昭憲のめっせーじ
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---------------------2024年 5月---------------------

月日の流れは早く、既に今年も4ヶ月が過ぎ去った。
残された人生をいかに楽しく過ごすことができるかを考えても
ただため息だけがでるこの頃だ。

ボクシングの「ガッツ石松氏」が1974年の4/11に世界タイトル戦で
タイトルを奪取したときに生まれた言葉が「ガッツポーズ」らしい。
彼は迷言も多い。
「私はボクシングと出会って人生が380度変わった」と言ったとか。。。。。
1回転しているので20度しか変わっていないが
彼の表現であればニンマリしてしまう。
賭博にはまって人生が180度変わってしまった日本人もいるが。。。。。。


自宅マンションの管理組合理事長を1年の任期で引き受け
先日無事終えることができ安堵した。
入居して43年になるが昔のメンバーは少なくなり空室も目立つ。
住民からのトラブル情報も昔の様に単純なものではなく
原因を掴むのに専門の会社に委託してやっと判明するものが
多くなり課題が山積みだった。

しかし、住民の方々からの協力は昔より多く感じられたのは
自分だけではなかった。
結果、大きなトラブルに発展することなく管理会社のサポートで
一件落着も多々あった。

資産価値を落とさないようにと定期メンテナンスの他に
10年〜12年毎の大修繕など、やることは山積みするし
時間とお金のかかる事が多々ある。

ある新聞に掲載された記事によれば、管理組合メンバーをプロに
有償で委任するというマンションが増えてきたとあった。
確かに現状を見るにその考えも否定出来ないとつくづく思った。


長年お世話になった会社より、自分と一緒に転籍し役員として入社し
定年後も元気にしてお互いの趣味やその他を楽しんだ同期入社の仲間が
この世に別れをしたという訃報が入った。
原因は白血病でこの1年入院生活を送っていたという。

落語が好きで酒が入ると話が弾んだ。
そんなシーンが頭をよぎり、寂しさがこみ上げ
しばらく空をみて手を合わせた。
お互いにそれなりの年齢になったといえばそれはそうだが
未だ早いだろうと打ち消すのだった。

年々この種の知らせが増えてきたが仕方無いと
思わねばならないのだろうか。
身体が動く内に悔いの無い時間を送ると再度心に言い聞かせた。

余談だが、長年途絶えていた高校同級生からネットで逢えた事は本当に
嬉しい出来事であった。


キョウイクとキョウヨウが充実した老後の秘訣らしい。
今日行く」と「今日用事」のことと聞いてニンマリだ。

ある研究機関の推計では2050年には全世帯の40%以上が
65才以上でその30%近くが独り暮らしになるらしい。
今、これを考えただけでもぞ〜〜〜とする。
しかし、何れ来ることに少しは頭と身体を鍛えておこう。

もう一つは「私達は肉体を維持する為に3食正しく取るが
心のために栄養をとっているだろうか。。。」である。
食事と同じようにバランスを考えじっくりと文字に目を通す習慣を
この年になっても身につけたいとしみじみ思う。


2024年5月1日 記


---------------------2024年 4月---------------------

桜の便りが日に日に各地より伝えられている。
やはり桜の花は人々の心を躍らせるものだ。
早咲きで有名な「河津桜」が毎日の散歩コースで楽しませてくれた。
近くの公園では大人も子供も笑顔で会話をしている。
風が吹く度に花びらが空中に舞っている様子に思わず頬が緩む。
それが本格的に「染井吉野」の開花となり心は躍る。

新年度を迎え新しい動きが色々な所ででる。
希望を持って新しい校舎に向かう若者、
仕立てたばかりのスーツを着て職場に向かう若者
桜の花びらがそれを祝っているように思えるのは私だけだろうか
いや、皆がそう思っている。


ヨーロッパ戦線の動きが今ひとつよくわからない。
確かに色々な所での闘いがあり総体的な状況を
オン・オフで言うのは難しいだろう。
しかし、長期にわたろうとしている状況では体力がものをいう。
ウクライナは各国の支援をうけながら頑張っているかもしれないが
ロシアはこれといった大きな痛手を受けているとは思えない。
ただ簡単に片付かないということへのイライラ感は伺える。

結局、持久戦に入ると大国の強みが出てくるのではなかろうか。
何れにしても国連はいかに早く終わらせるかの動きを進めるべきであろう。
実際には行っているのだろうがそんな報道は出ていない。
但し、先日亡くなったロシアでの戦争反対、反プーチンの動きを続けた「戦士」
に続いて徐々ではあるが国民の間に動きが出始めた事に期待したい。


我が国の民間開発ロケット打上が失敗し
残念ながらわずか5秒で自己爆破スイッチをオンとしたいうことで
あっという間に夢が消え去った。

報道では、これを「踏み台」にして1年後を目標にまた打上に向かうという。
開発者は強気の態度であるが海外のロケット打上成功の例を聞けば
早くとも1〜2年はかかるらしい。

まだまだ日本との実力差は歴然だが多くの夢と希望を乗せた宇宙への
ロケット発射だ。その裏にはマダマダ不足しているノウハウが必要であろう。
色々な外野の声が出てくるだろうがここは踏ん張って次への挑戦として欲しい。


昨年の6月から復活してきた音楽活動も色々なスタイルが出てきた。
出演依頼や打診が色々な所からくるようになって嬉しい。
主に老人福祉施設を中心に活動しているが
中にいる方々が自分と同じ年齢か少し下の方もいる。
曲の合間の会話で自分の幼少期の話がよく通じる。
ラストソングには特に思い出深い当時の有名な曲を選んで歌っている。
その時は昔のシーンが頭をよぎり声が詰まる。

会場の方々は喜んでくれるが自分も何れは。。。。。
と思うと今日一日を大切に生きたいと思う。

昔、若い頃に歌った「LET's LIVE FOR TODAY」という歌がある。
「今日を生きよう」という和名でヒットし多くの若者が歌ったものだ。
今と昔。。。元気な自分をもっと続けたい!!!



2024年4月1日 記


---------------------2024年 3月---------------------

子供の頃、冬の楽しみに「雪あそび」があった。
九州・長崎であった事から降る雪の量も少なく短時間であり
東北地方のような風景にはならないがとにかく心が騒いだ。

リアカーに段ボールの柵を作り屋根や野原に降った雪を積み
少し坂になっている道に敷いて雪道にしていく。
もう一つのスキー板は近くのおじさんに御願いして
いらない孟宗竹を板状にし先端を火で曲げた。
節の部分は靴の滑り止めとして残し
ミニ・ゲレンデを滑ったものだ。

時が経つにつれ雪は溶け始め土が剥き出しになり
中止せざるを得なかったが
子供達はスキーが出来た事に大きな喜びと
経験を得たのだった。
今でも目を閉じると当時の光景が浮かんでくる。


春が来るには2つの意味があるという。
四季の春がやってくる事と
苦しく辛い時期の後にくる楽しい時期の事だ。
能登の人々にとってはこの二つがやってくることを待っていよう。
応援隊、ボランティアの方々をはじめとした
支援パワーを入れて春をまって欲しい。


1000年続いた岩手県奥州市の「蘇民祭」というものが
歴史に幕を下ろした。
何でも担い手不足、高齢化で継続が困難になったという。
PR用のポスターに上半身裸の男性アップしたものが
不快感を与えかねないことから
JR東日本が掲示を断ったという事もあったらしい。

次々と古くからの行事などが消えて行く事へ疑問も湧くが
当事者の方々にとってはとても辛い事であろう。
平和を願う気持をこのような儀式で表す他の方法がないのか。。。。
無くすことばかりではなく、新たに生み出す方へ
視線を向ける事も必要ではなかろうか。


昨年秋より身体が思うように動かない。
特に右足と腰は歩くと痛い。
年齢からくるものとは解っていても
何か動こうとするときに悲しくなる。

これも時の流れといえばそれまでだが
このまま終わってなるものかと思う。
しかし、人間の身体がいつまでも若い頃と
同じように動くとは限らない中で
どこか妥協点を見つけたい。

自分には「音楽」があり、ライブでは今でも大声で歌える。
椅子に座しているので動き回る事はできないが
マダマダ若い者には負けないという気持はある。

この意識を持ち続けて行けばいつの日か
昔の様な動きになるかもしれない。
これを目指して行きたい。

2月25日に76才を迎え少し緊張が走った。
残りの人生を考えるようになり、ため息がでる。
今まで色々あったが人に迷惑を掛ける事なく
生きてきたのは素晴らしい事ではなかろうか。
それは自分だけの力では無く
色々な方々の協力、サポートがあったからなのだ。

未熟な自分を見て、色々教えてくれた人々
成長のために新しい世界を教えてくれた人々
そしてそっと暖かく、見守ってくれた人々
感謝 感謝 である。

2024年3月1日 記


---------------------2024年 2月---------------------

能登方面の地震と津波、羽田での飛行機事故という
混乱の年明けから早くも1ヶ月が経ってしまった。
こんな時こそ政府ならではの救助策や救援策を打ち出し
迅速に対応して欲しいと願うばかりだ。

29年前、大阪で勤務していたが夜明け前に
背中を突き上げられるような衝撃が走り
ふとんを頭から巻いて落下物を防いだのだった。

ようやく日が昇ると状況が少しづつ理解出来始め
大きな地震が来たことを知った。
家の中の破損物を整理して会社に向かい
何名かの社員とメンバーの生存確認に走った。
そして、インスタントラーメン、ミネラルウオーター、
ティッシュ、お菓子の詰め合わせ等々
を袋に入れて社員の家々に配ったりしたのだった。

夢中でやった作業だったので
時間の経つのを忘れてしまった。
東京への転勤辞令が出ていたが
お客様のシステムも動かない事もあり
引き継ぎができたのは2ヶ月を過ぎたあたり
だったと記憶する。
後ろ髪を引かれる思いで大阪を後にしたのは
今でも鮮明に記憶している。


能登の被害と比べて大阪の時は家屋が鉄筋で
あったことにより中はグチャグチャになったが
掃除すれば十分に住めた事であろう。
また水道や電気は早く開通したのでありがたかった。

神戸方面に住む部下がやってきて風呂に入ると
子供のようにはしゃいでお湯を
頭から掛けていたのが忘れられない。

自然現象との戦いになるが
全国で毎年何らかの形で発生している
この地震、津波対策は優先した国家事業として
出来ないのだろうか。国の動きに期待したい。
それと共に個人で出来る事についても
標準化がすすめば更に心強いであろう。


英国における郵便局長の不正について報道されている。
長年、コンピュータシステム開発に従事してきた自分にとって
これらの事件には不思議な事だらけである。

問題の発生から25年も経って罪のお仕着せだった事が
表に出て一転したという。
郵便事業という公共性の高い事業における金融業務で
残高の不一致等という現象を長年放置したと書かれている。

報道では残高更新のタイミングずれや
その他の事を推測要素としているが
毎日の締切処理でその差が「1円」でも許されない
日本の金融機関ではとうてい考えられない。

単なるシステム上の問題とせずヒューマン絡みの奥深い絡みや
決済処理権限の実態に踏み込んで貰いたい。


世界の大国に目をむければそのリーダー達の選挙が
予定されており、米国では予備段階の活動が開始された。
ロシアにおいてはヨーロッパにおける戦争終結が
まず行われるべき事と思うが果たしてどうなるのか。

結局、大国の勝利宣言で落ち着く等という事ではすまないであろう。
最近、ロシア内で反戦活動の動きが出たように報道され始めた。
やはり、国民のそうした動きこそが一番の薬となろう。


春が近づくと色々なスポーツが動き始める。
単なるイベントとしての動きでは無く、地震、津波、その他の
災害復旧を皆で考えるきっかけとなるような要素を
入れたものになればと願う。

施設への慰問活動が今月から活発になる、
単なる歌ではなく「元気になる歌」として
能登の皆さんに届くよう、心からやって行きたい!!!



2024年2月1日 記


---------------------2024年 1月---------------------

新聞のコラムより目に付いた事がある。
年末にふと立ち止まり1年を振り返ると
「何をしたか」という観点では無く「何をしなかったのか」というのも
大切ではないだろうかという文が頭に残っている。

「したこと」の振り返りより「しなかったこと」のそれは
すぐには出ず,色々と整理しながら振り返らなければならない
「心の掃除」という言葉が焼き付いた。


弁護士の「弁」は旧字で「辯」と書く。
両端の「幸」にはさまれて「言」がある。
本来は辛い境遇の人々を言葉で救うための
職業だったことからきたのだろうか。

その弁護士による被害が新聞を賑わせている。
辛いという字に一本棒を入れ「幸」にして欲しいものだ。

一方で年末の自動車業界に大きなニュースが走った。
全車種で安全性等を確認するテストの不正があったとする
メーカーの記事に音が目が奪われた。
何でも理由は。。。短期開発という押しつけがその要因らしい。

人の命にかかわる乗り物の製造において一番目として気を付け
開発工程の最後を担う検査確認を軽んずるということは
物作りのみならず全てにおいて許されない。
長年コンピュータのソフトウエアー開発、提供に携わった身として
テストは何回やっても何かが出るという経験が忘れられない。


新年を迎え年賀状を受け取り、名前と文面から色々想像する。
短いながらもそばにいるような気持になる。
思わず頬が緩むことも有り心が安まる。

今やコンピュータと通信技術の発達でいつでもどこでも何でも
受発信出来る時代であるが心のこもった文字はやはり嬉しい。


往年の大女優オードリー・ヘプバーン語録に
「最も大事な事は人生を楽しむ事、幸せを感じる事、
それが全て」というのがある。
自分の人生を振り返る機会の多い年末年始だが
果たして自分はどのくらい人生を楽しんでいるだろうか
振り返ってみたい。きっと、きっとまだまだだろう。

長い間コロナに悩まされていた事から解放されてきた現在
人生をまた楽しもうとしている自分にエールをおくりたい。
時の流れそのものが悲しみやいやな事を忘れさせてくれるものだ。
今年も前を向いて進みたい。



2024年1月1日 記


---------------------2023年 12月---------------------

いつも散歩する道の途中にある公園でそこにある砂場を見ていると
昔、長男や次男が同じ砂場で同じような砂遊びをしていたことが
思い出され何故か頬が緩む。
スコップとバケツから生み出される色々なアイデアだが
ハッとするシーンもある。

積み重ねた砂の小山が崩れるのを防ぐ為なのか
側面には付近に落ちている小枝を何本か差している。
誰が教えたのでもないだろうが小さな身体で考え
感じた行動に思わず拍手したくなった。


徐々にではあるがここにきて演奏出演依頼が
昨年の4件から昨日まで13件になった。
年齢も年齢なのでここらあたりが納め時と思った事もあった。
しかし、出演要請の電話を受けると途端に背筋が伸びて元気になる。

開催者も悩んでの事だったのだろう。言葉の端々にそれが伝わる。
お互いにこの3年半の様子や近況を話始めると昔話で盛り上がる。
マダマダ慎重に進めなければならないが
皆さんの笑顔を楽しみに本番を待ちたい。


旧友との再会は心を温かくしてくれる。
忘れていた昔の出来事や隠れていた話を聞くと身体が
自然と昔に戻った様な錯覚になり苦笑いする。

手許のBEERもついつい進み口が軽くなり時の流れを忘れる。
皆年齢を重ねているが昔話の時は「青春」そのものだ。
思い出を忘れないでいるためにもまたの再会を待ちたい。


新聞のコラムには「コロナ後の忘年会」という文字が目立つ。
それまでは年末・年始の頃となると「忘年会・新年会」の
準備案内に走る新入社員の記事が目に付いたものだった。
しかし、コロナの流行と共にその種のイベント開催がなくなり
新人もその実態をしらなくなったのだろう。

ところが最近では徐々に昔へ戻りつつあるという。
楽しいはずのパーティも苦痛を与えるものだと
遠慮したいのは当たり前の事だ

何でもかんでも強制するとそこに溝ができよう。
時間のかかる話だが古き良き事も見直されて欲しい。
それには先輩達による「楽しく,参加して良かった」
という仕掛けが若者達に共感を感じさせる事ではなかろうか。


2023年も残すところ1ヶ月となり今更ながら
時の流れの速さには苦笑せざるを得ない。
過去を振り返る事も大事だが今後の事をあれこれ考え
空想する中に目を輝かせる事はもっと大事であろう。

残された人生を悔いのない送りかたとするには
マダマダやりたいことが山ほどある。
廻りの方々の協力を頂きながら前を向いて進みたい。


2023年12月1日 記


---------------------2023年 11月---------------------

秋が一気に深まった
あの長かった夏日から思えばこれが本当の「秋」なんだろう。
少々肌寒さも感じるが過ごし易い日々になる事を祈りたい。

第七回「ふるさとコンサート」を無事終え、精神的には安堵の感が出た。
多くの「ふるさとコンサート」ファンが楽しみに待っていてくれた。
いつまでも少年時代の呼び名で声援をくれる。
少々恥ずかしいがうれしさがこみ上げてくる。

ステージラストの合唱「ふるさと」では不覚にも涙腺が緩んでしまった。
どうしても少年時代の光景が次々と頭をよぎってくる。
来年もまた皆さんとお会いして共に歌い
語りたいと強く心に決めた。


ヨーロッパでは二つ目の戦争が始まった。
イスラエル・ハマスという聞き慣れない隣近所の戦いらしい。
何故、そんなにもしていがみ合わねばならないのか解らない。
長い歴史の中で溜まった不安、不満の爆発なのか。

宗教、風土、歴史、、、、、等々いろいろあろう。
しかし、人を殺し合うという方法は如何なものか?
日本にいる我々には不可解である。
平和ぼけしていると言われればそれまでだが
過去の大戦争で痛い目にあってきた日本としては
繰り返すことのできない事である。
早く仲裁をとる国がでて休戦に持ち込むように願うばかりだ。

一方のロシアとウクライナの戦争は少々静になったみたいだが
これから迎える冬場をどう乗り切るか、人々の心を思うにしのびない。
日本も過去に愚かな過ちで世界戦争を起こした経験をもつ。
全てが話し合いで解決するとはおもわないが殺人と破壊で残るのは
何か。。。虚しさだけではなかろうか。


新幹線の車内販売が昨日で終わったという記事が飛び込んで来た。
なんでも「駅ナカ」という商業スペースがドンドン広がり駅弁やその他の
商品は1台のワゴンには乗せられない程の量になるらしい。
それに加えてワゴンの販売人の人手不足が重なり1964年以来の
このサービスに終止符が打たれたとある。

出張の帰りに新幹線内で同僚と飲み交わす冷えたビールの味に加えて
車窓から見える「富士山」がこの上もない「つまみ」となり話が盛り上がったものだ。
全ての旧くからあるサービスが効率や採算で廃止されるという流れに
ため息が出るのは我々時代だけだろうか?。。。いや違う!!


毎年恒例の成人病検査(後期高齢者)結果がでたという知らせがあり
恐る恐るかかりつけの病院へ出向いた。
何か言われると「覚悟」はしていたが何と昨年より改善されているという。
「そんな。。。。」と思ったがデータを見ながら医師から説明を受けた。
この2年で徐々に体重を落としたことがよかったようだ。
ひと安心したがこれを維持する努力がポイントだろう。
最近の各種老化現象に思わず「苦笑い」する。

血圧、体重等々毎日気を付ける事はあるが
あまりに過敏になることはないだろう。
普通に規則正しく生活しストレスをなくすことが
自分には最善のテーマと思う。
今年も残り2ヶ月となったがコンサートも2つほど計画されている中で
ストレスとは上手く付き合って健康で行きたい。



2023年11月1日 記


---------------------2023年 10月---------------------

まだまだ暑さの残る日が続いている。
そんな中でラーメンに関する記事が目にとまった。
ニューヨークではある日本の有名なカップ麺が5.99ドル
この所円高が進み1ドル150円に迫るほどになった。
ということは即席麺が1000円に近くなるのだった。
ラーメン店には1000円の壁があるという。

円安による小麦高騰などの追い打ちが
店の経営を苦しめ、廃業、倒産がめだつとのことだ。
為替相場に節度はないのか?
手間暇かけて作る本物の味に不条理。。。という記事に頷く。


笑点のキクオウ氏が来年3月に卒業を発表した。
少々遅い気もするが今まで長い間我々を
楽しませてくれた事には感謝したい。

近年、彼のギャグには少々首をかしげる時が多かった。
もうそろそろ交代かなと思いつつ。。。。。。
もっと期間を考えて若手の登用を図って欲しいものだ。
明らかに何を言わんとしているのか?
どうみても駄作ではないかと思う演し物
そんな出演者が増えており残念だ。

全てを高尚な笑いであって欲しいとは言わないが
座布団」だけで評価するシステムは
見直しが必要ではなかろうか。


家に眠っている部材だけでスピーカーボックスを
作ったらどうなるかという挑戦をしてみた。
何とか2週間で切断、組立、初期塗り、導通テストを行い出来た。
新しいスピーカーは友人から頂いたもの、ボックスの木材は
以前使用していた炬燵の板を利用して何とか収まった。

普段は気にしない廃材、不要品の類いを再度活かす
という事が今後の生活に優しさ、モノの大事さ、ありがたさ
等、忘れかけていたことを揺り起こしてくれるのではないか。

炬燵から転じてコンサートライブのスピーカーボックスとして
今後活躍してくれる事を期待したい。
きっと「暖かい音」を出してくれるだろう。


今月21日は第7回「ふるさとコンサート」が長崎で待っている。
2015年にスタートしたこのコンサートも途中でコロナによる
中断が2回あったが昨年より再開することができた。

故郷「香焼」の対岸にある深堀、土井首の皆さんを中心に
野母半島の方々には体力の続く限りMUSICを提供して行こうと思う。
今回のコンサートには地元のバンドが新たに参加してくれる。
きっと楽しく、明るく盛り上げてくれるだろう。
音楽を通じて長崎の片隅から「平和」を訴えていいきたい。


2023年10月1日 記


---------------------2023年 9月---------------------

連日の猛暑にうんざり。
寝不足、身体の不調に不安を覚える。
ベランダの植木はのびるのびるで剪定が追いつかない。
今まであんまり使わなかった「エアコン」がフル稼働で何かがおかしい。

8/15日は終戦記念日ということで色々なイベントが開催された。
アメリカ等の多くの国は9/2 中国は 9/3ということで
降伏文書に調印し戦争終結した日をもってそのようにいうようだ。

いつも思うのは一体何のために大国と闘ったのか?
軍人だけの考えで起こしたのか?
何を得て、何を失ったのか?
戦後育ちの自分にはリアルに解らない部分も多いが
親達の苦労は計り知れない事がよく解る。

いつもこの日に思うのは終戦の日としてのセレモニーなら
もっと形を変えてもいいのではなかろうか。
二度とバカな考えを起こさぬ為の心の見直し、準備等、
各世代に問うてみるのも。。。。。。。
形としての慰霊ではなく二度と繰り返さない為のものとして。


母は長崎で原爆の放射能を含んだ雨を浴び寸数年後に発病
父も抑留して復員後は入退院の繰り返しの末
45才の若さでこの世を去った。
自分としては「終戦の日」を「不戦の誓い日」としたい。


中国のワカラナイ「嫌がらせTEL」については
自国のみが何をやってもいいという考え方と
国を引っ張るリーダ達の頭の中が
わからない。

大国というのは面積だけでは無く
考え方も広くあるべきではなかろうか。
処理水の放水については自国でもやっており
よく言えたものだと口が塞がらない。
そして政府関係でもそれを取り上げておらず
見て見ぬふりなのか人間として疑う。


今年も高校野球が熱くその戦いぶりを伝えてくれた。
選手の名前紹介では読めない文字や読み方が多く苦労した。
髪型の変化、自由なミーティングの模様、応援席でのマナー等々
全てに時代の流れとスポーツならではの良さを感じた。

体格の変化では全てが大型化しており
高校生には見えない選手が沢山いる。
炎天下にもかかわらず元気なプレイをし我々を元気づけて
くれた選手達に心から感謝する。
そして、この経験を社会人になって多いに活かして頂きたい。


2023年9月1日 記

---------------------2023年 8月---------------------

コロナによる規制が緩和され子供神輿が4年ぶりに復活した。
対象となる世代が少なくなる今、開催に当たって参加人数の確保と
コロナ明けとはいえ安全注意、炎天下対策に苦慮した。

開催本部の設置場所も従来と違った場所となり
全て新しい試みが続いた。
そんな状況の中でもベテラン長老役員の方々は
昔を思い出すように一つ一つを丁寧に対応し策を打っていく。
その姿に老いたと嘆く 自分を情けなく感じた。

ともあれ曇天が幸いし日焼けも少なく事故もなく
無事に終えることが出来た事はうれしい。
何よりも子供達が元気に笑顔で帰宅した事は
関係者全員の喜びだった。

話変わって新聞テレビに目を向けると
自分の子供をいじめる親の事件報道が気になる。

子供を入院させ保険料を取るという、考えもつかない手口は
一体どこからくるのか、そしてそれを何年も続けており
入院回数は大変な数になっていた。
回りの方々はおかしいと気づかなかったのだろうか。

昔は町内に世話好きな爺さん婆さんがいて子供達と話をし
その中でおかしいと気がついたらその気になる子供の親に
直接意見することが多々あった。そして早い解決を見たものだ。

やはり子供は元気に町内を遊び回り、近所の方々と自由に会話し
そして環境を理解しその中で自らの窮状を年長者
友人等に訴える事で問題解決するというやり方を覚えるのではないか。
あまり他人に関わらない最近では必ずこのような事件や新たな問題が出る。

世界へ目を向けると、相も変わらずロシアとウクライナの戦いが続いているが
ロシアでは内部軍の動きに変化があり少しかわるのか注目だ。
よく聞けば、軍の内部ではいわゆる正規部隊とは別にビジネスとして
危険な作戦や活動等を請け負う部隊があるらしい。

今回はその特殊部隊のトップが反旗にも等しい動きを取った。
しかしすぐに収められ、戦いの終結に向かうかは期待出来ない。

世界の多くの国がウクライナを支援しているがロシアが引かない。
果たして戦況はどうなのか、ここまでくるとどの情報も気にならない。
一番気になるのはロシア国民がどのように感じて
プーチンのやり方をどう評価しているのだろうか。

自由に発言出来ないのか。。。。。大いに気になる。

これ以上戦争を続けることはバカなことだ。
ウクライナにしてみれば仕掛けられた喧嘩だが
元の姿に戻ればいいと思っているだろう。

今こそ大国といわれている国のリーダーは
終戦シナリオを書き出し、すぐに動いて欲しい。


2023年8月1日 記


---------------------
2023年 7月---------------------

月日の経つのは本当に早いもので一年の半分が過ぎた。
現役時代よりも引退した今の方が
それを強く感じるのは自分だけだろうか。
何れにしても残された時間を有意義に
過ごしたいと思う気持に変わりは無い。

この所毎日のように報道される「マイナンバー」を巡るトラブルだ。
コンピュータシステムを構築する場合
トップの構想からブレイクダウンして行き、色々な効果を目指した
トータルシステムを求めるのが一般的なやり方だろう。

今回の政府における一連のトラブルを見ると
ベーシックなトラブルが多すぎる中で
期待する効果が先走りPRされている。

システムを作ってもそれを運用するメンバーのパワー
スキル、システム環境や現場の運用環境が
整備されていなければ高価な無用の長物に過ぎない。

多種の投資の中で出てきたソフトウエアーを
いかにして現場に定着し効果を出すか
責任者は自ら旗を振って基本部分に注目し進めて欲しい。


新聞のコラムにふと目を通して頬が緩んでしまった。
あの「八代亜紀」さんのヒット曲「舟唄」が当時の
旧通産省から省エネの推薦曲にしたいという打診があったという。
1979年の第2次石油危機の中、
省エネの推薦にお誂えの歌詞と説明されたらしい。

〜お酒は温めの燗がいい
(さかな)はあぶった イカでいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり 灯りゃいい


これから夏に向かいクーラー、エアコンが当たり前の世の中だ。
唄を口ずさみながら気にしたい。

コラムのラストには、エネルギー危機を起こしたロ大統領へ

ポツポツ飲めば ポツポツと
未練が胸に舞い戻る。。。。


腹心の裏切りがウオッカを不味くする。。。。とある。
酒は楽しい中で美味しく飲みたいのでこの馬鹿な戦いに
ピリオドを打って欲しい。


先月、コロナで途絶えていた「施設慰問」が再開された。
久々に使用する楽器&機材に錆びや部品の緩みがあったのか
いつも使用していた拡声装置が作動しなかった。
顔からは大粒の汗が。。。。

それでも会場の皆さんは回復を待っていてくれた。
残念ながらいつもの拡声装置は使えなかったが
施設の方が出してくれたハンドマイクを使い大きな声で歌うと
会場はヤンヤの拍手連続だった。

3ヶ月後にはきちんとした設備をもって
聞いて頂く事をお約束し会場を去った。
施設の方からは昔に比べると会員の方が
10〜15%減とお聞きした。
これからは私達も頑張って名物作りを行い
一人でも多くの方々に楽しんで頂けたらと思うのだった。
再始動に心は弾んだ。



2023年7月1日 記

---------------------2023年 6月---------------------

2023年も5ヶ月が経ってしまった。
WHOは「コロナ緊急事態の解除」を発表し
日本国内も急に活気がでたようではあるが
色々な制限事項も出ており、マダマダ喜ぶには
早すぎるような気持でもある。

TV等の観光レポートではもうコロナ影響が
無関係のような状況もあるが果たしてそうなのか?
しばらくは自分で防御策を施すしか無いであろう。

この3年半もやってきた事を考えれば
暫くの様子見等はなんて事ない。
しかし、精神的には少し重しが除かれた様で有り
散歩の歩行リズムも今までより軽い。


そのような状況の中、嬉しい「復活」が出始めた。
この3年半〜4年間途絶えていた「施設慰問ボランティア」の
要請が出始めた。
今まで長年お邪魔していた施設の関係者各位から
電話を頂き出演の打診を受け始めている。

お互いに電話では声を弾ませながらの会話で有り
昔話を交えて声も少々大きめだ。
詳細計画を詰めて受話器を置くと。。。。涙腺が緩んできた。


また、主催するライブの計画も次々にでてきた。
身体は老体になってきたがこの道楽が若返りを進めてくれるだろう。
75才になって3ヶ月が過ぎた今、身体能力の低下は感じる。
しかし、何とか付いていこうとする気持だけは強い。
残された人生を有意義に過したい。

今年もベランダのメダカが卵を産み稚魚が育っている。
そして、狭い水槽の中を元気に泳ぎ回っている。
その姿を毎日見ているが日に日に老け込んだような
気持を持ち始めた自分が情けない。

ヨーロッパでの戦争は今なお続いており
現地の方々は明日をもしれない自分に鞭を入れて
守っていることであろう。

100点満点の解決策はないかもしれないが
妥協点を早く見つけて終結させて欲しいと願う。
簡単には行かない事ではあるが。。。。。



2023年6月1日 記



---------------------2023年 5月---------------------

桜の枝にはいつしか緑の葉がいきいきとしげっている。
例年よりも早い春の速度には戸惑いさえ感じることもある。

ここにきて今まで悩まされていた「コロナ感染」の話題も
消えそうではあるが復活の予想もあり手放しでは喜べない。
いずれにせよ久々に3年半前が戻りつつあることは嬉しい。

町内会の子供神輿が中止されて3年になるが
今年は実施するという話がきた。
やっときたかというワクワク感では無く
どうやって無事に終えることができるかに
主催者共々悩んでいる。

また、役員もこれを機会に若返りを図り
多くの子供達に参加してもらい
地元の活動を支えて行って欲しいと願う。

今年、正月の餅つき大会を3年ぶりに開催した。
雨の中であったが多くの子供達や親御さん達が
参加してくれた。
近隣とのふれあいが薄くなっている現状を少しでも変えて
いければと思いながら計画を進めている。


音楽活動も少しずつではあるが前進の兆しが出た。
故郷の長崎で実施しているコンサートに地元の方々が
アイデア出しやスタッフを担ってくれる。
こんなにありがたく、嬉しい事はない。

生まれ故郷への恩返しが少しでもできれば
今まで継続してきたかいがあるというものだ。
今月中旬の帰省時には地元の方々と
じっくりお話をしてみたいと心は弾む。


ベランダの水槽では「めだか」の産卵が始まった。
水温む頃をちゃんと知っているのだろう。
自然の営みは不思議なモノだ。
今年も元気な「めだか」を育てたい。

「めだかの学校」
          1950年 
詩:茶木 滋

めだかの学校は川の中

そっと覗いて見てご覧

そっと覗いて見てご覧

みんなでお遊戯しているよ



2023年5月1日 記



---------------------2023年 4月---------------------

桜の開花情報がいつもよりはやく届いている。
マスクの着用も緩和される動きがあり
少しずつではあるが明るい方向ではなかろうか。

そんな中でのニュースはやはり「WBC」における
日本チームの優勝であろう。
諦めかけた時に今までの気持を
吹き飛ばすような快打、快走がでた。

今までのコロナ圧力を感じさせない3年ぶりの大きな歓声は
抑えられていたものが一気に吹き出した爆弾のようであった。
この勢いで世界が元気になって欲しい。


H3ロケット打上についてはその失敗について
色々な意見が出ている。
エンジンの着火問題で打上延期したばかりであったが
残念ながら結果は悲しいものとなった。
今こそ総点検して徹底的な原因追及を行い
国民の期待に応えるべく再挑戦して欲しい。
我々は夢を追いかける事と開発者への応援を更に強化したい。


元徴用工問題における韓国の解決策に期待したい。
今までの長い歴史があり数々の問題を残してきたが
韓国から提案された各種の案については日本側も
歩み寄る所は歩み寄って前進すべきであろう。
そして、韓国とのパートナーシップを大切にし相互の繁栄に
結びつけて欲しいものだ。


欠席国会議員への対応について色々と言われているが
もっと早く出来なかったのだろうか。
欠席者の主張していることが何一つ理解出来ない。
これから各種の選挙シーズンを迎える事になる。
選挙権も若手の参加などでその地図は塗り替えられるであろう。
投票者の真摯な判断と行動で変わればと願うばかりだ。

春が本格化してコロナの騒ぎも落ち着く気配である。
今まで籠もっていた所から脱出して新たな空気を胸一杯
吸い込んで元気になりたいのは私だけではなかろう。


2023年4月1日 記



---------------------2023年 3月---------------------

早咲き桜「河津桜」の仲間が一斉に開花してきたという
ニュースが多くなり春の訪れに頬が緩む。
また、短い期間ではあるが人々の心に潤いを与えるこの3年間は
コロナ対策による色々な行動制限を強いられ
ともすれば「あきらめ」が先行して積極的な動きをしなかった。
音楽や自然界の動きから少しでも昔を取り戻したい。

心の健康を保つには。。。という記事が目にとまった。
他人との助け合いや心のふれあいだけではなく
文学や芸術に親しむ事も大切だとある。
ふと触れた詩の一節(昔懐かしい曲のメロディ、詩、、、)
が生きる勇気をくれるともある。
これからはこの視点、観点で触れ合っていきたい。

現在住んでいる我孫子市では市内小学校の子供達に
今 手賀沼が美しい」という曲が歌い継がれているらしい。
初演は2003年4月12日の「花いっぱいコンサート」だった。
市内在住の宇内悦子さんの詩に酒井玲子が曲をつけての作品だった。
自宅のスタジオで録音し苦労してCD化した思い出が蘇った。
地元では「手賀沼の浄化運動」も功を奏し少しずつではあるが
美しさを取り戻しているとのこと。何らかの形で応援したい。
コロナのニュースも少しではあるが落ち着きを見せてきたようだ。
これを節目として再度「自然」に目を向けていきたい。


世界に目をむけるとヨーロッパでは未だにウクライナと
ロシアの戦争が続いており1年過ぎた。
これだけ各国が何らかの形でウクライナ支援をしているが
はっきりとした決着まではいっていない。
戦争とは終結の仕方が難しいと良くいわれるが
果たしてどんな形で収まるのか予測がつかない。

何れにしても片や侵略、片や防御という一方的な形は
はっきりしておりロシア側の決心にかかっているのであろうか。
一刻もはやい停戦と復興に期待したい。
そして戦争に「春」が訪れればと願う。

話は変わるが、春到来の話題が多い中で
あまり歓迎されないのが「杉花粉」の大量飛散ではなかろうか。
「花粉光輪」という現象というらしいがアレルギー反応の
強い方々にとってはイヤなシーズンの知らせに顔が硬くなるなるだろう。

子供の頃には杉の実で竹鉄砲の弾としてよく遊んだものだった。
成長の早い「杉の木」には下駄や板壁の材料としてお世話にもなった。
あの頃もスギ花粉の話はあったのだろうか。。。記憶にない。

何れにしても季節の変わり目として毎年聞こえてくる話に

今年もしばらく騒がしいだろう。
スギ花粉が落ち着く頃にはヨーロッパに平和が訪れる事を
心から願うばかりだ。


2023年3月1日 記



---------------------2023年 2月---------------------

如月」の語源は「衣更着」寒さに更なる重ね着
気更来」陽気が戻る、「木更生」植物の生長。。。等の説があり
万物が萌え動き出す事らしい。

2023年も1ヶ月が経過した。
コロナの動きは治まっているのか、またまた新種が出現し
水面下では大変になっているのかよくわからない中で
世界の動きでは普通のインフルエンザ並に扱いだした国もでている。
果たしてどれが正解か解らないが長期にわたる閉じ込められた生活から
早く脱出したいのは自分だけではなかろう。

コロナ対応も2020年春から4年目に入ろうとしている中
新型コロナの位置づけが5月の連休明けより
インフルエンザと同じ扱いになり、感染者の全数把握が終了するらしい。

国や自治体の発表する感染者状況を安心の拠り所としてきたが
我々の不安をここでどのようにして解消するのだろうか。
まだまだ気を抜くことはできないし何が起こるか解らない。
不安ではあるが抜け出したいという気持もそれ以上に強いのは事実だ。


阪神大震災から28年、横浜での友人結婚式から大阪へ戻った翌日明け方に
突然。。。「ご〜〜」という音と共に背中を下から突き上げられ、
呻いた途端に棚から次々とものが落ち、ガラスや瓶が次々と割れていく。
外では悲鳴があちこちで起き、救急車やその他のサイレンが大きくなった。

暗い台所に転がってランプの付いた電話機を拾い
我孫子の妻へ電話した。
幸いにすぐ繋がりこちらの状況と無事を伝え、
事の重大さから判断して今後通信が
途絶えるので解って欲しい旨を伝える。
東京転勤を4日後に控えた出来事だった。

それからは後始末に2ヶ月以上かかり社員の健康確保や
お客様の対応に追われたのは言うまでも無い。

今でもあの時を思い出すと、良く無事でいられた事へため息さえでる。
瓦礫の中を歩きながら救援物資を入れた袋を抱えて配った。
しかし、被害を受けた方々は自らたくましく動き出していた。
今でも大阪へ行くとあの時を思い出して涙腺が緩む。
自然の前に何も出来ない人間だが
何かをやるのも人間なのだ。。。。。


岩手、盛岡の古名は「不来方(こずかた)」というらしい。
里人を苦しめる悪い鬼を神様が懲らしめ
「二度とこない」と誓わせたという伝えからに由来するらしい。

盛岡は東北勤務時代には良く訪問した街だ。
そして、有名な「わんこそば」もよく食べた。
NYタイムズが発表した「2023年 行くべき旅行先」の一つに
盛岡市が選ばれたとのこと。
感染症という「鬼」よ「不来方」と言いたい。


故郷長崎でのコンサート活動も10年目を迎える事となった。
老ミュージシャンのささやかな活動ではあるが
それを喜んでくれる地元の方々に心から感謝する。

演奏者・会場設営・運営スタッフそしてリスナーの皆さんが一体となった時
その達成感は何ものにも代えられない大きな喜びとなる。
年々体力が少しずつ下がっていくが気力は上がるように心がけ努力したい。
今月の25日には75歳を迎える。
年齢のせいにせず色々な挑戦を続ける!!

2023年2月1日 記


---------------------2023年 1月---------------------

コロナの終息見通しも見えない日々、その中で少しでも
明るい話ができれば幸せを感じる。
今年こそは皆さんと声高らかに歌える事を願い求めたい。

昨日はカレンダーの入替を行ったが「カレンダー」の語源が
新聞のある欄にあったので目がとまった。
諸説があり一つ目はラテン語の「calo」(叫ぶ)かららしい。
新月を見つけた事を人々に知らせた事からのようだ。

二つ目は古代ローマでは帳簿を「カレンダリウム」といい
いつしか暦に転じたとも言われる。
新旧のカレンダーを入れ替える頃になり、町行く女性の姿に
「カレンダ!」と思う男性も。。。。。。
という記事がありにんまりとなった。

年末の新聞では相変わらず「東京五輪」不正疑惑が多かった。
その経費たるや約1兆7000億円と報道されている。
大きなお金がかかるとは思って居たが余りにも莫大で有り
これが「スポーツの祭典」オリンピックのあり方だろうか?

数々の無駄や不可解な運営からくる使途不明金、合わせて
運営委員による数々の不正。。。等、もっと検査、監査機関は
厳正な調査と摘発を行い再発防止の為に公表すべきあろう。
こんな事を世界の国々でもやるのであれば残念ながら
オリンピックという名の下に開催しないで欲しい。

少々厳しい話が年初にでてきたが国の発表する数字が
余りにも庶民の感覚と違いすぎる事に不安と怒りをおぼえる。

年金生活に入って10年が経過したが決められた数字の中で
快適に暮らすことが出来ている事に感謝しつつ
今年も健康に生きて行きたい。


2023年1月1日 記


---------------------2022年 12月---------------------

2022年も残り1ヶ月となった。
外出を極力しないゆっくりとした毎日であったが
時間は容赦なく速度を増し
時にはあざ笑うように過ぎ去っていった。

3年も続いたこんな生活にそろそろ
終止符を打ちたいがそうもいかない。
落ち着いたかに見えた「コロナ感染者数」
またブリ返してきた。

第8波が懸念される中
インフルエンザとの戦いも加わり
ますます日々の生活が辛くなる。

ワクチンは自治体から案内されると
すぐ接種している自分としては
これ以上何をすればいいのかという
投げやり的な気持になる。

3年以上の抑えられた生活行動で
人生のラストコーナーを迎えたが
虚しい、悲しい時間になっているようだ。

一方で、地方のお祭りや行事が
徐々に復活しているという話を聞く。
本来の形ではなく安全面を最大限に考慮し
極力感染をしない方法を検証しての運用らしい。

従来の楽しさ、隣人との繋がり、子供達の笑顔等
少しでも戻って欲しいという事からだろう。
現在自分の住んでいる地区でも
その動きが出てきた。
何とか工夫して実施し「笑顔」を取り戻したい。


サッカー・ワールドカップが開催され
連日大変賑わっているが
試合結果に対して一部の熱狂的なファンが
暴徒化し、店舗や施設を
破壊・放火する等、、、目に余る報道が多い。

何の為のスポーツイベントなのか、、、、
腹がたつ前に悲しい。
熱狂することが悪いとは言わないが
犯罪を犯してもいいとは決して言ってはいない。


私のBIRTH DAY前日から始まった
「ロシア・ウクライナの戦争」
この12/25には初めて「聖夜」を迎える。

ロシアの攻撃対象が軍関係から97%民間施設という。
また連行されたウクライナの人々への思想教育等。。。。

ロシア国民は今一度、自国トップが
どんな事をやっているのかを知り
自分たちの出来る行動を起こし
一刻も早く、この意味の無い戦争に
終止符を打って欲しい。
そして両国に平和を、いや全世界に取り戻し
心から「聖夜」に笑顔で過ごせる為に
立ち上がって欲しい。


2022年12月1日 記

---------------------2022年 11月---------------------

急に肌寒く感じられるようになった。
10/18から1週間帰省して3年ぶりの「ふるさとコンサート」を
開催し、無事終えると安堵の気持ちからか物事が意外と
素直に入ってくるようになった。

今回の「ふるさとコンサート」では地元の方々の応援に
涙がでるほど嬉しかった。
数々の激励や応援に「開催して良かった!」の思いで
一杯となり新たな意欲も湧いてきた。

検温や消毒、座席の隔離等々、他所でも実施されている
事ではあるがスタッフはそれを笑顔で確実に実施してくれた。
今回は悩みに悩んでの開催ではあったが
案ずるよりは。。。であり、今思えば少し恥ずかしい。

また、町内会役員の皆さんや地元の皆さんの笑顔は
今も脳裏に焼き付いており、一生の宝として持ち続けたい。
打上での歓談は言うまでも無く、近年では最大の盛り上がりだった。
来年の開催も決まったようであり、更に気合いを入れて頑張りたい。


我孫子に戻ってからも嬉しい事があり、我慢の3年だったが
「施設慰問活動」の芽は残っていると確信した。

知人が最近施設訪問をした時に係の方が「びこうずさん
お元気ですかね?」と聞いてきたらしい。
「未だ慰問公演はできないけど出来るようになったらやって
欲しいな〜」という話を聞き、目頭が熱くなった。

未だ我々を待っている方々がいてくれるのだ!
皆さんの期待に応えるためにもレパートリーを増やし
喜んで頂けるようにその時をじっと待とう!。。。と。

ともすれば悲観的になり、投げやりな態度になってしまう
自分に昨日は久々「喝!」を入れた。
故郷でも我孫子でも待っていてくれる方々がいる。
その為にもコロナには負けないという気持を持ち続けていきたい。


世界へ目を転ずればウクライナとロシアの戦争も膠着状態が続き
住民の移動があちこちで起こっているという。
やはり日々安心して暮らせる土地が一番だ。

冬を迎えた両国にとって「春」はどんな形で来るのか
不安と期待で一杯だろう。
世界各国はもう少し踏み込んで両国に平和をもたらす
議論をお願いしたい。
難しいテーマであることは百も承知だがそこをリードするのが
「国連」ではなかろうか?

コロナとこの戦争の終結を心から願う!!
我孫子から発信する平和の歌と共に。。。。。

2022年11月1日 記


---------------------2022年 10月---------------------

秋の訪れが急に感じられる日々となり少し感傷的になる。
今年も既に3/4が過ぎてしまった。
年をとると時間の流れがはやく感じられるのは自分だけだろうかと首を捻る。

コロナ禍での制限された生活も3年になると
先の見えない中に諦めや無常観が漂う。
何事もしない方がいいという風潮の中で
体力や知力が段々と衰えていることを自覚する。

先月の中旬に「敬老の日」があり報道では色々な情報が発表された。
2003年に「老人の日」となり9月の第3月曜日をそうしたようだ。
また、「老人週間」というものもあり9/15〜9/21をそう呼ぶらしい。

お祝いだけではなく啓発を呼びかけるきっかけにという事であるが
自分の年齢もそれに該当しており「老人」という言葉に
少々苦笑いがおきる。

確かに今までの経験や知恵を若い世代に語ったり
引き継ぐ機会が少ない現状をみると
我々の方から接近していくことが必要かなとも思った。

ここにきてコロナ感染状況も以前と比べ少し弱まった
という報道を目にするが果たしてこのままいくだろうか?
しかし、行って欲しいと願うのは全世界の人々共通だろう。

そんな中で英国で、いや全世界で長い間愛され続けた
エリザベス女王」が旅立たれた。
若い時代から女王という立場をお勤めになったことに
心から敬意を表したい。

西九州新幹線が50年かけて開通した。
地元長崎の人々にとっては待望の新幹線であることは言うまでも無い。
66Km、5駅と極めて短い区間ではあるが今後の進展に期待したい。
また、長年親しんだ特急「かもめ」の愛称が残された事は嬉しい。
残された区間の工事見通しがないとも聞こえるが何とか地域発展の
基盤にすべく大いに議論して欲しい。

今月は2019年を最後に中止していた「ふるさとコンサート」を
長崎の生まれ故郷近くの公民館で開催する事にした。
色々な問題はあったが制限を付けてでもやろうという事で
地元の皆さんの応援を得ながら成功させたい。


2022年10月1日 記


---------------------2022年 9月---------------------

新聞のコラムに「(ほの)語らう」という文字があった。
興味深く読んでいくと思わず頬が緩んだ。
「ちょっとだけ話をするという意味らしいが、日々の生活の中に
これがあれば「コロナ」で沈んだ気持も少しは軽くなるような気がする。

高校野球の審判各位があの炎天下での試合中に
「元気を出して」「給水して」。。。等の「仄語り」をして無事終了した。
今までは声援で聞こえなかったが静かなグランドとなり時々それが聞こえた。
大人達の気配りに拍手を贈りたい。

104回大会で初めて優勝旗が「白河の関」を越え仙台に入った。
仙台は20年前に5年間住んだ所でもあり、この時だけは
自分も仙台市民の一員となり嬉しかった。
優勝校監督の挨拶に涙腺が緩くなったのは言うまでもない。

8月9日は長崎原爆投下の日だ。
母はいつものように市内にある会社へ出社しようとして桟橋に向かい
船に乗ろうとしたその時に。。。祖母が走って来た。
そして手を引いて下船させたそうだ。

祖父は身体を壊し、寝たきりの生活でラジオをよく聞いていたらしい。
そして、広島に落ちた「新型爆弾」は次が小倉か長崎に落ちると予想し
娘の今日の出社を急いで止めさせた。

その3時間後に長崎市は地獄の様を。。。
爆風は海上を走って島にある母の自宅まで押し寄せ。家は傾いたらしい。
幸いに母は助かったが翌日仲間の救助で出社し放射能の雨を浴びて
後年原爆症となり長い闘病生活を余儀なくされた。

記念式典で当時5歳だった被爆者代表が
力強い「平和」への願いを訴えた。
幾度も繰り返す「平和」という言葉に頷き
被爆2世の自分としては「平和」の文字を大空に書いた。


コロナの動向がマダマダはっきりしない現状ではあるが
10月に開催予定の「ふるさとコンサート」に向けた
地元のメンバーに感謝している。
色々な意見出し、機材の提供、スタッフの配備等々。。
頭が下がる。

仮にコロナの状態が改善せず開催が出来なくても
注意をしながら身内だけの発表会レベル様なものが
出来ないかと毎日ヤキモキしている。
音楽を聴いて少しでも元気になって頂きたいという願いである。
また、演奏者も暗い日々の中で僅かな活力を得たいのだ。

最近では色々なイベントが何らかの工夫で
変化をしながら開催されているようだ。
お客様への協力依頼も含めて慎重に進めたいが
毎日の報道を目にする度に諦めムードが強くなる。

しかし、ふるさとで準備し頑張っている方々の事を思えば
最後まで希望を持って開催実現にすすみたい!!


2022年9月1日 記


---------------------2022年 8月---------------------

「コスモス」という名の由来に目を向けた。
調和、秩序と出てきた後に反意語は混沌(カオス)とあった。
忘れようとしているコロナがまた猛威をふるいだした気配だ。
再度、「コスモス」を思い出そうと思う。

マスコミも重症度とか症状を丁寧に解説すると言うよりは
検査結果の罹患件数に重きをおいて報道しているようにしか見えない。
無症状の方が多いという報道も有り、一体何なのだと思わざるをえない。

中には重傷者や高齢者の悲しいニュースもあるが多くの人は
数字からどのような行動を起こしてどのように対処するのかをもっと
具体的に解説し導いて欲しいと願っているのではなかろうか。

菌の変化等はよくわかるが沢山いる専門家の判断を入れて
国としての姿勢や対応をもっとこまめに出して行くことを願う。

とにかく「マスク着用!」と「動くな!」だけでは
社会が機能しないし反乱が起こるかもしれない。


新聞のコラムに「阿久悠」さんの高校野球に対する言葉が出ていた。
「誠実は損することはあっても負けることはない」
ふと振り返ると久しく忘れかけていた「誠実」という言葉に勇気を貰った感がある。
全国の高校野球予選会が終わりいよいよ甲子園での戦いになろう。
正々堂々とした、そして「誠実さ」が前に出た熱き闘いを願う。


20年前のオリジナル作品「カオスの振り子」 2002年の一節
(詞:紺野あずさ 曲:酒井玲子)

青春は壊れたレコード
紫陽花咲く径 心は帰る
青春は「カオスの振り子」
同じ所を行ったり来たり
ぼくらの青春 長崎編

青春のみならず各種提案は最初から正解はない。
カオス(混沌)の振り子が同じ所を行ったり来たり。
そんな苦しみの中から何かを見つける喜びがあるのだろう。

この2年半の音楽活動自粛でvocal声量に自信を失いかけていたが
先月の地元コンサートでまだまだいけるという思いをもった。
しかし確実に肉体の衰えは身にしみる。

ふるさとの長崎を思い出し、紫陽花の花を思い出し
多くの友達を思い出し、混沌(カオス)から脱出したいと思う。
10月の「ふるさとコンサート」が無事開催出来ることを願うばかりだ。

2022年8月1日 記


---------------------2022年 7月---------------------

早いもので1年の半分が過ぎ去った。
コロナ、コロナでいい加減うんざりだが
この2年半のコロナ生活が従来のものを大きく変えただろう。
マスクは身体の一部、行動の自粛、ネットによる各種の検索と
購入の増加。。。。しかし、体力は確実に低下している。

自分自身を振り返ると70歳を過ぎてから「転ぶ怪我」が多くなった。
妻からは足腰の弱化を指摘されがなかなかそこを鍛えるという
気持にもなかなかなれない。
コロナ禍の中では「動くな!」という天の声もあるが
必要最低の運動は欠かせない。

今、若者の間では「倍速視聴」が流行しているらしい。
ファスト映画がはびこりシナリオ・セリフ等に感動しているよりも
話題のシーンや結末に目を向けるという。
人生は?どうしてこうなるのか?等々時間をかける所は飛ばさないで欲しい。

海洋冒険家の堀江謙一さんが1962年の「単独無寄港太平洋横断」
に続いて60年ぶりに83歳という最高齢で達成した。
インタビューで「明日のジョーの様に完全燃焼を成し遂げた」と語ったらしい。
命を賭けた人の言葉には光が見えるとはよく言ったものだ。

久々に家内と映画を見に行った。
「峠 最後のサムライ」という作品で幕末の混乱期における長岡藩の家老
「河井継之助」の武士としての心得、民の暮らしを守る為に戦争を避ける
という信念を感じた時間だった。
やはり命を賭けている人の言葉はそれなりの重さがあり心に残る。

ロシアとウクライナの戦争は先も見えず続いているが
終結する日を毎日願って手を合わせる。

2022年7月1日 記


---------------------2022年 6月---------------------

新聞のコラムに「歩幅と認知機能低下の関係」という記事があった。
ついつい自分の最近に見当たる節があり目が行ってしまった。

歩幅を広くする事で胸と足の間の神経伝達が刺激され脳が活性化するらしい。
また、筋肉を多く使う事で心肺機能がアップするという内容だった。
自分の場合は気にしすぎて「心配機能異常」にならないか。。。。。。。

ロシアとウクライナの戦争に終わりがみえない。
報道では局部的な戦況の報告や一時的な対応をしらせてくれるが
長期的な予測はなかなか難しいのか断言出来ないようだ。

ここにきてロシア大統領の「顔つき」の変化は
その発言内容と共に違和感をおぼえる。
健康状態の問題も漏れている。

はたして国民がこれ以上戦争を継続することに賛成するだろうか。
一部にはロシア兵士の言葉なども報道されてきた。
国内での反戦運動が終結の後押しになって欲しいと願うばかりだ。

沖縄が本土復帰50年を迎えたということで色々なシーンがでた。
自分も入社3年目に復帰した沖縄の代理店担当として活動した事を思い出す。
パスポートはなくなったが空港で洋酒等を購入するときは
航空チケットを見せる必要があったりと復帰直後はマダマダ外国ムードがあった。

しかし、県民の方々は黙々と本土復帰後のビジネスに本腰を入れていた。
その明るさとバイタリティには見習うモノが多々あった。

その後2010年に夫婦で沖縄を訪問したが大変な変わりようにびっくりした。
でも町行く人々の明るい接し方、話し方は本当に嬉しい。

大学のバンドでは一つ上の沖縄出身の先輩がベース担当であった。
独特のイントネーションや方言がおもしろくて
長崎出身の自分のそれと良く比較したものだった。

本土で流行している海外の曲と沖縄の基地内での比較などして
何故そうなのか。。。日本人のfeelingと沖縄&米国のそれについて議論した。
その後は立川、横田、福生の基地で演奏のアルバイトしたが
これらの事が大変役に立った。


NHKの朝ドラマで「チム ドン ドン」というものが始まった。
肝がドキドキするという言葉らしいが
心を合わせて協力する「チム グクル(心)」という言葉も有名らしい。
戦時下での犠牲、その後の多くの負担、多くの苦しみから「50年」。。。。。
一時とも忘れてはならない。

             さとうきび畑 (作詞/作曲:寺島尚彦) 1967

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は 
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ

    今日も見わたす限りに緑の波がうねる   夏の日差しの中で
 昔、海の向こうから
がやってきた 夏の日差しの中で

     あの日鉄の雨にうたれ父は死んでいった 夏の日差しの中で

   
そして私の生れた日にの終わりがきた 夏の日差しの中で

    風の音にとぎれて消える母の子守の歌 夏の日差しの中で
          知らないはずの父の手に抱かれた夢を見た 夏の日差しの中で
     父の声を探しながらたどる 畑の道 夏の日差しの中で

2022年6月1日 記


---------------------2022年 5月---------------------

はやくも1年の1/3が過ぎてしまった。
コロナ・コロナに追いかけられて3年近くになるが
生活の充実感はなく、ただ時間の経過のみを感じる。

夏も近づく八十八夜。。。。立春から数えて八十八夜に
お茶を飲むと長生きするという言い伝えがある。
5月の風に吹かれて木々の新緑を眺めることさえ忘れている事に苦笑する。

遠くイギリスでは「Maying」。。。5月祭と呼ばれる作物の実りを祈る日があるらしい。
はやくそんな自然との関わりを祝う毎日がやってくる事を願うものだ。

ウクライナとロシアの戦争終結がなかなか見えない。
ロシア大統領の強硬な戦略が日に日に増しているようだが
国民の声がなかなか放送されない事に以前より疑問をもっている。
恐らく情報統制されているからだろうがこのインターネット時代に
国民の声が大統領に届かないのははたして如何なものかと思う。

NHKの朝番組である女性歌手が、ウクライナの友人の事を考えると
歌手として自分に何が出来るか思い悩んだという。
そして小さい頃の経験から「愛の歌・抵抗の歌」にたどり着いた。
店先で歌うとみんなが喜んでくれた事を思い出した。

そして、歌手の加藤トキ子より「悲しみには言葉を与えよ。
言葉には音楽を与えよ。そうすれば、悲しみががいつか喜びに変わる」
すぐに解決は出来なくても解決の糸口を与えてくれる事を気づかされたという。

小さくても重ねていけば。。。。。。道は拓けると聞き
歌手として出来ることから少しでも前に進んでいくことにしたという。
この番組を見て、自分もこれをベースにして出来ることからやっていこうと決めた。

自宅前の道路が41年かかってやっと完成した。
色々な計画に問題があったのだろうが公共事業の難しさが身近に見えた。
これこそ小さくても重ねて行った結果だろう。
これからは事故のない道路として運営していって欲しいと願う。

晴れた日は毎日ウオーキングを行っている。
自宅近くにある公園にはあの「嘉納治五郎」の銅像が建っている。

あのロシアのプーチン大統領も柔道家なので
行くたびに彼を鎮めるように手を合わせている。
柔道の神様だがはたして「カノウ」かどうか。。。。。



2022年5月1日 記


---------------------2022年 4月---------------------

今日は4/1ということで日めくりカレンダーを見ると
テーマに「花見」が出ていた。
英語では何というか?という質問だった。
「CHERRY-BLOSSOM VIEWING」という英訳が掲載されていた。

自宅近くに咲く桜の花は満開となり気分も高まる。
しかし、今朝の雨で散り始めたというニュースには少しがっかりだが
短い期間だけでも心を和ませ、弾ませてくれた事に感謝感謝だ。

そんな平和な話ではあるが世界では
ほど遠いところがヨーロッパにはある。
ウクライナとロシアの戦争だ。

ここに来て停戦への会談がかなりの回数もたれるようになったが
双方の主張にはまだ隔たりがあるのだろう。
簡単には解決しないはなしというのはじゅうじゅう解るものの
ロシア側における各種の行動や発表にはいささか疑問符がつく。
また、大統領側近の離脱が伝わってくる。

特に大統領以外のロシア人民の声がよく聞こえない。
おそらく各種の厳しい統制がしかれているのであろう。
しかし、ここにきてそれも少しづつ崩れだした様に
思えるニュースになってきた。

この戦争の目的が報道されているような事なのか
はたまたロシア大統領のメチャクチャな意地なのか
よく解らないが無意味な殺戮の連続だけは避けて欲しい。

NATOもその役割と使命を果たすべく
具体的な休戦条件の斡旋や調停に
本腰を入れて欲しいと願うのは私だけではあるまい。

現場の真実情報がロシアの大統領に届いていない
等のほころびも聞こえてきた。
今こそロシア国民は立ち上がって是々非々を叫んで欲しい。
そして大統領に向かって退陣を迫って欲しいと願う。


3/11は大震災から11年という歳月が流れているが
マダマダ復興の遅れが多いようだ。
故郷を捨て新天地を求めて
多くの人々が頑張っている様子には
心から声援をおくりたい。

過ぎ去った過去の出来事では無く
これからの事として捉えて行くことが必要であろう。
大阪時代の阪神大震災、東京に戻ってからのサリン事件
そして3/11東日本大震災を経験した自分にとっては尚更である。
次々と押し寄せる課題は山ほどあろうが
昔の事として風化させない為にも3/11はしっかりと心に刻みたい。

もうすぐすると新学期が開始される。
しかし、この2年は学校へ行く代わりにON-LINEでの
リモート授業等で学生生活を過ごしてきたと聞く。

学生生活は授業ばかりの学問だけではなく
同級生や先輩、後輩達との会話がその後の人生に
大きく役立つことは多くの人が語っているとおりだ。
自分の事を振り返ってもそれは言える。
寮生活で学んだ多くの事、クラブ活動での出来事等
今思い出しても関係した皆さんに感謝する。

学校側もコロナという感染症によるための措置という事だが
ならば学生側にも少し配慮した対策を出してあげなければ
大学へ何の為に厳しい受験までしてきたのだろうか?と思うだろう。
ましてやそれを支援している親たちはたまらない。
少しでも出来る範囲で授業料を減ずる事や
その他の支援策をだしてはどうかなと思う。


3/17、久々に地元でのコンサートに出演した。
近くの大型マンションのシニアクラブ主催による記念コンサートだった。
実は2年前に企画があったもののちょうどコロナが蔓延し始めた頃で
急遽中止となったいきさつがあるイベントだ。
しかし、昨年の末頃再度の出演依頼があり喜んで引き受けた。
多少のリスクはあったはずだが再度声をかけてくれた主催者の方々に感謝したい。

この2年半、殆どのレギュラーイベントが中止、延期の中ではあったが
久々の緊張が走り、声やギターは大丈夫かという不安はあったが
開始してからは昔のトーク調でなんとか1時間を乗り切った。
自分と同世代の方々が来場だった事もあり、
当時の話題を話すと皆さん喜んでくれた。
やはりライブはいいものでした。

新たな年度が始まり事業計画も開始されるだろう。
しかし、ヨーロッパの一部では今日を生きていく事に
必死な方々が居ると言うことも忘れてはならない。



2022年4月1日 記


---------------------2022年 3月---------------------

ロシアのウクライナ侵攻で今や世界中が揺れ動いているが
どう見てもロシアの動きには賛同しかねる。
あの国には協定とか平和協約等の意味が我々の意図するところとは
違うのではないかという疑問が湧いてくる。

第2次世界大戦で北方領土への突然の侵攻は祖母からよく聞かされた。
不可侵、平和条約とは何なのか?
確かに油断していた我が国にも落ち度が無かった訳ではないが
未だに話の土俵に乗ってくれない姿勢に腹立たしい。

ウクライナに話を戻すと、今まで静かに暮らしていた所に突然の
武力行使での侵攻とは誰が見てもロシアの動きに理解賛同はしない。
また、核保有をちらつかせた「脅し」に至っては
何を考えて国を仕切っているのだろうと思うばかりだ。
長期政権を宣言しているが果たして国民はそれを
望んでいるのかはなはだ疑問である。

ニュースでロシア国民が侵攻中止、戦争反対に
立ち上がったシーンが出始めた。
やはり良識アル方々は必ずいる。

一方で国連の存在意義が話題になっている。
彼らに頼るのが間違っているのならあの組織は不要であろう。
「拒否権」なるもので逃げる姿勢は許せない。
ここで全世界は再考して見ることを願う。
形だけの「国連」なら不要だ。

何れにしても全世界が声をあげてロシアの蛮行を
止めさせなければ地球が滅びる。

先日、74歳の誕生日を迎えたがこの先安心して
あの世に行けるかはなはだ心配になった。
ワクチンの接種も3回目が済んでほっと一息であったが
そうも言っていられないだろう。
コロナの話題がウクライナに押されて忘れ去られてはいけない。
医療現場の方々は今日も必死に対応している。
感謝しつつ彼らへの応援態勢を願う日々だ。

北京で開催された冬季オリンピックが閉幕した。
その競技会場の一つが「張家口」という所であった。
私の両親が出会って結婚した所である。

父はその後職業軍人になって中国に残り
万里の長城などで写した写真が実家のアルバムに多数あった。
そんな両親の思い出の地名がテレビに出てくる度、
二人の顔が浮かんだのだった。

あのオリンピックでもロシアはル−ル違反を犯した。
ドーピング問題は昨日今日の話ではなく昔から言われたものだ。
何がなんでも金メダルという意識は解らないでも無いが
そのような規則違反してまでの栄光を欲しがる国
には厳しい罰則を示して欲しい。
IOCもWADAも。。。。。。

そもそも開催国が限定されつつある現状で今後も続けるのか
アマチュア精神が忘れ去られ、お金のかかる競技会は
模様替えしてもいいのではなかろうか。


これから気温が上昇し過ごしやすい日々に移るだろう。
桜の花は「平和の象徴」とも言われる。
開会の時期にはウクライナにもロシアにも
「本当の春」が来ることを心から願って止まない。


2022年3月1日 記


---------------------2022年 2月---------------------

種のコロナで世界中がバタバタしているが
いつになったら昔の様な平穏自由な生活に戻れるか不安ばかりが浮かぶ。
我が家の関係ではお陰様というか今のところ感染者も無く普通に生活しているが
3回目のワクチン接種案内で気持ち的には落ち着かない。

こんな状態が終わりの見えない中で続くと
精神的にも我慢の限界を感じることになろう。
医療現場の方々には深く感謝しているが医師団と政府のトップには
何か溝があるように思えてならない。

決していい加減な妥協をせよとは言わないが
強力なリーダーシップを見せて欲しいと願うのは私だけではなかろう。
このまま一生を終える夢を見ることが多くなった。
悔いの無い人生というが大きな悔いの残る人生になりそうでならない。

今月の25日に74歳の誕生日を迎える。
今月は免許の更新、車検、公共カードの更新、確定申告、ワクチン接種
等々多くの公式行事が待っている。
一つでも外さないように頑張りたい。

サラリーマンを卒業して10年が経ってしまった。
本当に時の流れは早いものだと思う。
しかし、その中で何が出来たのか、今後何が出来るのか考えてみたい。
決して大げさな事では無く自分らしい何かがあるはずだ。
探してみたい。

先日、久しぶりに廃材と手持ち部品で小型のアンプを製作した。
予定を大きく超えた製作日数を費やしてしまった。
原因は「誤配線、誤解釈による部品選択ミス」が多く、やり直しの続出だった。

肉体の衰え、特に思考回路のそれに愕然としたものだった。
まだまだ白旗は揚げたくないが緊張と健康な生活に戻り
以前のような活力を取り戻したいと思ったものだった。

ともすれば漫然と時間を過ごしている自分に気がつく。
あと何年かかるか判らないが
「喜寿」までには普通の生活に戻れればと思うが少々長いかな。
「喜寿もならずばウタレマイ。。。?」は苦しいけど。

今週から中国では冬季オリンピックが始まる。
各国の選手団も次々と到着しているニュースが流れる。
コロナの騒ぎが吹き飛ばされるような大会になればと願う。


2022年2月1日 記


---------------------2022年 1月---------------------

新たな年を迎えて心も引き締まる。
毎日毎日コロナの動きに気をもんでいたこの2年ではあるが
少々動きに落ち着きのような気配もあり
また医学界の新たな情報に期待がかかる。
政府やマスコミはもっと国民の声を大切にして
何がどうなっているのか、疑問に思うことを正確に迅速に
伝達して欲しいと願うのは自分だけではないだろう。

昨年を振り返れば「じっと我慢の子」と言うほかはない。
年齢を重ねた今、残り少ない時間を有効に過ごしたい
と願うのは我が儘ではなく
自然な想いと考える。


そんな我々の願いを頭から押さえつける
ような事ばかりで毎日が過ぎた。
定期的な施設慰問活動やコンサート活動
仲間との合同練習や会議等
ことごとく中止や延期となり
その後始末と再開への手続きに追われた。

やむを得ない事ではあったが、現在のネット社会では
色々な方法・手段が考えられた。
コンピュータ技術者であった自分には色々なアイデアが
浮かんだが途中で諦めが先になり、そのまま闇に葬られた。

そんな中、年末近くに来て小規模なコンサートが
出来るようになり、改めて関係各位に感謝、感謝、感謝する。
久々のステージになるので緊張が走り背筋が伸びた。

声援を受けて次々に旧いナンバーを歌い、演奏する。
会場は昔の活気が満ちてくる。これぞ待っていたものだ。
この2年の経験をこれからのステージに活かして行きたい。

また、今年は会社で立ち上げた音楽部のバンドが結成50周年になる。
色々な障害を乗り越えて継続した思い出深いバンドである。
秋には皆と喜びを分かち合いたい。

恥ずかしい話ではあるが昨年の11/14は我々夫婦の
結婚40年記念日だった。
家内には苦労をかけっぱなしだが無事ここまで
来られた事に感謝する。

長いサラリーマン生活には転勤がつきものだった。
大阪、東京、青森、仙台、東京。。。。。
大阪では東京への転勤3日前に「阪神大震災」、
後始末に追われて東京に戻ると
朝の出勤時「地下鉄サリン事件」に巻き込まれる等
波乱の連続だった。
「俺の人生もこれで。。。。。」と悩む日々だった。

しかし、なんとか無事に勤めを終え
定年退社し今年で10年が経つことになる。
振り返ることも必要だが今後は前を向いて
何が出来るか、何をするかに切り替えて
残りの人生を過ごして行きたい。

また、忘れてならないのは「友」のありがたさだろう。
「繋がり」、「結い」、「思いやり」を大切に
そして忘れずに生きたい。

2022年のスタートソングは「キャロル・キング」の
君の友達」を口ずさみながら。。。。。

You've got a friend Carole King 1971

when you're down and troubled
and you need some love and care
and nothing ,nothing is going right

close your eyes and think of me
and soon I will be there
to brighten up even your darkest night

you just call out my name
and you know wherever I am
I'll come running to see you again

winter,spring summer or fall
all you have to do is call
and I'll be there
you've got a friend


2022年1月1日 記


 ---------------------2021年 12月---------------------

今年も最終月となったがバタバタ感は否めない。
コロナ感染者数のニュースは日に日に低下してきたがここにきて
新たな菌の出現があり各国共にその阻止にやっきとなっている。

一方でまだその正体がはっきりしていないので
騒がずに行動して欲しいような事も報道されているが
マスコミの報道スタンスに少々疑問を抱くこともある。

決して楽観視する事はないだろうが
闇雲に不安を煽るものでもないと思う。
我々視聴者はしっかりした情報の把握と
整理が必要であろう。

そんな世の中であるが「グァテマラの折り紙算数先生」の話は
自分の施設訪問活動に共通した考えと思いながら見ていた。

算数先生は子供達、親への指導の中に「文化と算数理論」を
織り交ぜてわかりやすく興味を持って頂くような進め方だった。

自分の施設訪問では昔の曲を中心に演奏し
ご存じの方への質問で「この曲での思い出はなんですか?」
「この曲の一番好きな歌詞やメロディはどこですか?」
と質問すると皆さん必死に思い出そうとしてざわつく。
そうなると次々と思い出してお話が聞ける。
その曲への興味が湧いてきたのだろう。

当時を思い浮かべ、思い出してもう一度チャレンジしたいと
いう心を起こさせるようにお話や演奏をする。

曲の作られた時代背景や作者の経歴等はもとより
自分の記憶している事等を施設の皆さんと一緒に
掘り起こす事で「もう一度。。。」の気持になればと思う。

難しい曲を演奏し歌って聞かせるという姿勢では無く
元気だった昔の事を思い出し、その当時のパワーを
蘇らせることが明日の活力になると思うのである。

11/14に1年8ヶ月ぶりのコンサートを開催した。
この日は我々夫婦の40回目の結婚記念日であり
折角だから何かしようとずっと考えていた。

幸いに近所のレストランが場所の提供を気持ちよくしてくれ
演奏メンバーやお客様も近所地域に限定しての開催となり
来て頂いた皆さん、大いに喜んで頂いた。

コロナの影響で昨年の3月が最後のコンサートとなり
じっと我慢の連続であった。
もし開催して大事になったらどうしようか。。。。止めとくか。。。。
はたしてギターをちゃんと弾けるか。。。。ちゃんと歌えるか。。
と毎晩悩みながらの開催であった。

コンサートの最後に開場の皆さんと童謡「里の秋」を歌った。
2番目、3番目の歌詞に父や母が出てきた。
抑留して引き揚げ者だった父や原爆に被爆した母の顔が
頭に浮かび。。。。コンサートが出来た事への感謝で
泣いてしまった。

これからも身体の動く限りこの活動を継続して行こうと誓った。


2021年12月1日 記


 ---------------------2021年 11月---------------------

日毎に秋が深くなって行く様子で少しもの悲しくもある。
公園の木々は葉を落としている。
やがてやってくる冬への備えだろう。
落ちた葉の色が何故か淋しいと思うのは年のせいか。

そんな中、我が家の水槽ではメダカがまだ産卵をしており
先週には4匹の子供メダカが孵化し元気に泳いでいた。
思わず頬が緩むことになったがメダカの動きから
失いかけた元気をもらった。

この数日間騒がしかった「総選挙活動」だったが
今日の新聞には結果が詳細に掲載されている。
やはり口だけでなく行動で示した候補者、期待される若手への
投票が目立っているのは嬉しい。

満18歳以上という選挙権年齢引き下げを実施したが
果たして本当に何人が投票したのか
はたまた政治へ目を向け自分として考えたのか注目される所ではある。
これには時間と理解へのPRが必要であろう。
まずは家族で話し合ってみるのはどうだろうか。

コロナのニュースも少々下火になった感があるが
マダマダこれから変異種の出現で気が抜けないであろう。
国として最優先でこの感染阻止対策を打ち、経済活動も起動にのせ
普通の生活に戻して欲しい。
選出された議員の方々には何よりもそれを優先してお願いしたい。

今月の11/14に結婚40年を迎える。
思えばあっという間であった。
単身赴任生活10年があった中で二人の子供達を
無事育ててくれた妻には感謝の気持で一杯だ。

夫婦での施設慰問やライブ活動を中心に音楽楽しんでいるが
この2年はコロナの事があり軒並み中止、延期といった事態になった。
しかし最近になって色々な所から声がかかるようになりソワソワ気分でもアル。

取りあえず今月の14日の結婚記念日は40年という節目でもあるので
「Ruby婚コンサート」と称して近所のライブハウスを借り
久々のライブを計画した。
果たして以前のようにギターがきちんと弾けるか
声がちゃんと出るか心配はあるが思い切りやってみようと決めた。

地元の友人や以前からのファンの方々も
何人か駆けつけてくれるようでありがたい。
今後も継続していけたらと願う。


2021年11月1日 記


 ---------------------2021年 10月---------------------


昨年開催予定であった「オリンピック&パラリンピック」も
大きな事故も無く無事終了した。

ただ、無観客による入場料収入900億円の問題や当初描いていた
その他の収入の激減は開催者としては大きな見込み違いであったろう。
原則は東京都による補填ときくが政府の方も加わる事になるだろうが
いずれにせよ国民の税金が使われる。
開催した事が後々大きな夢や行動・気持を引き起こすことは
間違いないが少々大きい金額ではなかろうか。

その中で「IOCの存在、役割」が気になるところではあった。
開催ルールを踏襲し、主催国がもっと自由に企画して
実施できるオリンピックにならないのか
大会が終わるまで思い続けたものだった。

その中で「パラリンピック選手」の動きや活躍には
無限の可能性を感じ、勇気づけられ
時には涙で頬をぬらすシーンもあった。
彼らの活動、言動にもっと平素からスポットを
当てることができないものかとも思った。

政治の世界では首相が退陣表明を行った。
コロナの今後がはっきりと見通せない中ではあるが
そこに追い込んだ廻りの非協力には怒りすら覚える。
戦国時代より言われているが知恵アル側近の優秀さは
数々のリーダーを救ってきた。そんなそぶりすら見せない。
今おかれている状況を踏み込んで見直し
派閥を超えた活動して欲しいものだ。

不思議なのはそのような中、首相が退陣を表明した後に
コロナ陽性者の激減が毎日のように報道されだした。
何の関係もないとは思うが不思議でならない。

本日で緊急事態宣言の解除が報道された。
但し、都道府県の判断により地域の飲食店については色々な
制限がついているようだがお店を経営されている方々にとっては
待ちに待った事であり、今後の好転を期待するのは皆同じ気持ちだろう。
心から応援したいと思う。

毎年、ふるさと長崎で開催してきたコンサートを今年も中止した。
悩みに悩んだ結果だが廻りの方々に迷惑をかけることは出来ない。
また、来年を目指して関係者の結束を固めたい。
出演者からの声は皆「悔しい」「残念」というものが多い。
主催者としてこの気持を十分にくみ取り来年の開催に向けて万全を期したい。

ヨーロッパのサッカーでは多くの人が「カンセン」したとテレビで言う。
コロナの「感染」かサッカ−の「観戦」か。。。。
画面ではマスク無しの観客が多く、これでは拡散すると思った。
解放された喜びはよくわかるが暫くは今まで我慢してきたように
防備する姿勢を続けよう!!


2021年10月1日 記


 ---------------------2021年 9月---------------------


テレビを見ると毎日毎日コロナ感染者のグラフがでており
憂鬱さに拍車をかける。
確かに楽観的な事はいえないだろうが
視聴者の心情を推測し
もう少し元気をつける事が言えないのかと思うのは
自分だけだろうか?

