・・・ 多摩の戦争物語 ・・・

 多摩に残る戦争の記録をいくつかまとめてみました。昭和20年3月10日の未明に 東京の下町を中心として襲われた空襲(東京大空襲)のあとの多摩地域における空襲の記録からひろったものなどです。

 @青梅に墜落したB29
 A立川にあった空襲の悲劇
 B大和田橋に残る空襲の跡
 C横沢入の地下壕跡
 D武蔵野に残る空襲の跡
 
(2010年 6月 記)
(2010年10月 「横沢入の地下壕跡」を追記)
(2011年 8月 「武蔵野に残る空襲の跡」を追記)

 【青梅に墜落したB29】
 
 昭和20年4月2日の未明、武蔵野の中島飛行機などの工場地域を空爆した アメリカ軍のB29長距離爆撃機のうちの1機が被弾し、青梅市柚木町(当時は吉野村柚木)の山中に墜落しました。
奥多摩橋からのB29墜落地点

 墜落したところは二俣尾の駅から多摩川に架かる奥多摩橋を渡るときに正面やや右手方向に見える山の中です。

 この日のB29の大編隊(100機以上)は武蔵野の航空機工場(中島飛行機武蔵製作所)ほか 立川や小平の軍事施設、軍需工場を破壊することを任務としていました。夜間における命中率を上げるため 低空飛行をしていたと思われ、そのうちの1機が高射砲によって被弾しました。 火災を起こし、煙を吐きながら青梅まで飛来し、早朝の3時ごろ愛宕山(柚木町2丁目の山)の山中に墜落したのです。 空襲警報が解除された直後、東の空(立川方面)から火の玉のように飛んできたということです。

墜落したB29のエンジン
 墜落現場の周囲4〜500mの範囲にある道路や畑、民家の庭先などには飛行機の残骸が散乱したそうです。 中には風防ガラスの破片もあって石などにこすり付けるとよい匂いがしたという記録があります。 (筆者にも匂いガラスとかいった子供のころの記憶があります。)
 激突する直前に4つあるエンジンのうちの一つが多摩川に近い崖の上に落ちたのですが、 後の災いを恐れて地元警防団が多摩川に落としました。長いことそのままであったものを地元の方 (青木光男氏)が引き上げ、最終的には青梅郷土博物館に保管されるようになりました。 ちなみにその他の残骸については終戦後に米軍が持ち去ったそうです。

 この機の乗組員は11名でした。うち6名はパラシュートで脱出したものの、 残る5名は飛行機とともに墜落し炎上してしまいました。
墜落したB29兵士の慰霊碑

 脱出した兵士のうち1名は火傷のため亡くなり、もう1名は留置中に火災で亡くなっています。 しかし残る4名の方は終戦後、無事本国に帰っています。
 飛行機とともに墜落した5名の遺体はしばらく土の中にあったものの、丁重に葬るべきとの意見 (吉川英治氏)があって火葬され、近くの即清寺に埋葬されました。後に(平成12年)、 これも地元の方(野村哲也氏)によるのですが若い兵士の霊を弔うため慰霊碑が建立されています。
日米合同慰霊祭

 この墜落したB29に関しては平成18年4月2日になってとても感動的なイベントが行なわれています。 それは慰霊碑を建てた地元有志の方々と在日米軍横田基地副司令官以下の関係者とによって 日米合同慰霊祭が催されたのです。そのときの様子を下記のビデオ(参考資料A)で見たのですが、 合衆国国歌に続く即清寺住職による読経、そして雨の中に響く鎮魂ラッパの音が印象的でした。 なお、パラシュートで脱出し、本国に帰った兵士のうちの一人が慰霊祭のことを知り メッセージを寄せてくれたとのことです。

(2009年8月)

(参考資料@:「西多摩の戦争遺跡を訪ねる」見学会資料 )
(参考資料A:中央大学FLP松野ゼミ:多摩探検隊 No.28 )

 【立川にあった空襲の悲劇】
 
 昭和20年4月4日の未明、立川を襲った空襲は広い範囲に被害がおよび、 多くの犠牲者を出してしまいました。
立川山中坂の空襲現場
 先の大戦中、立川には多くの軍事施設や軍需工場が集中していました。 このため米軍による空爆の対象となり十数回にわたる空襲を受け、340名もの犠牲者を出してしまいました。 被害の多くは飛行場とその周辺で受けたのですが、なかでも4月4日夜間の空襲は広い範囲に被害がおよび、 最大の犠牲者(144名)を出しています。
 特に山中坂にあった防空壕では空襲警報が発令されて避難していた42名もの方が犠牲になっています。

