円陣をすり抜け、同じくドレス姿の善行は正面に立った。壬生屋が面を上げると、人工血液の有機的な臭気が漂う。
「壬生屋十翼長」
「はい」
疲労を隠しきれていないものの、張りつめた顔の中で青い瞳が強い光を放っていた。強すぎる、と善行は感じる。
「貴方は自分が何をしたのか判っていますね?」
「はい。……わたくし、命令違反を」
「よく、聞こえません。はっきり答えなさい」
追求を受けた壬生屋は震える唇の奥から悲痛な声を絞り出した。潤んだ瞳が見開かれる。
「司令、聞いて下さい! わたくし、許しておけなかったんです!あのように……あんな、死者を辱める、」
善行はホルスターから拳銃を取り出し、安全装置を外した。
「だから独断で行動し、他の隊員を危険に晒したと?……言語道断です」
善行は壬生屋の頭に銃口を押しつけた。成り行きを見守っていた少年少女のうち何人かが、ああと絶望の声を上げた。さらに数名がその場にへたりこむ。
善行はその効果を確認してから、引金にかけた指を外し、手の甲で壬生屋の横っ面を張った。増幅された筋力に弾かれて、少女の体は二メートルばかり飛んで地面に崩れた。
「あなたの行動は銃殺刑に値します。ですが人型戦車のパイロット養成は当部隊の最優先任務のひとつですから、特例として懲罰委員会に身柄を預けます。この措置は二度はない。いいですね」
壬生屋は頷いた。見る間に腫れ上がった頬も滴る鼻出血もそのままに、傍目にも分かる程きつく唇を噛み締めている。
「さて、貴方も同罪です、若宮戦士」
善行は壬生屋の左側の大柄な影に向き直った。若宮はそこにずっと立っていた。こちらも兵装は解いていない。
「はい」
「話が早い」
善行は間髪入れず若宮の頬を、今度は固めた拳で殴りつけた。肉のぶつかる音に、幾筋かの悲鳴があがる。
「その処分だけど。私に一任してもらえないかしら」
善行が解散と声をかけると同時に、ハンガーに最も近い位置にファッションモデルよろしく立っていた整備班長が動いた。
「懲罰委員会?……そんなの、どうせ差し戻してくるわよ。それに壬生屋さんのせいで徹夜で整備するのは?一番迷惑するのは誰かしら?」
善行は一寸考えてから、任せますと答えて、人の輪から外れた。
壬生屋の前に立った原は、婉然と微笑んだ。
「シャワーを浴びてきてちょうだい。壬生屋さん、貴女臭いわよ。そのまま歩き回られると迷惑なの」
聞いた壬生屋の顔面に、流石に生気が呼び覚まされた。結ばれていた唇が何か言いたげに震える。
「それから詰め所に行って横になること。ねえ石津さん、ベッド空いてるでしょ?」
原は言いながら視線を巡らせ、ウォードレス姿の石津の姿をとらえた。衛生官は突然の指名に竦み上がったように見えたが、それでも必死に頷いた。
「目が覚めたら整備を手伝って。すごいわよ、今の貴方の一番機。……一週間は家に帰れるなんて思わないで、いいわね?」
判決を言い渡され、壬生屋はハイと答えた。その表情からは少なくとも居所のなさは消えていた。
善行は小隊隊長室の自席に戻っていた。どんな出撃にも煩雑な事務手続きがついてくる、まして今回は。明日のこの時間には分厚く書類が積まれているであろう場所へ善行は肘をついた。溜め息が洩れそうになるのを、あくびをかみ殺す要領で誤魔化す。
右手指の節が鈍い痛みを訴える。人を殴るのは久しぶりだった、そのせいで完全に力の加減を誤った。いやその前に、増幅される筋力を計算に入れずに生身の拳を使ったのは……どうかしている。冷静だったつもりが、そうでもなかったということか。
善行は唇を薄く笑ませ、組み合わせた両手の上に強く額を押しつけた。
この痛みが己の心の痛みだなどという甘い思考は持たない。自制心の低いパイロットを思いやっているわけでもない。だが制裁として振るった暴力の中に、それ以外の要因が全く含まれていなかったかと問われれば、それも否だ。
これは八つ当たり、に近いだろう。
善行はそう結論づけて胸が悪くなった。
それでも散漫な気分に鞭打って書類を片付けていると、立て付けの悪い扉が音を立てて開き、瀬戸口が現れた。彼は善行を軽蔑すると公言してはばからず、業務以外で同席することはまずない。珍しいと思って見ていると、端末に向かった彼は手なれた風になにかのチケットを陳情した。