ここにきて若者の接種予約への動きが注目されてきたが
今までの報道ではそっぽを向くシーンや
深夜の路上飲酒シーンばかり写されており
真剣にワクチン接種を望むものは少なかった。

老人クラスの摂取率が90%近くになっている現在
所謂働き手の中心とも言える若者への対応に
目を向けるのが時間かかりすぎの気がしてならない。

ともすれば国政を担当する政治家は
この秋の選挙に心が移り
一番大事な人間の生命に関わる事を
疎かにしているようで心が痛む。
早急に国産で十分対応できるシステムを確立し
少しでも安心を持てる生活に戻りたいと願う。

あの地獄のような暑さが少々和らいできたが
行く夏への思いはつきない。
公園の木々に群れていた蝉の多くも姿を消し
日陰をくれた緑の葉が黄や赤に変色してきた。

この2年近く道楽の演奏活動もなく
ひたすら家内との自宅練習に励んできたが
10月以降には限定されてメンバーと場所で
小規模なイベントを再開したい。
しかしながらウイルスの恐怖は
マダマダ落ち着いておらず悩ましい。

人生の最終コーナーに来て倒れるのはいやだが
迷惑をかけない範囲で余生を過ごしたい。


2021年9月1日 記


 ---------------------2021年 8月---------------------


いろいろと議論があった東京オリンピックも開催され前半戦が終わった。
今後は後半戦に続いてパラリンピックなども続いており目が離せない。

コロナ渦の中、外出も出来ず家でモンモンとする身としては
テレビでの観戦に追われるしかない。
日本選手の活躍にいつしか声援も大きくなっている。
最後まで事故が無く無事終わることを心から願う。

出場選手にとっては無観客という何とも考えられない形での開催もあり
力の出ない雰囲気であろうが主催側の苦しいやり繰りもよくわかる。
しかし、テレビ放映料のウエートが運営の中心になっており
スポンサーの意思がありありでもある。
今後のオリンピック開催のあり方や本来のスポーツの祭典とは何かを
全世界で議論し4年に1回の平和行事としていければと願う。

8月になると毎年母の被爆話を思い出す。
8/9朝、桟橋で出社しようと船に乗り込んだ母の手を引き
家に引き戻したという話だ。
祖父は若い頃村の相撲大会に出て柱で脊椎を強打し
下半身不随の生活を送っていた。
寝床ではラジオをよく聞いて家族に解説していたという。
そんな祖父が広島の「新型爆弾投下」を聞き
次は小倉か長崎だろうと言ったそうだ。
小倉も長崎も軍需工場があり長崎は戦艦武蔵を建造した所でもある。

祖父は8/9朝、長崎市へ通勤の為港から乗り込んだ
母の手を取り自宅へ連れ戻した。
祖父から理由を聞いたが信じられなかったという。
しかし、昼近くになり長崎市の方から海を渡って爆風が自宅を襲い
木造の自宅は斜めに傾いたとらしい。

それからは長崎にも新型爆弾が落ちたということで
大騒ぎになり母は翌日朝便で同僚を救助のため
長崎駅前にあった会社で救助作業を行ったと聞く。
そして、降ってきた雨に遭い、身体には放射能が浸透し
後年色々な苦しみを受けながら85歳でこの世を去った。

その後、茶道をたしなみローマ法王が長崎においでになった折には
献茶の大役を仰せつかり、涙を流して努めたと聞く。

今、世界を眺めれば至る所で大小の戦争が起こっており
核爆弾の保有で脅し合っている。
色々な理由があってのこととは思うが核爆弾の使用は
その後の世界を大きく変える事になるので絶対あってはならない。

口では核廃絶等と言う国も、裏では切り札的に
所有をちらつかせる事に怒りを覚える。
唯一の被爆国でアル日本はもっと声を大にして
世界へ訴えなければならない。

自分も含めてこの季節には毎年思い起こし
家族にも母の出来事やその当時の話を続けている。

オリンピック選手の活躍に力をもらい
世界平和とは何なのか、今までの戦争の原因と決着例等
音楽以外の事にも視野を広げ
残された人生をもっともっと楽しみたい。


2021年8月2日 記


 ---------------------2021年 7月---------------------


コロナの状況がなかなか好転しない日が続いており
新聞やテレビの報道を見るに付け心が前向きにならない。

報道の仕方も「不安を煽る」ような表現が多く、もっと工夫が欲しい。
決して楽観したものを期待してはいないが
必要以上の危機的な表現は止めた方がいいのではと思う。
アナウンサーの口調にもスリラー番組を思わせるものが多く
報道の基本を忘れないで欲しい。

色々と工夫をして成果の上がった市町村の運営方法や実施状況は
他の団体には必ず役立つものであり、このような情報こそが
国の方で音頭を取って推進すべき活動ではないかと考える。
かっこいい政策や考えの披露検討はよくわかったので
今後は実際の成果や実施状況、役立つ情報の提供に
シフトすべきではなかろうか。

若い世代への接種状況がマダマダ低い現在ではあるが
希望する方々は沢山いるとみる。
一部の暴走した若者による路上での不適切行為が報道され
色々と言われているが彼らの気持ちにも踏み込むべきであろう。

飲食店の経営はいまや絶望的な状況である。
先週、久々に帰省して繁華街の飲み屋に顔を出し、店主と会話をした。
案の定苦しい経営が続いており、あれこれ言わずに何でも出来ることを
メニューに取り入れ売上げに反映させているとのこと。

やはりお客さんの在店時間が短くなったので
回転を上げる様なやり方に工夫の毎日だという。
秋のコンサート終了後の打上会を相談したせいであろう。
会計を済ませてお店をでると店長が追いかけて来て
秋の帰省時にも寄ってくれと名刺を頂いた。
2年ぶりの「ふるさとコンサート」開催と
このお店での打上を目標に頑張りたい。

自分自身のワクチン接種は今週末で2回目が終わることになる。
色々と副作用や反応が言われているが「じっと我慢のコ」でいたい。

サラリーマンを9年前に卒業した時に始めたwalkingの
累計歩数が1000万歩を超した。
マダマダ一日あたりの最低歩数には届かないが
無理のない範囲で継続して行きたい。
年齢を重ねるとあれもこれもとは行かない。
出来ることから確実にやっていき
健康に過ごせればと願う。


2021年7月1日 記



 ---------------------2021年 6月---------------------


西日本や関西地方での梅雨入りが発表されたようだが
関東もここに来て気温が上がり、雨模様の日が続くようになった。

世の中がコロナに振り回されジメジメしていることを考えれば
はやく入ってはやく出て欲しいと願うのは皆同じだろう。

ワクチンの接種状況が以前に比べて加速した感がある。
色々な手を使って、時には超法規的なやり方をしてでも早急に
終息させるというやり方が今こそ必要であろう。
このところそのようなニュースが相次ぐようになったことは嬉しい。

それにしても国産のワクチン話がなかなか進まないのが不思議である。
新聞記事などでは色々と進まない原因を書いているが
そんな出来ない事を列記&主張してもラチがあかないのは明白でアル。
それこそ過去の苦い経験を土台にした今の決断を国民は求めるであろう。
生産能力があるのに生産できないとはなんだろう?
全く理解できない。


新聞やニュースのコーナーで商売の灯を消す方々が増えてきた。
長年続けてきた商売もこのコロナ騒ぎで
見切りを付けたというシーンが良く出てくる。

先月の新聞に「64年の歴史に幕を下ろす 下町のオモチャ屋」という
記事があり何回も読み返した。

プラモ全盛時代には小遣いを握りしめた子供達が
目を輝かせて走り込み買っていく。
ファミコン時代にはソフトを求めて開店前に列をなす。

少子化、通販の発達、スマホの価値比べに悩んでいたが
ここにきてのコロナの追い打ちで今日まで頑張ったが。。。閉店へ

この店長さんはアルバイト店員から正社員となり店長になったという。
子供達の夢を少しでも叶えて笑顔を見たいと思ったのだろう。
色々とそんなシーンを想像するうちに目頭が熱くなった。
そして涙がでた!

自分の子供時代を振り返ればお年玉やその他親戚や親から
もらったお金を貯めて船に乗り長崎市内の模型屋さんへ行って
そこの店員さんとお話する、また教えてもらう事が夢であった。

今でもオーディオ製作、ギターの大工作業知識ベースは
昔お世話になった模型屋、電気屋の店員さん達であることに間違いない。
目を閉じると当時の顔が浮かんでくる。
ありがとうございました!!


2021年6月1日 記


 ---------------------2021年 5月---------------------


毎日毎日行動の自粛や制限制限の報道が
溢れかえり、いささかうんざりする。
異常な事態がこんなにも長く続くとは
誰も予想しなかったかもしれないが
世界に目を転ずれば既にマスクを外しての外出や
各種の制限が緩和されて活動している国も出てきた。

感染を防ぐ為の対策が接触や移動の
禁止だけではいささか策がなさ過ぎよう。
あれが足りない、これが足りないと現場は大騒ぎで
声をあげるが肝心の国は動きが遅く
おろおろしているだけに見える。

そこにきて開催が遅れている
「東京オリンピック」問題が迫ってきた。
無観客や条件付きでの開催が騒がれているが
果たしてそうなのか
はなはだ首をかしげることが多い毎日だ。

関係者の苦しみや困難な事は察知するも
開催条件を早めに出すことが出場者、観客への
礼儀だと思うこの頃だ。

かねてから叫んでいた「ワクチン確保と接種」が
やっとここにきて具体的に報道されてきた。
 それはそれで今後円滑に進めて行って欲しいが
今まで疑問に思っていた国内での生産は
いつになったら見込めるのか。

我が国の医学の歴史と薬学、医療技術
の進歩は世界に誇れると思ってきたが
ここにきて疑問だらけになった。

もし、開発や承認のプロセスに高いハードルがあれば
それを公表して代替方法や新技術での解決にならないか
世界に問うことをして欲しい。

組織の壁やしがらみなどの問題であればそれを具体的に
して世に問うことをすべきではなかろうか。
平常では医学界はなかなか踏み込めないがこの非常事態での
動きについては辛い、難しいばかりではなく
これでやれというくらいの意気込みが欲しい。

なんでもお金で解決してきた事への警鐘だろうか
技術力の育成と蓄積、非常事態への対応を
今一度見直して野党与党もなく国家挙げての課題として
取り組んで欲しいと願うのは私だけではあるまい。


2021年5月1日 記


---------------------2021年 4月---------------------


各地の桜便りが報道で賑やかになってきたが
何故か心は穏やかで例年のワクワク感が全く無い。
やはりコロナ騒ぎが人の動きや心を大きく変えているのだろう。

一部の若者や抑えきれない人々が
今までのように木の下で宴会を催して
それを制止する係員も強く言えないような光景のニュースをみた。
余りにも長い自粛期間と先の見えない解決策に
国民も怒りを露わにし出した。
最近ではそれも仕方が無いのかなとさえ思うようになった。

各地のコロナ患者数やその他が毎日のように報道され
関係各省の大臣や学識経験者があ〜だこ〜だと解説するも
いささか聞き飽きた感がある。

肝心のワクチン接種や供給の話になると途端にトーンダウンする。
自国で製造できないという弱みはあろうが生産国との
粘り強い交渉がされたとはとうてい思えない情報量だ。

マスコミもこの話になると声が小さく
強く追求しないように思えるのは自分だけだろうか。

予防と駆除が一体となってこのような感染パニックを
抑えるのが普通だろう。
行動制限ばかりを国民に要請しておきながら
自らは規範を逸脱する関係省の役人がでる昨今を
考えるとため息ばかりでる。

今日、市からコロナワクチン接種の広報があった。
我々年代は3週間後頃 に接種券送付予定との事だが
より具体的な接種会場、医療機関等の記載はない。
想像するに市側も困っているのであろう。

何も掲載しなければしないでクレームの嵐となり
予想で掲載すると後で訂正・言い訳に大変な労力を使うとみる。
行動制限ばかりを求める政府の動きにはいささか辟易してきた。

いずれにせよ今までは気にしなかった他国との進み具合を
否が応でも気にする毎日だ。

今から51年前を振り返ると入社式に臨み
胸をはって記念写真をとった事を思い出す。

バンド時代のロングヘアーを前日にばっさり切り
分け目をつけた髪型で颯爽と会場に向かった。
それから3ヶ月半に及ぶ合宿研修を経て配属となり
何度かの転勤をして無事定年を迎えた。

色々な異動を経験してきたが
どの部署でも楽しい記憶が多い。
今でもクラブ活動を共にした後輩達とは
交流しており感謝している。

コロナで外出を控え、自宅での時間が多くなっているが
世の中がはやく落ち着いて今までのように
動ける事を祈りたい。

2021年4月1日 記

---------------------2021年 3---------------------


波乱続きの2021年も2ヶ月が経過した。
春の便りが聞ける頃になったが「コロナ禍」の中
嬉しい気持も半減する。
そんな中で政府からはワクチン接種の開始状況や
自分の事でもある高齢者の接種開始時期の発表が
4月12日からと発表された。

しかし、歯切れの悪い発表で有り
どうせずれ込むんだろうという諦めも漂う。
ワクチンの国産化が何故出来ないのか不思議に思い色々と調べた。
過去にあった色々な事件等による研究からの撤退や

開始についての種々の制約と多くのの研究が足りないようだ。
今からでも遅くないので国の後押しをもらいながら再スタートして欲しい。
技術力では決して世界にひけをとらない日本だと思うからだ。
あるのは裏に潜む各種の利権、政治的な絡みなどの黒い話であろう。
はやく明るみに出して片付けて欲しいと願う。

そんな期待と不安を抱きながらの先週誕生日を迎えたばかりだが
音楽関係のニュースではライブハウスの撤退、倒産やコンサート中止の
番組や報道時間が日に日に増加して気持が沈む。

また、イベント関係の会社でも技術要員の退出や
若者の商売替えが多くなったという。
これだけ長期間であれば仕方の無い事でもあるが
何らかの対策がなければ
この分野は衰退するばかりであろう。

先月も書いたが、昨年入学した大学生で一度も学校に登校して
授業を受けていない人がまだまだ多数いるという。
そして、学校を退学するケースが多くなってきているようだ。

夢と希望をもって受験戦争を闘ってきた若者の気持ちを考えれば
非常にかわいそうで有り、受け入れ側の無策に腹立ちを覚える。
確かにWEB利用での勉学の情報受発信は出来るであろうが
同年代、或いは先輩達との会話や情報交換はこの時しかできないのだ。
何か工夫して出来ないか考え込む。

国会の議論がコロナ対策や施策等の分野では無く
接待問題やその他の今やらなくてもいいような
レベルの低い話題が多いのは情けない。
本当に国を支えて発展させるというミッションをお持ちなのか
疑いたくなる方々の多さに絶望する。

今日から3月となる。木々も芽を膨らませてきた。
卒業から入学。。桜の開花。。野鳥の飛来。。
新たな息吹を感じる「春」である。
SPRINGには「活気づく」「元気」「源泉」「水がわき出る」などの意味もアル。
コロナの終息を願い本格SPRINGを待ちたい!!

「どこかで春が」 
詩:百田宗治 曲:草川信 1923年

どこかで春が 生まれてる
どこかで水が 流れ出す

どこかで雲雀が 鳴いている
どこかで芽の出る 音がする

山の三月 そよ風吹いて
どこかで春が 生まれてる

2021年3月1日 記


---------------------2021年 2月---------------------


プロ野球のキャンプが今日から開始された。
九州や沖縄方面では各球団のメンバーが
今年のペナント奪取に向かって行くのであろう。

毎年のことではあるがやはり「コロナ」の影響も有り
盛り上がりはいまいちではないだろうか。
感染者発生による各種予定の中断や
調整不足等の出ないことを祈りたい。

最近マスコミでは「ワクチン」の接種計画に関するニュースが相次いでいる。
我々としては待っていた事だけに明るい話として期待する。
緊急事態宣言の延長や色々苦労している病院の様子など
諦めムードが漂う昨今ではあるが予防できる医学的処置が
施されるというニュースにこれから望みを託したい。

昨年4月に大学へ入学した子供を持つ親から聞いた話だが
まだ学校へ行って授業を受けていない人がいるという事だ。
肩を並べて授業を受け、そして時間外には語り合うという
当たり前のことが出来ない若者には気の毒で仕方が無い。

また、アルバイトをしながら不足した生活費などを補う計画の
学生に至っては学校を諦めるということも起きているという。
各種の奨学金や補助資金の制度があろうから
国や学校は積極的に支援する必要があろう。

web授業だけでは無く、何か方法が無いのか?
知識習得だけの為の学校では無く、多くの同年代或いは近い年代の
仲間と知り追うことは人生の中では一番重要なことと思う。
きっと人生を振り返った時にそう思う。

今月下旬には73歳を迎える。
18歳で上京し22歳で社会人となり
60歳で無事定年を迎え今に至っている。
16歳で始めた音楽活動は今も継続しており
死ぬまで続けるつもりだ。

会社で創設したバンドも50年を迎える。
いい加減にして引退解散という事も考えたが
声が出ている内はそうもいかない。
演奏よりもバンドメンバーとの会話&飲み会は
何よりの長寿薬である。

そのバンド活動もほぼ1年近く休止しており
再開時には色々なサビを落として
メンテナンスしなければならないだろう。
それはそれで楽しい時間になること間違いなし。
ここまで我慢してきたのでじっくり待つのみだ。


<早春賦>
春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

2021年 2月1日 記


---------------------2021年 1月---------------------


暖かい日射しのもとに新年を迎えることができた。
振り返ればコロナ、コロナで世界中が大騒ぎになり多くの犠牲者を出した。
昨年の3月のコンサートを最後に全てのイベントがキャンセルとなり
モヤモヤした長い期間であった。
早く終息して従来の生活が出来るようになって
欲しいと願うのは私だけではなかろう。
近所の神社では早期の終息元の生活に加えて
年々衰える筋肉の回復を強くお願いした。

世界ではワクチンの開発が活発になり一部では投与も開始されたという。
慎重さも必要だが時に即断ということもあろう。
命に関わることなので我々素人がワイワイ言うのは控えるが
年齢を重ねて基礎疾患を持つ身としては早く実施して欲しいものだ。

年末恒例の紅白歌合戦もコロナの影響を受けて
観客のいない中での開催であった。
そして、出演者も色々な規制の中で持ち歌を披露する為に
やりづらかったであろう。
しかし、演出者の意図がよくわからないシーンや凝り過ぎのシーン
が多々あり首を捻る事ばかりだった。

音響技術、コンピュータグラフィック技術、その他最新の技術を駆使しての
画面演出には少々辟易する事が多い。
本来の紅白の歌合戦を見せて欲しいと感じたのは私だけか。

昔はラジオやテレビの前に集まっておばーちゃんやおじーさん達の
解説がおもしろくて色々教えてもらったことを思い出す。
歌詞の意味がよくわからず質問すると「大人になったらすぐ判る」が
多かったような記憶がある。

現在のような通常会話の歌詞ではなく、形式に沿ったそれであり
単語の意味は子供にはなかなか理解できないものだった。
しかし、長い年月が経ったいまでもすぐにでてくるということは
強い印象をもった言葉か脳への影響が強かった言葉なのだろう
メロディラインもすらすらでてくるから面白い。

年末年始恒例の仕事、食事、番組、行事等々忘れてしまいそうだが
季節を感じる事は必ず継続して行きたい。
コロナの対応で全ての行事が中止や廃止に追い込まれ
夢も希望もないようになるが
色々と形を変え継続していく知恵もまた大切な事のように思える。

コンサート関係は軒並み開催が中止や延期に追い込まれている。
しかし、ネットを使った配信など、最新技術で規模縮小した開催という事も
一部では進められている。

会社の仕事では既にWEB利用が進んでいるが音楽の世界では
微妙な時差(音の時間ずれ)は許されないので難しい。
しかし、多くの方々が抱えた悩みだけにすぐ解決策や機器が出現するであろう。
昨年で鈍った腕や喉を少しでも錆付かせないように試行したい2021年だ。

2021年 1月1日 記


---------------------2020年 12月---------------------


新型コロナに追われた今年も残り1ヶ月となった。
動きを止められ、あれこれの制限をうけながらもなんとか暮らしているが
そろそろ限界かなという気持も湧いてくるこの頃だ。

世界に目を転ずればワクチンの開発が急速になり
認可〜供給というニュースも飛び込んできた。
待ちに待ったことだけに国境線を越えた政策を期待したい。

テレビのニュースでは毎日のように商店街、飲食店
その他の悲痛な叫びが放映されている。
GO TO XXXX政策と人の動きは色々な現象を出している。
片や抑制、片や推進となり国民はどれを選択すればいいのか
迷いながらも生きている。

国の指針、地方自治体の指針、個人の判断と降りていくが
曖昧な表現や報道は止めて欲しい。
また、医療現場の悲痛な叫びにもっと足を運び
具体的な対策を打たなければ
従事して頂ける方々を失って行くことが見える。

やることは山ほどあろうが優先順位をつけた選択で進めて行くべきであろう。
そこには人間味を失わず弱者への配慮が最重要ではなかろうか。
来る春を明るい話で迎えたいのは皆同じだ。

先月の中旬に足利市方面に足を延ばした。
その中で「足利学校」を訪問し色々知る事ができた。
平安〜鎌倉時代に創設されたこの学校は中世の高等教育機関
として運営されたが明治に入り新政府の政策から離れ
残念ながら置き去りにされたようだ。

中で興味深く感じたのは教育内容を厳選し宗教色を排し
儒学、易学、兵学そして医学という実際に役立つ分野とした事である。

学費は無料、近くの民家に寄宿し食事の材料は自分たちで
菜園や薬草園を作り、そこで採取したものを食して暮らしていたという。
真に学び、そして世の中に出てそれを活かすという志があるものの姿だろう。
かのフランシスコ・ザビエルも「板東のアカデミー」と言ったとか。
若い時代を振り返り、自分にはとうてい出来ることではないと苦笑いした。

各大学やその他の学校では新型コロナ対策で
授業をネット形式での受講にして凌いでいると聞く。
厳しい入試を経て入学し希望に燃えた「志」は今どうなっているのか。
本当に気の毒としか言いようがない。

しかし、そんな環境の中でも自分を磨く方法は沢山あると思う。
そしてそれは実社会に入った時には今までの人々にはない
パワーとなって発揮されると確信する。

ウキウキ・ルンルンの学生生活を予想してきただろうが
今一歩立ち止まって自らの人生を考える良い機会と捉え
色々な工夫の中で目標に進む事ができれば必ず道は開く。

教育本来の姿とは何だろうか。
与えられる事に慣れている今までの社会から自らが環境を作り
生み出していく力を磨くことこそその姿の一端ではなかろうか。
ややもすれば自主性が問われる今日
それを活かす機会と捉えることはできないだろうか。

2020年 12月1日 記


---------------------2020年 11月---------------------


新型コロナウイルスに追われて落ち着かない日々だが
先の見えない辛抱にいつしか我慢の限界を感じてきた。
行動の自粛要請ばかりではいささかフラストレーションのかたまりとなり
小さなことについつい強い口調で叫びたくなる。
これから本格的な寒さを迎える季節となる。
果たしてどれだけの対策を取ることができるか自信がない。

そんな中だがNHKの朝ドラ「エール」に懐かしい曲が流れる。
先日は「長崎の鐘」が流れていた。
原爆が落とされ、吹き飛ばされた浦上天主堂の瓦礫の中から掘り出された鐘が
木の櫓につるされ、周りには多くの人が集まり手を合わせている。
犠牲になった方へ、今後の平和を祈る姿は心を打つ。

           長崎の鐘 詩:さとうはちろう 曲:古関裕而

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ

うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ

なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

敗戦と被爆の悲劇の中で心に灯と響きを与えて
生きる望みを与えてくれたことだろう。
涙腺が緩んだ。

母は原爆投下の日、祖母が「悪い予感がする。
広島の次は小倉か長崎が危ない」ということで
出社するために桟橋にいた母の手を取って家に戻したと聞く。

新型爆弾が落ちて会社がメチャクチャになったと聞いた翌日
母は会社へ向かい救助活動の中で被爆した。
自分も被爆二世ではあるがまだそれらしい症状はない。
このまま墓場に行くまで出ないで欲しいと願っている。
そして、長崎の鐘の音が澄んだ世界中の空に響き渡って欲しい。

そんな故郷長崎に帰省した。
先の台風10号で実家が損壊をしていないかを
見るために妻と二人で帰った。

今回は友人やその他の方々とは接触せず
ひたすら家のメンテナンスに終始した。
何か空しい気持ちで戻ったが一日だけ親戚の家で
大いに語らう事ができ、気持ちが晴れた。
心ある配慮に感謝したい。

21年ぶりに市内にある稲佐山という所に行ってみた。
ロープウエイやスロープカーがあるので気軽にいける所だ。
普通なら多くの観光客で賑わっているところだが
閑散とした風景に少々戸惑いながら景観を楽しんだ。

頂上から見える生まれ育った香焼や端島(軍艦島)
にかかる夕陽は素晴らしい思い出となった。

今年も残り2ヶ月だが故郷からもらった元気で
コロナを倒したい。

2020年 11月1日 記


---------------------2020年 10月---------------------


いつもの散歩コースには彼岸花が咲き乱れており
つい先日までの酷暑を忘れさせる。
子供の頃は茎と花を取って束ね
それを刀に見立て腰にさしたものだったが
祖母からは球根には毒があるというので
遊んだ後はよく手洗いをさせられた。
「曼珠沙華」という別名も有り
怪しげな雰囲気を漂わせる。

長崎物語 昭和13年

赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘がなる
ララ 鐘がなる

自分の生まれる10年前に流行した歌だが
母がよく歌っていたのを思い出す。
歌詞にある曼珠沙華のことを「つぶれた饅頭のような花」
と思っていたら、野に生えている「彼岸花」の事だと教えてくれた。
そして、球根に毒があることも。

コロナの騒ぎも長期化しており
自粛生活にもいささか疲れてきた。
そんな中ではあるが長崎にある実家の点検で帰省することにした。
先日の台風10号により何か被害を受けていないか検査点検し
もし発見した場合は自分で修理対応するのが目的である。

例年であれば「ふるさとコンサート」を開催している頃であるが
今年はこのコロナ騒動も有り、早々に断念した。
今回の帰省では友人やその他にも会わないこととしており
何か虚しさだけが残る。
しかし、我慢できる範囲は我慢して来年の再会を待ちたい。

新たな内閣が発足したが期待半分、諦め半分というところだ。
口だけの正義では無く国民の為に実行し結果を見せることに
注力して欲しいと願うのは自分だけではあるまい。

今朝の新聞に今宵の「中秋の名月」が
列島の隅々を照らし、踏ん張る人々を
励ましてくれることを願っているとあった。
今日は妻の誕生日、二人で月に願ってみよう!!

2020年 10月1日 記


---------------------2020年 9月---------------------


コロナに追われて多くの人々は生活様式を変化させている。
罹患者の情報は毎日でているもののその数字が何人検査しての
ものか判らず増えた減ったと騒いでいるは理解できない。
不安を煽るだけのことなら止めて欲しいと願うのは自分だけだろうか。

そんな中で待望のワクチン開発と供給時期のニュースも出始めた。
全世界の人々が待ちに待っている事だろう。
人類滅亡とまでいわれるこの騒動は全世界の叡智をもって
対応することであり、そこには個々の利権や政治が絡んではいけない。

医療現場への供給を優先順位の上位にいれたのは納得できる。
命を賭けて毎日治療や検査にあたっている方々には心から感謝する。
肉体的な疲労や精神的な疲労の他に様々なストレスと闘っている方々へ
国は是非優遇策を早急に提供して欲しいと願うのは私だけではなかろう。

生活様式の中できになるのは「テレワーク」の現状である。
確かに企業では会社に行かなくても出来るデスクワークや
開発作業は昔から検討され実施されてきた。

自分も長年携わったコンピュータ関連の仕事では
通信回線を使うことで済む事は多々ある。
現在は高速な回線が低料金で普及しており、接続も簡単になった。
パソコンの高性能化やソフトウエアーの充実は急速であった。
インターネットの普及がさらに生活様式を一変させたとも言えよう。

但し、これに終始すると人間どうしの関わりや気持ちという分野が
無くなり油の無いギアーの回転になる。
潤滑油が無くなるとそこに「きしみ」や「ひずみ」が生じ、やがて熱が生じる。
時々は顔を会わせて話をし、円滑な仕事と成果になる仕組みは外せない。

ある報道で大学生のテレワークというかリモート講義の事があった。
そして今年苦労して大学生になった学生からの不満の声が気になった。
新たな気持ちと希望をもって地方から出てきたが、学資稼ぎのアルバイトもできず
ましてや友人もできず毎日自宅でパソコンとにらめっこしているのは
そろそろやめにして欲しいという内容であった。

たしかにコロナの感染を考えればいたしかたない事であろうが
何か考えはないのか疑問だ。
知識の習得ばかりでは無く、友人や色々な仲間を通じて
人間の幅を広くして世の中に出ていく若者に
夢を持たせることが出来ないか悩ましい。

今まで年間50回位のコンサート活動を実施してきた。
それが全く無くなって久しいが新たな楽しみ探しに入っている。
やはり時間は沢山あり何でも自由にできる今
従来と違った楽しみがあるはずだ。
コロナに負けないで健康な生活を新たな楽しみで。。。。。


2020年 9月1日 記


---------------------2020年 8月---------------------


新型コロナウイルス騒ぎもいつのまにか6ヶ月が過ぎ去った。
しかし、なかなか先が見えず色々な場面に障害を起こしている。
移動の自粛やイベントの中止などに加えて様々な
世の経済活動が停止、制限が出された。
そうすればそれで生計を立てている方々は生活に窮する。
保証すると行っても限度があろう。
GO TOキャンペーンなるものが発表されたが今ひとつ疑問に思う。
気持ちは判るがもっと他にやるべき「GO TO」は無かったのか。
日夜頑張っている医療現場への支援へのGO TOは必要ないのか。
国の偉い方々が検討を重ねて出された案であろうが
色々な問題を抱えた支援策に再考を促したい。

中央政府では各専門家の方々による検討会やその他が
連日のように開催されてきたがここに来て一時の危機感が
薄れてきたのではなかろうかと思われる政府のコメントが多い。

連日のように危機感を煽るマスコミの報道が不安を増大させ
一体いつ頃になれば落ち着くのかの希望さえ見えない。
生活や経済活動の制約・制限を強いる以上に希望の出る
ロードマップが欲しいと願うのは私だけではなかろう。

そんな中で待望の「ワクチン開発・製造・供給」のニュースが
出始めた。待ちに待った情報である。
この情報をロードマップ上に記載することで
どれだけ希望をもてるかと思う。
是非、国の利権や各種障壁を越えた供給を
願うのは自分だけではなかろう。

テレビの番組で医学関係者はこのニュースに
あまり楽観した意見は述べないが
早く供給される日を待ちたい。
そして、制限された生活の仕方と共に
今後の新たな生活様式を
考えて行きたいと思うこの頃だ。

これからやっと夏本番になろうかという矢先
我が家の長年使用したエアコンと給湯器の交換が迫られた。
特に給湯器が突然ダウンし久々の銭湯通いを経験した。
幸いに近くのスーパー銭湯が営業しているので4日間通った。

昔、独身時代はアパートに風呂がなかったので
よく近くの銭湯に通ったものだ。
そして風呂上がりのフルーツ牛乳が
なんとも言えない味だったのを思い出す。

洗面器に入れた石けんやシャンプーが
カラカラ音を立てて家路に急ぐ。
今思い出せば思わず笑ってしまうようなシーンであろう。
この給湯器故障で50年前を思い出させてもらい嬉しくもある。

先月も書いたが近所に住む音楽仲間が
みんなの願いも空しく天国へ旅立った。
68才という若さである。

大変陽気で場の雰囲気を盛り上げるセンスが抜群の方であった。
ステージでは私との掛け合いで進めたものだ。
3月末で定年退職しこれから奥様との楽しい時間を計画して
いたと思うがそれもできないまま天国に旅だった。
さぞ悔しいことであったろう。

一昨日、ご自宅に訪問して線香を上げさせていただいた。
その後の思い出話には時間の経過を忘れさせるものだった。

音楽活動の目処が立たない現在、新たな方法を検討開始した。
世の中はWEB利用等の通信技術中心であるがもっと他に無いか
ここまできたのでじっくり考えてみるのもいいであろう。
その内にワクチン供給等もあり急激に状況が変わることを祈りたい。

忘れかけていた銭湯の話がでたのでふと思い出した歌詞がある。
入社間もない時、神田川の近くの3畳一間に住んでいた。
終電に乗り、営業時間ぎりぎりに滑り込んで入った湯船では
この歌に少々涙腺が緩んだこともあったものだ。

「神田川」 南こうせつ1973

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭い マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに

いつも私が 待たされた
洗い髪が 芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は 私の身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ 貴方のやさしさが 怖かった



2020年 8月1日 記


---------------------2020年 7月---------------------


コロナ騒ぎも毎日の行動を変えて久しいが
なかなか先が見えず悩ましい。
そんな中、ある程度の緩和策が色々な所から発せられ
人々は恐る恐る動き出してきた。

自分も4ヶ月ぶりに電車に乗り東京駅にて
昔の会社仲間と会い」食事をしたが
閑散とした店内に間隔を取った席と
注意書きが何とも言えなかった。

それでもお店の方々は懸命に消毒や清掃を続けて接客しており
その姿にはしばし声も出なかった。
すぐには昔のような活気に満ちた風景とは行かないだろうが
ここは辛抱するしかないのか
帰宅の電車では酔いも醒め,眺める車窓に目が泳いでいた。

一方で音楽仲間の健康が気になる日も続いている。
この3月に長く続けた会社勤めを満了し
やっとこれから悠々自適と思った矢先に
昔からの持病が悪化し入院生活を余儀なくされ
現在,病と闘っている。
彼の気持ちを思えば無念であろう。

簡単には行かないだろうが少しでも彼の望んだような
生活の実現が出来ないものかと
思い悩む日が続いている。

音楽活動は全く出来ない毎日だが
今まできちんと聞けなかった我が家のCD群が
気持ちを落ち着かせてくれたり
新たな発見を教えてくれたりと嬉しいこともある。

あと何年生きていけるかは判らないが一日一日を
確実に生きていくことがこの上ない幸せなのかもしれない。

今から50年以上前に歌った「今日を生きよう」歌の一部が頭に浮かぶ。

「今日を生きよう」
(Let's live for today)
Sha-la-la-la-la-la live for today
Sha-la-la-la-la-la live for today
And don't worry 'bout tomorrow
Sha-la-la-la-la-la live for today
Live for today

2020年 7月1日 記


---------------------2020年 6月---------------------


ウイルスの恐怖がここまで社会の構造や人々の生き方、伝統までも
変えてしまうかをまざまざと見せつけられる毎日が続いている。
緊急事態宣言が先日やっと解除されたが外出はおろか
外部との接触もなく、ひたすら自宅での生活になって
3ヶ月が過ぎてしまった。

ニュースでは各地での感染状況や変化などを
連日、毎時流しているがここまでくると辟易とする。
報道各社も日々の罹患者数の変化や死者の状況を
ことさら大声で言い、恐怖をあおるだけではなく、
医療現場から感染しないための今までのマスク、手洗い、
消毒、ソーシャルディスタンス以外の対策や方法等
我々へのお願いなどの声も届けて欲しい。

また、このような状況の中で各地の皆さんが工夫してなんとか凌いでいる事
特に子供や高齢者の方々が考えた「ほっこりする」ようなアイデア等は
緊張した毎日で心の安らぎに結びつくのではなかろうか。

そして、世界の新たな医学界の動きなど
前向きな話しも紹介していかないと希望が持てない。
日本だけでは無く世界中が今苦しんでいる。
そして、日々研究開発が進んでいると思われる。
もっともっとそのあたりの報道にも力を入れて欲しいと思うのは
自分だけではなかろう。

特に高齢者にとっては恐怖の連続で有り、毎日の生活がむなしい。
例年であればいくつもの施設へ訪問してのコンサートが
実施されているが今回は皆無に等しい。
懐かしい歌やお話を楽しみにしてくれる方々の顔が浮かぶ。
年内のイベントは全て中止となりいささか拍子抜けだが仕方の無い事だ。
みんな辛い思いの中で早く平常になることを願っているのだから。

新聞やテレビでは長年続けてきたお店や
旅館などの廃業ニュースが続く。
続けて行くこともきついのに加えて
このコロナ騒ぎで引退や閉店の決心がついたという。
明治の初めから、或いは江戸時代から続けてきた
伝統ある食品関係のお店もついに閉じるという。
本当に辛い決断であっただろう。
誰かを恨むという訳ではなく不満や怒りの行き先が
細菌では尚更だ。

会社での仕事の仕方も今後は在宅が基本になり
出社時での仕事内容や仕事時間の見直しが出る。
会議の多いまた非生産的な時間の多い
日本企業のあり方も変化するであろう。
このような機会をビジネスモデルや
価値、評価のトリガーすることになればと考える。

故郷の長崎市香焼町に停泊していたクルーズ船が
マニラに向かって離岸したという。
思わぬところで生まれ故郷の町がニュースとなったが
町の人々の恐怖はいかばかりであったろう。
今年の春は帰省できなかったが
早く落ち着いて故郷の方々に再会したいと願う。

2020年 6月1日 記


---------------------2020年 5月---------------------


緊急事態宣言から3週間余り過ぎた。
残り数日だか未だ未だ宣言解除にはほど遠いだろう。
外出の自粛など実際にやってみると段々苦痛になり、はけ口のなさが
イライラ感となり怒りっぽくなるのがよくわかる。
先の見えない事にいつまで待てば良いのか
そしてその間はどうすればいいのか、手探りで
判らない日々は辛い。

公園でマスクをした子供達の姿をみるにかわいそうでならない。
はやく学校での勉学や運動を再開させ今までの軌道にのせて
やりたいと思うのは自分のみならず多くの人々もそうであろう。

そんな中、休校への対応はITを活用したON-LINE教室が次々とでてきた。
子供、学生のみならず会社員も自宅でのテレワークや各種会議へと移っている。
自然な流れであろう。
今やパソコンの普及は昔に比べると格段の差があり
回線の環境もかなり良くなっている。
あとはそれを支えるソフト面の充実に期待したい。
使用する教材やサポート体制等、今後にも活かすことができるので
今回の実施の中で成功事例、失敗事例を多く出し合って
備える事が重要ではなかろうか。
各種事情で登校できない子供達への支援策としても活かせると思う。
「災いを転じて福となす」の諺があるが是非是非。。。

非常事態になった現在、少々の苦労や不便さはあろうが
相互に知恵を出し合い、それを広めて「凌ぐ」という事を
子供から大人まで再認識する良い機会ではなかろうか。
何でも我慢する事が良いことではないが、じっと考えて
アイデアを出し合い、工夫を重ねる。
また、相手を周りを思いやる気持ちが少なくなっている昨今
良い機会であろうと思えるのは私だけであるまい。

一方で国を任せられている「偉い方々」は今こそ活躍の場でアル
という自覚をもって、命を投げ出すつもりで働いてもらいたい。
法規制とか前例がないとか予算的に無理とか逃げる答弁では無く
こんなやり方でいこう、このような事例がある、等の具体案を
与野党で出し合って行くことがこの非常事態を乗り切る基本であると考える。

責任追及や問い詰めるだけが仕事では無く一緒に対応案を考え
そして、それを実施していき、改善案があればすぐ対応する事こそが
今求められる事ではなかろうか。
高学歴で今まで色々な活動をしてきたという方々が何百人もいる国会議員
や政府関係者諸君の目覚めを期待したい。


2020年 5月1日 記


---------------------2020年 4月---------------------


長期化してきたコロナ騒ぎだが
世界中がこの影響を受けて様々な状況を呈してきた。
当初ここまで重大な事に発展するとは誰も予想しなかったであろう。
しかし、現実に日々様子が変化しており気にせずにはいられない。

報道機関も恐怖をあおるだけではなく予防や
これからの準備など色々な観点で知らせて欲しい。
また不安な心を少しでも落ち着かせて
精神的に安堵感が得られる番組やニュース等にも
配慮して欲しいと思う。

年齢的には2歳下になる「志村けん」さんが70歳で急逝した。
ドリフターズでは一番若いメンバーであったが芸には人一倍熱心で
お客さんからの受けや評価に神経をつかってネタ作りに励んだときく。
子供から大人まで幅広いファン層を持ち、世界から愛されたコメディアンに
心から哀悼の意を捧げたい。。。。合掌

本来ならば3月は東北震災の復興関係や
年度末で色々なイベントが例年予定されていた。
しかし、それが見事に中止、延期となり、準備した多くのことが
日の目をみることなく倉庫に眠ってしまうこととなる。

そんな中で1件だけ慰問コンサートを実施した施設があった。
多分中止かなと思い直前に実施の確認をすると
予定通りやって欲しいと言う返事であった。

責任者の方がいうには何でもかんでも中止延期というのは
楽しみに施設においでになった方に失礼という事だった。
丁寧に消毒、検温をして演奏を実施した。

中ではつい最近お亡くなりになった「宮城まり子さん」の話しになり
皆さんに「ねむのき学園」「終戦後の少年靴磨き」「花売り娘」等を
問いかけると目を潤ませ、こちらも思わず歌を忘れて
しばし無言、流れる涙を拭くという場面もあった。

「ガード下の靴磨き」宮城まり子 1955

赤い夕陽がガードを染めて
ビルのむこうに沈んだら
街にゃネオンの花が咲く
おいら貧しい靴磨き

あ〜あ〜夜になっても帰れない

会場ではいつも以上に我々との会話が演奏の間に交わされ
盛り上がったことは言うまでも無いが
終演後の疲労感は今までに無く大きなものであった。

どうか早急に騒ぎが落ち着き
普通の生活が出来るようにと心から祈りたい。

2020年 4月1日 記


---------------------2020年 3月---------------------


新型コロナウイルスの影響が
色々な所に及んでおり大騒ぎだ。
目に見えない「菌」との闘いに医療機関や
自治体の専門機関はてんやわんやであろう。
従事している方々には深く敬意を表すると共に
国境を越え、世界中の叡智を結集して
早期の治療方法やワクチンの出現を祈っている。

報道機関では色々な意見が飛び交っているが
ここは政府の専門機関を中心に
与党も野党もなく早期の沈静化に今こそ頭を捻って
具体案を出して欲しいと願うのは私だけではあるまい。
誰かを責めるとか突き上げるのは簡単だ。
それは後回しにして今の第一優先すべき課題が
はっきりしている以上、そこに注力して乗り切っていって欲しい。

そんな中で話を変えるのはどうかと少々悩んだが
お世話になった施設の閉店について。。。
4年前からふるさと長崎でのコンサートで
色々とお世話になったライブハウスが昨晩で閉店した。
多くの音楽ファンに惜しまれつつ涙のお別れだったと思う。
本来であれば駆けつけたいところであったが
このウイルス騒ぎの中では難しい事であった。
また、いつか再開することができれば
いの一番に駆けつけたい。

これからも継続して「ふるさと」への恩返し活動は続けたい。
たとえ一人になろうとも、どんな形になろうとも
自分の身体が不自由になろうとも。。
そんな気持ちで先日72歳の誕生日を迎えた。

今年から地元の施設慰問にもお邪魔することになった。
幸いに友人が色々な準備をしてくれる。
感謝、感謝である。
生まれ育ったた「香焼島」での昔話を織り込んで
歌と共に皆さんにしばしの時間和んで頂きたい。
はたして上手くいくか今から緊張する。

2020年 3月1日 記


---------------------2020年 2月---------------------


ここに来て世界が急に騒がしくなった。
中国でのコロナウイルス、英国のEU離脱等々
新聞はじめ各メディアでは話題に事欠かない日が続く。
中でもコロナウイルスは日本にも感染者が発生しており
早期の沈静化を願うばかりだ。

国会中継をみているとこんな非常時なのに他の話題をとりあげ
貴重な時間をそれに費やすとはいかがなものと思う。
もっと優先順位をつけた議論をして欲しいと願うのは私だけではあるまい。

また、ある会社の経営レベルが今大変な事になっている
「湖北省」への出張を命じた等のニュースを知ると
何よりも大切な人の「命」をなんと考えているのか憤ってくる。

一方では連日の徹夜をしてマスクの製造を行い
中国へ無償提供して会社もある。
今こそ全員が出来ることを実行に移す絶好の機会と思う。

今年も各施設への慰問活動が開始された。
演奏の合間には自分のできることとして
「手洗いの仕方」「うがいの仕方」
等の簡単な予防法を会場の方々にお伝えしようと思う。

今月は大きなイベントとして近所の大型マンションでの演奏会がある。
14年連続開催しており大変ありがたいと常々思う。
2時間半の長丁場になるが参加の方々の笑顔と明るい声は
長年継続してきた事への評価として受け取っている。

主催するスタッフの皆さんは我々以上に準備活動をされている。
その地盤の上で我々演奏部隊はやらせて頂いていることを忘れてはならない。
イベントは企画、準備、宣伝。。。等の裏方仕事があってこそ成り立つ。
派手な演奏シーンの裏には関係スタッフの大変なご苦労がある。

9年前の東日本大震災時には中止も検討したが「こういう時こそ」
という強い要望も有り実施した。
被災地への激励メッセージや歌声で少しでも復興が進めばという
願いを込めて開催したことを昨日のように思い出す。

このコンサートでは今まで歌った曲数が399曲だ。
今回はちょうど400曲目からのスタートになる。
72歳のねずみ年男誕生日を今月迎えるが
健康に「ちゅーい」して頑張りたいと思う。

2020年 2月1日 記


---------------------2020
年 1---------------------


穏やかな日差しの中に新たな年を迎え
いつものように近くの神社での初詣をする。
やはり自分と家族の健康を第一に神頼み手を合わせる。

境内でお餅や野菜が売られていた。
折角なのでおじさんと少し会話をする。
ダジャレを交えてなかなかおもしろいおじさんだった。
自分と同年代の感じでなんとなく親しみが湧いてきた。
やはり話をするという事が精神的な安堵感を与えてくれる強みだろう。
ともすればSNS文化の最近ではあるが本来のコミュニケーション
とはこのような挨拶やちょっとした会話からとられるのだろう。

届いた年賀状をめくると孫の話や定年を迎えた事
抱えている病気との闘い等、重ねた年齢によるものだろうか
話題の変化に気づく。
年に一度の葉書によることだが嬉しいものだ。
添えられた短い言葉にも心が躍る。

昨年も40回以上のコンサートを実施してきたが
喜んでくれるお客さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。
開始時は神妙な顔つきであっても最後の曲を終えると
アンコールの手拍子で迫る。
60年前のアメリカンポップスで応えると立ち上がる人もでる。
そして、当時を思い出したのだろうか少し目から涙を流しながら
自分の若い頃を語ってくれる。
何ケ月か後にまた訪問することを約束して会場を去る。
後ろ髪を引かれる思いだ。

この数年で200回以上の慰問演奏会をしてきた。
若いときには得られない喜びがとてもありがたい。
今年も腰の痛みに耐えながら続けていくつもりだ。

2020年!やるぞ!!

2020年 1月1日 記

---------------------2019年 12---------------------


銀杏並木が黄色に変わり
いつの間にかその葉が絨毯になっている。
北風と共に寒い冬がまたやってきた。

一年を総括するには少し早い気がするが
色々な事がありすぎるくらいあった年だった。
音楽を通じた色々な仲間との出会いやイベントの開催。
また、そこから派生した色々な出来事やつながりの発見等
年を追うごとに増えてきたと思う。

街角で出会った方からコンサートの感想を聞いたり
次回の開催予定を問われたりと嬉しい気分である。
いつか身体が言うことをきかなくなったら引退しなければ
ならないが少しでもできるうちは無理してでもやる事で
地域の方々や応援してくれる皆さんに応えたい。

来年は年男で72歳を迎える。
考えると70歳を過ぎるまで生きているとは
若い頃には考えもしなかった。
しかし、現実にそんな年代を迎えるのだから笑ってしまう。
家族の支え、友人知人の支え。。。等々がその源であろう。
今まさにそのありがたさを感じている。

残酷なニュースがテレビに流れると悲しくなる。
特に子供を巻き込んだ事件には憤りさえ湧く。
これからの将来ある子供達を何故平気で粗末に
するのか、しかしそれが身内の犯罪である場合は
怒りを通り越して虚しさだけになりコメントできない。

一方でネットを利用した犯罪や悪事には嘆きしかでない。
利用する方も利用される側もその利便性のみに着目
するのではなく裏にあるデメリットをよく知る事が必要であろう。
いとも簡単に知り合い、そして出会う。
結果、悲惨な事件と化してしまう。

また、軽率な発言で世の中を騒がし
取り返しのつかない事になる話が多すぎる。
発信の責任についてはもう少し考えるべきだろう。

道を歩きながら前を見ないで必死にスマホ操作する者
電車やバスの車中でも必死に検索に余念のない者
あげればきりがない。。。。
もう少し周りを見よう。
そして、そこから何かを掴もう。
スマホから得られる事よりもっと大切な「宝」がある。

ステージの良さは演奏者と観客とのやりとりにある。
無言であっても楽しく聞いてくれる時
口に出して評価してくれる時
双方向のやりとりの中から
暖かいものが生まれてくる。

零和元年残り1か月となったが、悔いのないものにしたい。

2019年 12月3日 記

---------------------2019年 11---------------------


次々とやってきては大きな災害を残していった台風達。
特に千葉県はこれでもかとまでに打たれてしまった。
被災地の方々の事を考えればじっとしていられない。
幸いに我が家は無事であったが交通機関の運休、その他は
久々に災害時への準備や心得を見直すことになった。

そんな中ではあったが恒例になったふるさと長崎でのコンサートを開催した。
開催については中止も考えたがふるさとで1年間
待ってくれた方々を思えばそれは出来なかった。

そして、長崎の南部、野母半島から元気を発信して
行くことで復旧や復興に役立てないかと考え、実施した。

お陰様というか会場は満席となり参加者も
ほのぼのとした中で無事終えることが出来た。
体の続く限り継続して行きたいと思った。

帰宅して4日後には近所の敬老会に招かれ
約1時間ほどのコンサートを行った。
人生の諸先輩方はじっと耳を傾けてくれ
知っている歌では一緒に歌ってくれた。
青春時代の曲であろうか微かに顔が紅潮している。
日頃停滞している血流が少しでも活発になれば嬉しい。

今年も残り2ヶ月となり月日の流れの速さはことさらに感じる。
頭も体も硬くなり柔軟さに欠ける自分が情けないが
それはそれで無理の無い人生を送りたい。


2019年 11月1日 記

---------------------2019年 10---------------------


スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、、、
あの暑かった夏から、過ごしやすいシーズンになり
色々な出来事が連日のように報道されている。
明るい所ではラグビーワールドカップについて日本チームの活躍が
今日本中を釘付けにしているのではないだろうか。
プロ野球も全日程が終わり週末からクライマックスシリーズを迎える。
常勝のホークス、粘りのイーグルス、最後の最後で勝ち残ったタイガースが
ライオンズ、ジャイアンツをどこまで邪魔するか楽しみだ。

また、世界へ目をむければ陸上競技での嬉しいニュースも飛び込んでおり
今や浮かれっぱなしの状態かと思いきや本日から始まる新消費税の施行は
ルールが複雑すぎて何が何だか判らないままスタートした。
隣にあるスーパーでは駐車場に車が一杯で、大きな包みを抱えた
人達で深夜まで賑わっており、相変わらずの光景と思わず笑ってしまった。

難しいルールでの正常な運営がはたしてできるか心配だが
目を閉じれば昔の事がよみがえる。
閉店後の店舗で翌日までにレジスターのプログラムを入替
試験をして引き渡すという綱渡りをやったものだ。
明け方の空をみて「なんとか問題なく動いてくれ〜」と
声をあげた事が昨日の様子で思い出される。

税金を取られるのは仕方がないが、問題はいかに
効果的で有意義な使い方をしてくれるかを願うばかりだ。

社会インフラである電力会社の幹部によるあきれた事件
や原子力発電所事故の責任問題判決には怒りすらわいてくる。
あれから8年経った今でも家に帰れず、痛んだ体を抱えながらの生活者が
多数いることを忘れてはいないだろうか。

確かに原子力による発電は効率が良くいいだろうが、事故発止の防止策や
運転を取りやめた時、経年劣化による閉炉時の費用と方法等
どこまで考えて許可されたのか不思議でならない。
いや、問題の風化を待っているとしかいいようのないように思えるのは私だけだろうか。

千葉県を襲った台風15号の電力被害ではその復旧に不眠不休で現場にでている
工事関係者は住民の願いに一刻もはやく対応しようとしている中で
そのようなニュースが出ると目の前が暗くなり、涙する。
どうか日本の各電力会社に関係する工事関係の団体には協力をお願いたい。

今、住んでいるマンションの大規模修繕工事が開始されて2ヶ月経過した。
日に日に細かい工事内容が各住人に連絡され完成が待ち遠しい。

手入れをして長く使用して行くことの大切さは家ばかりでは無く
身の回りのものにでもいえることでは無かろうか。
修理して使えばいいものをなんでもかんでも廃棄して買い換える。
ゴミと温暖化の関係にも通じるところがあろうかと思う。
今一度気を引き締めて行かねばならない。

今月は中旬から長崎へ向かう。
第5回となった「ふるさとコンサート」では
また皆さんの笑顔が見られるでろう。
71歳の老体にむち打って叫んでみたい。

2019年 101日 記

---------------------2019年 9---------------------

まだまだ残暑が厳しい中、公園の木々に集まる昆虫は忙しく動いている。
晴れた日は毎日歩いて行く近くの公園(嘉納治五郎別邸のあった場所)
の巨大な樫の木には色々な種類の昆虫が住んでいるようだ。

ベンチに腰を下ろして耳を澄ませば彼らの忙しい動きが浮かぶ。
あるものは次世代への子孫残しに、あるものは冬の季節に備えた
食料の備蓄、またあるものは命の限りを尽くして泣き叫ぶ。

どれをとっても「生きる」ことへの営みがひしひしと伝わる。
湖からの爽やかな風はそれを加速するような掛け声にも聞こえる。

今月は各施設への慰問活動が盛んになる。
リクエストには最大限応えるようにしているがこれがなかなか難しい。
全く聞いたことの無い曲、知っているが自分が歌うにはちょいと合わない
等々いろいろとでてくるがこれを乗り越えて自分流にしていざ臨む。
指折り数えて待っていてくれる皆さんの顔が重なる。

今月でボランティア慰問活動が通算201回を迎える。
定年後の罪滅ぼしで始めたこの活動だが
生活のルーチンワークとしては大変ありがたい。
もっともっと皆さんに喜んで頂きたく努力したい。

知っている、または好きだった曲が流れると
顔の筋肉が緩み口元もかすかに動き出す。
演奏者側にとっては大変うれしい瞬間といえる。

演奏後はすかさずその方に質問を向けると当時の話が出る。

「おいくつの時でしたか?。。。」
「当時流行った服装は?」
「何が一番おいしかったですか?」

話は次々とつながり会場は賑やかになる。
そして、演奏終了後も話の続きがある。
次回へのリクエストはまた増える。
嬉しいサイクルとなる。


次月は恒例になった故郷長崎での「ふるさとコンサート」がある。
その準備で地元のメンバーには色々と協力を頂いている。
今後は若いグループ、リタイアしたシニアグループ等へ
活動の目標になるようなイベントに育てたい。
その為の人材育成、演奏指導に残された
時間を使えれば嬉しい。

2019年 91日 記

---------------------2019年 8---------------------

やっと関東にも梅雨明け宣言が出た。
同時に辛い熱帯夜が続いている。
さすがにエアコンにスイッチをいれなければ寝られない。
年齢を重ねた今は無理や意地を張らないで
身体を労ろうと思うが体力の衰えには年々苦笑する。

気象の変化が異常になり、特に雨量のそれは多くの
被害を全国にもたらしている。
なんでも永久凍土の多いグリーンランドの氷が溶け出しており
動物たちの動きにも変化が出ているらしい。

このまま行けば、発見者が名付けた「緑の島」に
なるには時間がかからないかも知れない
北極の氷河や氷山が次々に崩れ落ちる様子は
変わりゆく地球の姿として恐怖を覚える。

環境の破壊防止が叫ばれて久しい。
一人一人ができるその防止策は何があるか
もう一度立止まって考えてみたい。
そして、実行していきたい。

今日から住んでいるマンションの大規模修繕工事が開始された。
昨年度の理事会理事として業者選定や工事内容の検討等
1年間携わってきたものにとって、響いてくる工事の槌音は
「やっとここまで来たか、無事予定通り事故が無く進んで欲しい」
という願いに応える鐘の音にも聞こえる。

思えば38年前に購入、そして結婚し、今に至るが
住めば都の諺どおり、愛着のある住処となった。
来年の1月末に工事が完了し引渡予定である。
新たな化粧を施したマンションを楽しみにこの暑さも吹き飛ばしたい。

2019年 81日 記

------------------2019年 7--------------------

九州の旅から戻り気温差に風邪をひき咳に悩まされ
回復に時間を要し、ついにはコンサートの予定も延期するという
近年にはない事が起こり、自分の年齢と体力を再認識した。

椎間板ヘルニアを発症した5年前より自らには言い聞かせていたが
過去の経験則が通用しなくなり医者通いに苦笑する毎日だ。
あと何年頑張ることができるか判らないが残された時間を
懸命に生きていくことが使命ではなかろうか。
そして、楽しい想い出を少しでも多く残していけば悔いはない。

長崎の実家にあった「まな板」でエレキギターを作っている。
表面は包丁での傷跡が幾筋も残っており、
母が毎日これを使って生活していた当時の模様が偲ばれる。

何十年も経過した桧のまな板だが捨てるのは少々惜しかったので
ギターのボディ材として活用したがいかんせん年月が
経ちすぎており密度が粗く加工に苦労する。
きっと音も軽い感じのギターになるだろう。

しかし、自分を育ててくれた生活用品と思えば
愛着も湧くというものだ。
作る前からギターの名前だけは考えていた。
「まな板」なので「Manaeater」とした。

Hall & Oatesのヒット曲にManeaterというのがある。
自分もレパートリーとしておりこれに「a」をつければエーじゃない
ということでManaeaterにした。
はたしてどんなギターになるか楽しみでもアル。

7月は町内でもお祭りがあり子ども達が神輿を担いだり
山車を引いたりで賑やかになる。
毎年世話役で子ども達のお世話をしているが
近年参加してくれる子供の人数が少なく寂しい限りだ。

遊びが多様化してゲームやその他色々あるのであろう。
遊びの基本は近所の友だちと大きな声を出し
走ったり転んだりと身体を使ったものの中で
お互いに長所短所を発見し、技量を競い合い
そして素晴らしいものには賞賛し尊敬し合う事から
友情が芽生えるのではなかろうか。

そして、それは長い年月を経ても脳裏の片隅に残っており
再会時にはそれが蘇り、更に大きな喜びとなる。
残された時間の少ない身となったが、子ども達には
今一度「素の遊び」を語っていければと思うこの頃だ。

2019年 71日 記

---------------------2019年 6---------------------

 昨夕、故郷の長崎より戻った。
今回は今まで未踏であった宮崎に入り、観光して夜には
大分で一泊し旧友との再会で酒を酌み交わした。
全国至る所に友人がいることは本当に有り難いし
再会の喜びは何ものにも代え難いとつくづく思う。

宮崎では観光タクシーをチャーターして青島まで足を延ばし
「鬼の洗濯岩」という、写真しか知らなかった所を
目に焼き付けることができた。

大地の隆起と波による浸食が見事に洗濯板のようであり
亀の甲羅に様な溝もおもわず頬が緩む。
青島の熱帯植物群には長い歴を思わせ、流れ着いた植物の
生命力にただただ感動したものだ。

宮崎では最後に「平和台公園」と言うところを訪問した。
何でも戦前に「紀元2600年記念事業」で建設されたというが
小高い丘にそびえ立つ様は見る者を威圧する。

戦後、GHQにより「大東亜戦争」「八紘一宇」等の文字が
取り除かれたというが、現在は上塗りして隠していた文字を
削っているため見ることが出来る。

久々に「八紘一宇」という文字が目に付いたが
家内に読み方と意味を説明すると運転手が
「良く知っていましたね」という位
今の若い人々には無縁の言葉であろう。
他の民族、国家をこの言葉で侵略して手に入れる等
決してあってはならない事と今更ながら思った。

帰りの車窓からではあるが、先日川崎の事件で亡くなられた
外務省の方の出身高校(大宮高校)前で手を合わせた。
最近は車や電車の事故、異常精神者の殺人と、余りに多発している。
防ぎようのない事件に心が痛む。

大分からは久大線でゆっくりと林業の盛んな日田を通過
ゴム工業はじめ、製造業の多い「久留米」を経て鳥栖にて下車
長崎本線に乗り換えて我が家に向かったという結構きつい鉄路であった。

長崎も駅が新幹線の開通による工事と言うことで大きく変わろうとしている。
帰省の度に県庁が無くなったり、中心地に大きなビルが建設され
回りの様子が様変わりしている。聞けば人口は減少傾向だという。

出島の向こうに見える三菱重工のクレーン群が
暇そうな「キリン達」に思えるのは自分だけだろうか。
また、昔の活気ある長崎の街に戻って欲しいと願う。

毎年10月に開催する「ふるさとコンサート」の打合せが第二の目的であった。
旧友をはじめとした支援スタッフとの会議はいつもながら酒の勢いもあり円滑だった。
昨年から共演して頂いている地元のバンドの演奏クリニックも楽しい時間だった。

練習後の懇親会には近所の方や縁者の方々が自ら栽培した野菜や
前日沖まで行って釣った魚持参で庭園でのバーベキュウーパーティに
参加し、それを食しながら日が暮れるまで語りあった。

目の前にそびえる山々の壮大さ、木々の緑の美しさに時の経過を忘れてしまった。
自然を愛し、人との繋がりを大事にして日々楽しく過ごすことこそ
「平和」と言うのかも知れない。

2019年 66日 記

---------------------2019年 5---------------------


野山の木々は若葉が顔を出し爽やかな風に動く様子は
新たな時代の開始に相応しい光景であろう。
昨日をもって退位された平成天皇様には
心から「ご苦労様でした」と申し上げたい。

今日は朝から各報道でも新天皇の即位関係で賑わっているが
何でもかんでも浮かれると言うよりは
静かに見守ること、歴史を振り返ることも場合によっては必要であろう。
滅多に見ることのできない儀式の様子や言葉、品物等
全てが興味深いものである。

両陛下のエピソード紹介もある程度必要であろうが
儀式の解説、歴史などのコーナーが子供達にも解るようなものであれば
もっと興味をもつ子供達がうまれるのではなかろうか。
気持ちを落ち着けてその様子を見ることで神聖な気持ちになり
新たな自分に生まれ変わることが何かを期待する希望に変わり
それが生きる事への励みになるのは確かであろう。
ここは素直に喜びたい。

今月末より宮崎、大分を経由して長崎に入る。
定例化した秋の「ふるさとコンサート」開催準備も有り地元の有志と会う。
第5回を迎える今回は、果たしてどうなるか心配だが毎回の事であり
体に鞭打って、精一杯頑張りたい。

3日前に大学時代のバンド仲間と我が家のスタジオで50年ぶりのセッションを行った。
久しぶりに触る楽器にみんな不安がっていたが最初の1曲を終えて次に進む頃は
50年前の青年に戻っていた。そして、最後の演目を終える頃には完全に血が騒ぎ
顔も笑顔で溢れるものであり、まだまだやれるよという言葉も出るほどで
その後乾杯ビールのおいしさは何ものにも代えられない
ものであったことは言うまでも無い。

皆70歳を超えた年齢であるがこれからも健康留意でこのような喜びを
継続して行きたいと心から願うものである。

2019年 51日 記



---------------------2019年 4---------------------

桜の開花と新年度の始まり、それに新たな「元号」の発表と
立て続けに話題が提供され新聞やテレビ等の報道は大騒ぎだ。

会社員時代にはコンピュータ技術者だった事もあり
制度変更や利率変更は待ったなしの仕事だけに
緊張連続の日々が連続し
精神的にも肉体的にもへとへとだったが
安定した稼働を確認しお客様から「ご苦労様でした」と
言われた時の嬉しさはひとしおであった。

今回は生前の御退位ということで今までと違って
時間的な猶予があり、世の中も期待や喜びで一杯になった。

以前のそれは悲しみのニュースから、突然の「新元号」発表であり
関係企業では徹夜での元号切換改修作業を強いられた。

企業では和暦のみならず西暦採用との併用策も取り出したものだ。
また、もう一つの消費税の変更は期日前に発表があったので余裕はあったが
ある期日をもって全国一斉に切り替えるための作業要員確保が難題だった。

自分の従事した業種が小売りサービス業であったために
店舗のレジスターやストアーコントローラーは翌日の開店までに
変更を完了して検証を済ませておかねばならなかった。
このために社員以外に色々な会社、元社員、親戚。。。あらゆる
ところの出来そうな方々を集めて講習を行いこれに備えた。

今は24時間営業が主流になっており、記憶装置やコンピュータの
性能が格段に向上しているのでこのような心配は
無用の時代になったであろう。
思い出せば苦労と懐かしさが思い出されるが
世の中が大きく動いているという実感があり
張り合いのある時代でもあった。

何れにしても新元号「令和」にはこれからの世界平和
経済発展、暮らしやすい世の中を期待したい。

4/1〜2と茨城県の西部にある「結城」という所に車で出かけた。
家内の親戚が住んでおり、そこの方がご病気だということもあり
お見舞いも兼ねての訪問であった。

幸いに病気の方は進行がなく医師からもしばらく様子をみるという
言うことであり、ご本人も明るく過ごしていたので安心した。
明るい日射しの中で「令和」の事が話を盛り上げたのはいうまでもない。

結城という街は人口52、000人位の古い街であるが
有名な産業が「紬(つむぎ)」である。
せっかくなので紬の工場を見学し、その機織り作業を見せて頂いた。

通常は「繭(まゆ)」から糸を取り出して繊維にするが
結城紬は真綿状にしてそれを取り出し細い糸にするらしい。
そういうことからふわっとした暖かい感じや重量感がでると聞いた。

何れにしても糸の染め作業や機織り作業は手間のかかる
気の長い作業の連続で有り、それをやっている女性の手さばきは
名人という他の言葉はない。

また、工夫された木造の機織機には時代を感じさせる
色々な仕掛けがあり、興味深く見て回った。

何本もある縦糸に横糸を何回も往復させて模様を織りなす
作業には人間模様さえ思い浮かべる。
自分一人だけではなく、色々な糸という人々の力を借り
織りなして一枚の布になっていく。
久々にそんな思いをさせてくれた一日だった。

キャロル・キングという有名な女性シンガーソングライターの
アルバムに「TAPESTRY(つづれ織り)」というのがあるのを思い浮かべた。
この中に「WILL YOU LOVE ME TOMORROW」という曲がある。
久々に次月のステージで演奏してみたくなった。

WILL YOU LOVE ME TOMORROW   Carol King 1971

Tonight you're mine completely
You give your love so sweetly
Tonight the light of love is in your eyes
But will you love me tomorrow?

Is this a lasting treasure
Or just a moment's pleasure?
Can I believe the magic of your sighs?
Will you still love me tomorrow?

Tonight with words unspoken
You say that I'm the only one
But will my heart be broken
When the night meets the morning sun?

I'd like to know that your love
Is love I can be sure of
So tell me now, and I won't ask again
Will you still love me tomorrow?

So tell me now, and I won't ask again
Will you still love me tomorrow?
Will you still love me tomorrow?
Will you still love me tomorrow?

2019年 43日 記


---------------------2019年 3---------------------

気温の上昇が春の訪れを肌で感じさせる頃となった。
もうすぐ木々の芽も勢いを増して飛び出すだろう。
自然界が新たなパワーを吹き出す。
日々縮こまっていた自分もなんだか動き出す。

友人の奥様が年末に大病を患い一命をとりとめた。
医学の進歩もあろうが、それよりもこの友人夫婦の支え合い、絆を感じた。
自分は何もできないので励ましのメールを送るのみだが
その返信には夫婦間の今までの感謝、
これからの感謝がにじみ出ている。
いつまでも良い夫婦であって欲しい。

夫人は回復状況も良く、先月から仕事にも復帰して
いるようだが無理をせず神様がくれた休暇で今まで永年貯まった
疲れを癒やして欲しいと願うばかりだ。
ただ、不思議な物で人間の肉体は動かさないと退化して
復帰に時間を要するらしい。なかなか悩ましい所だ。
桜の咲く頃には快癒祝の一杯をやりたい。

今月は福祉関係のイベントが続いている。
8年前の3/11、ともすれば忘れてしまいそうだが
現地の復興はまだまだ進んでいない。

毎年、東北に足を延ばして状況を確かめているが
その度合いは低いと言える。
地元のイベントでこの震災復興を願うものがあり
今年で3回目の出場となる。

自分のできる事は音楽を通して皆さんに
元気を出していただくことしか出来ない。
でも、一人一人がそうして「自分の出来る事」で
復興支援をしていけばと願う。

今回は最後に会場全員で「一人の手」という歌を予定している。
随分昔のフォークソングだが歌詞に込められた内容には
感じる所がありこれを選んでみた。

     一人の手(one man's hands) 曲:Pete Seeger

                        訳詞:本田路津子

とりの小さな手 何もできないけど
それでも みんなの手とあわせれば
何かできる 何 か できる

ひとりの小さな目  何も見えないけど
それでも  みんなの瞳でみつめれば
何か見える  何か見える

ひとりの小さな声  何も言えないけど
それでも  みんなの声が集まれば
何か言える  何か言える

ひとりで歩く道  遠くてつらいけど
それでも  みんなのあしぶみ響かせば
楽しくなる  長い道も

ひとりの人間は  とても弱いけど
それでも  みんなが集まれば
強くなれる  強くなれる</P>

一人一人ではできないことも
皆があつまれば必ずできる。
未だ被災地で闘っている方々に届けたい。

2019年 31日 記


---------------------2019年 2---------------------

今年の冬はいつになく寒く感じる。
北の国では雪との闘いがいつもの倍以上という。
その中でも身体が自由にならない方々の雪かきは
想像するだけでもよくわかる。

各自治体やその他の機関で対策をたてているとは思うが
なんとかならないものかと毎年思う。
一部の家では融雪装置付きの屋根とかがあるらしいが
取った雪の処理を考えるのもまた大変な事であろう。
ミニ発電所の設置などでこれらの対応ができればと
素人ながらにいつも考える。

今月の9日には恒例になっているコンサートが開催される。
今年で13回目となるが毎年楽しみにされている事への感謝と
嬉しさに気持ちも締まる。

2時間余りのロングランコンサートだが
始まってしまえばあっという間である。
途中、会場の方が参加される「生オケコーナー」には応募が多数有り
半年前からその準備にかかるというものだが盛り上がりはすごい。
今年もきっと笑顔の皆さん達で溢れるだろう。

年間の恒例イベントとしてライフワークの一つになっている。
永年お誘いをしてくれた主催のスタッフには感謝感謝である。
暗い、悲しい話題が多い中でささやかではあるが音楽を通して
皆さんに希望と楽しみ、喜びがプレゼントできればそれはやりがいである。

今回の生オケコーナーで「襟裳岬」という吉田拓郎さんの曲を
参加の方に歌って頂くこととなった。
歌詞を読む内にしみじみとその意味が頭を駆け巡る。

<襟裳岬>

北の街ではもう 
悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい

理由 (わけ)のわからないことで 
悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから 

黙りとおした歳月としつき
拾い集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

今月25日でまた年を1つ重ねる自分とどこか重なってしまう。
確実に肉体の衰えが自覚されるこの頃だが
老体に鞭打って再び皆さんへ「音の暖炉」を提供したい。
そして「遠慮はいらないから、暖まって行きなよ」と言いいたい。

2019年 21日 記


---------------------2019年 1月---------------------


穏やかな天気と共に清々しい新年の朝を迎えました。
いつものように近所にある神社に家族で参拝した。
今年の境内はいつもより賑やかで多くの人が並んでいた。
お札を売っているところで係の方がいうには近年若い方からの声が多いという。
中でも女性からの意見で色々なお店やイベントが計画されたようだ。

長男がお宮参りをした神社だけにこの数年初詣に行くと淋しいおもいであったが
昨年から変化が現れたことに嬉しい思いがした。
町内会の御神輿の倉庫も境内に設置され永年の心配が無くなり
後は神社が昔の様な賑わいをしてくれればと思っていた所であり
今年も猪のような気持ちで進んでいけそうだ。

昨年は精力的にコンサートの開催をした。
そして、色々な方々との交流をすることができた。
話をするうちに自分の家の近くに住んでいる方や
隣町に住んでいる方、気がつけばその方の友人がまた近くにいる。
まさに「友だちの輪」は際限なく拡がって行き、いつしか親戚であることもあった。
人と人との繋がりの不思議さ、おもしろさは止まる事をしらない。

会話もいつしか方言が混じり、昔話に花が咲く。
同年代はほとんどがリタイアーしてそれぞれの余生を送っている。
家族のため、会社のため、、、、、必死に生きてきた人生でアル。
残された時間を悔いのないように過ごしていければと思う。

自分に出来ることは「音楽」を通じて人々に「平和」への
メッセージを送り、心に安らぎと張り合いをもたらしてくれればと強く願う。
いつまで身体がもつかははかり知ることはできないが
杖をついてもマイクを握り、力の続く限りギターを弾ければ
いつ死んでもよい。
いやいや、死んではいけない。
これからが楽しみの時間だ。

平成から新しい元号に変わると報道では色々と騒いでいる。
単に元号の問題だけではなく自分自身の変化も一緒に果たそうと思う。
もうすぐ71歳になる。いいきっかけになって欲しいと願う。

2019年 1月2日 記


---------------------2018年 12月---------------------


月めくりのカレンダーが最後の1枚になった。
いよいよ今年も今月で終わるかと思うとやり残した事が
次々と思い浮かんでくる。
しかし、色々な悲しいことや辛いことも今思えば
70歳を迎えた今年の楽しい出来事と
なっていることに気づく。

色々な方に出会い、語り、酒を酌み交わす
会話がはずみついつい度が過ぎてしまう。
しかし、これがたまらなく良いのだ。
お互いを知り合うことの大切さは
全てに共通する事ではなかろうか。

1昨日は久々の会社音楽部定期演奏会が
赤坂のライブハウスで開催された。
14年ぶりの開催場所であったが最後のステージを勤める中で
思い出す事が次々と脳裏を巡る。

いつまでこのような機会に参加できるだろうか。
これが最後かもしれない。
演奏が始まるとこのような思いがすっ飛んでしまった。
参加者と観客が楽しそうに微笑んでいる。
嬉しさが身体の奥からわき上がる。
また参加出来るように頑張ろう。

故郷のコンサートも来年開催が決まれば5回を迎える。
年々参加の輪が広がって嬉しい限りだ。
特に現役を退いた後の楽しみに昔やった杵柄で音楽活動を再会した方や
忘れていた青春時代を思い出して再開した方等色々なケースがある。
どれをとっても忘れかけた1ページがこれからの生活に
大きな励みをもたらすことは間違いない。

昔の様に指が動かないと嘆くギタリスト、高い声がでないというヴォーカル
足が動かないとあきらめ顔のドラマー、、、、、しかし顔は嬉しさを隠せない。
噂によれば既に来年の選曲に入っているグループもあるとか、、、
目標が出来たことに主催する役割としては嬉しい限りだ。

昨日は地元我孫子の「湖北」という所で野外演奏を行った。
商店街の方々が駅前のロータリーにてクリスマス・イルミネーションの
点灯式を企画し3日前に音楽を入れたいと言うことで知人を介してオファーがあった。
イベントの多い12月ではあったが偶然にも空いており喜んで了解した。

家内の実家もあり家内の母親やその他親類も駆けつけてくれ
近隣の方々のかけ声や声援をうけてなんとか終えた。
夜の寒さも吹き飛ばす中の演奏会ではあったが
地元へ僅かではあるが貢献できた事へ感謝する。
これからも我々の出来ることで「音(恩)返し」できればと思う。

2018年 12月3日 記


---------------------2018年 11月---------------------


起床してベランダから空を見れば
雲の形が夏のそれとは違い
箒で掃いたような筋が細く
長く続いているのがわかる。

季節の変化が生活のリズムと数々の楽しみに与える。
特に「秋」はその恩恵が大きい季節ではなかろうか。
隣家の柿の木にはたくさんの実が付いたままになっている。
これからやってくる寒い季節に鳥たちの餌となるのだろうか
熟して落ちないことを祈りつつ眺めている。

先月は故郷の長崎にて恒例になっている
「ふるさとコンサート」を開催した
第4回となるが回を重ねる毎に参加して頂く
団体も増えそして来場者の方々も増えてきた。
イベントでは出演者のこともポイントだが
「集客」という点も重要な事と言える。

昔、グループサウンズ全盛の頃活躍した同じ年の
歌手が 予定の集客数ではないとして当日に出演を
キャンセルしたというニュースが報道を賑わせた。

確かに出演者にとって観客の多い少ないは気持ちの
出し方が変わってくる事ではあるし重要な要素だ。
しかし、8割近くが既に来ており今か今かと
開演を待っている中での中止は如何なものか。
往年のスターかもしれないが
その辺はわきまえがあってしかるべきと思う。

我々の事に話を戻せば
今回は特に「集客」という事を関係各位にお願いした結果
定員を大きく超える来場となり
主催者側としての満足感と安堵感が
あったことは言うまでもない。

いつも言うことだが、コンサート等のイベントでは
演奏する事とそれを実施する計画、運営実施推進
が一体にならなければ成功しない。
今回の関係スタッフの地道なPR活動と
出演者の努力が実を結んだと言える。
感謝! 感謝!