陸軍航空工廠跡の碑
 立川駅北側の昭和記念公園のある一帯はかつて陸軍の航空関係施設や工場のあったところです。 昭島市側には今なお、フェンスに閉ざされた基地跡がありますが、ここは陸軍航空工廠のあったところでした。
 B29爆撃機による4月4日の空襲は夜間であったため目標を見定められなかったのか攻撃目標をそれ、 基地周辺の富士見町のほか柴崎町、錦町、曙町、高松町、砂川町と広い範囲に被害を出しています。
山中坂防空壕跡の地蔵堂
 山中坂は富士見町5丁目から7丁目に降りるところにある坂です。残堀川に沿った立川崖線のところですが、 ここに横穴式の防空壕がありました。午前1時ごろに空襲警報が発令されて近所の老人や女性、 子供たちが避難しました。不幸にも目標をそれた爆弾は防空壕を直撃し、一瞬のうちに全員が犠牲になったのです。

 防空壕のあったところには地蔵堂が建てられています。そして隣に「山中坂悲歌(エレジー)」 という山中坂の悲劇を叙情的に記した歌碑があります。平成7年4月2日に建立されました。

 山中坂の空襲は軍需工場を狙ったはずの爆弾が防空壕を直撃し、 避難していた一般人を巻き込んでしまった悲しい出来事でした。

夜明けが遠い闇の中 山中坂の防空壕に
   息つめよりそう四十一人
      子ども年より女の人 爆弾つんだ飛行機がくる
闇をひきさきとどろく音 防空壕に爆弾が落ちた
   埋められた四十一人
        子ども年より女の人 二度とかえらぬみんなの命
ああ悲しみが坂を流れる 桜の花がなきがらに降った
   あの日のように花びらが舞う
      山中坂よ小さなほこら お地蔵さまに祈る誓い
あの悲しみをくり返さない あの悲しみをくり返さない

  【山中坂悲歌 歌碑より】

(注:この歌碑では四十一人となっていますがこれは犠牲者の中に 氏名の分からない方が1名いたためと思われます。)

(2010年5月)

(参考資料@:中央大学FLP松野ゼミ:多摩探検隊 No.52 )
(参考資料A:総務省 一般戦災ホームページ 立川市における戦災の状況 )

 【大和田橋に残る空襲の跡】
 
 昭和20年8月2日の未明、アメリカ軍のB29爆撃機180機が 八王子上空にやってきてものすごい数の焼夷弾を落としていきました。いわゆる八王子大空襲です。
焼夷弾跡の残る大和田橋
 このため八王子市街地の80%が焦土と化し、 周辺住民を巻き込んだ人的被害は2500名以上とされています。 そのときの焼夷弾の跡が甲州街道の浅川に架かる大和田橋に残されています。
歩道上の焼夷弾跡
 このとき大和田橋に落とされた焼夷弾は歩道上に17個ですが、 車道上は補修されて形跡が残っていないものの割合から推測すると橋全体では50個以上にもなるそうです。 市内全体では2時間で1600トン、67万発ともいわれる焼夷弾が落とされ(注)、市街地の約8割が焼失、 死者約450名、負傷者約2000名、罹災者7万7000名という被害でした。 このとき大和田橋の下では多くの市民が避難し一命を取りとめたのです。

 (注):3月10日の東京大空襲の時に落とされたのが1665トンだったとされていますから、 それに匹敵する空襲の規模であったことが窺えます。


歩道上の焼夷弾跡
 そして橋に残された弾痕を保存し戦争の痕跡を後世に残すためにと、 橋の補修工事の際に色付きタイルでその位置が印されました。 さらに左右の歩道上のそれぞれ1箇所は透明版で覆われた状態になっています(少々見難いです)。 また橋の両端左右に以上の事柄と弾痕の位置を示した説明版が置かれています。

 空襲の前の7月31日夜と8月1日昼に予告ビラ(リーフレット=伝単)がまかれました。 そして8月1日の夕刻、テニアン島を離陸したB29爆撃機180機は八王子に向いました。 この日、川崎ほか長岡、富山、水戸の各都市にもサイパン島、グァム島からB29が離陸していて その数は合計793機にもなったそうです。(東京大空襲のときは334機でした。 B29は8トンの爆弾・焼夷弾を装備した上で東京〜サイパン間2500kmを軽々と往復できるのです。)
 1日午後8時20分に警戒警報が発令されものの、 なかなか現れないばかりか川崎・鶴見方面爆撃の情報が入ったため八王子市の警戒は解除されたととられました。 しかし日付が変わった直後(2日午前0時45分頃)、突然空襲が始まり最初の爆弾が落とされました。 このあと波状攻撃は2時間近く執拗に繰り返されたのです。
 先にも示した67万発という焼夷弾の数は当時の八王子の人口の約10倍ということです。 市街地の面積(600万uとして)からすると約10u、畳6畳分あたり1発というとんでもない数になります。