「デートですか」
「これも、行けるうちに行っておくべきだと思ってね」
「誰と……と聞くのは野暮でしょうね」
「ひがむことないですよ」
瀬戸口は確かに女性なら誰もが心を動かすだろうと思わせる微笑みをこちらに向けていた。そのまま書類に戻ったこちらを興味なさそうに眺めつつも、椅子から離れる素振りは見せない。
善行はどうせ用件の済むまで居座るつもりだろうと諦め半分で話を振った。
「何か用ですか」
「善行司令、あんた……壬生屋の家族のことは、知ってるんだろ?」
「経歴に関することですから、それなりに。それがどうかしましたか」
「別に、どうってことはない。ただ」
「ただ?」
「俺は最近思うんです。幻獣の死体が消えるのは、人にこれ以上、罪を負わせないためじゃないかってね」
「人の罪ですか。いきなりなんというか、スケールの大きな話ですね」
善行は瀬戸口の、何やら片棒担ぎを持ちかけるような表情に、心中で苦笑を漏らした。それから予想外に真剣な光を曙色の瞳の中に認め、おやと思う。
「そうでもないですよ。知り合いを誰か殺されたら、相手を同じようにしたい、そういうのは普通じゃないかと思ったんです。とくにああいう……テレビでもよくやってるようなのは」
国営放送のプロパガンダ番組に決まって挿入される映像が善行の脳裏を過った。首と四肢を切り離された西洋人とおぼしき男性の惨殺死体だ。地面に描かれた奇妙な円陣の中央に胴体、全くバラバラの方角を向いて手足が据えられている。首だけは地面の上には見あたらないのだが、すぐ後に写るゴブリンの手にした槍の先端に、それらしき丸いものが突き刺さっているのだった。
なるほど、茶を飲みに来たわけでも茶化しに来たわけでもないらしい。チケットも然りだ。
善行は瀬戸口の意図を悟って、彼の日頃の浮ついて見える行いに、ある種の筋が通っていることに感心した。それからふと興味を惹かれて尋ねた。
「それは貴方自身もですか?では例えば私が戦死したとしたら、貴方、どうします」
「どうって委員長、あんたが死んでってことは、その前に俺たち全員ってことだろう?」
「仮定の話です」
「あんたがねえ、……逃げてから考えますよ」
「そう言うと思いました」
「ご期待に添えたようで」
建て付けの悪い扉をくぐってゆく青年の背中を見送りながら善行は、たとえば非難や批判の類でさえ、こちらに判らせようと近づいてくる分には与しやすい、いっそ好意さえ抱きかねないと考えた。本当に手強い相手は、本人が無意識だからこそ始末に負えないのだ。
その晩、業務を一段落した善行が隊長室の鍵を閉めながらプレハブへ目をやると、整備員詰め所から大きな人影が出てきて、それは制服姿の若宮だった。入り口にひっそり佇んでいるのは、衛生官の石津だろう。
向こうもこちらに気づいたようで、何が嬉しいのか笑顔で駆け寄ってきた。
「あがられますか。早めに休まれるのも、たまにはよいことです」
「もう日付は変わっているんですがね」
渾身の力で殴ったはずの頬にはもちろん、何の痕跡も認められない。善行は理不尽な思いに駆られながら話題を変えた。
「どこか怪我でも?」
「はい、いいえ」
結局そこから会話は弾まなかったのだが、若宮は当たり前のようについて来た。善行のアパートまで来て上がり込んでしまえば、あとは飯を食って、寝るだけだ。確かに出撃後にはその余波というものがあり、なし崩しと言うこともあるだろうが、今この時には当てはまらない。
一体、何を期待しているというのか。
夕飯のおかずを話題にする男と並んで歩きながら、善行は玄関先で追い返したらどんな顔をするかと想像した。
ところが玄関を入ってすぐに自らの口をついて出た質問に、善行は逆に腑に落ちた。自分の顔に、問い質したいと書いてあったのだろう、そして若宮はそうした善行の思惑に聡い。
「どうしてあんな事を?」
「差し出た真似をいたしました。反省しております」
「謝れとは言っていない。僕が聞いているのは理由です」
「それが……どうしてでしょうなあ、あの時はそれが良いと思えたのです」
「その程度のことで、貴方が?……そういう変な気の回し方はもう、やめて貰えませんか」
「どうなさいました」