また、嬉しい事に来場してくれた親戚が
新聞にその時の模様を投稿してくれた。
「古希迎えなお輝く姿 胸熱く」と題した記事に
また血が騒いだのはいうまでもない。

各地から参加してくれた仲間の多くが
その後来年の開催に話を盛り上げているとのこと。
少しでも希望、楽しみをもってこれからの時間を
過ごして行くことに貢献できれば幸いである。

ライブの曲間におけるMCで今回は「町名変更」を取り上げた。
合併やその他の事情により古くから親しんできた「町名」が
新たに変わっていることは全国で見られる。

場所に付けられた名前・呼称にはそれなりの言い伝えや言われがある。
特に長崎市には江戸時代より色々な文化や時代背景
が入っており町名のいわれには興味深いものが多い。

他県からのお客さんの案内をする時にそのいわれや時代背景
名前の由来を説明する機会が多い。
その時にあまりにも関係のない今風の名前だと
説明に窮する場合が多々ある。

先人が考え、命名した背景などを次世代にきちんと伝える
ことも我々の使命だと思う。
味も素っ気もない近代的な命名はその土地への愛着心
貢献心を無くすことにならないかと懸念するが
年寄りの思い過ごしかもしれない。

親が付けてくれた名前には必ずその意味がある。
それと同じようにその時の背景や親の夢などを
常に考えて行くことはいつの世でも必要な事ではなかろうか。

2018年も残り2ヶ月となった。
次月は年末のイベントが連続している。
腰の痛みに耐えながら頑張りたいと思う。

2018年 11月1日 記


---------------------2018年 10月---------------------


街を歩くとほのかに金木犀の香りが鼻孔をくすぐる。
大型台風が去って日射しが強くなり汗ばむが
この香りで今までの憂鬱さや不快を消してくれる。

テレビでは昨晩から今朝までは台風のもたらした
被害状況や各地の交通情報が続く。
詳しく知らせてくれるのは有り難いが
ドラマチックに仕立てて恐怖を煽るようなトークと
画像演出は如何なものかとも思う。

報道のあり方がしばしば問われるが
興味本位の観点や視点のそれはやめて欲しい。
被害に遭われた方々、地域団体の方々にとっては
これからどうしようかという悩みと課題が山積している。

これからどうやって生きていこうかとしているところに
ズカズカと入り込んでのインタビューに不快を感じる。
確かに報道側の事情もあろうが相手の心を思う所が欲しい。

連絡の途絶えた方へのメッセージや伝言板の他に
支援の手をさしのべたい方への具体的な申込み方法等の
情報をきちんと知らせることも使命の一つではなかろうか。
どのチャンネルをみても同じような内容になっており
工夫が欲しいと感じるこの頃だ。

例年続けている「ふるさとコンサート」の為に
今月中旬に帰省する。
2015年に始まったこのコンサートも第4回を迎える。
今年も全国の友人・知人が集まってくれる予定だ。
もちろん地元長崎のプレイヤーも参加する。

還暦を過ぎて指や手足が昔の様に動かないとか
高い声が出ないとか色々な事を言っているようだが
昔を思いだして、忘れかけていた青春を取り戻す
ことで内心は密かに喜んでいるのではなかろうか。

忘れかけていた青春の一ページ。
流した汗や涙の数々はきっと蘇ってくるだろう。
そして、その熱い血は今後の活力として
体内にいつまでも蓄積されると思う。

演奏の出来不出来よりもここに至るまでの練習過程や
ワクワク感が何よりも大きな収穫でもあろう。

実りの秋、収穫の秋、天高く馬肥ゆる秋、、、、
波乱に富んだ今年の秋にふさわしいイベントの一つに
なって欲しいと心から願う。

<里の秋>

静かな 静かな 里の秋
おせどに木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗のみ煮てます いろり端

2018年 10月2日 記


---------------------2018年 9月---------------------


南海の洋上では次々に大型の台風が発生し
進路を日本へ向けている。
冷房装置の故障や不備で命をおとされた方のニュースが流れる。
酷暑が生命を脅かす時代になった。
まだまだ残暑が厳しく、熱帯夜が続く中で
早く涼しい季節になれと思っているのは
自分だけではなかろう。

スポーツ界でも「故障」「不備」にも似た各種のハラスメント
暴力事件、不祥事が後を絶たない。
昔はこうだったという話をするなと言う方がいる。
愛の鞭と思われる熱血指導との違いに悩むこの頃だが
今の流れではやはり暴力は「NO」である。
それと言葉の暴力も見逃してはならない。

注意する、叱責する、、、指導の段階には色々なやり方があろう。
自分の人生では部下の育成には非常に気を遣った事を思い出す。
人を動かすには自らの愛情をもったやり方がなくてはならない。
決して甘やかすと言うことではなく、その人のこれからにとって
その行動や考え方を改めて行く事が先々必要であるという
信念をもってやる事ではなかろうか。
そして、その後のフォローがもっと重要であろう。
それが忘れ去られると刹那の薬でしかない。

久々に高校野球で血が騒いだ。
最終回の逆転劇のシーンは今でも脳裏に残る。
最後まで勝負を諦めない姿と日頃の訓練結果を
本番で見事やってしまう。
これこそが日々の練習と監督との間に生まれている信頼が
もたらす結果ではなかろうか。

試合での失敗には各種の指導があり、時には雷が落ちることもあろう。
しかし、それを成功体験に結んだときの喜びは一生の宝物でアル。
そして、人生のステップを一段登った事になる。

スポーツ界のごたごたで少々うんざりしていたが
彼ら球児の活躍にそれを忘れてしまった。
ゲームに勝つことも大切だがそれ以上に日々の練習から
また相手の選手から学ぶもの、そして試合結果から学ぶ事の大切さを
しっかりとこの時期に身につけることが
これからの人生には欠かせない事ではなかろうか。

ベランダに植えているハイビスカスが
今年は毎日多くの花を咲かせてくれる。

45年前に復帰後の沖縄担当となって2年ほど出張していた。
当時の那覇空港から市内までの道路際にはハイビスカスが
植えられており「紅い花」を咲かせて南国ム−ド満点だった。
現地の人に聞いてみると「仏桑華」または「赤花」とも言った。
咲いてはすぐ散る花だが濃緑の葉と赤い色がなんとも言えない
美しさで楽しませてくれる。
これから秋が深くなっていくだろうがもう少しそのままで
いて欲しいと思いながら毎日水遣りに励んでいる。

施設の慰問で「紅い花」という歌を歌っている。
原作は杉本真人さんだが
「ちあきなおみ」さんのカバーアレンジで歌う。
何とも言えないメロディラインに自分を重ねていくと心が落ち着く。

紅い花
 曲:杉本真人 詩:松原史明

昨日の夢を追いかけて
今夜も一人 ざわめきに遊ぶ
昔の自分が 懐かしくなり
酒を あおる

騒いで飲んでいるうちに
こんなに早く時はすぎるのか
琥珀のグラスに浮かんで消える
虹色の夢

紅い花 想いを込めて
捧げた恋唄
あの日 あの頃は今どこに
いつか消えた 夢一つ

2018年 9月1日 記


---------------------2018年 8月---------------------


先月に続き異常な気象状態は台風の進路をも異常にした。
従来の様に南の海上から北上する進路ではなく東から西へと向かい
途中では大きな水害や風による被害を与えた。

中国、四国地方ではその前の週に大きな被害を被り再起に必死な
毎日であったと思う。そこをまた襲うこの自然の気まぐれには何とも
歯がゆくなって仕方がないのは自分だけではなかろう。

先月の初めから熱帯夜と昼間の高温がたくさんの死者を出した。
この数年病魔と闘ってきた元部下が自宅でひっそりと亡くなっていたという
知らせを受け、力が抜けると共にこの異常気象を恨んだ。
健常者でも無事に過ごすにはかなりの体力と気力が
必要な日々だった事を考えると彼の最期がどんなに苦しかったか
脳裏をかすめ、悲しみにくれる。

今年の1月末に会社へ復帰して半年だった。
きっと今までの分を取り返そうと気を張っていたのだろう。
彼とはこの数年、毎月メール交換をしながら病気との闘いに励ましを送ってきた。
最後になる7月初めのメールにはいつもの医者との会話や副作用のこと
に次いで大好きなサッカーワールドカップの事を書いており
未だ見ていない録画がたくさん貯まってきたので
これからじっくり鑑賞するとのことだった。
そして最後の行には私へ。。。。バンド活動を身体の続く限り続けよとあった。

それから数日後、ひとり、アパートで息を引き取った。。。。。。
みかけはゴツイ感じだが根は優しい気配りのある好青年だった。
音楽と映画、そしてサッカーが大好きなヤツだった。
長い間抗がん剤の副作用で苦しんだ事もあった。
いつかは治ると信じ、毎日病と闘った。
今は天国でゆっくりしてくれ。
合掌

2018年 8月1日 記


---------------------2018年 7月---------------------


1年も半分を超えたところで梅雨があけたと言う知らせが届く。
これから9月まで熱帯夜がまっているかと思えばうんざりする。

世界的な異常気象現象はやはり地球温暖化の影響なのだろうか。
もし、そうであれば我々人類はもっと真剣に取り組む必要があるだろう。
大国がその話から目をそむけるような態度をとることは残念である。
今からでも遅くない!出来る事から進めていければと思う。

ロシアではサッカーのワールドカップ大会が
開催され前半の予選リーグ戦が終わった。
日本の活躍は毎朝の新聞で知るところではあるが
近々の話題は最終戦の時間稼ぎプレーであろう。

決勝進出を果たすことを目標とした監督以下が取った作戦に
対して色々な評価がでているが、それはそうであろう。
色々な見方や意見があってしかるべきで有り
もっと言い合う事があってもいいと思う。

しかし、開催直前に急遽就任した新監督の心中やどうだろうか。
私は彼を信じたい。
自分の思うところで選手の起用をし闘いを進めもらいたい。

おしむらくは決勝トーナメントで日本らしい動きで
世界にその存在を知らしめる事ができればと密かに願う。

今日の午後は春先に蔓延したインフルエンザ
により公演を延期した施設の慰問がある。
なんでも施設の方々が首を長くしてまっている
とのメールを施設の職員の方から頂き感激である。
昨年の10月以来の訪問だが皆さんの笑顔が
この暑さを吹き飛ばしてくれることは間違いない。

歌謡曲の大好きな「山形おばちゃん」
軍歌の大好きな「福島おじいちゃん」
そして、ペドロ&カプリシャスの好きな「モダンおばあちゃん」
もうすぐ行きますのでお待ち下さい!!


2018年 7月1日 記


---------------------2018年 6月---------------------


梅雨前線が南の方から移動する季節になった。
快適な春をもう少し味わいたかったのは私だけではないだろう。
これからまたあの暑さが来るのかと思えばうんざりする。

先月中旬に鹿児島へ夫婦で足を延ばした。
50年ぶりの桜島は白い蒸気を吐いており
今にも爆発しそうな様子だった。
今放送中の大河ドラマでも舞台になっており
幕末の日本で数々の偉人を輩出した「薩摩」を
再度確かめたくての旅だった。

50年前は北海道から寝台車を乗り継いでの長旅だったが
今は空の旅でもあっというまだが、新幹線の開通で便利になった。
南国の大らかさとのんびりした雰囲気は変わらない。

島津藩の残した数々の遺産は目を見張る。
産業革命への着目とそれを支える農業への考え方
火山活動の背景とシラス大地という特有な地形の絡み等、、、
学生時代とは違った観点での旅だった。

「西ク隆盛」の偉人伝は至る所で紹介されている。
また同じ仲間の藩士達の銅像や遺品なども多々存在しており
時間がいくらあっても足りないくらいであった。

おもしろかったのは島津藩のマークである「○に十の字」の謂われである。
キリスト教布教で来日したザビエルが殿様にお許しを
得るため島津家に出向いた時、家紋を見て
「なんとすばらしい!異国で主イエスの印をした殿様がいる!」
といったとか。。。。慌てた島津家はそれまで単に
十だけだった家紋に○をつけたという。
祖母が宴会で良く歌っていた「鹿児島おはら節」の
一節を思い出さずにはいられない。

<鹿児島おはら節>
花は霧島 煙草は
国分
 燃えて上がるは オハラハー 桜島
見えた見えたよ 松原越しに 
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた

今朝のNHK朝番組で内舘牧子さんの作品「終わった人」が
映画化され色々と話がでていたので興味深く聞いていた。

第1ラウンドが終わった。
さ〜第2ラウンドはどうするか?
今までのキャリアはあっても世の中からは不要とされる
家庭でも邪魔者扱い、、、、
回りをみればそんな人達があふれかえっている。
ふと考えれば自分もそんな境遇になっていないか?

幸いに夫婦で同じ趣味とボランティア活動をもつ自分には
見えないところもあろうが良く理解できる話である。

定年を迎えてからが人生であろう。
75歳までは何がなんでも歌い続けたい!!
そう叫んで生きていきたい!!

2018年 6月1日 記


---------------------2018年 5月---------------------


この所の急な気温上昇が体調を崩し、4、5日微熱と夜間の咳が辛い。
やはり年齢からくる抵抗力の低下からくるものではないかと一人悩む。

桜の花もあっという間に散り、今や若葉がまぶしい。
この季節は今まで寒さを耐えて我慢していた植物の芽が
ここぞとばかりに勢いよくでてくるのが一方では微笑ましい。

4年前に食べて残った種を発芽させ育ててきた葡萄だが
昨年までは実ができずがっかりしたものだった。
今年は蔓に5房のそれらしき姿を見せて
その中の2つが小さな緑の玉状になってきた。
毎年期待して裏切られたが今年こそは本物であって欲しい。

情報によると蔓に着いた若芽は数個に間引いて生育させるらしい。
早速、昨日やってみたが折角目を出した若い芽を
途中で摘むのが怖くなってしまう心境だった。

人間社会では若い芽を摘むような事はするなといわれるが
植物の世界では成長を促進させるためには
この「摘む」という作業が必要になるらしい。
闇雲に切り落とすのでなく、脇にそれている芽、弱々しい芽等を見つけ
全体を育てるためにはこの芽には遠慮してもらおう
とブツブツいいながらの作業である。

蔓状の植物には「摘芯」という作業があることは「ゴーヤ」栽培で知っていた。
葡萄もしかりで芯を太く、栄養の行き届いた美味しい状態にするためには
この摘芯や実がなってからの摘果が求められるという。

最近のレスリング界、バドミントン界、大相撲界。。。。。。
毎日嫌になるほどの情けないニュースでいっぱいだ。
また、セクシャルハラスメントという名の被害報道等など
目や耳にするのも嫌になる。

アメリカの映画界から始まった「#me too」のムーブメントは今や世界的なものなった。
今までは泣き寝入りしていた方々も、勇気をもって公表し闘うことで
一部の卑劣な人間をこの世から排斥するという動きは喝采ものだ。

全体をよくするため、或いは個人を成長させるための躾や訓練では無く
個人的な好き嫌いや損得、或いは権力をかさに迫るという行動や
妨害、嫌がらせはとうてい許すことができない。
最終的に美味しい実を付け、その後の種に次世代を期待するための
「摘芯」「摘果」であって欲しいと願うばかりだ。

北朝鮮が韓国との国交正常化に向け積極的な行動をとり世界を驚かせている。
過去の事があるだけにみせかけのパフォーマンスで
果たしてそれが本当かどうかが心配ではあるが
期待を込めて見守りたいと思うし、そうなって欲しいと願う。

拉致されてまだ帰国していない方々が多数いる。
この数年、何度か明るい話になったかと思うと途中で中断されてきた。
当時の小泉首相が突然訪朝し数名の拉致被害者を連れて帰国した。
これで救われると思ったがその後は進展が無く何度も苦い思いをしてきた。
被害者のご家族はどのような気持ちであろうか。。。。。。

狡猾な仕掛けや交渉をしてくるかもしれないがそれを承知でまず帰国させる事を
第一優先として進めて行き、その後の経済や文化面での協力は最大限の
事を行い、お互いの交流をはかることで加速させるという事にして欲しい。

確かに「核」の問題もあるが「拉致被害者の救済」が先であろう。
トランプ大統領との会談が控える来月にはその被害者救済の
具体的な話が聞こえてくることを願うばかりだ。
今こそ「日本」の出番が来たといえるのではないか。
不要な枝や蔓も整理した。後はどう実を付けるか
楽しみが増えた。


2018年 5月1日 記


---------------------2018年 4月---------------------


櫻の花が満開となり、街行く人は木々の下で笑顔を覗かせる。
短い間の幸せを楽しむその光景は心をほっこりさせ、まさにこの世の春だ。

明日からは新たな職場で働く若者が初々しい心と顔をして活動するのだろう。
自分の昔を振り返れば少々恥ずかしく、顔が赤らむ。
仕立てたばかりのスーツに身を包み、髪の毛はビジネスマン風に刈り込み
ボストンバックには着替えやその他を詰め込んで入社式に臨んだものだった。
入社式後はすぐに合宿生活であり、いろいろな訓練を受けたのを昨日のように思い出す。

来月の中旬に生まれ故郷長崎の「香焼町」でイベント出演が控えている。
三年前に公民館でコンサートを開催したが今回はある団体の集まりと聞く。
参加者も70歳以上のご高齢者で女性が圧倒的に多いようだ。
果たして私を「あの大安商店の息子」と思い出して頂ける方が何人いるだろうか。
1時間余りの演奏とトークだが55年前の思い出を語ってみたい。

弘法大師が遣唐使で中国に向かう途中に「安全祈願」を願って
お香を焚いたということから「香焼」と名が付いたと昔教えられた。
その香焼町で自分より上の方々に会い、昔の思い出を語る。
最後まできちんとできるか内心心配している。
参加して頂いた会場の皆さんの健康と幸せを祈って
心を込めた演奏になることを目指し今から練習しておきたい。

役所から来る文書に高齢者、老齢者、、、等の文字が多くなった。
確かに70歳を越した年齢なのでそのような文言がつくのだろうが
もっと他の言葉はないのだろうかと嘆く「おじいさん」は私以外には
いないのだろうか。。。いや、いる。
肉体的には衰えても気持ちだけは「青春」でいたい。

<青春の歌>吉田拓郎

喫茶点に彼女と二人で入って、コーヒーを注文すること、それが「青春」
Go Go クラブで汗だくになって踊り疲れることああ それが青春
グループサウンズに熱中して大声あげ叫ぶことああ それが青春
フォークソングにしびれてしまって反戦歌をうたうことああ それが青春

2018年 4月1日 記


---------------------2018年 3月---------------------


春の嵐が吹きまくっている。
街のあちこちでは「梅」の花が咲きほのかな香をくれる。
桜の枝には蕾が膨らみ花をつける時期を今か今かと待っているようだ。
待ちわびるのは人間だけではなく動物や植物を含めて全てのものだろう。
新たな気持ちでの出発を目指す人、新たな環境に入る人、等など
季節の変化は色々な気持ちの切換や決断をしてくれる。

先週まではお隣の韓国でオリンピックの嵐が吹きまくった。
特にスケート種目パシュートでのメダル獲得では
思わずテレビに向かって大きな声がでた。
決して大きくはない身体でも頭を使った作戦で勝利を掴み
強敵オランダに勝利した時は最高潮に達した。

メダリストの裏話では人に言えない苦労や悩みを色々な人の
支援、理解を受けながら続けてきた事などが紹介されていた。
決してメダルや勝利が向こうからやってきたものではない事が今更ながら解る。
参加した全選手に拍手を贈りたい。

今月は各施設や福祉のイベントが多数控えている。
曲間のおしゃべりにはオリンピックの話が多くなるであろう。
1964年の東京オリンピックではその前の年から「東京五輪音頭」を
運動会のマスゲームやその他で全員踊ったものだ。
さて、今月の慰問会ではこの歌を少し歌ってみよう。
果たして何人の方が憶えているか楽しみだ。

先週、70歳を迎え少し考える所もあり
急ぎすぎないペースで楽しんでいこうと思う。
人生はこれからだ!!

2018年 3月1日 記


---------------------2018年 2月---------------------


全国各地で雪の報道が多い。
また、厳しい寒波の影響で色々な障害が発生しており
特に水道管の破裂やそれによる水不足被害には
なんと言って良いのか言葉が見当たらない。

季節も2月となりますます寒さが増す頃となった。
普段の我が家は一冬に灯油が一缶あればおつりがくるような
暖房具合だが今年はそれを大きく変えている。
豪雪地帯やその他被害に遭われている方々には
それに加えて日々の生活が大きく関わっており
自分たちはまだ贅沢といえよう。
ここは春になり気温も上がり動植物の動きがでることを
じっと我慢して待つことにしよう。

今月の25日で満70歳を迎えることになる。
振り返ればあっという間の70年間であった。
サラリーマン生活42年を経て現在は趣味の世界に
どっぷりと浸かっている。
いつまでもつか時々心配な事もあるが考えても仕方ないので
このまま突き進むことにした。

コンサート会場の皆さんに喜んでいただけることが最高の栄養剤であり
その為にあれこれ計画や工夫をすることの繰り返しだが
日々の生活に変化をもたらすことが多く、今でも油断できない。
使用する機材もアナログからデジタルへと変化し
小型軽量化するに従って素人では修理できない機材になった。
この辺の勉強も欠かせない。

また、楽器を弾く力や歌う力が衰えないように訓練しておかないと
これからは頭と身体が同期取れないことになろう。
足や腰は少々もたついてきたが若者に負けない気力だけは
欠かさぬように努めたい。

今月の10日には地元我孫子で12年連続開催している
恒例のコンサートが控えている。
先日、「皆さんが今年も楽しみにしていますよ」という
主催者からの連絡があり思わず頬が緩む。
思えば手探りで始まった手作りコンサートであるが
いつもチケットは発売後即完売となる
嬉しさよりも緊張感が走り心が引き締まる。
今年も2時間半という長丁場だがきっちりやっていくつもりだ。
そして、今年も演奏後の格別に美味いビールをのむつもりだ。

2018年 2月1日 記


---------------------2018年 1月---------------------


新年明けましておめでとうございます。
穏やかな日射しの中で新たな年を迎えたことに深く感謝しながら
今年も家族と共に、また多くの友人達と
楽しく健康な生活を送ることができますようにと祈った。

あと2ヶ月で70歳という節目を迎えることになる。
身体は少々動きが緩慢になったが
気持ちでは未だ若者には負けないと意気込む。
しかし、年々身体のあちこちが言うことを聞かなくなり苦笑するばかりだ。

年賀状を見ると時代の流れが感じられる。
文章より写真になっており色々な編集をし送ってくれる。
1年に一度の挨拶とは言え有り難いと思う。

今年から故郷の長崎では秋のコンサートに加えて
春には施設の慰問もすることになった。
少しでも育ててくれた地元長崎への恩返しが
できればという素直な気持ちで一杯だ。
3年前から開始した「ふるさとコンサート」のサポーターが
色々と協力してくれる。

いつも言うことだがイベントでは
演奏するという部分の比重は1/3以下であろう。
各種の準備作業や交渉は欠かせない。
また裏方さんへの配慮も同じである。
これらのパートが一体となって成功へのシナリオが描ける。
上手くいったときの達成感は何ものにも代えることはできない。
そして、その成功体験が
次の目標へと気持ちが向かうのではなかろうか。

サラリーマン時代からまた、定年になっても
パートナーの家内と共に音楽活動をしてきた。
影になり日向になり自分のわがままに
ついてきてくれる事に感謝感謝である。

2018年も新たな気持ちで家族、友人その他多くの方々に感謝し
活動をして悔いのない人生の1ページとしていきたい。

2018年 1月2日 記


---------------------2017年 12月---------------------


2017年もいよいよ最後の月を迎えた。
振り返ればコンサートを中心にした毎日を送ってきたと思う。
これには友人や仲間の協力の他に忘れてはいけない家内の協力がある。
家庭では妻として音楽ではパートナーとして文句言わずに
ついてきてくれることに深く感謝する。
先月の14日に結婚36年を迎え更にその感謝が増す。

長崎でのコンサートも来年からは年2回となりますます気合いが入る。
繰り返すがこのような企画は綿密な計画とその実施協力者・支援者があって成り立つ。
本番に向かうまでの数々の段取りは何度やっても楽なことはない。
しかし、そこにサポートしてくれる方々がいることで張り合いや楽しさが湧いてくる。
また、うまく行った時の喜びは何ものにも代えがたい。
これからもこのサポーターの皆さんには感謝をしつつ前進したい。

先月の中旬から「相撲界」が大変騒がしい。
元横綱のやった暴力沙汰が報道を賑わしており
否が応でもその事件が目や耳に入ってくる。

数年前に若い命を奪った事で暴力一掃を誓ったにもかかわらず
形は違うが未だ残っていたことは残念でならない。
若い力士の「躾」「教育」という側面はなかなかマニアルや数回の
講義では出来る事ではなかろう。

自分のサラリーマン時代の部下育成経験からもよくわかる。
繰り返し繰り返し言って聞かせて、やらせて振り返る事から定着するのではなかろうか。
しかも、日々の行動を注視しながら色々なケースでの指導から行う事がポイントであろう。
これを力でねじ伏せるようなやりかたでは返って反発心を生むことになる。
何でも聞いてやる「迎合」は良くないが相手の立場や身になって
同じ「土俵」で考えて結論を導くことこそ真の指導と確信する。
こんな職場環境が醸し出されればおのずと「報・連・相」の基本動作は出来てくる。

道行く人、電車に乗っている人。。。。そのほとんどがスマーフォンを何かしら操作している。
そんなに情報のやりとりや収集がリアルタイムで必要なのか疑問でアル。
道を歩くときはしっかりと前を向いて歩いて欲しいと願うのは私だけだろうか。
細い舗道を黙々と操作しながら歩く若者には怒りより何か哀しさを感じる。

会議やイベントではマナーモードが常識になっていよう。
もし設定忘れであればその場で小さな声で後でかけ直す事を告げて切断する。
人が何か話しているときに着信があったからと言って
操作や会話を行うことは大変失礼な行動と思わざるをえない。

インターネット社会になった頃にネット使用上のエチケットを「ネチケット」と称して
いろいろ指導にこれが使われた、今こそ「スマチケット」の普及と励行を望む。

2017年 12月1日 記


---------------------2017年 11月---------------------


季節外れの台風かと思えば突然の選挙。。。。慌ただしい日が過ぎていった。
ベランダから眺める隣の柿の木には沢山の実がなっており今にも枝が折れそうだ。
冬の訪れを前に小鳥たちの栄養源になるのであろう。
毎年の風景だが自然の営みには頬が緩む。
日に日に気温が下がっており、もうすぐ冬を迎えるかと長嘆息もする。

先月は故郷の長崎でコンサートを実施した。
第3回となるこのコンサートには平和を訴える組曲でメッセージを発した。
少しでも多くの方々に地雷の怖さを解っていただこうと
我孫子から9名の女性軍団が忙しい中
色々なやりくりをして駆けつけてくれた。
心から感謝する。

先日、主催する音楽研究会仲間の集まりで恒例のバンド講座を行った。
いつもは和音が、、、リズムが、、、等の音楽要素についての講義が多いのだが
今回はバンドを続ける中での「マナー」についても語ることにした。

昔と違って楽器の購入やスタジオの利用はいともたやすくできる時代になった。
そして、世間でも中高年が手の届かなかった楽器を得ることができ
仲間とバンドを編成してスタジオ、ライブハウスでの演奏が低価格で楽しめる様になった。

こんな中で演奏上の技術もさることながら、運営上のマナーについては
眉をしかめることも多々見受けられており、今回の事につながる。
数人での編成が普通になるバンドでは個人の技量もさることながら
全体でのまとまりやマナー的な定着が求められる。

例えば、調弦、調音に入った人がいるにもかかわらず隣で爆音を発するギターリスト。
また、ダラダラと調弦、調音を続ける人。
使い終わったドラムの響線をそのままにして立ち去るドラマー。
貸しスタジオでの使用時間を守らないメンバー等などきりがない。

ハイテクニックでの巧さより、気持ちいいまとまりでの演奏が
何ものにも増して嬉しいのは私だけだろうか。
少々、じーさんっぽい発言ではあるが40年50年と続くバンド運営では
細かなルールと相互の思いやりが基本と思い聞かせている。

楽器や装置を大事にしない輩には演奏、ましてや人に聞かせる資格はない。
先日の研究会ではいつものテーマと違って「司会:MC」「マナー」に
したが果たして如何だったか。
きっと、心のどこかに引っかかっていると信じる。

今月はグループ会社の音楽仲間の祭典が計画されている。
全くの手作りコンサートで有り、音響を担当する自分はいつものテンションより
少々高めになっている。
多分、これが最後の関わりかとも思いながら後輩での指導、技術伝搬をしていきたい。

2017年 11月2日 記


---------------------2017年 10月---------------------


いつの間にか秋の気配があちこちに感じられる頃になってしまった。
近所にある金木犀の巨木からは香りが流れて散歩の足がふと立ち止まる。
上野のパンダの赤ちゃんの名前は「香香」に決まったという。
「香」が心の安らぎを与えるように「香香」の仕草や成長が
多くの子供や子をもつ親に望と安らぎを与えてくれる事を願う。

先日、突然の衆議院解散と政党の動きに驚きと嘆きがでた。
あんまり政治には関心をもたない自分であるが
今回だけはそう言ってはいられない。
政治家本来の動き、働きになっているのか。
選択する我々にも多くの課題と責任があることに気がつく。

世界のどこかでは戦争が続き、難民が逃げ惑う。
幼子を抱えた母親の悲痛な叫びが報道される。
隣国ではミサイルをどんどん発射させ粋がっている。
戦後72年という歳月が「平和」感覚を麻痺させたのか
自らも含めて考えたい。

母がこの世を去って今月で14年になった。
墓を近所に移転してちょうど1年になる。
思いついた時、すぐ墓参できることに感謝しながら
手を合わせると昔の両親の顔を思い出す。

数年前に墓前に備えた菊の花から切り取った茎を育てて
ベランダに植えているが毎年花を咲かせるようになった。
今年もつぼみが多く付いているので良い香りと花を見せてくれるだろう。
両親の目が子供や自分に向いていると心に言い聞かせている。

今月の14日は2年前から始めた「ふるさとコンサート」の3回目を迎える。
長崎でのコンサートには今回、我孫子から多くの方々に参加してもらう事になった。
家内が主催しているアカペラグループのメンバーがこのコンサートに
特別参加とういうことで組曲「地雷ではなく、花を下さい」を演奏してくれる。

平和へのメッセージ発信を我孫子から長崎へと移し、皆さんに訴えたい。
本来の多人数での合唱ではないが
きっと気持ちのこもった歌声が長崎の地に響き渡るであろう。

2017年 10月1日 記


---------------------2017年 9月---------------------


夏と言えば積乱雲が空に立ちはだかり
木々には蝉が所狭しとしがみついて鳴いていたものだ。
しかし、今年の夏は雨が多く全国的にも多くの洪水被害がでてしまった。

地球全体がおかしい、そしてそれからくる各種の被害は夥しい数字となっている。
人間は自然の力の前にどうすることもできずただ逃げ惑うだけだろうか。

一方隣国では訳のわからない威嚇行為を繰り返している。
対話による解決が一番良いかもしれないが果たして
そんな生ぬるいやり方が通用する国かどうか疑問だ。
これも、どうすることもできずただ叫ぶだけか、、、歯がゆい思いである。

2017年も残り4ヶ月になった。
本当に時間の経つのは早く毎日が次々と去って行く。
体力の落ち込みと共に残された人生を考える季節でもある。
限りある時間を如何に悔いのないもので過ごす。
判っているようでなかなかできない。
しかし、あまり考えすぎず自分のできることを確実にやっていきたい。

昨日はサッカーのワールドカップ予選で日本が豪州を破り
今までの胸のつかえを取ってくれた。
その点の取り方や勝ち方が今までの悲劇を消し去ってくれた。
一瞬の隙をチャンスとして攻め込む事は鍛え抜けれた選手にとって
何回も練習や実践で培ったものであろう。

まだまだこれから関門が待ち構えているが突破して欲しいと願う。
暗い話題の多い中で久々の胸をすくような結果に
思わず酒が進んでしまったことは言うまでもない。

今月はまた慰問演奏会が多く開催される。
おしゃべりも多くなろうが皆さんの笑顔を期待したい。

2017年 9月1日 記


---------------------2017年 8月---------------------


各地で大雨の被害が出ている。
特に秋田県での被害は大変な状況のようだ。
短時間に大量の雨が降ることによって吸収できないことから
土砂の崩落や河川での氾濫など、自然の仕組みは今更であるが壊れると怖い。
受け入れる量を超えるとそれをどこかに押し出さなければならない。
自然災害のみならず全ての事に当てはまることではなかろうか。
日頃からその行き先を確保することは頭で解っていても具体的に
自らがしておくことはなかなかできないであろう。
しかし、現実に報道などで被害状況を知るに従い、何かしらしなければ
という気持ちは出てきた。
やはり、取りあえずできる備えが憂いを無くすかも知れない。

恒例になってきた「ふるさとコンサート」の準備も進んできた。
地元の友人が色々な人を協力者としてくれる。
今年は家内が主催しているグループ10名も長崎へ行くことになった。
そして、長崎の皆さんにも「カンボジアの地雷撤去」についてPRしたい。
世界にはまだまだ戦争の後始末ができていない所が多々ある。
作って埋めるのは簡単だがそれを取り除く作業となるとなかなか
時間がかかって、その内に忘れ去られる。
そして、それを何もしらない子供達が触ってしまい被害を受ける。
5年前にカンボジアを訪問して現地の方々からその被害状況を
直接聞く機会があった。

「地雷ではなく、花を下さい」というタイトルの絵本をベースに
約20分の組曲だがきっと心に訴える事ができると思う。
少しでも立ち止まって考えていただければ嬉しい。

サラリーマンを引退してから丸5年が経過した。
毎日好きなことをさせてもらい家内には感謝している。
幸いに施設の慰問活動や音楽活動は切れ目なく継続しており
次々と計画実施している。また、そこからの輪も広がり嬉しい限りだ。
腰痛が気になるが無理のない範囲で今後も続けたい。

もうすぐお盆がくる。
長崎からお墓を移してちょうど1年になる。
眠っている父母や子供にも良い報告ができればと願っている。

2017年 8月1日 記


---------------------2017年 7月---------------------


いつの間にか一年の半分を過ぎてしまい、時間の早さに今更だが驚く。
今週の初めから函館、青森、岩手、宮城と旅行をしてきたが
年々身体の動きが鈍くなり苦笑する。
函館は50年前に青森からの連絡船で初めて
北海道に降り立った場所として記憶している。
19歳の誕生日を12時発の連絡船で迎え
バンド仲間にささやかなお祝いをして頂いた。
当時は函館始発の列車で岩内という所へ
アンプやギターを下げて向かった。
残念ながら函館市内の見物はできなかったが
車内の人々が語る訛りに耳をじっと傾けたものだ。

長崎の夜景とどの位違うか。。。
函館山の頂上から眺めたがどちらも甲乙付けがたいものであった。
函館開港、五稜郭、函館奉行等などの
歴史秘話は興味深く時間の経過を忘れた。

そんな中で名物という「五島軒」というレストランで
カレーを食しに車を飛ばした。
開設のいわれの中に「五島」という人物が
長崎の五島出身者だった事が書いてあり
驚くと同時に、何故か頬が緩んだ。

祖父も若い頃、小樽で仕事をしてという。
昔の人は北海道に何かのロマンを求めて渡ってきたのだろう。
宿舎の窓から見える本州、青森の津軽半島、
下北半島は遙か彼方だが
新幹線での移動ではあっというまのことであり
ロマンを感じることもない。

何故人は旅をするのか。。。。
新聞の片隅に書かれていた事を思い出す。
生活に余裕ができて異文化にふれてみたいという心から発するらしいが
新たな発見がその後の生活に与える影響は大きいのではなかろうか。
その地には歴史と開拓した方々の血の出る裏話が隠されている。
同じ場所でいつもの生活の中からはそんな事への発見などの欲望は湧かない。

今月も慰問演奏する機会が多い。
是非、持ち帰ったお土産話で喜んで頂けるようにしたい。

函館の女 北島三郎

はるばるきたぜ 函館へ
さかまく波を のりこえて
あとは追うなと 云いながら
うしろ姿で 泣いてた君を
おもいだすたび 逢いたくて
とても我慢が できなかったよ

2017年 7月1日 記


---------------------2017年 6月---------------------


気温の上昇が激しいこの頃、衣替えやその他
これから来る夏に備えた動きに追われる今日この頃である。
四季の色々な楽しみに恩恵を得る日本では、
その折々に昔から言い伝わった話や諺に溢れている。
この事は生活や活動に大きな潤滑油となっている。
食品の傷みやすいこの季節にはこれに気を付けよ、とかスタミナの
切れる時にはどうせよとか、季節の切れ目には色々な伝えが頭に浮かぶ。
先人の言い伝えには素直に従って健康な生活を送りたい。

先日は5年に一度我々夫婦が主催するコンサートを開催し、無事終える事ができた。
会場は満員となり多くの方々に暖かい声援を頂き、これまで続けられててきたことに改めて感謝する。
この3年で身体の動きもきつくなり腰への負担が感じられるが多くの仲間の支援を受けて
続く限り、生きている限り、忘れられない限り、声の出る限りやっていきたい。

来週から昨年大地震で訪問できなかった熊本に足を運び中学3年以来の
水前寺公園や熊本城を訪れてみたいがお城は工事中となりテントが張られているらしい。
それでも長崎公演でのバックでドラムを担当してくれる友人や家内と一緒にアカペラを
やっている友人ご夫妻との復興についての会話は延々と続くであろう。
心から熊本の復興を願ってやまない。

熊本、長崎から戻って暫くすると北海道は函館方面への旅行が待っている。
20年前に勤めた東北時代の会社で苦労を共にして戦った戦友との旅行である。
毎年実施している旅行として色々な所へ行く。
今回は函館から始まり、昔勤めた青森、仙台等、現役で頑張っている社員の方々
との懇親会も計画されており今から気持ちも高ぶる。
仙台では女川方面での復興状況を目に焼き付けてくる。
実際に現地へ足を運ぶことで生の情報や雰囲気を貰うことができる。
そして、なによりも現地の方々との会話が嬉しい。

6月の施設慰問では「雨」の特集が多い。
今月はこの曲が皆さんの口から歌われるであろう。

<雨降りお月さん>

雨降りお月さん 雲の影
お嫁に行くときゃ 誰とゆく
ひとりで唐傘 さして行く
唐傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬に揺られて 濡れてゆく

いそがにゃお馬よ 夜が明けよ
手綱(たづな)の下から ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を 隠してる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲の蔭
お馬にゆられて 濡れてゆく

2017年 6月1日 記


----------------------2017年 5月--------------------


野山の木々は新たな葉が出始めている。
植物の命の鼓動が聞こえてきそうな季節になった。
ベランダに植えてある植物にも枝に膨らみが見え始め
毎朝観察するのが楽しみでもアル。

冬の間は水もやらず黙って見守っていたがちゃんと生きていたのだ。
この季節になると芽をだし葉を出し実をつける準備をする。
自然界の不思議というか生物の不思議というか、感心することが多い。

一方、水槽に飼っているめだかもここにきて活発な動きをし始めた。
そして、メスのお腹には卵も見られる。
果たして今年は何匹の子供が泳いでくれるか楽しみだ。
毎年の事だが、四季の変化と動植物の動きは心を豊かにしている。

昨日は晴天でも有り衣の入替時期と言うことで
これからやってくる暑い季節への準備をした。
その中で、何年も使っている炬燵にはその時代時代の傷やシミ後があり
思わず当時を思い出してニンマリする。
子供達が駆け回ってつけた傷やこぼしたコーヒーのシミ
オーディオ作りのハンダ鏝で焦げた痕等次々に頭を巡る。
毎日家族と向かい合い食事をしてきた「炬燵」ならではのことであろう。
古くなったので買い換えようという声もあるが
なかなか首を縦に振れない自分に苦笑いがでる。

今日から5月ということで世間では大型連休の話題で持ちきりだ。
世の中不景気だという割には海外への旅行者も多く、その内容が豪華なのは何故か。
遊びすぎて翌週からの仕事に影響が出るようでは如何なものかと思う。

「国鉄のスト」という懐かしい言葉が何故かこの季節に思い出される。
サラリーマン時代はこの連休中に「スト」があったり顧客会社の連休もあり
それを見込んでのシステムの修正や入替作業が立て込んでいたために
そんなゆっくりやすむということはできなかったのを思い出す。
今やITの世界も自動化が進み短時間の内に修復作業、検査ができる時代だ。
インターネットや回線技術の進歩で格段の進歩があろう。

先日、あるテレビ番組で「ロボット化」した場合の事故責任範囲はどうなるか、という事を放送していた。
ロボット化しようが自動化になろうがそれを指示、監督、管理しているのは人間で有り責任は明確だろう。

人工知能の開発が急速に進んで来た。
将棋や碁の世界でもコンピュータとの対決が話題になるが
やはり、人間は人間らしい事で生きていくことであり
機械に任せられる事でもっと人間らしい活動ができるのであればいいのではなかろうか。

コンピュータのシステムエンジニアとして47年前に教えられた事である。
単純な計算、転記、ファイル作業等から解放され人間本来の判断や感情の世界に移しましょう。
という講師の言葉が未だ頭の中に残っている。
今や、判断や推測もコンピュータに変わる時代なり少々複雑な気持ちと言える。

自然界の動きや日常の会話を楽しみながら生活を楽しみたい。
今月は20日に5年に一度夫婦主催のコンサートがあり計画が進んでいる。
結婚して35年、会社にて結成したバンドが45年、そして自分が古希手前の69歳
と言うことで「35、45&69(ROCK)コンサート」と題した。
最近お付き合いしている友人バンドや旧友バンドの参加もあり賑々しくやる予定だ。
はたして上手くいけるか心配でもアルがワクワクする。

2017年 5月1日 記


----------------------2017年 4月--------------------


昨日、夕方近所にある桜の木をみると蕾が今にもさけそうな状態だった。
雨がふっているので果たして咲くかなと気にしながら東京へと向かった。
深夜の帰宅であったが夕方見た桜にはピンクの花びらが沢山見える。
酒の勢いも手伝って何か気持ちがウキウキしてきた。
短い期間だが道行く人々を楽しませて欲しいと思いながら足取り軽く帰宅した。

短い命と言えば我孫子で殺人事件があり9歳の女の子が「短い命を奪われた。
住んでいた松戸から発見された我孫子の利根川河川敷までの10数キロで何があったのか
報道では毎日大騒ぎになっている。
本当に痛ましい事件で有り、絶対に許されない。
今頃、犯人はどんな気持ちでいるのだろうか。

「リン」ちゃんよ天国でゆっくりお休み下さい。

短いと言えばもう一つ。
利根川の向こうに「龍ケ崎市」「牛久市」という所があり
今年に入ってこの3ヶ月という短い期間に街中が大騒ぎしている。
騒ぎの源は「稀勢の里」という力士の出身地ということである。
現在のお住まいは牛久市、入門直前の中学までは龍ケ崎市ということで
両市は「おらが街の横綱」で綱引きをしているとか。
でもお互いにこのおらが街の横綱を全市民が支援合戦すると言う微笑ましい姿に拍手である。
そんな稀勢の里が見せた感動の負傷出場と連続優勝は久々に血が沸いた。
ややもすると負傷出場で「短い横綱になる」とまで言われたようだし
我々も無理だという見方だった。
千秋楽の姿を見るのは忍びないが最後まで応援しようと思いテレビをつけて見守った。
しかし、結果はそれを吹き飛ばす相撲内容に我が家では大歓声だった。
捨て身の作戦で絶対無理と言われた相手に2つも勝ち、表彰式では思わず男泣き。
自分の涙腺が緩んだのは言うまでも無い。

昔、乗っていた常磐線の松戸で下車した力士の顔を何故か覚えていた。
それが後の稀勢の里だった。
その後、密かに彼を応援してきたが肝心な所で負けるのでがっかりし続けていたものだ。
しかし、真摯な姿勢と人柄の良さはインタビューでも解る。
今年になり初優勝と横綱になるや大相撲を背負っているという言動が嬉しい。
モンゴル勢に押されてきたこの数年、待ちに待った日本人横綱には
「短い期間」という文字が付かないように今以上応援するつもりだ。

2017年も既に1/4が過ぎた。
これから暖かい日々を迎えるが気温だけではなく「暖かい心」を持って周りに接して行きたい。
来月は結婚35周年、「びこうず」というバンドの結成45周年、そして自身の69歳(Rock)を
記念してのコンサートを予定している。
わがままな企画で出演者もお客さんも迷惑だが盛大になることを願いたい。

人生には悲しい出来事、楽しい、嬉しい出来事の繰り返しがある。
その瞬間毎に人間の成長があるのだろう。
まだまだ成長の足りない自分だが一歩づつ進めて行きたい。
今日はAPRIL FOOL....この決意がそうではないことを記す。

2017年 4月1日 記


---------------------2017年 3月---------------------


道路に植えてある櫻の枝先には蕾が膨らんで
今にも花が開こうかとおもうばかりだ。
寒い間じっと耐えたとばかり
風に揺れ動いている様子はなかなか微笑ましい。

また3月11日がやってくる。
6年の歳月が経って復興はどのくらい進んだのだろうか。
色々な報道で知る限りではまだまだ時間のかかる話がでる。
特に心の回復は相当な時間がかかるであろう。
特に福島地方の方々にとっては我が家があっても帰れない
という中で心も折れたことであろう。
荒れ果てた田畑や家屋、廃墟となったものもあるだろう。
3/11は鎮魂竹宵チャリティコンサートということで出演することになった。
心をもって演奏し、何かの役に立てばと思うばかりだ。

先週、69歳を迎えた。
振り返れば還暦からあっという間の9年だ。
サラリーマンを引退して今年で5年となり、
好きなことを毎日やりながら暮らしている。
時々現役の方とお話しするが昔やっていた事を
かなり忘れ去られている自分に気付く。
いつまでも張り詰めた気持ちはいらないだろうが
年老いた自分に少しだけ苦笑いがでる。
これから先何年生きていけるかわからないが
ペースダウンした中で楽しんだ生活を送りたい。

今月は多くの施設慰問が待っている。
春に因んだ曲や懐かしいメロディを計画している。
中でも、先日亡くなった「船村徹さん」を特集して数曲やってみたい。
故郷、栃木県船生村出生まれたことから船村という芸名にしたのであろう。
日本人の心に響く数々の名曲を生み出した作曲家だった。

小学校2年か3年の時、運動場で青年団の方々による
コンサートがあったのを記憶している。
コンサートといっても今みたいにきちんとした
拡声装置があるのではなく簡単なものだった。
バンドもギターとベース、アコーデオンだったと思う。
その中で聴いた曲に船村徹が作曲し春日八郎のヒット曲
「別れの一本杉」があったのを憶えている。

泣けた 泣けた
堪えきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた 哀しさに
山のカケスも 啼いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ


春日節とまではいかないが
福島県会津坂下町を浮かべながら
語りかけてみたい。

2017年 3月1日 記


--------------------2017年 2月---------------------


先月末からの就任以来数々の「米大統領令」なるもので世界中が大騒ぎしている。
内容を見るとメキシコとの壁や移民の制限、日本や中国語への為替問題等など
果たして大国の指導者としての品格、能力等などを疑うものばかりだ。
今までのビジネス世界では脅しとすかしで成功したかもしれないがそうはいかないであろう。
涙ながらに反対を訴えた政治家の放送にしばし目が話せなかったのは自分だけではなかろう。
アメリカのあちこちでデモが勃発しているが、こんな大統領を選んだのは
米国民であるのも事実ということを忘れてはならない。

利根川の向こうは茨城県、そこに龍ケ崎市と牛久市という所がある。
今、その両市が活気に満ちている。待ちに待った「横綱」の誕生だ。
今から10数年前、常磐線上り中距離電車の中で若い髷を結った
可愛い力士が松戸駅で下車したのを憶えている。
それが「稀勢の里」だった。

それ以来、家中で応援してきたがこの数年はあと一歩での負けにがっかりしたものだった。
しかし、先の初場所では堂々の優勝と横綱昇進を果たしなによりも嬉しい。
その後のインタビューやテレビ出演でも浮かれる様子はなく、横綱としての責任の重さについて
一言一言かみしめて語る様子に好感がもてるとともに今以上の声援を送りたい。
龍ケ崎市と牛久市で「おらが街の横綱」合戦が始まったが久々に微笑ましい戦争でアル。
これからの横綱の躍進と両市の活性化が進めば嬉しい。
久々に美味しいビールを一気に飲み干した。

今月末には60歳代最後の年を迎える。
最近の車事故で老人のそれが良く出ている。
免許更新を今月に控えて複雑だがまだまだ負けないぞという気持ちで一杯だ。
5月には「69歳」を記念して「Rock」コンサートを企画している。
恥ずかしながら老人パワーを見せつけたいと思っている。

来遊末には11年連続で実施している地元でのコンサートがある。
2時間半30曲以上の長丁場だが、迎えて頂く会場の皆さんには毎回深く感謝している。
楽しみに1年間まってくれている方々、懐かしい曲には一緒に歌ってくれる方
思わず踊り出す方、、、、、昔話に涙ぐむ方、、、、、人生はドラマだと思う。
今年も既にチケットの予約が満杯となったと聞く。
演奏陣もこの地域イベントには最優先でスケジューリングしてくれる。
地域活動を通じての「人の輪」の大切さ、ありがたさ、等など
残りの人生には全力投球していきたい。

寒さも本格化しそうだがあちこちの梅の枝には白い蕾がついてきた。
春が待ち遠しいのは我々もおなじだろう。

                                          春よ来い 早く来い
                                       あるきはじめた みいちゃんが
                                        赤い鼻緒の じょじょはいて
                                         おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

作詞者相馬御風の娘「文子」が歌詞の中にでてくる「みいちゃん」のモデルと聞く。
糸魚川出身の御風も先の大火災には天上から悲しんでいよう。
この冬を乗り切って復興の春が来ることを心からお祈りしたい。

2017年 2月2日 記


-------------------------2017年 1月--------------------------


気持ちよい朝日と小鳥の鳴き声で新年を迎えた。
届いた年賀状を見ながらそれぞれの姿を想像する。
家族の紹介や登山旅行時の写真があり、元気な様子に安心する。

朝の食卓に屠蘇を出して乾杯、今年の健康や目標達成を祈念した。
昨年、夫婦にとっては結婚35年を迎え、これまで楽しく過ごしてこられた。
家内の協力や周りの友人達の支援には頭が垂れる。
2002年から始めた福祉施設慰問も15年目に入る。
楽しみに待っていてくれる方々の顔が嬉しい。
時間と体力の許す限り継続したい。

課題を沢山抱えた東京都もなんとか前進して欲しいと願う。
市場関係者は一番被害を受けていることであろう。
報道で見ると少々押さえた発言だが腹の中は煮えくりかえっているに違いない。
報告される状況を見れば???の連続である。
自分も現役時代はコンピュータシステムの構築を担当し開発者、下請け業者
その他各種メーカーの進捗点検や発注者への報告等には苦労したものだった。
書面での要件確認をしていても実際には依頼主から途中でころころ変更がでる。
これが最後と念をおしてもまた依頼が来る。費用と時間が積み重なっていく。
最後は要件の分析が甘かったということで開発側にもそのつけが廻る。
大規模なシステムでは時折裁判沙汰になるケースもしばしば報道された。
変更管理の重大さはプロジェクトマネジメントの肝ともいえる。
そして、報告と承認の工程、合意形成。。。。みんなあたり前の事だろう。
とにかくメンツや形式に拘泥せず、前進して欲しい。

オリンピックの開催についても場所や費用で混乱があったが
方向が少し見えてきたように思えるものの桁外れの金額に少々麻痺してきた。
1964年来の東京開催なので期待も大きいがそんなにお金をかけないで
運営する方法はないのだろうか。
余りにも発表される数字がかけ離れたものだけに虚しさだけが残る。
世界には明日食べるものにも困っているひとや
戦争の後遺症に悩んでいる人々が沢山いる。
最近では熊本の他に新潟県糸魚川市の火災で被害に遭われた方々など
災害被害者が後を絶たない。
今、お正月をどんな気持ちで迎えているか自分自身も考えたい。

2017年 1月1日 記


-------------------------2016年 12月----------------------


いつの間にかストーブや炬燵の季節になった。
秋があっという間に過ぎてしまい街路には枯れ葉が舞い散る。
近所に樹齢100年はあろうかと思われる大きな銀杏の木が黄色の葉を落とし
いやでもこれからやってくる冬の厳しさを思い出させてくれる。

世界を見れば大きな動きが次々と報道され予想のつかない事が多すぎる。
米大統領選挙結果、韓国大統領の出来事、イギリスのEU離脱、北朝鮮のミサイル発射
。。。。。枚挙に暇が無い。
色々あろうが戦争の影響で故国を離れて暮らさなければならない多くの難民の
人々が今でも一時の安住を求めて必死な暮らしを強いられていることを忘れてはならない。
新リーダーには就任直後のこのチャンス時を決して見逃さず
思い切った動きを期待したい。

国内に目を転じれば東京都知事選挙後から始まった一連の不祥事発覚。
特に築地の市場移転問題はその営業に携わっている関係者にとっては
その怒りをどこに、どうやってぶちまけ、解決策を求めるか先の見えない
現在の状況に苛立ちと不安、不満の頂上であろう。

2020年の五輪会場問題、運営費用その他諸々の難題を抱えて
前述の移転問題解決が当面の課題であろうが師走を迎えた今日
是非来年に向けた希望の持てる策を示して欲しいと心から願う一人である。

今月は多くの施設から慰問演奏の依頼が多く、次々と計画&実施しなければならない。
忙しく動く中で「ありがたい」と思う気持ちが日に日に強く、心から感謝している。
戦前の歌謡曲や終戦直後の歌謡曲、童謡、洋楽等など
リクエストとはバラエティに富んでおり、本職のROCK&BLUESの世界とは
かけ離れているが一曲、一曲に勉強をさせられる。
 
素晴らしいコード進行、奥深い歌詞から読み取れるもの。。。。
古きを訪ねて新しきを知る。
作られた時代背景、流行った時代背景、歌った歌手の時代背景。。。
等など調べればきりが無い。

そして、それを自分なりに咀嚼しコンサート会場の方々に判りやすい言葉で語る。
頷いて頭を動かす人、目を閉じて当時を思い出す人
そんな観客の動き一つ一つが次への活力となる。

10年前から本格的に開始した施設慰問での演奏曲が2000曲を超した。
ある施設での公演回数は35回を超した。
長くやればあたりまえのことだが色々な試行を重ねて
一緒にやっている家内と共に更なる活動としたい。

来年の5月には結婚35年、会社で設立したバンド活動45年に加えて
古希を迎える自分の節目コンサートをやることになった。
健康に留意して是非実現したいと思う。

2016年 12月1日 記


-----------------------2016年  11月--------------------


先月はコンサートが多く、落ち着かない日々だったが
反面充実した時間を送ることができた。
コンサートやイベントはその前準備、根回し等の事前作業が大切である事は
以前から述べているが明細単位に項目をあげる力は経験と
それを後に伝える努力がなければ一朝一夕に身につく技量ではい。

最近ではスタジオやホールの環境が良く、お金を払えば業者が段取りを取ってくれ
演奏者は何もすることなく実力以上のサウンドを提供できるようになった。
しかし、演奏内容とのギャップは隠し様もなく、数分でばれてしまう。
古い人間の自分は手作りのステージで懸命にやり
聴衆から評価される事が一番と考える。

高校時代に先輩を送り出す予餞会にて初めて全校生徒の前で
演奏と寸劇を披露する事になった。
ギターアンプがないので自宅からリアカーで手作りのアンプと
スピーカーを数人で運んだことが懐かしい。
貧弱な装置と楽器で無事終える事ができたがその時の仲間は
今でも酒の席で当時の事を肴に想い出話となる。

現在、家内との施設慰問は年間40回くらいの数を数えるまでになった。
夫婦で積み卸しを行い演奏後は片付けをして車に積載し運転して帰る。
上手く演奏でき会場の反応が良かったときのハンドルは軽い。
心も口も軽くなる。身体が続く限り継続して行きたい。

故郷でのコンサートも昨年に続いて開催でき、来年の予定も決まった。
中学校の同窓生が今年も大勢駆けつけてくれた。
本当に感謝感謝だ。
来年は「古希」同窓会も開催される予定だ。
酒を酌み交わしながら訛りのある言葉で語り明かしたい。

来月は10回のコンサートが予定されている。
健康に留意して元気なステージで今年を締めくくりたい。

2016年 11月2日  記


----------------------2016年  10月--------------------------


金木犀の甘い香りが街を包んでいる。
ベランダのハイビスカスが夏の終わりを惜しむかのように次々と花を咲かせる。
季節の変わり目の出来事や植物の働きは心を和ませる。

昨日は関係会社時代に立ち上げたバンドが10周年を迎えたということで
記念コンサートを行い演奏や打上まで参加した。
雨天にもかかわらず大勢のお客様がおいで頂き、また会場全体で楽しんだ。

ちょうど昨日が我が愚妻とゲスト出演の方の奥様が同じ誕生日ということもあり
突然のサプライズ演出で更に盛り上がった。
ともすればぎすぎすした社会だとか希望のない言葉が溢れているこの頃
童心に帰って歌い、叫び、拍手喝采することは最高のビタミン剤ではなかろうか。
多分、明日からの仕事にも活力がみなぎるだろう。

来週は長崎へ帰り、第2回目となる「ふるさとコンサート」を開催する。
今回は昨年のように大がかりなPRはせず、知り合いを中心に若手バンドの紹介を兼ねた形を取る。
色々な通信網が発達し世界のミュージックシーンもすぐにとらえることが出来る時代になり
楽器や練習スタジオの普及がこの50年で大きく様変わりしたのであろう。

そんな時代背景の中、我がふるさとにも多くのミュージシャンが生まれているという。
今回は彼らとの接点を持ち、今後のふるさとコンサートを少しでも発展させればという思いだ。
聞けば仕事をしながら休日にライブ活動をしてプロを目指しているという。
お節介かもしれないが、何らかの形でサポートできればとも考える。

表現する楽曲のジャンルは違えども底辺に流れるものは共通している。
演奏や歌唱によって自分をどうアピールするか、またバンド全体をどのようにアピールするか等
個と集団のバランスや聴衆への訴えなど課題が多々ある。
単なる騒音集団ではなく底辺にバンドのポリシーがなければ長く続かないであろう。
難しいようであるがそれにどれだけ打ち込めるかポイントであり、結果とその評価は一目瞭然である。
仕事を持ちながら、家庭を支えながらというハードルはあろうが夢を実現する為に頑張って欲しい。

定年を迎え、仕事から解放され、また子供も成長し巣立って行った後は
何かに「夢中」となることで有意義な時間を持てると思う。
幸いにサラリーマンを卒業して丸4年経つが慰問演奏活動を中心に年間50回の
ステージは毎日が充実しており支えてくれる家内に感謝感謝である。
今日は一日遅れの誕生会をささやかに家族みんなで祝いたい。

桜の葉が黄色や赤に変わってきた。
夜になると虫の鳴き声もいっそう強く聞こえる。
これからやってくる寒い季節と次世代に備えた植物や昆虫の動きには
思わず頬が緩み笑みが生まれると共に自然の営みに改めて驚く。

2016年 10月2日  記


----------------------2016年  9月-----------------------


東北、北海道地方に大雨の被害が出ている。
今回は台風のきまぐれからから、ブーメランのように戻って来るという
極めて希なパターンだった。

子供の頃は夏休みの終わりから9月後半までは毎週が台風の対策であった。
家の前の港には船がたくさん留まっており、どの船も太いロープで結ばれている。
船と船のこすれる音が深夜の中で不気味に響く。
早く去ってくれと念じながら布団にくまっていたものだ。

ラジオから流れてくる気象情報は難しい言葉ばかりで親に質問ばかりした。
停電で電灯が消えるが電話は繋がるということが理解できないで
郵便局の局長さんに聞いたら電話の電源は別にあり電池があるという。
わざわざ自宅まで来てくれその接続を教えてくれ、
電池に豆球を何個かつけて照らしてくれた。

停電しても電話の連絡ができるという謎が解け
何かもやもやしていたものがすっきりした瞬間であった。

近所の方々が戸がとばないように大きな板を打ち付けてくれたり
屋根に登っては瓦を点検して応急の対策を次々とやっていた光景が今でも蘇る。

水害では昭和32年の夏休みに入った頃発生した「諫早水害」を思い出す。
その後、諫早から引っ越してきたご家族に当時の事を聞くと
バケツをひっくり返した様な雨だったという話を今でも記憶している。
夏休みに上京する予定だったが長崎本線の混乱で少し遅れて出発し
諫早を通らないルートで鳥栖までやっとたどり着いたものだった。

熊本の地震被害がまだまだ残っている中で今度は北の方面で水害が発生した。
明らかに気象の異常さがもたらしたものであろう。
今こうしてなんとか無事に生きていられる事へ感謝する。

少し前にリオ・デ・ジャネイロのオリンピックが閉幕した。
大きな事件もなく無事閉幕した事へ安堵するのは自分だけではないだろう。
それにしても選手達の活躍は久々に我が胸を熱くした。
この日のために何もかもを犠牲にして練習を積み打ち込んできた選手や
周りのスタッフには頭が下がる。

4年後は東京で開催されるが果たしてどうなるのか心配である。
かかる費用の膨大さに唖然とする。
ブラジルでは一時的な施設や建物は「仮設」という事で、終了後に解体するものが紹介された。
事故で人命に影響があってはいけないが技術の進化で対応できる物は
このような手法を取り入れることもいいかと思う。

作り上げたものを放置してムダにしたり、維持するのに費用がかかるのであれば
誰か責任をもって維持運営する企業や個人に売却、或いは譲渡して
有効に使って頂けるようにするなど、もっともっと検討して欲しいと願う。

寄付や協賛金はあるがなんといっても都民や国民の税金が流れるのを忘れてはならない。
費用をかければどんなことであれ派手にしかも効果のある見栄えにはなろう。
技術の発達した現在、そのIT技術やCG技術を駆使して欲しい。

そんな心配もあるが2020年には72才を迎えている。
果たして元気でいるか。。。。そっちの方が心配でもある。


2016年 9月1日  記


-------------------2016年  8月--------------------
-

梅雨明け宣言から猛烈な日射しが襲い始めた。
しばらく涼しい日々が続いたのですっかり夏を忘れた様だったがここ数日は夏真っ盛りである。
朝の公園では蝉の軍団が大合唱を始め、散歩の足を速める音楽に聞こえる。

先月の中旬に家内と共に新幹線で北陸方面へ、ついでに岐阜県は白川郷まで足を延ばした。
昨年に続いて2度目であったが今回も海外からの旅行客が多く
日本人を見つけるのに苦労することがあった。

皆さん写真を撮るのに懸命で、所構わずポーズ・ポーズの連続だ。
また、スマホでの検索か会話か、風景や施設の説明よりその操作を優先してしている。
世代が違うと言えばそれまでだが、物事の歴史や背景から学ぶという姿が見えない。

先人の知恵は素晴らしいモノが多い。
冬になれば雪の深い奥飛騨や白川方面はそんな環境でも
生活できる様に色々な工夫が施されていた。
その一つ一つが現代でも通用する事ばかりである。

中でもユニークだったのは寝床から囲炉裏の様子が監視出来るように小さな窓を作り
火災の防止に役立てていたことは、藁と木材で出来ている家屋にとっては今で言う
監視カメラかもしれない。簡単な設備だが自らを守るという意識の表れと受け取った。

創意工夫と言う言葉があるが資源の少ない日本は
この事葉を後ろにして進んで来たことを忘れてはならないと再認識した旅だった。
水資源の豊富な北陸山岳方面では水力発電所が多い。
川の氾濫を防ぐための治水目的や発電、水道などの目的と多々あるが
日頃、何気なく使っている「水」は大切な資源として再認識したい。

関東地方では群馬、栃木方面の水瓶であるダムの水位が低くなっており
報道でその危険を伝えているものの、まだ切羽詰まった感ではない。
かなり前の話だが、九州・福岡地方で大渇水があり大騒ぎになったのを思い出す。
あの時の混乱を経験している方々でも時がたてば忘れるのだろうか、いや忘れないであろう。
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」というが。。。。。。。。

これから暑さが本格化するであろう。
休息と「水」を捕って健康に過ごしたい。


2016年 8月1日  記


-----------------------2016年  7月-----------------------


2016年も折り返し点になり月日の経過は思った以上にはやい。
先月は慰問やコンサートが多く、多少からだがバテバテ気味だったが
お客様の笑顔や声援がそれを吹き飛ばしてくれた。

この7月20日でサラリーマンを卒業してちょうど4年を迎える。
毎日音楽三昧の生活を送っているが、やることが多岐にわたっており一つのイベントを
行うにしても色々な準備がまっている。幸いにサラリーマン時代はプロジェクトのマネジメントを
やっていたこともあり計画立案から実施、評価など、一連の流れとチェックポイントは忘れていない。
悲しいのは機材運搬の力仕事が年々辛くなってきたことか。
動ける限り待っていてくれる方々に音楽の持つ喜びを届けたいと思うこの頃だ。

今朝の読売新聞に地元我孫子市にある手賀沼や白樺派の事が掲載されていた。
北の鎌倉と呼ばれ武者小路実篤、志賀直哉の作家達、柳宗悦らの民芸運動家達が
移り住んだこの我孫子に移転し今月でちょうど36年になる。
結婚前に家を購入することになり初めてモデルルームを訪問し景色や広さ予算から即決した。
ベランダから見える手賀沼や周りの木々の豊かさが気に入り、また文化人の方々の残してくれた
数々の遺産を散歩の度に楽しんでいる。

30年前には日本一汚い沼とまでのレッテルを貼られた手賀沼も今では近くの川に鮭が
遡ってきたというニュースまで流れて大騒ぎになった。
住民や自治体の清浄作戦や運動が実ったといえる。
夏祭りのシーズンになる。今年も7/16〜17は実施される。
長老達の会話には必ず「手賀沼で貝を捕ったり泳いだもんだよ」というものが出てくる。
家内が2003年に作曲した「いま手賀沼がうつくしい」 (作詞 宇内悦子 作曲 酒井玲子)は
今でも市内の小学校では歌い継がれているようだ。
これからもみんなでこの素晴らしい自然に感謝しつつ、更なる美しさを求めて行きたい。

「今 手賀沼が美しい」

水鳥の影がやさしく揺れる
手賀沼の風に緑がひかる
あるときは澄み また濁るけど
今 手賀沼が美しい

さあ 手を取り合って駆けていこう
みんなの明るい笑い声が
空いっぱい広がるだろう


我孫子は親子三代と言われる。
我(自分)、孫、子供。。。。いやそれ以上続けて住んで欲しい。
かねてから計画し工事中だったお墓が何とか完成し
この10日にお坊さんを呼んで納骨式となる。
長崎から夫婦で膝に乗せて運んだ遺骨がやっと安置されることになる。
場所は自宅から車で15分位のところで手賀沼を見下ろせる所に作った。
両親と2番目の息子も喜んでくれるだろう。これからはまめにお参りができることになる。
今までの親不孝を許して頂けるか心配だがつとめていきたい。


2016年 7月3日  記


---------------------2016年  6月--------------------


先月の中旬に長崎へ家内と共に帰省した。
今回は墓地の移転、つまり改葬を行うための各種手続きや法会
それと遺骨の搬送が目的だった。
初めての経験だったが色々な方々に相談しながらなんとか無事に
遺骨の仮安置を終えることが出来安堵している。
今後は我孫子での新しい墓地が完成し納骨と法会を行えば
一連の仕事が一応終わることになる。
墓石屋さんとの雑談の中では、
これは一生に一回やるかやらないかのものでみんな悩みながらやるらしい。
考えてみれば新しく家を建てるのと同じようなプロセスであり
慎重になるのは当然だろう。
父母と次男坊の遺骨も今後は千葉県に住むことになり
自宅から15分という場所は墓参の回数が増えそうだ。
今まで忙しさを理由になかなか出向けなかった事を反省していきたい。

長崎では昨年のコンサートでお世話になったメンバーとの再会をし
楽しい会食の場を持った。
中で今年も「故郷コンサートmini版」をやってはどうかと
家内から提案が有り検討の結果10月の9日に実施が決まった。

今回は知人や友人達の中から演奏が出来る方々を募って
こじんまりとしたコンサートになろうかと思う。
何れにしても継続してやることができることに深く感謝する。
また、秋に向かって一つの大きな目標ができたのは言うまでも無い。
このような集いを通じて音楽仲間の「輪」が広がって行けば
自分が常々考えている世界に向かうことになる。
その場で昨年協力を頂いた熊本のメンバーに連絡するとokの返事を頂いた。
また、会場の手配も翌日には昨年お世話になった打上会場に
打診して頂きこれまたokとなる。
ほんとうに嬉しい事でありメンバーの方々には感謝感謝である。
翌日、違うメンバーと会食を行い、この話をすると全員賛成であった。
そして、定期的に帰省してくれると会える機会があり酒のむ事ができるので
続けて欲しいという要望も上がり、改めて故郷のもつ力を認識した。

今年もすでに5ヶ月が経過した。また暑い夏がやってくる。
熊本の被災地では様々な事が待ち構えていよう。
どうか諦めずに頑張って頂きたい。
自分に出来ることとして、慰問コンサートや定期ライブでは
熊本紹介コーナーを作り、様々な様子、歴史、特産などPRすることにした。
幸いに自宅近くには家内の音楽仲間で熊本出身の方がおり
毎月熊本通いもしているので生の最新情報も入る。
コンサートでは熊本弁を交えてやるつもりだ。
まずは「おてもやん考察」「辛子レンコン」あたりでいこう。

<おてもやん>

おてもやん あんたこの頃 
嫁人りしたではないかいな
嫁人りしたこたぁ したぱってん
御亭どんの ぐしゃっぺだるけん
まあだ盃ぁ せんだった
村役鳶役肝入りどん 

あん人たちのおらすけんで
後はどうなっと きゃあなろたい
川端町つぁん きゅあめぐらい
春日南瓜(ぼうぶら)どん達ぁ 
尻ひっぴゃぁで花盛り花盛り

(囃)ちーちく ぱーちく ひばりの子
   げんばくなすびのいがいがどん


2016年 6月1日  記


-----------------------2016年  5月--------------------


突然襲った熊本地方の大地震は5年前の東北のそれを思い出させるものだった。
色々な被害状況が連日報道されており、その実態は目を覆うばかりである。
被災された方々にはこころから声援をおくり一刻もはやい復旧を願うものである。

実は今月の15日に熊本へ入り、昨年「故郷コンサート」で
バックをお願いした方と会う予定にしていた。
しかし、このような事態となり急遽取りやめる事になった。

先日、家内と一緒にアカペラアンサンブルをやっている熊本出身の方から
「弟がテレビにでるよ」という話を聞きチャンネルを合わせてみた。
熊本市内で病院を開業されている弟さんが被災者の訪問診療に
走り回っている様子が15分ほど流れた。
病院で待ち構える診療は別の方に任せて自分は軽自動車で
動けない方々の家を訪問して治療を行うというその姿にとても感動した

カップラーメンをすすりながら何か書いている様子や壁に寄り添って
仮眠をとっているシーン,お年寄りの方々と熊本弁でのやりとり
緊急事態で患者さんを移送する等どれも迫力のある場面であった。

動けない方々は皆さんそれを素直に言えず遠慮しているそうだ。
その内にまわりが以上状態に気づき大騒ぎになる。
医師を派遣して欲しいが人手が足りず諦めてしまう。。。等の悪循環が起きる。
そこで、その弟さんは看護師と二人走り回って診察や治療を行った。
涙を流して感謝するご老人の姿に思わず目頭が熱くなった。

このゴールデンウイークに全国から多くのボランティアが集まったようだが
なかなか活動できる場所が決まらずお帰り頂くというシーンが紹介された。
なんとも残念な話であり、なぜそのようになるのか不思議でならない。
確かにボランティアの方々を割り当てるにも被害状況が詳細に把握されておらず
適当に割り振ることはできないだろう。
しかし、誠意を抱いて駆けつけた方々には「何でもいいからお役に立ちたい」
という志であるに違いない。
そこのところを少しでも配慮してやっていただければと思うのは自分だけではなかろう。
自分は駆けつけられないが募金や熊本県産の物品購入等
出来るところから応援したいと思う日々だ。

自然の驚異はいつやってくるか解らない。
近年の気象現象や自然災害は明らかに異常状態であろう。
油断はしないがそんな場面にあったときへの準備には日々の中でやっておきたい。
阪神大震災、東北大地震を肌で経験した自分はいつもそう思っている。
しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざにもあるように人間はついついそうなる。
忘れないためにも深く心に刻んでいきたいと思う。
熊本、大分地方の一刻も早い復旧、復興を願ってやまない。

2016年 5月2日  記


------------------------2016年  4月---------------------------


桜の花便りが至るところで聞かれる頃となった。
季節の変化は生活のリズムや頭の回転に大きな影響を与えている。
昨日の東京は至る所に新入社員と思われる姿が溢れていた。
花の金曜日ということもあり、その彼らの花見食料買い出し、場所取り風景もあった。
毎年の事だが微笑むシーンだ。

サラリーマンを卒業してもうすぐ4年になろうとしている。
月日の経つのは本当にはやい。
目蓋を閉じれば46年前の日々が頭を廻る。
3畳一間の狭いアパートでの新生活スタートであった。
当初は近所のスーパーで色々買い物をする事に少々恥ずかしさもあったが
慣れてくると楽しさと世の中の色々な仕組みが理解できた。

税金との出会いもその一つだった。
とにかく音楽のことしか頭になく過ごした自分にとって役場や法律などは
とうてい関係のない世界であった。
しかし、色々な事からそれらに関わって行く中で興味を覚えた。
そして、仕事の中でもそれが出てくるとより専門的な知識として備えなければならない。
知識は持っているだけでは無用の長物であり、それをベースに何かを成さねば意味がない。
年齢を重ねた今となって悔やまれるが記憶力や理解力のある若い内にもっと
勉強しておけばよかったと思うのは自分だけではなかろう。

この年になって毎年何かのライセンスに挑戦してきた。
目標をもって勉強することが頭を退化させないことにならないかと常々思うところだ。
闇雲にライセンス取得をしても何か役立つことでなければ意味がないと思う。
世の中の何かに役立つ為に、知識を確実にするために間口を広く構えて受け入れる
ようにすれば知識や役立つ情報は飛び込んでくる。
そして、それを整理、ファイリングして取り出しやすく自分のデータ・ベースを作る。
情報の処理とは捨て去る事でもあろう。取捨選択とは良く言ったものだ。
4月になりフレッシャー諸君が活き活きした動きをするのに刺激されて再度動き出したい。

父が亡くなって今年で53年になる。
高校の入学式の翌日、生物の授業中であったが担任の先生から
すぐ自宅へ帰るように言われた。
道を歩きながらすぐに父のことが浮かんだ。
病院へ向かうと既に母が泣き崩れており父の死を知った。
第1志望の県立高校合格を週末に伝えようと計画していた矢先で有り、残念さがこみ上げた。
あれから半世紀以上が経ってしまったが今でもはっきりとその時の思いは忘れない。
父は職業軍人で終戦後も抑留され結核を患って長崎へ帰還した。
母は佐世保に出向いて当時の特効薬ストレプトマイシンを手に入れ
なんとか命をつないだと聞いた。
厳しさの中に愛情を注いでくれた父には尊敬の念がある。

先日、長崎の墓を改葬するために近隣の墓園を訪ねて色々なアドバイスを頂いた。
なんでも父の遺骨は50年も経っており、大地に戻した方がいいとのことだった。
湖を見下ろす大地にそっとまいてみようと思う。
そして、これからも我々家族を母と共に暖かく見守って欲しいと願う。

2016年 4月2日  記


--------------------------2016年  3月-------------------------


暖かい日が続くと思ったら急に寒が戻ったりとめまぐるしい季節になった。
先日は久々に車で伊豆半島へ家内とでかけてみた。
途中では早咲き桜で有名な「河津桜」を見物し早々と春を味わってきた。
その後、伊豆下田へ向かい、黒船が来航した場所や当時の模様を資料や展示で知ることができた。
下田も天領だったので、長崎と同じような幕府の出先機関があったようだ。
また、吉田松蔭が国禁を犯して黒船に乗り込もうと小舟でこぎ出した浜辺や
米国やロシアと色々な交渉をしたお寺など見物すると、
昨年の大河ドラマの一シーンを思い浮かべた。

暖かい日射しと潮の香りが心地よ、時間の過ぎるのをしばし忘れた。
帰りは海岸沿いに伊東、熱海を抜けて会社の保養施設があった
湯河原を経由して小田原へと向かった。
久しぶりで、どこがどうなっているか、しばし戸惑いながらの運転であった。
湯河原は音楽クラブの合宿や会社の研修会でよく利用した施設で有り
大変お世話になった所だった。
夫婦で当時の思い出話をしながらハンドルを握り帰路についた。

先月25日で68歳を迎えた。
会社を退社してもうすぐ4年になる。
あっという間の4年間だが音楽と向き合った生活を続けながら
色々な方々と共演したりお話しする機会に恵まれ、感謝している。
年齢が離れていても職業やその他の違いがあっても
音楽のもつ不思議な魅力は、いつの間にか同じ共通の世界になる。
そして、活き活きとした会話になり思わず酒も進む。
そんな時、年齢を既に忘れている。

今月は慰問が多く、楽しみだ。
3ヶ月に1回お会いするケースが多いが
先回いただいたリクエストを忘れずに構成している。
来場の方々も若い頃憶えた曲は不思議に忘れていないという。
懐かしそうに、嬉しそうに、楽しそうに歌ってくれる時に嬉しさがこみ上げる。
この時間が終わって欲しくないといつも心の中で叫んでいる。
今月は「春の歌」を特集して演奏する。
季節と共に皆さんの心も「ハル(晴る)ハル(張る)」になっていただければ最高だ。

どこかで春が

どこかで春が 生まれてる
どこかで水が 流れ出す

どこかでヒバリが 啼いている
どこかで芽の出る 音がする

山の三月 そよ風吹いて
どこかで春が 生まれてる
 
2016年 3月1日  記


----------------------2016年  2月---------------------


寒さが本格化したが植物たちは春の気配を知っているのか
蕾を膨らませて今にも花をさかせようとしている。
中でも梅はまちきれず咲きだした。
散歩の足取りも軽くなる今日この頃だ。

先日、会社のOB会というのがあり、初めて顔を出した。
懐かしい先輩方や現役の若々しい方々としばし話が続いた。
酒の勢いもあり脱線した話もあったが健康の話や
薬の話が多かったのは気のせいだろうか。

みんな忙しく毎日を送っているようで嬉しかったが
若くして去って行かれた方もおり
改めて健康でいるありがたさを感じた。
今月後半に68歳を迎える事になる.
もっともっと楽しく時間を過ごして
悔いのない人生を送りたいと願う。

今週の末の6日には毎年恒例になっている
近隣のマンションでのコンサートが待っている。
10年前に声をかけて頂き始めた催しが
今回で記念すべき10回目となった。
住民の皆さんが心待ちにしてくれているとのこと
チケットはSOLD OUTになった。
ますます気合いが入る。

コンサートはその計画・準備にかなりの時間がかかるが
これをおろそかにすると必ず失敗する。
完璧に準備したつもりでも何か忘れたり
間違ったりということは過去何回もあった。
計画の可視化、作業項目の細目化(WORK BREAK DOWN)、等など
システムエンジニア時代には部下への指導項目として
毎回毎回うるさく管理していたが、コンサートでも同じ事が言える。
この年になり単独での作業が中心になると
その見返し(レビュー)が浅くなり思わぬ失敗がでる。

機材の手配、出演者、会場・主催者との交渉、、、譜面や音源の手配
練習の開催設定と開催等など、、最後は忘れていけない「打上」の手配もある。
アマチュアのバンドはこの終演後の打上が最高に楽しい。
次回もまたがんばろうという気持ちになるのは自分だけだろうか。
イヤ、そうではないだろう。

ささやかではあるがこの楽しみを目標に頑張りたい!!
さ〜今年はどんな笑顔がまっているか楽しみだ。

今日は「節分」ということで恵方巻きや豆が食卓に並んでいる。
これからやってくる「春」に向かって「鬼は外、福はうち」と声を出して叫ぶ。
なんでも「恵方飲み」というのもあるらしく、恵方に向かって黙って飲むらしい。
今年も元気にすごせるように。。。。。。。静かに飲む。

2016年 2月3日  記


----------------------2016年  1月-----------------------


新たな年がスタートした。
今年は珍しく成田山へ初詣としゃれこんだが人での多さに閉口した。
しかし、お参りしている人の顔は皆笑顔であり懸命にお祈りする姿にはしばし立ち止まる。
財布から小銭を出し、賽銭箱へ投げ入れる。なぜか気持ちがすっきりして帰路についた。
我が儘な自分だが家族に支えられ好きなことをさせてもらっている事に感謝し家族もまた
健康でワイワイと元気に騒ぐ家庭になって欲しい。

昨年を振り返れば何と言っても「故郷を想う〜酒井あきのりコンサート」を多くの方々に
支えられ実現した事が一番であろう。
故郷を離れて52年の歳月が経過したが来て頂いた方々とはついこの間一緒にいた感さえあった。
懐かしさだけではなく古きことから新しいことを発見して次につなげることが何かできれば幸せである。
音楽を通じてたくさんの方々と交流し何かを成していく。またそれが輪を広げる。
この繰り返しができればと常々思うモノだがなかなかそう簡単には進まない。
昨年の出来事では2番目に健康上の事で「椎間板ヘルニア」を患い4日間寝たきりの生活をしたことであろう。
自分の意思で身体を動かそうとしても激痛が走り額には脂汗がにじむ。
目を閉じれば色々な事が頭を走る。
ちょいと大げさだが、このまま一生を終えるのか、なんてこともよぎった。
医学の進歩はすごいものできちんとした検査で原因が判明し5日目から普通に動ける様に
なった時のうれしさは忘れない。しかし、一度抱えた爆弾はいつ破裂するかわからない。
若いときと同じような動きは出来ないが無理をせず身体とつきあっていくことにした。