 下の画像は空襲から2ヶ月後の10月に撮影されたものです。(下記参考資料@より)
空襲直後の八王子市内

 右手から中央奥に向かっている道路は甲州街道で八日町の交差点あたりから西側を見ていますが、 見渡す限りの焼け野原です。
現在の東京三菱UFJ銀行・八王子中央支店
 画面右端に残っているのは旧三菱銀行八王子支店の建物です。現在は東京三菱UFJ銀行・八王子中央支店 となっていますがその姿はほとんど変わっていないところがすごいと思います。 ちなみにその奥は荒井呉服店(ユーミンの実家)の土蔵だと思われます。
現在の元木屋製菓店
 そして一番目立つ煙突ですが、八王子市郷土資料館にある大きなこの画像の説明に 「おかしやさんの煙突」とあり、よく見ると煙突側面に「元○○製菓工場」とあります。 この○○が判然とせずに気になっていましたが学芸員の方に尋ねると今でも有名な和菓子屋さんの 「元木屋」さんとのことでした。ただ荒井呉服店向かいのそのお店は残念ながらシャッターが下りていました。

 八王子には軍事施設もないのになぜ空襲を受けたのでしょう。 八王子は織物の街として栄えていました。戦争も末期になると米軍は空襲の対象として、 いくつかの中小都市を選んだのですがそのうちの一つだったのです。 また付近の軍需工場で働く労働者の住宅地であることや、 八王子駅が鉄道交通の要となる重要な駅であることも理由のようです。 しかしながら被災したのはほとんどが一般市民であることから、 あきらかに米軍による無差別爆撃の一環であったといえます。

 なお、この3日後の8月5日には、 新宿発の419列車が裏高尾の猪之鼻(湯の花)トンネルで 小型戦闘機P51による銃撃で被弾してしまいました。

(2009年2月)

(参考資料@:ブックレット八王子空襲 八王子市郷土資料館 )
(参考資料A:総務省 一般戦災ホームページ 八王子市における戦災の状況 )

 【横沢入の地下壕跡】
 
 空襲とは直接関係がありませんが、武蔵五日市駅近くの横沢入という場所 (あきる野市)には陸軍が兵器や資材を立川から疎開させたという地下壕がいくつか残されています。
あきる野市の横沢入 あきる野市の横沢入

 横沢入は現在、幸にも大規模な開発にさらされることもなく「里山保全地域」に指定され、 多くの人々によってその景観が保たれています。雑木の山に囲まれていくつかの谷戸があり、 トウキョウサンショウウオ、ホトケドジョウ、ホタルなどの希少生物が生息しています。
 また同時に、この場所は江戸の昔に伊奈石(このあたりに分布する砂岩)として切り出されたという 石切り場跡のあるところでもあり、山中には石工たちの作業場や切出した石片などが見られます。
あきる野市の横沢入


横沢入の地下壕の入口
 あぜ道や水田を取り囲んでいる山すそにはいくつかの地下壕が掘られています。 道沿いから少し凹んだところを見ると地下壕の入口が見られ、全部で10本以上確認できますが、 だいたいは崩れ落ちています。そのうちのいくつかは2〜3mほどよじ登って中を覗くことはできます。 太平洋戦争末期に陸軍によって27本ほど掘られたそうです。
 地下壕の中には立川の陸軍航空廠立川支廠からパラシュートや戦車部品などの軍用資材がここに移されました。
横沢入の通称「戦車橋」
 また通称「戦車橋」というのがあぜ道の2ケ所にあって結構有名ですが、 先の「伊奈石の会」によると実は戦車ではなく牽引車の車台(シャーシ)であって、 戦後どこかの地下壕の中にあったものを持ってきて橋として再利用しただけのようです。

 ちなみにこの横沢入付近には空襲の被害はなく、疎開した軍事物資は無事だったと思われますが、 しかしそれは戦後何の役にも立たなかったことになります。

(2009年11月)

(参考資料@:ブックレット「横沢入の歴史遺産を歩く」ほか:伊奈石の会 )
(参考資料A:「知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く」:洋泉社 )