善行は若宮の衣服を剥ごうと、めちゃくちゃに手を動かしはじめた。若宮は馬鹿のように突っ立っている。こちらの意図が皆目分からないという顔をして。困惑し切った表情を上目で確かめ、善行は手首を掴み押さえようとしてくる若宮の腕を振り払った。そのまま両手を伸ばし顔を掴んで引き下げる。
「ああ、……痛いですよ」
頬に爪が食い込んだ感触があったが、善行は構わず固い首筋に噛み付いた。痕が残るように、わざときつく吸い付いてゆく。
「おやめ下さい」
拒絶の意志を含んだ目に見下ろされて、善行は高まりつつある凶暴な気分を自覚した。
「僕だって健康な青少年です、いいから今日は黙って面倒みなさい。貴方だって、そう嫌じゃないでしょう」
「青少年はともかく、健康というのには賛同いたしかねます。ここのところ、まともに食ってないでしょう」
若宮はシャツの上から善行の脇腹を撫でおろした。
「痩せられました、……2キロ。違いますか?」
「いや分からない。計っていません」
「まったく貴方というひとは。自分にあまり心配をかけさせないで下さい」
「誰が心配しろと頼みましたか。それに、僕がこれで誰かに迷惑をかけたことがありますか?」
「今まではありませんでしたが、今後ないとは限りません。ここのヒナどもは軍の連中とは訳が違いますよ。司令が不摂生で倒れでもしたら、もろに士気に影響すると思われますが」
「人前で倒れたりなんて死んでもしませんよ。判っているでしょう」
「いいえ、判りません。ですからこうして、あえて苦言を申し上げるのです」
「ああ、もう、」
堂堂巡りを始めようとする言い合いを嫌って、善行は目の前の身体に手を伸ばした。黙らせるには一番とばかりに唇を合わせる。
「おやめ下さ……」
引き剥がそうとする若宮の犬歯が舌に食い込む。背筋に快感、と言うより期待感のようなものがべたりと貼りついた。拒む手を避けてシャツの裾を引き出すのに手間取りながら、鉄の味を反芻していたが、やがて舌に触る血の味のあまりの確かさに善行は動きを止め た。
「若宮、僕か?」
目を合わせると、若宮は気まずげに口元を曲げたが、すぐにその表情は厚い面の皮の下に見えなくなった。それどころか白い歯を覗かせる。
「はい。いい拳でした。自分が仕込んだだけのことはあると、少々感心いたしました」
「でも、昨日のことですよ」
骨折さえ一日で治す、その回復力こそが第六世代のつよさではなかったか。
「それが、……先ほどまで血が止まりませんでしたので、石津に薬を貰いました。回復力が落ちているのかもしれません」
「なぜ黙っていたんです」
「以前に較べてという話です、まだガタがきたというわけではないですよ」
若宮はばれたことで免罪符でも得た気になったのか、逆に善行の唇を塞ぎ続け、ついに黙らせてしまった。
薄く開いた瞼の隙間から、己の膝頭がぼんやりと見える。膝裏を肩で押し上げられているためで、もう少し体重を乗せられれば膝が顎に届くかもしれない。こんな、客観的になど絶対に想像したくない体勢で受け入れさせられ、我ながらどうかしている。口づけられるたびに血腥さに噎せかえり、畳に擦れる肘には焼けるような痛みを感じながら、だからほんの少しでもいいから、若宮がこの行為を復讐と思えば、そう善行は思った。
ところが自分が哀しいまでの良心の痛みを感じているこの同じ瞬間に、若宮はただ太平楽な笑みを浮かべている。なんと憎々しい。善行は、この男と初めて顔を合わせた時に感じたのも激しい憎悪だったと思い出し、次に、いま覚えているそれも大した違いはないと発見して俄に情けなくなった。
「ちょっと……」
ついに善行は覆い被さっている男に声をかけた。無理な姿勢を強要されているせいで、声はくぐもって自然に哀調を帯びる。
「ちょっと、やめてもらえませんか、若宮」
しかし若宮は本気と取らなかった。ちらりと視線をくれ、ぞっとするほど穏やかな声が耳元で囁いた。
「どうしました、そんな、しおらしい声を出されて」
「やめてくれませんか。頼む、頼むから」
顔を腕で蔽って、善行は繰り返した。
しかし答えの代わりに慣れたやり方で先端に食い込む爪先、さらには指の代わりに押し当てられた若宮自身の熱さに官能の予感が背筋を駆け上がる。