一方、家内も9月に手術・入院と大変だったが、これは計画的な事であったので
医者と現代医学の進歩を信じて見守った結果、無事退院となり今に至る。

昨年は慰問活動を含めてコンサート回数が52回であった。
機材を車に積み込み会場に向かう。そして、設置、調整、演奏、解体、積み込み、帰宅
という繰り返しだが上手くいったとき、お客様の反応が良かったときはハンドルさばきも軽い。
夫婦の会話も自然と弾む。次の演奏会に取り入れる工夫や改善点の話等など。。。つきない。
結婚して34年が過ぎた。あっという間の34年が過ぎたといっても過言ではない。
家内も還暦を迎えたが益々活発に活動している。
お互いに元気で続けられる事をお祈りしたのは言うまでもない。
2016年も多くの人と出会い会話をしていきたい。

今日は長年続いている音楽仲間の新年会が我が家で開催される。
年々お酒の量は減ってきたが参加するメンバーが増えてきた。
遠路駆けつけてくれるメンバーには感謝感謝である。
さ〜今年ものむぞ〜

2016年 1月3日  記


----------------------2015年  12月-----------------------


いつの間にか師走の声を聞く頃となった。
時間の経過が昔に比べて遙かに早い感じがするのは自分だけだろうか。
年齢を重ねる毎にそれが加速するように感じる。

先月の中旬から喪中の葉書が毎日のように届く。
昨日も東北時代にお世話になった会社の社長が急逝したという訃報が届いた。
しばらくお会いしていなかったが昔一緒にビジネスを進めた一人としていなくなったのは淋しい。
天寿を全うした方であれば長年がんばったなと思うが自分より下の方のそれは残念でならない。
いつかはやってくることかも知れないが、残された人生を悔いの無いように送ることの大切さを今更ながら強く感じる。

眼を世界に転じるとフランスのテロ騒ぎには強い怒りを持ち、どんな理由であれ
丸腰の市民を悲しみに陥れた集団には断固許すことはない。
各国が本格的な戦闘態勢に入ってきたが色々な考えがあり益々泥沼化するのではなかろうか。
どんな手立てで収拾すのかは解らないが各国のトップはここで一致団結し平和のために手をとってもらいたい。
思惑はあろうが、このテロが世界中に蔓延するとどうなるか。
我が国だってその標的になっているという報道には身震いする。
表面上の連携では無く本当の連携で早く収束させてもらいたいと思う毎日だ。

今月はクリスマスもあり各施設への慰問活動が多い。
皆さんとても楽しみにしているようで色々なお便りも頂く。
最近は市街を歩いていると声をかけられる。
どなたかと思ってお伺いすると慰問演奏会で聞いた方やコンサートに来てくれた方だ。
いやいや悪いことは出来ない。色々な方々が見ている。

サンタクロースがお楽しみのプレゼントを担いでくる。
ささやかなプレゼントだが喜んでくれる笑顔がたまらなく明日の活力になる。
健康に留意してこの喜びをもたらす活動を続けたい。

2015年 12月1日  記


---------------------2015年  11月--------------------


朝夕の気温が日に日に低くなってきた。
早くも11月の声を聞く季節になり今更ながら時の経つのを早く感じる。
先月は故郷でのコンサートという大きなイベントを無事に終えることができ安堵すると共に
故郷長崎と近隣の野母半島の良さを再認識する。
まだまだ自然が多く残り夢と希望を与えてくれる「ふるさと」を再発見したことは残りの人生に
大きな光を投げてくれたと思いながら故郷を後にした。
人と人とのつながり、絆、、、、語り尽くせない想いで、旧友や昔お世話になった方々との再会
涙腺が緩む暇も無く滞在した時間が経過していった。

今回のコンサート企画には多くの地元の方々が応援して無事開催に至る。
中でも色々な細かいことを足取り軽く動いてくれたメンバーには感謝の言葉だけでは済まない。
また、直前には集客のために自動車に拡声器を乗せて街中を走ってくれた皆さんや
チラシを全戸に配布してくれた皆さん、、、、、なんとお礼を言っていいのか。

コンサートは2時間弱であったが終始和やかに進行し、途中で中学の校歌を歌った。
同級生が大勢駆けつけてくれたので舞台に上げ、久々に全員合唱となった。

自分も含めてみんな年齢を重ねたが幼い頃の呼び名で声を掛け合う様子は15歳に戻った時間でもあった。
ツイストのリズムに乗り会場をもり上げてくれた司会の方や大きく手をたたいて
参加してくれた方々の笑顔は一生忘れる事はできない。
長年の夢でもあった今回のイベントは終わったが新たな意欲と共に更なる希望の始まりでもある。
夢を描き実現へ向かうことこそ生活の潤滑油で有りこれを切らさない努力が必要であろう。
かっこいいことは言えないが残された人生人生、「夢」を追い続けたい。
そして、離れていても夢で逢いましょう。


夢で逢いましょう 詩:永六輔 1963年

夢で逢いましょう 
夢で逢いましょう
夜が貴方を抱きしめ
夜があなたにささやく
うれしげに 悲しげに
楽しげに 淋しげに
夢で 夢で 君も 僕も
夢で逢いましょう

2015年11月1日 記


-----------------------2015年  10月-----------------------


街路の木々も色づいて道路に散る季節になった。
家の近くにそびえる金木犀の木からは甘い香りがあたりに漂い散歩が楽しい。
ヘルニアを患って散歩の時間は短くなったが町並みの変化やそこを
行き交う人々の表情は見る度におもしろく心を和ませてくれる。

いよいよ9日後には生まれ故郷である長崎 「香焼町」で「故郷を想う〜コンサート」がある。
長い間暖めてきた願いで有り、それに協力して頂く多くの方々に感謝したい。
コンサートをはじめ、各種イベントは企画、準備、各種手配、出演者との交渉
そして本番、後処理&メンテナンスになる。
実際の演奏が占める割合は全体の20%以下であろう。

今回は実際に現地へ足を運んだのが1回だけという事もあり、
色々な細かい仕事が自ら出来なかった。
しかし、ご協力を頂いている方々は素晴らしい動きをしており、これまた感謝感謝だ。

音響機材調査と調達、ポスター制作と掲示、チラシの制作と配布、
立て看板の制作と張り出し等
多くの人の手が必要だったが、地元の企業、町の文化協会、
公民館の方々他、惜しみなく協力して頂いた。
また、一度の音合わせでやって頂くことになり不安がつきまとうだろうが
快く共演を引き受けて頂き本番に臨む演奏メンバーにも感謝感謝だ。

中でも、有るときはバイクで飛んでくれたり、自動車で走ってくれたり
タイムリーな報告とメール等、常に惜しみなくfoot work良く動いてくれた方が
いる事を忘れてはいけない。

今回のプロジェクトは初めての方々が多いが結束は固いと思う。
なんとしても地元のお客さんに喜んでいただき恩返しができればと願うばかりだ。

亡き母も今月で13回忌を迎える。
コンサート会場に向かう途中にあるお墓に眠る両親は
きっと応援してくれるだろう。

<がんばらんば>
がんばらんば 何でんかんでん がんばらんば
がんばらんば 愛ちゃ恋ちゃ がんばらんば
がんばらんば どいでんこいでん がんばらんば
がんばらんば 我ちゃ俺ちゃ がんばらんばね


2015年10月1日 記


------------------2015年  9月--------------------


いつの間にか秋の気配が感じられるようなった。
虫の鳴き声にも何か寂しささえ響いてくる。
世界的には異常気象の影響が毎日のように聞こえており
加えて火山活動の不気味さが輪をかけたように不安を煽る。

今年も2/3が過ぎてしまった。時の経つのは本当に早いと思う。
会社勤めを引退して3年という中で自分の好きなことを毎日やらせてもらっている。
家内をはじめとして家族には本当に感謝したい。
残された人生を本当に有意義に過ごしたいと毎日思うこの頃だ。
しかし、人間の悲しい性なのか、あれもこれもと思い浮かべる。
想像すること、これまた楽しいが実際に実現する事に絞るのが難しい。
そんな中で子供の時から念願であったアマ無線技術士の試験に挑戦して無事合格した。
もともと自宅近くでFM放送局でも開局できないかという事で無線の本を読んだり
ネットで調べたりしてきたが自分の知識はステレオ制作分野やギターアンプ制作が中心
の低周波だったことも有り、無線という周波数の高い分野の知識や実務が無かった。
そこで、ここは電波法規をきちんと勉強してみようということから春先に勉強を開始した。
やはり、目標として国家資格には挑戦したほうがいいだろうというで恥ずかしながら
この年で中学生に混じって受験した。
昔、中学生時代に真空管で違法な発信器を設計して作ってみたが電波は飛ばず
庭に作った竹のアンテナを目的は何か等と警察に注意されたり、いい思い出は無かった。
振り返れば電波の仕組みやその他基本的な事が全く理解されてなかった。
また、電波とは多くの方々と共に公共の福祉やその他へ貢献するものであり
ルールに則り運用するものであり、勝手にいじくる物では無いということも
改めて教えて頂いたものだ。
久々に緊張した時間をもち、しばらくヘルニアで弱気だった自分の気持ちが
高まったことは言うまでも無い。

先月の初めに故郷へ帰った。例の「ふるさとコンサート」の打合せをするためにである。
お陰様で多くのサポーターを得ることができ開催の見通しが出来た。
今回のイベントには地元で色々と支援を頂いている方抜きには語れない。
どんな事にも本当によく動いてくれる。なんとお礼を申し上げていいか。。。。。
さて、いよいよ集客のPRが開始される。
果たして何名の方においで頂けるのか本当にドキドキだが精一杯演奏したい。
そして、これが引き継がれて町の名物になればと願っている。

2015年9月1日 記


--------------------2015年  8月---------------------


連日の酷暑に参っている。自宅でちょっと動いても汗が止まらない。
会社勤めをしていたときは涼しい冷房が効いた中での活動で有り日中は気にならなかったが
今こうして冷房をかけない中にいると,どこか避暑地へ逃げ出したくなる。

今年も残り5ヶ月と言うことで今更ながら時間の経過に驚く。
世の中は新たな国立競技場、TPP、集団的自衛権、、、、等々次から次へと難問が出てくる。
自分の出来る範囲で個々が意思を出して行く場面であろう。
その中でも国立競技場の建設予算は当初額と最新の見積もり額の差が大きく
いったいどうやってこんな金額に積算差が出来たのだろうかと心が騒ぐ。
現役時代を振り返ればせいぜい1桁台の億をまとめるのに徹夜に近い作業や検算に追われた。
執行して振り返り予算立案時のやり方予測に問題が無かったかを厳しくレビューして次に備えたものだった。
いわゆる「どんぶり勘定」はもっとも恥ずべき事として共有し、積算根拠の検証に知恵を使ったのをふと思い出す。
お客さんとの交渉もその辺が曖昧だと見抜かれてしまい説得力が無くなる。
利益を度外視した商売には泣かされたが契約から作業、試験、稼働という工程にお互いの納得から
生まれた商談は気持ちが乗り移っており毎日が楽しい、やりがいのある日々であった。
簡単に2000億円といういうが誰のお金を使うのか少しでも考えれば身震いする額になるのではないか。
関係者全員で再度「身震い」してもらいたいと思う。

明後日、急遽長崎へ帰ることになった。というのは10/10に故郷の香焼で行うコンサートの
打合せを地元の方々含めて行うためである。
メールやその他電子的な伝達方法もあろうが、ここは直接当事者が出向いて
気持ちを伝える必要があると判断した事による。
今まで動いて頂いた地元の方々と再度意思疎通を図り、大きなイベントの成功を期したい。

2015年8月1日 記

---------------------2015年  7月------------------


日本各地で火山の活動が活発で、連日の報道で今にも大きな地震や
火山の爆発が起きるのでは。。。と不安がよぎる。
世界に目を向けると季節外れの台風被害や水害のニュースがでており
これまた不安がよぎる。

昨日まで金沢〜氷見〜富山〜立山〜黒部と北陸方面を旅してきた。
金沢は新幹線効果なのか、どの列車も空きが無く
市内の商店街も賑やかで活気が感じられた。
また、加賀百万石のなせる各種の遺産をしみじみと見物してきたが
そのスケールの違いにいささか圧倒された数日であった。

しかし、それを支えたのはやはり数多くの専門家や一般の市民であったろう。
贅沢な庭園も屋敷も自分にとっては豪華さの裏にある
権力者の奢りを感じずにはいられなかった。

時代が違うのであれこれは言えないが小さな国の中で小競り合いをして
世界からしばらく置いて行かれた日本であったが大きな戦争を経験し
大きな痛手を味わったことを決して忘れてはいけない。
戦後70年という時間が過ぎ、ともすれば平和に慣れ過ぎた頃になっているが
今ここで、もう一度過去を振り返り、新たな平和への決意をすべき頃ではなかろうか。

立山連峰が雪を所々残して見事にそびえ立っていた。
その中で40数年ぶりに黒部第4ダムをみて、人間の力の偉大さを再認識した。
自然の厳しい環境の中、電力と治水などの多目的な効果を狙った建造物では
あるが、それを計画し、実施〜完成させた方々には脱帽する。
強固な岩盤や地獄のような地熱の中での作業、湧き水尚など
また、人間と人間の戦い、映画でも見たがすさまじい中での事業であったろう。

現在、我々はあたりまえのように電気を使い、あたりまえのように生活をしている。
電気を起こす為の作業、維持するための作業等々発変電を少々かじった
自分としては騒がれている「原子力」に少々違った見方をしている。

水資源の豊かな日本ならではの大から小の水力発電を
もっと推進できないのかと日々思うのだ。
木曽地方のある町では山から流れる豊富な水の高低差を利用した
小型発電機が街灯や公的施設の電灯に利用されていた。

太陽光や風力も色々と研究されている中で原子力の一時的なコストのみに
目が注がれ、廃止するまでのトータルコストが無視されているわけでは
なかろうが大騒ぎしている昨今に疑問を感じる。

加賀・前田家歴代の功績、立山・黒部の大自然をみて考えたのは
いつの時代も、降り積もった雪が徐々に溶けて底から崩れ出し
自然の原理を持って上から下へと流れ、いつの日か止めることのできない
強大な力を生んでいる。そして、それがまた自然の恵みを生んでいく。

これら現象を見て、これからの我々に多くの解決策を与えてくれると
確信をもった小旅行でもあった。

2015年7月3日 記


-------------------2015年  6月-----------------------


5/31、2年に一度の関係会社の音楽仲間による手作りコンサートを無事終え
この2日間はしばしの休息であった。

家内と千葉県探索シリーズをこの数年続けているなかで
今回は若い時代に仕事で訪問していた銚子、佐原方面へと足を延ばしてみた。
犬吠埼灯台へ登ったが脚力の衰えを改めて感じた。

佐原はやはり伊能忠敬の記念館見学や川船による遊覧を楽しんだ。
仕事での出張は時間がくるとすぐ帰社するのでなかなか観光ができない。
本や人の話で聞いているが実際に訪れて質問して触ってみるとよくわかる。
また、土地の人々の暖かいふれあいが何ともいえない。
犬吠埼の燈台ではないが「燈台もとくらし」のように地元の再発見は楽しい。
まだまだ多くの場所があることに期待したい。

2015年もすでに5ヶ月経過しており、これからはあの暑い夏を迎えるかと思うとぞっとする。
しかし、季節の変化がもたらす数々の恩恵に感謝しなければならない。
来月は恒例の夏祭りがある。子供達と接するいい機会でもある。
神輿を担ぎ一緒に汗をかいて冷えたラムネを飲みたいといまから気がはやる。

今月は7つのコンサートが待ち構えており健康に留意してやりたい。
久々にお会いするお年寄りの方々がどんな顔で聞いてくれるか楽しみだ。
今月は「雨」に因んだ曲を多く取り入れた。
雨は哀しみが似合うが子供の世界は雨具と水たまりで大騒ぎであろう。
また、雨に濡れたあじさいの葉に「かたつむり」が止まっている光景はほのぼのとしている。
自然の美しさやちょっとした光景を「無視(虫)」しないで注意深く見るとさらに楽しい。


でんでんむしむし かたつむり
お前の頭はどこにある
角だせ 槍だせ 頭だせ

でんでんむしむし かたつむり
お前の目玉はどこにある
角だせ 槍だせ 目玉だせ


2015年6月3日 記


-------------------2015年  5月------------------------


北国の桜便りもいつもと比べれば早く、この連休をあてこんだ人達は少々がっかりだろう。
しかし、今日からは大型の休みがまっており気持ちもうきうきではなかろうか。
ゴールデンウイークとよぶようになったのはいつの頃かあまり記憶に無いが
社会人の最初頃は賃上げストライキとかが盛んでありメーデーには各企業の
労働組合員が旗を振ってデモ行進をしていたのをおぼえている。
自分はと言うと、地方のユーザに長期出張を計画して日頃出来ない作業をやったものだ。

新聞やその他の報道に寄れば、企業もベースアップを打ち出しており世の中が少し明るくなるであろう。
昔、ある人に「給料はいくらもらっても十分というものではない。それが給料だ。」と言われた。
家族を抱え、ローンを抱えていれば生活も厳しいものになろう。
しかし、苦しい苦しいと言いながら仕事仲間や友人との交際は避けて
車や住居費用には不釣り合いな出費をしている人がいる。
それぞれの考え方なのでとやかくいうつもりはないが人生も後半になり会社を離れると
その時の友人や仲間への投資が効いてくるのではなかろうか。
生きている内に活きているお金の使い方をしていこうと思うこの頃である。

ヘルニアから解放されて約1ヶ月になった。健康のありがたみがひしひしと伝わる毎日だ。
10日ほど前に東北時代の会社仲間と恒例の温泉旅行に出かけた。
行き先も仙台の有名な温泉である「作並温泉」だった。
夕食時の会話もその後の就寝までの会話も「健康」や「当時の仲間の消息」「子供の話」
と言う具合で延々と続いた。当時の苦しかった話や辛かった事などほとんどでない。
それは昨年までに言い尽くしてきたからであろう。
これから何回できるか解らないが苦しい時を一緒に乗り切った仲間ならではの事と思った。

家内が1997年から作曲開始し約10ヶ月を経て完成し、その後各地で歌い継がれた
地雷撤去の組曲「地雷ではなく 花を下さい」を4/29にサントリー大ホールで披露することができた。
有名な指揮者、ピアノ奏者、合唱団そして詩の朗読を女優の宮沢りえさんという布陣であった。
演出が野田秀樹さんということもあり、どんなステージなのか開始前からどきどきものだった。
コーラス隊は各自カラーのパラソルを回しながら入場し舞台に腰を下ろして宮沢りえさんを迎え
組曲の中からピアノが流れるようにやさしくメロディを奏でる。
会場は水を打ったように静まりかえり聴衆の目が朗読をする「りえ」さんに注がれる。
さすがにプロの演出だと感心することしきり。
プログラム終了後には2000人の鳴り止まぬ拍手の嵐であった。
少々涙腺が緩んだのは言うまでも無い。

4年前にカンボジアへ旅行する機会があり地元のガイドに「地雷ではなく 花を下さい」
の事を話すと大変喜んでくれた。
今回も入場料がすべて世界の難民や地雷撤去などに寄付される。
少しでも役に立てばと思う。

2015年5月2日 記


--------------------2015年  4月---------------------


櫻の花も満開になり気分がウキウキということであれば良かったのだが
この2週間は、起床時に身体半分へ激痛が走り床に伏した生活が続いた。
一時は寝ていても痛くてうなっていたこともあった。
人生67年の中で初めて経験した痛みと共に寝床での色々な思いは今後に役立つであろう。

最初の医者の診断ではレントゲンを診ながら椎間板が少し狭くなっているということで
痛み止めと膏薬、次の医者はさらに痛み止めの強い薬の処方。
しかし、いっこうに痛みが引かず悶々としていたら家内の知人からMRIを薦められた。
とにかく藁にもすがりつきたい思いだったので痛い身体を引きづって撮影をしたら
「椎間板ヘルニア」ということで医者の指示から即色々な治療が開始された。
今まで様にの痛み止め薬だけではなく鍼と牽引、電気刺激によるもので
開始6日目にしてやっと起床時の激痛から解放された。
今朝の起床時はは思わずバンザイと叫んでしまった。

それとこの2年近く悩まされた股関節の痛みも消えた。
今まで治療していたのは何だったのかと思うと苦笑いが出る。
セカンド・オピニオンと高度な検査の重要さを再認識したものだ。
これからは再発を防ぐためのトレーニングや日常食生活を大事にして
行かねばならないと肝に銘じている。

今秋開催予定の故郷コンサートの計画が着々と進んでおり緊張感が日々高まっている。
出身地長崎市香焼町での開催と言うことで何かと機材調達や会場設営の打合せ、集客、、、、
各種の段取りが気になっていたが、旧友の計らいで地元業者の方々や協力関係者が
出てきたことでより具体的に進み出している。
大変有り難く、関係の方々には感謝をする。
また、このようなきかっけを作って頂き動いて頂いた方がいる。
何と感謝を申し上げていいか判らない。
町の方も大いに賛同して頂き
ここまで支援して頂いているので何が何でも成功させ、今後町の
活性化に役立てていければと思う。

故郷を離れて50年近くになり、故郷の良さを再発見した。
単なる懐かしさだけでなく地元の方々との交流を通じて自分の出来ること
持っているものを提供していければと強く思う。

2015年4月1日 記


-------------------2015年  3月---------------------


日に日に暖かくなっていくのがわかる頃となった。
木々の芽は一段と膨らみを増しており、よく見ると地下から若い芽も出てきている。
長い冬の間じっと我慢して堪え忍び、今こそということだろうか頬が緩む。
今年も2ヶ月があっという間に過ぎてしまった。
4日前に67歳の誕生日を迎え、またひとつ年齢を重ねたが
残された日々こそ大事に過ごしていきたい。
昨年から相次ぎ去っていった友人知人の分まで頑張っていくつもりだ。

最近の新聞を見ると「殺人」という文字が溢れており少々感覚が麻痺してはいないだろうか。
イスラム国での残虐な殺人もあれば世界各国色々な場所での自爆テロによる殺人事件など。
一方では国内での若者達の殺人事件が目に付く。
人を殺めるということがどんな事なのか
人の命が何ものにも代えがたいものであるという教えはどこに行ったのだろう。

現在の学校での教育が知識一辺倒だとは言わないが
もう少し「人を思いやる心」「人に迷惑をかけない行動や言動」等に時間を
取って子供達に考えさせ、行動させ基本動作として身につけることができないだろうか。
自分の小中学時代を振り返れば町中の人達が「先生」だったと思う。
親や先生以外にも「悪いことは悪い、良いことは良い」とはっきり言われたものだ。
特におじいちゃんやおばあちゃん達は優しくもあり厳しくもあった。

小学生時代には正月前になると駒を回して遊ぶのが常であった。
駒の材料は「椿」「樫」等があったが、やはり椿の木材は割れにくく憧れだった。
そして、それを回す紐にもこだわりがあった。
普通の布製では遊んでいるうちにぼろぼろとなり回転を上手く伝えられない。
そこで子供達の間では庭などに植えてある「マオラン」から繊維を取ってそれを編んで
良い具合の太さにするというのが流行っていた。
しかし、それを実現するにはなかなか子供ではできない仕事であった。

自分の記憶では島の裏側に住むおじいさんがとても上手くやってくれるという話を
きいていたので何日か続けてそのおじいさんの家に行き、庭に植えてある「マオラン」を見ていた。
そして、ある日思わずその葉に手がのびた時、後ろにおじいさんが立っていた。
「なんばしよっとか?」と大きな声で叱られた。
すぐに謝り「これこれしかじか。。。」と話したら、怖い顔が急に優しい顔になり作り方を教えてくれた。

庭に植えてある「マオラン」の葉を何本か抜いて「浜の岩で叩いて筋だけにしてこい!」と言われ
何日かかけて繊維状になった「マオラン」を持って行くと、こういわれた。
「正直に話をすることが大切だ、こそこそすんな」そういいながら手際よく紐状に編んでいき、
最後は仕上げに結び目を紅いインクで染めてくれた。
「これで連戦連勝たい!」 嬉しかった。その夜はその紐といっしょに寝た。
手製の紐で駒を回して友人達との競争では勝ちを続けたのはいうまでもない。
そして、今でもあの時の喜びと教訓は忘れてはいない。

今、自分がそのような年代になり、子供達との接点が少なくなったが「おもちゃ病院」を
通じてものの大切さやありがたさを、そして明日を担う子供、若者に
少しでも愛情をむける事ができればと思うこの頃だ。

2015年3月1日 記


-----------------------2015年  2月-----------------------


寒さも本格的になり数日前には関東地方にも雪景色が見られた。
小鳥たちも食べ物探しに忙しく、我が家のベランダにある「金柑」はいつの間にか
彼らの餌食になってしまった。これで彼らが少しでも長生きできればと苦笑する。

そんな中で、またしても自分より一つ若い知人が二人亡くなった。
一人は癌が発見されて2ヶ月余りの出来事であったがさぞかし無念だったであろう。
もう一人は食事中に気分が悪くなり自室で横になってそのまま帰らぬ人になったという。
これからゆっくりとした楽しい人生を送ると言うときに去ってしまい言葉にならない。
本人も家族の方々もさぞ残念であろう。心からご冥福を祈るばかりだ。

そんな事が昨年から続いており残された日々の生活を
さらに充実したものにしたいと強く思うようになった。
自分の場合は「音楽活動」が唯一の楽しみであり
家内と共に次々とくるオファーを有り難く
うけとめてやることで置き換えている。
また、そのような活動の中で知り合った仲間との出会い、会話
そして飲み会は何者にも換えることはできない喜びでもある。

幸いに足の痛みも最近少しづつではあるが軽くなってきた感じだ。
元気なうちに、歩けるうちに色々な所に出向いて土地の方々と会話をしたい。
コンサートでのMCは見てきたことや実際にふれあった事を織り交ぜて紹介する。
「百聞は一見に如かず」とはよく言ったものだ。
実際に見て、聞いて、教えて頂いた事には迫力があり説得力がある。
自分にはまだまだ足りていない。
貪欲に吸収して行きたいとも思うこの頃である。

2週間後には9年続いている恒例のコンサートが近所で開催される。
今回も沢山のリクエストを頂いた。
恐らく若い時代の思い出があるのだろう。
辛い思い出、悲しい思い出、楽しい思い出。。。。。。。
一瞬でもいいから当時を思い出して、心の若返りができれば嬉しい。

バレンタインの前後に行われるイベントではあるが皆さんの嬉しそうな顔は
どんなチョコレートよりも嬉しいプレゼントである。
今回も36曲を予定しており2時間半というロングコンサートは時間を
忘れさせるひとときにしていきたい。

2015年2月1日 記


----------------------2015年  1月------------------------


暮れも押し詰まった大晦日に友人の訃報が届いた。
昨年より入退院を繰り返していたが12/27日午前11時34分に帰らぬ人となった。
65歳という若さも病魔には勝てなかった。

昨年の10月に我孫子へ来て頂き、友人達とJAZZのセッションを繰りひろげ
楽しい会話をしながら酒を飲み交わしてくれた。
本人も人生最高の演奏だったと奥さんに言ったそうだ。
必ず復活してくれると信じていたのに残念でならない。

9月にはバンコクの友人も65歳で逝ってしまった。
自分も含めてそんな年代になったのかと思うと
これからの日々が大事な時間になる。

今年も色々な事に挑戦して悔いの無い人生を送っていきたい。
10月には故郷の長崎・香焼町でのコンサートを計画している。
果たして自分の名前を憶えている方は何人いるだろうか。

当時は未だ島であった町を中学卒業と同時に長崎市内へ引っ越し
3年間の高校生活の後、東京暮らしが始まった。
思えば48年も関東で過ごしている。
故郷を離れた期間は非常に長い。

今でも眼をつぶると中学時代の風景や人の顔が浮かんでくる。
52年ぶりの里帰りのイベントだが精一杯やってみたい。
家内とのコンビにプラスして現地の応援団を頼み即席ではあるが
バンド編成にして故郷の皆様に聞いて頂きたい。

のんびりとした中で周りの方々に暖かく助けてもらいながら
育てていただいたのは何ものにも代えがたい。
当時の思い出話や出来事をお国訛りを混ぜながらトークする。
今からワクワクする。

2015年1月1日 記


--------------------2014年  12月------------------


2014年も振り返れば色々な事があった。
自然の驚異というものにこれほど思い知らされた年はなかろう。
風雨ばかりでなく火山の噴火による被害など数えればきりが無い。
4月に名古屋から中津川〜木曽〜高山〜白川郷などの山岳へ足を伸ばしたが
その数ヶ月後にあの雄大な姿をみせていた木曽の御嶽山が爆発し、多くの方々に
被害がでたばかりでなく雪や寒さの為に未だに遺体の収容ができない状態という。
来春の雪解けまで待つご家族や関係者の方々には心からお祈りしたい。
そんな中、11/30〜12/2迄、今年二度目の木曽へ家内と共に車を出してみた。
例年開催されている木曽のコーラスグループ「風雅」さんのコンサートを
聴いてみたいと思い、出かけてみた。
すばらしいホールでよく考えられた、そして人のもつ優しさや温かさが伝わるコンサートであった。
クラシックのコンサートには無縁な自分としては得るものが多々あり今後のイベントに活かしたい。
終了後の打上では色々な方々とのお話も出来た。
中には同郷の長崎出身の方がおり、方言交えての会話が出来たことは
ちょっぴり嬉しい出来事でもあった。

ホテルの方々とお話しする中で、御嶽山の爆発以降営業的な影響について
聞いてみると、やはり風評被害的なものはあったようで回復に努力しているとのこと。
こつこつとお客様の戻りを待っていると笑顔で語ってくれた。
是非、人情味溢れる木曽福島の町に一歩降り立っては如何だろうか。
日頃忘れている何かを思い出してくれると思う。

子供の時に祖母が泣きじゃくる私に歌ってくれた「木曽節」を思い出す。
自分の名前が「アキノリ」だったからか「ナカノリさん」を「アキノリさん」と変えて
歌ってくれたのを憶えている。

「木曽節」

木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

袷ょ(あわしょ)ナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋もそえて ヨイヨイヨイ
ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

江戸時代は山林や中山道の関所で有名な木曽には多くの歴史がある。
特に13代も続いている代官様の業績にはボランティアの方から詳しくお話しを
聞くことが出来有り難かった。
木曽も飛騨の高山も幕府直轄地である「天領」だったとのこと
我が故郷長崎もその昔はそうだった。
直轄地ゆえの強力な管理体制や規則からくる色々な出来事や物語には事欠かないであろう。
これから色々な書物でそれらを知っていけばまた新たな発見ができる。

今月はクリスマスを絡めてのコンサートが7つ程予定されている。
木曽での話を所々に織り交ぜて良さを知って頂こうと思っている。
果たして上手く伝えることができるか。。。。。。。


2014年12月3日 記


---------------------2014年  11月----------------------


昨日11/1はクラブの定期演奏会がはじめての銀座YAMAHAにて開催された。
費用に比例したすばらしい音響環境と、それにもましてスタッフの方々の動きや
各種調整、指示は本当のプロだなという感じをうけた。
一方で、このような豪華な場所と施設は確かにいいが
そればかりを求めるのではなく演奏の実力をつけて
低い予算の中でも来場者とのコミニケーションを大事に丁寧に
そして暖かくとったものも大切だという事を悟った日であった。
しかし、あのような場所で一回やると麻薬のように病みつきになるのも解る。
雨天にもかかわらず多数の方がおいでになり
満席、椅子不足という嬉しい悲鳴も上がった。

今回の演奏会ではもう一つの事も含んでいた。
それは、9月に急逝した「山崎君」への追悼演奏である。
彼が昔から好きだったOtis Reddingの中から2曲選び全員で
悲しみをこらえ演奏させていただいた。
曲の途中、静かになる所では天国の彼に向かって話しかけた。
「そんなとこにおらんでさっさとおりてこい!
俺と一緒にお前の好きだったオーティスの曲をやろう!!」
はたして私の声が届いただろうか、きっと届いただろう。
いつもにましてSAXの音色が私のハートを揺さぶった。

先月の初めに昔の会社の仲間と八幡平〜十和田〜青森方面へ
紅葉見物ということで行ってきた。
見事な色彩模様が展開され自然のすばらしさを堪能するとともに
これからやってくる厳しい寒さに備えた植物の営みに
再度心をうたれた3日間であった。
夜は昔の青森時代の仲間と酒を飲み
当時の思い出話に時間を忘れたのは言うまでも無い。
命の洗濯と言う言葉があるが、何者にもまさるものであった。
新たな生きる力、希望、、、、、いつまでも続けたい。

カレンダーも残り少なくなってきたがこれからイベントのピークを迎える。
毎年楽しみにして待ってくれているお年寄りの方や施設の子供たち。
「サンタさん」も少し早く北欧を出発したようなので少々の国道渋滞には問題ないだろう。
皆さんの笑顔が待ち遠しい。


2014年11月2日 記


-------------------2014年  10月------------------------


この季節の散歩で嬉しいのは「金木犀」の香りが街中に溢れていることだ。
家々の庭先や公園の中に植えてある金木犀が一斉に甘い香りを振りまいてくれる。
立ち止まり深呼吸をしてみる。思わず目元が緩む。

そんな中、大自然の驚異にただただ呆然とする。
木曽の御嶽山にはこの春に行ったばかりだ。
雄大な山の姿を見ながら木曽、白川郷等を車で廻った。
あの御嶽山が爆発し多くの方々が犠牲になったニュースが流れ続ける。
なんでも吹き上げられた岩石の直撃や火山灰が大きな原因ということだが
故郷の長崎では以前に雲仙が大噴火して島原地方の方々に多くの犠牲者が出た。
火砕流というらしいが逃げようにも速い速度で山から下りてくるのでとても間に合わない。
地震や津波、火山の爆発の予知についてはいろいろと事が起きてから話題になる。
今回も後からわかった話で計器の故障が報じられている。
7月に行った北海道昭和新山の話を思い出す。
個人所有の土地に火山が爆発して隆起した山だが、所有者は元郵便局長さんで
(三松正夫氏)毎日地震計を眺めて記録を取り続けていたらしい。
爆発を単なる災害とせず次世代に火山から学ぶ心を伝えるべきというメッセージは心を打つ。

先月の初めにタイはバンコクに住む友人が病気で突然この世を去って行った。
昨年の1月にバンコクへ行ったときはそんな様子を微塵にも感じさせなかった。
定年後も自分で事業を続けており、週2回のゴルフに汗を流す日々
と言うことでうらやましく思った。
しかし、今年の6月頃身体の異変を感じ、検査を受けると癌の病魔が
全身を巡り色々なところに入り込んでいたようだ。
人間の一生は限られておりいつかは寿命が尽きることは重々承知している。
しかし、突然の宣告はとても耐えられない。
悔しかっただろう。情けなくなっただろう。
言葉にならない絶望感があっただろう。
今はただ心から冥福を祈るばかりだ。

先月の中旬、久々に故郷の長崎へ帰った。
そして、一緒に行った家内が未だ未踏でアル「五島」に足を伸ばした。
昔は長崎の大波止桟橋から大きな客船で4時間半位かけて行ったものだが
今はジェットホイールで1時間20分で到着する。
イルカや飛び魚軍団との遭遇はなかったが時代の変遷を感じた。

長崎港に戻ってからは5年前インターネットで知り合った長崎の方
とお会いして話に花が咲いたのは言うまでも無い。
ネット上では色々と話もしていたが初めてお会いするので多少の緊張もあった。
しかし、そんな心配は5分ですっ飛んだ。
次々に出る故郷の話、音楽の話。。。。
ほんとに楽しい、そして生きていて良かったと感じたひとときであった。
そして、前々から計画していた事だが、この方や長崎の友人の支援を受け
来年の今頃、故郷の「香焼町」で「里帰りコンサート」を開く事にした。
50年ぶりの再会に顔を思い出して頂けるかどうか心配だが今からワクワクする。

人との別れもあれば新たな出会いもある。
人生って不思議なものですね。

2014年10月2日 記


--------------------2014年  9月---------------------


日本だけではなく海外でも雨による被害が多く報じられている。
自分の小さい頃の記憶では30度を超える暑さが連日続くというような記憶は無い。
ましてや台風銀座の長崎県だったので8月を過ぎれば毎週の事だったが超高速の風ではなかった。
自宅は港の道路を隔てた所にあったので家に塩水がかかり乾くと畳に白い粉がふいている。
また小舟や流木、ゴミが道路に押し上げられている風景を思い出す。
戸という戸は釘で頑丈に打ち付けられ、その上から分厚い板を重ねていた。
近所の方々がお互いに助け合い被害が少ないようにしていたことを今も記憶している。
そして、夜中に台風がそのまま通過してくれることを祖母と仏壇に手を合わせて祈ったものだ。

今年の3月に行った広島方面が被害甚大と言うことで連日報道されている。
なんでも斜面に建てられた住宅街が軒並み土石流で押し流され逃げ遅れた方々の被害が出た。
思えば、昭和57年の長崎大水害でも同じように斜面に建てられた家屋が流されて大きな被害が出た。
我が家は幸いに峠に位置するところにあったのでその被害から免れた。
長崎の街は平野が少ないので山の斜面に土地を造成して家が建っている。
基礎工事をどの程度やったかは不明だが今までの経験した雨量を遙かに
超えた量が短時間に降ったので持ちこたえきれなかったのであろう。

最近のニュースや気象情報では「過去に経験の無い。。。。」という解説が多い。
東北の地震と津波に始まり最近の大雨と台風被害もそれにあてはまるのか
「過去に経験の無い。。。。」の解説となっている。
経験値がベースでの対策から想定規模をベースにしたそれに変わるのであろうが
安全と安心への投資はケチらずにおこないたいものだ。

今年も既に2/3が経過している。
年をとると時間の経過が早いといわれるがまさにそれを思うこの頃だ。
次々とやってくるイベントの計画や下準備に追われる。
無事終えると次のが待っている。
ありがたいと思う。
つきあってくれる友人・後輩・仲間達には感謝感謝だ。

先月の施設慰問では「終戦」という事を歌の合間にお話しさせていただいた。
また、長崎での母の被爆、父の抑留生活など、父母や祖母から聞いた話を思い出しながらだった。
戦後69年と言うことでいろいろな事が若い世代に忘れ去られるような気配があるが
歴史を正しく見て判断し次に活かしていくことが大切であろう。
その為には正確な情報と裏付けを探して行かねばならない。
単なる懐古ではなくなぜそうなったのか、そういう方向にしたのか、そしてどうなったかを
自分なりに整理しておけば歴史上の出来事に対する色々な話がでても揺らぐことはない。
何れにしても戦争・被爆・敗戦という最悪の結果を経験した我々の父母は真実を知っている。
このことは子供達には必ず伝えて行きたい。

5歳の頃、母と上京して上野公園の西郷さんの銅像前で写真をとってもらった。
昭和28年頃だがまだまだ上野公園には戦災孤児が沢山居たのを憶えている。
自分より少し上の子供達であったろう。
その後、逞しく生き抜いてきたと信じる。
そんな光景を頭に浮かべながら宮城マリコさんのヒット曲を歌った。

「ガード下の靴磨き」


赤い夕陽が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの花が咲き
おいら貧しい靴磨き
ああ 夜になっても帰れない

墨に汚れたポケット覗きゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
慣れているから泣かないが
ああ 夢のないのが 辛いのさ


今月は久々に郷里へ帰ることにした。
親戚・旧友との再会、NETで知り合った方との会食
墓参、45年ぶりの五島など盛りだくさんの計画だが楽しみだ

2014年9月2日 記


---------------------2014年  8月---------------------


毎日うだるような暑さで気分も優れない。家の中にいても熱中症になるという。
昔は30度を超す日など一夏に数日だったと思うが、この数年は7月後半から8月一杯毎日だ。
確かに地球の温暖化が影響しているのであろう。

我が家では未だにクーラーを入れずに頑張っているがいつまでもつかだ。
水槽のメダカの稚魚が水温でやられているので即クーラーを購入した。
クーラーの効果があるのかないのかはよくわからないが取りあえず元気になったようだ。
人間ばかりではなく生き物、植物。。。みんながこの暑さに参っているのだろう。
そんな中で今年も窓際に「日よけのゴーヤ」を植えた。
こちらは日射しを受けてすくすく育っており、実も今まで以上になっている。
エコなグリーンカーテンという触れ込みであったが、本当にその通りだ。
毎日、感謝しつつ苦瓜の生長を見るのも、これまた楽しである。

先週、久々に北海道へ足を延ばした。
小樽の街を47年ぶりに訪れたが大きく変わっており驚いた。
19歳の時にバンドの巡業で岩内というところに滞在した。
2月という季節の中だったので毎日寒く、ストーブの周りで暖をとっていると
お店の人が小樽につれていってくれるというので同行した。
余市のニッカウイスキー工場の近くで初めて雪に覆われたリンゴの木をみて感激した。
雪と荒波の積丹半島を廻って小樽につくと牡丹雪が落ちている。
暖かいラーメンをすすって帰路についたのを憶えている。

小樽は祖父が若い頃仕事をしていたと子供の頃聞かされた。
お土産に大きなおいしいリンゴをかついできたと母が言っていた。
長崎から汽車を乗り継いだのか船で行ったのかは憶えていないが
当時は外国へ行くような感じだったのだろうと思う。
今では高速道路網が発達しており、あっという間についてしまう。
道路にはヒグマやキタキツネがでるという。
次男がキタキツネを車窓から発見したが、あっというまに林へ消えて行ったという。
自然を破壊する事でそんな動物たちにも影響を与えており人間の罪とはなんて
しばし考えさせられたものだった。

そんな北海道であるが富良野のハーブ園や段丘に植えられた植物の景色はすばらしかった。
広大な土地が続いており、なんか心も大きくなったようだった。
次の日に昭和新山に向かったが霧が濃くてその姿を見ることができないと
諦めかかった時、一瞬だけ霧が晴れてその全貌を見ることができ
ここぞとばかり、家内、次男と写真に収まった。

昭和新山が個人の土地であることをガイドさんから聞いてびっくり仰天。
麦畑が突然隆起して火山となりその硫黄を採取する人が多くなったのを危惧し
地元の郵便局長さんだった三松さんは土地を購入して入山禁止にした。
そして、毎日こまめに観測しデータを残した。
このデータはミマツダイヤグラムといって後の地震の研究に一役買ったという。
いつの世にも心の広い人がいるものだと思った北海道の旅であった。

しばらくするとお盆がやってくる。
亡き父母や親戚の方々にも北海道の出来事を報告してみたい。
線香の香りと風鈴の音色が心と涙腺を刺激する。
人生これからと言い聞かせて頑張りたい。

2014年8月2日 記


-------------------2014年  7月--------------------


梅雨の真っ只中、都内では集中豪雨や
大量の雹が降るなど被害が出ている。
空から石が降ってくるようなものだからたまったモノではない。

平成12年に我孫子でも大量の雹が降ってビニールハウス
農作物、特にこの地方特産の「梨」が被害を受けた。
強風もあったので家のガラスが割れたり、自動車販売業者はボンネットや
屋根がぼこぼこになって売物の車に大被害を出したのを記憶している。

テレビの解説を聞いていると、やはり排ガスからくる地球の温暖化
その他が影響しているのだろうという。
一人一人が気にしていかなければならない問題でもあるとつくづく思う。
できることは「ゴミの少量化」「車使用の制限」など実行していきたい。

地球の裏側ではサッカ−ワールドカップが熱くなっている。
いよいよ決勝トーナメントに入ったが日本勢は
残念ながら予選敗退と言うことですでにいない。
早朝からテレビを見て応援に入ったが南米チームと比較して
「じれったさ」「攻撃の単調さ」「ゴール前の命をかけた蹴りのなさ」に
少々うんざりした。
しかし、国を代表して戦った選手達にはご苦労様、
この悔しさを次に必ず活かして欲しいと言いたい。

一方では同時に敗退が決まった瞬間にマスコミがこぞって
悪口の言い放題に変わったことが残念だった。
あれほど持ち上げて「優勝」も口にするほどだったのに1勝もできないとなると
その原因を作った犯人捜しに躍起となっている。

大会前からそんなに簡単に勝ち進めないだろうと
予想をしていたがその通りになった。
世界はそんなに甘くないことの証明だ。
確かに日本のリーグから欧州へ出て活躍している選手も多くなった。
そんな選手ばかりを集めたといっても相手はすべてに上回っている。

選手やサッカー協会側も今回の出来事を真摯に科学的に分析し
次に向かっての作戦を進めて行くべきであろう。
アジア地区の惨敗はどこに問題があったのか。。。。。
この世界戦にかける南米、アフリカ諸国の選手の目付きが違うと
思ったのは私だけではないだろう。
野球と違ってボール1個とグラウンドがあればいつでもできるサッカーだ。
サッカ−が盛んになって20年余りになるが
まだまだ諸外国のレベルに比べればほど遠い。
部屋に閉じこもってゲームに夢中になっている子供の
多くなっている現在、考えさせられる。

先月は施設慰問やその他コンサートが毎週続いた。
新たな施設への訪問も増えており、嬉しい限りだ。
そんな中で、六月〜七月、梅雨ということもあり
「雨のコンサート」を続けている。
歌のタイトルに雨がつく歌謡曲、童謡、ポップス等を
15〜17曲集めて約1時間演奏する。
雨の付く曲はほとんどが悲しく寂しいものが多い。
そんな中で会場の皆さんが楽しい顔に変わり
大きな声で歌ってくれるのは「あめふり」だ。
子供の頃、わざと水たまりに足をいれて
親に怒られた風景を思い出し、頬が緩む。

あめふり  中山晋平 1925

雨 雨 降れ 降れ 母さんが  蛇の目でお迎え 嬉しいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

かけましょ鞄を母さんの 後から ゆこゆこ鐘が鳴る
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

あらあらあの子はずぶぬれだ 柳の根方で泣いている
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

母さん僕のを貸しましょか 君君この傘さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

僕ならいいんだ母さんの 大きな蛇の目に入ってく
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

今の子供達には「蛇の目」って何?と言う子が多いだろう。
油をひいてあり、さすときにバリバリと言う音がしたものだ。
しかし、紙と竹製なのですぐに破れたり折れたりと大変だったのをよく憶えている。
そんな記憶とともに会場の方々は「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」の部分を
笑顔と大きな声で歌ってくれる。
おもわず涙がでそうになる。。。。。。。。。。。

2014年7月1日 記


------------------2014年  6月----------------------


気温がぐんぐん上がり真夏のような毎日になった。
九州地方は梅雨があけるというニュースが流れている。
四季の変化は心と体をフレッシュにしてくれるのではないかと思う。
衣替えという行為はまさに心と体をこれから本格化する季節に備えたものであり
昨年を思い出し今年はこうするぞ、こんな形で過ごすぞと
頭を巡らすのではなかろうか。
たんすや衣装箱からもれる防虫剤の臭いが何とも言えない。

一昨日のbig newsで拉致被害者の本格捜査がやっと開始されるという事を知った。
被害に遭われた家族の方々にとっては
今までもこのような情報に振り回された経験があるので
ぬか喜びにならないように気を引き締めている発言が多いが、
我々にとっては「今度こそ」という願いを
込めて期待したい。交渉の過程はなかなかopenにはならないだろうが
政府の担当者には慎重にかつ大胆に進めて欲しいと願うばかりだ。

一昨年の上越新幹線で横田ご夫妻に遭遇した。
横田滋さんは少し足がご不自由な様子を感じたが
奥様の早紀江さんがしっかりと後を支えている。
まさに夫婦での二人三脚を見た。
かわいい娘を長年連れ去られており、
心の中は我々の想像を絶する様なものであろうが
他の被害者の方への配慮もあり冷静な発言をマスコミの前では行ってきた。
そんな横田さんも高齢になり早く再会し、
この日本で一緒に暮らしたいと思っていることであろう。
是非、その願いを実現して欲しいと願う毎日である。

1960年代のアメリカのフォークソンググループに
P.P.M(PETER PAUL AND MARY)というグループがあった。
PAFF 花はどこへ行ったの 悲惨な戦争などのヒットがあった。
そのメンバーの一人にNOEL PAUL STOOKEYさんがいた。
1937年生まれだから私に11歳上の方だ。
今、手許にそのPAULさんが2007年に発表し、
売り上げは「めぐみさん基金への寄付」というCDがある。
私も何かでこの発売を知り、
少しでもお役に立てばという気持ちで購入した。
まさにもうすぐこの歌に歌われている「めぐみさん」が
元気な顔でタラップを降りてくると思うと涙腺が緩む。

SONG FOR MEGUMI

BY NOEL PAUL STOOKEY

MEGUMI speak to me
and say that you will soon be by my side
too many tomorrows
without you tears of sorrow fill my eyes

You were a young girl
when your dreams were broken
no time for goodbyes and
no words were spoken

return to me MEGUMI
across the waves of this sea
send me your spirit
my heart will heart it
and lead you home to me

会社勤めを辞めてからもうすぐ2年になる。
今までお世話になった会社の株価や
人事異動がまだまだ気になって
新聞を眺めるが時々苦笑いする。
もう既に関係がないのに気持ちのどこかには
会社の一員として何かあれば。。。。という事なのか。
暖かく見守って行くことが何よりの恩返しではないかと
つくづく思うこの頃だ。
施設の慰問先も7施設となった。
季節の便りと共に皆さんの暖かい拍手が一番の「長寿薬」といえる。
今月は毎週コンサートが組まれているが張り切って臨みたい。

2014年6月2日 記


---------------------2014年  5月---------------------

近くの街路にある藤棚にはみごとな「藤」が道行く人々を楽しませるシーズンになった。
2014年も既に1/3が過ぎてしまった。今更だが時間の経過は矢のごとしだ。
先月の中旬に昔の会社仲間で恒例(高齢)の旅行をした。
今回は中部地方と言うことで、名古屋から馬籠、木曽福島、飛騨高山、白川郷方面と
いう長野、岐阜方面への旅だった。
自然のすばらしい景色や地方地方のおいしい食べ物等に昔話を絡めて思いで深いものになった。
健康であることに感謝しつつ、再会をするために更なる健康維持をいう事であろう。

そんな旅の中で気づいたのが外国人の方々が非常に多かったことだ。
東南アジアのみならずヨーロッパ、アメリカ等色々だった。
そこで、外国の方々に旅の思い出と共に再度訪問してみたい、或いは語り継いで家族や友人にも
訪れてみたいと思わせるような仕掛けが少ないことに、同行した仲間からも意見が出た。
確かに案内板はあるがほとんどが日本語のみであり、ガイドさんがついていれば通訳、翻訳が
できるだろうが、古い昔の遺跡や歴史の背景はなかなか上手く伝わらないのではなかろうか。

この地方の観光収入がどの位の比率を占めるか解らないが
観光客は大事な外貨獲得の機会ではなかろうか。
これは行政が中心になり支援するという方法で遺産の保存とPR活動を進めていけば
再訪する方々もふえるのではという事で一緒に行った仲間も言う。
時を同じくして友人が富山に出張であった。
聞けば、航空会社に勤務する彼は北陸新幹線がまもなく開通するので
その激化するであろう旅客の確保対策を検討する会であったという。
これから北陸方面は大きく変わろうとしている。

自分だけだろうが、今まで北陸方面への旅行などはあまり陽の目をみていなかった感がある。
それは交通の便がそれほど良くなく、乗り継ぎやその他いいイメージを持っていない。
しかし、新幹線一本ですぐ行けるとなると話は別だ。
「うまいカニでも食ってくるか」等、気軽にいけるようになろう。
また、海外のツーリストも今まで以上に増えてくるであろう。
そして、木曽や飛騨方面にある貴重な世界遺産その他の施設と歴史にも
足を運べるようなネットワークを整備して欲しいと願うものである。
そんな中、是非、通り一遍の観光ガイドではなく歴史や言い伝え等のツーリスト向け
案内板、ワイヤレス開設機器等を官民一体となって支援していけば効果があるのではないだろうか。
イギリスへ旅行をしたときにロンドン郊外200kmにある「ストーンヘンジ」へ行った。
何の変哲もない「石」が並んである丘だがきちんとした解説がワイヤレス装置で聞くことができた。
世界各国からくる観光客の要望があったのかは知らないが極めて親切だと思った。
現在、日本では世界遺産への関心が高まっているものの、国際化への対応は遅れていないだろうか。
是非、これを進めていき、地域の良さをもっと世界へ広めていけばいいのではないかと思う。

昨年の同じ時期に左足股関節を痛めて丸1年が過ぎた。
先週から痛みがなくなり歩行も楽になったことを受けてウオーキングを再開した。
先日の飛騨地方の旅行での歩きが良かったのか日に日に痛みなど忘れる。
健康のありがたみをつくづく感じている毎日だ。

2014年5月1日 記


-----------------2014年  4月---------------------


昨日、左足の調子も上向いてきたので少し足を伸ばして「桜」を見てきた。
例年より少し遅いと言うことだが満開の花をみると心までウキウキしてくる。
周りの人々も顔がほころんでいる。
足の痛みも忘れて桜並木をゆっくり歩いた。
短期間に美しい花を沢山咲かせる「桜」はこの季節の王様と言われる所だろう。
しかし、脇道にそっと咲いている野草の花にもその美しさはある。
寒い季節をじっと我慢してこの時期をまっていたぞとばかりに咲いている様子は
桜のそれとは違った美しさではなかろうか。
新たな木々、植物の命が活動している様子は老いた身にも何かの刺激をくれる。

今日から新年度のスタート、また消費税が8%ということで世の中が騒がしい。
店舗やその他の企業では前から準備はしていたと思うが
税率変更をして今日に臨んだだろう。
思えばシステムエンジニアをしていた頃、
元号変更、消費税導入等でポスレジ、ホストコンピュータの
システム変更で徹夜徹夜の連続だったのを思い出す。
当時のコンピュータはメモリが高額で今のような記憶容量ではなかった。
現在であれば、旧システムデータと新データの共存も可能であろう。
小さなパソコンでも大容量のメモリやディスクを装備する時代となった。
ソフト面では利便性に重点が置かれており、
至れりつくせりのプログラムが格納されている。
しかし、それをどう使うか利用者側のリテラシーが問われる。
いずれにしても便利な時代になったことは否めない。
文章の起稿にしても例文やその他、インターネット上には沢山ある。
一から悩みながらの作文も現代ではやる必要がなくなったかと錯覚する。

今朝のテレビで先般大騒ぎしたSTAP細胞に関する調査結果の発表があった。
論文の不正か否かを調査しての発表になっていたが、他人の論文からの引用や
参考文献からの引用などは参考文献の記載等をして皆さん普通にやっているようだ。
その中で、写真の見栄えやその他で映像のコピー&ペーストとまでは言えないが
加工をした疑いがあるような発言を記憶する。
生産性を上げるためのコピペが通常のビジネスでもやられている現在では
若者達の間では何の疑問もないのだろう。
しかし、人命に関する研究で今後の明るい光とまで大騒ぎされた論文発表において
それを管理監督していた上司に相当する方々は何をもって世界への公表判断としたのか
はなはだ疑問ではあった。
細胞の世界のことはよくわからないが今月は友人の一人も大きな手術をする。
パーキンソン病という難病を抱えている彼は少しの改善希望にも意欲を出して臨む。
心から回復を願いたい。
このSTAP細胞やその前に発表された山中教授の件など、臨床に
望みをつないでいる方々が世界には沢山いることを忘れないで欲しい。
今度の件で「STAP」が「STOP」にならないことを切に希望するばかりだ。

先月5週続いた福祉関係の慰問も今月は一段落だ。
新たな選曲とトークで皆さんの笑顔を見たい。

2014年4月1日 記


-------------------2014年  3月----------------------


ソチでの冬期オリンピックも無事閉幕した。
出場した各選手には「ほんとうにご苦労様でした」と声をかけてあげたい。
国を代表して競い合い頂上を目指すその姿は我々の想像を遙かに超えるものであろう。
そんな中で期待を背に受けて重圧との戦いは十分に解る。
しかし、それをはねのけて勝利する選手はすごいの一言ではすまないのだろう。
今回のオリンピックでは初出場で10代の活躍が目立った。
これからが楽しみである。
一方で、葛西選手のように7度も参加しているというベテランがいることを忘れてはいけない。
また、上村選手のように毎回一段ずつ登っていったが
最後の一段を上がることができずメダルに
手が届かなかった選手もいる。
モーグルという競技を我々に教えてくれた彼女には大きな拍手を送り
そして、今後は後継者の育成に期待したい。

冬期競技も昔と違って多様化してきた。
曲芸のような分野もあればハードな体力勝負もある。
いずれにしても何年もかけて勝負に臨むのだから
我々には計り知れない努力があるのだろう。
資金的にも厳しいということをインタビューの中に何度か聞いた。
心を熱くしてくれた選手たちに救いの手をさしのべられるような
仕組みが必要ではなかろうか。
これからパラリンピックが開催となるがハンディを背負った方々の活躍には
多くの方々から声援が送られることであろう。
健闘を心から祈りたい。

つい先日66歳の誕生日を迎えた。
会社勤めを終えてもうすぐ2年になろうとしている。
昔と違って時間が豊富にあるので物事をじっくりやることができる。
昔はついつい一気にやってしまうことが多かったが
今は楽しみながらやることにしている。
そんな中でいろいろな発見が多い。
音楽を聴くにしても昔は興味のアル分野ばかりであったが
現在は色々なジャンルを聴く。
すると新たな感覚で取り組むことができ、ステージでもやってみたくなる。
今日も施設慰問をやってきた。
通算24回目となるこの施設では年配の方々を中心に昔の歌謡曲や幼い頃に
歌ったであろう童謡などを織り交ぜてやっているが、なかなか選曲に苦労する。
そんな時には全く関係ないRockやJazzを聞くことにしている。
すると、その中から発見がある。
乗りのいいリズムやメロディがでてくると施設慰問の光景に当てはめてみる。
そして、古い曲でも新しいアレンジで演奏することができる。
年配の方々もリズムには非常に敏感だ。
懐古的なものだけにとらわれず色々新しいものを紹介すると喜んでくれる。
来週は市の社会福祉協議会からの要請で1時間ほどのステージがあるが
はたしてどんな反応があるか楽しみだ。
今日の演奏では意外にも「骨まで愛して」(城卓矢1967)という曲が受けた。
当時、140万枚を売り上げたヒット曲だけに会場のほとんどの方がご存じで一緒に唄ってくれた。
魚を特に「さんまや小魚」を食べるときは「骨まで愛して」下さいというと大笑いであった。
その笑いから健康が生まれればと思う。

2014年3月1日 記


-------------------2014年  2月---------------------


毎日寒暖の差が激しく体調を崩しそうになる。
2014年も1ヶ月が過ぎてしまい時間の経過を早く感じるのは私だけではなかろう。
今週の初め仙台時代の仲間と裏磐梯方面を旅した。
白銀の世界をバックに自然の美しさがすばらしく、美味しい空気を腹一杯取り込んだ。
また、行く先々で地元の方々の「お・も・て・な・し」がうれしかった。
団子屋のおじさんはわざわざフライにした団子を振る舞ってくれるし
蕎麦屋の店員さんは天ぷらを。。。と、旅人にとって思わず頬が緩むひとときだった。

福島は2011/3/11以来復興がなかなか進まず逆に風評被害が続出していた。
そんな中で今回旅で遭遇した方々は明るく優しく接してくれた。
思わず胸が熱くなった。

亡き父も福島県いわき市四ツ倉の出身だった。
満州で母と知り合って結婚したが職業軍人だったことから終戦後も抑留され
命からがら長崎港に引き上げてきたという。
その父は歌が好きで酒が入ると「え〜んや〜会津磐梯山は宝の山よ〜。。。。」
と歌っていたのを車窓から見る朝日に輝く磐梯山を見てふと思い出した。
真っ白な雪と同じ真っ白な心に触れた時だった。

今月から2014年のコンサート活動が再開される。
まずは8年連続で開催している地域の方々との2時間半ロングランコンサートだ。
オールディーズあり、歌謡曲ありの37曲を休みなしで演奏する。
お客さんもワインやビールを飲みながら一緒に参加してくれる。
本当に楽しんでくれる風景は演奏する側も気合いが入る。
いつもチケットは完売だそうだ。

今回は長年のバンド仲間が近隣に移転した事もあって彼のリズムを加え
今まで以上の乗りをよくするつもりだ。
2年前に始めたsaxの方も参加をお願いし、今回は3曲演奏して頂く予定だ。
PAスタッフ参加の協力も得られた。
みんなでの手作りコンサートになること間違いなし。
会のテーマソングも参加の方々で作詞・作曲してくれた。
自宅のスタジオで録音制作した手作りのCDを配布して歌を憶えて頂いた。
果たして皆さん今回はうまく歌えるか????楽しみだ。

いつまでも・フォーエバー
                          作詞:松村直道 作曲:中野綾子

 
いつの日か お(なか)のかたち 変わっても
バレンタインにチョコレート贈り続けてくれますか
僕には自信はないけれど あなたの好きなシーフード
(いそ)の香りで 満たします

いつの日か 黒髪うすく 変わっても
バースデイに赤いバラ 贈り続けてくれますか
私に自信はないけれど あなたの好きな里の味
(まき)の臭いで 満たします

いつの日か (まわ)りの世界 変わっても
結婚記念のあの誓い 思い続けてくれますか
それほど 自信はないけれど 少しくすんだ赤い糸
見つめていたい いつまでも
   見つめていたい いつまでも フォーエバー

人生の流れをいくつかのイベントや現象に重ねて
自分や長年連れ添った奥方への想いなど。。。
思わずにんまりする歌詞だ。
今回の演奏会でも最後に大きな声で歌っていきたい。

2014年2月1日 記


-------------------2014年  1月--------------------


新年明けましておめでとうございます。
今年も月一ブログをよろしくお願いします。

昨年は一年の半分以上を足の痛みに悩まされ続け
自分の肉体や年齢というものをつくづく考えさせられた年だった。
これからもそうであろう。イヤもっとそれが深刻になるやもしれないと思った。
そんな時に人間は楽観的に考えるか悲観的に考えるかで人生の過ごし方が変わってくるだろう。
東北の友人が5ヶ月間の入院闘病生活を終えて自宅に戻ったという連絡を受けた。
安堵と共に彼の冷静かつこれからの人生に向かった姿勢に考えさせられた。
残り少ない時間を有意義に過ごすことができれば何も悔いはない。
あの世にお金を持って行くこともできない。
健康を維持して楽しい人生を回りの友人や知人、それと家族。。。。地域の方々
一緒に分かち合っていければほんとの「し あ わ せ」を感じる今日この頃である。

先月の初めに「おもちゃドクター」なる資格を得ることができた。
10年ほど前の朝刊に「リタイアした技術者が多く申し込んでいる」という記事がでていた。
興味深く読みながら自分も先では挑戦してみようと思っていた。

もともと壊れたものを修復して大事に使う性分なので興味を持って読んだ。
サラリーマン時代はなかなか時間の取れなかった教習日程であったがやっと確保できたので挑戦した。
若い方々もおり緊張が走ったが講師の方々による丁寧な解説と指導がとても適切であった。
子供の時からラジオ・ステレオ製作、その後はエレキ・ギターの製作や修理を手がけて
ねじ回し(ドライバー)、大工道具、ハンダ鏝を使っていたのでその辺のテクニックは
問題なく出来たが子供向けのおもちゃには基本的な取り組みの考え方が必要だ。
中でも、「おもちゃ病院&おもちゃドクター」のボランティア・ポリシーについては感心することしきりだった。
子供や、その親御さんへの配慮、安全、安心への十分な処置とモノを大事にする心、、等
そして、修理をさせて頂いているという感謝の念を持つという心は自分の目指すものと全く一致しており
これからの活動に必ず活かしていきたい。

ともすれば「使い捨て時代」「買ったほうが安い」等の言葉もきかれるが、自分はそう思わない。
愛用したものへの愛着はそれが壊れた時ほど強くなる。
そして元に戻った時には無くさないで良かったという更なる愛着心が湧いてくるのではなかろうか。
安い海外生産のおもちゃではその製作結果が目を疑うものが多い。
心を込めた結線・配線・組み立てとはほど遠い。
これではすぐに壊れるし先に述べたような使い捨てになるのもうなずける。
子供向けのおもちゃこそ「心を込めた製造心」が必要ではなかろうか。

そんな中、不幸にも経年劣化して捨てるしかないという状況になっても
部品として再生できるものが多々ある。
それが他のものに活かされた時はなんとも言えない嬉しいものだ。

長い勤めを終え身を引いても今まで培ったノウハウや経験が活きるようなシステムが叫ばれている。
まだまだ全体としての人材を求めようとしているがパーツとしての活用も忘れてはならないと思う。
それにはスキルのデータベースが必要になるがなかなか登録や運営が難しいだろう。
でも、きっとそのような時代が来ると信じる。イヤ、そうなって欲しいと願う。

2014年は足の怪我を治して動きを活発にしながら地域への貢献を更にしていきたい。
手始めは2/15に開催される恒例のスモールコンサートだが8年続けてきた。
来場の皆さんの笑顔が待ち遠しい。
思い出の曲コーナーではこの曲を披露する。
開設120年上野駅の13番ホームでは出発でこのメロディが流れるそうだ。
常磐線にお世話になって33年目となる。
心を込めて皆さんと歌いたい。


「ああ 上野駅」 井澤八郎 1964

どこかに故郷の香りをのせて
入る列車の懐かしさ
上野はおいらの心の駅だ
くじけちゃならない人生が
あの日ここから始まった

201411日 記


------------------2013年  12月-------------------


北の国では雪の便りも多くきこえてくる季節となった。
振り返ればこの一年も最後の月となり時間の経過が一段と加速されたようだ。
サラリーマンを卒業して約一年半となるが次々と新たな課題が発生するのは幸せだと思う。
夫婦で始めた「施設慰問」も色々な方々との交流を生み、クチコミではあるが活動の域が拡大した。
振り返れば通算80ステージ、1000曲以上を演奏し歌ったが未だに満足のいくステージはない。
自前の機材で行う「出前型」なので大小の失敗や反省があり、それが次への励みになっているのは事実だ。
MIXERや各音響装置の新規導入に伴って操作方法や調整が微妙に変わる。

施設にお邪魔する前には自宅にてテストを入念にして行くわけだが現場では思わぬトラブルが必ず発生する。
決められた設置時間に完了させ、演奏を開始させなければならない。
額にはいつのまにか汗が噴き出している。会場の皆さんはじっと我々の作業を見ている。
なんとか音がでるようになっても効果音の調整は十分にできていない。
開始時間の2分前、自分の使用するギターのチューニングさえ出来ていない。
家内にオープニングのMCを頼んで時間稼ぎをする。
やっと予想する設定になった。
演奏開始である。
冷えたお茶が喉を潤す。
「皆さん!お元気でしたか?お待たせいたしました。。。。。。」

いつもこんな感じで慌ただしいが会場の皆さんは最初の1曲が終わると
大きな拍手をしてくれる。
安堵感と感謝の気持ちが心を落ち着かせる。

次回こそスムースにやろうと思いながらステージを進めるが
未だに上手くいった試しがないのは何故だろう。
最近は家内も自分の出来る範囲で色々と設置してくれるので有り難い。
時々はコーラス1名を加えて3名の場合もあるが、この時は楽だ。
設置、撤収ともに短時間での作業で終えることができる。
持ち場、持ち場を各自が理解して進めていく。
2〜3名ならばこの程度で済むかもしれない。

このような「あうんの呼吸」は関わる人員が多くなればなるほど通じなくなり
作業効率に支障をきたす様になる。
いつしか作業の段取りを定型化して標準化が求められる。
また、作業の詳細が定義され見直しも必要になる。
「WORK BREAKDOWN STRUCTURE」というプロジェクト・マネジメント
の手法があるが、まさにそれであろう。

施設慰問は簡単な機材構成ですむので未だ楽な方だが
本格的なコンサートでは詳細な計画は書面にしてレビューする。
そして、抜けや重複箇所、他のメンバーに依頼できる事と
出来ないこと等分類して当日に臨む。
このようにしているがそれでも前述した失敗が続いている。
恐らく自身の年齢のこともあるだろう。
苦笑しながら根気よく続けていこうと 思うこの頃だ。

銀杏の木々が黄色い葉っぱを落としている。
これからやってくる寒さに備えた現象であろうが
季節の移り目が自分の生活や行動を変える時でもある。
運動不足を解消して美味しい酒をのみたいと思う。

小学校で初めて人前で歌った童謡が思い出される。
今月から来月の慰問演奏では皆さんとも歌いたい。

「たき火」

垣根の垣根の曲がり角
たき火だたき火だ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ
北風ぴ〜ぷ〜吹いている

2013121日 記


------------------2013年  11月-------------------


街路の桜が日に日に色づいてきた。
今年も残り2ヶ月となり月日の経つのはほんとにはやいと感じる。
定年後は時間がたっぷりあって退屈という方もいたが今の自分には当てはまらない。
次から次へと発生する依頼事項に対応する だけでもあっという間の時間が過ぎる。
現役時代と比べて仕事が鈍くなったのかと疑うこともあったがそうではない。
時間があるぶんだけ丁寧な内容に変わっていることに気付く。
また、記憶することについては衰えているからだろうか記録に残さなければ
気が済まないようになっている。
そんなこんなの生活だが一気に済ませて終うことを止めて色々な角度からの
考えをもって進める自分に時折苦笑いが生じる。

趣味でエレキギターを何本も製作してきたが昔は連休中に終えたいという期限付き
だったせいか兎に角2〜3日での製作期間が多かった。
現在はゆっくりしたものだ。楽しみはゆっくりという事で進めている。
板の削り出しや部品の配線・配置等はあれこれ悩んでいくうちに良いアイデアが出る。
その過程がなんとも言えない事に気がつく。
そして、できあがったものには愛着があり大切に扱うようになる。
使い捨ての文化があるが自分にはとても出来ない。
いつの頃からか日本でもそのような文化が目に付く。
資源の乏しい国のくせに資源について大切にしないのではなかろうか。

新聞紙上では若い人材の使い捨てという記事も目にする。
人材は貴重な資源の一つであろう。
軽く扱う企業や経営者は必ずその仕返しをうける。「10倍返し」ではすまない。
個々の人材の持つ長所を早く見抜いて適材適所ということで育成していけば必ず成長する。
そして、そのスピードは人によって違い、速くも遅くもあろう。一緒に苦労して悩んでいけば必ず育つ。
自分の人生ではそうやって助けて貰った部下や仲間が多く、今更ではあるが深く感謝する。

slow lifeという言葉はバブル全盛期の大量生産、高速型fast foodに代表されるものから
伝統的な食文化に向かったslow food、ゆったり生活のslow living等に由来するらしい。
「拙速」も大事だが「巧遅」 も必要なことではなかろうか。
年齢を重ねた今、つくづく思う。
気のあった仲間との酒や雑談の会がいついつ開催されるとなるとその日を
指折り数えて待っている。この時ばかりは少年時代の遠足のようだ。
いつまでもこの心と感謝の心で過ごしたい。

来月は施設慰問やクリスマスコンサートが続く。
皆さんの元気な笑顔を得られるように精一杯頑張りたい。


「一杯のコーヒーから」

一杯のコーヒーから 夢の花咲く こともある
街のテラスの夕暮れに 二人の胸の灯火が
ちらり ほらりと つきました


2013111日 記


----------------2013年  10月------------------


あの異常に暑かった日々が急に涼しくなり秋の気配を強く感じる頃となった。
左足の痛みは少しずつではあるが薄らいできた。
自由に歩けないことへのいらだちをいやというほど味わっている。
しかし、世の中には自分以上のハンデを背負って頑張っている人々がたくさんいる。
それを思えばもっと前向きにリハビリへ取り組むべきであろう。
幸いに近所にある整骨院にはトレーニング機器があり治療の一環で利用できる。
また、トレーナーの方々は理論的に「筋肉」についての知識を教えてくれるのでうれしい。
年末を目標に疲労している筋肉を回復させたいと願う毎日だ。

先週の土曜日に都内のライブハウスにて定期コンサ−トを開催した。
今回はテーマとして「温故知新」ということで昔演奏したものも見直して現代風にしてみた。
やはりいいものは時がたっても「いいもの」だ。
バンドでは私を一番上としてメンバーは8,10,20、30歳の差があるがそれを感じさせない。
あまりに古いものへのこだわりや偏見があってはならないが学ぶモノは多々ある。
先人の考えはやはりその時代時代でそれなりに考え抜かれたものであろうと思う。
その考えの背景や推移を理解して現代に取り入れればすばらしいものなるであろう。
最近の音楽を否定するものではないがメロディラインや味のあるコード進行がなく大音量と
ヘビーなビートが薄い歌声を引っ張っているものが多い。
また、多人数でのユニゾンで各人の個性もなにもでていないグループなどがいやでも目に付く。
それはそれで流行りといえば流行りであり若い世代に受け入れられているのでとやかく言う必要はない。
しかし、自分は頑固老人と言われても「blues」のもつ単純さと自由な表現を愛して行きたい。
そして、若手のメンバーにもその良さを伝えて行きたいと思う。

夫婦で色々な施設に慰問演奏を届けて10年の歳月が経った。
約1000曲位を歌っただろうか。
バンドでやる「blues系」とは違い、歌謡曲や童謡が殆どである。
しかし、これがまた難しく侮れない。
真剣に聞いていただくとき、そこには喜びや次への挑戦が湧いてくる。
秋の季節は尚更それが強くなり足の痛みもふっ飛ぶようだ。
戦前の歌謡曲等は歌詞の持つ意味を考えられたメロディラインにのせ
歌手はそれを十分に咀嚼して声を出し、歌い上げ、曲として構成させている。
意味不明な単語をダラダラと並び立てたものではなくきちんとしたストーリーがそこにはある。
今続けているこのボランティア活動を通じてその辺を学んでいきたいと思うこの頃だ。

7年後にはオリンピックが東京で開催されることになった。
高校2年の夏休みに長崎市内の高校連合で修学旅行があり東京まで行った。
ちょうど国立競技場が建設工事中であったが中に入り、スタンドから聖火台を見ることができた。
あと2ヶ月したら、あそこに火が点され満員の中で色々な競技が開始されるのだと思うと震えがきたものだった。
その後、新聞で知ったが聖火の最終ランナーは「サカイヨシノリ」さんという早稲田の学生さんだった。
その後、フジテレビに入社され定年で退職されたというが
自分とよく似た名前だったので今でも記憶している。

7年後に自分は72歳と言うことになるがはたして
元気で開会式や競技を見ることができるかどうかだが一つの目標にしたい。
今月の慰問演奏から「東京五輪音頭」を皆さんとやってみたい。
果たして憶えている方は何人いるか、楽しみだ。

ハァーあの日ローマで ながめた月が
きょうは都の 空照らす
四年たったら また会いましょと
かたい約束 夢じゃない

ヨイショコーリャ 夢じゃない
オリンピックの 顔と顔
ソレ トトント トトント 顔と顔


2013101日 記


------------------2013年  9月----------------------


2013年も1/3が過ぎてしまった。引退して1年、はやいものだ。
5月の初めから左足と股関節が痛みだし
治療を継続しているものの回復に時間がかかっている。
若い時代と違ってそれなりの時間がかかるのは自分にも言い聞かせているが
現実にそうなっている事へ年齢という要素を大きく感じる。
人間の身体は不思議なものである。
痛んでいる部分を他の部分で補正しようとする。
気付かない内に色々な部分の筋肉が疲労していると医者はいう。
以前は通勤や出張で気にしなくても身体を動かして
適度な運動になっていたのだろう。
リタイアしてからは意識的に身体を動かさないと鈍って行くことを痛切に感じる毎日だ。
辛いのは、今までだと一人で準備していたコンサートの機材準備が出来なくなった事だ。
重いアンプやスピーカー等も極力若手に手伝って貰うことにした。
また、ステージでも長時間ギターを抱えて歌うのが辛い。
背の高い椅子を置いて時折座りながらの演奏が増えている。
大きな声でシャウトする場合はやはり立ってしまうが
完治するまで我慢するしかないだろう。
いつまでも若いと思わず年齢相応の動きや対応が求められていると割り切り
継続していきたい。

今日は関東大震災の起きた日という事で各地での震災イベントが報じられている。
新聞には当時7歳だった少女が今年で97歳になり、
数少ない生存者の一人として記憶を伝えている。
地震の揺れが一段落した後、竜巻が発生したそうだ。
どうなったか記憶はないだ気がついたら少女は破裂した水道管のそばに飛ばされていた。
火のついた髪の毛や衣服を近くにいた人々とその泥水で消して熱から逃れたという。
避難するときの教訓として地震などの時は燃えやすい物はやめて
水と薬に限定してと語っている。
その話から「水」の貴重さや命との繋がりを強く思い直したものだ。

また、この時の教訓から30年前には木造住宅の密集する東京下町地域に
延焼をくい止める為の「壁」として巨大な都営住宅が建設された。
前述した少女の話は関東大震災で大きな被害を出した「陸軍被服廠」での話である。
これらの事から建設された高層住宅であるが悲しくも老朽化が進んでいるという。
建設当時の住民も段々少なくなっており防災意識にも変化が起こったようだ。
しかし、自分たちが長年育んできた災害への備えに対する意識だけは老朽化や高齢化しても
後世に伝えて行かなくてはならないと自治会の会長は言う。
政治の世界では何かが起こってから色々と語る方々が多いが、このように地域ぐるみでの
防災にはもっと関与できないのだろうか。いや、関わって欲しいものだ。

阪神大震災、東北大震災と経験はしているが
日が経つに連れて日頃の備えが甘くなっている。
「喉元過ぎれば暑さを忘れる」とは良く言ったものだ。
自分に出来る災害への備えとして再度、
枕元には薬と水のボトルはおいて寝ようと思う。

先日、初めておじゃまする施設での慰問演奏をした。
いつもは歌の合間のしゃべりがついつい調子に乗って時間オーバーするので
タイムキーパーの家内の方を気にしながらの1時間であった。
結果はアンコールの連続で譜面を持ち合わせてなく
次回は必ず多く準備しますとお断りしてその場を去った。
機材の片づけを終えて退場すると会場から拍手が起こり、ちょっと涙腺がゆるんだ。
亡き父母と同じか少し年下の方々であろう。
自分の息子、娘に贈る拍手とかけ声は何にも増して心のおいしい「水」となった。
10月中旬には再度訪問するが選曲にも色々工夫をして臨みたい。

201391日 記


-----------------2013年  8月---------------------


西日本や中国地方では集中豪雨被害がでており、気象の変化が世界的に議論されている。
子供の頃の暑さは詳しく憶えていないがここまで寝苦しいことは無かったと思う。
昨日のTV番組で昨年の「節電効果」の話がでていた。
なんでもクーラーその他の節電で気温が前年比で0.7度下がったというのだ。
大したことではないような気がするが気象学上では大変な数字だという。
服装や生活環境での工夫で地球環境へのプラス効果をもたらす。
寒いと言ってはすぐエアコン、暑いと言ってはすぐエアコンではなく
寒ければ一枚着こむ、暑いときは涼しい服装、庭に水まき、植物のカーテン、うちわ、怪談(?)等
昔からやってきたことをもう一度見直してみる必要があるだろうと思う。
我慢ということを忘れた世代も多く、電車の中では当たり前、歩行中でも、食事中でも
「スマホの類」を凝視している若者を見ると違和感を感じるのは私だけだろうか。
とにかく誰かとやりとりしていないと落ち着かない、最新の情報を知っていないと馬鹿にされる等々
あるのだろうがその心理はよくわからない。
きちんと相手の目を見てお話しをする態度や話題の提供が基本動作であろう。
会社に入ってしまえばここら辺が忘れ去られているのは情けない。

情報を得ることが簡単になった時代である事は否めない。
しかし、多くの情報を処理して自分に必要な情報の整理確保と不要な
情報の廃棄整理が出来ているかが情報処理の基本ではなかろうか。
特に「廃棄する」ということへの勇気がなければITリテラシーは向上しないであろう。

長年、情報処理の分野にてビジネスをやった自分にはこれがしみついている。
大容量のハードディスクや高速の検索機能、データベース化ソフト、安い通信費用、、、
コストをかけずに手軽にできる時代になった。
世の中ではヨガの行法からきた「断捨離」という言葉が流行しているようだ。
古い事へしがみついていないで思い切り断って、捨て去り、離れて身軽になる。
そうすることで新たな発見や工夫があるのだろう。
有り余る情報から自分なりの「情報処理」が必要ではなかろうか。

今月から新たな訪問施設が増えた。
近隣の福祉施設だが皆さんの楽しい笑顔が自分の活動の糧である。
好評の「CMソングとテレビ番組主題歌コーナー」では頑張ってみたい。
当時の世相や時代背景からはいるのでこちらの準備も大変だが勉強になる。
情報の少ない時代、色々な工夫があったことだろう。
もう一度忘れかけていた事を思い出しながらトークしたい。


201381日 記


---------------------2013年  7月-----------------


2013年も半分が過ぎてしまった。
世界、国内共に色々な事が起きており情報が多すぎて整理出来ない。
報道では「アベノミクス」についての時間が多く、ホントに景気のいい話しが多いようだが
2年前の大震災の復興が忘れ去られてはいないか心配になる。

未だに故郷へ帰れない方々や再起をどうするか等。。。。難問を抱えた方々は多々いる。
支援の進捗や復興のそれがだんだん報道から消えてはいないか。
2ヶ月前、実際に現地を見てきた自分としてはそれが気になる。
寄付や政府の財源が未だに消化されていないとも聞く。
いったいどうなっているのだろうか。

原子力発電の問題は簡単に片づかないだろうが
表面上の効率・効果での判断ではなく
それを廃棄する際の計画にはコストは勿論であるが
自然界への配慮、人体への検証等、あらゆる
項目についての点検をした上での再発goでなければならない。
原爆被爆者を家族にもったものとして年月による風化は決して許せない。

一昨日、久々に昨年まで所属していた会社のパーティに出演した。
みんな元気に迎えてくれた。中でも結婚した元部下や子供が産まれた元部下が
入れ替わり立ち替わりステージ脇へ報告、挨拶に来る。
中には演奏中に挨拶するメンバーもいた。
そして、赤ちゃんが曲に合わせて手をふるのだ。なんともほのぼのとしたシーンである。
この2ヶ月脊椎の歪みからきた左足の痛みを忘れる一時であった。
このような子供達のためにも安全で安心な、
そして希望を抱ける社会にしなければならないと強く思った。

今月も2つほどライブステージが控えているが
Boroの歌う「陽だまりの中で」は必ず歌うつもりである。
原曲はSTEVIE WONDERの「A PLACE IN THE SUN」だが
日本語でBOROが歌っていた。
被災地の方々への応援ソングとして伝えて行きたい。

「陽だまりの中で」

ほこりだらけの汚れた道を 走っていても

きしむ地球に 暮らしていても いつかきっと

  走りだして 太陽のが あたり続ける場所へと

 夢を追いかけこの終わりのない旅を続ける

201371日 記


----------------------2013年  6月--------------------


新緑の清々しい季節がいつの間にか「梅雨」になってしまった。
しかし、木々をみれば黄緑の葉が爽やかに風にそよいでいる。
ベランダの植木も新たな葉を出した。鉢植えなので常に気を付けていないと枯らしてしまう。
といっても水のあげすぎは根を腐らせてしまう。このバランスが難しい。
人材の育成とよく似ている。

先月は山陰、東北と歩き続けたせいか左足が痛くてついに整形外科のお世話になった。
診断では背骨が湾曲しており、その影響がでているとのこと。
レントゲンを見ながら医師からは「腹筋、背筋の退化」を告げられる。
この10ヶ月継続してきたwalkingもしばらくはお休みにして回復を待った。
ここに来てやっと痛みが和らぎ精神的にも落ち着きがでてきたが今まで気付かなかった
健康への感謝がこれほどまで大事なものかと思った1ヶ月であった。

今日は定期的に慰問している施設でのコンサートだった。
「雨」にちなんだ数曲を1時間以上に渡って演奏し、
会場の皆さんとも合唱してきた。
感心したのは皆さん幼い頃に歌った曲について、
歌詞も鮮明に記憶しており大きな声で歌ってくれることだ。
100年前の曲だけに歌詞が硬い表現ではあるが歌い出すと笑顔になる。
水たまりに靴を踏み入れてしぶきが飛ぶ、少々ズボンが濡れようがかまわず続ける。
そんな雨の日の情景が蘇ってきたのだろう。

「ぴっちぴっち ちゃっぷちゃっぷ らんらんらん」

途中で挟む話や当時のTVコマーシャルソング、
番組のテーマソング等を紹介すると目が輝いてくる。
中でも「夢で会いましょう」では私が当時の司会者、
中島ひろこさんのまねをして首をかしげると大笑いであった。
自分も50年時計を戻したような気になって楽しんだ一時だった。
純粋に番組の出し物を楽しみ、その中から新たな流れを見つけるという、
ワクワクする時間だった。
当時の出演者は殆どいなくなってしまったが
今でも台詞や動きは記憶に残っている。
今の自分があるのはそうしたものから影響を受けたといっても過言ではない。
今のテレビ番組でそのようなワクワク感はあまりない。
むしろスイッチを切ってしまいたいようなものが多い。
無知であることをある種の持ちワザにしているタレント
それを更に煽っている回りやプロデューサー
番組中、必要以上に大笑いするスタッフ。。。。何か変ではないか?