 【武蔵野に残る空襲の跡】
 
 武蔵野市の武蔵野中央公園から1kmほど北にある東伏見稲荷神社の境内入口に 「中島飛行機殉職者慰霊碑」があります。
中島飛行機殉職者慰霊碑(東伏見稲荷神社)

 そこには殉職者の氏名と建碑の由来が示されています。
 (碑文の要旨:中島飛行機武蔵野製作所は昭和13年に創業、 16年には隣接地に多摩製作所が増設されました。昭和18年に両製作所は合併され武蔵製作所となっています。 国内第一の航空発動機工場として従業員総数は5万人に及んだとされています。 しかし米軍による爆撃の第一目標となって終戦までの間に十数回の爆撃が行なわれ、爆弾500発が命中、 200余名の殉職者と多くの負傷者を出してしまったのです。 そして工場は完全に廃墟となって戦後になっても復活することはありませんでした。)

武蔵野中央公園
 JR三鷹駅の北で青梅街道と五日市街道に挟まれた武蔵野市役所、都営住宅、 NTT研究所のある辺りが中島飛行機武蔵製作所・東工場(旧武蔵野製作所)で、 陸軍の軍用機エンジンを製造していました。 その西側の都立武蔵野中央公園が武蔵製作所・西工場(旧多摩製作所)のあった場所で、 海軍の軍用機エンジンを製造していました。
 最近中央公園の西のはずれで地下道が発見されたそうですが、 武蔵製作所の建物と建物の間は工員の通路や材料の運搬のために多くの地下道で結ばれていたそうです。 今でも中央公園の下には地下道が残されているのではないかと考えられています。
武蔵野製作所旧変電室
 武蔵野製作所(武蔵製作所・東工場)のほとんどは鋸屋根の平屋建てでした。 このため爆撃によって工場建屋はあらかた焼失してしまいましたが唯一残されたものとして変電室があります。 現在は改修されて都営武蔵野アパート管理事務室となっていますが鉄筋コンクリート2階建てだったため、 空襲にも耐えたということです。
生き残った樹木
 残されたものといえば都営緑町住宅の中の道路の何故か中央に一本のシラカシの木がありますが、 これも元の工場の中に植えられていた樹木の生き残りなのだそうです。
250kg爆弾の破片
 中島飛行機武蔵製作所への空襲では多くの被害を受けましたが、 一部は標的を外れて民家や学校にも被害がありました。 武蔵製作所の南にある延命寺の境内には工場を狙った外れ弾が落ちています。 また戦後になって不発弾もいくつか発見されました(八幡町、東伏見、柳沢など)。 なお、延命寺には供出した梵鐘に代わって戦後、 観音像などのレリーフを入れた「平和の鐘」と名づけられた梵鐘が置かれています。
空襲でえぐられた墓石
 同じく源正寺には爆弾や機銃弾によって被弾した墓石がいくつか見られます。 中でも背後が大きく抉(えぐ)れた墓石がありますがご遺族の考えであえてそのまま残されているのだそうです。
 またここには引き取り手のなかった空襲の犠牲者の遺骨を納めた「倶會一處」(くえいっしょ) という碑があります。
柳沢〜田無間のガード
 余談ですが、武蔵製作所で作られたエンジンはさらに北側にある中島航空金属まで運ばれて テストが行なわれました。現在は住友重工やひばりが丘団地のある一帯です。 その運搬のために専用鉄道がありましたが、 西武新宿線の柳沢〜田無間のガードが現在わずかに残っているその廃線跡ということです。

 ゼロ戦(零式艦上戦闘機)の発動機は全て中島飛行機製でした。 このため米軍マリアナ諸島から発進するB29による最初の攻撃目標となったということです。 本格的な本土空襲の第一目標が中島飛行機の工場破壊であったことになります。
 戦後、中島飛行機の跡地は都営住宅や野球場、米軍宿舎などが建てられましたがその後野球場は姿を消し、 米軍宿舎は中央公園となり現在に至っています。中島飛行機自体は財閥解体の第一号となり、 その名は消えましたが各地の工場はスバルで有名な富士重工へと引き継がれています。
 現在、戦争の痕跡はわずかながらでも残されていますが、 これら貴重の遺跡がいつか消えてしまわないよう祈るのみです。

(2011年 6月)

(参考資料@:フィールドワーク資料「中島飛行機武蔵製作所と武蔵野の空襲の跡を歩く」:武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会 )
(参考資料A:「知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く」:洋泉社 )


 (記述の中に誤りや疑義がございましたらご面倒でも管理人までご連絡ください。)

廃物メニューに戻る

ホームページに戻る