若宮には止める気配などさらさらない。自分がやめたいと言い出した事はこれがはじめてではなく、それで止めた事もないからだ。善行自身も、本当に中断されたなら、行きどころなく不快な熱を抱え込むだけだと判っている。
「もう、よろしいですね」
若宮は中断される可能性を嫌い、さっさと終わらせる方を選んだようだ。荒々しいほどに突き上げはじめる。肉のぶつかり合う、生々しい、行為の音がしはじめた。善行も一度醒めかけたものを奮い起こそうと、躍動感の塊のような肩にしがみついて躍起になって腰を振る。
重心をずらした拍子に、密着していた身体がすいと離れ、それみたことかと言わんばかり猥雑な満足を浮かべた口元が目に入った。こちらの弱みに手を伸ばしながら、何事かつぶやいた内容は、どうせ聞くに堪えない煽り文句に違いない。
言いたいことはそれだけか。
善行は己を拉ぐ男の薄い膚に噛みついた。
意識の底が白く持ち上がる。すぐに、足首を掴んでいる固い指の感触のほかには何も判らなくなった。
この行為そのものが若宮の復讐であれば。
温かく濡れた感触が、再び熱を呼び起こそうと胸の上を彷徨いはじめるのを感じながら、善行は今一度、己の中の自虐的な想念に沈み込んだ。
上官と部下という関係性に加え、若宮は法律上は未成年だ。公序良俗に反するといえばこれより酷いものはそうない。それに端から見れば一方的に組み敷かれる自分の姿は哀れを通り越して滑稽だ。
いっそ、その通りであったらと思う。
全く不本意に、暴力なり脅迫なりで忍従を強いられているのなら、その方がどれだけましなことか。
だが、この頭の中には自分の思うような薄暗い想念など欠片も存在しない。上官への絶対服従を刷り込まれている精神に、それを企てる可能性は皆無だ。自分を犯す時すら軍人然と揺らぎようのない冷静を目に宿して、常軌を逸することも、礼を欠く事もそうはない。
一体何を期待するか、だと?
全て自分の期待した通りだ、頼もしく厳しい右腕、命令を無視してまでみせる情の厚さ、思わぬ一面を覗かす人間らしさ、ねじ伏せるようなセックスさえ。
自分は騙されているのだ、
この良くできた下士官に。
頂点を越えて力つき、善行は寝具の中で伏していた。枕がどこかへいってしまっていたが、探すために頭を上げる気にもならない。
若宮の手が下腹を撫でている。汗と何かで少しべとついているが不快ではなく、伝わる体温が強烈に眠気を誘う。されるが侭になっていると、腰の後ろに回された腕がゆっくり背中を辿り、指は頤から額に辿り着き、もはや髪型なんてものの全く存在しない、ただの湿った髪を何度も梳いた。善行は瞼を閉ざしたまま動けずにいた。汚いなどとは少しも思わなかったが、ただ猛烈に眠かった。
「ねえ若宮。退役後のことですが、どうして清掃会社なんです?」
「なぜお聞きになるのです」
「質問しているのは僕だ。先に答えなさい」
「あそこから、ビルが見えましたので、」
「ウソですね」
即座に決め込むと若宮はからからと笑った。
「貴方には敵いませんな。そう、一昨日の昼飯に東原が、先生になりたいと申しまして。自分はどうかと尋ねるので、自分も考えたわけです」
「それで、理由は?」
善行は、急激な飢餓感に襲われながら体を起こした。座卓まで這って行くと手探りする。
「それしかないという気がいたします。自分たちは今でも掃除屋みたいなものです。そう生まれついたのですから、そう生きるしかありません」
「走狗煮らる、ですか。嫌なことを言う」
「自分らなんぞ犬以下でしょう。犬なら愛嬌もありますが、自分らは戦争しかできませんからな」
淡々と言った語尾は含み笑いに変わった。
善行はケースの最後の一本になった煙草を取り出して唇に挟んだ。火を灯し、それが消えるまでの間、ただ沈黙が行き過ぎた。
やがて短くなったそれをもみ消すと、また一から出直しとでもいうつもりか、大きな掌が伸びてきた。善行は身じろいだ。これ以上は鬱陶しいと思ったのだ。男同士で、まして長い付き合いなのだから、わかるだろう?
一人にしておいてくれ。
できることならそう言葉にして伝えたかった。しかし迂闊に動けばその拍子に、なにかとんでもない一言を零してしまいそうだった。
だから善行は若宮の好きにさせたまま、じっと黙っていた。
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