自宅にいる時間が増えた今はこれまでに十分聞いていなかったCDをたっぷり聞ける。
聞くことから想像する世界はまた楽しい。

昨日のラスト近くでのソングは井上陽水さんのヒット、「傘がない」であった。
単純なコード進行であったが思い入れを込めて1972年代を歌った。
お年寄りの方は何人がこの曲をご存じかは不明だがじっと聴いて頂いた。
この瞬間、次への意欲が湧いてくる。
「ありがとうございます。またお会いしましょう。お元気で。。。」

201362日 記


---------------------------2013年  5月-----------------------


世の中ゴールデンウイークということで観光地が混雑しているようだ。
円安、株価高、、、、、等々毎日景気のいい話が出ている。
ホントに消費意欲を出せるのか疑問に思いながらもついうち新聞の株式欄を眺める。
昨年までは3ヶ月毎の決算報告や予算の見通し等に悩ましい日々であったが
それから解放されて9ヶ月が過ぎた。
ふとした時に淋しくもあり、気が軽くなった気楽さもありで段々慣れていくだろう。

先月は山陰地方と東北地方の旅をした。
前者は未だ足を運んだことがなかった鳥取県と島根県に行って
みたかった事もあり家内と一緒に行った。
気温が低く、寒い日が続いたが自分達の足と電車、バスで廻ることができた。

鳥取砂丘に吹き荒れる日本海からの強風が砂模様を刻々と変化させる。
立ち止まって見ているとそれが大変面白い。
砂丘の周りには名産「らっきょ」の畑が拡がる。
松江では宍道湖のそばに宿をとり水面を眺めながら休んだ。
これまた名産の「しじみ」をみそ汁で頂きながらの食事だった。
松江城の堀を巡る遊覧船では船頭さんが橋の下に来ると天然のエコーをもとに
この地方の民謡である「安来節」を歌ってくれた。
思わず拍手をするとこの地方の方言「だんだん」(ありがとう)が出てきた。
小泉八雲の住居跡や出雲大社(竹内まりやの実家も)定番の観光コースを
いろいろ廻ったが塵一つない道や公園、施設には感心した。
急がない旅なので色々な所へ足の向くまま、気ままに行くことができた。
ビジネスでの旅と違って定年後の旅はゆっくりとしたペースがなんともいえない。
そして土地の方々との会話は違った話も聞けて大変参考になる。

2週間後は昨年に続いて再び東北地方を昔の会社の仲間と旅行した。
今回は「桜」を追っての旅ということで意気込んでいたが、残念ながら
目玉の角館の「しだれ桜」は開花しておらず、やっと宮城県に入って
ソメイヨシノの満開を見ることができた。
桜の花も目的の一つであったがもう一つは2年前の大震災で
被災した昔の仲間を訪ねることでもあった。
当時の上司が発案して住所を元にアポイントなしに車で訪問することになった。
突然の再会であったがテレビのワンシーンと同じように見えた。
元上司の各種配慮にはマダマダ頭が下がる。
人を思いやる気持ちは色々あろうが直接足を運んでの
会話ほどすばらしいと言うことを実感した。
帰路の車中では3人とも会えた安堵感、復旧への祈り、現状の認識で一杯であった。

宮古からの海岸線を走ったがテレビで見るような光景が延々と続いた。
家の基礎跡だけが虚しく残っており、まだまだ家やビルがない。
なんでも危険と言うことで未だ許可が降りておらず仮設暮らしなのだ。
復旧の遅れを実感した。
しかし、現地の方々は出来ることから確実に頑張っている。
話かけると明るく我々を迎えてくれ詳しく当時の模様を話してくれる。
ある港町の商店街では「皆さんがこうしてはるばる来てくれる事が
俺らには一番嬉しい事よ」という言葉が今でも耳に強く残っている。
心から一刻も早い復興を祈っていきたい。
また、コンサートステージでの曲間話には見てきたこと聞いたこと
知ったことを必ず出していきたい。

来月はコンサートが3つも控えており準備に忙しいが
2013年前半をいい形で締めていきたい。
居間の壁にある子供達の成長を見るのに作った「身長測定器」も
今は不要なものになった。
「背くらべ」の歌ではないが、当時を思い出しおもわず笑みがこぼれる。

「背くらべ」
柱のきずはおととしの
五月五日の背くらべ
粽(ちまき)食べ食べ 兄さんが
計ってくれた背のたけ
昨日比べりゃなんのこと
やっと羽織の紐のたけ

柱にもたれりゃ すぐ見える 
遠いお山も背くらべ
雲の上まで顔出して
てんでに背伸びしていても
雪の帽子を脱いでさえ
一はやっぱり富士の山

富士山という素晴らしい山が世界遺産になると言う。
とても嬉しいことだが登山客や訪問者のマナーでもそれに
相応しい評価を受けられるようになればと願う。

201353日 記


----------------------------2013年  4月---------------------


桜の花も満開となりこれから本格的な春になろうかとしている。
今年は例年になく桜の開花が早かった。梅の花もまだ咲き残っている。
地球温暖化現象による気候の変化は確実に感じられるこの頃だ。

先月24日は関係会社の音楽仲間でのイベントを実施し
多数の来場をいただき、盛大の内に無事終了する事ができた。
思えば2年前の大震災により開催直前に中止を決め
この日まで今か今かと待ち望んだイベントである。
お客様も当初予想より増え、狭い会場ではあったが210名近くが楽しんだ。
この企画を2009年に持ち出し、各会社のメンバーに誘いを掛けた当人としては
これで音楽も業績も軌道に乗って欲しいと願ったものだ。

今回はプロジェクト形式で役割分担を決め、私と4名はライブコンサートの肝とも言える
「PA(拡声機)関係」を担当した。いずれ私がいなくなってもいいように機材の準備調達
試験検査、設置、リハーサル、、諸々の流れを若手にマニアルまで作成して伝えたつもりだ。
PA班というサブプロジェクトリーダを担当して今までのシステムエンジニア時代を
思い出しながら手順通り進めて行ったが予期せぬ出来事が発生するモノだ。

前日の午後から機材設置、結線、簡単なリハーサルということで
万全を期したが、結線したケーブルが夜中の室温ダウンで微妙に縮み
きっちり止めたガムテープの影響もあったのか、抜けた状態になっていた。
スピーカーから出る音が片方だけとなり
抜けたケーブルの途中まで熱を帯びていた。
危機一髪であったがすぐ原因を突き止め
当日の全体リハーサルでは問題なく稼働となった。
今まで、何回もステージを組んで経験しているが
今回のそれは初めてであり、またひとつ勉強になった。
後輩達もそれぞれ持ち場のミキサー操作を経験しているので
次回からはあれこれ指示が無くても出来るだろう。
今回はこのイベントを通じてメンバーが育ってくれたことにこの上ないうれしさがある。

4月は新入社員が入り企業は活気づく、職場の先輩社員もうかうかできないだろう。
景気の回復というニュースがやたら目に付くが、単にお金だけではなく人材の育成と確保
技術の蓄積による高付加価値な仕事と結果こそ今の日本では求められていると思う。
そこには色々な場面でベテランとしてそれを伝えていく役目があろう。

まだまだ職に就けない若者達が大勢いるという。
職を選択する方も一度じっくり考えて、自分は何をしたいのか
何をもって世の中に貢献したいのか
答えを出してはどうだろうか。
昨年まで色々な場所で新人向けの講習を担当してきたが、現実の社会でどのように
新人として振る舞って行くことが大切か、また目標を持つことの大切さや達成の喜び
研鑽することの大切さ等、思い出せば蘇ってくるものだ。
TVや映画でみるかっこいいきれいな職場でラフな格好をしながらパソコンを
パチパチやっている、あるいは電話をしている光景など決してありえない。
予算数字との戦いや顧客との戦い、或いは競合との戦いがあって毎日が戦争である。
ひとつひとつの「戦争に勝利して或いは負けて」ステップアップしていく事を今でも言い続けたい。

来週から「山陰地方」を家内と旅行する。
今まで「鳥取、島根」には足を踏み入れた事がなかったがこれで全国廻ったことになる。
また、松江には音楽仲間もいるのできっと酒が入るだろう。
じっくりとお話、料理に時間をとりたい。
その後は角館、宮古、仙台ということで桜前線を追いかけての東北旅行となる。
宮古では是非復興の状況等をこの目に焼き付けてきたい。
そして、心の中で一刻も早い復興を願い「花は咲く」を歌ってくるつもりだ。

「花は咲く」

真っ白な 雪道に 春風香る
私は懐かしい あの街を思い出す
叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
今はただ 懐かしい あの人を思い出す

誰かの歌が 聞こえる
誰かを励ましている
誰かの笑顔が見える
悲しみの向こう側に

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう


201343日 記

                  
--------------------------2013年  3月----------------------


昨年の7月末から始めたWALKINGが先月で120万歩を越した。
まだまだ少ないが雨の日を除いて毎日欠かさない。
ふと気がつくと腰痛が無くなった。
近年冬の寒い季節には腰の痛みが必ずやってきたが今は忘れている。
掛かり付けのドクターから通勤をしなくなったときに薦められたWALKINGだが
身体と心の健康にいろいろ役だっている。

今まで知らなかった道や家、公園、遺跡の説明、、、、、、、地元の再発見だった。
我孫子という町には古墳がいろいろあることも再発見だった。
大きさは関西のそれとは違うが小山状になった前方後円墳が至る所に見られる。
そこには役場が建てた解説の板が建ててあり、立ち止まってはじっくり見る。
竹林に囲まれている小高い丘がお城の跡だったりして思わず驚く。
ふっと歴史を振り返ると今までの発想とは違う自分になっている。
「灯台もと暗し」とは良く言ったものだ。
明治時代から大正の初期に「北の鎌倉」と呼ばれたこの地には
有名な方々の屋敷や別荘が沢山あった。
我が家の近くには志賀直哉、杉本楚人冠、武者小路実篤、嘉納治五郎
、バーナード・リーチ等の屋敷跡が残っている。
明治29年12月25日、常磐線我孫子駅を開業、上野から近くなったことで
避暑地としての開発が進んだようだ。

長崎にいる頃は「一本刀土俵入り」で出てくる利根川沿い取手の「我孫子宿」や
橋幸夫の歌で「潮来笠」という1960年ヒット曲の中に

「旅空夜空で いまさら知った
女の胸の 底の底
ここは関宿 大利根川へ
人にかくして 流す花
だってヨー あの娘川下 潮来笠」

という歌詞で我孫子という名前や利根川が千葉と茨城の境を流れる川で
その下流に潮来という所がある事を知った。
その潮来笠で「関宿(せきやど)」という地名を中学時代から憶えていた。
利根川の水運で栄えた宿場町だったようだが自宅から車ですぐの所だ。
利根川や色々な宿場が生んだ話、歌は多い。

そんな歴史文化の多い場所にいる事を有り難く思いながら
身体と心の健康を維持していきたい。
予算と納期に追われたつい先日の生活が嘘のように思える。
まだまだ人生は長い。
ゆっくりマイペースでいこうと思う。

先週の25日に65回目の誕生日を迎えた。
18歳で故郷の長崎を出て47年が経ってしまった。
既に父母を亡くしており、一人っ子の自分には兄弟がいないが
叔母や親類、数々の友人に助けられて今があると思う。
先日、久々に親類の結婚式に夫婦で出席した。
32年前の自分たちのそれと比較してみたが今の式、披露宴の演出には驚く。
多くのスタッフを入れて考えられた進行になっているがそれが故に少し寂しい所もある。
確かに新郎新婦の為ではあるが親類、友人、会社関係の方々との交流時間があってもいいのではと思う。
洗練された言葉で流れるプロの司会者よりも汗をかきながら必死に努めようとする友人の会者を私は望む。
新郎新婦が何年か後にアルバム(今ではDVDか)を開いた時にはそのほうが想い出として残るのではなかろうか。
とはいえ、きちんと披露宴を開いて二人の誓いをみんなの前でたててくれた事は立派であろう。
最近の風潮は二人だけで式を済ませ、婚姻届を出し会社関係者にも知らせないという話が多い。
個人の自由ではある。しかし、自分一人で生きているわけではない。
社会の一員として責任をもった生活のステップでは如何なものかと思う自分は古いのかといつも悩む。
年をとると短気、頑固、、、、になるといわれるが「ならぬことはなぬものです」といいたい。

今月は24日に大震災の影響で2年前に開催直前中止になったグループ音楽祭が開催される。
全て自分たちでの運営となるため分担して準備を進めているが、PA班(拡声器)担当として
電力供給バランスの調査、モニター機材の調達、各バンドの演目と音響効果の調査等々、、、
事前準備が山のようにある。
しかし、成し遂げたその時の事を頭に浮かべて若者達と議論するのは楽しい限りだ。

年度末で忙しい季節でもある。人事異動もあろう。
そんな繰り返しがまたやってくる。
ベランダに植えた「金柑」の実に鳥が2羽飛んできた。
一羽が実をつついているときはもう一羽が見張り役できょろきょろしている。
上手くできている役割分担だ。
小鳥に負けないように我々夫婦もお互いの役割を果たして
楽しく生きていきたい。

201331日 記


----------------------------2013年  2月-------------------


暖かい日射しの中で植物が今か今かと期待を膨らませている。
散歩の途中で立ち止まって梅の枝をよく見れば、蕾がうっすらと赤みを帯びている。
「もうすぐだぞ!」と声をかけてあげたいような気になるのは私だけではなかろう。
小鳥たちも負けずと枝に飛んでくる。
みんな春が来るのをまっているのだ。
東北の被災地の方々には本当の「春」が早く来て欲しい。

春よこい 早くこい
歩き始めたミーちゃんが
赤い鼻緒のじょじょはいて
おんもへ出たいと待っている

相馬御風作詞の「春よこい」で彼の長女「文子さん」の春を待つ仕草を詩にしたものだ。
なんかほのぼのとした情景が目に浮かぶ。
綿の入ったもこもこの丹前を着込み、赤い鼻緒の下駄はいて
玄関付近を出たり入ったりという光景が頭に浮かぶ。
或いは爺ちゃんや婆ちゃんに買って貰ったピカピカの
ランドセルを背負って学校に行く練習でもしているのか。
何れにしてもしばし頬が緩む。

最近の日本にはこの「ほのぼの」「笑いの中に涙」的な情景が
少なくなったと感じるのは私だけだろうか。イヤ、そうではなかろう。
全ての速度がそのようなふと立ち返る時間までも飛ばして次の情報へと移る。
そんな時代になったことで忘れ去られてはいないか。
今日は日本でTV放送が開始されて60年という。所謂、還暦を迎えた。
生放送の時代から録画の時代へと変わり円滑なプログラムの元で
放送が続いている。都合の悪い部分は編集できる。
視聴者はその部分で判断をしてしまう。
結果を導くまでのプロセスがなく、いきなりでてくると考える時間がない。
情報処理の基本は貯める情報と捨て去る情報をある基準で高速に行うであろう。
速度も大事だが、「ほのぼのさ」「笑いの中の涙」を誘うような
その他、考えさせる時間を与える事も報道の持つ本来の役割ではなかろうか
今一度見直して欲しい。

先週、家族でタイのバンコクへ旅行した。
珍しく長男が同行できるというので次男を残しての親子3人旅であった。
日頃は私が就寝後に帰宅し、休日は殆ど寝ている長男と
この旅行中、長時間会話し、毎回食事をし、各地を見学した。
旅行中に満30歳の誕生日を迎え、タイ在住の旧友と共に祝った事は忘れられない。
家内が陣痛の来たときやなかなか生まれないで難産だった事
子供の時は牛乳が好きだった事など話すと照れ笑いしながら相づちをうつ。
長い単身赴任で迷惑を掛けたがここまできてくれた事に思わず涙腺が緩みそうになった。
子供の成長こそ親にとっては一番の楽しみである。
それを与えてくれた今回の家族旅行には深く感謝する。


今、北国の人々は雪との戦いで大変だ。
特にお年寄りの方にとっては雪とのそれは過酷な仕事とも言える。
道路の確保も大事だが独り暮らしのご老人への配慮はもっと大事であろう。
やっているであろうが行政側でなんとかならないのか毎年思う。
しかし、春はもうすぐですよ。頑張りましょう!

201321日 記


----------------------------2013年  1月---------------------


新年明けましておめでとうございます。
毎年のことではあるが新たな年を迎えて気分が引き締まる。
久々に関東地方は穏やかな朝を迎えており
ベランダから目を遙か彼方へ向けながら
深呼吸する。
吸い込んだ空気が美味しいのは気のせいだろうか。

昨年は人生の中でも色々と出来事があった年だ。
長年勤めた会社を引退し、若い世代へとバトンタッチした。
また、プライベートでは結婚30年記念&バンド結成40周年の
コンサート「3040」を開く事ができた。
また、次男もなんとか就職する事ができ
二人の子ども達も社会貢献ができるところにきた。
振り返れば自分たちの事が疎かになっているようだが
それはそれで暇を見つけては夫婦旅行や
その他、趣味の音楽に入れ込んでいる。
周りの仲間や知人諸先輩の方々に感謝感謝。。。。。。。。

政治の世界も暮れには大きく変化して政権が入れ替わるという事になり慌ただしい。
経済の復活気配ではあるが本当の活性はこれからの事になろう。
一つの情報で株価が大きく変動したり貨幣価値が変わったりという時代ではあるが
真の価値は誰もが認める安定性とその品質に裏付いたものではなかろうか。
長年サービス業を経験した中ではその辺がいつも気になる事である。
日本人のもつ器用さ、律儀さ、勤勉さ、モノづくり等々が一部では
継続して次世代へ受け継がれている。
暮れのtv番組でそのようなシーンを何度と見ることができた。

真剣な眼差しで師匠から教えて貰っている姿
何度もダメだしを食らって涙を流す姿
繰り返し繰り返し機械の操作をして精度を確かめる姿
激しく上司と議論する姿、、、、、、どれも素晴らしい。
そのような力を出せる環境を若者にはどしどし
提供して行かなければならない。
単純に年齢を重ねただけの人間ではなく
引退した今はせめてそのような接点や機会が出来るようなこと
を求めて活動して行きたい。
そのためには彼らとの交流や会話を増やして真摯な議論が必要であろう。
決して先輩ぶった言動はやめていきたい。
しかし、是々非々であり躾も時には必要であろう。
新たな年の朝「新たな空気」を吸い込んで
新鮮な気分で進みたい。


201311日 記


----------------------------2012年  12月---------------------


2012年も最後の月になった。
銀杏の木は黄色に葉を落とし桜は黄色から赤の葉となり風に乗って散っている。
北の国では猛吹雪と停電のニュースが伝えられているが
自然の驚異がいつものように容赦なく襲ってくる。

昨年から今年に掛けては電力の話題が多く、それまではあまり気にしないで使用していた電気も
現在では省エネの動きが会社ばかりか、家庭内でも大きく叫ばれている。
我が家でもこの点についてはやかましく叫んでおり、まめな電源のon-offを励行しているが
なかなか定着できないのが現状である。
しかし、日本人一人一人がこれを実行しなければ現在の電力事情は改善されず
無駄な設備をあるいは人的支援が必要となる。

長年コンピュータに関わった自分としては、電気の来ない計算機ほど惨めな姿であり
電気が入り、いいソフトが動いてこそ「電子計算機=コンピュータ」と言われた。
寒冷地で雪や電気と闘っている皆さんへの一刻もはやい回復を心から願う。

年末となればタダでさえ何かと忙しい中で12月16日には「総選挙」がある。
政党の数数が多くあり、また公約も多種で、その選択に困る人もでるようだ。
テレビでの討論会では小難しい言葉で色々叫んでいるがほんとに国民の現状改善や
世界での日本の立ち位置などを言葉だけではなく実行で示して欲しいと願う。

働きたくても働けない人、本来なら夢と希望で胸がふくらんでいるはずの
来春卒業予定の就職活動中大学生達。
ほんとうに気の毒だと思うが頑張って欲しい。
働く場は必ずある。
そして、どんな職でも一生懸命に取り組んでいけば道は拓く。
ドラマなどであるようなかっこいい仕事など絶対ない。
裏では大変な努力が必要なのだ。
企業はその気迫と情熱を求めている。
明日に向かって進め!!

2012121日 記


----------------------------2012年  11月-----------------------


2012年の月めくりカレンダーも残り2枚となった。
月日の経つのは本当にはやいものだとつくづく感じる。
会社勤めをやめてから3ヶ月があっという間に過ぎてしまったが
毎週のように開催されたコンサートや各種イベントでバタバタ状態であった。
来月までまだまだこんな状態が続く。
有り難いと感謝する。

先週は5年毎の大イベントである結婚30周年記念&会社のバンド結成40年
コンサートが近隣の会場を借りて実施された。
遠く海外や県外からも多くの仲間が駆けつけてくれ大いに盛り上がった。
今までは疲れのためか、コンサート終了後の打上時に高熱を出して
途中退場する自分であったが今回は珍しく2次会、3次会までオーケーだった。
気が張りつめていた状態から緩む中で気がついたのは参加された皆さんの
笑顔と活発な会話だった。とにかくよくお話ができた。
思えばこの元気の源が自分を支えてくれたのだった。

43年前にやっていた曲を事前の練習もなしにやる。
心は青春に戻る。無事終えた時にお互いの照れ笑い。
当時のステージ光景が次々とよみがえる。

これから何年生きていけるか解らないが身体の動く限り続けて行きたいと思う。

朝夕の気温も日に日に下がっており、毎日続けている散歩は時に汗が冷たく感じる。
街路樹の落葉に色とりどりのシーンを見ることができる。
やがてやってくる冬への支度が既に始まっているのであろうか
虫たちの動きも忙しい。
自分もこれからの季節に備えて新たな生活のリズム、目標を持って悔いのない人生としたい。

2012114日 記


------------------------------2012年  10月----------------------


今年は台風が少ないと思っていたら大型の到来となり関東地方も昨晩は不安な夜を過ごしたが
今朝の空をみれば「台風一過」とはよく言ったもので、遠くの山がくっきりとみえ気分爽快だ。
職場を離れて2ヶ月余りとなった。
当初は時間の使い方に戸惑ったものだが最近ではだいぶ慣れてきた感がある。
自分のペースで時間配分が出来、急がない仕事の仕方
丁寧な作業など、、、今までとは違う進め方になった。
どれがいいとは思わないが「イライラ感」が無くなったのは事実であり少し丸くなったと自分でも思う。
人間ドックでも少々丸くなっており医者からは注意され苦笑する。

今月は27日に結婚30年、社内バンド結成40年記念コンサート開催する。
現在はその準備で追われている。
従来のバンドメンバーや現役組には少しの連絡で済むが県外、海外から来てくれる仲間には
色々な資料音源・楽譜等の手配でてんやわんやである。
ましてやリハーサルをやる時間がないのでバーチャルな世界での練習となる。
当日が不安だがそれはそれでいいのかと自問自答の毎日だ。
とにかく、自分や家内を大切にしてくれる仲間には最大の感謝をあらわしたい。
声の出るうち、指や腕が動きギターが弾けるうち、頭の回転ができて「駄洒落」が連発できるうち
酒が美味く飲めるうちにいろいろやっておきたいと思うこの頃だ。

昨日は近隣にお住まいの音楽好きな方がお2人来宅した。
聞けば年齢も近く私と同じように定年で退職した、或いは還暦を迎えた方である。
しかし、話が進むうちに音楽への情熱は半端なものではない事が判ってくる。
皆さん色々なところで夢を実現しており都内のライブハウスや近郊のイベントにも積極的に参加されている。
各自で人的なネットワークを持っており、中には昔活躍されたプロのミュージシャンもいた。

しかし、継続するにはヒューマン分野の問題がクリアーされていなければならない事も話にでた。
自分も会社で興したバンドが今年で満40年を迎えたが全くその通りである。
プロであれば技量重視の動きもある程度仕方ないかもしれないがアマの我々はそれでは長続きしない。
かといってあんまり技量の格差がありすぎるとこれまた継続は困難だ。
ましてや会社の人間で構成されているので仕事は最優先の事情である。
運営に苦労するが色々な手を使って続けることこそ最優先課題であろう。
そこには自己犠牲がなければ成立しないと思うのは自分だけだろうか。
そこのところのバランスを見極めていくバンドリーダーの人的スキルがものを言うのかもしれない。
自分は仲間に恵まれたと思っている。この仲間には一生敬意をもって付き合い、感謝していきたい。
幸いに後輩が後を継いでくれることになりバンド名やバンドカラーは残りそうだ。
この暮れにこの近隣の方々と共に近くのライブステージをやる羽目になり少々緊張も走る。

一昨日は大船で同じようなシニアバンドを拝見した。
平均年齢74歳というバンドだが取り組み姿勢に日頃忘れかけていたものを思い出した。
とにかく真剣に音楽と向き合っている。
微笑ましいシーンの連続だがかえってそれがいい雰囲気を醸し出している。
音楽的な技術は高いことにこしたことはが 、それだけではなく「各パートを支えあうこと」
「ソロ演奏者の技量を更に引き出すバック演奏」、、、、、いろいろある。
節目を迎えたこの頃、忘れかけていたことを思い出して今後に活かしていきたい。


2012101日 記


---------------------------------2012年  9月---------------------------


虫の声にも秋の気配を少し感じてきたがまだまだ残暑は厳しく、寝不足の毎日だ。
スーツを着用して通勤しなくてもよくなった毎日ではあるが運動不足は否めない。
万歩計の示す数字は以前のような値ではなく、極めて少ない。
これからが長い人生であろうから一喜一憂しないで健康留意への一歩にしたい。

今月から各種のコンサートが本格化する。
楽譜や音源の再点検、リハーサル、案内、機材の確保等次々と課題が出てくる。
出演メンバーや主催者との話には「演奏」への話題が中心になりがちだが
いつもお話しするのはプロデュース課程での色々な話である。
各種交渉や了解の確認、安全面の確保、「音障害」への対応、、、、、、
毎回、いやになるほどやることが多い。
しかし、この部分が一番大事なプロセスであり、表面の華やかさ等とは違い
若い世代には是非マスターしてほしい知識だと思う。
また、周りへの配慮、特に年長者へのそれは極めて大切なものと常々語っている。
演奏を聞きたくても動けない方が沢山いる。
そんな方々にも声をかけてお手伝いすることができないか。色々な方法で実現できる
それを何らかの行動で示す事が一番大切な事ではなかろうか。

最近はそんなめんどうな事をしなくても既設のスタジオに高額を払えばスタッフがいて
何から何まで面倒見てくれるシステムもあるが演奏後の達成感はどうであろうか。
やはり、お金をかけない手作りのコンサートには、その各種プロセスで人材育成の材料が
眠っていると言える。私はこれを通して一緒にやってくれる若者に伝えていきたい。
そして、気配りのできる、感激を体感して生き甲斐を感じてくれる人間になって頂きたい。

そんな思いを持ちながら続けてきたコンサートが今月の15日に「7回目」を迎える。
9/15と言えば昔は「敬老の日」で学校の講堂で集まって頂いたお年寄りの皆さんに歌や踊りを披露したものだ。
近年は祝日法で敬老の日も変動しているが、今回は集まっていただいた近隣の方々には精一杯のトークと
演奏を披露していきたい。2時間半というロングランではあるが毎年満員御礼の状況となる。
今回は皆さんと歌うコーナーをいつもの倍にした。童謡や懐かしい歌謡曲等、いろいろ考えた。
秋のシーズンに相応しい曲を準備しており楽しく、そして昔を思い出してほしい。
今年の始め、ある住民の方から「詩と曲」が持ち込まれた。
今後、各種のイベントにて(特に中高年の)みんなで歌いたいのでCD化して欲しいというものだった。
趣旨が良く理解できたので快諾して家内と一緒に自宅スタジオに籠もり、制作した結果、デモ版が完成した。
依頼者にそれを聞いて頂き正式版の制作に進んだ。今回はコンサート通算200曲目にそれが歌われる。
目を閉じ想像するだけで自然と笑みがこぼれる。
頑張ってやりたい。

「いつまでも〜FOREVER」(作詞:松村直道 作曲:中野綾子)
歌:酒井昭憲、玲子

いつの日か お腹のかたち 変わっても
バレンタインに チョコレート 贈り続けてくれますか
僕には 自信はないけれど あなたの好きなシーフード
磯の香りで満たします

いつの日か 黒髪うすく 変わっても
バースデーに赤いバラ 贈り続けてくれますか
私に自信はないけれど あなたの好きな里の味
薪の臭いで満たします

いつの日か周りの世界 変わっても
結婚記念の あの誓い 思い続けてくれますか
それほど 自信はないけれど 少しくすんだ赤い糸
見つめていたい いつまでも

見つめていたい いつまでも
フォーエバー


201291日 記


----------------------------2012年 8月-----------------------


イギリスのロンドンではオリンピックが開幕となり寝苦しさに加えて睡眠不足の毎日である。
この7月の20日でやっと非常勤から解放されたが最終日の同僚の暖かい心遣いには感謝感謝だ。
いつまでも気がかりではあるが育ってもらうためには一旦離れておくことも必要であろう。
厳しいビジネス環境には違いないがこつこつと実力を積み重ねてほしいと願う。

自宅で過ごす時間が多くなると今までのペースと違い、じっくりとやることができることに気付く。
テーマも沢山と言うよりはせいぜい2つくらいに限定してやるほうがいいようだ。
今までの時間の使い方からスローな時間のそれに慣れるには未だ時間がかかるかも
しれないが、そんな事に気付いた10日間であった。


運動不足を解消するために始めた朝夕の散歩では色々な発見がある。
車や自転車では気がつかない事が多い。
まず、近隣の町内を歩いてみるとモダンで立派な家屋が多い。
車も2台所有なんてのは珍しくもなく、その殆どが有名な外車である。
震災で苦しんでいる方々の事を思えば天国であろうと思いながら毎日歩いている。
そういう自分も不自由なく暮らしていけることに慣れているが
人間の生活水準というものの変化は大きく変わってきたと感じる。
水準を落としたくはないと思うが、無駄や飾り的なものは謹んでいきたい。

先月は恒例の町内会でのお祭りがあり、昨年から依頼された役員として参加し
子供達の御神輿担ぎのお手伝いをした。
我々がこの我孫子という地に31年前移転した時に立ち上げた町内会ということで
なんか因縁を感じる。子供達も成人しているが次男坊は今年も参加してくれた。
子供御輿や山車を家内に付き添われながらねり歩いたと聞く。
自分は単身赴任で大阪、青森、仙台と11年も不在にしていた為に付き添った事はない。
そんな罪滅ぼしもあったのだろう。喜んで引き受けた。

この数年御神輿を担当しているが子供達の動きがおもしろい。
最初の30分は元気に担ぐが段々と声も小さくなり途中休憩から少しづつ担ぎ手が減ってくる。
そんな中で女子の担ぎ手は逞しい。男子はなんだかんだ理由を付けて離れたがるが女子の方は
最後まで頑張ってくれる。付き添いの我々に不要だとも言う。
なんとも逞しい。大人達の間に思わず笑いが出る。
いずれにしても2時間の運行は猛暑との戦いであり、大人も子供も最後のコーナーを廻って
戻った時はなんとも言えない安堵感と疲労感でいっぱいである。
うれしいのは年々参加してくれる子供達が増えてきたことだ。
今後、受験やその他で忙しくなってくるだろうが小さいときのお祭り参加は
忘れられない「1ページ」になろう。

その後はテントの中で町の長老達から過去の話、抱えている問題
今後の市の行政など、酒が入ると夜が更けるのを忘れるまで話が続く。
年に2回のコミニュケーションだが大切にして行きたいと思った。
また、自分が出きることとして「音楽」を通じての「場作り」
も今後は入れて行こうとも思う。
時間は沢山あるのだから。。。。。。。。


201281日 記


-------------------------2012年 7月--------------------


1週間に2度も台風が来るような季節になり西日本を中心に水の被害が伝わってくる。
街の木々は新たな葉を育てこれからの日射しに備えているようだ。
「水」は生活に不可欠な存在だが時として「恐怖」でもある。
自然とのつきあいは長い間色々と語り継がれているがこれと言って正解はなく
破壊と保護の論争だけが目立つ。残す自然と変化させる自然のバランスは時代の変化で
変わろうが結局そのつけは人間社会に廻ってくるような気がする。

子供の頃、6月には「川まつり」といって近所の川にお供えの饅頭を
おいて氾濫をしないように祖母とお参りしたものだ。
川には河童がいて勉強をしなかったり、言うことをきかないと足を引っ張られる。
と言う話を聞きながら。。。。。。。。。。
饅頭の下に敷く葉を山に取りに行くたびに山頂からみる景色には夏を感じ
大声で向こうに見える「八郎岳」に声を張り上げた。
周りには「山桃」の木が多く、帽子いっぱいに詰め込んだ。
甘酸っぱい味は今でも忘れない。

あれから50年、故郷は変わっていった。
陸続きになり、隣の島とは大きな橋が架かり自由に車で行き来できる。
海が荒れた日の船便は大きな波が押し寄せ船も揺れる。
畳の敷かれた客室で船酔いを我慢しながら大波止の桟橋につくのをひたすら待った。
そんな辛い想い出が頭をよぎるが今となってはそんな話すら分る人は少ないだろう。
想い出は想い出として大事にとっておきたい。

今年も半分が過ぎ、ロンドンでのオリンピック話題で盛り上がるだろう。
一方では原発再稼働、政局の話。。。。次々と報道ネタには事欠かない。
国民の生活がどうなっていくのか、どうしようとするのか
凡人の私には彼らの動きが理解できない。
そんな政治家を選んだ我々にも責はあろうが政治の基本とは何かを知らず
小手先の論争ははなはだ迷惑である。
今後の世代を担う若い方々に夢を与える事はできないのかと常々思う毎日だ。

6/30〜7/1、部下の結婚式で久々に長野市へ出向いた。
帰りには「善光寺」へお参りして平和と復興。。。最後にちょっぴり今週末のコンサート
が無事開催できるように夫婦でお願いした。
7/7の七夕という日に結成5周年のライブをもって日頃の感謝を示す。
練習不足は否めないが元気な歌声と笑い声で会場を満たしたい。

ささの葉 サラサラ
  のきばに ゆれる
  お星さま キラキラ
  金銀砂子(すなご)

   五色(ごしき)の たんざく
  わたしが 書いた
  お星さま キラキラ
  空から 見てる

201273日 記


----------------------------2012年  6月-----------------------------

 早くも梅雨の話が出始めているが歳月の経過は年齢を重ねる毎に早まるような気がする。
大震災から1年が経過した中での遅々ではあるが復興が進んできた話や
新潟の朱鷺が着々と育っている話を聞けば何故か頬が緩む。

先日は久々に教壇に立ち新社会人を前に2日間の講座を担当した。
42年前の自分を照らし合わせながら見ると時代の変遷が至る所に出てくる。
中でも女性の活発さは目を見張る。
今回は営業という職種への志をもって挑戦している新人へのレクチャーであったが

我々の時代では考えられなかった事が多々見られ
時代の流れと自分への適度な緊張が心地よかった。

彼らは総じてアイデアも豊富であり話術も上手い。
情報源の豊富さがそうさせるのだろうか、舌を巻くシーンが多い。
しかし、携帯かパソコンがない状況で文章を書かせるとなかなか出来ない。
漢字を書くのにものすごく時間がかかるし誤字も多い。
文章作成環境が違うと言えばそれまでだが面白い現象だ。
何かを参照して資料を作ったり発言する事が当たり前で育ったので
仕方がないと思うが社会人基礎力という面やオリジナリティでは問題を感じた。
是非、訓練の場を卒業して実践する所では顧客との「信頼」をベースにした
実績を出し、社会への貢献と共に後に続く若手を育てて欲しいと願った。
久々の緊張感はとても良い薬になり、若者を見る目が少々変わった様な気がする。

東京タワーに代わって新たにスカイツリーがオープンした。
単に高い電波塔という事ではなく周辺の商業施設や交通機関まで
変えていく様子にはすごいと言う他はない。

港区芝に東京タワーが出来た時、上京する叔母に頼んでお土産として
そのプラスティック製の模型を買ってきて貰ったのを思い出す。
赤と白の骨組みでかっこ良かった。
高校の修学旅行ではその実物の展望台に登ると
すばらしい光景が展開され大騒ぎしたものだった。
一つの時代での役目を終えたがスカイツリーのリカバリー機能として
これからは新たな役目があるらしい。
このような活かし方には大賛成である。
定年を迎えた会社員という表現ではなく、これからの世界を担う新たな
塔のバックヤードとして新境地を切り開く「若手を見守る支え人」として頑張って欲しい。

かくいう自分もそうでありたい。

201263日 記


----------------------------2012年  5月---------------------------


目に青葉、山ホトトギス、初鰹
木々の葉が一斉に広がり、寂しかった野山を賑わせている。
いつのまにか気温が上昇し、少し動くと額が汗ばむ頃になった。
世の中はゴールデンウイークと言う事で、多くの人が海外や国内のどこかに
出かけているようだ。そんな中で痛ましい事故のニュースも流れている。

一方ではこの連休を利用した被災地へのボランティア活動が盛んらしい。
なんでも、今まではガレキの撤去等が主だったが今回は事業回復への支援や
放射能の除染作業などが多いと聞く。
ガレキ処分の受け入れ自治体も次々と名乗りを上げている。
やっと明るい兆しがでてきたようだ。
中でも除染作業をやっている方々のインタビューを聞けば
自分自身が汚染されるのを承知でやっているようだ。
これから長く生きる人々のためにと言う。
なかなか出きることではない。
深く頭を垂れる。

今年もいろいろなイベントが予定されている。
コンサートは演奏そのものよりも機材の調達、運搬、会場設営
出演者の都合やリハーサル時間、譜面の書き換えその他の調整事項が多々ある。
バンドの仲間には良く言って聞かせるが、そのような下働きがあってこそ演奏が活きると。
いつもセッティングされた環境での演奏や出演は、それはそれで楽だが作り上げたという面では違う。
「プロデュース」という言葉があるが、コンサートは、まさに作り出す、生み出すというものでなければつまらない。
演奏の比率は20%以下であろう。そんな裏方の仕事をどれだけ理解して自らが参加できるかがポイントで
私は一緒にやるメンバーのそこを見ている。華やかな反面、実は地味な仕事の数々が待ち受けている。
そんなハードルを越えてこそ、無事終えて皆さんから声をかけて頂いた時のうれしさは何ものにも代え難い。
40年以上もバンド活動を続けているがいつも反省がいっぱいある。
しかし、それをどうやって次に活かしていくかが楽しみでもある。
人生も折り返しを過ぎた頃だ。「楽しみ」を求めて今以上に真剣にやっていきたい。

ベランダに今年もまた「さくらんぼの木」を植えてみた。
なかなか葉がでないのでやきもきしていたが、先月末頃から新芽が出始め、花も咲いた。
今は青い実がついている。今朝のTVでは植物もあんまり可愛がりすぎると育たないという。
あれこれ水やり、肥料やりと世話すればするほど弱いものになるのだそうだ。
確かに人間と同じで「ヤリスギ」は問題であろう。
ここのさじ加減を考えながら見守って行くことが大切なのだろう。
人材育成にも何か通じるものがあり、ふと考えさせられた。

今年、64歳になったのでコンサートではこの曲を披露しようと考えている。
ポールのお父さんが64歳の時に、昔作っていたというこれを引っ張りだしたそうだ。
その彼も6月18日には70歳を迎える。老いてますます元気だ。
なんでもBEATLESのメンバーの息子たちでバンド結成の噂もあり話題はつきない。

WHEN I'M SIXTY-FOUR
BY BEATLES

When I get older losing my hair
Many years from now
Will you still be sending me a Valentine
Birthday greeting, bottle of wine
If I'd been out till quarter to three
Would you lock the door

Will you still need me
Will you still feed me
When I'm sixty-four




201252日 記


---------------------------2012年  4月----------------------------


やっと春らしくなってきた。関東の桜も満開になるようだ。
今年は震災から1年後という事でそわそわしているのか
ビジネスでも会話の最初は桜のことで始まる。
北国ではまだまだ雪が多く残っており桜どころではないが
多くの人々の心の中は春をまつことでいっぱいだろう。
徐々に復興が進んでいるが、これからの暖かい季節、木々の緑、鮮やかな花の色、、、、
自然の移り変わりを眺めながら復興が加速することを心から願いたい。

昨日、家内と「台湾」から帰国した。
今回は次男も就職がなんとか決まり、一段落した事もあり計画した。
結婚して満30年が過ぎた。
振り返ればあっという間の30年ではあったが家内には大変苦労をかけた。
11年に渡る単身赴任生活の間は子供の多感な時であった。
しかし、二人ともそれなりに成長して今や社会人となっている。
父親としては何もできず失格だが、なんとか無事に育ってくれた子供と
それを支えた家内には感謝する。
これからは二人の時間を大切にしておもしろおかしく暮らしていきたい。

台湾での4日間は台湾の歴史を振り返る事ができ大変良かった。
昨日は早速、「蒋介石」についての本を読んでみた。
日本へ留学したこと、孫文との出会い、毛沢東との争い、、、、
改めて「台湾」を見直すいいきっかけとなったことは確かである。

古くから日本とは関係が深い台湾であるが、聞いていたとおりの親日ぶりであった。
また、食事もくせのない「薄味」のせいかとても美味しく頂いた。
第2次世界大戦後のいろいろな出来事があり二つの国に分かれたが、元をただせばおなじである。
昨年の東北大震災への支援ではいち早く行動を起こしたことでもわかるように
古くてながい「友達」である。

お年寄りは皆日本語ができるらしい。
どこか、日本の地方に出かけたような感じで接する事ができた。
羽田から4時間で到着する台湾だが、沖縄のちょっと先という感覚での旅行であった。
中国語はしゃべれないが書いてある文字から推測し、ほとんど理解できる。
そんな隣人がいることを改めて知ったことだけでも大きな収穫であった。

旅行中に日本では春の嵐が吹き荒れたようだが嵐の後の春はこれからである。
新サラリーマンの颯爽とした動きや新入生の輝いた顔が街に溢れるだろう。
この4月末には非常勤も終わり、完全引退する自分に代わって頑張って欲しい。

今年も色々な施設慰問が始まる。春の歌を会場の皆さんと大きな声で歌ってみたい。
来週は16回目を迎える福祉施設のコンサートが待っている。

祖母の歌っていた、叔父たちも口ずさんでいた、母も口にしていたあの曲を
レゲエのリズムに乗せて歌うつもりだがはたしてどうなるか。
そして、今回の台湾旅行の話もしてみたい。


上海の花売り娘  

 曲:上原げんと 詩:川俣栄一 1939

 紅いランタン 仄かにゆれる
    誰のかたみか 可愛いい耳輪 
 じっと見つめりゃ 優しい瞳
 ああ上海の 花売り娘

霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
 繻子も懐かし 黄色の小靴
 ああ上海の 花売り娘

201247日 記

                                                 

--------------------------2012年  3月----------------------------


「春は名のみの風の寒さや」とは良く言ったものだ。
暦の上ではとっくに春を迎えているもののまだまだ真冬の毎日であり
一昨日は雪が舞い散り通勤の足を乱した。
しかし、木々をみれば確実に春が近づいている。
木の芽は新たな蕾の元をつけており、その膨らみがこれからの季節を
迎える準備であることを物語っているようだ。

1週間前に満64歳を迎えた。18歳で上京して46年と言う歳月があっという間に過ぎた。
昨年夏に無事サラリーマンを卒業したものの未だにお手伝いの勤務は継続中だ。
毎日の勤務ではないので時間が過ぎる速度が非常に速い。
しかし、やりたいことが思うようにできるのはありがたい。
今までのような時間のかけ方ではなく、少し丁寧な進め方にしてみようと思う。

休日には今までじっくり聞いてなかったCDを聞きまくっているが
そのよさを再発見する曲が多々ある。そんな時はうれしい気持ちになる。
今年のイベント計画は徐々に増えており、今まで以上になりそうな気配である。
時間もたっぷりあるのでこれもまた丁寧に進めていこうと思う。

昨年11月で結婚30周年を迎え記念のライブを計画していたが大震災で開催を遠慮した。
遠慮と言うよりも各種のイベントが中止や延期になり我々のそれは後回しにしたというのが本音だ。
しかし、あれから1年経とうとしている現在、新たな気持ちで復興を願うイベントにできればと思う。

被災地からの便りは毎日のように新聞&TVで報道されており
その復興はなかなか思うように進まないという話が多いようだ。
法律の問題、技術的な問題、環境の問題、、、、、多々の問題があるが皆が
解決するまで待ってという事でいいのであろうか。

政治の世界はよくわからないが足の引っ張り合いの場が目立つ国会の中継に腹が立ってくる。
双方に折れるべきは折れて、被災地の方々や困っている方々の立場に立っての
提案、討論、決議、実施を願いたい。

今月は次男坊もやっと卒業、4月に就職という事で親として一安心となる。
3月22日の卒業式は日本武道館というので是非足を運んでみようと思う。
単身赴任で11年も家を空けていた罪滅ぼしもあるが家内とは「台湾」へ旅行を計画した。
日本とは大変友好国と聞いており、なんか親しみを覚える。
長崎時代には中華街に同級生がいたがご両親は台湾出身の方が多かった。
そんなこんなで一番身近な感じを感じる国であり楽しんできたい。

32年前に香港への旅行で飛行機から見た「台湾」の地形は良く憶えている。
お隣の中国とも最近は近くなったという動きもあり、過去に拘泥しない動きこそが
今の指導者に求められることではなかろうか。
自らもこのように過去に拘らない人生を送っていこうと思う。
これからの人生と今までの人生の区切りとして選んだこの旅行を夫婦で楽しんできたい。

201232日 記


-------------------------2012年  2月------------------------


先週、北は青森津軽半島、下北半島から西の奈良まで旅行した。
奈良は車に機材を積んでの演奏旅行であったが、少々無理をしたせいか体調が良くない。
やはり昔の体力ではないことをつくづくと思い知った。
東北地方は大雪で除雪の費用が不足しており老人の方々をはじめ、大変な事になっていた。
土建会社、建設会社は大忙しでウハウハの状況だとか。
このような状況なので利益を少々抑えた取り組みはできないものかと思ったものだ。

下北半島では「大間のマグロ」を食べにわざわざ電車にのって行ったが噂に違わず美味であった。
刺身はたったひときれであったが「カマ」の部分も焼いて出してくれた。
大変美味であり、帰りには食した証明書まで頂いたのには笑った。
女将さんに聞くと食べたという証拠がほしい人がおおいということだ。
なんか恥ずかしいようなうれしいような複雑な気持ちで帰路についた。

今回は東北時代の会社の上司達とのツアーであったが、皆童心に帰ったようなハシャギぶりであった。
津軽鉄道での30分の旅ではストーブ列車でするめを焼きながら朝から日本酒をのんだ。
全国から我々と同じような旅人が多く、余ったスルメを振る舞いながらお国の話になる。
外の雪景色と比較しながら暖かくのどかな
時間を過ごした。
時にはこのような企画もいいもんだとつくづく思った。


そんなのどかな週を終え今日は昨年から週末に続いたコンサートの最終日である。
集まったお客さんには元気な声を聞いていただきたい。
最後のコンサートは1年前から選曲、練習し今日を迎えた。
1950年代から1980年代までの幅広いpopsや歌謡曲、フォークなどを織り交ぜたものにした。
2時間半、32曲という長丁場のステージではあるが、皆さんとわいわいやりながらのステージは
時間の経過を忘れさせる。今回で6回目になるが、、、、果たして今日はどうであろうか。
きっと反応もよく、興が乗れば一緒にマイクをもって歌うことだろう。

昨日、節分ということで恒例の「恵方巻きをかぶりつき」「豆まき」をした。
季節の変わり目、春をまつ。東北の方々は我々以上にそれを思って雪と戦っている。
もうすぐ人生の変わり目を迎える自分にとっても「今年の節分」はいつもと違った感慨深い。
時間に縛られない人生がやってくるであろうがしばらくは時間を大事にした人生にしたい。
それには日頃疎遠になっている友人や今住んでいる我孫子の方々との交流は欠かせない。
めんどうと思わずおつきあいをしたり、机の奥にしまってある住所録をながめて
手紙でも書いてみようと思う。

<りんご追分>

りんごの花びらが 風に散ったよな
月夜に 月夜に そっと え〜え〜え〜え〜

津軽娘は泣いたとさ 辛い別れを泣いたとさ
りんごの花びらが 風に散ったよな

201224日 記


----------------------------2012年  1月------------------------


新年明けましておめでとうございます。
新たな年の初めというものは計り知れない力を与えてくれる。
嫌なことも忘れさせてくれる不思議な力をもっているといえるのではなかろうか。
決して振り返りという重要な事を無視しての事ではないが「一年の計は元旦にあり」という諺も
あるように楽しいこと、挑戦したいこと、克服したい事、お願いしたいこと等をあれこれ計画して見ることは
楽しいことであろう。物事の計画段階ほど楽しいことはない。
コンサート、仕事、遊び、購入、、、、夢みたいな事でも計画段階は「タダ」である。
実行に移すときは費用との相談が必要になろうが、それもあれこれ議論の中で知恵を出すときが
これまた楽しいと思う。

そんな中で昨年退社した上司との飲み会でふとでた企画があった。
早速、調査してみるとJR切符が安く手に入る企画ものがあるという。
63歳〜66歳の年代になると映画や鉄道等が割引で見たり乗ったりできる。
そんな中でJRさんの「大人の休日倶楽部」というものを使った「陸奥3人旅」が企画された。
今月の末に昔お世話になった青森方面へ旅行する企画である。
こんな季節に陸奥や下北方面へいく方々はいないだろうが、敢えて雪の津軽方面へ行く。
苦しいことや楽しいことのあった東北時代だった。
そんな昔のメンバーとの再会もある。きっと涙が出るかもしれない。
酒の飲み過ぎが心配だが残された人生を楽しく過ごす一歩として楽しみにしたい。

今年はこれを手始めに海外への旅行や演奏会の企画がいっぱいである。
色々な方に相談したり巻き込んだりして、その楽しい想い出を人生の一ページに加えたい。

201211日 記


--------------------------2011年  12月-----------------------------


いつしか2011年も12月の声を聞く頃となった。
年月の経過は毎日通勤していた頃に比べて一層に早い。
今年はいろいろな出来事があり近年では特に強い印象がある。

なんと言っても3/11の大震災から今日までの間,世の中が揺れ動いている。
原子力の持つ強大な力と影響力には、その真実を知れば知るほど恐怖が広がる。
確かに発電効率を比較すれば水力など目じゃない位のさになるが
安全性とエコ面では水力は我が国の地形やその他からも見直されていいのではなかろうか。

最近では風力、それも海上での風力発電が九州地方で話題なっていたが
自然の恵みである太陽や風、波、地熱等、研究対象は多々あろうかと思う。
学生時代に水力、火力の発変電工学を学んだ我々の時代では原子力はエリートの学問であった。

電気を起こす原理は変わっておらず発電器機をどうやって回転させ電気を起こすかだろう。
今更ながら電気に頼らない生活はできない。
その電気エネルギーについて今こそ見直して行く事で電化製品の設計も変わるのではないか。
いわゆる「待機電力」なるものがあるが、スイッチをいれたらすぐ起動するという人間の我が儘のために
無駄な電力が消費されている。
車だって暖機運転をしてからの発進という事を教習所ではいやと言うほど教わったような気がする。

昔の話をしてはいけないが、真空管時代はスイッチをいれて暖まるまでしばらく待つのが常であり
その間にいろいろなことを考えたものだ。
真空管のヒーターが暖まって熱を帯びてくる、ボリュームを上げると音が飛び出してくる。
なんとも言えない瞬間であった。設計した回路が正常であればそのままであるが変な結線だと
音が出ないばかりか部品が壊れることもある。中学時代にコンデンサーの耐圧という知識がなく
電源回路に低電圧のコンデンサーをつないでしばらくして大音響とともに中のものが顔にかかった事を憶えている。
なんでだろうと首をかしげながら「模型とラジオ」を隅から隅まで読んでいくと電源部のコンデンサーが
なぜか大きいではないか。それも耐圧では350V位になっている。
翌日、放送部顧問の先生に話すと丁寧に説明してくれた。
それ以来、すべてに耐圧という事に気をつけてものづくりに励んだことをおもいだす。

今回の地震による福島第1発電所の破壊は想定外という「耐圧」だったのだろうか
たとえそうであっても今後について丁寧な対応をお願いしたい。
ともすれば「いいわけ」に終始するような、また会社の利益を保護するような事では同じ事を繰り返す。
そして、外圧から守るための立地条件、建築物や容器の設計など課題は山積だろう。
そして、最終の選択は何かの裏付けがあって選択するものだ。
今回の地震と津波の規模を最低にして「耐圧」を見定めるのが国家の優秀な方々の役目と思う。

昨日は、都内の目黒で久々のライブをやったが発熱と悪寒で終了後の打ち上げも途中で帰宅した。
来場者の確保で悩んだが満員御礼となりほっとしている。
会社の近くの飲み屋のママとお孫さん&板前さんがきてくれたのには熱いものを感じた。
うるさい中、最後まで聞いてくれお別れ時には挨拶を頂いた。
こんなにうれしいことはない。思いがけない方々が来場してくれた。
きわめつきは息子と同じ職場の方が打ち上げに同席されていた。
ちょうど私の前の席に座ったのが運命の出会いだったのか、話を進めて
いくうちに、ひょっとすると。。。。。会社は?。。。。。やーしかも同期で同じ職場だとか。
この方はベースマンの大学時代の友人であったが、世の中は狭いと言うことをつくづく感じたものです。

今週から毎週イベントが続く、体調を維持して皆さんに喜んでいただこう!!!
今年は昨年のリクエストよりクリスマスソングの定番である「FELIZ NAVIDAD]に挑戦したい。


Feliz Navidad   Feliz Navidad
Feliz Navidad   Prospero  Ano  y  Felicidad.

Feliz Navidad   Feliz Navidad
Feliz Navidad   Prospero  Ano  y  Felicidad.

I wanna wish you a Merry Christmas 
I wanna wish you a Merry Christmas
I wanna wish you a Merry Christmas 
From the bottom of my heart.

2011124日 記


--------------------------2011年  11月----------------------------

2年前、母の命日に供えた菊の茎があまりに元気そうだったので花が枯れた後
数本に切って水に浸けておいた。しばらくすると根が伸びてきたので鉢植えにして
花が咲くのを見守ってきたが今年は見事に咲いてくれた。

寒い冬やあの酷暑の中を生き抜いてきた「頑張り屋さん」には母の名前から一文字
とって「きくの」と名付けた。今、我が家の仏壇にはその「きくの」が白い花を
賑やかに飾っている。さぞ、天国の父母も喜んでいると思う。

色々な事があった今年も後2ヶ月となったが
被災地の方々はこれから迎える冬への不安で一杯だろう。
しかし、新聞などでは地元が中心になった活発な復興事業の紹介も増えてきた。
やはり自力に勝るものはないであろう。

そして、私も含めた周りの方々もそれを支援して初めて効果がでると考える。
そこに国の支援が加われば加速する。
その、国の支援は果たして進んでいるのだろうか。
はやく進めて欲しいと願うのは私ばかりではない。
全国民、いや地球上の願いであろう。

一昨日は地元の男声合唱団の定期演奏会があり
今回もバック演奏を頼まれたのでやらせてもらった。
ほんとに楽しい合唱団であるといえる。
平均年齢はついに70歳になったというがそのエネルギーは
50歳といっても言い過ぎではない。

自分のジャンルとは違う世界の音楽であるが大変参考になることが多い。

日本人として忘れかけていた「故郷」「恩師」「季節」等の
言葉がでてくると「ハッ」とする。
一昨日は「仰げば尊し」をじっくり聞いた。
目蓋を閉じれば昔の恩師や先輩が浮かんでくる。
「やよわするな」「やよはげめよ」等の言葉がこの年になって初めて胸にしみる。

ひとりで大きくなった、育ったような気になる事もあろうが
そうではなく「わが師」がいてくれたお陰であろう。
「わが師」とは人生における師であり学校の先生だけではない。
その「わが師」に感謝しつつ後輩にも暖かく
時には厳しい育成の目で見ていきたい。
来週で結婚30周年を迎える。この我孫子の地に住んで30年が過ぎた。
子供たちも成人している。自分も長年勤めた会社を退社してぼちぼちやっている。
平和の中にいることを感謝して今後も「やよわするな」「やよ励め」であろう。


仰げば尊し 我が師の恩    教えの庭にも はや幾年
  思えばいと疾し この年月 今こそ別れめ いざさらば

  互いに睦し 日頃の恩   別るる後にも やよ忘るな
  身を立て名をあげ やよ励めよ  今こそ別れめ いざさらば

   朝夕なれにし 学びの窓   蛍のともしび つむ白雪
  忘るるまぞなき ゆく年月    今こそ別れめ いざさらば

原曲は19世紀にアメリカで作られたもので、やはり卒業の歌です。
Song for the Close of School  Words by T. H. Brosnan

We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

20111110日 記


-----------------------------2011年  10月---------------------------
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今年も2/3が過ぎ、いつの間にか朝夕は寒ささえ覚える季節になった。
あの猛暑から見れば過ごしやすい毎日だが被災地のニュースに接する限り
これからやってくる寒さはどんな事になるだろうか。
寒さには慣れているとはいえ仮の間に住む皆さんにとっては
一刻も早い帰宅が何よりの心の暖房ではなかろうか。

秋刀魚の水揚げ、牡蠣の種付け、、、、水産復興のニュースが聞こえるたびに
祈るような気持ちになる。
そんな中で、不要になった「船」を被災地の方々へプレゼントするという番組をみて涙腺が緩んだ。
どんなに小さくても「船」さえあればなんとかなるという話が色々な方々からでていた。
そのような動きに全国から寄せられたのか、提供を申し出る方々が続々と出てきた。
中には年を取ったので引退するいい機会だというご老人もいた。
少々古くなったが未だ使えるという船もある。

自分が育った町(香焼)には「船大工さん」があちこちにいた。
学校から帰るとその船大工さんの作業現場に行って、ずっと作業を見ていた。
そのうちにはぎれの木片でおもちゃの船を作ってくれた。
また、工具の補修する様子もはっきりと記憶に残っている。
鋸の刃こぼれを鑢で削っていく。刃こぼれしたカンナの刃を砥石で磨く。
磨き具合を確認するのは親指の腹だ。
現在のように電動工具ではなく全て手作業だ。
仕上げていく様子は見事というほかに言葉がない。

時々タバコ時間にお話をしてくれる。
「昭ちゃん!大きくなったら何になるとね?」「大工さん!」
と大声で言ったらにっこり笑って「そうね、よか船ば作ってくれんね」と言われた。
この記憶は昨日のように憶えている。
新造船の進水式はお菓子がもらえたりするので見逃せなかった。
大人の人が数人で抱え上げて湾の浜辺にそっと置く。
お酒が船に掛けられ万歳と拍手だ。
湾を一周すると新しい櫓はギーコ、ギーコと軋むので少し塩水をかけてやる。
木の匂いとペンキの匂い、板の継ぎ目に施されたパテの匂いが混じってなんともいえない。
波に揺れる小舟は幾度も湾を回ってその勇姿を見せ、進水式を終えた。

今の自分が木工好きになった背景には幼年時代のそんな思い出がある。
その後、電気に出会い、残念ながら造船技師にはなれなかったが
「道具を「大切にする心」はこの時に芽生えたものだろう。

漁業関係者にとって「船」は命でもあろう。
放置して朽ち果てるならば誰かのお役にたってほしいと思う親心だろう。
自分の愛用した「船」が海上、陸上とそれぞれの方法で旅たつその時、親の目から流れる涙は
別れる寂しさより、これからお役に立って欲しいと願う心からの涙であろう。
受け取りにきた被災地の代表の方も涙している。
新たに命を頂く側と、末永く愛用くださいと思う送り側の堅い握手が何回も何回も続く。。。。
思わず落涙してしまった。

年末に向かって色々な施設からの慰問の要請が多くなった。
皆さんの楽しそうな笑顔は何よりの励みだ。
今年も精一杯頑張って演奏しようと思う。

2011104日 記


--------------------------2011年  9月----------------------


大型の台風が四国・中国地方へ上陸と言うことでいよいよ秋が来たような
感じになったがまだまだ寝苦しい日が続く。

先週は家内と二人で軽井沢へ遅めの避暑へ行ってきた。
夏休みも終わり人出は少なくなっていたが相変わらず旧軽井沢の街は若い女性が多い。
車での移動なのでどこへでもいける。今回は色々な所へ足を延ばしてみたが赤松の並木や
白樺林、その中に建つ別荘地帯。。。。。世の中にはお金持ちが多いんだなと感心する。
静かな森林地帯と時折きこえる鳥の鳴き声が軽井沢らしく久々のいい空気を吸った。

非常勤での通勤も一ヶ月経過してだんだん時間の送り方にも慣れてきたようだが
1週間のすぎるのが非常に早く感じる。
同期の連中が次々にリタイア挨拶状を送ってくれる。
時代の流れがより現実的になってきたこの頃である。
団塊の世代と言われて久しいがまだまだ役に立つことはあるかと思う。
だてに42年もやってきてはいないという思いもあり、団塊も「段階」的に進みこれからだろう。

昨日は2年ぶりの介護施設慰問を実施した。
その中の会話で自分のリタイア報告をすると「ごくろうさんでした」と大きな声を
出してくれた方がいて「じ〜ん」とくる瞬間があった。
また、「未だ若いよ」という声もあり励ましに訪問したのに励まされたようだ。
それにしても今回の会場は久々の慰問であったが皆さん大変喜んでくれた。
次回の予約までいただき、意欲が湧いてきたのは私だけではないだろう。

ステージの中、昨年夫婦で訪問した「沖縄」の話しを中心に行い、折角なので
バスガイドさんに教わった「沖縄民謡の踊り方」を会場の方々と行い
有名な曲である「ハイサイおじさん」で盛り上がった。
その後、戦争の傷跡と悲惨な話などを紹介して「さとうきび畑」を皆さんと合唱し
「星降る街角」のアップテンポて幕を閉じた。

今回は2年ぶりであり少々私のしゃべりも長かったせいかあっという間の1時間であった。
考え抜いて選曲をし、稽古をし、手弁当で皆さんに喜んで頂く。
終了後、皆さんからいただいた「冷たい梨」のご馳走は格別な味であった。


 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった
夏の陽ざしの中で

201194日 記


---------------------------2011年  8月----------------------------


夏の風物詩といえば何をうかべるだろうか。
やはり井戸につけて冷やした「スイカ」や「かき氷」あたりだろう。
中学まで過ごした長崎の島でも「氷」はふんだんにあった。
まだ尺貫法も通用していた時代だったので店先では「一貫目」というと
藁の縄で結んだ氷塊を売ってくれたものだ。

また、お盆の季節には「ペーロン競争」があり、大人達に混じって子どもの競争大会も開催された。
沖へ出て、櫂の使い方を教えてもらったり、泳ぎの下手なやつはわざと船から突き落とされて
自力で泳ぎ船まで戻ってくるという訓練もあった。
なんせ島の沖なので必死に泳がないと、沖へ沖へと流されるし「鱶に食われる」という恐怖もあった。
そんな毎日を繰り返すと自然泳ぎにも自信がついてくるのだった。
また、ペーロンには音がある。つまり、太鼓と銅鑼の叩き手が乗っており、その名のように漕ぎ手を鼓舞する。
独特のリズムがあり、それにあわせた漕ぎ方が暗黙のうちに決められた。
また、入ってくる海水を柄杓で掻き出す「あかくり」という役割もなかなか難しいものだった。
それと、「舵取り」である。やはり船の方向を決める重要な役割であり、ターンする時の技術は
なかなか難しく、誰でもできるというものではなかった。

私は体が比較的大きい方だったので1番櫂、2番櫂といって
舳先の位置で進行方向に横向きに座り、長い櫂で
かっこよく海水を空中に放り投げたりした事を昨日のように思い出す。

今日は長崎の原爆記念日ということで年月の経過を今更のように感じる。
母も被爆者の一員であるが原爆が投下された日は祖母が「広島で新型爆弾を落とされたので
次は小倉か長崎だろう。今日は会社に行くな!」ということで
出勤の為港の桟橋まで行った母を引き戻しにいったらしい。
情報の出どこは祖父のようだ。
祖父は村の相撲大会に酔った勢いで出場し、背骨を土俵の柱で強打し
下半身が動かなくなり寝たきりだった。
それで、ラジオをよく聴いており、戦争の動きやその他情報通であったと聞く。
その祖父が祖母に言って帰宅させたというが、母は翌日に被災した会社の同僚を
救助するために被爆した地域に入り自らも被爆した。
父が中国に抑留されており、幸いに私は未だこの世には存在していなかったが
人の運命とはほんとに判らないものだ。
そんな原爆被爆者の母も10月で亡くなって8年になる。
あの世からどんな思いでみているか聞いてみたい。

東北地方を襲った津波とそれによる破壊をうけた原発の被害が日々報道されており
今更ながら原子力の恐ろしさが否応なく目に入ってくる。
この3月までは発電コストが最も安いという触れ込みであったが、一度事故を起こし
正常に戻すまでには長い年月と莫大な費用がかかり総コストからみれば
一番高く危険な分野ではなかろうか。
確かに水力等は発電量からすれば一台では少ないものだが日本の自然環境等を考えるに
再考してもいいのではなかろうか。
熊本地方のニュースだったと記憶するが、小規模の河川、そこら辺に流れている小川にでも
発電所が設置され、あちこちで地域の電力供給に寄与しているらしい。
もっともっとそのような事例を紹介してお互いに技術情報交換の中、電気の有り難みを共有
してはどうかと思うのは私だけか。

7月20日に予定どおり42年のサラリーマン生活に別れを告げた。
多くの方々から送別会をしていただき、感謝感謝でいっぱいだ。
その後も週3日という形の非常勤形態でお手伝いを続けているが
生活のリズムが未だ掴めない。
待ちかまえている会社のメンバーと熱い議論を交わす自分に少しブレーキを掛けたいが
なかなかできない。
でも、熱い情熱だけはこの暑さに負けないで伝えて行きたい。

201189日 記


----------------------------2011年  7月---------------------------


窓辺に植えた「苦瓜」の蔓が日に日に延びていく。
しっかりと網に巻きついており、その力は驚くほどだ。
何でも「摘芯」ということで先に出た枝を摘み取り
新たな子や孫の枝を出すことで実のなりを良くするらしい。
今朝は黄色い花がいくつも咲いていた。
何れは受粉してあのゴーヤになるのだろうか。

これもまた実がなると最初の何個かは取らないと
そこに養分が行ってしまい他の実に影響するらしい。
植物の世界も色々な知識がいるのだと言う事を今更ながら知った。

全体の成果を上げるためにはどこかを切り捨て、後に育つもののために備えねばならない。
そして、全体を良くしていくことが大切である。
これは、人間の社会と変わらない。

さて、42年のサラリーマン生活も後僅かで終えようとしている。
先日、6・25のライブのステージで「引退」発表をした。
メンバーやお客様の驚きとため息は今でも耳に焼き付いている。
そんな事もあり、ステージは従来になく燃えたものであった。
お客様の感想もうれしいものやありがたいものが多く、やってよかったと思う。
打ち上げの席ではバンド引退は否定され「継続」を決定された。
メンバーの思いやりに深く感謝する。

これからは色々な引継ぎや送別会の嵐になるが一緒に戦ってきた仲間やお世話になった
恩人の方々には精一杯の感謝を示して終えたい。
中でも時間外に自主的な参加ということで3年間続けた「夜ゼミ」の手製マニアルや講座資料等は
きちんと後世に伝え、参考としていただくように整理して残したい。

ITの発達した今日であるが、ビジネスの世界ではその技術を活かす「ヒューマン系スキル」
がなければ稼ぐことができない「口だけのエンジニア」になってしまう。
お客様、周りの方々、各種ステークホルダー等、配慮する対象は多い。
コミニュケーションを良くし人を束ねて目標へむかう。そして、思ったような結果や成果をあげる。
それが成功体験となって更なるステップが上がる。

工場の中で黙々と製造する技術者と違い、業務系コンピュータのエンジニアは泥臭い分野であろう。
また、一方ではパソコンの普及&発達で「文書作成」という事が不得手の若者が多い。
漢字が書けず最初の文章を書くのに何十分もかかるという現象が見受けられる。

昨今の通信事情や機器を見るに、いつでもどこでも即できる環境だが、なかなか肝心の報告は遅い。
悪い話ほど早く知らせろという事ができないのは何故か?
やはり、「躾」が出来ていないからであろう。
この部分は一朝一夕に出来るものはないので折に付け言い続けることしかない。

しかし、そんな気苦労もあと数日で無くなる。
恐らく、去って行った後に皆が気づいてくれるであろう事を切に祈るばかりだ。

これからのことは何も決めていないが、新たな人生ということで何事にも挑戦していこうと思う。
そして、70歳になった時、毎日が充実しているカレンダーにしたい。


201173日 記


---------------------------2011年  6月------------------------------


いつもより早い入梅というこの頃、震災からの立ち直りは予想に比べて時間がかかっているようだ。
そんな折に政府はといえば政権の争いごとを第一に しており全く情けない。
自分とひとつ違いの首相であるが、同世代として今まではとにかく頑張ってもらいたい気持ちもあったが
昨日から何か気持ちが失せてきた。しかし、今このときはだれがなんと言おうと最後まで旗振って欲しい。

いきなり政治の話になってしまったが言わずにはいられない気持ちの高ぶりだろう。
これから暑い夏を迎え、衛生的にも厳しい季節となる。
確かに雪の降る頃に比べればまだいいと思うかもしれないが違うような気がする。
早く生活基盤の目処をつけてどの位で普通の生活に戻るのかの青写真が被災地の方々には
見せる事が偉い方々のやるべき事ではなかろうか。
T電力の方々もしかりである。今までの高収益は誰から頂いたものか深く考えれば直ぐわかる話であろう。
いまこそ顧客への恩返しをその明晰な頭脳でひねり出して欲しい。

話は会社のことになるが、やはりこの厳しい時節を乗り切るために関係販売会社の統合が発表された。
規模を大きくすれば収益が増すかどうかは疑問だが、少なくても色々なメリットがあることを検証しての事であろう。
我々は去って行き、新たな世代へと引き継いでいく頃となり寂しい中に新たな希望が湧き出る。
自分もこのいい潮時の頃に去ることが、何か人生の節目であると感じてならない。
これからは陰ながら色々なことで見守って行きたい。

今月は特別な演奏会を都内のライブハウスで開催する事になった。
震災にて延期したイベントもなかなか開催時期が決まらない事もあり、急遽身内だけの開催となった。
ステージも45分といつもより少々長い。曲間にはゆっくり話を交えてできる。

最後は「陽だまりの中で」という曲で会場の皆さんと共に被災地の方々へ歌声を届けたい。
元歌はスティービーワンダーの「A PLACE IN THE SUN」だが日本語で歌う予定だ。

ほこりだらけの 汚れた道を 走って いても
きしむ地球に 暮らしていても いつか きっと

走りだして 太陽の炎(ひ)が あたり続ける場所へと
夢を追いかけ この終わりのない 旅を続ける

走りだして 太陽の炎(ひ)が あたり続ける場所へと
こびり ついた 泥のシューズを 蹴ってたどりつきたい

201164日 記


-----------------------------2011年  5月-----------------------


未だに余震が続く中ではあるが、少しづつ以前の生活リズムに戻りつつある。
しかし、いまいち素直な気持ちになれないのはなぜだろう。
やはり、今こうしている中でも被災地の方では色々な課題と戦っていることを思えば自分だけが
普通に戻ることの申し訳なさや後ろめたさがそうせるのだろうか。

桜の花がいつの間にか咲いたとおもったら、いつの間にか散っていた。
花を愛でる気持ちにも素直になれない自分があった。
4年前まではウナギ屋さんの前に咲く桜の写真を送り続けてきた友人が突然亡くなってしまい
季節の変わり目にも少し鈍感になっていたが今年からはまた以前の気持ちにしようと思う。

生まれ故郷から懐かしい写真を送って頂いた。
偶然、このホームページに故郷の町の名前(香焼町)を掲載したことからの縁で知り合った方からだ。
インターネットの威力に驚愕し、一方では大変ありがたく思い、感謝している。
元々島だった我が故郷も陸続きになり、車で行けるようになっている。
母の1周忌で東京の仲間と共に帰省したおりに車で行ってみたのが一番記憶に新しい所だが
その隣にある島とも橋ができて車での往来ができるようになったとの知らせをもらった。
時の流れを感じると共に、遙か昔の遠足を思い出す。

毎年、4月21日はその町で弘法大師のお祭りがある。
今年の開催風景も写真と一緒に送付して頂いた。
子どもの頃、賑わう出店に心をわくわくさせながら出かけた事を昨日のように思い出す。
写真で見ると昔よりかなり規模が小さくなった感があるが、お寺への石段があんなに
狭かったのかと思わず笑ってしまった。
子どもの頃はあの石段で遊んだものだった。
両脇の店や友人宅が次々と思い出される。
パン屋さん、精米所、郵便局、たばこ屋さん、床屋さん、そしてラジオ体操をした運動場
港の桟橋近くには時計屋さん、酒屋さん、薬屋さん、写真屋さん、貸本屋さん、映画館。。。。。。。。
どなたが経営されていたか全て覚えている。
震災の痛手やいらだつ心を遠き故郷からの暖かい便りで癒されました。

昨年末に植えたベランダの梅の木に一つだけ実がなった。
たくさんの花が咲いたが実は一つであった。でもうれしい。
愛情を持って見守ることで新たな根を広げてくれるだろう。
今年は一つでも来年は梅だけにバイ(梅)にしようと思うが
上手くいく自信はない。

