第8章 成仏と供養の違い


 「成仏」とか「供養」とか云う言葉は日本語にあるが、この意味をハッキリと分かっている者はおらんだ

ろう。よく「寺や祈祷所」等で、水子供養と書いた「旗」が並んで立ててあるのをよく見かける。又「坊さ

んの説教」の中で「成仏」という言葉も出てくるが「成仏とはなんぞや」「供養とは何ぞや」と質問してみ

たい。案外と人によって「答弁」が違ってくるのではないかな?

 今まで、宗教界では「成仏」という言葉を使っているが、ほとんどの者が「仏になる」という風に解釈し

ておるだろう。わしが、本当の意味での「成仏と供養の違い」を説明しておこう。


成仏とは

「成仏」とは、一口に云えば、霊が安らかに眠り、その時点から死霊としての副体を出さなくなるのであり

その「霊」は災いを起こさなくなる。但し、今まで「人類や動植物・その他の生物や物等」にすでに入って

いる「副体」達は、依然としてそのままである。「成仏させる」ということは、「一般の坊さん」がいくら

修行をして念仏を唱えても出来ないというのが、「読者」にはよく理解されたと思う。

 それは、彼らは「成仏させる部屋(A室)」を持っていないし、それが証拠に安らかに眠っておるはずの

幽霊が出てきたり、霊達が枕辺に立ったりしておるだろう。人は「脳死」するまでに「3日〜3ヶ月」かか

るということを先述したが、大半はそれまでに葬儀を挙げ、その日に火葬されてしまうのである。日本でも

昔はほとんど「土葬」であったから、土の中で自然に「脳死」していた。

「脳死」していない時は「五体」はすでに心臓が止まっておる為に動かず、硬直状態になっているが「脳と

神経」だけはまだ生きておるのであり、その為「痛み・冷たさ・熱さ」は全て脳に伝えておるのである。

だから「脳」が消滅しない限り、「脳」そのものの「知覚・痛覚」は生きておる、ということになる。

 昔、戦国時代に「さらし首」というのがよく映画とか漫画などに出ていたと思うが、悪業をして「獄門に

合った者」が、街中でその者の「首」だけをさらしておる光景があった。この場合、首をはねられた時点か

ら、その者が「脳死」するまでに切り取られた傷口が相当うずき、その「痛みや冷たさ・熱さ」は続くので

ある。しかし、筋肉は硬直しておるから、その首の表情からは分からない。

 この様な場合、成仏することなく、この世を去って行ったのだから当然、祟りの念はもっておるだろう。

いくら自分が「極悪人」であっても・・・



     


 それと「成仏」すれば、安心して「次の生まれ変わり」を待ち、その時点から「副体」は一切出さず「現

世」に生きておる人類や動植物・その他の生命体に対しても、悪い影響を与えなくなるし「現世におる家族

達」にも善い影響を与えてゆくことになるだろう。



供養とは

 「供養」というのは、簡単に云えば「霊」を慰めてあげることである。一般的には「経や念仏・ミサ・お祭

り」等をすることにより「亡くなった人」が成仏したり天に上ったりしてくれるものと考えられておる。

 「AOKアソシエーション・AOKヘキサーのヒューチャー達」による、供養というのは「霊」に対して、

慰めることは当然するが、その他にそれらの霊達を「新たなシナリオ」に切り替えてやることが出来るのであ

る。それによって「次世」に於いては、また人間に生まれ変わることが出来る様になる。


     







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