《泥の歌》



「司令、ラブレターやないですか? これ」
加藤が仕分けた郵便物の中には確かに、一通だけ異質な封筒が紛れ込んでいた。淡いピンク色の洋封筒だ。一応、冗談のつもりだったのかもしれないが表情から完全に失敗していた。
先の戦闘からずっと、加藤はこの調子だった。いや彼女だけではない。ここ数日、小隊の雰囲気は沈んだきりである。
あれから二日経って、念のため検査入院した壬生屋も退院したものの、まともに動く機体は軽装甲の二号機のみ。食糧事情にしても、一時の絶望的状況からは脱したものの、配給制に毛が生えた程度、一般商店にはイモ一つ並んでいない。
かつては華やかに恋愛談義など咲かせていた昼休みも、今はみな息を殺すように貧しい弁当をかきこんでいる。味もしないような顔で飲み込んだあとは、持ち場について修理や訓練をひたすら続けるのだった。


        ※  ※  ※


ステンドグラスのはめ込まれた木の扉をくぐると、手紙の差出人である少女が歩み寄ってきた。
濃紺である以外は尚絅高校のものに似た制服を着て、肩には深紅のスカーフが几帳面に折ったうえで巻き付けられている。肩に掛からぬよう揃えられた黒い髪が、眼鏡をかけた丸い顔をさらに幼く見せた。
濡れた傘を従業員に預けると、窓際の席に案内された。やがてコーヒーが運ばれてきたが、これは今まだ相当な贅沢品だ。たとえ代用素材であっても。
「上畑戦士、ですね。小隊長に?」
「はい。それと、十日付で十翼長になりました」
「これは、失礼」
いえ、いいんです。そう首を振って答えながら、彼女の表情はみるみるうちに曇った。
新しい肩書きに戸惑っていると、善行は察したが初対面に等しい相手に踏み込んだことを言うつもりはない。普段通りに応対する。
「十翼長、今日は私に、なにか?」
これを、と提げていた紙袋を示す。二冊の本が入っていた。
「私、寮で隊長と同室だったんです。これ、お借りしたって聞いてたから、返さなくちゃって思って」
「そうでしたか。わざわざすみません」
「初めはお送りしようかと思ったんですが、でも、隊長に善行さんのこと聞いてたんです。お会いしたいって思って。
……迷惑でしたか?」
「他についでもありましたから。大丈夫ですよ」

「ところで、貴方はこれを、読みましたか」
戦術要覧と、戦術教本の編者が監修した戦場心理の入門書。取り出して表紙を眺めるようにしながら善行は尋ねた。
「はい、いいえ。少しだけ見たんですけど……私には難しそうだったです」
「それは違います。読むのは簡単ですよ。本当に難しいのは実践です、どんな本でもね」
柄じゃないと思いつつ、善行は続けた。
「貴女が読みなさい。そのスカーフを、身につけることになったのですから」
「それって教官が決めたんです。私、声が大きいとか言われて選ばれちゃって。他にいないとかも言われて。でも、私なんか、先輩の代わりなんかできそうもないです」
途中で涙声になりながら一息に言い終えると、少女は感情の高ぶりを恥じるように顔を伏せた。善行は辛抱強く語りかけ続ける。

「大変でしたね。……でも、私の経験から言わせて貰うと、自分で望んだかどうかにはあまり関係ありません。貴方が下す命令一つで、部下は戦って、死にます」
ぴくりと顔を上げた少女の目に、光るものが宿っている。
「不安ですか。では貴方の部隊に教員がいますね、彼らはプロですから相談しなさい」
大きく頷いて、徐に笑いかけて見せる。
「それに私も、時間の許す限りは相談に応じますよ。軍のメールボックスに送るか、今回のように手紙でもいい。私は、貴女が貴女の部下を生かすための協力を惜しみません」
少女は下を向いたまま頷いていたが、しばらくして突然背筋を正し、深々とお辞儀をした。
鼻をすすり、眼鏡についた水滴を拭っている少女に向かって、本を返すのはいつでもいい、なんなら返さなくてもいい。そう伝えると、善行は支払いを済ませて店を出た。


        ※  ※  ※


尾けられている。そう感じたのは、建物を出て一分もしない頃だった。
最寄りの角を曲がって路地に入ると傘を脇に捨て、二十メートルを五歩で刻んでいくと、そこの壁に飲食店の裏口とおぼしき扉が設けられた窪みがあった。
善行が体をその狭い陰に押し込みつつ振り向くと、右手にした傘で頭を深く隠した人影が、滑り込んでくるところだった。もう一方の手に何かを提げ、さらに鈍い光を放つものを握っている。
善行は人影の全体を認めるや、懐に入れかけた手を戻して体の横に添えて、通路を塞ぐように立った。