震災でバンドの活動も少々押さえ気味であったが
今月から少々うるさめの曲に換えてみる。
35年位前の時代に遡って「元気」を前面に出して演奏してみたい。
そして、この声と気持ちを東北の方々に届けたい。

sweet maxine (doobie brothers.)
take me in your arms (doobie brothers.)
little by little (Jr. wells)
please accept my love (gregg allman)

201152日 記


------------------------------2011年  4月---------------------------

311日午後2時46
会社で打ち合わせ中であったが今までとは違う揺れが突然襲ってきた。
非常に長い時間に感じられた。中庭の木々や電線が大きく曲がり揺れている。
ただ事では無いことがすぐに察知できた。
それからというものは新聞テレビの報道のように帰宅難民となり
会社に居残りながら安否確認や色々な対応に追われた。
幸いに自分と家族には大きな被害はでなかったものの社員とその家族
友人等には今だに不自由な生活を強いられている方々が沢山いる。
心から一刻も早い回復をお祈りする。

今から16年前に阪神大震災を経験しているが今回は地震だけではなく「津波」
というダブルパンチが大きく
影響して被害を拡大させたようだ。
それに加えて原子力発電所の事故はその後も生活に大きく影響しており
放射能と停電の恐怖に怯える毎日である。
そんな中、色々な教訓を見つける事ができた。
日頃から災害には備えたつもりでも、いざなってしまうと手際の良い対応は来ないものである。
やはり、手順や資産保全の文書化とその訓練・実践が一番確実な方法であろう。
それと、もう一つの発見は電気という資源の大切さについてである。
頭では判っていてもついつい気にしないで使っていたが
今回のように計画停電のような事になると一人一人が節電という事に敏感でなければ
ならないし、何かの節電行為を実施しなければならない。
中でも微電力ではあるが待機電力の事は見逃せないであろう。
現在の電化製品が殆ど待機時になにがしかの動作をしている。
その為の電力は僅かではあるが製品の数もかなり多く、積算すると見逃せない電力になろう。
ACアダプターもその一つではなかろうか、地震以来、スイッチを付けて
使用後はそれを
切るようにしている。
停電という事は生活が出来なくなる事もであり
通常の生活を今更ながら有り難く思うのである。

南三陸町では大切な「戸籍」が流されてしまった。
役場で電子化されたデータはセオリー通り、場所を変えて
仙台法務局気仙沼支局に格納されたがそれも流されてしまったそうだ。
今回のような広域での大災害はこのようなセオリーをも無視した結果を生んでいる。
被災地の方々は今、瓦礫を整理して少しでも早く再起をということで
残された資料や証書を探している。
特別な扱いが色々報道されているが早く実施して頂くことを切に願うものである。

本来ならば桜の花が北上して世の中は楽しいムードに
包まれるシーズンであろうが全てが自粛ムードでありそのような気分になれない。
しかし、いつまでも何もしないのではなく
「自分の本来のやるべき事」を確実にやることで復興への貢献にしたい。

3月19日に計画していたグループ音楽祭は残念ながら延期した。
音楽活動の再開を昨日から行った。
久々の音だしであったがバンドのメンバーの気持ちが伝わってきた40分であった。
音楽祭を6月4日とし再出発に向かいたい。
そして、我々の歌声や演奏を東北の方々に届けたい。


201142日 記

-----------------------------2011年  3月------------------------

暖かい日が続いたと思ったら急に寒い日が来たりと、春は足踏みしているのか
なかなかやってこない。ベランダの梅が満開となり白い花びらがなんとも美しい。
一昨日は東北・仙台に出張していた。地方紙の一面にも例の携帯による大学入試の
カンニングの件が大きく掲載されており、その犯人が仙台の予備校生ではないかという
事であった。仙台駅へ向かう道沿いに大手の予備校が並んでいるが、それを見ながら
新幹線に飛び乗った。その数時間後に帰社すると犯人逮捕という情報が流れていた。

思えば大学の4年間はあっというまに過ぎ、それからの会社勤め、定年までの期間は長く
肝心の大学で学んだ事が活かされるなんてほんの一部であったような気がする。
自分の過去を振り返ればそうであった。


受験に失敗して浪人覚悟であったが母からは入れるところに入って
ちゃんと勉強して卒業せよと強く言われた事を思い出す。

高校時代は全く勉強をせず、ひたすらギターに打ち込んでいた。
幸いにひっかかった大学では絶対留年しないという覚悟でバンド活動をしたものだった。

楽屋の隅っこにギターケースをおいて、その上で電気実験のレポートを書いていた。
共演する相手のバンドからは変な目で見られていたのだろうが気にしないでやった。
今ではイイ思いでの一つである。

そして、多くの仲間と数々の経験を得たことが今の自分にとっての一番の宝である。

先月末、63歳を迎えた。サラリーマン生活もこの3月末で満41年となる。
3年もてばいいと思って入社したつもりが41年も続いてきた。

音楽も続け、家庭も持ち、色々な友人と知り合い、全国を飛び回る、今では面白い毎日である。
携帯を使ってカンニングまでして希望の大学へ入る事はその後の人生でどうだろうか。

まだまだ学歴偏重の傾向はあろうが、実社会はそんなに甘くない。
見られるのは肩書きが仕事をする訳ではなく、本人の活動結果そのものである。

我が社は新人紹介のページでも出身学校を出さないし彼らもそれを敢えて出さない。
社会に入ってからの実力をつけるには出身校は無用なのかもしれない。

持っている知識を活動に活かせなかったら「宝の持ち腐れ」としかみられない。
確かに学生時代にシステムやプログラムの開発経験があることは有利ではあるが
それが最後までそうかというとそれは違い、逆に悪影響を及ぼすこともある。

コンピュータビジネスの世界ではITスキルの他にヒューマンスキル分野のスキルが求められる。
むしろ、IT分野よりもその比重は高いかもしれない。
コンピュータを運用するのは人間であり、その利用レベルや理解度等を考慮して
業務を分析し構築、指導しなければならない。
また、誤解を生まないように顧客のセクション間にて調整を行う。
このような折衝や説得等のポリティカルスキルは学校で学んだだけでは

到底身に付かないものであり、本人の真摯な態度と共に実社会の中で培われるものだ。
極めて泥臭い部分を丁寧に実施すれば結果は自ずといいものになり顧客との絆も生まれる。
高邁な知識だけでは身に付かない分野であろう。
カンニングをした予備校生もこれからの人生が長いのだから深く反省し実直に生きることを願う。


今月は3/19に関係会社の音楽仲間と共に開催する音楽会が予定されている。
今、その準備の真っ最中である。多くの方々にきていただくための工夫や演出に
ワイワイガヤガヤが何とも青春である。

今日は3年前に急逝した友人の命日だ。彼も雲の上から応援してくれるだろう。
気持ちを込めて歌う。。。。。

WHAT'S GOING ON?
ME AND MRS. JONES


201135日 記


---------------------------2011年  2月------------------------------

北国では大雪、南国では火山の爆発、鳥インフルエンザということで
自然の猛威の前に何もできず、ただただうろたえる毎日です。
被害に遭われた現地の方々の心労はいかばかりか、ほんとに早い時期の
安心した生活と落着きが来ますように心からお祈りします。

青森の知り合いからメールがきたが毎日の雪下ろしで身体が締まったとのこと。
朝の5時起きで出勤前に多くの汗を落とすために近くの町営温泉に行くそうだ。
身体は締まるかもしれないが、長く続けば身体も辛くなりどこか痛んでくるかもしれない。

八戸に1年、仙台に5年いたが、それほど雪には振りまわされた記憶がない。
北陸や山陰地方も大きな被害がでている。
早く暖かい春が来て雪が融け、流れて欲しいと願うのは私だけではないだろう。
2011年も既に1ヶ月が経過して今月25日には私も63歳を迎える。
未だ会社勤めをしているがそろそろ納め時であろう。いい形で後に繋いで終えたい。
バレンタインを迎えるこの時期の楽しみは自宅近くにある大型マンションの
集会場で開催されるほのぼのとしたコンサートである。
会場の皆さんと一緒に歌ったり、飛び入りで演奏に参加したりといった型破りのものだ。
お酒も回りはじめると緊張が解けてだんだん大きな声になり曲間の掛け声が嬉しい。

今年で5回目となり毎年盛り上がりが激しく、会場参加の2時間半の連続したステージは
エネルギー消耗が激しいが終わった後の皆さんの笑顔と
来年へのリクエストは新たなエネルギーを生む。

5回目記念として、青森で雪かきに精を出しているリンゴ園の彼からおいしい
津軽のリンゴを送ってもらい、それをプレゼントすることにした。
5(ご)回目に因み、近隣の方々の隣(りん)をつけて「隣5(リンゴ)」だ。
当然だが機材を自宅へ運び込み、片づけを終えた後の打ち上げBEERは格別な味である。
最近は練習でもあまり汗をかかなくなったせいか
喉が乾くことが少ない。
やはりどこか手を抜いているのだろうか反省しきりである。

参加された住民の方々との交流は年々拡がっており色々な相談を受ける事もある。
音楽が架け橋となっての交流力は見逃せない。

来月19日には昨年延期になったグループ会社の音楽祭が開催ということで
そちらの練習も山場になってきた。
今年はトップバッターということで少々緊張するが楽しくやりたい。
自社のホールで開催するということで自前のPA&MIXERをやるが、これがなかなか大変だ。
今回は前日からの仕込みができるので今までよりましだが何回やっても満足できない。
今回は「新PA班」を結成しており若い仲間とばっちり決めたい。


仕事と趣味の両立なんて口では簡単にいうが、なかなかバランス良く行くことはない。
どうしても仕事優先でありいろいろな機会を逃してしまう。
しかし、最近はインターネットの普及と
IT技術の発達でモバイルでの練習もできるようだ。
お互いの顔を見ながらの
稽古風景からディスプレイとマイク&ヘッドホーンなんて悲しい話だ。

終わったあとの一杯もなく静かにパソコンのスイッチを切る。
。。。。。。。。もっと血の通ったものがなけりゃ「バンド活動」ではなかろう。

オヤジバンドという言葉には少々抵抗があるが、昔、手に入れる事ができなかった高級な
楽器が手に入れやすい年代になり、その夢を実現している執念パワーは素晴らしい。

鍋でダシが出た残り汁での「おじや」と同じだ。いい味がでてると言えよう。
これからも渋くいい味をだす「究極のオジヤバンド」を目指すつもりである。

201126日 記


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---------------2011年  1月------------------------------


新たな年がやってきた。
昔は帰省することでバタバタしていたがここ数年は静かに迎える事が多くなった。
故郷の長崎は珍しく雪が積もっているようだ。実家の付近は坂が多く、年始の自動車は
たいへんだろうなという思いが浮かんだ。でも、東北と違ってすぐ溶けて流れるのだろう。

子供の時は屋根の雪をリアカーに載せたダンボール箱にかき集めて坂道に敷き詰め
自分たちで作った孟宗竹のスキーで遊んだものだった。
日差しが強くなると溶けて流れてしまいがっかりした。
教科書で知っている新潟地方の雪景色が憧れでもあった。
社会人となって長岡を担当してその憧れが無くなった。
毎日雪と闘っている方々の苦労は九州人のロマンとは違った厳しいものであった。
福島県の会津地方は年末に大雪となり自動車が立ち往生したというニュースが
流れたが、雪国の方々はこれから5月まで闘いが始まっており大変であろう。

今年は結婚して30年を迎えることもあり秋には個人的なイベントをやる予定だ。
全国の友人が集まってくれるのでワイワイ、ガヤガヤやってみたい。
結局、何かにつけて口実を設け、皆と酒を飲むのだが、これがまた新たな意欲を生む。
昨年、40年ぶりに再会した友人もコンサートには駆けつけるという。
是非、ステージにひっぱってあげたい。

同期入社のメンバーも少しづつリタイアしていく。
また、年末には黒縁の葉書が届き、既にこの世に居ないというお知らせが増えてきた。
病気であったことも知らず驚くが、もう会えないのかと思うとそれがとても寂しい。
自分もそうならないように、残された日々を元気に充実して生きたい。

最近、部下への小言などの注意が多くなってきたように思う。
年寄りの特徴かもしれないがあまりにも周りへの配慮を欠いた行動には我慢ができない。
やはり良いことはいい、悪いことは悪いという風土を醸成していかねばならない。
自分への役目も技術的な事だけではなく、そんな「躾(しつけ)役」もあるのだろうと
言い聞かせつつ指導している。そんな中で行動を改め、成果をあげくる若者も多く嬉しい限りだ。
ベテランの持っている色々な事を次世代の方々に伝え、役に立てて頂ければ
こんな幸せなことはないと思う。
2011年は2重(20)に11年(いいとし)にしていこうと神社のお参りでお願いした。

201111日 記


----------------------------2010年  12月---------------------------

ついに2010年も最終の月を迎えた。
日に日に寒さも本格化しており街路の落葉に冬の到来を感じる。

先月末に家内と秋田から男鹿半島、弘前、青森、五所川原、八戸を鉄道で回ってきた。
北東北は出向で6年間居たところでもあり思いでの地という事で訪ねた。

昔の同僚の歓迎に感謝しつつ、お礼として夫婦でのミニコンサートを行った。
12月4日には38年間かかった新幹線が新青森まで開通するという事であり
地元の方々も開通後の経済効果やその他の活性化に期待が大きい。
是非、それらに役立てて頂きたいと願う。

今年は春先に沖縄、晩秋は青森方面であり、日本の南と北に分かれた。
男鹿半島では「なまはげ」の実演や「太鼓」演奏会等を見たが、共に若い方々が
郷土を活性化しようということで熱心なPRをしておりその姿勢に何故か心を打たれた。

太宰治の故郷である「五所川原・金木」での津軽三味線でも同じように津軽弁で
郷土や歴史等のPRを必死に行ってくれた。お別れの時間には「また来て下さい」と
手を握りしめる。久々に晴れやかな心で夜のお酒が進んだのは言うまでもない。

15年前に住んだ八戸のマンションを訪れたが今では名前も外壁の塗装も変わっており、
少々寂しい思いで帰路についたが次男坊が夏休みの自由研究でお世話になった

「合歓木」は今でも悠々とそびえ立っており頬がゆるんだ。

12月は色々な施設や団体から声がかかっており毎週のように演奏会が計画されている。

今年の前半はインフルエンザの事もあり訪問を控えていたがやはり皆さんの元気な笑顔や
喜んでくれる顔はなによりの「栄養剤」となる。
このような機会を与えて頂いたことに感謝しながら2011年を迎えたい。


もういくつ寝ると お正月
お正月には凧あげて
独楽を回して遊びましょう
早く来い来い お正月

もういくつ寝ると お正月
お正月には毬ついて
追羽根ついて遊びましょう
早く来い来い お正月

  2010125日 記



--------------------------2010年  11月-----------------------------


季節外れの台風や大雨が来るかと思えば街の並木はいつのまにか
葉がすっかり彩りも鮮やかになっている。
異常気象の影響は植物のみならず、海でも起こっているようだ。
自然の脅威というか恐ろしさは世界中で起こっている。
また、これから冬を迎える動物の中にも今までにない動きが出ており
中でも熊の被害は日に日に増えているようだ。
熊にとっては今まで当たり前に食べていたどんぐり等が木の伐採
土地の開発で無くなっており迷惑な話であろう。
自然とのバランスが崩れてきた昨今ではあるが
森林のもつ重要性は今更どうこう言わずとも判っている話ではなかろうか。

今年は海外への旅行を控えて国内にした。
2月は沖縄であったが今月は秋田、青森方面へ家内と計画している。
今から14年前に赴任した八戸の宿舎にも行ってみようと考えている。
出向先でお世話になった仲間もみんな偉くなっているようで少々緊張するが再会を共に喜びたい。
10年前に青森県立弘前高校の90回卒業生の同窓会ソング制作を頼まれ
急遽作詞、作曲したのを思い出す。
あれから10年経ったが、その後歌い継がれていれば嬉しい限りだ。
青森も12月から待望の新幹線が通る。
世の中が変わる前にちゃんと記憶に残しておきたいと思う。
また、今後はなかなか行けないので「津軽」「南部」の言葉にも直接触れ
しっかり記憶しておこうと思う。

年末に向けて色々な施設やグループからの出演依頼がきている。
メンバー編成、機材の選定、運送手配、練習日程、曲目選定、
、、、という計画段階が一番楽しい。
皆さんからは演奏が一番大変でしょうと言うが
私は演奏などよりも、この段取りを一番重要にしている。
杜撰な計画であれば結果は見えているものだ。
自分では綿密な計画を立てたつもりでも本番では何か抜けたり
ミスしたリする。何年、何回やっても完璧なステージなどないものだ。
作業内容を分解して単位の作業レベルに落とし
いつまでにということで詰めていくが、そこには標準形があれば
抜けなどなく短時間で計画ができる。
自分の仕事でも部下には「テンプレート」の話をするが、趣味の世界でも同じです。
最近はパソコンでの資料つくりがベースでありファイルしているので非常に楽にできる。
今年の年末も皆さんに楽しんでもらえるようにしっかり抜けの無い企画したい。

今月の楽しみのもう一つは「40年ぶりに旧友と再会」することである。
お互いに就職して会う機会がなく音信不通になっていたが
後輩と飲んだ時に住所の調査をお願いした。
彼のおかげで知ることができ近々再会することになった。
40年の歳月はお互いの記憶を簡単に呼び戻すことはできないだろうが
思い出話が進むにつれ昨日のように思い出してくることであろう。

新たな活力になること間違いなし!!

2010年11月3日 記


--------------------------2010年  10月------------------------------


やっと秋らしい日が続き、朝夕は少々肌寒い感さえある。
2010年も残り3ヶ月となり、時間の経過が如何に早いかをつくづく考える日々である。

会社でお世話になった上司の方々が次々と引退する話が続く。
第2の人生へ向かうと言う葉書やメールが届くたびに、やがてやってくる自らの姿が浮かぶ。
毎日が日曜日と言う話がテレビ番組の中であったが、それはないと思う。
自らの時間がたくさんある中で、家族や地域の方々とのコミニュケーションをとる時間も必要になる。
そうすれば、その中で課題が発生してその課題に取り組む時間がでてくるであろう。
それは仕事をやっていた頃の時間とは違い十分に考えを取れるものであり、結果、貴重な考えになる。
そこに今までの経験則を活かしていけばすばらしい提案となること間違いなし。
但し、押し付けがましいものはいけないだろう。
一歩下がってものをみるのもこれからの人生かもしれない。

携帯の発達がめざましい昨今だが、歩きながら、自転車にのりながら、満員電車のなか、、、、、
至る所でお構い無しのゲームや会話、閲覧にはいささか怒りを覚える。
利便さは誰もが認めるところではあるが、節操と言うことをしらないのだろうか。
見たい、聞きたい、知りたいという欲望は誰しもあろうが場所のわきまえが必要であり
それを守ってこそマナーという話になる。現在の状況はマナー以前の話と言わざるをえない。
朝の満員電車でつり革につかまりながらおにぎりを頬張り
携帯で必死な形相をしゲームをする若者には辟易する。
全ての若者がそうでないが、時間のない人間と
これから時間の余裕がでるであろう人間の差なのか、ため息がでるこの頃だ。

今年の初めからインフルエンザの感染もあり福祉施設への慰問活動を控えていた。
そろそろ年末の恒例行事も企画に入る時期となった。
福祉施設ではサンタの衣装を身にまといながら参加してくれた皆さんにプレゼントを配る。
深々と頭をさげ手を握ってくれる。訪問してよかったと思う瞬間である。
また、年に一度行う「生オケの歌声喫茶」も仕込みに入る。
2時間半、30曲余りを歌い続けるものだが、参加型のコンサートでありワインが効いてくると
会場の声も大きくなり恥ずかしさが取れてコンサートが盛り上がる。
今年で5回目を迎えるので何か変化を付けたものにしたいと今からワクワクする。
自分の専門とする音楽分野ではなく歌謡曲を中心としたものであり勉強になる。
アメリカのbluesの世界ではなく日本のbluesとして捉え今後のbluesに活かしたい。

円高の影響や景気の動向が会社にも厳しい状況を与え始めるであろう。
厳しい中ではあるが知恵を絞って乗りくるしかない。
従来やっていたことを否定して新たな試みを行う。
発想を大きく変えていかねばならない時がきている。
ベテランにはベテランの味を出しお役に立てるのもこれからであろう。
精一杯がんばりたい。


2010年10月3日 記

---------------------------2010年  9月--------------------------

異常気象と言えばいいのか、9月の声を聞いても一向に涼しくならない。
クールビズでネクタイを外して久しいが上着など、とても着る気にはなれない。
気象現象も異常だが政界の動きも尋常ではない。
次々と総理大臣を代えており世界の笑い物になろう。
足の引っ張り合いは程々にして早く落ち着きを取り戻し

苦しんでいる国民を助けて欲しいと願うのは私だけではあるまい。

プロ野球も終盤に向かい上位チームの動きがなかなか面白くなっている。
我が家族も今年は球場に足を運ぶ事が多かった。
テレビで見れば済むがやはり球場での雰囲気は快適な気温のもとで
椅子に座って
BEERを飲まなければ解らないだろう。

個人的には少々応援の音楽がやかましいと思うが双方にルールを守って行う
それには感心することもある。
そんな中でホームランやタイムリーがでると思わず拍手を贈りたくなる。
日頃の仕事でのストレス等はどこか遠くへ行ってしまった一時だ。

今月は久々にライブステージがある。我々おじさんバンドには不似合いな
渋谷という華やかな場所でやるがオジサンはオジサンらしく渋めに、精一杯頑張って務めたい。

最初の音を出す前の極度の緊張感、始まったという開き直りと当たるライトの光り
会場の皆さんの目、吹き出る汗、、、、、、毎度の事だが「このために生きている」と
言っても過言ではなかろう。打上の冷えたBEERが待ち遠しい。
今回は新たなパートナーとして35年前に一緒した会社の方々達である。
彼らは昨年の暮れに実施したライブが導火線となり30数年の歳月を一気に思い出し
再結成となった。みんなイイおじさんになったが熱き思いは変わっていなかった。
真っ赤な血潮で激しいリズムと共に蘇る青春であろう。
また一つ生きる喜びと目標ができたことに感謝したい。

2010年9月8日 記


--------------------------2010年  8月---------------------------

毎日うだるような暑さで辟易している。
暑いのには強いと自負していたが、こうも毎日続くと音をあげてしまう。
エアコンは入れるまいと決めていたものの、あっさりと降参してしまった。

会社は7月20日に本決算を迎え、また新たなスタートを切った。
なかなか引退できない状況だが、ミッションにしている人材育成には新たな決意で臨みたい。
色々な教育機会を設定して実施していくが、あくまでも知識の情報発信
行動へのトリガー作りが主であり、出席したからと言って教科書のように変身はしない。
しかし、参加者の心構えでその度合いは大きく変わると思う。
変わろうとする方、別に変わらなくても今のままで良いとする方
ただ時間をすごしている方、、、、、、、、、、その後のフォローで直ぐ判る。

全てを吸収していくことは困難であり無理だ。
その中の一つだけでも実践していだければいい。
そして、直接的にも間接的にもそれが業績に
貢献していただければと思うのだ。

お盆の季節になり故郷を思うことが多くなった。
今年は帰省しないので尚更であろう。
今年も今日までに若い知人・友人がこの世を去って行った。
悲しみは大きいがそこから教えられることが多い。
健康管理、仕事と趣味、家庭と会社、、、、、キリがない。
元気な時には悔いのないようにいろいろやっておきたい。
また、今まで頑張ってくれた家内や子供達にも感謝を何かの形でしておきたい。

少し身体を動かしただけで顔から、体から汗がしたたり落ちる。
思い切り動いた後でシャワーを浴び、シャツを着替えた後の冷えたbeerは最高だ。
町内の夏祭りも終わり、この夏に残されたイベントでは昨年資金不足で中断した
「手賀沼花火大会」がある。
先日、我孫子駅前に市役所の方々が開催するための募金を呼びかけていた。
思わず財布から取り出して僅かだが協力させていただいた。
我が家の前で花火があがるので居間から酒でも飲みながら見える。
イマから楽しみだ!
8月7日の夜は仲間のみんながやってくる。さぞ賑やかになるだろう。

せんこう花火  吉田琢郎 1972

せんこう花火がほしいんです
海へ行こうとおもいます

誰か線香花火を下さい
一人ぼっちの私に

風が吹いてきました
1人で歩いていました

死に忘れたトンボが一匹
石ころにつまづきました

なんでもないのに
あーーん 泣きました

2010年8月1日 記



--------------------------2010年  7月---------------------------

早くも1年の半分が過ぎてしまった。
この年になると時間の経過が加速しているように感じるのは私だけだろうか。
課題に対して処理する能力が落ち若いときなら半日でできる事も
一日かかっているのだろうか。何れにしても時の流れが早い。

 海の向こうでは蹴球が熱い。
先日は思わず家族で早朝まで
TV観戦してしまった。
日本チームの健闘には熱いものを感じ、久々にこれからの生活にパワーを頂いたようだ。

チームの指揮官は戦前に散々な酷評を受けており、恐らく自分も早く負けて
楽になりたかったかその裏で密かにチームの結束から
手応えを感じあっと言わせる為の戦略を立てていたかである。
結果は見事に後者であった。

 世界の強豪を相手に堂々たる闘いぶりであり彼らの流した涙は
我々のそれも含んでいたのだろう。
スポーツを観戦して胸の奥が熱くなったのは久々であり大きな拍手を贈りたい。

 それに引き替え、大相撲での不祥事は頂けない。恐らく昔から蔓延していたことかもしれない。
小さな掛け金がそのうちに麻痺していき、大きなお金を動かしていったのであろう.

閉ざされた世界であり勝負の結果で全てが評価されることから
「躾」「常識」とは無縁のものになって行くことにはいささか残念な気持ちで一杯だ。

 子どもの頃、千代の山が好きだった。
あの大きな体での張り手や昭和
30年9月場所で若の花との水入り大一番の話は憶えている。
未だテレビの無い時代だったので父がラジオをかけてお店の仕事をしていた
終わった後にこの話を説明してくれた。
「水入り」の
意味が解っていない小学校2年の自分であったが
最後にやっと理解できた時に頭には両力士の顔に吹き出る玉の汗が浮かんだ。
そして「お相撲さんは偉いな!」と思ったものだ。 

我々の仕事の世界でも同じ様な事が言える。
閉ざされた世界でのみ仕事をする社員と色々な世界の方々と接して
仕事をする社員には大きく違いがあり、人材の育成面からみれば
後者の社員がバランス感覚をもって成長する。
自分の評価というか実力や技量がどの程度のものか
また違う世界の人はどんな見方をするのか
社内ではそこそこの力でいると錯覚している社員も
比べる相手次第では話にならない評価になる。

最近は顧客満足度がある指標として設定される事が多い。
自分の目線ではなく顧客の視点で考え、モノ造りにも活かそうという事であろう.
自己満足ではなくお客様のお役にどれだけ立っているのかを常に考えて
いくには閉ざされた世界にいては解らない。
視野を世界とまでは言わないが少なくても同業他社や成功している
企業の動き等を分析する力が求められるのではなかろうか。
そのためには多忙の中ではあるが「自己啓発」が欠かせない。

お相撲さんにも朝の稽古の他にそのような啓発するカリキュラムを設定して
勝負の評価プラス「格付け」をもって昇進する制度に改めてはと思うこの頃である。
勿論、勝負の世界なので勝敗は第一ではあるが、これを唯一の絶対条件すると
最近の様な出来事が後を絶たないのではなかろうか。
自分を含めて夢と希望と力を与える世界の人間には
大きな責任が有ることを今更ながら考える。

 これからまた暑い夏がやってくる。
暑さもまたこの季節の良いところであり夏があるから秋があり冬がある。
一生懸命に仕事をした後の冷えた
BEERを頭に描きながら元気に過ごして行きたい。

気が付けば今日は七夕だ。
子どもの頃は大きな竹を山から切り出して色々な飾り付けをした。
父母は一時期宮城県の塩竃という所で佃煮工場を経営していたとかで
仙台の七夕をよくしっていた。大きな賽子を竹の頂上にくくりつけ
後は短冊や折り紙の人形などあらゆるモノをくくりつけた記憶がある。
家が商売をしていたので更に宣伝の大きな短冊やらを父が書いたりして
ワイワイと祖母を含めた家族の恒例行事であった。

今では子供達も大きくなってそのような事はしなくなったが
もしお願いの短冊を書くのであれば
「家内安全、全員が健康でありますように。。。。」かな。。。。。。

  七夕さま

1.ささの葉 サラサラ
  のきばに ゆれる
  お星さま キラキラ
  金銀砂子(すなご)

   2.五色(ごしき)の たんざく
  わたしが 書いた
  お星さま キラキラ
  空から 見てる

  20107月7日(七夕)記



--------------------------2010年  6月-----------------------------


日に日に気温が上昇し通う電車の中も冷房の入る日が多くなった。
3週間前に蒔いたマリーゴールドの種が芽を出しノコギリ状の葉がかわいい。
やがて黄金色の花が咲くのだろうか楽しみだ。

先週から日本の政治は総理大臣の話でもちきりであり、その種の話は少々お腹一杯である。
マスコミは足をひっぱる話で煽り書き立てる。誰がなっても同じようなやりかたには
これまた少々お腹一杯である。支持率の低下を毎週のようにおもしろおかしく書き
宮崎県では大変困っている「口蹄疫」問題や「沖縄の基地」問題などどこか吹き飛んでいる。
結局、総理大臣、幹事長の辞任と言う形で幕が下りたが、このように短期の在任状態は異常であろう。
本気になって政治を行うことができようか?否、できるわけがない。政治に疎い自分でも苛立ちがある。
政治家自身の責任もあろうが、それだけの問題ではない。選んだのは国民でもある。
現状、失業問題やその他、解決を要する問題が山積されている。
後継者は大変だろう。はやく正常な運営ができることを祈るばかりだ。

先週は鹿児島県の出水高校・関東OB会というイベントにjazzコーラスのバックバンドで出演した。
地元、我孫子の男声合唱団のバック演奏が縁で依頼されたものだが、
同じ九州ということもあり、何となくうれしいような懐かしいような気分で臨んだ。
最初は硬かった皆さんの表情も段々と和らぎ次第に青春時代の記憶の蘇りか
椅子をステージの前に移され懐かしそうにされる方々もあり、大いに楽しんでくれたと思う
演奏後に鹿児島から駆けつけた校長先生とお話しすることができた。
話を新幹線が与える影響と言うテーマでもちかけると、先生は色々な観点でお話をしてくれた。
経済的な効果もあるが学生の流失もあるとの事であった。
少々遠くても新幹線で通学するようになり学生は中央へ集中するようになり
地元の学校は生徒数が少なくなるらしい。
校長先生はこのことが将来の教育に与える影響を詳しくお話してくれた。
自分も仕事上教育関係への関わりがあるので、興味深く、時間の過ぎるのを忘れてしまった。

故郷を愛し、故郷を活性化し、故郷を発展させるために活動する。
自分にはその3つをすることはできなかったが、一番目の「故郷を愛する」ことには
ある年齢を越した時から意識するようになり現在に至っている。
酒が入ると長崎弁になり、故郷の話で盛り上げる。
特に現在はNHKで竜馬伝なるドラマが放映されており長崎が注目されている。
市内の寺町には我が家の菩提寺である「延命寺」がある。
父母の供養には必ずこのお寺で法会を営む。
狭い道路をしばらく歩いていくと竜馬・海援隊でおなじみの「亀山社中」があり
今でもあの石畳通りや石段には江戸時代の名残が感じられる。
この地は向かいの山々に遮られたためだろうか、原爆の被害はもろに受けていない。
大きな楠木が今でもそびえ立っており坂道と合っている。
昔、竜馬をはじめ、海援隊の連中は口角泡を飛ばして思案橋を通り
丸山の遊郭へ向かったのだろう等と想像したものだった。
その通りの両側には仏具店が並んでおり、今でも同級生の経営するお店には顔を出して声をかけている。
そんな時はもちろんバリバリの「長崎弁」であり故郷をもつことに対して心から感謝する。
これからも「故郷を愛し」それから後の2つにも挑戦できればと思う。

吉田琢郎の歌に「ふるさと」というのがある。
長崎のバンド仲間で酒が入るとギターと手拍子でよく歌ったものだった。

おやじを愛し おふくろを愛し
兄貴を姉貴を愛し そして自分を愛し

ふるさとが好き 生まれたとこが好き
育ててくれた町が好き そして自分が好きさ

日本に生まれ 日本で育ち
日本を愛している筈さ そして自分を信じて

青い海があり 緑の山があり
川が流れている筈さ そしてそこに僕がいて

恋人を信じ トモダチを信じ
人の心を信じて そして笑顔を見せて

ここは日本だ 僕のフルサトだ
信じて愛していたい ここは僕のふるさとだ
  LA LA LA LA

2010年 6月6日  記



--------------------------2010年  5月-----------------------------


木々の新芽がまぶしい季節になった。初夏とはいえまだまだ風が冷たい。
世の中はゴールデン・ウイークということで、それぞれの時間を過ごしているだろう。

遠く中国の上海では万国博覧会が開催されたという。
思えば40年前、大阪での万博はちょうど入社した時だった。
会社もブースを開設し未来のデスクとかいう触れ込みで出品していたのを思い出す。
携帯電話等は今の形からは考えられないような大きなものであった。
40年後の今、それは通話だけでなく数々のコミュニケーション手段として利用できる。
また、読書やゲームと言ったものまで、あらゆる要素が詰まっている。
少々詰め込みのような気もするが、若者は片手で素早い動きをしながら操作する。
ただ、所かまわず状況の判断もなしに目をケイタイに向けているのは如何なものかと思う。

ITの利便性が本来の趣旨を超えて人間の性格まで変えてはいないか?
会社の研修会やその他の勉強会で「文章」を書かせると書けない人が多い。
変換と参照技術に慣れてしまったせいか、書き出しの1行にものすごい時間をかける。
また、漢字は殆どが怪しい。確かにインターネットには情報が満載しており参照すれば
再利用できるものが多々ある。ソフトウエアー開発の中でも同じことが言える。
OPEN SOURCEの時代となっており各種の事例や応用が溢れている。
しかし、これらばかりを追ってもオリジナルの観点からは多少気になる。
確かに参照と一部拝借はいいが、アイデア部分は悩みぬいた末の産物であって欲しい。
利用者側に立った機能や要件の解決策を提供することがポイントであろう。
決して、自己満足であってはならない。
ケイタイの多機能はどうか?多くの老人の方々にも利用される今後はもっとシンプルで
安い価格と利用料が先決事項である。お年の方々に複雑な設定機能は無用であろう。
シンプル イズ ベストとはよく言ったものだ。
シンプルにするためにも多くの機能を考え、悩みぬいてシンプルにしなければならない。
簡単とは複雑の中から産み出されるものではないかとつくづく思うのである。

インターネットの世界は遠い昔の出来事も色々な方々を通して教えてくれる。
このHOME PAGEをご覧になった故郷長崎の方からメールと写真を頂いた。
私の出身は長崎県西彼杵郡香焼町(現在は長崎市に合併)という島で
お隣には「軍艦島」(端島が正式名)やその他2〜3の島がある。
その方は香焼町でお勤めをしている方からであった。
メールで何回かやり取りするうちに実家の近くのお宅名を出したらその中から
私を憶えている方なども出てきたとのこと。
16歳で島を離れたが当時の記憶は鮮明に蘇った。ほんとうに嬉しいものだ。
忘れかけていた幼い時代の出来事が今思い出される。
明日の活力になる。
故郷の美しい山々、海、そして人々、、、、また、いつか訪れてみたいものだ。

兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷

志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷


2010年 5月1日  記


---------------------------2010年 4月-----------------------


桜の枝には今が盛りと花が咲き乱れ、周りはそれを眺めて微笑む人がいる。
いつしか季節は春を迎え、街行く若者もダークスーツ姿が初々しい。
就職難と言うことで大変な中を乗り切ったのだろう、きびきびした動きに
感じられるのは私だけか。でも、これからが大変である。
社会人という事は今までのように緩い中とは違い、何事にも結果責任がつきまとう。
しかし、結果を恐れて小さくなって欲しくない。
まずはプロセスをしっかりと理解して、基本動作に沿った活動・行動を起こすことだ。
ベテラン勢がおかしな行動をしても、それを是とせず基本に忠実にやって欲しい。
初心を忘れず若者らしい発想と行動をとっていけば自ずと道は開かれる。

自分もこの4月1日でサラリーマン生活満40年を迎えた。長くもあり短くもあった道のりだ。
ここまで辛抱強く使ってくれた会社と支えてくれた方々には感謝一杯である。
そんな中で先週は若者の訃報が相次いだ。
1人は元部下、1人は同じマンションに住む方だった。
共に50歳、52歳という若さあり残念でならない。
告別式で残された幼い子ども達の顔は今でも脳裏を離れない。
肺がんとの闘いは辛かったであろう。
死を宣告され自らもそれを覚悟した時、同僚に宛てた手紙を弔辞で聞いた。
全身の力が抜けて行くようであり、耳を塞ぐ事ができないかと思ったものだ。
帰宅して一息ついた時、ふと自分がそんな立場になったらと考えた。
決してそんなかっこいい言葉はでないだろう。
目の前が真っ黒になって何も言えないだろう。
そして、首を振りながらこう言うであろう。
「やはり、元気なうちは楽しく明るい時を大勢の方々と過ごして行きたい」と。

咲く花もあれば散る花もある、実をつけて次世代へ繋ぐ。
やがて、その実も水と栄養を貰いながら芽を出して花を咲かせる。
そんな繰り返しだがその時々を大事にして行きたい。
決して1人ではなく、大勢の方々に助けられ、助けての人生である。
再度、今年の言葉「感謝」をわすれずにしたい。

越冬したメダカがベランダの水槽で気持ちよく泳いでいる。
じっと眺めていると昔覚えた歌が頭を横ぎる。

めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなで おゆうぎ しているよ

めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなで げんきに あそんでる

めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーいつい
水にながれて つーいつい
みんなが そろって つーいつい

めだかも今を一生懸命に生きている。
この中からまた新しい命が増えるか楽しみにしている。

私も「メダカ」は増やして「メカタ」は減らし、「メダカ」に負けないくらい
元気に楽しくやっていきたいと思うのである


2010年 4月4日  記


--------------------2010年  3月-----------------


白い梅の花が咲き鶯が枝に止まって騒いでいる。
春はそこまで来ている。

先月は家内と34年ぶりに沖縄を訪れてみた。
予想はしていたが大きく変わっており時代の流れを感じた。
南部への旅では沖縄戦の悲惨さを否というほど見せ付けられた。
地下壕や洞穴での凄惨な出来事、当時の地元の方々と軍人の様子等
どれをとっても「地獄」と言える。
沖縄の人々は一番戦いを好まないと言われている。
薩摩の侵攻の時でも「命どう宝」(命こそ宝)と言ってお互いの犠牲者を
抑えるために戦争をしなかったと聞いた。
そんな純な人々を戦争に巻き込み多くの犠牲者を出してしまった事は
永久に忘れてはならないと思う。

摩文仁の丘、ひめゆり塔。。。現地にいる語り部の方々から当時の話を
沖縄の言葉で聞くことができたが悲しくて最後まで聴けなかった。

平和のありがたさ、生きていることのありがたさ
世界の人達と自由に会話できるありがたさ
我々はこの何不自由ない毎日において何か忘れていないだろうか?
そんな振り返りをおこさせる旅であった。

那覇を立つ前日にきちんと沖縄の、いや琉球の歴史を知ろうと思い、本屋で
高校の教科書で沖縄歴史という本を探していただき、つい先日読み終わった。
古代から中国との交流、薩摩、江戸幕府、明治政府、戦争
本土復帰までの米軍統治時代、、、、、長い歴史は簡単に語れない。
現在も基地問題で揺れ動いているが色々な問題も抱えていると現地の方は言う。

2月13日に恒例のコンサートで通算100曲目になる歌である「花」の生まれた
沖縄をこの目で見ておきたいと思って計画した旅であったが
改めて歴史を知るにつけて考えさせられた。

沖縄の女性は長生きの方が多く、100歳以上が500人以上もいるそうだ。
(残念ながら男性の長寿一番の県は長野県だという)
その方々の語り口調はゆっくりとユーモアたっぷりで愛を含んだものであった。
子どもたちへの教えや歌、踊りもほのぼのとした愛がある。
今でも耳を離れない言葉「命どう宝」(命こそ宝)は忘れない。

今日は2年前に急逝した友人の3回忌ということでお寺にて住職の説話を聞いた。
沖縄でガイドから聞いた話と同じものであった。
自分の親、そのまた親、そたまた親といけば世界の人々とはどこかでつながってしまう。
きっと天国でも彼は同じように言っているでろう。
一番上の娘さんの結婚が決まり、二番目の娘さんも高校進学が決まったという。
今日は朝から弱い雨が降っているが、これは彼の嬉し涙だろうか。
そうだ、うれしくてついつい流してしまったのだろう。
手ですくってみると少し暖かいのは気のせいか。。。。。。

寒い冬に眠っていた虫が動き出すといわれる「啓蟄」の今日
春はそこまで来ている。

2010年 3月6日  記



--------------------2010年  2月---------------------


節分を過ぎて暦の上では春となるが降った雪が所々に残っておりまだまだ春は遠い。
しかし、植物の動きは確実に来るべき春に備えて動いているだろう。
桜の枝を良く見ると硬いコートに包まれた芽が首を引っ込め寒さに耐えている。
いつものシーンだが街行く人に勇気と元気、それに忘れかけている我慢を示している。

最近の新聞で、テレビで知る事件では「我慢」「耐える」という事をしらない話が多すぎる。
いとも容易くお金が手に入る、汗水垂らしてという言葉が忘れられたような話が山のようにあり
それに飛びつく人が悲惨な結果を生んでいる。
回り道でもいいから確実な道を二本足でしっかりと歩いて、目的地に到達する事の大切さに
目を向けていきたいと思うこの頃です。

今月末で62歳を迎える。
ついこの間、還暦を迎えたかと思っていたら既に2年が過ぎようとしている。
ますます「時間」を大事に「友」を大事に「家族」を大事に
「会社の仲間」を大事にして行きたい。
自分だけでは何もできないが友、家族、会社の仲間のお蔭で物事は上手く進んでいく。
今年のキーワードを「感謝」にした理由がそこにある。

「自分にできることはなにかないか」の形でできる事を世の中に還元できれば
そこに具体的な感謝があるのではないかと思う。
家内と、或いは会社の仲間達と続けている施設のボランティア活動は「感謝」を念頭に
継続していきたい。機材の組み立てや準備中にお年を取られた方々が我々の行動を注視
しており、手を休めて顔を上げると「今日は朝から待っていたよ」
という声をかけてくれる。なんとも清々しい気持ちになれる時だ。
「今回も来て良かった。さー今日も張り切ってステージをやるぞ」という気持ちが湧いてくるのだ。
演奏を終えた後の「聞いて頂いた感謝の気持ち」は言葉では表すことのできないものだ。

明日から家内と34年ぶりに沖縄へ行ってくる。復帰直後にコンピュータの市場開拓で
訪問してから久々の事になる。当時、那覇空港の近くにはベトナム戦争で使われた米軍の
兵器やその残骸が溢れていたことを思い浮かべる。
そんなむごいシーンの横には赤いハイビスカスが道路沿いにつながって咲いていた。
重い雲が垂れ込めて湿度の高い空気が肌をなでる。
そんな思い出の地だが、さてどんな変化をしているかゆっくり見てきたい。

2月13日には恒例になった歌声喫茶風コンサートが小ホールで開催される。
4回目を迎えるが1960年代を中心にしたオールディズや古い日本の流行歌が
否がおうにも飲むワインとともに気分をほぐしてくれるだろう。
今回で100曲歌うことになる。
開催のサブタイトルとして「飛躍曲」とした。そう、つまり100(飛躍)なのだ。
その100曲目は明日訪問する沖縄にちなんで「花」を準備している。



「花」  
作詞・作曲 喜納昌吉

川は流れてどこどこ行くの 

人も流れてどこどこいくの

そんな流れが着く頃には

花として 花として 咲かせてあげたい

泣きなさい 笑いなさい

いつの日か いつの日か

花を咲かそうよ


2010年 2月6日 記



--------------------2010年  1月--------------------


新年 明けましておめでとうございます


雲ひとつない青空が広がり新たな年の始まりをすっぽりと包んでいる。
肌を刺すような風の寒さは時折心地よい。
ベランダから見る景色に向かいながら今年の抱負をつぶやく。
やはり、健康をベースに周りの方々と楽しい時間をもっていきたい。
今年でサラリーマン生活満40年となるが振り返ればあっという間であった。
我孫子に暮らして28年が経ち子どもたちもそれぞれが成人した。
次男がまだ大学生ではあるが手がかからなくなったことは自分自身の
時間確保に大きな要因となっている。
幸いに夫婦でのイベント活動が多く、2人での会話も以前に比べて激増した。
皆さんから声がかかる限り継続していきたい。

昨年の経済環境が多くの話題を呼んでいるが、ある雑誌に作家の言葉が
強く印象に残っている。
「人生には上り山ばかりではなく下り山もある。下り山が一番難しい。
無事に下ってもう一度上ればいいじゃないか。」なるほど、そうだなと思った
確かに上りはいいであろうが、山は上り詰めると一旦下らなければならない。
そして、もう一度他の山の頂上を目指して上るのだ。

今の日本はまさにその最中ではなかろうか。
一旦下って周りを見回し、己の立ち位置をしっかりと固めて
再度頂上を目指して挑戦すればいい。
今はまさに下り山の一番難しい、苦しい時であろう。
政治がどうのこうのという前に、自分が確実にできることをやりぬく事こそ
求められていることであり、そこに言い訳は無用であろう。

なんでも容易く手に入る時代になり、「ものの有難み」が薄れている今
もう一度、友を大切に、資源を大切に、人々から、また環境から得られる情報を
大切にして、それぞれに「感謝」をしながら自分を見直す機会ではなかろうか。
「感謝」という言葉を今年のKEY WORDにしていきたいと思う。

2010年 1月2日  記


------------------2009年  12月--------------------


街路樹もすっかり葉を落とし、これからの寒さに備えている。
毎朝通る神社の境内では近所のおばあさんが降り積もっている銀杏の黄色い葉を
丁寧にかき集めている。急いでなければ立ち止まって挨拶をしたいところだ。
息子が七五三のお参りをした神社でもあり自分もお手伝いすべきであろう。
地面の黄色い絨毯が古い木造神社の建物を照らしており、なかなかの光景でもある。

我孫子に移転して28年の歳月が経過したが色々な施設、建物が変化している。
10月末には長年お世話になったスーパーマーケットが閉店した。
歩いて1分かからない所にあったスーパーだけに、その利便さは最高であった。
少し離れた大型冷蔵庫みたいなもので、生ものが好きな自分としては閉店前の
ダンピングした価格を待ってちょいと一走り、と言う感じであったが今はもうない。
便利な環境から一転して不便になると色々な行動を見直すいい機会でもある。

今、政治の世界では予算の編成で大変な時期であろう。
「仕分け」と称して、申請した事業予算を見直し、ばっさ、ばっさと切り捨てる。
ややパフォーマンスもあろうが、報道されるシーンではやられるほうも
少々面食らった様子である。思えば、民間企業では当たり前の話である。

振り返れば経費予算、開発予算の 審査会では同じようなシーンであった。
投資効果をデジタルに計測して説明し、するどい質問に応える。
なかなかうんと言わないがどうする。。。。。いろいろと頭を巡らせる。
時間が経過して審査は終了する。結果は2,3日後になるという。
後日、一部削られたが概ね了承された。部下と共に「にんまり」するがこれからの
事を考えると顔が引き締まる。そんな過去の場面を思い浮かべた。

今年もあと1ヶ月となり、忙しくなるが健康で楽しくやっていきたい。
先月の21日にやった「グループ会社の音楽会」も無事に終えることができた。
既に来年の開催時期も決まりメンバーは更なる目標をもったであろう。
今月は慰問関係のコンサートが続く。デイケアー施設ではサンタの服装をして
心ばかりのプレゼントを考えている。はたして喜んでくれるか。
また、障害者の施設ではみんなで歌うコーナーを多くしている。
今年は振り付けのあるラテン風な曲もリクエストを受けている。
最後は会場の皆でジェンカを踊る。
例年の事とはいえ、皆さんの笑顔が目に浮かぶ。
頑張ろう!!

2009年 12月8日  記


------------------------------2009年  11月--------------------------


いつの間にか今年もあと2ヶ月となった。時間の経つのは気づかない内にどんどん進む。
有名人の訃報が相次ぎ、時代の流れを感じるが何か虚しさだけが残る。
特に死に急ぐ人にはそれなりの理由があってのことであろうが他人には理解できない。
もっと、おかしくおもしろく人生を考えてもいいのではなかろうか。
そんな時ふと思う 、大事なものは「友人」であり「所謂、仲間達」ではなかろうかと。
年はとっても昔を語り、今を語りそしてこれからを語る。時には怒り、時には涙し、時には腹を抱えて笑う。
一杯の酒を眺めて隣のおつまみに手を伸ばす。話はますます進んで行く。
ふと見ればコップがたくさん空いている。明日もまたがんばろうとつぶやくひと時だ。
秋は、そんな事をしみじみ考える季節かもしれない。
しかし、1人で悩んでも酒は美味くない、やはりワイワイガヤガヤが一番だ。

今月は21日に第2回グループ音楽祭を計画している。
関係会社の音楽仲間の目標として昨年より開始したが年々輪が拡がっていく。
お金をかけないで「手作り音楽祭」にしている。
なんか、学生時代の文化祭に似ており、全員が何らかの役割を担う。
会場も会社の施設をお借りして設営する。

メンバーの中には関西の実家から母上と姉上が遠路駆けつける。
息子の、弟の勇士を一目見ようと楽しみにしていることであろう。
その彼もソロパートでは意識して張り切ること間違いなし。
みんなで大声援を贈ろうと思う。
今は仙台に転勤している元メンバーも急遽駆けつけることになった。
何か役割をということで司会の大役をお願いした。
多分、上手くやってくれるだろう
終了後の打ち上げにも参加していただく予定だ。
さて、どんな言葉が聞けるか、胸がわくわくする。

音楽を愛する仲間がいて毎年の目標を達して行く時、そこには悲観的な
思いなど一切存在しない。
むしろ、次はどうして行こう、何をすればもっと楽しくできるか、、という
夢が湧いてくるのでないだろうか。

もうすぐ62歳を迎える頃ではあるが、もっと「夢」を追いかけたい。
その為には友を大事に仲間を大切に、日々感謝、感謝、、、、、

2009年 11月11日 記


---------------------------2009年 10月---------------------


ゴールデンウイークに対抗してシルバーウイークがあり
1000円で高速道路が使えるとあって各地では色々な出来事があったようだ。
先日はかねてから練習を重ねていた地元我孫子の男声合唱団
との共演も無事終えることができ、ほっとしている。
また、長崎で母の7回忌を無事終えることができ
一区切りできた安堵でこれまたホッとした。

ステージは始まる直前の緊張感がたまらない。
何十年やっていても毎回同じだ。
最初の音が思ったように出ると、後は勢いで進んでしまう。
観客の視線が感じられるがライトがあたっているので気にならない。
男声合唱団メンバーのコミカルな仕草が笑いを誘っている。
「もう、こっちのものだ。。。」この調子で最後まで行って欲しい。
気がつけば曲はどんどん進み、アンコールの演奏が始まっていた。
会場に来ている合唱団のOBもステージに上がってきた。
最後のメンバー紹介を終えて幕は下がる。
ステージを後に打ち上げの会場では乾ききった喉を冷えたビールが
勢い良く通り過ぎる。
安堵感、達成感、心地よい疲労感、、、最高の時だ。

ステージはこんな楽しみが待っているのでなかなか止められない。
平均年齢は60歳を大きく超えているらしいが彼らの心意気は40歳近い。
これからもお付き合いが続くだろうが人生の色々な面を教えて頂き、ありがたいと思う。

久々の家族を伴った九州旅行は久留米から久大線に乗って
「湯布院」へと足を伸ばし、最後は大分の後輩の家でお世話になって帰宅した。
線路端のあちこちには彼岸花が咲いており季節をいやでも感じるものだった。
鳥栖からローカル列車に揺られること2時間近く、温泉で有名な湯布院に着く。
しかし、駅前からの道はヒトヒトヒト。。。。車車車。。。。
それも日本の至る所から来ている。

それをかき分けてやっと友人の指定する料理屋へと向かう。
席で待っていると若女将さんがお茶を出してくれたので色々聞いて見たら
関東から嫁入りしてきたという。更に聞くと清瀬からだという。
学生時代に近くにいた事もあり更に話が進むと、友人が指定したその店は
友人のお客様と言うことが判った。若女将さんから奥にいた女将さんが紹介された。
そのうちに渋滞から開放された大分の友人はやってきた。
思いがけない訪問にお店は色々なおいしい物を出してくれ満腹になった。
その後は久々に露天風呂を親子で堪能し友人の家族が待つ大分の夜を迎えたのだった。
この友人も音楽を通じた長い付き合いであり、何かというと今でも演奏をする。
年はとっても懐かしいフレーズは昔のままである。
また、5歳くらい若返った感じで帰路の飛行機へと向かった。

多くの友人は色々なことを教えてくれる。また、人生の目標を与えてくれる。
全国に散らばっているFRIENDには自分の元気なパワーを配りたい。

西田佐知子さんが昔歌った曲で「初めての街で」というのがあるが、
最近はジェロがカバーしている。
聞けば、あれー酒のCMで聞いたことあるよという曲だ。

初めての街で いつもの酒
ちょっと気取って ひとりぽっち

初めての別れに いつもの酒
達者でいろよ また逢おう

いつもの肴で いつもの酒
やっぱり俺は ひとりじゃない

2009年 10月3日  記


-------------------------2009年  9月--------------------


朝夕は肌寒さも覚える日々だがまだまだ暑さが続いている。
総選挙の熱さも峠を越したが期待と不安が今後に続く。
予想を大きく超えた総選挙結果がどのように具体的な動きとなるか注目するところ
ではあるが冷ややかな目というより自らも意見を述べていかねば誰がやっても同じことであろう。
政党の足の引っ張り合いはもういい。政策論を展開させ、国を、我々の生活を、文化を
前進させて欲しいと願うのは私だけではなかろう。

ベランダの「アブチロン(Abutilon)」はこのひと月で多くの花を咲かせている。
蔓状の枝が網に絡んで日陰を作ってカーテン代わりになっている。
葉と葉の間から差し込む日差しは少し和らいでいるかの様であり心も和む。
秋には来年に向けて分身を作り、多くの方々に分けてあげたいと今から心が弾む。

今月は久々に我孫子の大きなステージが計画されている。
長年お付き合いしている男声合唱団(S.FOX)の定期演奏会に応援出演することになった。(イベント情報参照)
題して「JAZZY & JIZZY(爺い)」。団員の皆さんの平均年齢は少々高めだが気のいい方々ばかりで
参加する練習風景も厳しさの中に笑いが絶えない。決して真剣にやっていないと言うことではなく
真剣にやろうとするそのしぐさが滑稽さを生み、思わず顔が緩むのだ。
今回は第10回という節目だそうだがご来場頂ける皆さんには新たな感動を贈る事だろう。
ハーモニカの奏でる「MOON RIVER」のメロディ、ソロから全員の合唱へと。。。。。。。
お後は観てのお楽しみにということにしよう。

2009年 9月6日 記


-----------------------------2009年    8月------------------------------


九州北部や中国地方では大雨による被害がでており心が痛む。
わが実家の状況を親戚の方に尋ねると高台に位置していることから幸いに問題なかったようだ。
確かに季節感が昔とは違い、気温の異常さは毎年感じる。
地球の温暖化による影響と言うことで色々出ているが人間が破壊している自然をやはり
人間の手で戻すべきべきであろう。たとえ時間や手間がかかろうともそれはやらねばならない。

我が家のベランダも狭いながらいろいろな植物が芽を出し、花を咲かせている。
今年は窓に網を取り付けて「蔓」をはわせている。昨年の秋に葡萄の巨峰を食べたあとに
種を8個位プランターに撒いていたら、その中の1本が芽を出して今や蔓がすくすく伸びてきた。
葉っぱの形から確かに葡萄であり先が楽しみになる。でも果実は色々な虫や病気が大変なようだ。
気長に育つのを待とう。一方の「アブチロン(Abutilon)]」という蔓状の植物は家内が
昨年枝を分けてもらい育てている。今年はその一部を挿し木で増やしてもいる。
見た目は可憐な花を咲かせるひ弱な蔓に見えるが、なかなか花を吊るしている部分は繊維が
強力であり少々の力では切れない。長い間に進化して今の形になって来たのだろうか。

暑い夏の日差しを和らげてくれるばかりではなく、かわいい花まで見せてくれる。
思わずThe Peanutsの「かわいい花」を歌ってしまった。
冷房のスイッチを入れる代わりに花をみることで心も涼しくなることができる。

会社は新たな決算期を迎えた。私も顧問生活2年目に突入しているがやる事が多々あり、のんびりできない。
幸いに業績はいい感じで推移しているものの今年から来年にかけては厳しい環境が待っている事だろう。
悲観的にならずアイデアや工夫で乗り切って行きたい。その為の人材育成には人一倍気を使っていく。
我々の業界は「人」が命であり、人が全てを決めると言っても過言ではない。
コンピュータの商売は所謂「IT屋さん」だけではなくヒューマンの部分とのバランスがあってこそ
高付加価値をもたらすものだ。お客様や周りの人への配慮、チームワーク、踏み出す力等
社会人基礎力がものをいう業種ではなかろうか。
顧客の立場でものを考え、悩みに対してソリューションの提案をする。
そして、結果として自分たちのビジネスへと導いている。
そこには誠意をもったビジネス展開が基本でありお客からの信頼感がベースになければならない。

若い頃にお世話になったユーザ様の担当者が次々と退社していく。
ご挨拶にいくと35年前の話に盛り上がる。
今はなんでも実現可能な時代であり当事の情報システム関連で苦労された方々にとっては
夢みたいなシステムになってきた。

「クラウドコンピューティング」という形が取りざたされているがインターネットの普及は自前の装置を
必要とせず賃料を払っての利用となり一見便利に見える。
果たして日本でこの形が定着するか見ものだ。
自分が在社している間はまだ「雲のうえ」の話しになっているかもしれない。

暑さはこれから本番であろう。夏と言えば「ラジオ体操」「積乱雲」「行水」「西瓜」「風鈴」「ゆかた」
「盆踊り」「蚊取り線香」を思い浮かべる。時代は変われどもいいものはいつまでも残って欲しいと願う。
それは私だけであろうか?  いや、そうではなかろう。

2009年 8月1日  記


-------------------------------2009年   7月-----------------------------


2009年も半分が過ぎてしまった。
色々な騒ぎが起きるが常識では考えられない自分勝手な事が多すぎる。
一歩立ち止まって考えたり、相手の立場を思う心はないのだろうか。
満員電車の中や通勤ラッシュ時の駅通路、階段でも歩きながらの携帯入力・通話風景が目に付く。
特に下りの階段でのそれは、一歩踏み外せば多くの人を巻き込む惨事になりかねない。
はなはだ迷惑な光景である。そんなに一分、一秒を争う情報交換が必要なのか?
特に高校生や大学生と思われる方々に見られる。電車内でも聞こえてくる会話は
今何も話さなくても電車をおりてからゆっくり話してもいいような話と思われる。
電話の普及が遅れていた時代に生まれた自分には理解ができない事が多い。

電話との出会いは小学校の時に自宅へ電話が設置された時である。
商売をしていた関係で早くから電話があった。自宅の壁に板を張って、そこにロボットの
ような顔の電話がかけてあったのを憶えている。ベルが2個、マイクが真ん中で横に
受話器がかかるようになっていた。まるでロボットの顔のようであった。
バッテリーがつながっており、発信するときはハンドルを回して行った。
すると、電話局(当時は香焼村の長濱局)の交換手がでて口頭で相手の番号を
伝えて繋いでもらうというやり方であった。
自宅の近くには電柱が立っており電話の専用線がきている。
「あの電線に声が乗っているのか」と不思議な思い出がある。
台風で家の電灯が消えても電話だけは通じたのでこれまた不思議に思っていた。
ここら辺の仕組みについては後日、父親から詳しく聞いたものだ。

今では考えられないだろうが近所の方々は我が家の電話番号を知っているので
よく取次ぎの電話がかかってきた。呼びにいくのは私の仕事だったようだ。
ある時は港に係留されている漁船あてにかかってくることもあり伝馬船での呼び出しも覚えている。
面白いのは電話での話し方や操作のしかたであった。敬礼をして話す方や
受話器とマイクを逆にして大きな声で話す方など様々な光景を思い出す。
商売をしていたので「呼び出し」を断れなかったのだろう。そんな光景がしばらく続いたものだった。
その後は技術の進歩や普及が進み、今では当時考えられないような使い方になった。

情報の過多とも言われるが情報処理の基本は「ゴミが入ればゴミがでる」の例えのように
正しい情報を入れて加工し、ファイリング、出力する。
選択して捨て去るべき情報と確保する情報、活かす情報の蓄積と利用であろう。
あまりにも膨大な情報に振り回されないようにしなければ情報に殺されるのではなかろうか。
それとものを大事にする心がなければどんな便利なtoolを持ってもナンセンスと言える。
次から次と新機能がアピールされて利用者を悩ませるが使い切れないのが現状であろう。
若者のようにゲームや音楽、映像・検索を求めるのでなければシンプルな機能で十分。
単なる電話から「携帯」というモバイルツールの出現に世の中は変わった。
情報も簡単に手に入る時代であるが発信する事も大事な事であろう。
各種の文章もコピー&ペーストで簡単にできてしまうこの時代ではあるが
一から起案して文書を起こすことも時々はやらなければ有り難味が薄れる。
テンプレートの活用は効率が良く、誰でも行っている事だが、そのテンプレートを
作ることにも挑戦していけば更なる前進になるかもしれない。

会社勤めも継続することになったが人材育成面では少しでもこの辺の話ができればと思う。
真のソリューション提供とは単なる機械やシステムの提供に止まらず、一歩踏み込んだ
人間系の維持・運用・保守面でのそれが成功の決め手と言える。
来期からは今年の新人達との会話シーンもあろうがここら辺をどうやって伝えていくか今から考える。

この夏から秋にかけて色々なコンサートが企画されている。
仕事と趣味をうまくコントロールして暑気を打ち払いたい。

2009年 7月1日  記


----------------------------------2009年 6月-----------------------------------


世界中で豚インフルエンザ騒ぎになったがどうやらひと段落のようだ。
町行く人々のほとんどがマスクをしており異様な光景が続いた。
会社の大阪支店メンバーが九州の得意先へ訪問しようとしたらインフルエンザ
の感染を恐れて訪問中止になったり、学校関係の訪問も全て中止となり
一時はビジネスにも大きく影響がでたものだ。
新聞によれば感染するのが若者に多く、1957年以前に生まれた人には何やら
免疫があるとの記事ものっており、61歳の自分はかからないと信じていたが
今後どうなるのやら、まだまだ心配な事です。
しかし、マスコミの煽りとそれにのり、大騒ぎする事への不思議さに笑いさえ出る。

昨年、定年を迎えて顧問職として引き続き会社にはお世話になっているが
まだまだやらねばならないようだ。今後は会社も厳しい環境が予想される。
更に気を引き締めて全うしたい。
人材の育成と技術の向上を目指して泥臭く指導して行く事も人生だろう。
テレビで見るコンピュータの仕事場と言えば綺麗なオフィスにかっこいい
スーツを着、ノーネクタイで頭は寝起きのようなトンガリ髪の毛
パソコンに向かって何やら小難しい情報を打ち込んだり眺めたりというのが
よく出てくるシーンだ。現実はそんなものではない。
きわめて人間臭く、ひとつひとつを確認しながら書面を積み重ねていくという仕事の
連続であり、顧客との間にはヒューマン的なスキルが求められる。
一部のIT技術者は小難しい言語で格闘するがそれは全てではなくコスト面
から現在は製造現場として海外、特に中国、ベトナムが注目されて久しい。
技術の空洞化が叫ばれるが目前のコストの前にはやむを得ない現象であろう。
しかし、すばらくすればその安いコスト相場も段々と崩れていく。
作らないビジネスを目指して久しいが人材育成の中では避けて通れない過程でもあり
コストとのバランスを見ながら進めるしかないのか悩ましい。

今日は久々に施設訪問して歌をプレゼントする日だ。
桃の節句から3ヶ月たったが今回も新たに披露する歌がある。
精一杯頑張って歌いたい。
今年の春に逝った叔父さんの思い出の曲「ラバウル小唄」が入っている。
てっきり戦死したと思った祖母は玄関に立った大柄の軍人の「只今、帰りました」
の言葉に思わず手にした柄杓で踊りだしたという。

波のしぶきで眠れぬ夜は
語り明かそよデッキの上で
星がまたたく あの星見れば
咥え煙草もほろ苦い

先週、会社の後輩の父上が81歳で逝去された。私と同じ長崎市の出身の方だった。
父上は敬虔なクリスチャンであり、教会での通夜で安らかな棺のお顔を拝見した時は心が洗われたようだった。
華々しくというよりもまじめに人生を貫いた方だったと後輩が挨拶で語った。
この数年は数々の病気と闘ってきたが残念ながら天に召された。
牧師さんの説教や解説を聞きながら原爆の事を思い浮かべた。
後輩の父上は幸いにも韓国のソウルにいたので原爆の被害にはあわなかったが
家族の方々は爆心地であった為に、一瞬にして被爆され、亡くなったと聞いた。

私の母は翌日会社の仲間を救出に行き被爆し最後まで原爆症の治療を受けた。
先日の原爆被爆認定での報道は時代の流れとともに段々と忘れ去られるようだが
絶対に忘れてはいけないと思う。

2009年 6月7日 記


------------------------------2009年 5月--------------------------------


すっかり暖かくなってスーツも夏用に換える季節となった。
海の外では豚インフルエンザの騒ぎやらでこのゴールデンウイークの海外旅行も
肉を食うではなく、足止めを食う人が出ているようだ。
かと思えば、高速道路が1000円でどこまでも行けると言うことでこちらは満員状態のようだ。
外国はFREE WAYという事で、高速道路はどこまで行っても「タダ」だったが
日本の1000円位で大騒ぎしてもマダマダ追いついていない。
何れにせよ、景気の悪い中であり、車を使いながら格安のドライブを楽しむ方がいいでしょう。

会社では新人たちも初月給を貰い、色々な教育を受けてそろそろ入社前のイメージと
ギャップを感じる頃かもしれない。いわゆる5月病というのか、色々な不安が出て来る頃で
これを乗り切らなければならないだろう。皆そのギャップと戦いながら、振り返れば20年、30年と
経過しているのが多いのではなかろうか。
自分も最初の1年はいつやめるかをいつも考えていたが、そのうちに仕事が忙しくなり
今後の計画がいくつも入るとそんな事を考える暇もなくなって必死に技術を
高めるための経験や納期に追われた生活をしたものだ。

気がつけば責任のある立場に立たされており仕事も面白くなっていた。
新人や若手の研修会ではよくいうが「どんな仕事でも給料を頂いているのだから
懸命にやること。そして、プロになろう。それでも自分の道と違うならさっさと
新たな道へ行った方がいい。」

企業での人材育成には多大な費用がかかる。
戦力を獲得するにも同じく多くのお金がかかる。だから大事に育てる気持ちはわかるが
鉄は熱い内に打ての諺はまさにそのとうりであろう。
愛情と厳しさをもって、新戦力の素質を見抜き、いい方向へ導きたいものだ。

テレビのドラマでみるかっこいいオフィスのシーン、特に六本木やそのあたりに構える
IT産業のそれはかっこいい、しかし現実とは大きく違うであろう。
泥臭い人間との関わり合いを経ての交渉の結果、提案、見積、契約、納品をする事が現実なのだ。
そんなギャップに耐えて、現実をきちんと捉え、仕事を楽しいものに変え、活き活きした
動きをしてくれる若者にこれからの世界を期待したい。

少なくても大赤字を出していながら高額な自己の所得確保、高級車や飛行機で
出社、出張するそんな経営者にはなって欲しくないとつくづく思う。

2009年 5月2日 記


---------------------------------2009年 4月----------------------------


桜の花が見ごろになってきた。早いもので今年も3ヶ月が経過してしまった。
街のあちこちでは新入社員らしい若者が黒いスーツ姿で歩いている。
自らの39年前を思い出してしまう。日本青年館での入社式に続いて湯河原での研修会。
なんだかんだで7月までの間コンピュータの研修に日々を送った。
営業実習では民家に飛び込んで電動式計算機(電卓)を売り込んでいた。
今考えれば当時は算盤の時代でありレシートが出て四則演算ができる機械は興味が
あったのだろう。行く先々で説明を聞いてくれたのを憶えている。
途中で公園に入りパンをかじって空腹を満たす等、今となっては懐かしい思い出だ。
真っ白な体で入ってくる若者に変な色を付けないようにしなければならないと毎年思う。

3月31日夕方の電車では手に花束を抱えた会社員とおぼしき方が多かった。
恐らくは定年で年度末を迎えたのであろう。何か服装と花が釣り合っていない。
少しアルコールも入っているのか笑顔が長い人生を語っているようだった。
いずれ自分もあのようになるのかと思えば他人事とは思えない一時であった。

春になり野球が盛り上がってきた。WBCでは宿敵韓国に競り勝って2連覇を成し
高校野球では長崎県勢としては初の優勝を県北の「清峰高校」がやってくれた。
誰か親戚や知人がいるわけでもないが今の景気悪い世の中ではうれしい出来事であり
生活に力を貰ったようだ。
飲み屋の中では知らない人と握手をしたり一気飲みをしたりと大変な盛り上がりであった。
政府の出した特別なんとか金よりも効果があったのではなかろうか。
もっと早く支給を決定しておれば「WBC 2連覇記念 9人で12,000円ぽっきり」とか
「清峰初優勝記念 長崎県出身者は何人でも12,000円で飲み放題!」なんて
事になって更に景気を良くしていたかもしれないと思うが。。。。。。
政策を決定する側があんまり生活に苦労していない人種なので無理なのか
アメリカでは会社のTOPが倒産寸前なのに自家用ジェットにのって政府にお金貰いに
きたり、多額の、それも庶民には気の遠くなるなるような数字の賞与を貰っている
ニュースを聴くたびに怒りを覚える。

毎年、公園坂の桜を写真に撮って送ってくれた友人が去って1年になるが
今頃は天国で花粉症に手を焼いているだろうか。
天国には杉とか花粉をばら撒く木々や野草はなく、咲いているのは蓮の花だろうから
花粉の影響はなく
快適な生活を送っていることだろう。
地上の我々も、日々楽しく、そして充実した生活を送りたいものだ。

2009年 4月4日 記


-------------------------2009年  3月----------------------------


春の足音が聞こえてくるこの頃だが8年ぶりにイギリスへ夫婦で行った。
ロンドン在住の友人には大変お世話になり、旅の思い出にも一段と印象を強く残した。
今回は青春時代の憧れの地「リバプール」へと足を延ばしてみた。
Beatlesの出身地であり今の音楽生活のきっかけとも言える所であり友人と共に
ワクワクの旅であった。ロンドンから2時間あまりの港町であるが人口45万人位という
事であり、自分の故郷の長崎と同じようだった。
やはり、大戦中は戦艦を作ったり連合軍の補給拠点となったことからドイツ軍からは
攻撃を受けたようだ。このあたりも長崎と似ていると思った。
そんな中でマジカル・ミステリ・ツアーというバスツアーに参加してBeatlesにまつわる
各種の跡やお話を聞きながら過ごした。バスの中ではリバプール訛りの司会者が
クイズを出しているがよく聞き取れず困ったが、友人の助けでなんとか参加できた。
私より年上の方々が世界各地からきていたがBeatlesファンなのであろう、感心する位よく知っていた。
リバプールの他はグリニッジ天文台やストーンヘンジ、バース、最後はテムズ河畔のマーロー
にある「コンプリート・アングラー」での豪華な昼食&ハリーポッター撮影現場等を見物して帰路へついた。
忙しい中、一緒につきあってくれた友人には感謝感謝でいっぱいだ。
昨年から夫婦で旅をする機会が増えてきたが今後はもっとこのような機会が増えるであろう。
4月1日はサラリーマン人生の40年目となりいい節目となる。
「始終(しじゅう)暇なし」で楽しい人生を分かち合いたい。

昨年は、やはり友人の死によって悲しみにくれていたがロンドン出発の前日に
1周忌法会が営まれ手賀沼湖畔にある墓苑に遺骨が納められた。
遺族の皆さんや友人たちと共に思い出話が絶えなかったのは言うまでもない。
先月書いた「おくりびと」がアカデミー賞を受賞したことも何かの縁であろう。
母の葬儀の時にも納棺師がきてくれ体を拭き、顔に化粧を施してくれた。
つやつやの肌の感触が今もこの手に残る。
背中で聞いた「長崎物語」の一節は61年経った今でも忘れない。
もうすぐお彼岸がくる。彼岸水仙が咲く頃だ。
花の色は違うが白い水仙を赤い曼珠沙華に見立てて。。。

赤い花なら曼珠沙華、オランダ屋敷に雨がふる
濡れて泣いてるジャガタラお春 未練な出船の
ああ鐘が鳴る ララ鐘がなる

今度の施設慰問演奏では心を込めて歌ってみたいと思う

2009年 3月14日 記


-------------------------2009年  2月------------------------


2009年も1ヶ月が過ぎ、景気のみならず気候も一段と寒くなった。
報道では派遣社員の悲劇や悲惨な生活状態を伝える。
また、大手の企業の人員整理や決算下方修正が相次ぐ毎日だ。
高度成長時代に生きてきた我々には想像もつかない事ではあるが
オイルショックの時はなりふり構わず働いたものだった。
昼は営業をやり代理店の方々と売り込み、夜帰社してからは本来のエンジニア
としての仕事を行い、帰りには安酒をあおって愚痴をぶちまけたものだったが
先輩との意見交換ができて、それが楽しくもあった。
贅沢をいわなければ生きていく為の術は必ずある。
かっこつけるのをを捨てれば何でもできるのではないか。

先日、家内と「おくりびと」という人気の映画を見る機会があった。
音楽家をすてて「納棺師」という職業についた若者の物語だった。
旅のお手伝いという新聞チラシで応募した会社は、実は葬儀屋さんだった。
旅行会社と思った主人公は社長との面接でもまだ気がつかず、現場にでて初めて知った。
自分を振り返ってみれば「こんな会社のこんな現場で働きたい」と夢をもって
入った会社だがきがついてみれば全然違う部門で生きている。
それでもその道のエキスパーターとして活動する内に仕事への誇りと
夢を広げていく。やがては最初の志とは違った職業・部門ではあるが世の中に
貢献できたことで満足の人生を振り返るような気がする。

もうすぐ新たな社員がまた入ってくるだろうが職業に対する考え方には一言申し上げて
おく事も考える。どんな仕事も。どんな職場でも与えられた中で一生懸命やる事で
喜びが出るのではなかろうか。テレビドラマで見るシステムエンジニアの格好に憧れるだろう。
しかし、現実はこれほどヒューマン技術を要する仕事はない。
人と人との会話の中から解決策を探り、提案し採用され評価される。
まことに泥臭い仕事である。IT系の営業もしかりである。

収入については何ともいえないが、先輩の言葉で「給料とは
どんだけもらっても満足しない金額のこと。。。」というのを未だに覚えている。
だから、一円でも上を狙って業績に貢献すればいいのだろう。
米国では破綻企業のトップが信じられないような金額を懐に入れている。
オバマ大統領が激怒していたが当たり前だ。
金銭感覚の麻痺については近年の事件をみればよくわかる。
若者の中でも信じられないような生活を送っている話が聞こえるが、元の感覚に
戻る時は廃人状態ではなかろうか。

自分自身も今後の生活の中では生活の実感覚を良く見ながら楽しくやっていきたい。
今月で61歳を迎え、いよいよサラリーマン最終ゴールが見えてきたが
新たなスタートでもある。今以上に若者たちとワイワイガヤガヤできればと願うものだ。

2009年 2月7日 記


-----------------------2009年 1月----------------------


新年、明けましておめでとうございます。
今朝の関東地方は雲ひとつない日本晴れとでもいいますか清々しい空をしています。
大きく息を吸い込むと新たな活力が沸いてくると同時にどうか今年も健康で
過ごしたいという気持ちでいっぱいです。
昨年は人生の中でも色々な節目を迎えました。
今年からは新たな気持ちで多くの方と多くの言葉で交流を図り、悔いのない
人生の一ページになればと思うのです。
この数年、友人、知人が遠く去っていきました。人間ですからいつかはそうなると
思っても自分より若い人がそうなることは悲しいものです。
仕事の比重が段々と低くなり自分の時間が増加する事になるでしょう。
やはり、だらだらと時を過ごすのではなく嘘でもいいから「目標」を立て、それに向かう
事が充実した生活の源のような気がします。
喜びには全身で喜び悲しみには全身で悲しみ、怒りには全身で怒るという人間本来の
姿を取り戻し、良いこと悪いことを判断して最後は笑顔の毎日であればとも思うのです。
さて、色々と書きましたが今年は少し旅行をしてみたいと思います。
昨年より夫婦で少しずつ計画していますが時間の調整が利くようになった現在は
それを実行に移す時期かもしれません。
海外の友人からも声がかかっており、ありがたくお邪魔しようと思います。
また、音楽面では更に充実を図り、特に後輩への指導を中心に活動をして
自分がいなくても以後継続が可能なようにしていこうと思うのです。

昨年から我が家の「ゴムの木」はベランダに出したままの状態です。
それは、今まで11月には室内に入れて越冬させていたのですが今回に限り
厳しい寒さを経験し体で生き抜く事を覚えて貰おうということからです。
やりすぎて枯れては元も子もないですがぎりぎりまで今のような状態を継続して
春を迎えて欲しいと思うこの頃です。幸いに今のところ元気な様子ですので
このまま見守りたいと思います。夏に切り取った枝から新たな根が出て、小さいゴムの木
が育ってきました。いままで何度も失敗していますが今回は上手くいきそうです。
大阪時代に道に捨てられていた今のゴムの木が次世代に引き継ぐ
時期がきたのかもしれません。
何かを引き継ぐときは甘い状態よりも厳しい状態であれば自分がいなくなった
時にそれ以下にはならないでしょう。

今年は丑年ということですが景気の回復はチータのようなスピードで来て欲しいものですね。
皆様のご健康とご繁栄を心からお祈り申しあげます。

2009年  1月1日   記


----------------------------2008年 12月---------------------------


街路の木々は既に木の葉を赤くして散って行った。
1年の時の経過はいやがうえにも速く感じるのは私だけだろうか。
世界的な金融不安の波が押し寄せており、新聞やTVその他では連日の報道だ。
もうわかったから他の明るいニュースにしてくれと思う毎日である。
いとも容易く高額なお金を入手することに現をぬかすとそのしっぺ返しが痛いだろうが
堅実に身の程の収入でやっている自分にとってはそれほどの脅威とは思わない。
近年のマネーゲームはいい加減にして汗をかくことに注力していけばと思う。
使えるものは大事に修理して再生し、資源を活かすことは今の時代には
一番大事な事で、取ってつけたようなキャッチコピーで資源の大事さや
CO2排出抑制の声明を聞くが、おかしいと思うのはこれまた私だけか?
まーそんな怒りにも似た前置きだが今年も最終月となってしまったので振り返ることにする。

今年の春は友人、叔母の逝去があり悲しみに暮れる日々が続いた。
永年の友人で偶然にも近所に引っ越してきた彼とは昨年の12月30日
大洗の温泉&魚介類買出しをしたのが最後のドライブ、食事であった。
その後、1月12日に彼が仕切る恒例の町内餅つき大会を開催したがいつもの
元気がなく、辛そうに咳き込んでいたのが脳裏を離れない。
その後の検査結果は二転三転し、結局帰らぬ人になってしまった。
もっと早く色々なてをほどこしていればどうであったか。。。。。。。。。。。
しかし、皆にその人柄や功績を惜しまれて逝った。極めて残念!!
その後、5月には親代わりだった叔母が急逝した。
いつも暖かく、時には厳しく相談に乗ってくれたものだ。
私の母とも気が合い、母にはズバズバ歯に衣を着せず進言しても
その人柄からくる言い回しには笑いが絶えなかった。
今頃は父母と一緒に天国で、そこに友人も加わって話しに弾んでいるだろう。

2月末に還暦を迎えた。
人生50年とは織田信長の台詞だが、なんだかんだで60歳を迎えてしまった。
サラリーマン生活も満38年をすぎ無事役目を終えることができたことは周りの皆さんに
感謝したい。特にこの27年支えてくれた家内と子ども達には言っても言い尽くせない。
今後は健康留意で社会のお役に立てばと思うこの頃だが未だ会社に残っており
後進の指導を続けており、まだまだ頑張らなければならないだろう。
仕事をする気力を出してくれた音楽活動では多くの仲間に感謝をする。
転勤や異動が伴うサラリーマン生活であったが色々な方法で継続してきた事とは
自慢ではないがよかったと思う。

その会社では先月中ごろ久々の海外派遣を仰せつかり3名の社員とカンボジア&ベトナム
方面を視察した。共に過去戦争が多くその傷跡は未だに消え去ってはいない。
特にカンボジアは各種の社会インフラの整備が必要であろう。
日本でも学校建設へ芸能人がオークションやって資金を募っているが確かに判る。
また、地雷の撤去作業が今でも続いており、これには私と家内も一役かっている。
現地の方にこの話し(「地雷ではなく花を下さい」の楽譜売り上げの寄付を
10年以上続けている事)をしたところ感謝された。

先月行われた会社グループ音楽祭の宴会で出演者に地雷撤去の為の
寄付を募り、これまた撤去への支援とした。
数メーターでも撤去作業が進んで子どもたちの明るい笑顔が戻ればと願うばかりだ。
世界遺産となっている「アンコールワット」も内戦の影響で崩壊が進んでおり各国の
プロジェクトが復旧支援している。インド、フランス、それに日本の支援がされていた。
まだまだ時間がかかる長く、根気の要る仕事だと思われる。

現地の方々はアンコールワットを国の宝、自分たちの宝物と言っていた。
壁に彫られた数々の模様は当時の歴史を忠実に物語っている。
支配者の権力・財力を見せ付ける遺物かもしれないがその根底には
神を崇め、平和を願う心があるからだろう。
宝物を大事にして後世の人々に伝えて欲しい。
現在も世界のどこかで戦争が起きている。また、テロが起きている。
何年かしてこの愚行にきっと後悔するであろう。いい加減早く気づいて欲しいものだ。

年末は恒例のクリスマスコンサートが施設を中心に計画されている。
歌の合間のおしゃべりには今年の出来事や海外の話を交えて行きたいと考えている。
来るべき2009年をさらに充実した年にしていきたい。

2008年 12月5日 記


---------------------------2008年 11月-----------------------------


世の中は経済の混乱で毎日株価が上がった、下がったと一喜一憂である。
杜撰な経営のつけが自社のみならず庶民に与える影響について苛立ちを隠せない。
経営の一線から退いた今は少し距離をおいてアドバイスを与えようとするが
ついついむきになってしまう自分に苦笑する。
株主総会も無事終わり新たな体制で船が出港した。
これからは今までのような凪いだ海面ではなく嵐のそれになるかと思うが
それぞれの持ち場をしっかり担って目的地へたどり着いて欲しい。

先月は初めて出張の合間に家内と四国の土佐中村方面へ足を伸ばした。
そして、夢にまでみた四万十川を船で渡り、その自然の雄大さと噂にたがわない
澄み切った水流にしばし心が洗われたものだ。
土佐と長崎は坂本龍馬の海援隊、亀山社中等の話からもわかるように関係が深い。
色々な歴史館の資料を見学した。
国内での紛争ではなく世界と言う観点で先を読んだ人々が多くでている。
あの月の名所「桂浜」では遠くアメリカを睨んでいるかのような龍馬像をみるに
このような偉人を産んだ土佐の風土が今の日本にも必要ではなかろうか。
2日間の短い旅であったが得るところは大きな旅であった。

今年もあと2ヶ月となり、歳月のすぎる速さには毎度感心する。
毎年訪問している障害者施設のクリスマスコンサートに今年も声がかかった。
窓口の方が同じ長崎出身者であることも判り気合が入る。
今年も手作りではあるが会場の皆さんに楽しんで頂きたい。

今日は老人施設へ夫婦で慰問コンサートもある。
この施設では3ヶ月毎の慰問が定着してきたが
今日は童謡を始めとした合唱コーナーは盛り上がるだろうか。
いつも選曲に配慮しながらその模様を想像するが
思いのほか参加してくれるのでうれしいものだ。
自分の子ども時代に歌った歌は不思議と覚えており歌詞も自然と出てくる。
さー今日はガンバルゾー

ソソラ ソラソラ ウサギのダンス、、、、ショショ証城寺、証城寺の庭は、、、、、

あれマツムシが鳴いている、、、、、、村の鎮守の神様の、、、、、、

2008年 11月1日 記


------------------------------2008年 10月-----------------------------


朝夕の気温が心地よく感じられる季節になった。
街路の桜もいつの間にか黄色に変わり落ちるのを待っているかのようである。
季節は巡るが人生はそういかない。
たった一度の人生であり悔いのないもので終わりたいと思うのは私だけではないだろう。
しかしながら、あれやこれと頭を巡るアイデアもどれから手をつけようかと悩む。
結局自分のやり易いものからやっていくしかないのかと独り言が続く。
まだサラリーマンを続けている現在ではなかなかこの先を考える暇などないのも事実である。
結局、肩肘張らず自然体でいくことがいいのだろう。まだまだ多くの時間が待ち構えている。

先日、我孫子市社会福祉協議会の依頼で、「ボランティア市民活動(ボランシカ)」の
テーマソング(ビバ ボランシカ)のCD制作を行った。
家内のアカペラグループのメンバーに作詞をお願いして家内が曲を作り、男声合唱団の
皆さんの中から数人とアカペラグループから数人、我が家のスタジオにて別々に録音した。
8トラックをフルに使い、バック演奏も入れて手作りの100枚近くが
無事完成となり先週お披露目となった。
制作中は気がつかなかったが今更ながら歌詞をよく見ると頷く部分が多い。

「お互い助け合いながら リスタートの人生楽しもう」
そして「自分に出来る何かを探しながら 自分のために 誰かのために 明日のために」
なるほど。。。。。。これで行きたいと再確認した。

ビバ!! ボランシカ(作詞:岡崎京子 作曲:酒井玲子)

差し出した手に 誰かの手が重なり  大きな輪になっていく
私の小さな手が 誰かを支え  
貴方のその手が 私を支える
そんな繋がりが輪になって ボランシカは広がっていく
人は一人じゃ生きていけない

お互い助け合いながら  リスタートの人生楽しもう
自分に出来る何かを探しながら 自分のために 誰かのために
明日のために・・・ビバ!ボランシカ


2008年 10月4日 記


----------------------------2008年 9月-----------------------------


集中豪雨の被害があちこちで聞かれるが突然の大雨には為す術もなく逃げ惑うであろう。
昭和35年の諫早大水害の時にラジオから流れてきた街頭インタビューでは
「頭からバケツの水をかけられた様だった」という声を未だに忘れない。
その時、ちょうど夏休みであり、東京の親類宅へ長崎から行くときでもあった。
長崎本線は水害で諫早を通過できず、大村を通り有田方面経由で鳥栖へ行き
鹿児島本線へ合流ということだった。

そのルートを家内と久々に博多から電車で「ハウステンボス」へ行き、ゆったりと観光し
夜は諫早で友人と宴会をしてきた。長崎本線も当時は長与、大草という半島沿いにのんびり
したルートだったがスピード化のためだろうか喜々津からはトンネルができ、あっというまに
終着の長崎駅となってしまった。SLのはく黒煙や蒸気はいやでも情緒があったが電車に代わり
いつのまにかついてしまうのはありがたくもあり寂しくもある。
車窓を見ながらついついそんな当時を思い出したのだった。
諫早の夜は思いがけない旧友が続々と集合して時の過ぎる事を忘れた。
学生時代の出会いや思い出話、その後の社会人生活等、病院の事務長や弁護士
会社経営者と多彩な職業に分かれてしまったが話題はつきなかった。
翌日は長崎原爆記念の日であり、昨年急逝した旧友の追悼音楽会でもある。
二日酔いにならない程度にしようと思いつつもついつい進んでしまうお酒であった。
家内が撮ってくれた皆との集合写真にはそれなりの年代を思わせる皺がありいい記念となった

会社の方は後進への引継ぎが続くがついつい口を出してしまうので苦笑いが続く毎日だ。
同じ苦労をさせたくないという親心ではあるが「かわいい子どもには旅をさせよ」ともいう。
両方をうまく使いながら見守っていきたいと思う。

8月は施設訪問が2回あり皆さんのお元気な顔と声がなによりのビタミン剤となった。
施設スタッフの方々も色々研究をしてくれた跡があり一緒にやるのは、これまた楽しい。
年末の再会を約束するとそれまでの期間が長いのでもう一回来てほしいというリクエストがあり
うれしい限りである。早速、10月末頃に計画をした。
毎回四季折々の歌をベースに挟んでステージを構成しているが次回は
「秋」の歌をたっぷりとお届けし、一緒に歌う事を中心にと思い早速選曲に入った。

北京での五輪はいろいろな結果を出したが参加した選手、コーチ陣、、、、ご苦労様でした。
国を代表しての参加は相当の重圧があり、結果を考えなければ楽しいだろうが
そうはいかないのが実情だろう。
そんな中での金メダリストにはホントにがんばったと拍手を贈りたい。
参加することに意義があった時代から結果を出すことに意義がある時代へ変わり
企業の参加や賞金等、昔ではかんがえられないものになっている。
より高く、より速く、、、より感動を、、、、ロンドンを目指して!!

