・・・ 裏高尾、湯ノ花トンネル ・・・

 裏高尾には戦争の傷跡も生々しい湯ノ花トンネルがあります。昭和20年8月5日、 この場所で長野や山梨の疎開地に向かう満員の乗客を乗せた419列車は米軍のP51戦闘機による機銃掃射を受け、 多くの犠牲者をだしてしまいました。

Rev.1 2005年7月
Rev.2 2005年9月
Rev.3 2010年6月 追記  

(画像をクリックすると拡大できます)



 国道20号線(甲州街道)を大垂水峠に向かい、高尾駅近くの西浅川交差点で右折すると旧の甲州街道に 入ることができます。駒木野の関所跡を過ぎて蛇滝口のバス停近くの線路上にこの湯ノ花トンネルはあります。 短いトンネルですが山がせり出している地形のため「猪の鼻トンネル」ともいわれています。
 この場所こそ、新宿発長野行き八両編成の419列車がアメリカ軍の小型戦闘機P51による機銃掃射を受け、 52名(慰霊碑による)以上の犠牲者と多数の負傷者をだした日本最大の列車銃撃事件があったところです。 それは戦争終結のわずか10日前のことでした。
(1999年5月撮影)

 現在この場所は圏央道八王子ジャンクションの建設工事中です。 圏央道の構造物がすぐ上までせり出してきていて近い将来、この場所を圏央道がまたぐ計画になっています。
 そして当時単線だった線路は複線になり、事件のあったトンネルは上り線専用になっています。
(2005年7月撮影)

 

 バス停から線路方面に歩いて少し登っていくと「新井踏切」(地元では荒井と表している)という 遮断機も警報機もない歩行者専用踏切があります(現在では遮断機、警報機共に付いています)。
 

 この踏切から小仏側を見て右が上り線に使われている古くからある悲劇のトンネルです。 トンネルはレンガ積みの構造で、レンガ自体にも銃撃の痕があるということですが、 近づくことはできないため確認できません。
 

 昭和20年8月5日、定刻をやや遅れて新宿駅を出発した419列車は、日曜日であったこともあり 兵隊や疎開先に向う乗客で混雑していました。3日前の八王子大空襲で不通になっていた中央線が ようやく開通したという事情もあります。
 浅川駅(現高尾駅)に到着したころには空襲警報が発令されたのですが、駅構内で被弾するより、 小仏トンネルに入ってしまうほうが安全と考えたようです。そして湯ノ花トンネルに近づいたころ 複数のP51が419列車に向って急降下し銃撃を始めたのです。これらのP51は八王子駅を空襲したあと、 偶然に419列車を発見したようです。(ターゲット・オブ・オポチュニティといい、 何らかの戦果を得るためにいきあたりばったり、成り行きの攻撃目標とすることがあったようです)

 上の図は419列車が銃撃されたときの湯ノ花トンネル付近の様子を表わしたものです。
 419列車はトンネルに機関車と客車1両が入ったところで停車してしまいました。 P51の機関銃は線路を貫通してしまうほどの威力があります。
 P51が去ったあとの車内は荷物が散乱し、死者・負傷者が多く残されました。 地元の人々による救援を受け市内や立川、一部は関戸の桜ヶ丘保養院(現在の桜ヶ丘記念病院)などに搬送されました。

 踏切りの近くには「猪鼻列車銃撃事件供養碑」が静かに建っています。戦時下とはいえ、 これは国際法にも違反する人道上許されぬ行為として当時非難の声があがり、現在でも毎年 「いのはなトンネル慰霊祭」が行われています。戦争は常にこのような悲劇を引き起こします。 戦争体験のない私たちの世代が、このようなことを少しでも次の世代に伝えられればと思います。

 八王子市の郷土資料館には419列車を牽引していたという電気機関車のプレートが展示されていました。 このED16 7機関車は牽引力が強くもともとは貨物用であったものですがこの時は旅客列車を引いていました。

 すでに機関車は解体されてしまいましたがその際にプレートだけを八王子市が貰い受けたとのことです。
(2005年9月撮影)

(参考資料@:ブックレット八王子空襲 八王子市郷土資料館 )
(参考資料A:中央本線四一九列車:斉藤 勉/著:のんぶる舎 )

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