軽い足音が近づいてくるのを待つ間、自分の鼓動の音と、足元にあるゴミ袋に当たる雨粒の立てる音がよく聞こえた。付近の水溜まりは廃油で濁り、湿った空気に粘つくような異臭をもたらしている。
眼前まで来たところで声をかけた。先ほどの会話の続きであるように。
「まだ何か? 十翼長」
「ばれちゃいましたね。でもまあ、わかるかな」
傘の中でくすりと笑ってから、少女は肘にかけた紙袋を揺らした。
「こんなの、本当はどうでもよかったんです」
「では、何故?」
しばらく間があった。
それから、傘の中で反響する、涙声。
「貴方なんか死んじゃえばいいって思って来ました」
おそらく善行への答えではなかった。小さな整備用ナイフを構えた少女はそれから止めどなく、怨嗟の声を吐きだした。

「みんなは、先輩は見殺しにされた、って言ってます。でも私は、それはどうでもいいです。先輩は、自分で最後まで残るって言ったから」

「でも、そんなの、ほんとは、言うはずなかったと思います」

「善行さんに言っても仕方がないってわかってます。でも」

「貴方が先輩に、何も言わなければよかったのに!」

「……私にも」
そのとき何かが反対側の角から飛び込んできた。大柄な男の髪色に目が止まって善行は叫ぶ。
「若宮」
あっという間に距離を詰め、掴みかかってきた男の剛腕を、少女は身を屈めてすり抜け、来た方向に駆け出した。傘を途中で手放し、続いてナイフも投げ出す。
「待ちなさい!」
善行は叫び、再度若宮の名を呼んだ。

「あれは……どこかで見たような顔ですが」
「何でもない。少し話をしていただけです」
「そうですか」
善行が制止したとき、若宮は足元に入ってきた白い傘を踏みつけて、めちゃくちゃに壊したところだった。それを掴んで戻って来る、途中に転がった刃物も拾い上げた。
「もちろん、こんなおもちゃで貴方をどうにかできるとは思いませんが……お怪我は、ありませんか」
「もちろんです。それより貴方こそ、なんて格好です」
珍しく私服姿の若宮は、全身濡れねずみだった。シャツは肩から腹まで濡れてぴったり貼り付いているし、雨粒でできた川が流れの顔や腕を流れ、人相が変わるほど垂れ下がった前髪からも、際限なく滴り落ちていた。

善行は路地を戻って、自分の傘を拾った。若宮はその間ずっと、逃亡者の行先に険しい眼差しを注いでいたが、最後に一言、納得しかねるという声で尋ねた。
「なぜあの娘を撃たなかったのです」
善行には答えようがなかった。



        ※  ※  ※



アパートの扉のない門を入ったところで、若宮は足を止めた。そのまま階段へ向かおうと進んでいた善行が、意外そうに振り向く。
「何してるんです。寄って行きなさい」
「はい、いいえ。これで失礼します」
「いいから、乾かしていきなさい。風邪でも引かれては面倒です」
失礼、ともう一度繰り返して敬礼してみせると、のろのろと頷く。その顔を僅か見下ろして、若宮は告げた。
「お疲れのようです。よく休んで下さい」

「待ちなさい。持って行きなさい」
開いたままの傘を差し出されて、若宮は首を振った。
「あと少し濡れたところで変わりません、それに、」
若宮はそこで息を吸いこんで、天を真っ直ぐに仰いだ。
それを合図としたように雨脚が強まり、そよとも吹いていなかった風が一陣、吹き過ぎる。
同時に頭上の密雲を引き裂いて、閃光が走った。
「司令は一本しかお持ちでないでしょう。
……明日も雨かもしれません」


告げて背を向けると同時に、鼓膜から頬のあたりまでを震わすような雷鳴が轟いた。若宮は肩に傘の骨が当たるのを感じ、次いで後ろ肘を掴まれたのを感じた。
「でも、僕を待っていたのでしょう。店の外で、僕を」
力任せに振りほどくことが許されるような間柄ではない。仕方なく、振り向いて答える。その従順が我ながらおかしかった。
「そういうわけではありません。気になることがありまして、自分は自分なりに調べていただけです」
「僕のため、でしょう?」

善行は若宮を出口脇の板塀に押しつけて阻止するつもりのようだ。だが若宮にその気がない以上はびくとも動かすことはできない。それでも善行は、体重をかけて凄んだ。
「待てと言っているんです」
「いいえ、駄目です」
自分の前腕を掴む手の甲に手を伸ばして、若宮はそっと撫でた。
「これから自分と寝たい。でしょう?」
「……」
「そう見えます。ですから、お疲れのようだと申し上げたんです」
中途半端にさしかけられた傘を払いのけると、雨水が腹の辺りに降り注いできたが、構わず押しのけて、あっという間に濡れはじめた善行の頭に手をかける。
天火がまた閃いた。
「自分も同じです。これから貴方の側にいて、何もしない自信がありません」
なんだ、と善行は笑った。
「いいかげん貴方も学習しませんね。それなら今は、僕が貴方を利用するというだけです。
……ここでいい。僕を犯せ、若宮」