ベランダの水槽に飼っているめだかや金魚が水のせいか姿を消している。
水を入れ替え、水草も砂利も新たに入れて新環境でまた懲りずに数匹購入してきた。
(金魚には迷惑なことであろう=>キンギョ迷惑ともいう?)
聞けば餌の与えすぎが一番だめだそうだ。会社の活動と似ている。
適切な量の餌(情報、アドバイス)と環境を与えて咀嚼させ確実に成長させたい。

2008年 9月7日 記


----------------------------------2008年 8月-----------------------------------


毎日暑い日が続いており、特に夜は寝苦しく寝不足気味で辛い。
会社は先月の20日に決算日を迎えた。自分も役員定年という一応の決算を迎え
今後は常勤顧問という立場で残ることになった。
色々な考え方はあろうがお役にたてるうちはどんな形でも貢献していきたい。
まだまだ新事業部長への引継ぎなどでバタバタの毎日であるが今後はゆっくりとした
時間経過になるだろう。寂しくもあるがこれも世の流れと思えばなんてことはない。
何か新たな目標をもってslow lifeを過ごしたいと思うのです。

今月はお盆ということもあり、夫婦で帰省して昨年急逝した友人の追悼コンサート
やお墓参りをする。また、施設の皆さんへの慰問も2度ほど計画されてあり結構忙しい。
3ヶ月ぶりの演奏会となるが元気な顔をしているだろうか。
我孫子のある施設では今までに演奏した曲が120を越した。
色々なジャンルを織り込んで計画するが、よく聞いていただいたと感謝する。
今後も時間の許す限り夫婦でお邪魔し皆さんの元気ビタミンになっていきたいと思うのです。

先月は会社の元上司であり3歳上になる方が亡くなった。
訃報を聞いたときはすでに葬儀関係も全て終えた後であり残念に思ったが
故人の意思で密葬を希望され全ての方々には葬儀が終わった後にお知らせしたと
いうことを聞き「あの方らしいな」とつぶやいたものです。
入社当時からお世話になり酒の席ではその熱弁にいささかつかれもでるが
話題と雑学の豊富さには舌を巻く程でした。

九州の所長をされていたときは出張で訪問するとよく長崎の歴史話をしたものでした。
あまりに詳しいので帰省した折に長崎の図書館でその事実を調査したこともあった。
結果はものの見事そのとおりであった。その旨を報告するとニンマリと笑うのであった。
そんな名物男がまた一人いなくなり寂しい思いは私だけではないだろう。
63歳の若さで逝ってしまった事は家族もそうだが本人はもっと残念だっただろう。
無念だっただろう。豪快な酒の飲みっぷりと語りは今でも瞼の奥にはっきりと焼きついている。
心からご冥福をお祈りしたい。
合掌

2008年 8月3日 記


------------------------2008年 7月---------------------


ベランダの紫陽花がいつの間にか色褪せてきた。
毎年、決まった時期にピンクの花を咲かせてくれる。
やはり紫陽花は梅雨にぬれて輝いているほうが良く似合う。

2008年も半分が過ぎ、暑い夏がやってくる。
季節の変わりは身体や気分をリフレッシュしてくれると共に過去を振り返る時期でもある。
会社もこの7月で決算を迎え、新たな会計年度を開始する。
長く勤めたサラリーマン人生も一応の区切りをつける時がきた。
思えば九州の田舎から出てきて3年もつだろうかと不安な気分でいたのが
気が付けば38年という歳月になっていた。
ずっとコンピュータに携わってきたが思い出は山のように積み重なっている。
また、それと共に会社の仲間で継続した音楽活動も38年ということになり
よくもこんなに長くやってきたなと思うばかりである。
これからは時間が豊富にあるだろうからゆっくりとしたテンポでしっかりとしたメロディライン
を奏でていきたい。そして、色々な活動計画を持ちながら楽しく夫婦で生きていければ本望だ。

次男坊が先週の末で20歳になり家族で飲み屋で祝杯をあげた。
酒が飲めないのではないかと心配したが取り越し苦労であった。
親の血をひくノンベーであった。
真ん中にもう1人いたが生まれてすぐ亡くなり、その後なかなか出来ず色々苦労して
やっと生まれたのがこの次男坊である。(本当は三男坊であろうが)
今は大学生活を満喫しているであろう。
これからは長男、次男を交えての愉快な夕食を楽しみにしていきたい。

父は44歳という若さで世を去っていった。
厳しい父であったが習字や作文で習ったことは今でも忘れることができない。
夕方になるとラジオをつけて中国語放送を良く聞いていた。
また、膝の上に私をのせて「訪ね人」という番組を聴いていたのを覚えている。
満州、上海、ナホトカ、ウラジオ、舞鶴等という地名がよく出てきていた。
軍隊の所属部隊名や特徴等がアナウンサーによって伝えられていた。
何のことか判らないが記憶だけが残っている。
父は自分も抑留生活を過ごしていたことから戦友の消息をラジオで追っていたのだろうか。
生きていれば88歳であるが一緒に酒でも飲みたかった。

この夏には色々なコンサートが企画されており選曲に苦労する。
しかし、この選曲の間が一番の楽しいときでもある。
この曲で会場はどんな反応をするだろうか、のってくれるだろうか。
ステージ進行の場面が次々と湧いてくる。
仕事は一息ついても道楽では一息つかず皆さんの笑顔を求めて生きていきたい。

2008年 7月5日 記


--------------------------------2008年 6月----------------------------------


いつの間にか梅雨に入り気持ちもシメリがちな毎日です。
先月末、福岡の出張帰りの飛行機をおりたとたんに家内から携帯へ訃報メールが入る。
叔母が急死したとのことであった。以前より叔父の体調が心配されていたので
叔父の間違いではないかと確認するも叔母だという。
近いうちに顔を出してお話をしようかと考えていた矢先であり非常に後悔した。

学生時代にはよく寝泊りさせて頂き、何かにつけて相談に乗って頂いた大恩人である。
結婚に際しての行事では母が長崎から来れない時は親代わりに同席して頂いたり
子供が産まれたらすぐに駆けつけてもくれた。その度に激励されたものだ。

忘れもしないのは18歳で上京した折に、憧れの国産最高価格であったエレキギター
を銀座の楽器店まで買いに行き、知識のない田舎ものが「24回の月賦でお願いします」
と店員に伝えるや否や「未成年なのでできません」とにべもなく断られた。
目の前は真っ暗になり言葉を失ってしまった。気を取り直して
どうすれば月賦(ローン)で購入出来るかと聞くと、親か成人の兄弟の方ならば
できますという。なるほどそうかと思い、店から電話を借りて叔母さんに事情を説明して
快く引き受けて頂いた。今のバンド人生で最初の購入した国産の高額なギター
(昭和41年当事で本体=39,500円 ケース=6,000円)であり、これをもって大学ではバンド生活に
入って行ったのだった。その後は毎月遊びに行ったときに2,000円づつ2年かけて支払った。
いつも困ったときには相談相手になっていただき、それなりの答えを導いてくれたものでした。
最期は81歳と言うことで多くの家族に見守られながらあの世に旅立ったのでありました。
頑固な母もこの叔母には一目おいていた。思えば何よりも話に論理性があった。
大正15年に中国はチンタオ(青島)にて産まれ、昭和、平成と駆け抜けてきた。
波乱万丈な人生の中にコーラスやダンスを愛してきた方でもありバランスの取れた
考えに影響受けた私です。
お通夜の中で所属していたコーラス仲間の捧げる歌声は涙をさそうものだった。
今ごろは天国で私の父母達と楽しい会話に弾んでいることであろう。
合掌

来月は恒例の夏祭りが予定されている。
残念ながら今年は会社の決算最終日で出勤ということもあり参加できそうも
ないが協力できる範囲で参加したい。
しかし、いつもの音頭取り役である樋樫さんが居ないのは寂しい限りだ。
いつもは積極的に下準備をしてくれたが今年はどうなるのだろうか。
せっかく盛り上げてくれたのだから今年も何らかの形で継続をするだろう。

会社も自分も7月20日で区切りを迎える。
サラリーマン人生の最後をきちんとした形で終えたい。
周りの方々への感謝、家族への感謝、亡くなった伯母さんやその他
親戚の方々、音楽の仲間たち。。。。。。限りない方々。
今の自分があるのは皆さんのお陰であることをしっかり頭に叩き込んでいく。

紫陽花の花が色を付けてきた。
ピンク色の花がベランダに所狭しと咲いている。

橘の かおるのきばの 窓近く 蛍とびかい
おこたり諫むる 夏は来ぬ

2008年 6月7日 記


---------------------------------2008年 5月----------------------------------


ゴールデンウイークとはいえ曇り空でなぜか気持ちもすっきりしない。
物事を変えようとする場合にはまず己を見直して他人への発言と思う。
しかし、最近はその逆が多く見られる。
自分の立場を守ろうとすればそうならざるを得ないのだろうがそうありたくはない。

オリンピックの聖火リレー騒動が世界中を駆け巡っているが一体何だろうか?
自分の記憶では長距離ランナ−が颯爽と勢いをつけて道路を走り、次のランナーに
受け継ぐ様子を沿道の人々が見守るというシーンがある。
最近の報道によると、各界の有名人が100メートル以下の距離を歩くような感じで
何人ものランナーに受け継ぐシーンの連続だ。
沿道には多くの警官やガードする方々であふれ、一般の方々はその様子さえ見ることができない。
また、聖火に水をかけたり取り上げたりと様々なシーンがでてくる。
もうこれ以上見たくないと思うのが心境である。
本来の聖火リレーに戻ってオリンピックそのものも見直すべきではなかろうか。

先日は3月に亡くなった樋樫健治郎さんの49日法会が地元のお寺さんで
しめやかに執り行われた。
不思議なものでそのお寺の住職さんは私の高校同級生の知り合いの方で
九州は宮崎の出身であり娘さんは長崎のお寺さんに嫁がれたと聞いた。
場所を聞くと私の実家の近くのようだ。世の中は狭いものだとつくづく思う。
私と樋樫さんの仲がお寺さんまで続くということで縁がある。
法会のあとの住職による説話は感慨深いものがあった。
忘れかけていた何かがその瞬間に戻ってきたかのようであった。
樋樫さんの戒名の意味や浄土での模様など色々な意味を込めつけてくれたのだろう。
私に2年上のこの住職とは友人を介して再度お話しする機会をつくろうと思う。

時間の経つのは早いものでもうすぐで逝去から2ヶ月となる。
いつもこのシーズンは家内の音楽教室の発表会で彼に司会をして頂いていた。
朴訥なしゃべりでほのぼのとした中に味のある説明が特徴であった。
今年は残念ながら、そのしゃべりが聞けなかった。

4月12日に還暦・感激コンサートと称してライブをやった。
遠路、仙台、九州からも駆けつけてくれた方々には大変感謝しており一生の思いでになる。
また、多忙の中にもかかわらず来て頂いた多くの方々には言葉に尽くせないお礼を言いたい。
20年ぶりにステージにたった中川氏はあっと驚く着物姿で登場。
スタンダードジャズを3曲ほどトリオでやった。
ベースのメンバーが広島から来れなくなったので急遽私が代行した。
初めてのステージで練習も無くぶっつけ本番となったが意外と指は動いた。
やはり、昔毎週のように顔を合わせてやった仲であろう。
次回の「古希コンサート」は指や腕が動くだろうか。
ギターのビブラートは年のせいでよいよいになり上手くかかるかもしれない。
10年後が楽しみでもあるがお客さんは迷惑な話かもしれない。

会社はいよいよ後半戦に入り私自身も活動の総決算を迎える。
いい形で後進に道を譲っていければと思うのです。

水槽のメダカが水温の上昇と共に活発な動きになった。
誰が生徒か 誰が先生か判らないがそっと覗くと面白い顔をしている。
せまい水槽に入れられ迷惑だろうが元気に泳ぎ回って楽しませて欲しい。
そして、次代を引き継ぐ卵でも産んでくれれば尚うれしい。

2008年5月3日 憲法記念日 記


--------------------------2008年 4月----------------------------


関東地方は桜の花がここぞとばかりに咲き誇っている。
今日明日が見ごろと言う事で行楽地の桜の木下は沢山の人だかりであろう。

先月の今日、病気と闘っていた友人が残念ながら逝ってしまった。
最後まで回復を信じていたが戻らぬ人になってなってしまった。
何とも言えない空しさだけが残り、嘘だろうと思うが現実である。
今日は月命日であり線香をあげさせていただいた。
遺影の前に座ると声がかかりそうな錯覚がある。
ご遺族の悲しみはいかばかりか。。。。。
でもお子さんたちは元気な笑顔で挨拶をしてくれた。
なによりの元気の元になる。
きっと、天国にいる「樋樫健治郎さん」も微笑んでいるだろう。
苦しかった闘病生活を解放された今はゆっくり休んで下さい。

今日は次男坊は大学入学式ということで家内とおしゃれして出かけた。
元気で明るい青年に育って欲しい。そのためにも友人を沢山作り他人から学ぶ姿勢が欲しい。
外の世界を知り、自らの考えをそれと比べて見る。
そうして知識以外の成長も図って欲しいと願う。

昨晩は新入社員の歓迎会があり招かれた。38年前を思い出す。
長かったようで短かったサラリーマン生活もいよいよゴールラインが見えてきた。
故郷の長崎を18歳で出てきて42年間があっというまに過ぎ去った。
悔いのない人生ではあるが1人、また1人と去っていく友人には何かしら
寂しさ、空しさ、虚脱を感じる。
しかし、多くの方々もそうしながら人生を全うしていくのだから元気なうちに
色々なことをやっておこうとも考える。
会社の仲間で設立した音楽仲間の集いも軌道に乗ってきた。
ついついむきになって教える姿は恥ずかしいが
これも未だ若さが残っている証拠と思いながら指導している。
やはり、練習後の酒と音楽雑談は格別なものである。
年齢は重ねても「わかっちゃいるけど やめられない」であろう。

来週は「還暦・感激コンサート」と称し、日頃お世話になっている方々をお呼びして
パーティ&コンサートを開催する。
沢山の友人・知人が着てくれそうで緊張する。
幕開けは忘れられぬRAY CHARLESのメドレー3曲で行う。

I CAN'T STOP LOVING YOU!!!
UNCHAIN' MY HEART!!!
HERE WE GO AGAIN!!!

2008年4月5日 記


-------------------------------2008年 3月---------------------------


関東地方は春一番が吹き荒れベランダの植木類がなぎ倒されてしまいました。
先週は電車もストップしたりと大変な週末でしたが今日から3月ということでしょうか
なんか穏やかな空模様になりました。
今週の月曜日に還暦を迎え「ついにきたか!」という思いです。
同僚からは冷やかしか祝福か判らない宴席を設けていただき感謝感謝です。
社会保険庁からは年金の手続き、なんて郵便物がくるし、否が応でも年を感じるこの頃です。
サラリーマンとして残された日々を全うしていきながらこれからの人生設計を
少しずつ進めていこうかと思うのであります。
しかし、その前に次男坊が何とか大学にひっかかってくれたので今まで
一番やきもきしていた家内の気晴らしを兼ねて小旅行をしたい。
子供もこの1年はいやな月日を過ごしたのだろう。合格通知を受け取ると素直な昔の姿に
戻ったようだ。家内から自炊の手ほどきを受けている様子はなかなか微笑ましい。

気になっていた友人の病気が奇跡的に回復しそうだ。
この知らせがなんといっても一番うれしい。
一時はダメかとも思ったほどの症状も、医学の力は偉大です。
また、本人の意欲もあったのだろう。意識を取り戻し携帯へのメールを打てるまでになった。
今後は急がずにゆっくり回復をして欲しいと心より祈るのです。

この間に2回ほどコンサートが開催された。会場の皆さんには「友人へのパワーを下さい」
とお話してきた効果があったのだろう。私までもが何か違う気持ちになった。
近隣の大型マンションにおける歌声の夕べに参加したが昨年同様、大変な盛り上がりだった。
2時間半というlong runであったが全然きにならない位のステージだった。
暖かい暖炉の周りでワインを飲みながら昔の曲に合わせて一緒に歌う。
やはり、心が拡がる。人それぞれ、思い出の曲は当時の模様を思い出させるのだろう。
自分自身も涙腺がゆるくなる時があった。
今回はリクエストも多く、多種多様であった。
今後もできるだけこれに応えていきながら一緒になったくつろぎのひと時としたい。
次のコンサートは先週末に、会社で新たに立ち上げたバンドのお披露目ということで
関係会社の方々に協力をいただきながら開催し、何とか無事終えた。
会場は満員御礼になり終了後の打ち上げも満員御礼、ありがたいという思いが一杯だ。

何かを企画してやり終える。なんとも言えない充実感があり次回への思いがむらむらと湧く。
みんなと交わす乾杯のビールのなんとも言えないうまさ。
このために生きているといっても過言ではない。
60歳になってもこの部分は譲れないということでますますがんばろう。

2008年 3月1日 記


------------------------------------2008年  2月------------------------------------


今日は節分ということで昼に南南東を向いて「縁起巻(恵方巻)」を食べた。
しかし、いつもの気持ちで鬼は外、福は内とは言えない。
というのも先週から知人が死の瀬戸際をさまよっており、次々にくる情報で
足が地に付かないからだ。昨年の11月ごろから喉が痛いという彼の言葉ではあったが
まさかこんなになるとは予想もしなかった。休日には公園の回りをジョギング
したりして汗を流し人一倍健康に注意していたのに。。。。。。。。
ロンドンにいる友人からも信じられない様子に戸惑いを隠せないメールがくる。
遠く離れているから尚更であろう。
今は、ただただ医学を信じて少しでも生きる可能性があればと神にもすがる毎日である。
自分よりも若い友人が苦しんでいる。その家族の気持ちはいかばかりか。
祈る  祈る  祈る

外は久方ぶりの大雪だ。この白い雪で病魔を駆逐して欲しいと思うのは私だけではなかろう。
この数年は暖冬で雪がなかったが今年は寒い日が続いており冬らしい冬ではなかろうか。
報道ではIT企業の不正や食品に混入された農薬による食中毒被害が大きく目立つ。

私の会社も上半期が終り、下半期に突入した。厳しい戦いの中ではあったが
なんとか形になってきた。100人近い部員とも心の交流ができ目標へのベクトルは
できつつある。この2年半は苦しんだがやっと光が差し込んできた。
その光を大切に追い求め、残されたサラリーマン人生をいい形で終えたい。
今月で60歳を迎える自分への言葉は「最後まで全力を」であろう。

もうスーツを新調する必要はなかろうと思ったが家内から最後まできちんとした
形でやったらとたしなめられ、雪の中をスーツ購入に行った。
新たな装いと気持ちで後半戦を戦いたい。
そして、今、病魔と闘っている友人にもそのパワーを送りたいと思うのであります。

夕方は受験戦争まっただ中の次男が恒例の「豆まき」をやるだろう。
彼もこの苦しい期間を乗り越えて大学生になって欲しい。

今夜は気を取り直して大きな声でやってみたい。
「鬼は外!  福は内!」

2008年 2月3日  記


--------------------------------2008年 1月-------------------------------


新年明けましておめでとうございます。

北日本を中心に大雪が降っているようで寒い年明けになってしまいました。
今年は「ネズミ年」ということで年男の私は2月に還暦を迎えることになりました。
昔の60歳といえば腰が曲がってシワシワのお爺さんを連想したものですが
近年はまだまだ働いていける年でもあります。しかし、世代の交代はやってきますね。
いつまでもしがみつくのではなくきちんと後輩、後世を託す人材に培った技術や
ノウハウ、その他マニアルには記載できない裏わざ(?)等をきちんと伝えていかねばなりません。
今年からはそんな事に比重をかけながら公私共に充実した年にしていければと思うのです。

今朝のベランダから見る景色は青空が拡がり気温は低いのですが風もなく穏やかな正月風景を見せています。
こんな風情を背景に毎日が楽しく明るい生活であればと願うものです。

最近、長男との会話が増えました。背広の選択アドバイス、晩酌相手は勿論ですが音楽の話等。。。。
今までは生活態度を改めるように口調も厳しくしていましたが多少変えて「男として認めた上で」
という前置きを入れて接すると長男から色々な話が聞けます。
先日も気軽にドライブ兼温泉浴&魚介類買出しに誘ったら(多分、朝起きないだろうと半ば諦めていたが)
ちゃんと付き合ってくれた。
そして、道中は楽しく会話も出るなど意外な面を発見し、いままでの自分の接し方に反省をしたものでした
確かに自分も振り返れば、社会人になったとたん、あれほどうるさかった母が何にも細かいことを
言わなくなったので逆にきちんとしなければと思ったことを思い出します。
お互いに「認め合い」「信じあう」ことの大切さを今さらながら年末に感じたのでした。

今年の音楽活動は近隣の方々へのミニコンサートと会社で立ち上げたばかりのバンドデビュー
老人施設での花祭りコンサート、それと自分の還暦ワンマンコンサートを春の目標に挙げている。
近隣の方々との交流は楽しく、同世代の皆さんからのリクエストは今からドキドキものです。
昔の「歌声喫茶風選曲」や「1970−1980年代のフォークソング」等。。。。。2時間のステージ
ですが時間の経過を感じさせないものにしていこうと思いながらワクワクしている。
この計画する楽しい時間や「ワクワク感」を目標にもちながら今年も健康で暮らしたい。

末筆ながら、皆様のご健勝を心からお祈り申し上げます。

2008年 1月1日 記


-------------------------------2007年 12月----------------------------------


今年もいよいよ最後の月を迎えた。
あれだけ暑かった日々が嘘のように冷たい風が頬を撫でる。
街路の桜の木は段々と葉を落とし、よく見ると蓑虫の袋がぶら下がっている。
虫たちもこれからの寒い日々を迎えて支度しているのだなと感心するばかり。

今や日本中の食品は嘘のかたまりなのか、次から次へと出る偽りの話。
金儲けのためなら何でもありという事ではないのだろうが結果として
そうとらえられても仕方がないような事件ばかりである。
いつからこのような風潮になっていったのだろうか?悲しい話だ。
企業ではコンプライアンスということで色々騒いでいる。
真にこのことを理解し、遵守して行かなければ日本はだめになる。

先週、定期コンサートを実施した。今回はかなり練習して臨んだが初めての場所では
色々と予期せぬ出来事が起こる。今まで数多く経験してきたが何回やっても満足する
ステージングというものはない。マダマダスキルが足りないのだろうか。
しかし、来場のお客様とのやりとりではほのぼのとした中に満足感があった。
今回は初挑戦で45年前の歌謡曲だった三橋美智也さんの「星屑の町」をとりあげ
て軽いレゲエのリズムの中に歌ってみたがなかなか難しかった。

両手を 広げて 帰ろ 揺れながら
涙の中を たった一人で
優しかった 夢にはぐれず
まぶたをとじて 帰ろ まだ遠い
赤い ともしび

昭和37年に流行したこの曲は、当時中学生だった私には鮮烈に聞こえ
330円を握り締めてシングル盤を長崎の町まで買いにいったものだった。
先日、そのシングル盤を久々にかけてみたがシャリシャリした音が多く
何回も聞いたのだなと言うことがいまさらながらわかり懐かしかった。
そんな事だから歌詞は今でも憶えており、ステージでは当時の故郷の夕方を
思い浮かべて歌ったのでした。
bluesと歌謡曲、何か共通するものが感じられる。
あまり小難しい素材より身近なそれを取り上げていけば会場との
コラボが上手くいくかもしれないと常々思うのであります。

今月末は色々な施設でのコンサートが待っている。
皆さんの笑顔と元気な声を期待して楽しいステージにしたい。
来年はサラリーマン生活の節目を迎えることになるが最後まで全力でやりぬきたい。
そして、還暦コンサートでは多くの仲間と楽しいステージングで笑い、涙の時間とする。
このブログも2007年最後のめっせーじになります。
この1年間のご愛読を感謝しつつ、皆さんのご多幸をお祈り申し上げます。

2007年 12月1日 記


---------------------------------2007年 11月--------------------------------

異常気象の影響か関東地方の紅葉前線の到来が11月末になるようだ。
紅葉無くしてすぐに落葉という現象もあると聞く。
季節の変わり目で気持ちの切り替えをしてきた我々にとって
このような現象は気分的にもすっきりしない。
とは言え、今年も残り2ヶ月となり慌ただしくなる事への苛立ちや
新年への期待が入り交じる。


会社では第一4半期の締めが終わり後半へと続く。
毎日の時間経過が速くあっという間の週末が多い。
トラブルやクレームが発生するとこの時間が倍速で過ぎてしまう。
植木等さんの「わかっちゃいるけどやめられない」は極めて人間の本質であり哲学的な表現だと、
和尚さんである彼の親父さんが、歌うことを悩んでいた植木等さんへ激励したという。
何かをしなければならない、本質はこうだ、こうしなければならない。。。。しかし。。。。
こんな生活では健康状態は良くない、酒は良くない、タバコは。。。。しかし。。。。
「わかっちゃいるけどやめられない!!」
こればかりでは破滅するかもしれないが時にはこのような開き直りも必要な気がする。
時間に追われてあれこれ悩む事もあり、しなければならない課題に追われるかも
しれないが息抜きと体の休息は「わかっちゃいるけど。。。。」の気持ちでいかねば
身が持たないのではなかろうか。

今月末から来年いにかけてコンサートが連続する。
恒例の行事になっているものもあり久方ぶりの再会はなによりも嬉しい。
我々の稚拙な演奏であるが喜んでくれるシーンは心のオアシスとも言える。
障害というハンデをもたれている方々や痴呆障害のハンデをもたれている方々への
ささやかなクリスマスプレゼントになればと思い既に5年を迎える。
一生懸命に生きながら、純粋に音楽を楽しんでくれる皆さんは最高です。
そして、何時の間にか色々な事を教えていただきました。
我々の気がつかない世界が多くありものの見方や考え方は大変勉強になります。
今年は何曲か一緒にやってみようと思い選曲に悩んでいる。
でも、悩むより思い切り元気な演奏をお届けすることが大切なことかなとも思う。

今年も残り2ヶ月となったが西暦2000年問題などで騒いだ時から10年の歳月が
経とうとしている。今話題の医療制度改革ではしばらく制度変更の対応が続く。
コンピュータ業界では息つく暇などないのであろう。
ありがたく受け止め、チャンスとしてこれを捉え人材の育成に結びつけばと思うのです。
そして、残されたサラリーマン人生を「わかっちゃいるけど。。。。」でも唱えながら
有意義に送ろうと考えるこのごろであります。

2007年 11月4日 記


------------------------------2007年 10月--------------------------------


晴天の秋の空、近所の幼稚園や保育園では運動会が開かれていた。
我が子の動きをカメラにおさめようという親たちの動きがなんとも微笑ましい。
私にもそんな時代があったが忘れかけている。

先月は故郷の長崎にて中学の還暦同窓会が開催され無事終えて帰宅した。
久々に会う面々は面影があり時がたつのを忘れさせた。
さすがに恩師たちは高齢と言うこともあり参加がなかったが同窓のみんなは
まだまだ年齢を感じさせないものだった。
いろいろな同窓生から声をかけてもらったが、呼び名は45年前と同じく
「昭ちゃん」だった。そして、私も応えるときは「何何ちゃん」という当時の
呼び名でありタイムスリップしたひとときといえる。
話題は当時のことだが覚えていないことがたくさん出てきた。
やはりそれぞれに当時の事を大事に胸の奥へしまっていたのだろう。
話は明け方近くまで続き冷蔵庫のビールや飲み物は売り切れ状態でもあった。
約1割位の同窓生がこの世を去ったという報告があった。戦後2年から3年の頃
食糧事情も良くない中で育児をしてくれた親には頭があがらない。

先週、今週と週末に部下の結婚式がありスピーチの機会を頂いた。
(スピーチのみならず夫婦で歌まで歌うというおまけ付きだが)
やはり言葉に出るのは「ここまで育ててくれたご両親への感謝を忘れるな」
である。やがて生まれ出てくる子供を真っ先に喜んでくれるのは自分たちもあるが
両方の親御さんたちであろう。
そして、家族が多くなり各種の行事にはワイワイガヤガヤという微笑ましい光景ができる。

昨今の新聞やTVでは目を覆うばかりの記事や報道が多すぎはしないだろうか。
年上や親を敬うという事が遠くに忘れ去られたのだろうか?
いや、そうではない。
古いかもしれないがきちんと子供に伝えて行かねばならない親の義務と思う。
尊敬する、敬う。。。。何か最近聞かない言葉ではないか?
せめて自分だけでも復活させたいモノだ。

今年も後3ヶ月になりやがて冬が訪れる季節になった。
庭の桜の葉には黄色い模様や赤い色づきが見られる。
やがて散っていき春を待つのだろう。
還暦まで5ヶ月となるがマダマダしなくてはいけないことが山積みのなか
一歩一歩前進したい。
そして、それを支えてくれる多くの友人や同僚、部下へ大いなる感謝をしたい。
母が亡くなって今月の18日で満4年を迎える。
赤い彼岸花の咲く田の畦を見るときは今でも背中で聞いた歌を忘れない。
年末には恒例になっている障害者施設と老人施設の慰問演奏が控えている。
天国の両親や先に逝った同窓生にも届けとばかり、精一杯がんばって歌いたい。

2007年 10月7日 記


--------------------------------2007/9月------------------------------------


残暑が厳しく寝不足の毎日だったがここにきて朝夕が涼しくなった。
蝉の声も聞こえなくなり代わりにトンボの姿が多くなったようだ。
季節の変わり目は色々なことを教えてくれる。
新たな気持ちで秋を迎え活動に拍車をかけたい。

7月の13日(金曜日)、長崎の友人から携帯に電話が入った。
電車に乗っていたが悪い予感がしたので次の駅で降りて電話すると長年の友人が
先ほど亡くなったということだった。1昨年より癌の治療をしていることは聞いていたが
そこまで進行しているとは思わなかったので、しばし声が出なかった。
60歳という若さで逝ってしまったのだ。
昨年より病気回復激励のつもりで作った自主制作のCDは4枚であったが
最後のタイトルだった「ONCE UPON A TIME 4」への辛口批評が聞けないのは残念だ。
きっと、あの世で私の父母や2年前に亡くなった「奥田君」とワイワイやっていることだろう。
高校時代から今までの40数年は何かに付け話題の多いやつであったが
いつも友人に心配され、最期見守られての送りは幸せだったと思う。
心から冥福を祈るばかりだ。葬儀当日は生憎大型台風で交通機関が全面遮断され
身動きが出来ず送る言葉をかけられなかったことは残念だがきっと許してくれるだろう。

来週には長崎で小学・中学校(島にはそれぞれ1校しかなかったので)の同窓会が開催される。
「還暦同窓会」と銘打っており、どんな顔になってなっているか楽しみなことである。
16歳で卒業しそれぞれに別れてから43年の歳月が経過した。
今年から来年にかけて定年を迎えた、或いは迎える世代、いわゆる団塊の世代真っ只中の
連中であるが多分、のんびりとした老後をおくること間違いなし。
小さな島で送った16年の生活は今でも忘れることは出来ない。
お寺の鐘や港に到着する船の警笛が時計代わりであり、車も犯罪もない実に平和な生活だった。
そんな昔が瞼を閉じれば頭の中を走馬灯のように浮かんでくる。
残された人生への大きなパワーと勇気をお土産にもらって来ることにしたい。

ここ数年、枝や葉が少し枯れ気味でもうだめかとさえ思っていたベランダの金柑の木が
今年は珍しくたくさんの花を付け更に小さな実になりはじめた。
土壌の改善と肥料の与え方が効果を出したのかどうかはわからないが
毎日その成長過程を見るのが楽しみになっている。

会社では人材の育成を再度大きなテーマで進めているがこの金柑と同じかもしれない。
土壌の改善、肥料の与え方、毎日の観察、、、、、全てに通じる。
自らの手を汚して土を変えることや育成に必要な栄養付与、そして日々のコミニュケーション等
育成のセオリーではあるが根気強く実行することで立派な「実」になることであろう。
これから迎える寒さに耐えうる丈夫なそして美味しい実になることを願って。。。。。。

2007/09月02日 記


-----------------------------------2007/8月-----------------------------------------

 梅雨前線が移動したとたんに酷暑となり寝苦しい毎日になった。
新潟中越沖地震で被害に遭われた方々はなおのこと大変であろうと思う。
早く復旧、復興されることを心から願いたい。


この1ヶ月は色々な事が日本国中を駆けめぐった。
つい先日は参議院選挙で思わぬ結果を招いた方々やその後の大臣交代等、
悲喜こもごもの状態を報道はおもしろおかしく伝える。
しかし、もっと選挙そのものの本質問題やこれからの国政についての報道が
できないのかとつくづく思う。
軽率な発言で更迭されたり自ら身をひいたりと毎月のように

誰かが何かを言った言わないで時間を割いているような気がする。
全ての出来事ををバラエティ化したり、実際の出来事とは違ったものに
作り替えているのはTV局だけではない、食品でも同じ事が明るみになり
連日報道されている。「捏造」という単語が氾濫してはいないか。。。何とも悲しい。

先週末は台風で延びた恒例の「夏祭り」が行われた。世話役や準備委員の
方々も大変な労力でこれにあたったことであろう。私も例によって長男と
共にお手伝いをした。今年は御神輿の担ぎ手に挑戦したが見た目と実際に
やることの差に愕然とした。小さい御神輿といえど「重い!」の一言である。
また、中学生を中心とした担ぎ手であるために身長差がはげしく、バランスが
取り辛い等のことがあり、炎天下での2時間の運行は体重を3kgダウンさせた。
しかし、子供達は頑張った。参加してくれた子供達には大いに感謝したい。
ゴール直前での子供達の大きな、そして元気な声が今も耳に残っており
大団扇で風を送ってくれた子供にも感謝をしている。

町内の長老にお聞きすると年々参加者が少なくなってきたとのことだが
毎年楽しみにしている子供も確実にいる。日頃接触できない子供達とは今後も
体力の続くかぎり世話役共々参加していきたいと思うのであります。

会社の方はは無事本決算を終え、新たな決算期をスタートさせた。
還暦まで7ヶ月となった
再度現在の職務をやることとなり日夜奮闘せざるをえない。
現職場で2年間が経過したが時の経過は早いモノです。
これからの時間は数字の実績と共に組織文化・風土造りというかそのような側面
も仕上げていけたらと思う。


来月は故郷・長崎にて小中学校時代の仲間との「還暦同窓会」が開催される。
16歳でそれぞれの道に別れて以来の同級生も多々いる。先生方も来られるだろう。
忘れかけていた方言での尽きない話が時間の経過を忘れさせてくれると思う。
今後、再会ができるかどうかは判らない年齢になるが
参加者全員に挨拶だけはしておきたい。 

2007/8月8日   記


-------------------------------2007年 7月-----------------------------------


今日から7月、1年の半分が過ぎたことになる。
昨日は舞浜のホテルで会社のパーティがあり、全国から集まった社員とその家族で賑わった。
普段見せない家族との風景はその人の違う一面を発見でき大変うれしい。
例によってパーティ盛り上げに一役と思いバンド演奏をやった。
採譜、音源の複製と配布、練習、機材搬出入、セッティング、出演打合せ等の裏方作業は
演奏の華やかな面とは違い大変重要な事とメンバーには何回も言い続けている。
また、メンバーもそれを守ってくれており大変うれしい。
たまにはセッティングの完了したステージで即演奏というシーンもあるが演奏後に
反省、是正等の発想もなく記憶もないことはここら辺にあるのではなかろうか。
自分たちで作り上げていくイベントとして、また来場の皆様への感謝を込めて活動することこそ
忘れてはいけないことであり、演奏技術よりもこの精神を引き継いでもらいたいと常々考えるのです。

会社も今月で本決算を迎える。毎月、3ヶ月、6ヶ月というサイクルが目まぐるしくやってきて
気がつけば翌年への計画、組織編成等がはじまっており息をつく暇もないとはこれを言うのか。

同期入社の仲間が毎月のように卒業の挨拶をくれるようになった。
いつかは自分にくるということを頭に浮かべながら会話をしているが複雑な心境でもある。
若い世代の有能な芽を発見して育ててものにさせる。まだまだ「卒業」を云々する時では
ないと言い聞かせ、残されたサラリーマン人生を送りたいと思う。

日差しは日々強くなり、木々の緑も一段と深まっているこの頃ではあるが夏はやはり
暑いのであり、暑さゆえの面白いことや楽しいこともある。
あと2週間で近所の町内での「夏祭り」がある。子供たちや普段お付き合いのない近隣の
ご老人の方々と色々な昔話ができることは楽しみのひとつでもある。
町内会ではこの秋か冬には「歌声喫茶風演奏会」の企画も承認された。
また1つ地域の名物行事になればと思う。

住んでいるマンションには小さな子供がずいぶんと少なくなった。
確かに26年前に我々が結婚た頃は小学生が多く、集団登校シーンが見られたものだが
最近はまったく見かけたことがない。休日にも自宅で遊んでいるのか勉強しているのか
判らないが地面で遊ぶ子供を見かけない。
神輿を担いだり、山車を引いたりすることは単純な事だが途中で掛け声を掛けてくれる
商店街の方々は最高の「清涼飲料水提供」といえる。
今年もこの清涼飲料水を求めて子供たちと元気に廻りたい。

2007年 7月1日  記


---------------------------2007年 6月-----------------------------


いつの間にか梅雨が来ている。つゆ知らずとはこれなのだろうか?
ふと窓辺に目をやればベランダの紫陽花がピンク色をして心を和ましてくれる。
四季折々の変化は硬くなっていく心や体をほぐしてくれるもので感謝したい。
紫陽花は長崎県の花というが地元の北小金にある「本土寺」は鎌倉に次ぐ有名な所のようだ。
紫陽花は長崎の方では「おたくさ」とも言う。昔、シーボルトの日本人妻だった「お滝」さんを当時の方々
は「おたきさん」とよびそれが「おたくさん」「おたくさ」になったとの言い伝えられている。
お滝さんの娘は後の日本医学を支えた「オランダおイネ」です。紫陽花も丈夫な植物ですが
イネも日本人には大切な植物です。よって、長崎のお土産はお菓子の「オタクサ」がいいですよ。
というわけで出だしは長崎の宣伝になってしまいました。

今年の9月に中学時代の同窓会が長崎で開催されるという案内をもらった。
思えば転勤やその他仕事の都合で数年来参加しておらず久々に参加しようと心を弾ませている。
出身である「香焼(こうやぎ)町」は人口7000人位の小さな島でした。
一時は海底炭田でハイカロリーな石炭が採掘され当時の八幡製鉄へのコークス材として輸送されており
近くの港にはベルトコンベアーから細かくなった石炭が毎日輸送船に詰め込まれていたのを記憶する。
各地からやってきた人々で一時は15000人を越していた人口も坑内でのガス爆発事故で
多くの犠牲者を出し、やがて閉鎖された。
炭鉱関係で働く方々はやがて次の職場へと移転して行き、最後は元の人口になった。
もともと戦前から造船所もありその関係か造船短期大学もあった。
その後、大学は長崎市(網場=あば)に移転して単科大学から総合大学へと変わったようだ。
その大学生の方に家庭教師をお願いしていた時もあり、休憩時にたべるおやつが懐かしい。
その先生は同級生の兄上だった。大学の野球部で捕手をやっていた。
おやつ時間に野球の話や船の設計の話をよくしてくれたのを憶えている。
当時、話題は水中翼船であり羽の角度やエンジンの馬力等質問したものだ。
是非自分でも作ってみたいと思い、原付のエンジンをベースに製作したが結果は
羽の角度や強度がいい加減だった為にあえなく失敗した。
船体を浮かすことで水の抵抗を下げ、速度を上げるという画期的なアイデアに
当時の中学生だった私はワクワクしたものだった。
また、船首の下にある部分が球状なっている理由も水抵抗を下げるためという話も憶えている。
このように中学生までその島で暮らしたがいい思い出がたくさんある。

数年前に作った曲で「浪路の友」というのがあるが、これは当時の乗合船や桟橋、途中の島々
を思い浮かべて作った。時々皆さんの前で歌うこともあるが当時ののんびりとした光景は忘れない。
そんな昔の仲間に後3ヵ月後には再会する。さて、どんな会話で弾むやら期待したい。
同じ団塊の世代であり還暦を迎える、或いは迎えたおじさん、
おばさんのパワーはすごいだろうなと想像する。時の恩師も来るのだろうか。
会うまでの色々な夢が広がる貴重な時間を大切にしたいと思う。

仕事の上では7月の決算に向けての追い込みや次期の計画に追われる日々となった。
毎度の事とはいえ気持ちが引き締まることこの上ない。
現在の職場に異動して2年近くになるが「光陰矢のごとし」だった。
まだまだしなければならないことが山積しているが最後まで気を抜かずに努めたい。
先週は今年入社した新人のプレゼンテーションに参加する機会があったが
いつみても若さはいいものだ。輝きや可能性、きびきびした動きは忘れかけていた自分に
新たなパワーをくれる。次代を担う彼らとまた一緒に仕事をして活力を頂ければとも思う。

2007年 6月7日 記


------------------------------2007年 5月-------------------------------


柱のキズはおととしの  5月5日の背比べ
チマキ食べ食べ兄さんが 計ってくれた背の丈(たけ)
昨日比べりゃ何のこと やっと羽織(はおり)の紐の丈

長崎の実家の柱に傷は付いていないが鉛筆で書かれた身長の記録が残っている。
当時、下宿生を置いていた時のものだ。よく見ると中に「おばさん」というのがあった。
きっと母の身長なのだろう。80歳の頃と比べればはるかに大きい。
最後は背も曲がってしまったがあの「柱の印」を見るたびに思い出すのだった。
いっそ消してしまおうとまで思ったが貴重な記録であり残している。

ゴールデンウイークという名前が定着して久しいが面白い呼び方だ。
連休といえど月間の稼働日数は決まっており管理者としては頭の痛い事でもある。
しかし、ここは素直に休日を楽しみながら日頃できない事や旧友との再会を喜びたい。
周りの木々は新緑がまぶしく、あの桜の木もよく見れば小さなさくらんぼの実を付けている。
山間部を車で通れば黄緑の葉と鶯の鳴きがこだまする。何ともいえない清々しさを感じるのだった。

最近は子供たちの前で演奏する機会が多い。
子供といっても童謡や唱歌ではなくテレビのアニメ主題歌や番組のテーマソング
のリクエストが多い。決してやさしくはなく練習しなければものにならない。
とにかくリズムが凝っているのであなどれない。
そんな環境の中で育った子供たちなので耳が肥えているのだろう。
演奏の出来栄えは彼らの体の反応を見ればすぐわかる。
自分の子供時代には音楽を聞くことも演奏することも簡単にはできなかった。
唯一、父が買ったレコードプレーヤーをテレビにつないでドーナツ盤を聴く事が楽しみだった。
祖母の家には蓄音機という大きな再生装置があった。
針が何曲ももたないので両面を聴くと換えなければならず、面倒だった。
また、レコード盤を落とすとすぐ割れてしまい、それはそれは丁寧に扱ったものだ。
サファイヤ針、ダイアモンド針というものが出てからはそんな事から解放され
しかも落としても割れないレコード盤になり安心して取り扱う事になった。
小学校では「放送部」に所属し、時にはアナウンサー、時にはミキサー室、時には放送劇の作家
という役回りを担当したことが今の道楽の原典でもある。

間違って原稿を読んで指導の先生に叱られた。「報道とは。。。。。である」今でも忘れない。
それからは放送前に必ず原稿に目を通して疑問点を無くすようにした。
小学6年の貴重な体験であった。そんな、仲間も既に定年になっているのもいる。
自分の声がNHKの電波に乗って聴こえた時は「あれ!自分の声と違うな!」と
思ったが感激したことは忘れない想い出のひとつである。
シナリオの書き方や演出の仕方等も指導していただいた。
擬音の作り方や挿入の仕方等も昨日のようによみがえる。
これらの体験は今の趣味に十分活きている。

今の夢は定年後に「FM手賀沼」というミニFM局を開設して地域の情報発信に役立てたいことだ。
幸いにスタジオも機材も揃っている。後は取材記者等の仲間募集である。
今から48年前の記憶をたどりながら細々とやってみたいと思うのです。

2007年 5月4日 記


--------------------------2007年 4月---------------------------


自宅の周りの桜はいよいよとばかりに咲きそろった様子で
通りがかる人々もしばし足を止めて見上げる。
例年より少し早いとはいうもののちゃんと咲く時期を覚えていることが不思議でならない。
今日は4月1日、エイプリルフールとはいえウイットに富んだ「嘘」はなかなか見つからない。
心に余裕がなければなかなか洒落た言葉などうかんでこないとつくづく思うのです。

明日から新入社員がやってくる。色々な式典の後は事業部の紹介や歓迎会等の行事が
目白押しとなりやがて社会人としての基本動作訓練や技術研修がまっているだろう。
振り返れば昭和45年の今日、期待と不安で指定された集合場所へ行ったものだ。
どうせ3年位しかもたないだろうとふんでいたサラリーマン人生も38年目を迎えてしまった。
出向などあったが同じ会社でよく続いたものと自分自身感心すること多い。
最近の就職事情は売り手の市場で内定はいくつも貰っておき最終的には
条件の良いところへということらしい。また、一旦就職して次年度を狙っての
再チャレンジするケースが多いようだ。
選択は自由であり、その人の人生だからとやかく言う必要はない。
しかし、そうだろうか?この年になると納得が行かないことばかりだ。

今年は同期の皆が段々と抜けていく。「団塊」という言葉がやたらと氾濫しているが
気分は良くない。生まれてから今日まで一生懸命に生きてきたのだからもっといい
表現があってもいいのではなかろうか。
教室が足りずにプレバブが運動場に建てられたり、午前と午後で学年を別けての
授業を思い出す。
やがて受験では「狭き門」という現象であった。
しかし、楽しい思い出がたくさんの友人と共にあることは誇れることだろう。
これからも残された時間を大事にして更なる思い出を蓄積できればと思う。

次男が高校を無事卒業できた。長男との間が6歳も離れている。
なかなか2人目ができずに苦労して41歳のときにできた。
先日は一生懸命にやってきたブラスバンドの卒業演奏会を夫婦で聴きに行った。
最後は涙、涙の女子メンバーだったが次男は最後まで笑顔を崩さなかった。
駅の近くで待ち合わせて食事をしたときに聞くと「泣きたいけど我慢した」という。
その瞬間私の涙腺は少しゆるんだのだった。
勉強は一切せず部活に入れ込んだ高校生活だったがドラムや各種の打楽器を
担当する次男の姿は活き活きとして、親ばかとはいえ最高であった。
演奏会後の帰路、バス停横にある桜の蕾の下でにんまりとするのだった。

会社や自治体では新年度に入り人事異動も多くあろう。
職場や受け持ちを変わることには抵抗もあろうが自分の能力開発面からみれば
大変有効なことである。転勤もしかりであり生活環境が変わった中でどう自分を
変えていくことができるか、それは自分で決めて自分で行うこと以外に答えはなさそうだ。
明日の電車や駅で見かける「フレッシャー諸君」の初々しい姿を楽しみに
パワーを少しでも分けてもらいながら還暦向けてがんばろうと思う。

2007年 4月1日 記


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2007年 3月---------------------


明日は「桃の節句」ということだが梅や桃や桜が同時開花という珍現象の最近です。
世界各地で異常気象の現象を呈しておりこのままでは生活そのものが大きく変わる事になろう。
野菜が取れすぎて廃棄処分のシーンがテレビで放映されるのを見て呆然とする。
無残にトラクターの下敷きになっていくキャベツや大根、白菜、、、、何か手はないのだろうか。
生産者と市場価格、需要と供給、、、バランスが崩れた時こそ知恵を働かせて行くべきであろう。
食べ物を大事にせよと教えられた我々の年代は、何か「保存」「加工」の道がないかと考える。

我が家の次男も早々と浪人宣言して来年に備えだした。長い人生であり本人の悔いが
残ってはならないだろう。問題は学校より本人の人間としての成長であり
その通過点を親としてしっかり見守りたい。

既に今年も2ヶ月が経過し官庁では年度末を迎える。会計年度の切れ目というのは色々な
ビジネスチャンスでもあるが人の異動もあり思うように行かないことが多い。
報道では自治体、公共事業に絡んだ各種の犯罪の連続である。
人間は善悪を容易く判断できるのだろうが長年にわたって染み付いた感覚はそれを
麻痺させるのだろうか。もう一度質素・倹約という古い言葉だが思い起こしていきたい。

今月は3・17に老人ホームの慰問を計画している。3ヶ月毎のイベントになってきたが
楽しみにしている皆さん方の顔を思い浮かべると力が湧いてくる。
施設に勤めている職員の方々も大いに楽しんで頂きたい。
そして、少しでも皆さんの「パワー」になってくれればと思うのです。
今回は一緒に歌うシーンを多くした。介護師さんによれば歌うことで脳の活性化が進み
ご老人には効果があるらしい。自分でも思うのは大声で歌うことこそストレス発散の最大の
方法でありウナズケル。

今週で59歳を迎えた。いよいよ還暦まで1年となった。
健康留意して永く歌い続ける事ができるようしたい。
木々の蕾も膨らみ開花を今か今かと待っている。
音楽仲間にもおめでたがありそうだ。
共に悲しみ、喜び、酒を酌み交わし毎日を大事にしていきたいとは
私だけの願いだろうか?
いや、みんなの願いだろう。

2007年 3月2日 記


--------------------------------------2007年 2月---------------------------------


今年の日本は暖冬のようだ。報道では世界も同じ現象という。
異常気象が叫ばれて久しいが四季の変化はだんだん無くなるのだろうか。
東北の友人からも今年は雪かきがなくて朝が楽だという知らせがくる。
確かに雪との戦いはご苦労である。東北生活経験のある自分にはよくわかる。
しかし、梅や桜の開花はそれなりの「月」でなければ風情がない。
排気ガス、排煙、森林伐採等による影響なのか。。。。
地球温暖化現象への関心は否が応でも高まるのだ。

会社も新たな決算期を迎えてスタートした。
半年単位の評価をしながら進むのだが時間の経過が早すぎるくらい早い。
焦りと苛立ちが高まる中で格闘する姿はなんとも言えない。
しかし、緊張があるということが若さを保つことでもあろう。
これからの時間を大切に一歩一歩進んでいきたい。
あふれる笑顔、いききした言動、活気ある職場にしていけばおのずと業績も
上向くことであろう。古臭い言葉だが「率先垂範」あるのみ。
あれこれ欲張らず一つ一つを積み重ねたい。

今月は地元で2つのコンサートがある。
少人数のほのぼのとしたコンサートであろう。
選曲も皆さんで歌えるものにした。
はたして乗ってくれるかが心配だが精一杯がんばるつもりだ。
会場から溢れる明るい声や笑顔がなによりうれしい。
そして、いろいろなおしゃべりをしたい。

桜の枝も蕾がじっと暖かい春を待っている。連日の気温で今にも咲きそうだが
待っててほしい。そして、満を持して一気に咲いて欲しい。

今日は「節分」。。。鬼は外!!福は内。。。自分の年だけ豆を食べる
さーー58個は食べなければ!!

2007年 2月3日 記


--------------------------------2007/1月-------------------------------


2007年 明けましておめでとうございます。
昨年は人生の中でも波乱万丈の年であったと思う反面、これが現実であるという面もある。
毎日を必死で生きるなかで目標をもち、その目標を達成することの積み重ねが人生でもあろう。
今年の2月に59歳を迎える自分としては還暦前の今年を有意義に送りたい。
仕事も6ヶ月毎の決算に追われているが数字とのにらめっこ人生はつらいことではなく
ビタミン剤のようでもある。
音楽と同様に老け込むことを抑えてくれる貴重な栄養かもしれない。

我が家の「ゴムの木」は出会って16年になる。
大阪時代、道路脇にズタズタに切られてゴミ置き場に捨てられていたのを
買い物帰りに見つけ、小さな「芽」が出ているの発見したことからの付き合いである。
それ以来、東京転勤の時も家財と一緒に運び、仙台時代は帰宅するたびに手入れしたのでした。
今ではしっかりとした根を張り、リビングでは偉そうな顔をして我々を楽しませている。
土の入れ替えや剪定、夏には枝取りして子孫を増やすなど面白い。
肥料や水はやりすぎても成長には良くない。枝を切りすぎてもよくない。
ほどよい「放置」と時々の「面倒見」がいいようだ。

人材の育成と木々や草花のそれには共通点がある。
「芽」の発見、「環境の整備」「教育」、、、等が浮かぶ。
自分にない才能や技量を次なる世代に期待して育成する事が楽しみでもある。
そうは言うがなかなかそんな余裕等ないという方々もいると思う。
しかし、次世代を育てることこそ第2の大きな役目と思うのです。
そして、それが少しでも花開いた時には何もにも代えがたい喜びに変わるのではないでしょうか。
地域住民との触れ合いもその中では大きなポイントになるでありましょう。
今週末は例年の「餅つき大会」が開催される予定だ。
子供達の明るい笑顔と元気な声を聞きながら町内にいるお年寄りの貴重な体験談を伺う事ができる。
米を研いで水にひたし、蒸して杵でつく。丸めて餡子いれ。
単純な工程ではあるがなかなか自宅ではできない。
子供たちや近隣の方々との短時間の触れ合いの中でコラボレーションができれば又楽しい。
重い杵を10回以上ついた子供には次から20回に挑戦させ、餡子餅の形がきれいにできた子供には
次から雑煮作りを挑戦させる。そして、そのうちに自発的に参加し役をかってでる。
汗をかきながら得た経験はきっと大きな声の自慢話になる。
いじめなんかやっている暇はないでしょう。
このようなふれあいのシーンを増やせればとつくづく思うのでした。

水槽の魚はじっとして動かない。金柑の実はだんだん黄色に変わってきた。
プランターのガーベラは小さな芽をだし、やがてやってくる春を待っているようだ。
四季の変化を楽しみながら地域の方々と交流を行い
会社共々人との触れ合いに今年も充実した活動ができればと念じる元旦でした。

2007年 1月1日  記


----------------------------------2006年 12月---------------------------------


2006年も最後の月になった。
ついこの前までギラギラの太陽が照り付けていたと思えば窓ガラスに水滴が目立つ
という季節に変わった。四季の変化は生活のリズムを整えてくれる。
ハワイやアメリカ西海岸のように一年の季節感がなければ所謂リズム感はないと
思うが不思議に音楽のリズム感はあるから不思議なものだ。
音楽のリズム感はアフリカの原住民の方々による儀式等の放映をみるに
とても真似のできない変則な拍子になっており、歌というか叫びがなんともいえない
味付けをしている。
一定の拍子で延々とやるより強弱を付けた表紙で短時間にやるほうが印象に残る。
人間の人生も同じような気がする。

同期入社の仲間が徐々に定年退職や第2の人生選択をするなかで
強弱、メリハリとでも言うか、山谷のある生活もまたこれからは必要になるであろう。
やはり、目標を持って毎日を過ごすことこそが一番のリズムではなかろうか。
家事のできない定年間近の社員に「家事の効用」なる講座があり、奥さんに
頼らない為の、あるいは奥さんが急用で不在の場合に備えて炊事、洗濯、掃除
等の家事をできるようにして相互に理解しましょう。。。てなものらしい。
男としては今まで散々ビジネス戦争で苦労してきたので今からはのんびりさせて
もらう。。等というセリフが出るところだが奥さん側から見ても同じで、今まで散々
家事と育児に追われてきたからこれからは。。。。であろう。
お互い様であり自分でできる部分を増やして行かねばなるまい。
男だからと言って「意気地(育児)のない」事とはは言えないだろう。

先月の11日は予定通り「銀婚式記念コンサート」を実施した。
多くの友人、知人が参加してくれ感謝・感激であった。
練習は一回もしていないが昔とった杵柄で難なくステージをこなす。
遠い40年前のシーンを思い出してしまった。
これからもこのような「輪」を大事に、次の世代を絡めて行きたい。
そして、何年かの節目でのイベントを目標にして楽しい酒を酌み交わせたら最高だと思うのです。
2006年、最後のメッセージとなりますが、どうか健康留意でいいお年をお迎えください。

2006年 12月2日 記


------------------------2006年 11月--------------------------


今日は文化の日。新聞では各分野での叙勲者が色々述べている。
記事を読んでみるとやはりその道50年とか60年とかの方々の言葉である。
自分のサラリーマン人生に比べればはるかに及ばない。

社内報にはダンダンと僚友の定年退社が報じられており自らの場面も想像する。
これからをどうするのか色々な書物が出回っているが決めるのは自分であり
1回しかない人生なのだから楽しく悔いのないものでありたいと思うのは私だけではないだろう。
これからゆっくりできると思ったときには体が言うことをきかないという。
体の元気なうちに何かをやるしかないと思いながら毎日会社に通う自分におかしくもなる。


今月で結婚して25周年を迎える。妻との出会いから28年になるがつい昔のように覚える。
長男の誕生、やっとできた次男、、、、11年半の単身生活、、、、、
2人で続けている老人施設慰問演奏会、、、、
振り返れば走馬灯のようにシーンがグルグル頭を駆け巡る。

5年前に結婚記念コンサートを実施したが今回もまた理由をつけて行うことにした。
25年になるので「銀婚サート」と銘打ったものだがじっくり聞いてもらうと言うよりも
昔から支えてくれた音楽仲間を紹介しながら当時の曲を演奏するという企画だ。
また、我々の子供たちが成長して音楽に携わっていることもあり
春のコンサートに次いで今回もジョイントしてもらうことにした。
一生懸命に練習してくれる姿には感動と感謝、喜びが湧いてくる。
きっとすばらしい演奏を提供してくれるであろう。
その他のゲストは当然充分な練習はできないからぶっつけ本番で行かざるを得ない。
さてさてどうなることやら、、、不安よりおかしさがこみ上げてくる。

昨年からすこしずつ実を付けはじめた「金柑」が今年は4個実ってきた。
2つの枝に2つずつなっている。まだ青い状態だがやがて黄色に変わるだろう。
ベランダで風雨に晒されながらもしっかりと4個が生きている。
我が家のようでもある。
4人の家族が1本の木と2本の枝で生きている。
「金柑」を眺めながら「金婚」までがんばろうとおもうのだ。

今回のオープニングには我が故郷NagasakiをSan Francisco置き換えた
この歌でいこうと決めた。
もし、ご来場の方でこの歌をご存知であれば一緒に歌ってほしいと思うのです。

" I left my heart in San Francisco
 High on a hill it calls to me....”


2006年 11月3日 記


-----------------------2006年 10月---------------------------


街路樹が色づく季節になってきた。
あんなに暑かった毎日であったが急に過ごしやすい頃となる。
金木犀の甘い香りは朝夕の通勤で疲れた気分を和ませる。

ここにきて交通事故による犠牲者が多く痛ましい。特に子供の事故は悲惨だ。
その多くは飲酒によるものや速度オーバーのようだ。
車は一度使い始めるとなかなか手放せない便利なものだが間違えば凶器でもある。
自動車メーカーでは色々な装置で事故軽減化を図っているが最後は運転者の意識と行動につきる。
幼い命を一瞬に奪い去り、多くの人を悲しみに陥れるこの種の話は一刻も早く無くなって欲しい。
自らもハンドルを握ることであり、戒めていきたい。

来月11日に我々夫婦の結婚25周年記念のコンサートを計画している。
5年前、アメリカでの同時多発テロで多くの犠牲者を出した米国へ激励のメッセージ
をこめた20周年のコンサートから早くも5年経過したが今回も何かを訴えたい。
ただし、会場へ足を運んでいただいた皆さんとも楽しく時を過ごしたいので
あまり説教じみたものにはしたくない。
後1ケ月余りだが練習に本腰をいれなければと心はあせる。

同期で入社した仲間が段段と定年で退職していく。
でも、再就職して元気なメッセージをくれるやつもいる。
確かにマダマダいける体力やノウハウを持っているだろう。
「元気なうちが花」とはよく言ったものだ。
人それぞれに価値観が違うようにそれぞれの道を選択していけばよいのではなかろうか。
「団塊の世代」と言われて久しいが少々気分は良くない。
必死に働いてきた世代にとって「迷惑なカタマリ」のような表現はいかがなものか。
今後が我々の腕の見せ所かもしれない。
よって、これからの人生を豊かにする「段階の世代」でありたい。
老け込まないで新たなものに挑戦しよう。

いずれは枯れ葉のように朽ちてしまうかもしれないが
枯れて散って行く中に風情が残ればとも思う。
シャンソンからジャズのスタンダードになった「autumn leaves」(枯れ葉)を
口ずさみながら。。。。。。。。。。。

  The falling leaves drift by the window
     The autumn leaves of red and gold
     I see your lips the summer kisses
     The sun burned hands I used to hold
     Since you went away the days grow long
     And soon I'll hear old winter's song
     But I miss you most of all my darling
     When autumn leaves start to fall

2006年 10月1日 記


-------------------------------2006年 9月-------------------------


まだまだ暑さが残るが確実に秋の気配がしている。
6ヵ月毎のイベントで振り回される会社の方も新たなスタートから
早くも1ヶ月が経過しておりうかうかできない。

先月は久々の施設訪問を行い、新たな試みとして「自作のカラオケ」による演奏をやった。
やはり、ピアノとギターだけだと選曲やイメージが固定的になる。ドラムやベースが加入
してリズムセクションが決まると歌いやすく乗りやすい。
曲目は40−50年前の流行歌やPOPSを中心にしたが聴衆の反応は鋭く
当時を思い出していたのでしょう。一緒に歌ってくれる方々の口元は微笑みの中に
青春時代の思い出をかみ締めていたのかもしれない。
人間の肉体はだんだんと衰えていき、脳も同じだろうが音楽を通じて昔に戻る効果は
リフレッシュに貢献できたかもしれないと思うのでした。
会場の方々も大いに盛り上がっていただき、やりがいのあるものだった。
夏期休暇を締めくくる慰問演奏は何故か心地よい汗が体を流れた。
隣近所の方々からも声援を受け新たな企画に意欲が出たものです。

長崎の旧友が入院生活を送っているということで、この2年にわたりプレゼントしてきた
自作CDを急遽夏休みを利用して制作した。
体の各部に転移した病巣に昔の思い出をもって打ち負かしてほしい。
タイトルは今年の高校野球の盛り上がりから「O(once) U(upon) a T(time) 3」とした。
シリーズ3作目であるが特にOUT 3で攻守チェンジし病気に勝ってほしいと願う。
早速、本人からCDが届いたという電話があり少々の会話を交わした。
元気そうな声の裏を考えれば少々きつめの激励がいいだろうと思い「医者の
言うことをちゃんと聞け」等と、心とは違う言葉であった。
高校時代からの友人であり42年間の絆は簡単にはずせない。
元気になって一緒のステージを実現させたいと心より願うものです。
試みとしてCDの最後にはボーナストラックとして童謡や唱歌を入れている。
先日は後輩からこの中で「月の砂漠」を聴いて亡くなったお母さんを思い出し
涙が出てしまったという電話をもらった。
その前には中学の同窓生から「里の秋」を聴いてお父さんを思い出し涙が
でるのを止められなかったという電話もいただいた。
日本の童謡や唱歌には心を打つものがある。きちんとは歌えないが当時の模様を
思い浮かべて心から歌えば伝わると思うのは私だけだろうか、いやみんな同じだろう。
このような素材を大切にしていきたい。凝り固まった曲が最近の音楽シーンでは多いが
もっとシンプルで心を打つものが埋もれていることもある。
やはり「温故知新」フルキヲタズネテアタラシキヲシルでいきたいと思うのです。
これからのシーズンは涼しくなり活動がし易いので仕事にプライベートに
新たな気持ちで前進したい。

岡本おさみさんの作詞による「旅の宿」は彼の新婚旅行先(青森県蔦温泉)
での実体験らしいがほのぼのとした雰囲気を伝える。

浴衣の君は ススキのかんざし
熱燗とっくりの首つまんで
もう一杯いかがなんて
妙に 色っぽいね

2006年 9月3日 記


----------------------2006/8月------------------------


長い梅雨が明けたかと思ったら酷暑の連続になった。
毎年のこととはいえ齢を重ねると少々効いてくる。
先日は2年ぶりに花巻南インター近くの「志度平温泉」へ演奏旅行
を行い、往復1100kmを走破した。2年前はその先の「繋温泉」だったが
東北自動車道もおなじみになった感がある。
長時間の運転は目や腰に思わぬ影響を与えることもこの年になってわかる。
しかし、会場の皆さんの喜ぶ顔を見れば疲れなど吹っ飛ぶものだ。

昨年、新しい職場へ異動したが早くも1年が経過してしまった。
やっと慣れた感があるがなかなか実績作りに苦しむ。
焦らないで行こうとも思うが残り少ない時間の中ではそう安心はできない。
人材の基本的な育成と躾は家庭と同じように愛情を持って
実施しなければうまくいかない。
あと1年の中で何処までがかなえられるか挑戦あるのみである。
昨日、長年にわたって貢献された先輩が定年で退社された。
現在の基礎を創られた方であり、私も若いころより大変お世話になった方である。
1通の挨拶状からは30数年の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。
ある意味では寂しくもあり羨ましくもある。
我々団塊の世代は今年、来年と多数の定年を迎える。
第2の人生とか言われるが目標を何処に置くかで時間との戦いかもしれない。
決して毎日が日曜日にならないようにしたい。

今月は半年振りに介護施設の慰問コンサートを行う。
今回は少しにぎやかな曲を考えている。
選曲では40年前のPOPSや当時を思い出す曲にした。
また、亡くなった母が背中の私に歌ってくれた「長崎物語」に挑戦してみる。
50年前の記憶をたどって歌ってみたいが施設の皆さんの中には
恐らくご存知の方がいるだろう。一緒に歌って頂けたら最高だ。

今日は地元の恒例花火大会がある。普段はミニスカートというか極限まで短くした
制服のスカートをはいている高校生や若い女性が「浴衣姿」で手には「団扇」を
もって公園に集まる。色とりどりの「ユカタ」は見る人の心を「ユタカ」にしてくれる。
やはり、日本人はこうでなくてはいけないと思うのは私だけだろうか。
忘れ去られたものをもう一度呼び起こして今の流れの中に活かすという
簡単なことだが出来ないことを再発見した。
これからまだまだ暑い夏が続くと思うが思い切って汗をかき
冷たいBEERを一気に流し込むことで新たな力をうむのは
私だけだろうか、否、そうではないはず。。。。。。。。。


線香花火がほしいんです
海へ行こうと思います
誰か線香花火を下さい
一人ぼっちの私に
(吉田拓郎)

2006年 8月5日 記


------------------------------2006/7月-----------------------------


2006年も半分が過ぎてしまいました。
毎月の行事に追われてふっと気がつけば月末という毎日です。
先日は中学、高校時代から大学時代までの長い付き合いだった
友人が長崎へ転勤すると言うので送別会を催した。
何年ぶりかに会う同級生も加わり盛り上がった。
しかし、年なのか話題は健康と老後だ。既にリタイアして悠々自適生活
を開始した友人もいる。仕事に追われて毎日が少々嫌になった自分であったが
この再会は新たなパワーをいただく機会ともなった。
6月末で転勤、出向になる年代でもある。それぞれの行き先で精一杯
残された日々を充実して送ることができればと思うのです。

40年前の時代に遡って曲を集め「once upon a time」というアルバム
を作り始めて2年になるが、その3枚目がほぼできた。
1940年にできた「蘇州夜曲」という曲は今でもそのコード進行が素晴らしく感じる。
古い曲でも侮れないものが多々ある。温故知新とはよく言ったものです。
最近のTV-CFのバックに流れる音楽はほとんど昔ヒットしたものが多い。
今聞いても新鮮に聞こえるし、親しみやすい。
子供たちには「この曲は。。。。昔々。。。」という場面が多くなった。
40年ぶりに録音してみると昔やってた時のコードと多少違う解釈がある。
現在の耳の感覚で採譜する正確であろうコード進行に思わず苦笑する。
時代を経てもいいものは何時聞いてもいいとはよく言ったものです。
決して回顧趣味ではないが「聴いて落ち着く曲」「聴いて安心する曲」が
一番いいと思うのは私だけだろうか?

