<第1書架>

読んだ本を思いつくまま
並べてみました・・・!

「帝都探偵物語 私が愛した木乃伊」(赤城毅 カッパノベルス)
 個人的な感想で云うと、このシリーズの最高傑作である。

昭和2年の帝都・東京。大不況の嵐ふきあれるこの都会に、魔性の存在がその姿をあらわす。
900年の昔、中近東に生をうけ、人類すべてに憎悪をいだきその皆殺しをたくらむ魔人であった。日本に上陸した彼は、島原の乱に介入。争乱を激化させる一方、反乱軍の中から魔術をもっておのれの手足となる三体の魔物をつくりだす。三体の魔物でもって人類絶滅を策した魔人であったが、その策謀は由井正雪の乱の折りでは柳生十兵衛に、幕末には土方歳三によって阻止される。そして、昭和2年の帝都では、むろん我らが木暮十三郎が魔人のまえに立ちふさがる!

映像にしたら、けっこうイケるかもしれないストーリー。
どこぞの映画監督がヤってくれないものか?                    2003年9月刊行。
「死霊の唄が聞こえる」(田中光二 トクマノベルス)
 無久路草平なる五十年配の男が主人公。世間的には即身仏や古墳の研究者として知られるが、警察の特殊なコンサルタントをも務めていた。彼は死者の声が聞こえる能力をもっていたのだ。
無久路が難事件にのぞむとき、死者の声は、彼を驚くべき真実へと誘っていく。

 本書に収められた七編のうち、最初の「冬の牙」「笑う白骨」は、新潟県警の若手刑事からみた無久路草平の活躍がつづられている。やがて第三者をへて、無久路自身の眼に映じた事件の顛末が語られることになるが、コレにはどんなイミをもっているのだろう?
最終話「南海の逆光」で、冥界との交流に疲れた無久路は死者の誘いにのり自死を選びかける。
ソレを救ったのは、生気あふれる若い女性であった・・・。

ベツのシリーズ、<エクソシスト探偵もの>とは一味ちがうサイキック・ミステリーである。1989年12月刊行。
「海嘯」(田中芳樹 中央公論社)
 1270年代の中国。フビライひきいる元軍により滅亡寸前の南宋を舞台にそれにまつわる人間群像を描いた歴史小説である。

 ひとつの文明社会が滅ぶわけであるから、そこにはいろんなドラマが展開される。いちはやく南宋をみかぎって離反した人々、南宋の滅亡に殉じた人たち、保身のために元軍に協力した武人、最後のさいごまで元に抗した者たち、そして右往左往して結局のところ「汚名」を後世に伝えることになった人物、あるいはそうした動乱には影響されなかった庶民たち・・・などなど本書にはいろんな人間模様が描かれている。
 南宋の歴史上有名ないわゆる「三傑」、文天祥、張世傑、陸秀夫の活躍するシーンもあるけども、本書はとくにそうしたヒーローたちの伝記というものではない。南宋の滅亡という巨大な動乱の時代のなかで、いろんな形でその運命を翻弄された人々すべてに対するオマージュ・・・というのは、ちと深読みにすぎるだろうか。

 元軍にさいごまで戦いを続けた文天祥たちはりっぱであり、尊敬すべき人間群像である。だけども、誰もが彼らのようにふるまえるわけではない、と著者は「後記」にも、作品の中でも書いている。
それは、たしかにそうだ。エーリッヒ・ケストナーやオスカー・シンドラーやあるいは杉原千畝などは、敢然と己の信じるところを貫いたのだが、だれもが彼らに倣えるわけがない。
 本書では、そういういわば「英雄」たちだけではなく、結果として、卑怯者との汚名を残すことになった人にもスポットをあてている。

 最後まで己をつらぬくほど英雄的な資質もなく、また征服者にとりいる才覚もなく、文明の興亡など我関せずという超然とした姿勢もとれなかった「不器用」で「無能」でそして「臆病」だった人物・・・おそらく多くの読者の共感を呼びそうもないであろうキャラの消息でもって本書はそのラスト・シーンとしている。               1996年6月ハード・カバー版刊行
「光の帝国」(恩田陸 集英社)
 サブ・タイトルにある、「常野」は、「とこの」と読むそうである。
 本書は、この日本に、いつのころからか住みついていた「常野」と呼ばれる一族の年代記ともいえる作品である。彼らはいろんな種類の超常能力の所有者である。その力ゆえに畏怖され崇められ、時には権力者に迫害をうけて生きていく運命をもつ。
 10篇の話が収録されているが、その中でも、「光の帝国」は、悲哀にみちた作品である。戦前の日本、常野一族の超常能力に目をつけた軍部により、一族の子どもたちが狙われ、ついには全員が抹殺されていくのだ。
どことなく、筒井康隆「七瀬ふたたび」のラスト・シーン、もしくはピープル・シリーズ「ヤコブのポタージュ」で明かにされたベンドーの過去を想起させる。

 ピープルといえば、「あとがき」を読んで判ったことなのだが、作者はゼナ・ヘンダースンを読んだことがあり、こんな作品を書いてみたいと思われたとのこと。してみると、本書で創造された常野一族は、日本におけるピープル一族の(精神的な)末裔、後継者なのかもしれない。

 近年、20世紀初頭における常野一族の物語「蒲公英草紙」、そして最新刊「エンド・ゲーム」(共に集英社)が上梓されている。
「修羅の刻 陸奥圓明流外伝 第十四巻」(川原正敏 講談社)
 連綿とつづく陸奥一族の継承者たちの死闘。その明治開国編ともいうべき物語。
講道館柔道の門下生、前田光世(後世コンデ・コマとして知られる)と西郷四郎との出逢いが冒頭描かれる。その最盛期、なぜ西郷四郎は講道館を出奔する挙にでたのか。その真相が語られていく。

その昔、姿三四郎というのが柔道のヒーローとしてあった。TVや映画で喧伝された名前である。そのモデルとなったのが実在の西郷四郎、というのを知ったのは高校時代だったろうか。山嵐という必殺技をひっさげて日本柔術界をかけぬけた男。その華やかさに比べ、国事を志向した後半生は他者の関心をひきにくいかもしれない。だが、ソレをもふくめてまた西郷四郎だった。本作品は西郷の全貌をあきらかにすべく編まれた一編・・・とは言いすぎか?
 いや、理屈など脇においといて、素直に明治の陸奥圓明流継承者と山嵐の使い手との激突を楽しめばいいのだろう。
 にしても、西郷四郎と陸奥天兵との激戦のさなか。四郎が天兵を投げとばしたのをうけて、陸奥出海が漏らした一言、「足をはらってころがすだけの、あんな投げでは人は死なん」には慄然とする。圓明流が人殺しの業と云われるのも道理か?
 
 ときに本書では、現代の圓明流継承者・陸奥九十九が闘うグラシエーロ柔術誕生のキッカケがつくられた所以も明らかとなっている。ファン待望の一冊ではあるまいか。


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