若宮は承諾の意を行動で返した。捕まえた顎を引き寄せて口づける。善行も熱心に応じ、手首を掴んでいた指が滑って外れた。

戦場に出た後は、無性に人肌が恋しくなる。今日のようなのは、その延長だ。生きのびているという実感を、同じ生身の体温から受け取りたいだけだ。

二人はもつれ合って、ほぼ同時に庭の水溜まりの中へ膝をついた。若宮はそこで善行の体を反転させ、背後から度押さえつけた。
この姿勢ではまるで。
そう体の下で茶化したのを、当にそんなものだと思って聞き流す。

膝から下が水溜まりに浸かる。靴の中に泥水が入り、雑草が脛に貼り付く。だが不快に思うような理性はすでに遠ざかった。肩口を押さえ、若宮は善行の顔を地面に擦りつけた。泥水が口元まで迫って善行が噎せる。
片方の手で上着の袷を開く。首筋に鼻先を触れて、温かい胸を探り始めると、善行が歯を食いしばるのが分かった。



       ※  ※  ※



空は変わらず夕刻よりも暗い。冷たくはないが止む気配のない雨が、着衣を濡らし、染み通っていく。だが寒くはない。誰よりも温かく慕わしい体温が、まだ体の上に跨ったまま休んでいる。

一度こんな雨の中で抱き合ったことがあると、若宮は思い出した。
雪にならないのが不思議なほどの、冷たい雨が降っていた。水浸しになった塹壕の中で、今より細い体をした善行は、顔も唇も真っ白にして震えていた。真の闇の中、手探りだけで、相手をかき寄せた。若宮が求めたのか善行が提案したのか、確かな記憶はない。三日間ろくな糧食もなく待機していたから二人とも飢えていて、唾液さえ旨い気がして夢中で舌を絡め、いつしか互いの下着の中に手を入れていた。ほんの少し肌を晒すだけでも覿面に体力を奪われる、だからそれ以上はどうしようもなかった。
ふざけた話だと今でも思う。後から分かったことだが、隣の壕にいた兵が一人凍死していた、自分たちは死体の横で抱き合っていたのだ。


懐かしさと申し訳なさ半分ずつで善行を見やると、彼は天を見上げて目を閉じていた。雨が筋を作って首筋に流れ落ち、ついた泥を流し去っていく。その喉は驚くほど白い。
「……兵には幻想が必要だ。そうでしたよね? でも士官の僕にも、幻想というか……夢はある」
善行はちらりと若宮の視線を確認した後に、また目蓋を閉じて、若宮にと言うより空に向かって語りはじめた。あるいは地に降ろすように。


「僕は、貴方のような兵だけでできた部隊を思う存分動かしてみたいです。人型を持ってきたのは、間違いではありませんでしたが、近頃はどうも、大がかり過ぎる気がします」
後方あるいは横合いから強襲して中型以上の個体を狙って潰し、敵全体に反応される前に撤収する。半島では神懸かりに近い成功を得た善行の戦法は、ゲリラ戦に即して研ぎ澄まされたものだ。
「今日、準竜師の副官に会って、もしこの戦争に本気で勝つ気があるのなら、まともな戦闘用クローンを全部寄こせと言ってきました。もちろん若宮型もです」

「口約束だけだが、なんとかもぎ取りましたよ。手遅れかもしれないが、それでもやらないよりましだ」

「僕の敵が幻獣であることに感謝します。どんな卑怯な手を使っても気が咎めませんから」

でも、と言いかけて一度、
それから思い切って、
「いったい何人の若宮がここで死ぬでしょうね。
 ……貴方は僕を恨んでいい」
善行は若宮の目を見つめた。
酷薄そうな薄い色の瞳で。


兵士には正義という幻想が必要だ。それは教育下士官として数年を過ごした若宮にとって、ぴったりと身に馴染んだ思想だ。命を賭して、正義を為す。己の死後には上官が、後続が、生き残った者がそれを為し遂げる。この幻想があればこそ、兵士達はすすんで命を捨てる。
若宮はそう教え続けてきた。
しかし当の自分については、その必要は感じていなかった。生まれ落ちた日から知っているからだ。自分達には残す本当の名すらないのだと。だから、ごまかしは必要ない。

だが、若宮は深層から根ざす論理が、近年急激に覆されようとしていることにも、薄々気づいていた。それは善行に出会ってからのことだ。
……この男はいつか自分のような者さえ掬い上げると。

幻想、これがそうか。

俺は本気で信じるのか。

それは、どうして。

若宮は口元を僅かに歪めた。獰猛と称するに相応しい微笑が浮かんで消える。




「さあ、立って下さい」
若宮が差し伸べた手に善行は触れようとしなかった。自力で立ち上がると、両手で顔を拭った。
「そうですね」
若宮の肩を軽く叩き、その手を滑らせて、泥にまみれた腕にひたりと押しつける。
「こんなところでいつまでも濡れている場合じゃないですね、洗濯も必要になったし、」

「ほかにも、することがいくらでもある」


雨はまだ降り続いている。
だが西の空には、ほのかに陽光のきらめきがあり、
終わりのない雨のないことを告げていた。




劇終



★070116同人誌『ボルボロス』より一部修正の上公開。