昨日は7月7日で「七夕」だった。タナバタというが「棚機(たなばた)」
「棚織(たなはた)」等の文字もあったらしい。
難しい話はなしにして「織姫星」と「彦星」の年1回のデート日である。
天の川をMILKY WAYとはよく言ったものです。
夜空を仰ぐと無数の星座郡が見えるが昨日の年一回デートは
うまく行ったのだろうか。。。。少し気になる。

どこかの国でミサイルを発射させたということで報道では大々的に伝えて
いるが、空や海や緑の大地を壊さないでほしいという気持ちは
私だけの願いではない。
「夜空の星に祈りをささぐ。。。。」青春時代に口ずさんだ
ブロードサイドフォーのフォークソングだ。
ロックバンドだったがステージでよくリクエストされたのを思い出す。
苦笑いしながら心を込めて歌ったものです。
歌詞の2番で「愛し合う二人の憩いの園」というくだりでは
学校の近くにあった喫茶店「園」を思い浮かべてしまうのでした。


夜空の星に祈りをささぐ
その娘のやさしいひとみの中に
喜びの涙があふれていた
生まれて初めて知った恋を
求めて離さず ここまで来た

遠くつらかった二人の道よ
ここは僕らのパラダイス
愛し合う二人の憩いの園
涙を拭いて笑顔を見せて
明日の明るい日ざしを浴びよう

若い二人の行く手には
今日にもまさる喜びがある


結婚して今年で25年を迎える。決して長い時間を感じないがこれからも
今以上に手を取り合って生きていきたい。

2006年 7月8日 記

-----------------------------2006/6月--------------------------------

     毎日が曇り空の連続で少々いやになる。梅雨とはよく言ったものですが
   しとしと続く雨音は決してロマンをかき立てるおとではない。
   「悲しき雨音」という懐かしい曲があるがご存じだろうか?
   1963年にカスケーズというグループがヒットさせた曲で良く覚えている。

RHYTHM OF THE RAIN
Listen to the rhythm of the falling rain,
Telling me just what a fool I've been.
     I wish that it would go and let me cry in vain,
And let me be alone again.

降りしきる雨音のリズムを聞けば
  あんたは何というアホなんだって言っているようだ
    雨なんて消え去ってむなしく泣かせてくれればいいのに
     それで、もう一度ひとりにしてほしいのに。。。。。。



 
レコードに針を落とすと落雷の音と共に降りしきる雨音が聞こえる。
それに続きほのぼのとしたイントロが始まる。
 今では単純なコード進行と思うが高校生当時の私は何回も何回も聞き直して
最後はレコード盤がすり切れた程だった。

 子供の頃、6月になれば「川祭り」で手作りの饅頭が食べられるとか、
池では鯉の稚魚が生まれ、オタマジャクシがうようよする等の事で
うきうきしたものです。
 長靴をはいて合羽をかぶりわざと水溜まりのなかを歩いて親に叱られた
のもこの頃でした。
 先日、故郷へ帰る機会があり実家の中を整理していると幼い頃の写真や
おもちゃが出てきた。ひとつひとつの思い出を噛みしめながら整理したが
若かった両親の顔が思い浮かび、涙腺のゆるむことしばし。

 少なくても親は子供の将来を夢見て「育んでくれた」のだ。
最近のニュースでは親の子供に対する犯罪が後を絶たない。悲しい!!
 生前、母から「馬鹿な子供ほどかわいいモノよ」とよく言われたのを覚えている。
私は、「おれはバカじゃない」と言って顔を真っ赤にしたらしい。
 小学校に入る前に「気をつけ!」「休め!」の練習を自宅でやったら「休め!」
のところでほんとに横になって休んでしまったという逸話もある(やはりバカだった)。
 他人の前では謙遜してバカというのを知らずに、、、今思えばニヤリと笑う話です。
それだけ「親と子の絆」は固く結ばれていると思うのです。
 これからは子供の意見を尊重しお互いの夢に向かって行きたいと思うのであります。
 会社はあと1ヶ月半もすれば新たな会計年度を迎える。数字に追われる生活もいよいよ
残り少なくなってくるのかと思えばまた寂しい。
 悔いのない人生にするためには、精一杯人材育成に注力して行きたい。


2006年 6月3日 記


-------------------------------2006/5月-------------------------------


新緑が目にまぶしい季節となったが気温変化が激しく着ていくものに悩むこの頃です。
今日は「憲法記念日」だが私の名前も昭憲で昭和憲法の略みたいなものです。
昭和22年-23年生まれには女性なら憲子さんが多く、男性はX憲、憲Xとかが多い。
新憲法発布を待ち、平和を願う当時の親の気持ちだったのだろうか。。。。。
私はこのような名前をつけてもらった事に感謝している。
但し、小学校時代は試験の時に名前を書くときに少々悩んだ。
隣の「一(はじめ)」君は1秒も掛からないで終わっているのに
自分は未だ「昭」の字の途中なのだ。
でも、今となっては当時の親心がよくわかる。

先月の22日に地域住民による音楽祭に参加、一緒に行われた
友人の英国送別コンサートも無事終了した。
手作りのコンサートだったが主催者の皆さんや来場の方々の
喜んでくれる顔にやりがいを感じ、更に楽しんでもらおうという意欲がわいて来る。
通算3回目となる出演だが今後は色々と工夫をして恒例の行事になり
多くの方々が発表できる「ほのぼの」としたコンサートになれば嬉しい。

コンサートは、その企画、準備、段取りが大変であり、演奏時間のウエートは極めて
少ないと言える。出演交渉から機材手配、宣伝、当日の演出、PA(音響)関係など
裏方仕事は山ほどあって成り立っている。また、有料のコンサートとなればチケットの
手配、販売、納税、、、、更に分野が拡大する。
この40年ほど裏方も表方も知っている自分としてはこれらの経験を活かし
皆さんに伝達し、ひとつでも多くの企画が実現できるようにサポート活動を続けたい。

皆で汗かいて無事終わった時の充実感はなんともいえない清涼飲料水だ。
これがあるから止められないともいえる。
終了後の冷えたBEERを目指して汗をかくのである。
11月11日には結婚25周年の「銀コンサート」を企んでいる。
色々な友人を絡めた形で楽しいものにしたい。

ゴールデン・ウイークということだが仕事は4半期決算後の
各種行事や後半戦対策などでやることが目白押しである。
しかし、ON OFFを決めてリフレッシュし週明けからの活力にしたい。

友人の英国赴任に際して一緒に肩を組んで歌った「HEY JUDE」を記す。

Hey Jude, don't make it bad

take a sad song and make it better


Remember to let her into your heart

Then you can start to make it better




Hey Jude, don't be afraid

You were made to go out and get her


The minute you let her under your skin


The you begin to make it better

2006年5月3日 記


-------------------------2006/4月-------------------------------


桜の美しい花は今を盛りと我々を楽しませている。
コートをクリーニングに出そうとすれば一方では 寒波が襲い
関西では雪がちらついたという知らせもある。

汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる
季節はずれの雪が舞ってる
東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく

1974年に発表されたご存知、伊勢正三の作品「なごり雪」の一節です。
春は人事異動のシーズンでもある。
友人の1人が海外へ転勤となった。
幸いに行き先は20年前にも勤務生活をした所でもあり、また思い出の地でもある
ということで大きな不安はなさそうだ。
しかし、私と同年代であり体力も気力も徐々に減退する事を考えれば
ほんとに健康第一でガンバって欲しいと願うのである。
少々寂しくなるがまたそれもよしとしてお互いに元気で再会できる日を楽しみにしたい。

自分を振り返れば結婚して25年目を迎えたものの、半分は単身赴任をしていた。
家族への思いやりやなすべきことは不十分であったとつくづく思うのです。
しかし、そう思うほどでもなく子供や妻はそれなりの生活をし子供も育ってくれた事に感謝する。
そんな中で長男が明日から社会人の一歩を踏むことになった。
23年前の1月、雪がちらつく明け方にこの我孫子で誕生し元気に育ってくれた。
父親不在の中で妻や近所の方々の支援を受けながらここまできた事に熱い思いがよぎる。
幸か不幸か私と同じ職種になりそうな気配であるが、そんなことは二の次として
どんなことでもいいから世の中に役立って欲しいと願うのです。

大学時代の友人も昨年から手がけていた母校の建て替え事業が予定通り進行し
完成になったと知らせてくれた。スケジュールの都合上、残念ながら未だ建物を見ていないが
きっと素晴らしいものが完成したことであろう。ささやかながら拍手をおくりたい。

世間では団塊の世代と言う言葉が氾濫しており、あんまりいい気分はしないが
我々のやってきたことが少しでも役に立っているかと思えば
これから世代を引き継ぐにあたっていい気分になること間違いなし。
定年まであと2年を切る頃であるが最後の仕上げと楽しみを求めて
悔いのいない人生になればと思うのです。

ベランダから見る桜の木がピンクの花をつけて私や道行く人の心を和ませている。
きっと来週には散っていくのかも知れないが、その間精一杯咲いて欲しい。
新聞やテレビでの悲しい報道を知るたびに桜の花びらや
新緑の植物を見るのは私だけだろうか?
寒い冬を耐え忍んで蕾を守り、今こそ花を咲かせる植物のしたたかさには
見習うものがあるとつくづく思うのです。
言葉を発しない植物ですが、だからこそ教えられることは多々あるのですね。

2006年 4月2日 記


----------------------2006/3月-----------------------------


2006年も既に2ヶ月が経過した。
3月の声を聞くと待ちに待った春がそこまでという
ウキウキワクワクの季節になるのは私だけでしょうか?

先月はまたまた旧友に会う機会があり36年ぶりの大宴会でした。
年はとっても当時の話になれば思い出すことが次々と湧いてくる。
いつの間にか学生時代になっている。
50円のカレーやダンスパーティのガラナジュース等など。。。。。
2次会でのカラオケはさながらに学生時代へ戻った瞬間でした。

現在は社会人としてそれぞれの道を歩んでいるが元気な顔に会えたことは
何よりの糧でした。また、大変お世話になった中華料理屋さんのご夫妻との
再会も感激でした。このような機会を設けてくれた友人に感謝すると共に
再会したご夫妻や後輩たちとも連絡を絶やさないようにしたい。

先週の25日で58歳を迎え還暦まで2年を残すだけとなったがピンとこない。
人間ドックではいろんなご注意を受ける年令となるが気持ちは逆に
「まだ若いもんには負けられん」状態です。
音楽も例年になく激しくやっていきたい。

先週は老人ホームを夫婦で慰問した。
ご高齢の方々でしたが最後まで熱心に耳を傾けていただき嬉しかった。
曲の合間ではいろいろなお話を交えてのコンサートでした。
今回は初挑戦で「蘇州夜曲(1948年)」「東京ブギウギ(1940年)」をやってみたが
ROCKよりも難しいことがわかった。
蘇州夜曲のコード構成がおしゃれなことの発見もあり
挑戦してよかったと思う。温故知新とはよく言ったものです。

自分として世の中に何かできること、お役に立てることがあればそれを実現する
という簡単な事を、今後も家内というパートナーや音楽仲間、大学時代の友人
と共にやっていければ最高だと感じる。


灯りをつけましょぼんぼりに  お花をあげましょ桃の花

五人ばやしの笛太鼓 今日は楽しい雛祭り


3月3日は桃の節句です。我が家は残念ながら男ばかりでしたので5月5日の方でした。
古代中国に起源するこの節句は季節の変わり目にふさわしいものですね。
音楽仲間の一人がパパになった。そして、女の子のパパになった。
まだ生まれたばかりの赤ちゃんのまわりではひな祭りの歌でかわいい子を
あやしている情景が目に浮かぶ。元気に育ってほしい。
来月は長男も社会人として巣立つ、今まで厳しくしてきたが今後は一人の男として
見て行きたい。そして、会社帰りに軽くいっぱいの誘いをして大いに気勢を上げたいと
思うのです。さて、どうなりますやら。

2006年 3月1日 記


--------------------------------2006/2月-----------------------------


 今日は「節分」、邪気を祓い春を迎える行事としてはほのぼのとしたもので
撒いた豆をポリポリ食べると心も和む様です。あと20日余りで誕生日を
迎える私はしっかりと「58個」の豆を食べなくてはいけない。
そして、仕事に家庭に充実した毎日が来ることを祈ることにしよう。

 気象が異常な昨今だが豪雪で苦しんでいる老齢者や地域の方々には
春の訪れが待ち遠しいことでしょう。

「春よ来い 早く来い 歩き始めたみいちゃんが
    赤い鼻緒のじょじょはいて おんもへ出たいと待っている

春よ来い 早く来い お家の前の桃の木の

    蕾もみんなふくらんで はよ 咲きたいと待っている」

作詞 相馬御風  作曲 弘田龍太郎 
大正12年(1923年)1月20日発表

春を待つ心が小さい子供の成長や植物のそれに例えて歌われており
心が癒されると共に爆発するエネルギーを感じる。

豪雪で苦しんでいる方々! 間もなく春がきます! それまで頑張りましょう!
何も出来ないですが声援だけは送りたいと思います!

 報道では悪いことをした奴の記事や放送が多すぎる。
一時は時代の寵児ともてはやされた時もあったが今ではさんざんこき下ろされている。
若さ故と言えばそれまでだが事の是非について誰も意見を出来なかったのだろうか。

「お山の大将」と言う例えがあるが、やはり大将には諫言できないのか?
 いや違う、大将だからこそ間違った見方や判断にはきちんと意見を述べて
間違いは修正していただかなくてはその部下に多くの犠牲者がでる。

 私もサラリーマンのはしくれではあるが残された時間は勇気をもって生きて行きたい。
その為には今以上に現場に耳を傾けて正確な情報の収集をもって判断すべきと考える。
少々堅くなったが童謡「春よ来い」の発表が会社の中間決算と同じ日付であった為である。

 これから夏に向けて再スタートを切るが、若い仲間の「蕾」
をきちんと咲かせるようにしたい。


2006年 2月3日 記


----------------------------2006/1月-------------------------------

新年、明けましておめでとうございます。

2006年の幕開けです、いかがお過ごしでしょうか。
毎月の「めっせーじ」もあっという間の1年でした。
今年もお付き合いよろしくお願いします。

振り返れば、昨年は色々なできごとが多かった年でした。
職場の異動や友人の別れと出会い、思い出のできた母の3回忌ツアー
等を中心に、涙と笑いの1年間でした。

36年間勤務した会社から関係会社へ異動し役員を仰せつかる。
責任の重大さばかりか残されたサラリーマン生活の短さに唖然とする。
そんな中で突然現れた大学時代の友人たち。。。。。。
一通の手紙が我々を昔に戻してくれた。やはりこまめに挨拶はして
おくものだとつくづく思ったものです。
長い時間を感じさせない会話、昔の面影はなくても話の間に出てくる
当時の言葉はまさに「タイムスリップ」であった。
これからも時間を確保して会談し、パワーを得たいと思うのであります。

そのような会話の中にも悲しい話はあった。
はかなくも若くして逝った友人の事である。
自分もいつかはそうなることは言わずとも解っているが、2人も同じ月に亡くすと
暢気にしている場合ではないとも思うのです。

遠い先に置いた夢は大事だが近い未来の夢も更に大事な目標です。
子供たちが大きくなって巣立つ今、夫婦、友人、近隣の方々同僚、、、、、
自分を取り巻く人的ネットワークを今一度見直して粗末にしないようにしたい。

いつもの正月は長崎へ帰り、母の手料理で酒を飲むのであったが、今はそれもできない。
帰省ラッシュのニュースはそんなシーンを思い出させるのに十分なものだ。
母が逝ってから今年の10月で満3年になる。しばらくは故郷へ帰る機会も少なくなるが
長年お世話になった叔母や親戚の方々とは疎遠にならないようにしたいと思うのです

今年はビジネスでは一つの区切りをつけたいと考えている。現在の事業領域をしっかり
体質改善させ、活き活きした動きの出る職場へ転換させたい。
その先頭に立つ自分は率先垂範でいきたい。
そして、仕事と遊びも両立できるようなものにしていくことが
更に業績の推進剤になると思います。

音楽活動では定期的なライブのほかに地域社会への奉仕を少し増やしていく予定だ。
幸い、昨年末に長男が資格取得で臨時的に実習勤務した老人施設で我々のステージ
を開催してみる。これまで何度か施設関係ではやってきたが夫婦2人でも十分やれることが
昨年の地元でのコンサートで解ったこともあり、早速トライしてみることにした。
どうなることやら。。。。。。。。。。

なんだかんだと思いを巡らしているうちに今年も忙しそうだ。
厳しい冬がマッ盛りの今、春を待つ植物は着々と準備を重ねている。
マダマダ負けていられない。
自宅前の坂道沿いに植えられた「山茶花」が赤い花をつけている。
ふと小学校の時、初めて人前で歌った「たきび」の歌を思い出した。

サザンカ サザンカ 咲いた道 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ しもやけ おててが もうかゆい


2006年 1月1日 記


--------------------------------2005年12月------------------------------

 あっという間に今年も12月、、、なんとなく忙しい頃となった。
街路樹の落葉がカサコソと音を立て、冷たい風の気配を感じさせる。
夏のギラギラ太陽とは違う風情がなんとなくロマンティックな気分に
なるのは私だけだろうか。
いつもの駅へ向かう道には銀杏の黄色い葉があふれており
足で踏むのがもったいないとまで思う。
そっと残しておきたい気持ちと季節の変わり目に発生する現象で
いつかは無くなってしまうという諦めが複雑に入り交じり、通勤のささや

かな楽しみになっている。

先月はまたまた旧友に会う機会があり大いなるパワーを頂いた。
36年ぶりの再会を大阪で果たしたが久々の会話は当時そのものであった。
酒が入るに従って饒舌になり、忘れていた青春のひとこまが如実に蘇る。
団塊の世代、2007年問題、、、、、色々言われるが大いに結構である。
一番逞しく生きてきた世代であることは確かでありこれからも注目される世代である。
今までの一歩退いた世代というイメージから「ますます盛んな世代」
ということになるであろう。

話は子供の事や奥さんのこと、、、近所の方々のこと、、、今やっていること
時の流れはあっても語る口調や考え方は変わらないものだった。
年末には東京での再会を約束して別れた。
また一つ、楽しい目標ができたことに感謝したい。

報道に目を向けると悲惨な話があまりにも多すぎる。
何故、このような事になっていったのか?
幼い子供の命が、、、、、思わず目をそむけてしまう場面が多い。
夏祭りで、地域の長老からこの事についてはしばしばご意見を頂く。
お祭りの狙いも、この地域での防犯活動のためでもあるという。
近隣の住民があまりにもお互いを知ろうとせず、むしろ触れないことが
親切のような話さえ出る。
昔は、他人の子供でも悪いことをしていたら注意していた
「おじさん&おばさん」がいたものです。
また、そのような「おじさん&おばさん」はきちんと挨拶をするとにこにこしながら
頭を撫で、蒸かしたてのサツマイモや焼きたての鰯をくれたのでした。
そして、なぜいけないことなのかいいことなのかを判り易く解説してくれました。
その日以来、その「おじさん&おばさん」は私たちの先生でした。

やはり、隣人とのコミニュケーション不足、他人に無関心、是々非々、、、、
本来やってきたことが忘れ去られ、そこから発生してはいないだろうか?

「挨拶」という簡単な事が忘れている。
気持ちよく明るいトーンで声を発することこそ、今すぐできる防犯活動とも思える。


ベランダの「ガーベラ」が3つ目の赤い花を咲かそうとしている。
株分けをしてから初の花である。
これからは寒くなり、植物にとっても大変な季節になるが
逞しく生きている花にパワーをもらい旧友にもパワーをもらい新たな年を迎えたい。
今年最後の「めっせーじ」ですがご愛読の皆さん方にはいい年をお迎えいただくことを
心よりお祈り申し上げます。

2005年 12月4日 記


----------------------------------2005年11月-------------------------------

 霜が降りて冬がくる季節になった。
緑の葉もいつの間にか黄色や赤に染まりやがて来る厳しい寒さに備えて散っている。
英語で秋を「
FALL」とも言うが、よくわかる。

 山登りの専門家によれば、今年の日本の木々は長い暑さから急に寒くなったので
「紅葉」する前に散っているとのこと。
段々と寒さが効いていた昔は秋の山々が絵筆で書いたような色どりを見せてくれたものだった。

 地球の温暖化現象がこのような季節変化の楽しみまで奪ってしまったことへ
なんとも言えないため息がでるのは私だけだろうか。

 先月は公私共に色々なイベントがあり、変化に富んだものだった。
中でも36年ぶりに学生時代の友人が駆けつけてくれたライブや
同じく36年ぶりの懐かしい電話など。。。。。。。

忘れていた時代を取り戻すのに何故か心は弾んだ。
遠い青春時代の1ページを再び開いた事で
大きなパワーを頂き、新たな楽しみと目標を与えてくれた友人に感謝する。

 我々を称して「団塊の世代」と言われるが我々なりに社会に貢献し、自由を謳歌し
厳しい中で楽しみをみんなで共有した「良い時代」といえる。
これからがもっと楽しい人生になると思うのであります。

 現代の豊かな時代とは違い、手に入れるには購入ではなく「造る、作る、創る」
という発想があった。そのツクル過程で色々な原理原則を学んだとも言えるのでは
なかろうか。ものを大事にせよとは教えられるが、今一歩ぴんとこないのもそこに
理解が得られていないと思うのです。

高校時代に「エレキギター」が欲しくてもお金がないので一から作り始めた。
鑿とカンナを使いネック部分を削っていると、それを見た祖母は「左甚五郎」みたいと言った。

ボディ用の厚板が欲しくて近所のおじさんに相談したらお寺の板張りの下に
使える古い板があるかもしれないと言って和尚さんに掛け合ってくれた。
pick-upの原理が判らなくて電電公社のおじさんに聞いたら電磁波と微電流発電の関係を
教えてくれた。最後は母に頼んで「コールテンの布地」でギターケースを作ってもらい

そんなこんなの末に出来上がった自作のエレキギターは今でも長崎の実家に保管されている。
色々な相談の末に出るアイデアや解決方法は今でも忘れることができない。

 物だけではなく人に対する気持ちや行いが粗末になって各種の新聞を賑わせている。
自分一人で大きくなったと勘違いする人、周りに気配りが出来ない人等々。。キリがない。
 我慢が出来なくてすぐに「キレル」人。。。。そんな人にはもう一度「自然との触れあい」
や「もの作り」をお勧めしてはどうだろう。

 これから寒い冬に備えて葉を落とし新たな「芽」を育てながら楽しみに春を待つ。

雨、風、雪に耐えながら枝を動かし生きている植物達。。。
そして、やがて芽を出す時を楽しみにしながら辛抱強く待つ。
また、困った時は先達に相談する。
人材の育成にも似ているが私はこれで行きたいと思う。


2005年 11月3日 記


---------------------------2005年10月----------------------------


遠くアメリカでは強力なハリケーンが連続で襲い掛かったという事ですが
気象変化は地球温暖化の影響が多いと思いますね。
森林の無節操な伐採や開拓による影響もありますが
我々の生活の一つ一つがその温暖化への蓄積を進めていると
言わざるを得ない環境です。
暑いときは服を脱ぎ、寒い時は着込む。近場の出かけは徒歩を心がける。
便利な生活に慣れた今、簡単に基本的な事へ戻れないですね。

今年も9ヶ月が経過してしまった。
企業では決算期を迎えたり、4半期決算等。。。。
そのサイクルはダンダン短縮されている。
そのうちに午前中、午後、夜中、、、、なんてなるかもしれない。
新しい職場に配属されて2ヶ月が経過した。
生活は慣れてきたが毎日は緊張の連続である。
若手の社員と酒を酌み交わすことも多くなった。やはり新鮮で美しい。
その素直さ、柔軟さ、前向きな姿勢、、、今一度初心に帰らねばと思う。

久々にCD制作の為の自宅録音を再開した。古き友人への贈り物にしたいと思い
昔流行した流行歌や童謡などをPICK-UPしてみた。
リズムのはっきりしない時代であったが最近風にやってみるとなかなか面白い。
「高校三年生」や「いつでも夢を」は立派な素材になった。
最近のなに言っているのか判らない歌詞と違いストーリーができている。
やはり歌の世界はこーでなくてはいけないでしょう。

決して古いものを賞賛・崇拝する訳ではないが時々は立ち返り
先人の苦労を考えるのも成長には必要な事かもしれない。
便利に慣れすぎた今、再度便利を忘れてみるのもいいであろう。
簡単に手に入る事をやめて自分で作ってみてはどうだろう。
ものを粗末にしないことや大事にすることで地球上の原資は蓄積され生き返る。
環境破壊の是非を云々する前に「古代人」に帰ろう。
母が亡くなり10月18日で満2年になる。
赤い彼岸花が咲くころには故郷を思いながらまた「長崎物語」を口ずさもうと思う。
そして、明日からの生活を楽しみながら。。。。。。。。。

2005年 10月2日 記


------------------------2005年9月---------------------------


まだまだ暑さが続いているが日本国内では衆議院の選挙で騒がしい。
民営化というやり方がいいのか問題あるのか一長一短ではなかろうか。
確かに民間企業の生き残りは適正な利益確保が前提であり、その為には色々な
アイデアを出し尽くして生き残らねばならない。公企業とてその事は同じであろう。

新たな職場に赴任して一ヶ月が経過した。あっという間の8月でもあった。
幸いに周りの方々は従来から仕事上の関係があり旧知の仲でもあった。
しかし、従来の関係ではなく自らがその違う立場にたつのであり頭は切り変えねばならない。
大きな課題が山積しているがサラリーマン最後の大仕事として頑張りたい。
そんな中で生き残るための策や人材育成は毎日の仕事として容赦なく降りかかる。
初心に帰り愚直に取り組みたい。

夏休みに長崎へ帰り母の3回忌を営んだり亡き友人の追悼コンサートを開催したりだったが
レンタカーを借り25年ぶりの雲仙、42年ぶりの生家の近くや変わり果てた島の裏側へ足を延ばしてみた。
小さい頃の目で見た「トンネル」が意外と小さかったことや
長いと感じた坂道が短距離だったことなど思わず口元が緩んだ。
卒業した小学校や中学校はきれいに建て替えられ木造だった当事とは雲泥の差である。
学校から帰って壁にボールを投げつけて捕球することが小学生時代の毎日であったが
その隣家は昔大きく見えたものであったがこれまた小さく感じ苦笑した。
塀を越えてしまったボールをよく取ってもらったおじいさんは今はもういない。
家の前は昔と同じ湾になっていた。ソフトボールをやるとホームランは「アウト」だった。
小船を漕いで水面に浮かんだボールを取ってこなければならなかったものだった。
周りの景色から思い出されるシーンを頭に描きだすと時が経つのを忘れてし
まった。

今年の春先に急逝した叔父様の初盆であったもあったので生家の後に建った叔父の
家を訪問して線香をあげたが庭先や裏の崖を見るに当時が思い出されたならなかった。
故郷は遠くにありて思うものとはよく言ったものだが年齢を重ねた今は自分を若返らせる
ためにも故郷の大切さをつくづく感じるのでした。

ベランダのゴムの木にトンボが羽を休めている。
この夏に生を受けて羽ばたいた昆虫もそろそろ眠りにつくのか。。。。。
何か虚しさがあるが精一杯生きてきた彼らには充実感があるかもしれない。
自分はまだまだ羽を休めるわけにはいかないが仕事は当然として趣味の音楽や
地域活動を通じて世の中に貢献できればと思う。

1ヵ月後には定期演奏会が控えている。今年はテーマを「礼」にした。
親に子供に友人に周りの方々に「礼」を尽くしているか?
そんな事から演奏曲は「RAY CHARLES」を中心にやる。(礼とは無関係ですが)
演奏開始時には「全員起立! レイ!」で始まるかもしれないです。

「HIT THE ROAD JACK」

2005年 9月4日 記


-----------------------------2005年8月----------------------------


本格的な夏がやってきた。やはり夏は暑いに限る。
子供の時代は冷房装置などない時代であったが最近は各家庭にもまた各部屋
にも冷暖房装置が施されているのが常識になっているようだ。
それはそれでいいことであるが今ひとつしっくりこない。

夏の風物詩はアイスキャンディ(しかも小豆入りの)とスイカにラムネ。
あるいは「氷」の旗がたっている氷屋さんの練乳入りのかき氷。
おじさんたちは揃って「ステテコ」に団扇姿でビール飲んでいる。
縁台には蚊取り線香が炊かれておりプーンと鼻につく。
ラジオからはナイターの中継が流れておりアナウンサーの声に一喜一憂する。
「夏休みの友」には日課が記載されていたが八月に入るまでは1ページも開けた
ことがなかった。

「麦わら帽子はもう消えた 田んぼのカエルはもう消えた それでも待ってる夏休み」
吉田拓郎のほのぼのとした曲が今でも昔を思い出させる。
まとまった時間が取れるので自由研究に熱中した。
子供を持った時代にも昔を思いだし研究と論文に力を入れたこともあった。
子供そっちのけで突っ走ったこともあり、今となっては反省しきりである。

我孫子での夏祭り参加も3年を迎えて町内の皆さんとの交流が盛んになっている。
少し離れた「citia」の皆さんとも交流が出来てきた。
音楽を通じた交流でもあるが酒を酌み交わす時間では「裸の人間」である。
ビジネスに入れ込むのは仕方がないがビジネスを離れて自分を見つめる事も大切であろう。
隣人との付き合いが疎遠になるマンション生活であるがボランティアで開催してくれる
夏祭りには子供やご老人(失礼!)との会話、そして自分のリフレッシュに最適ではなかろうか。

この7月21日から新たな職場になった。残り少ないサラリーマン生活ではあるが
老体に鞭打って悔いのない時間にしていきたい。

お盆には家族で帰省する。母の3回忌もかねたものだが久々に雲仙あたりに
出向こうかと計画している。
25年前に家内と行ったのが最後だったと記憶する。
その後、100年ぶりの噴火があって登山禁止だった所である。

小学校の修学旅行がやはり雲仙1泊であった。
バス車中での歌が忘れられない。
カーブを曲がってても笑いこけてりんごが落ちても笑いこけて。。。。。
お腹の筋肉が痛くなった。とにかく楽しかった。

思い出深い雲仙で何かを発見できたら最高だろう。
今回は先日急逝した「奥田智宏君」の追悼コンサート出演も兼ねており
東京から山中君、深堀君、タイから山崎君が駆けつける。
久々に思案橋が五月蝿くなりそうだ。

2005年 8月1日 記


----------------------------------2005年7月--------------------------


夏到来かと思いきやマダマダ梅雨の余波があり日本の北と南では
大きな気象変化がでている。
今年も半分が過ぎたことになるが色々な変化がでて来そうな気配だ。
自分自身では来月より異動があり新たな職場での活動になる。
東北から帰って3年半経ったがほんとに短い時間であった。
今度の職場も仕事内容は継続的なものだが立場も違い戸惑うかも
しれないが切り替えて早く慣れたいところである。
サラリーマン生活も最後のコーナーに差し掛かり鞭をいれたい所だが
最後の直線はそんなに甘いもんじゃないことは十分知っている。
体をいたわりながら精神的な若さを保ち最後の坂を駆け上がりたい。

交通事故に関する出来事が連続した。
尼崎の事故や飛行機のトラブル等、、、、次から次に多発した。
自らの仕事の中では効率や採算の追求、個人の評価等をするが気をつけ
なければならないことが多いと思うのだった。
命に関係する仕事ではないが間接的に個人を苦しめることから何が発生するか
分からないことが多い。しかし、そのようなことに立ち向かうことも必要であり
その局面から脱出できる何かを持つことも生きていくには欠かすことの
できないことでもあろう。

最近の報道を見るに目を耳を覆いたくなるような出来事が多すぎる。
何事においても「命」というものは大事にしてほしい。

15年前に長男がベランダに置いてある鉢に蒔いた枇杷の種が芽を出し
すくすくと伸びた。やがて鉢では耐え切らなくなったので中庭の隅に植え替えた。
その枇杷が花を咲かせ実をつけた。形は悪いが甘みがあって美味しかった。
今年は長年実をつけなかった「金柑」にはじまり、水槽の「めだか」も子供を産み
「枇杷」までが実をつけた。
かすかな命を大事に育てた甲斐があったとつくづく思うのでした。

今年の夏は先月急逝した「奥田君の追悼コンサート」を長崎で行う。
母の3回忌を兼ねて家族で帰るが再会する友人との絆も大事にしていきたい。

2005年 7月3日 記


--------------------------------2005年6月--------------------------


早くも6月に入り「梅雨」のシーズンらしい。
今月の近況報告は湿った話をしなければならない。
先月の12日、友人が急死するという知らせがあり夫婦で福岡まで駆けつけた。
葬儀場では全国から、いや海外からも仲間が来ていた。
53歳と言う若さはなんと言えばいいのか言葉に詰まる。
大学時代からバンドのベースを担当して頂き、社会人になっても数々の
支援をしてくれたほんとの恩人であった。

動脈瘤破裂という突然の出来事とはいえ、神様はなんと悲しい結果を。。。。
福岡に行った折には飲み屋で良く会った。やはり出てくるのはバンドの話だ。
最近は息子とバンドをやっているとかいう彼の顔ははにかみながらも
うれしさがにじみ出ているそれだった。
小柄な体と大きなベースはなんとも不釣合いだが、ひとたび曲が始まると
きっちり決まって見える。
そんな「奥田君」がもういない。
今年の夏は長崎で久々の演奏会をやろうと決め準備に入っていた矢先だけに
心残りが大きい。
どうか天国で私の母と語って下さい。そして、地上の我々を暖かく見守って下さい。

合掌

2005年 6月1日 記


--------------------------------2005年5月----------------------------


世の中はゴールデンウイークで行き交う人の顔も何故か明るく見える。
一昔前のこの頃は賃上げで国鉄・私鉄のストライキ等があり
田舎に出張してじっと仕事をしストがあけるのを待っていたものでした。
まとめて休める楽しみは自分の中に眠っている本来のものを目覚めさせてくれる。
最近、会社での飲み会では若い社員がなかなか同伴しないのでついつい年寄りだけになる。
出る話が「定年後の話」になってしまう。
つまり、自分から仕事を取り上げると何が残るのだろうという話題になる。
幸いに私は多趣味であり夫婦でやりたいことが山のようにある。
ライフワークともいえる音楽活動は地元の我孫子を中心に広げていきたい。
「おじさんバンド」とよばれる方々の集団をつくり若いやつに負けないコンサートを企画したい。
等の夢は多い。
話にでるような心配は微塵にもないのです。

そんな中で先週、同期入社の1人が急逝した。
とても残念であり無性に悲しかった。
健康管理のために始めたテニスが原因かどうか判らないが
急に倒れてそのまま息を引き取ったという。
これから自由になる時間がおおくなり、第2の人生を迎えようとする
我々年代の悲しい出来事なのか?
ついつい仕事では来週の予定や来月の行事等に頭が回り
今日という日を忘れていることが多い。「今日を生きよう(let's live for today)」
ではないが、もう一度今日という時間を見直したい。

暦でははやくも5月の声を聞き、野山の木々は新芽が吹き出ている。
新緑というのだろうか、これから新たに活動するぞという意気込みが山々から聞こえる。
我々も衣装換えして気分一新しよう。

水槽のめだかがついに卵を自然に生えた藻の中に産みつけた。
最近は透明な卵の中に黒いものが見えてきた。全部で10個以上はある。
なんとか成長して10匹のなかに加わってほしいと願う。
狭い水槽やベランダの環境でも黙々と生きていく動植物の有様は何故か励みになる。
まだまだ人生は長い。焦らずに楽しみながら過ごしていきたいと思うのです。

2005年 5月3日 記


----------------------------2005年4月------------------------------


桜の花便りが聞こえてきました。
暦の上では4月を迎えており爽やかな風が顔をなでる。
厳しい冬の間、動物や植物はじっと我慢の子だったのだろう。
世の中が一斉に活気付いたようですね。

4月1日はおろしたてのスーツとピカピカの鞄や靴でフレッシャー諸君が
街を歩いていた。どの顔も笑顔だ。
おそらく新入社員歓迎会へ向かうのだろう。
「おい!がんばれよ」と一声かけたくなるのだった。
我が家の長男も来年はあのような笑顔で社会に出て行くのだろうか?

自分の35年前はというと、期待と不安で、故郷の長崎から寝台車に乗り上京したのだった。
家を出る前の晩、祖母と母が手作りの布団を袋に詰めてくれた。
女手ひとつで育てた息子が社会人への旅立ちという事でもないが
好物の「鯛の刺身」をお頭付きでテーブルに並べて一緒に乾杯した。
程よく冷えたbeerが喉を通りグラスを重ねることしばし。。。。。
翌日、駅の貨物受付で荷物を東京まで送ると夕方の汽車で故郷を後にした。
3年は我慢して働こうと心に決めて入社したのだが振り返れば35年という歳月が経過している。
結婚、子どもの誕生、転勤、色々な方々との出会い。。。
これからはもっと時間、家族、友人を大事にして悔いのない人生にしたい。
考えてみればこれからの人生がもっと長いのかもしれない。

次男が豪州から3ヶ月ぶりに帰国した。色々な土産話、経験談、ロマンス?等を聞かされた。
顔つきが一回り大人になったような気がするのは私だけだろうか。
家族で一緒の食事は格別の味付けである。
早く酒の飲める年にならないかと今から待ちきれないでいる。
海外での経験はきっとこれからの人生にはプラスになろう。
機会があれば次なる挑戦をさせたい。

ベランダの水槽では厳しい冬を耐えた「10匹のめだか」が徐々に動きも活発になってきた。
水温の上昇と共に餌の食べ方も元気であり、やがて子供めだかの卵を産むのだろうか。
今年は必ず卵から子どもへ生育させてみたい。
なぜなら、あの寒い中をじっと我慢して動かずに耐えてきたのだから。

植物たちも新芽が出初めており、これからはほっとする場面が多くなりそうだ。
四季の変化と動物や植物達の動き。
時代の流れと世代の流れ。
まだまだ悟ったような事を言う年代ではないと言い聞かせながら街路の桜を見つめる。

2005年4月2日 記


-------------------------------2005年3月-------------------------------


季節が春へ変わろうとする頃に雪が降った。

なごり雪も降るときを知り、ふざけすぎた季節のあとで
今、春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

伊勢正三の「なごり雪」ですね。
窓から見える銀世界はこれから迎える春の知らせにも思える。

4日前に叔父の訃報を受け長崎へ向かった。
小さいときから我が家の商売を手伝ってくれたり私に勉強を教えてくれたりした。
今でも算数で桁上がりの理屈をきっちり教えてもらったことは忘れない。
また、今の趣味の原点である電気への関心も叔父のお陰である。
当時我が家では下駄を販売しており客さんのお好みで下駄の木材(桐、柳、松)や
鼻緒もお好みを選び結んで差し上げることをやっていた。
私も年末やお盆の時期には子どもながらお手伝いをしていた。
そんな中で、ある日叔父から乾電池と電球を電線で結び
点灯する簡単な装置を作ってもらった。
電極はその下駄の鼻緒を押さえる金属製のカバーであった。
なんで電球が光るんだろう?  触っても感電しないのはなんで?
家の電気はビリビリくるのに?
あらゆる疑問が沸いた。
また、使い続けると電池は無くなり捨てなければならないのは何故?
家の「大きい電気」と乾電池の「小さい電気」はどこが違うのか?
なんて、関心がでたのはこの時からだった。
小学校でラジオを作り中学校でステレオを作り高校生でステレオを聞く。
そして聞く方から演奏する方へとなった。
今の趣味の原点はあの時の叔父さんの電球点灯であった。
小さな私の頭の中に「小さなランプ」が灯ったのも叔父さんのお陰と今でも感謝する。

天国で母や昨年逝った叔父さんと兄弟話に盛り上がっているだろう。
葬儀後の偲ぶ会では40年ぶりに再会した親戚や近所の方々等で
さらに話がもりがったことはいうまでもない。
自己紹介をすると当時の私を思い出してくれた。
お互いに年齢を加えており、涙するシーン、驚きのシーンの連続だった。


時がゆけば幼い君も、大人になると気づかないまま
今、春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった
去年よりずっときれいになった。。。。。。。

2月25日で57歳を迎えこれからの人生や故郷のよさをしみじみ考える。
時の流れと数々の思い出は逆に頭を若くする。
これからも大事にしていきたい。

去年よりずっときれいになった。
きれいになった。

2005年3月5日 記


-----------------------------2005年2月---------------------------------


   寒さが身にしみる頃となった。
  早朝の電車には受験生と思しき若者が真剣に辞書を眺めて呟いている。
 自分にはなかった光景と思い出しながら車窓に目を転じる。
思えば社会に出て35年目を迎える。紅顔の美少年(?)だった
九州男児もこの2月で57歳となり皺顔の老年生である。
でも、この皺一本一本には語れない物語が隠されて
 いるのはお判りでしょう。
 結婚、育児、転勤、、、、多くの出来事が走馬灯のように頭を巡る。

 先日、大阪で社員の前にて思い出話をする機会があった。やはり中心は
 10年前の阪神大震災のことだった。東京への転勤4日前の早暁の出来事
 、、、、今でも鮮烈に覚えている。

    背中を突き上げられるような振動と揺れが続く、一瞬、これはただ事ではない
   という思いと不安,布団を巻いて体を包む。部屋の中はめちゃめちゃになり
  暗い中を電話機目ざして手探り行進をする。
   受話器が外れていたためにアラーム音が鳴っていた。
      思わず手を伸ばして我孫子の自宅にダイアルすると家内がでた。
    「大阪は地震でこの後大変になる。俺は無事だから心配するな。
  電話が混むので一旦切るよ。」と言った。

 夜明けまでの時間はひたすら布団に包まって電気が点くのを待った。

それからの毎日はお客様と社員の家族救済活動が続き瞬く間に
 時間が経過したものでした。

瓦礫の芦屋の町をペットボトルとインスタントラーメンセットの
 袋を手に持ちながら歩いた。
 必死に倒壊した我が家を掘り起こす人、呆然と立ちつくす人、、これ以上書けない。

歳月は経過して昨年は新潟地方が多くの被害を受けた。
また、最近ではインド洋で大津波が発生して海岸沿いで多くの被害者がでた。

自然の力の前には何もできない人間の無力さはなんとも言いようがない。
自然から受ける恩恵に感謝し自然を愛する気持ちが欠けていた
自分を再度戒めながら今後の生活に活かしていきたい。

次男が豪州に旅たって一ヶ月経過した。
先日、やっとの電話が家内あてにきたようだ。

  毎日が楽しくて日本には帰国したくないような会話があったと報告を受けた。
かわいい子供には旅をさせよという古い諺は奥の深い事だとつくづく思うのです。

2ヵ月後に見る逞しく日に焼けた顔は楽しみである。
海外での生活を経験したいと言う申し入れを聞いたときに躊躇なく許可を
出したが後悔はない。30歳で初めて渡航経験した自分と違って
うらやましいがこれからの人生できっと役たつであろう。

 いつも紹介しているベランダのガーベラが赤い花を咲かした。
 冬の寒い風や雪に耐えながらも花をつけて
くれたことは今年のがんばりになお一層の後押しをしてくれた。

家内も今週から豪州へ旅発つがきっと現地で次男と会うだろう。
親子で久々に日本語がでると思うができれば英語でやってもらいたい。
しばらくは長男と男臭い生活をおくることになるが生活の変化を
不思議発見と思い楽しみたい。

    2005年2月6日 記



------------------------------2005年1月-------------------------------


新年、明けましておめでとうございます。
2005年も静かに幕開けしましたが皆様におかれましては如何でしょうか?
年が改まると言うことで何か区切りをつけ、気分新たなスタートをする。
1日、1週間、1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、そして1年というピリオッドがあります。
或いは1日でも午前中、午後という方もいるでしょう。
何かを変化させたいと言うときに私達はまずこの時間の経過をその起点にする
ようです。私もしかりでしてこの数年は何度も同じような事を言い続けています。
昨年は思うように事が運ばず悩み多き年でした。立場上それは付きまとう事ですが
今年は新たな発想で行きたいと思います。

昨年末は雪が降り、久しぶりに雪靴を履いて歩きました。
東北時代の冬には日常的な事であった「雪」も忘れていた感があり
歩くテンポの遅さに苦笑いしたものです。
年とともに知らないうちに怪我をしていることが多くなりました。
泥酔とまではいきませんが我をなくすと言う「老化現象」にこれまた苦笑せざるを得ません。
早朝起床現象と記憶喪失現象は確実に「老化現象」と言えます。
家族に迷惑をかけない程度に老けていこうかと考えるものです。

さて、今年は何かいいことがあるでしょうか?
昨年の「天災多発」はほんとに驚きですが被災地の方々は更に苦しい毎日と
戦っていることを思えば無事な日々を送っている自分は幸せと思います。
我孫子という土地には「手賀沼」という細長い沼地があります。
数年前までは汚染度no1というレッテルを貼られていましたが、近年、自治体と住民の
粘り強い運動でワースト1を脱する事ができました。
その手賀沼には多くの鳥達が集まってきます。
最近では、「コウノトリ」が飛来して新聞の一面を賑わせました。
また、その鳥達を研究している「山階鳥類研究所」には先日婚約を発表された
紀宮様がお勤めしています。新聞によりますと黒田さんとの新居も研究所近くか?
等とも書かれています。
幸せを運ぶコウノトリと紀宮様、、、、何かおめでたい気配です。
新年にあたり自然と顔の緩む話題ですね。

春をめざして植物や虫達はじっと我慢しています。
やがてやってくる「時」を楽しみにして寒風や雪の重みに耐えているのでしょう。
ベランダのガーベラは真冬と言うのに花を咲かそうとして蕾を膨らまして
います。また、5年かかって実を付けた金柑はいっそう黄色が金色に変化しました。

今年は子ども達には色々な事が待ち受けています。
就職活動や留学、親としてヤキモキする事が多いでしょう。
しかし、子供は確実に成長しています。
蕾が花へ、黄色が金色に変化すること間違いなしです。
じっと、見守るのも親の務めとして受け止め、この新たな2005年を楽しく
生きていこうと考えるのでした。

2005年 元旦 記


----------------------------2004年12月---------------------------------


朝夕の気温が気になり,あっという間にコートが必要な季節となりました。
水槽の水温も5度近くになっており、めだかの動きは夏のそれよりスローな感じです。
春、夏から秋にかけて楽しませてくれた木々の葉もいつの間にか散ってしまい
来るべき厳しい寒さに備える植物達の強い心が伝わる。
季節の変わりは我々の生活や気持ちを定期的に変化させ新たにしてくれる。
スーツをクリーニングに出す際にポケットを探ると思いがけないものがポロっと出てくると
何か得をした気分になるのは私だけだろうか。半年間、体を包んでくれ、守ってくれた夏物の
スーツに感謝しつつ冬物の袖を通す。

今年を振り返るにはまだ少々早いかもしれないが色々なことがあった。
オリンピックも熱かったが夏の暑さには参った。
それに台風の被害は例年になく多い年であったのではないだろうか。
たしかに地球は温暖化しており自然現象にも変化がでてきたのだろう。

とどめは新潟地方の大地震。
ほんとに心より一刻も早い復旧をお祈りせずにはいられない。
思えば、阪神大地震の時は大阪にいて私も被害にあった。
明け方、背中を突き上げられるような感じで目が覚め、揺れが段々と強くなり
部屋の物が散乱し茶碗やビンといったものは激しい音をだして割れ始めた。
これは大変なことになるぞと思い、真っ暗の玄関へ這い出た。
幸いに電話の受話器が投げ出されており小さなランプが点灯していた。
それを目標に手探りですすみ、ダイヤルを回して我孫子の家内には命に
別状がない事だけ告げ急いで電話を切った。
電気は通じておらずじっと布団にくるまって夜明けをまった。
しばらくするとパトカーのサイレンや付近方々が大声で何か叫んでいる。
まさにパニックの始まりでした。
早いものであれからかれこれ10年の歳月が流れた。
先日、久々に神戸の街を歩く機会があり当時の事を思い出しながら
歩いたが見事な復活にはただただ感心するばかりだった。
新潟地方の皆さんのことを忘れずに無事に生活できることへの感謝をしつつ
来年へ向かいたい。

2004年 12月5日 記


----------------------------2004年11月------------------------


台風や地震による被害で日本列島は大変なことになっています。
また、イラクでは最悪の結果となった。
何か悪いことが氾濫しており感覚が麻痺する毎日です。
まずもって被災地の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。
以前にも書きましたが長崎の実家も数年前の大型台風で屋根、壁が壊れ
内部は雨と泥で悲惨な状態になりました。
ブルーのビニールシートを仮止めして雨風を凌いだことが思い出されてなりません。
あの時はまだ夏の盛りだったので寒さには問題なかったのですが
新潟地方の皆様にはこれからが大変になるでしょう。
一刻もはやい復旧を念じています。

さて、今年もあと2ヶ月になりました。雨の多い秋でしたが久々の秋空を見ると
心も晴れやかになるのは私だけではないでしょう。
ベランダの草木もやがてやってくる冬に向かっての準備をしています。
水槽のめだかは盛んに縄張り争いをしていますがこれもまた低くなる水温へ
備えて準備をしているように見えます。
四季の変化は心と体に新たなエネルギーを与えてくれますがこの他にも
色々な事からエネルギーをいただく機会がありますね。

先日の31日に初めて「老鷲楽隊」を観ることができた。
年齢は私と同じ年代であり、すでに40年以上のキャリアを誇るバンドだ。
友人達と東京ドームへ期待を胸に臨んだが結果はその期待通りであり
3時間というlong runを次々に聞かせてくれる彼らに「新たなエネルギー」を
感じたのは私だけではなかったろう。
ステージでの動き、声、ハーモニー、、、、、、、全てに年齢を感じさせない。
観賞後の飲み会で盛りあったのは言わずもがなです。
これからも色々な人、自然、芸術に触れ新たなエネルギーを得ることにしたい。
えっ 「老鷲楽隊」って?
そうです。あのイーグルスでした。

新球団の参入選定で大いにマスコミを賑わせましたが昨日「楽天イーグルス」
になったようですね。こちらのイーグルスも仙台地方、いや東北地方の
皆さんをはじめ全国の人々に新たなエネルギーを与えてくれるでしょう。
大いに期待したいですね。

2004年 11月3日(文化の日)記


--------------------------------2004年10月------------------------------


スポーツ、食欲の秋と言われるが過し易くなってきたのは肌で感じるこの頃です。
しかし、今年ほど台風の多い年はない。また、被害も甚大です。

子供の時から台風には慣れているものの関東地方に住んでいると
当時の模様を忘れてしまうものですね。
お盆を過ぎると必ず台風はやってきました。その度に父と叔父が板を打ち付けて
扉が飛ばされないようにしていました。
子供の我々はというと、公民館かお寺に避難です。
そこで皆と食べるおにぎりとタクアンが美味しく、一人っ子の私は
密かな楽しみでもありました。
軍人上がりの父は揺れる家の中に一人座って台風が去るのを
ひらすら待っていたようです。
家の前が小さな湾だったこともあり県外の漁船や運搬船が避難しており
波で船と船の擦れあう音は蛙の鳴き声にもにて
波の大きさや強さがそれで判断できました。

数年前に長崎を襲った19号台風では実家の屋根や壁が大きな被害を受け
飛んで帰りましたが幸いにというか不幸中の幸いというか母は肺炎を
起こして病院に入院中ということで事なきを得ていました。

ありあわせの材料で家の屋根に上り瓦を修正したり、壁の代わりに塀の板を
打ち付けたりと3日間の大工仕事は小学校時代の父と叔父の光景を
思い出させてくれました。その時に手伝ってくれた近所の方(小川さん)
も残念ながら今年亡くなってしまいました。
自宅の被害があったにもかかわらず駆けつけていただき暑い最中に
お手伝いをいただいたことは一生忘れることはできません。
保護司というお仕事をされ地域の活動にも献身的に参加された立派な方でした。

最近の新聞やその他で目に付くのは不正や悪いことが多すぎる。
ほのぼのとした善行がでていると心が安らぐのは私だけだろうか。
小川さんのような人生は送れないかも知れないが少しでも接近できれば
と思うのでした。

今日は今から母の1周忌ということで長崎へ夫婦で向かいます。
夕闇迫る大村湾に浮かぶ空港を目にする頃には
長崎物語をそっと雲に向かってつぶやくでしょう。。。。。。。

2004年 10月2日 記


----------------------------2004年9月------------------------------


アテネのオリンピックも終わったかと思えば急に秋の気配です。
久々に日本選手団の活躍で元気を貰ったような気分で清々しい。
活躍した選手もそうだがその裏にいるスタッフの方々の事も忘れてはならない。

今年もあと4ヶ月弱となったが時間の経過は矢の様です。
久々の休日も早めに起床して、日頃できない整理や草花の手入れ、その他
電気器具類の修理に追われる。
でも、何故か充実感がある。
ビジネスで使う部分とこの分野で使うそれには大きな違いがあるのでしょうね。
偏った使い方は疲労のみ残るがバランスよく使うとリフレッシュされる。
これからもこの事を意識して生活していきたい。
会社の先輩達が定年で退職する光景が多くなった。
その後も仕事を続けるのかどうかは分からないが今までと違う多くの時間があるであろう。
60の手習いではないが新たなチャレンジで違う自分を発見して欲しいものです。

暑さ寒さも彼岸まで。。。。。。。。
彼岸と言えば、野や山は赤い彼岸花で覆われる。
植物辞典を紐解くと彼岸花の球根には毒があるが
オロシて水にさらすと毒素が無くなり、その澱粉質が食用になるらしい。
昔、飢饉や食料不足の時にはそうしたという。
人気のない田んぼの畦道やお墓の周りに
そっと植えられているのもうなずける話ですね。
長崎では彼岸花を「曼珠沙華」という。
母は若い頃覚えたのだろうか「長崎物語」をよく口ずさんでいた。

赤い花なら曼珠沙華、オランダ屋敷に雨がふる
濡れて泣いてるジャガタラお春 未練な出船の
ああ鐘が鳴る ララ鐘がなる

意味もよく判らないままに背中で聞いた歌を覚えている。
来月は母の1周忌でまた長崎に帰るが墓前でそっと歌ってあげたい。
そして、咲き始めているだろう赤い曼珠沙華を眺めながら。。。。。。。

2004年 9月5日 記


------------------------------2004年8月-----------------------------


暑い毎日が続いている。
水槽のめだかは元気に泳ぎまわってうらやましい。
だれが生徒か先生か、みんなでお遊戯しているよ。。。。。。。
めだかの学校とはよく言ったたもんですね。

次男がカナダに旅たって2週間になろうとしている。
途中、一回国際電話がかかってきたらしい。
元気な様子で安心、安心。
かわいい子供には旅をさせよとはこれまたよく言ったもんです。
子供の成長はどんなチャンスにも得られる。
出来るだけ自分の考えを発揮できる場所で体験し成長の糧とさせたい。
今回の海外旅行は語学のためとはいえ親と一緒ではない旅行を
しかも、海外で長期間暮らしてみると言う体験は今後の人生に
役立つと確信している。
さてどんな顔をして帰国するやら、今から顔の緩むのがわかる。
ふと振り返れば長男も3日前から大学のクラブの合宿とかで旅行に行っている。
家の中は夫婦2人だけ。。。。。
今後はこんな事が多くなるのだろうなと苦笑いするのでありました。

会社も新しい決算期が始まりあわただしい中に活気がでてきた。
ほっとする間もなく次の目標に進んでいくのだが時間の経過が極めて早く感じる。
IT時代とはいえ少しはのんびりすることも必要ですね。
スピード重視の時代だが丁寧な仕上げも大切であろう。
楽器や曲作りを始めて久しいがイマジネーションを豊かにするには時間がかかる。
プロはいかなる時にもその感性を見出すらしいが
我々は頭の転換がそんなに簡単ではない。
しかし、色々な「想像」を「創造」に結びつけ「騒々」しくしていくことがリフレッシュの
決め手ではと思うのであります。

子供達も段々親から離れていき自分の時間が多くなる。
地域の方々との交流やボランティア、趣味の世界、じっくり時間をかけたもの作り。
暑い夏だからこそ団扇でも扇いでほのぼのと考えたい。
桜並木では蝉の鳴く声が一段と大きくなってきた。
短い一生を精一杯おくろうとしている蝉に負けない人生をおくろうと
思いながら積乱雲に目をやる日々です。

2004年 8月1日 記


----------------------------2004年7月-----------------------------


今年も後半に入ってきた。
四季のおりなす様々な変化は生活、行動の他に「見る目」を変える。
四季を含んだ歌詞といえば私はこれをすぐに思い浮かべる。
CAROLE KINGの曲でYOU'VE GOT A FRIENDの一節だ。

YOU JUST CALL OUT OF MY NAME
AND YOU KNOW WHEREVER I AM
I'LL COME RUNNING TO SEE YOU AGAIN
WINTER SPRING SUMMER OR FALL
ALL YOU HAVE TO DO IS CALL
AND I'LL BE THERE YOU GOT A FRIEND

私の名前を呼ぶだけでいい
どこにいても私はあなたにまた会うために飛んでいく
冬でも春でも夏でも、そして秋だろうと
あなたはただ私を呼びさえすればいい
私はすぐに駆けつける
あなたには友達がいるのだよ

最近、感じるのは人の和(輪)というか友の輪というか
人生ではなくてはならないものがIT文化で代行されてきた感がある。
でも、これは機械とか電波とかいうそのような「心」をもたないもので
代行されはしない。
相対して、口角泡を飛ばして議論し、酒を酌み交わし、怒り、涙を流し、肩を抱き合って喜ぶ。
そんな中から「絆」が培われてくるのではなかろうか。
IT文化に係わっている立場だがこの部分は拘って生きたい。
先日、学生時代のバンド仲間と当時の曲でセッションをやった。
多忙な中、時間を確保して駆けつけてくれた。
時間の経過と共に37年前の自分たちに戻っている。
演奏後の冷えたBEERはこの上ない味だった。

今年のお盆は母の初盆と言うこともあって長崎に家族と共に帰省する。
久々の友人達との再会にはこのキャロル・キングの一節を、心を込めて歌ってやろうと思う。

2004年 7月4日  記


--------------------------------2004年6月-----------------------------


なぜか急に汗ばむ季節になり木陰が嬉しい。
ベランダの「ガーベラ」が2年目の花を咲かせて心を和ませてくれる。
木々や草花も競って成長をしているように思えるが気のせいだろうか。
厳しい冬を乗り越え、春夏と全力で大きくなろうとする様は愛らしさの中に
逞しさを感じるものです。

新聞紙上ではついにイラクでの邦人犠牲者を報道している。
ご親族のインタビューでは「本人も本望だった、、、、」とでているが
果たしてそうか?  死んでは何もならない。
はたまた昨年に続き、故郷の長崎で幼き子供の殺人事件が起きた。
悲しい!!。
人の命がこうも軽々しく扱われる時代になったと嘆くのは私だけだろうか?
グループを通じた活動で相手を知る。よく理解する、理解 してもらう。
そして、共通の目標をもち、達成感を味あうという簡単な事ができているだろうか。
人材の育成では技術的な側面よりヒューマンのそれに時間がかかる。
若い世代に我慢を知らない世代とか言うけれど我々大人の責任でもある。
実現のプロセスを体験させず、いきなり結果を与えることをしていないだろうか?

一昨年まで2人の息子たちと夏休みの「自由研究」で色々な実験や論文作成を10年近く
継続した。テーマは電気の発生原理や応用(エレキギター作成)、巨峰ワイン作成
とうきびビール作成、アロエ化粧水の作成、ハーブ香水、手賀沼清浄化のタンク作成
太陽光による温水器、澱粉と黴・・・・・
たいしたテーマではないが一緒にやることで少しでもプロセスが理解できれば
きっと大人になったときに「話のネタ」となるであろうという一心で取り組んだ。

そんな息子達も大きくなり自由研究からは解放されたが夏を迎えると
寂しい気もする。夏休み最終日に論文を書き終え、目標達成の「乾杯」は
一生の思い出として心の中にとっておきたいと思うこのごろです。

2004年 6月2日 記


----------------------------2004年5月-------------------------------


待ちに待ったゴールデンウイークでしたがやることが多くて時間ばかりが過ぎていくようです。
今年も1/3がすぎてしまいました。春から夏へと季節は変わり木々の葉も生き生きとして
いるようですね。
活き活きといえば我が家では次男坊が張り切って高校へ通いだしました。
自分の高校入学時代を振り返れば雲泥の差です。
3年間と言う短い期間ですが楽しんで過ごしてもらいたい。大学への進学問題もあるが
光り輝く時代だってあっていいのではないかと思うのです。
さて、この4−5月は友人が海外へ移住したり、また久々に海外から戻ったりという月でした。
飛行機や通信技術が発達したとはいえ異国の地で暮らすのは大変です。
でも、その経験をした方々は羨ましくさえ思うのです。
異文化に触れると言うことは考えの幅、視野を確実に拡大するでしょう。
自らの限界も良く知り強い人間になること間違いなし。
自分としては日本国内を転勤した経験しかないがそれでもありがたい事と感謝している。
子供たちにもそのような機会があればどんどん勧めるであろう。
狭い範囲で閉じこもっていては比較対照が少なくなり話題も途絶えがちになる。
今、新聞ではイラク方面で人質になったり連行されたりした方々の記事が絶えないが
自分の子供があのようなことになればどうするかと。。。ふと考えても見た。
情けないが、やはり再度行かすのは許さないことになるだろう。
そして、この平和な日本(我孫子)において生活、活動し世の中に貢献せよと
大きな声で言っているかもしれない。
さー、明日は子供の日!!!スタジオ横の柱には身長を測った跡が残っている。
久々に「チマキ」を食べながら自分より大きくなった息子の背でも測ってみるか。

2004年5月4日 記


--------------------------2004年4月-------------------------------


関東の桜は満開からやや散り始めた今日この頃です。
早くも転勤して3回目の4月を迎えることになりました。年度末と言う多忙期が一段落ですが
まだまだ景気の行く末は不安なものです。
14年前の今頃、大阪時代に東三国の道路に捨てられていたゴムの木が今年も
新しい芽を出してくれました。生命力のすごさと言うか偉大さと言うか、、、感心します。
捨てられていたときは幹を鋸ごりで切られて根が乾燥した状態でしたが、よく見ると
小さな芽がポツンと発見できました。早速江坂の東急ハンズで鉢と土を購入し
願いを込めて植え込みました。2ヵ月後に、その小さな芽は段々と大きくなり、他にも芽が出始めました。
やはりゴムの木は生きていたのでした。

あれから14年経ちますが幹も太くなり毎年新たな緑の葉を楽しませてくれます。
狭い我が家ですがこのゴムの木は家族のような役割を果たしていると思い、大事に育てていくつもりです。

4月と言えば各企業では新人さんが入社してきます。
先週から電車の中でもそれとわかる格好をした方々に会いますが34年前の自分を思い
浮かべると共に懐かしくもあります。
若手の育成という役目はベテランの我々にとって大事な事です。
技術面では中堅に一歩譲るものの人間としてのことはキチンと伝えなくてはなりません。
若者と言うとドライな一面ばかりが取りざたされますが熱いマインドを持った人が多いのです。
変な方向に向けるのは我々先輩の責任ともいえます。
捨てられたゴムの木ではないですが「生きている小さな芽」を発見し、それを暖かく育てて
いく事ができればいいなーと常々思うのであります。
定年まで4年弱となりましたがマダマダ若者に負けないつもりでがんばりたいと
老体に鞭をうつこの頃です。

2004年 4月4日 記


------------------------------2004年3月-------------------------------


 春よこい 早くこい 桜の蕾もピンクになってきました。
いつの間にか季節は巡っているのですね。思い出したような雪がちらついたかと思えば
気温が急上昇してくる。先週56歳を迎え体調の維持に気を遣うこの頃です。
 先週はまた15年ぶり(?)に映画館へ行き今話題の「LAST  SAMURAI」を
夫婦で(初めて?)鑑賞した。まず、映画館の狭さにびっくり、音量の大きさにびっくり
手の込んだ「CG」にびっくりでした。また、一つの映画館には部屋が3つに別れており
違う映画が上映されているというのもびっくり。時には足を運んでみるもんですね。
 そして、肝心のLAST SAMURAIですが、なかなかのものでした。時代考証や史実その他で
いろいろと言われていますが素直にのめりこむ事もいいのではないかと思います。

 アカデミー賞のノミネートによる話題もありましたが助演の渡辺謙さんは「役者やのー」
と思うこと多く制作者側の苦労ばかり考えて長時間鑑賞したものです。
 音楽の世界でも1曲が昔に比べて長くなっています。映画の世界も段々と長編化傾向
にあるのでしょうか。昔の記憶では高校生の時に観た「戦争と平和」がうんざりするほど
長い映画だった気がする。そして途中で休憩が何回か入った。
多分、フィルムの入れ替えと映写機の放熱のために休憩をしなければならなかったのでしょうね。

 長い曲にはそれなりのストーリーがあり聞く人を引きずり込まなければなりません。
最近のロックグループでなんか解らないが延々とアドリブをやっているグループがある。
 聴衆を魅了させるシーンであれば問題ないが飽きさせるものではかえって悪い印象を与える。
映画と同じく「スリルとサスペンス」が欲しい。

 ステージングの難しさは何年やっても感じることであります。
オーディヤンスとの会話や雰囲気作りなど勉強する事は多い。(ソウデヤンス)

 綾戸智恵さんの「大阪弁ステージ」はおもろい。
JAZZ
と大阪弁。。。。なかなかにいい感じですね。
さしずめ私は長崎弁ステージですかね。
そんなステージができればなと思うこのごろです。

4年半ぶりにドイツにいた友人も帰ることですし、大阪弁と長崎弁のステージを期待して下さい。

2004年 3月3日 記

------------------------------2004年2月------------------------------


今日はバレンタイン・デー。洋菓子メーカーのモロゾフが始めた頃はこんなになるとは予想も
していなかったであろう。バレンタイン司教も天国でびっくりということでしょうね。
昨日、世田谷に住む叔父が亡くなった。母の弟で若い頃に雪合戦の際、中に混じっていた
氷が目に刺さり失明した。当時の医学ではなかなか治療が困難だったのだろう。
その後、鍼灸師として活躍し後進の指導、東京都の鍼灸組合役員等にも注力した。
酒を飲むと大声で歌を歌う姿は忘れられない。
昨年の母といい昨日の叔父といい連続でこの世を去ることに時代の流れを感じる。
自分もあと10日余りで56歳を迎えるが時間を大事にして生きて行きたい。
仕事での多忙を決め付けないで目標を立ててそれに向かっていくという基本的な事を
再度思い起こして年齢を重ねて行きたい。
次男坊も4月からは高校生になる。単身赴任で大阪に行ったときは2歳だった。
最近はヘヤースタイルに気を使う年頃になったがたくましく育って欲しい。

2004年 2月14日 記


-----------------------------2004年1月---------------------------------

2004年 新しい年がきました。昨年は色々と皆様にご心配やお心遣いをいただきまして
ありがとうございました。今年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
さて、新年といえばお宮参りに行くのが恒例ですが今年は昨年の母のこともあり
静かに自宅にて今年の抱負を描いております。
次男の高校受験を控えて家の中は緊張ムードですが3月にはそれも決着するはずです。
無事に進んでくれればと心から願う毎日であります。
昨年末(12・28)には久々に野外にてライブ演奏をやった。寒さのために手がかじかんでギターが
思うように弾けないこともあった。ぶっつけ本番ではあったがママさんコーラス隊の「美しい応援」
もあり無事終えることができた。子供たちの喜ぶ顔や地元の住民方々との交流は
忘れかけていた日本人としての「心」を呼び起こすsomethingであった。
昨年の夏のお祭り後、世話役で反省会という飲み会を行った。その時にある長老が言った。
「新聞紙上には連日むごたらしい事件の事が掲載されているがこのように地元のお祭りやイベント
を通じて相互に交流をしておれば事件になる前に防ぐこともできる。毎日でなくても声を掛け合って
生きることは人間の基本的なことなんだよ」。。。。この言葉に私はハットしたもんです。
自分自身単身生活の連続で忘れていた地元の方々との交流、相互に声を掛け合う。。。。
マンションの理事を引き受けた時からこの点を積極的にやっていこうと決めたのです。
12月14日に家族でボランティア参加した「手をつなぐ母の会」のコンサートでも新たな世界を知ったのでした。
今年はもっともっと生活に充実感を味わえるように仕事・地域貢献。。。。。をやっていこうと思います。
なにはともあれことしもよろしくお願いします。

2004年 1月1日 記


------------------------------2003年12月-----------------------------

母の逝去から1ヶ月が過ぎてしまった。
各種の手続きやお知らせで目が回るようであったがやっと落ち着いた。
寂しさはこれから徐々にやってくるという。
でも、母は明るい、気丈な性格であったので、残された我々がそんな気持ちでいると
父と共に天国から「こらー昭憲!!なんばしとるとね」と言われそうである。
先日、父方の親戚と45年ぶりに電話でお話をした。
茨城県日立市に住む93歳のおばーちゃんだが元気そのものだった。
45年前、私が10歳の時、父と母と共に日立を訪問して何日か宿泊した。
山間にある家には大きな栗の木や杉の木がたくさんあったのを記憶している。
戦争の痕であった「艦砲射撃」の痕が大きな杉の木に残ってあり、おじーさんに
解説してもらった。収穫にはまだ早いけどと言いながら栗の実を落として靴で実をとり出す
やり方を教えてもらい感動したことを昨日の様に思い出す。
おばーちゃんは電話の話が進むうち次第におもいだしたのかダンダンと声が
大きくなり当時を思い出したようであり私もタイムスリップした。
悲しみのあとではあるが、なにかすっきりした気分になった。
明日からの仕事にも気合が入りそうな予感である。
今年は母の事もあり音楽関係は出番が少なかったが12月13日には久々に
ライブをやる。友人の送別ライブだが盛大にいきたい。

2003年12月1日  記


------------------------------2003年11月-------------------------------


10月18日午前10時48分、母が85歳で天国へ逝ってしまった。
覚悟は出来ていたがいざその時を迎えると悲しみが次から次へと込み上げてくる。
父を15歳のときに亡くし、それ以来母の手で育ててもらった。
父と母は満州で知り合って結婚したと聞く。同じ年であった。
なんでも泥棒がうろつくので用心棒としてお願いされたことから知り合ったようだ。
軍人の父と南満州の鉄道会社員だった母の出会いでした。
その後、父は戦犯として中国に抑留され病気の体で上海から長崎に引き揚げてきた。
そして、母のいる長崎県香焼島にて雑貨・文具店を経営した。

母は昭和20年8月9日、そうです原爆投下の日ですが胸騒ぎを感じた祖母が
出社をやめるように説得して一命を取り留めたらしい。
祖母は霊感の持ち主であったと母はよく言っていた。
広島に続いて小倉に新型爆弾が落ちるらしいというのは祖父が寝床で語ったという。
呉の港で戦艦大和、長崎は戦艦武蔵を造ったところです。小倉も軍需工場が多くあった場所です。
長崎投下の日、祖母に桟橋で連れ戻された母は3時間後に爆風で倒れ掛かった自宅から
会社のある長崎駅前に社友を救出に向かった。投下直後の長崎市内は焼け焦げた遺体や
建物で地獄絵そのものだったという。大波止桟橋から会社のある駅前まで歩いた時に
残っていた放射能を浴びて被爆した。
その後に体の異常に気がつき被爆申請をして治療生活を長く続けるが血液の病気になり
手術のできない体となった。昨年の脳梗塞・心筋梗塞も簡単な手術で回復できたと
主治医は残念がった。
今回も転倒しての脳内出血だったが手術ができないことでただただ薬治療と見守り
しかできなかった。それでも85年間頑張って生きてきたことは何だったのだろう。
恐るべき生命力と言えよう。

告別式で特別にキーボード奏者を頼んでジョンレノンの「イマジン」を送る曲にした。
別れの言葉と会葬の皆様への挨拶にイマジンをバックに世界平和という事に触れた。
父と母も戦争犠牲者に違いない。
家内は地雷撤去のボランティアで「地雷ではなく、花を下さい」と訴えている。
母の死を機会に私も「平和」という事に取り組んでいきたい。

imagine there's no heaven it's easy if you try
no hell below us above us only sky
imagine all the people living for today

2003年11月1日 記


---------------------------------2003年10月-------------------------------


世の中は「解散」「選挙」「誘拐」「殺人事件」。。。。騒がしいものです。
この8月に部署を異動して2ヶ月が経過しましたが、乗り物に乗って移動する時間が
やたらと多くなった。日帰りが多いのでゆっくりと車窓を楽しむ余裕はないが
刈り取りの済んだ田んぼがなぜか一仕事終え一服という顔をしている。
山々の木々が彩を添える頃になり、化粧と言う言葉がぴったりする。
新幹線の発達・普及により快適な電車の旅には間違いないが駅駅で名物を
楽しむという時間がなくなったのは寂しい気がする。
長野に行くのも木更津に行くのも代わり映えがしない。
やはり、土地土地の風土に触れ、地元の方々(特にお年寄り)と会話をしながら
地方の歴史の一端を垣間見る事ができれば最高だ。
入社以来、地方出張でその地元の名物を買うことはなかったが最近は
必ず買ってくるようになった。特に食物は箸を進めるときに思い出すということで
効果があるのではなかろうか。
仕事の多忙さに押されて音楽活動が停滞しているが少しスピードをダウンさせて
20年前の自分を振り返るのもいいかなと思い、1980年代の楽譜を紐解くと
なんのなんのいい曲があるではないか。
「温故知新」 まさに其の通りですね。

2003年10月11日記

----------------------------2003年9月------------------------------


今年も2/3が過ぎてしまった。活動がしやすい秋ということですが「秋風」の響きは少し違う。
風も頬伝う優しいものもあれば辛い風もある。いい風をいっぱいうけて健康に暮らしたいのは全員の
願いでしょう。ボブディランの名作「風に吹かれて」は色々なアーチストが取り上げています。
最初に聴いたのはキングストントリオというフォークグループでした。
how many roads must a man walk down before you can call him a man?
how many seas must a white dove sail before she sleeps in the sand?
how many times must be cannon balls fly before they're forever banned?
the answer, my friend , is blowin' in the wind
the answer is blowin' in the wind
歌詞の響きや構成共にいい感じです。
先日、クラプトンのDVDを購入したらゲストにボブディランが出ていました。
何しゃべっているかわからないような発音ですが、それがまた雰囲気出している。
還暦を超しているとは思えないバイタリティには脱帽です。
後数年で迎える自分もそんな人生を送れたらと。。。思いました。
涼しい秋風に吹かれて体力回復を願うこの頃ですが
皆さんは如何ですか?

2003年9月1日記

----------------------------2003年8月----------------------------

 なんだかんだで8月も後半になってしまいました。
猛暑とは言えない毎日で体もおかしくなっていませんか?
仙台から戻って1年半が過ぎてしまいました。
やっと都会の暮らしに慣れてきた所ですが通勤地獄にはなんともいえません。
新聞を拡げて必死に読む人、肩が触れた触れないで口論する人
電車の中で固く口を閉ざし眠っている人、必死に携帯でメールを叩く人
缶チューハイを美味そうに飲んでいる人(常磐線に多い)・・・様々ですね。
そんな中で私と言えば音楽を聴いております。
時々、イヤフォーンという状況を忘れて思わず一緒に歌ってしまい、
周りの方がびっくりして顔をのぞき込んだり。。。。。。。。。(変なおじさんという目で)
 小さい頃(小学校前)、おばあさんに連れられて旅回りの芝居をよく見ました。
キンキラキンの衣装でチャンバラをやるシーンは今でもよく憶えています。
そして、良いところで当時流行っている歌謡曲がかかりました。
意味は解らなくても丸暗記で憶えています。
「影か 柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸引く煙
棄てて別れた 故郷の月に 偲ぶ今宵の不如帰」
これは昭和18年に小畑実さんがヒットさせた歌です。
亡くなったバーちゃんや親戚の前で得意げに歌った事もありました。
人前で歌うことに恥ずかしさを持たないことがこの頃からあったのでしょうか。
逆に人前で歌うことのすばらしさ、快感を持っていたのでしょうか。
今でも思い出に残る歌謡曲のひとつであります。
 自宅の倉庫に眠っていた「蓄音機」をまわし始めたのはこの頃から5年後でした。
当時の
SP盤は落とすと割れてしまいました。針も頻繁に交換しなければいけません。
それを思うと現在のCD/MD…….は夢みたいな話だったでしょうね。
ともあれ、通勤の中で簡単に音楽を楽しむことができ、その再生音もすばらしい
HI-FI)という昨今、思い出に残る曲は意外な所にありそうです。

2003年8月18日 記

----------------------------------2003年7月--------------------------------


今年も半分が過ぎてしまいました。時の流れは早いものですね。
昨年に続いて老人ホーム様からの出演依頼がきはじめました。
楽しみの少ないお年寄りの方々に喜んでいただけると言うことはありがたい事です。
過去数回の演奏内容を見るに、幅広いジャンルという共通点がありました。
確かに入居されている方々の年代は我々よりも15−20年は上の方々です。
自分にとっての思い出のメロディというものは色々なジャンルからでありましょう。
ある方は親の背中で聴いた童謡、ある方は友達と一緒に歌った流行歌
また、ある方は発表会で熱唱した課題曲。。。。。。。
いろんなリクエストに応えようとすれば当然幅広いジャンルということになるのは当然ですね。
しかし、施設の職員さんがおっしゃいました。「激しいロックもいいんですよ」って。
思い出に浸るのもいいのですが今のはやり歌を紹介することもありがたいらしいです。
また、脳を刺激することで活性化が進むようです。
昨年の施設演奏会で一番リクエストが多かったのは「テネシーワルツ」でした。

I WAS DANCING WITH MY DARLING
TO THE TENNESSEE WALTZ
WHEN AN OLD FRIEND I HAPPENED TO SEE

I INTRODUSED HIM TO MY LOVED ONE
AND WHILE THEY WERE DANCING
MY FRIEND STOLE MY SWEET HEART FROM ME

I REMEMBER THE NIGHT
AND THE TENNESSEE WALTZ
NOW I KNOW JUST HOW MUCH I HAVE LOST

YES, I LOST MY LITTLE DARLING
THE NIGHT THEY WERE PLAYING
THE BEAUTIFUL TENNESSEE WALTZ

あの女性歌手パティ・ペイジが1948年(昭憲の生まれた年)に出して1950年に
大ヒットした名曲です。日本では何と言っても江利チエミさんのバージョンでしょうね。
彼女の13歳のときに吹き込んだと言われていますが私は自宅にあったSPレコードで
知りました。シャリシャリした再生音からよくわからない歌詞を必死で覚えたものでした。

時代を生き抜いた先輩諸氏、お年寄りの方々には戦後の苦しいなかで聞こえてくる
物悲しいワルツは「一番の思い出」だったのでしょうね。
私も「I REMEMBER THE NIGHT...........」のあたりではそんなことを頭に浮かべながら
歌っています。
また今年もそんな機会があれば心を込めて演奏しようと思います。


2003年7月6日  記


----------------------------- 2003年6月-----------------------------------

梅雨の季節になり何か晴れ晴れしない毎日です。
メッセージが遅れてしまいましたが音楽、仕事にがんばっています。
「口ずさみ易いメロディ」「覚えやすいメロディ」「心に残るメロディ」
何れもHIT曲と言われるものの重要なファクターでしょう。
アマチュアながら近年作曲に挑戦して感じるのは
この「
XXXいメロディ」が難しいという事です。
期限があり、せっぱ詰まるとどこかで妥協してしまう。
過去の有名なヒット曲の裏話を聞くと大変面白いですね。
最近の週刊誌で尾崎キヨヒコさんの「また逢う日まで」が
実は別の歌手で出す予定だったのを
軽い気持ちでもらったとか、美空ひばりさんの
「川の流れのように」は別の歌手が最初レコード化していたとか

この種の裏話は多く、B面がヒットして急遽A面と入れ替えた
等という
のはよくある話ですね。
このようなヒット曲に共通なのはやはり「XXXいメロディ」でしょう。
POPSROCKの世界ではBEATLESPAULさんが有名ですが日本では
やはり「桑田ケイスケ」さんはすばらしい。
よくあのようなメロディラインが湧いてくるなと感心します。
曲のタイトルと実際のメロディのギャップが
聞く人を虜にする事も見逃せない

点ですかね。下手の横好きではありますが
恥ずかしさを隠して挑戦していくつもりです。


  2003年 6月16日 記

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